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『共犯新聞』NEW YORK地図映画◎歴史】
哲学
カール・マルクス(更新;2008年4月9日)
ジャック・デリダ(更新;2006年7月15日)
吉本隆明(更新;2007年10月4日)

2007年10月1日 月曜日 午前10時53分←■今月の日本経済新聞の連載「私の履歴書」は、青木昌彦だね♪こりゃ&また面白そー。
2007年9月26日 水曜日 午前2時46分←■プレゼントは、なぜうれしーのか?それは、贈与とは野蛮であるからなり。
Happy
Birthday
to
My Idol .

1015日に
生れた
天才たち。
♪ニーチェの狂気が、我われの正気を生き延びさせてくれている。
1844年 フリードリヒ・ニーチェ
(独:哲学者)
Friedrich Wilhelm Nietzsche
[1900年8月25日没]
イノセントな背徳♪1856年 オスカー・ワイルド (英:小説家,劇作家,詩人)
1856年 オスカー・ワイルド
(英:小説家,劇作家,詩人)
Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde
[1900年11月30日没]
路上の知♪1926年 ミシェル・フーコー (仏:哲学者,評論家)
1926年 ミシェル・フーコー
(仏:哲学者,評論家)
Michel Foucault
[1984年6月25日没]

今日の一句
僕にしか
見えない星座
秋の夜
(久保元宏 1999.6)
ここ。

★日付をクリックすると、♪好きな時代に行けるわっ♪あん♪アン♪歴史から飛び出せ!
★たとえば→10月18日の歴史★
♪海外で有名よ。
Happy
Birthday
to
Mr.Daisetu Suzuki.
★日付をクリックすると、♪好きな時代に行けるわっ♪あん♪アン♪歴史から飛び出せ!
★たとえば→8月24日の歴史★
Simone Weilの言葉の隙間から、にゅるりと、壁のむこうへ ! 今夜、すぐきて♪
Simone Weil has been dead !



訃報 小阪 修平(こさか・しゅうへい)1947年〜2007年8月10日没、60歳。
小阪 修平! 三島由紀夫は、自衛隊で切腹自殺をする前年、
1969年5月13日に、東大「全共闘」と公開討論をした。
そこに、当時、東大生であった小阪も加わっている。
残された♪クリックして、見よっ!映像では、6分目で登場。
三島と、「天皇観について」の意見を交わしている。
さらに、42歳当時の小阪が回顧する画像も登場。


ボードレールとフロイト
My crippled talent stands by Mr.Baudelaire.
ボードレールによりかかる ぼくのゆがんだ才能 (久保AB−ST元宏「空中ピラミッドの生活」より)
♪ボードレールに寄りかかる
シャルル・ボードレール(1821年〜1867年) フランスの詩人。
「秋の歌」は、彼の代表作『悪の華』(1857年)に入っている。
これは、フランス象徴主義を切り開いた画期的な詩集であった。
しかし、当時は風俗を乱すものとして裁判にまでなった。
★NY戦争を語る。
★ニューヨークの白い夏♪
「秋の歌」
作;ボードレール
訳詩;久保AB−ST元宏(『共犯新聞』2004年9月22日より)

きっと、ぼくらは太陽が砕けたあと、氷の闇に沈んじまうんだ。
はしゃぎまくった夏。永遠と思っていた、その光。バイバイ!
もうすでに、ぼくの耳には不気味な予言の音がこびりついている。
ニューヨークに崩れてゆく、ツインタワーの音が、
この地球を燃やすために高炉にくべられる燃料の音に聞える。
「秋の歌」
作;ボードレール
訳詩;永井荷風(『珊瑚集』1913年より)

吾等(われら)忽(たちま)ちに寒さの闇に陥(おちい)らん。
夢の間(ま)なりき、強き光の夏よ、さらば。
われ既に聞いて驚く、中庭の敷石に、
薪(たきぎ)を投込むかなしき響(ひびき)。
「秋の歌」
作;ボードレール
訳詩;福永武彦(『ボードレール全集T』1963年より)

やがて僕たちは沈むだろう、寒い幽明(ゆうめい)のうちに、
さよなら、きららかな光、はかなく過ぎた僕たちの夏!
既に、不吉な響きを立てて、中庭の敷石に
落される薪束(まきたば)の音は僕の耳を打つ。

パラパラ・・・ボードレールの詩「秋の歌」を暗唱するものなど、今はいない。
しかし、かつて昭和の初期、世界中の文学青年&文学少女が、この詩の冒頭の4行を暗記していた。
それというのも、当時の必読書(?)、アンドレ・ジッドの小説『狭き門』に登場人物が暗唱するシーンがあるからだ。
文学の隆盛は、それまで「オトナ」と「子供」しか存在しなかった世代に、「青年」という世代階級を生んだ。
近代の産物である「青年」は、新しい存在が持つ宿命として、常に不安定な存在であった。
世界中の不安な「青年」は自らを武装しようと文学によりかかったのだが、成熟した「青年」は「オトナ」になってしまう
つまり、永遠に「青年」期の勝利は訪れることが不可能なのだ。
そんな不安定で未完成で不可能であるのに、魅力的な「青年」期。
その終わりを、季節の夏から秋への変化に例えたかのようなボードレールの「秋の歌」に共感した青年は多かった。
そしてまた、ボードレール本人こそが、世界最初の「青年」であったのだ。


モダン=現代性の先見者としてのボードレール
ボードレール『現代生活の画家』1863年
「Modernite (現代性)とは、一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもので、これが芸術の半分をなし、 他の半分が、永遠なもの、不易なものである」

「Modernite」(現代性)
 モダニティ(現代性)という概念は、フランスの詩人ボードレールがフィガロ紙に連載した評論『現代生活の画家』(1863)で述べられた概念である。
興味深いことは、「現代」とは「一時的でうつろい易いもの」から「永遠なのもの、不易なもの」を目指している過程であり、憂鬱さを伴ったものであった。
フランスにおける「モデルニテ」は、ボードレールの「モデルニテ」にニーチェのニヒリズムを加味したものだとされている。



モダンからポストモダンへ
 モダンからポストモダンへの移行をフェザーストーン『消費文化とポストモダニズム』を参考にして、フロイト周辺を加味して表にしてみると、下記のように なる。新しい芸術活動のとしての「ポストモダニズム」が1960年代のニューヨークで起こり、周辺の芸術活動に影響を及ぼした後、1970年代末にフラン スドイツに輸入される。
 そしてフランスで哲学者のリオタール『ポストモダンの条件』(1979)の書名と内容により「ポストモダン」という概念は一挙に世界中に広まることになった。その後、ポスト構造主義の旗手であるデリダの「脱構築」がアメリカに逆輸入され、アメリカの文学理論等に大きな影響を与えた。

1838年    実証主義哲学の論客として有名なエルンスト・マッハ(1838〜1916)が生まれる。
1863年    ボードレールにより「モデルニテ」という概念が確立。
1916年    エルンスト・マッハ、没。
1934年    「ポストモダニズム」がフェデリコ・ド・オニスにより用いられる。


1938年
 ・マックス・オッペンハイマーはナチスを逃れてベルリンからスイスヘ。翌年ニューヨークに亡命。
 ・ギュータースローは工芸美術学校をナチスによって解雇される。・ゲルハルト・フランクルはロンドンに亡命。
 ・ヴィルヘルム・テニーはニューヨークに定住する。・アウグスト・レーデラーは、クリムトの『哲学』をふくむ全所蔵品を没収される。・ハーグンブント、解散する。

 *6月、フロイトはロンドンに亡命。 *「ノイエ・フライエ・ブレッセ」廃刊。

 *2月、ヒットラーはオーストリア併合を宣言。
 *3月、アイヒマンはウィーンにユダヤ人の外国移住のための中央管理局をもうけ、ユダヤ人を国外に追放する。


1939年
 ・分離派と「キュンストラーハウス」は再び合体する。・フェリックス・ハルタはイギリスに亡命。・ユングニッケルはユーゴスラヴィアに亡命。
 *9月、亡命先のロンドンでジークムント・フロイト没(1856-)。 

1960年代   「ポストモダニズム」が、ニューヨークの芸術家が用いて一般的になる。
1970年代   「ポストモダニズム」が、建築、映画、実演芸術、音楽の分野で用いられる。
1970年代末 「ポストモダニズム」が、フランスに移入される
         リオタール『ポスト・モダンの条件』1979年
1970年代末 「ポストモダニズム」が、ドイツに移入される
         ハバーマス『モダニティー Vs. ポストモダニティー』1981年
1970年代末 デリダの脱構築がアメリカに逆輸入される。
1980年代   フーコー、ボードリヤール、デリダ、リオタールが活躍。
                          



カシニョール(画家) 

1935年 7月13日パリに生まれる。
1959年 サロン・ドートンヌ会員に推挙される。
1960年 パリのフラモン画廊でグループ展開催。兵役のためドイツとアルジェリアに1962年まで滞在。
1964年 パリのティヴェイ・フォコン画廊にて個展。日本の画商・為永清司と出会う。リディス出版のノエル・シューマンを知り、ジョセフ・ケッセル著「不幸の塔」4巻に挿絵を描く
1966年 ジジ・ジャンメールの肖像を描く。東京の国際形象画展に出品。以後、毎年参加する
1969年 東京、三越百貨店にてリトグラフ展を開催。
1971年 1月、アメリカのパームビーチ及びニューヨークのウォーリー・フィンドレイ画廊にて個展。初めて日本を訪れ、3ヶ月滞在する。肖像画を何点か制作、黒柳徹子と知り合う。
1973年 版元アラン・マゾに出会う。ジャン・フランソワ・ジョスランの文章が入った版画集「散歩」をマゾ出版から刊行。刷り師フェルナン・ムルロー、版画師シャルル・ソルリエと知り合う。
1975年 11月、ニューヨーク、フィンドレイ画廊にて個展。版元ド・フランコニー社のアンドレ・ド・フランコニー、ジェラール・ド・フランコニー兄弟と知り合う。
1976年 マゾ出版から「版画集」が出される。シャルル・ソルリエが序文を執筆。東京、三越百貨店にて個展。詩人ギルヴィックと出会う。マゾ出版から版画集「公園」を刊行。
1977年 リディス社から刊行されたリトグラフ30点組版画集、シャルル・ボードレール著『禁断の詩篇』の出版を記念して、パリ、ルネ・キフェール画廊で個展が開催される。序文はジャン・ルイ・ボリィが執筆した。


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♪フロイトから逃げ惑う小説家シュニッツラー(1862-1931) とフロイト(1856-1939)は同時代人である。二人は同時期にウィーンに住んでいたこともあった。フロイトもシュニッツラーの読者だったし、シュ ニッツラーもフロイトの精神分析に非常に興味を持っていたらしい。フロイトは,精神科医としての多くの経験の中で見出してきた知識や事実と、シュニッツ ラーが小説で発表する内容とが、あまりにも多くの点で一致していることに驚きを感じていたそうだ。二人は手紙のやりとりをしていましたが,直接会って語り 合うことはなかったらしい。フロイトはこのことについて,シュニッツラーが自分のドッペルゲンガーに思えたからだと告白している。シュニッツラーが「夢小説(Traumnovelle)」を発表した数年あとに,フロイトは「夢判断(Die Traumdeutung)」を著している。

■キューブリックと共犯!キューブリックの最後の映画『EYES WIDE SHUT』は,シュニッツラーの原作にかなり忠実に製作されていると言われている。公開前にはさまざまな噂があった。その主な噂から、原作とはずいぶん違った作品になるという予測が多く立っていた。しかし、映画を観てびっくり。非常に原作に忠実な構成であった。もちろん,舞台はウィーンでなくニューヨークで すし,移動手段は馬車から自動車にかわりましたし,合い言葉は,「デンマーク」から「フィデリオ」になっているし,学生集団はホモセクシュアルの集団に置 き換えられているし,性病も現代的にHIVになったし,あるいは,冒頭の舞踏会が仮面舞踏会でないとか,ヴィクターという重要な人物がいるとか,日本人が 出て来るとか,そういう違いを挙げはじめるときりがないですが,根本的なラインは一部を除いてとても忠実に描かれている。ただし,原作での二人の関係やそ れぞれの人間像と,映画における二人の関係や人間像は微妙に異なっている。その結果として表面的なストーリー展開に大きな違いがあることも事実だ。それか ら,ピアノを弾くナイチンゲール(Nightingale)だけは,原作でも夜に鳴く鳥,ナハティーガル(Nachtigal)という名前であった。


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♪ボードレールに寄りかかる■ボードレールの『小散文詩集(パリの憂鬱)』の ページを繰って「群衆Les Foules」 をみてみると、そこに群衆を快楽として享受する芸術家が現れる(「たやすく群衆と結婚するものは熱狂的な快楽jouissancesを知っている」)。詩 人の魂は好むままに他人の人格の中に入り、その特権を楽しむのだ。具体的に彼が「自分のものとして」味わうものは何かといえば、「彼の前に示されるあらゆ る職業professions、あらゆる悦びjoies、あらゆる惨めさmiseres」なのである。
 これはポーの示したような群衆どもに対するボードレール流のアンチテーゼであったのではないか。ボードレールは内面の人、芸術至上主義者ではない。この文章はこう続く。

 ふと姿をみせた意外な人、側を過ぎて行く未知の人に、詩であろうと慈悲であろうと、みずからの全部をあげて捧げることのできる、この魂の聖なる売淫、言葉に尽きせぬ饗宴と較べるならば、人間が愛と名づけたものも、いかに限られた、卑小な、弱々しいものであろう。

 なるほど、魂の売淫は芸術家の領分、特権であるかもしれない。それは次に述べ るとして、ここでは芸術家が社会における強者たろうとしていることが重要なのだ。すべての他人に魂を譲り渡すこと、定住せず次々に魂の住処を変えること。 ジンメルはそんなことをすれば「内面で粉々に分裂してしまう」といったが、ボードレールはそれを求める。詩人は分裂を恐れずに強者となる。ここにボード レールの視線の対象を理解することができよう。「身の毛もよだつものに酔いうるのは強者のみだ」と詩人は宣言する。ボードレールがパリの暗部を見るとき、 そこにあるのは共感ではありえても同情ではない。
 ボードレール的芸術家は快楽に酔っているが、そこには冷静さが欠けているというわけではない。散文詩集の圧巻の最後を連ねる詩の一つ、「貧乏人を撲殺し ようAssommons les Pauvres !」は物騒なタイトルだが、実に冷静な記述を持っている。語り手は、24時間で人民を幸福に、賢明に、金持ちにするという類の本を読みふけり、外へ出て ――「およそ悪しき読書に熱中するというこうした嗜好は、それに比例して、新鮮な空気と清涼飲料とを要求させるものである」とあるが、この点において、 ボードレールが部屋でじっと詩を書いていたのではないといういくつかの証言と符合させつつ、次の点に注目しよう、すなわち、ボードレールは本と寝ることが できない――とある酒場へ入ろうとする。すると一人の老いた乞食が語り手に物乞いをするわけだが、彼に平等ということが何であるかたたき込んでやるために 殴ったり蹴ったりする。冷静であるというのは例えば、語り手が乞食に飛びかかる前に、舞台となる場末があまり巡査の目に触れない場所であることを確認して いることからもうかがえる。さらにいえば「撲殺しよう」と叫んではいるが、このタイトルは逆説的である。本来なら強者たるべき「語り手」は乞食ひとりさえ 殴り殺すことができない。この詩はそのことを証立てるべくして書かれているのだ。誰であっても他人を殴り殺すことはできない。ただ彼に強者たれと激励して やることができるのみである。その意味ではそのような奇跡を起こしうるもの、乞食に生気を取り戻させてやることができる能力を持つものは特権的芸術家と呼 ばれてもよい。ただし、それが少数である必要はないだろう。彼にも特権者たれと叫んでやればよいのだ。
 「われわれは民主主義と梅毒に感染している」(?uvres completes?U, Bibliotheque de la Pleiade, 961p)というボードレールの言をこの文脈に引きつけて理解できるかもしれない。ボードレールが娼婦に向ける視線は強者としての、同胞としての、ヒロ イックな視線である。平等という紋切り型に対して詩人が見せた怒りは、前に見たように活力、すなわち情動や怒りを失っていく社会にたいする怒りに相応するだろう。
 
「貧乏人を撲殺しよう」では語り手が乞食から殴り返される。そのときこそ乞食に「君と僕とは平等ですぞ!」と言ってやることが可能になる。語り手は苦痛と 共に平等の意味を叩き込んだわけである。平等の享受は単純な快楽の問題ではないことを経験的に示すこと、そこにも精神の強度が見てとれはしないだろうか 。苦痛を享受せよと冷酷に叫ぶ詩人である。(ただし、この「平等」にはトリックがありはしないだろうか。Vous etes mon egal(あなたは私の同一者だ、あなたは私である)という表現が実は新たな均一的平等主義に陥ってしまう危険性がある。また、魂の交遊を詩人の特権とみ なした態度が再び回帰するという問題もある。L.ベルサーニ『ボードレールとフロイト』では苦痛と快楽の密接性、及び他者との差異の抹消について示唆がある)
 都市から消えていくもののはかなさや、創造的な仕事があり得るという芸術家の信念、そういったものは大都市では幻想にすぎない、とみなすことは実は容易いことだし、とりわけて精神的体力のいる作業ではない。幻想だと看破しつつも、大都市の現実の中に享楽を見出すことを可能にする強固な想像力を持つものをボードレールは強者と呼んだのである。

レオ・ベルサー二著/山縣直子訳 『ボードレールとフロイト』 〔叢書・ウニベルシタス〕 1,300円 法政大学出版 1984年・絶版 カバー 帯 四六判 224頁
  • ベルサーニは、精神分析理論を批判的に検討しながら、美学における性の問題、特にホモ・セクシュアリティの問題を扱ってきた。
  • 現在未訳の『カラバッジオ論』(Ulysse Dutoitとの共著)、『Is the Rectum a Grave?』の他、既に翻訳されたものも多い。

■フロイトは、人間の無意識フィールド内の運動の分析として、「生の欲動(有機的な連帯を欲する作用)」と「死の欲動(無機的な分解・破壊作用を欲する作用)」との対立を描いたた(「快感原則の彼岸」「文化への不満」)。フランス文学者のレオ・ベルサーニはのこの対立を二つの明確に区別可能な要素の対立劇とは見なさずに、ある一つの要素(無意識を構成している要素)がある特定可能な一方性にしたがって運動することがそのままその逆へと転化するさまをボードレールの詩に見出し、 そのことをフロイトの件の二つの対立概念に対応させて論じてました(「ボードレールとフロイト」法大出版局・絶版)。浅田彰「構造と力」とか、フランス現 代思想もそおんな感じですね。対立する複数の要素が並立・並行しているイメージを(無)意識に持ってるのではなく、無意識なら無意識の全体の結果としてそ ういう相互に矛盾し対立もする並行せる複数の要素が分析され析出されるにすぎないのだ、と。この場合には、人間にはそして社会生活には生の欲動のみがふさ わしいのだから、それのみを選択し保持するよう各自意識的に努力すべしとかはナンセンスなんですね。自殺は愚かだと知りながらも人は自殺する、というか、 ナイフで手首を切るわけです。このことを配慮した場合には、河上さんのいう「抑止力」はずいぶんと楽観的に聞こえますし、ほんとのところ、その「抑止力」 の支持基盤は脆弱というかまあ、曖昧模糊としてる気がします。精神病の認識論や現象学(木村敏とか)に対してどの程度配慮したらいいのか、という問題かも しれません。全く配慮しないというのもどうかと思うしなあ。かといって全面的にそこからいうとなればかなり厳しい、楽観的なことをいいにくい気もする し…。ずいぶんと考え込んじゃうほかないような問題がこうも社会の前景に前面に出てくる時代を生き、表現するのは大変なんですね。





作家◎山川健一の発言  ウェブマガジン"I'M HERE"創刊1周年パーティにて
■20世紀は意識の時代なんだ

 今、表現というものが非常に困難な時代になっています。特に文学作品は苦戦している。おもしろい小説が売れない。したがって、小説の単行本が出せない。 なぜか? 
 僕は理由ははっきりしていると思っています。というのは、20世紀が意識の時代だったからだよ。これはNAVIの連載でも書いたことなんだけど、19世紀を否定して20世紀を決定した、さまざまな思想や哲学というのは、神を否定するところから始まったんだよ。精神のリレーの一番最初にいた人はボードレールって人で、彼はあの時代にクールベを評価します。クールベがなぜ素晴らしいか? それはキリスト教のプロパガンダではないから素晴らしいのだ、と。簡単に言えばそういうことだよね。聖書の解説でもなく、誰それ個人の肖像画でもなく、これは一人の農民を描いた絵画であることに価値があると。つまり、絵画の自立への胎動をクールベの絵のなかに発見したわけです。
 それが結局、象徴主義と呼ばれることになるボードレール自身の詩の方法論を生み出すことにもなった。絵画と詩の自立、それはとりもなおさず人間が神から自立することを意味していたのだと、僕には思えます。
 ボードレールの詩学がニーチェの哲学を生んだ。ニーチェはご存知のように神を否定した哲学者として有名ですが、それはニーチェの天才であるのと同時に、時代の必然でもあった。更にフロイトの心理学の誕生も見逃せないよね。フロイトは今まで神秘だとされた人間の精神というものを、科学のまな板の上にのせた人 で、これは本当は人間が手をふれてはいけない領域だった。そしてダーウインの進化論が出て、人間はアダムとイヴから生まれたのではなくて、サルから進化し たんだと暴いてみせたわけだね。そんな風に、19世紀末に神の存在を否定することによって、20世紀を切り拓いた人達がいた。
 そんな彼らの出現が思想的に哲学的に、科学というものを進歩を加速させたのだと思います。そんな彼らの思想があったからこそ、自動車というものが生ま れ、自動車のエンジンのテクノロジーというものがその後兵器のテクノロジーに転用され、それまで地域戦争しかなかったものが2つの世界大戦に拡大されるこ とにもなった。自動車工業の発達というものが道路を作り、そいつが地球を分断し、そしてこの20世紀というものが生まれたのです。
 そういう意味では、ぼくらが今終えようとしている20世紀というものは、神を否定することの上に成り立っていた。しかしそれが困難になってきて、神を否定するだけでいろんな表現が成り立つほど単純な構造ではなくなってきた
 僕は作家なので文学を例にとりますが、近代の文学というものは、すべて自意識の延長線上にあった。それは日本文学もそうだし、ヨーロッパやアメリカの文 学もそうなんだ。つまり「自意識というものは何か?」「意識を意識するとはどのような行為なのか?」「それを小説にするとはどういうことなのか?」という ような問いに答える形で、文学は形成されてきました。こうした路線の上で、すべての近代小説、現代小説は書かれてきたのだと思う。



★造る=壊す=造る。
■アメリカ現代美術作家論
『近代からの跳躍』
ジャクソン・ポロック(画家)
★造る=壊す=造る。

1912年 ワイオミング州、コディに生まれる。
1929年 ニューヨークに出る。アート・スチューデンツ・リーグでT.H.ベントンに師事。
1930年 代後半からアルコール中毒、
1937年 FPA(連邦美術計画)で得た職解雇される。
1939〜40年 医師ジョセフ・L・ヘンダーソンの勧めで精神分析のデッサン
1956年 飲酒運転、自動車事故で死亡。

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近代絵画からの跳躍

自然の再現にこだわる近代絵画を批判し、対象世界を色面と水平、垂直の線の単純な要素にまで還元してしまったのがモンドリアンの抽象画だ。彼の抽象画は絵画の再現性を極限にまでつきつめた表現だった。一方、絵画の表現性から抽象画に至ったのがカンディンスキーだ。 しかし、彼らの抽象画は絵画の再現性、表現性を極限までつきつめたとはいえ、依然として近代絵画の枠組みにとどまる表現だった。第二次大戦後、その近代絵 画の枠組みを打ち破ったのがポロックの抽象表現主義と呼ばれる表現だ。それは近代の絵画の表現の限界面からのさらなる跳躍だった。
かつて古典期においては、画家の描く行為は絵画の空間の背後にかくされるべきものだった。近代絵画は描く行為を画面にとどめるようになったが、それは対象を描く絵画の再現性に対して表現性を強調するためだった。ポロックは、絵画の再現性を完全に捨て去り描く行為自体を全面に押し出す表現性のみの絵画をめざしたのだ。
デ・クーニングが「ポロックが氷を割った」と言うように、ポロックに始まる抽象表現主義の登場は、アメリカの現代美術がヨーロッパ近代芸術から袂を分か ち、ついに独自の道を歩み始めたことを意味していた。かつて清教徒としてヨーロッパを後にしたアメリカ人は、芸術においてはその約二百年後、ついに自らの 新領域を見いだしたのだ。

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大恐慌の時代
 
ポロックがワイオミングの田舎からニューヨークに出たのは、モンドリアンが渡米する十年ほど以前の大恐慌のさなか。モンドリアンは科学・技術の成果である 都市を、現代が自然を抽象化した成果とみなして賛美することになるが、大恐慌のさなかに身をおいたポロックには、都市は肯定的に賛美するべきものとは映り 得なかった。彼が見たのは、繁栄の夢が潰えた虚ろな現代都市だ。そこにあるのは、人々をかつてのよりどころであった自然から遠ざける巨大な障害物だった。 生産と経済の効率を追求してきた都市のシステムの失速は、都市が自然と人間それぞれをいかに本質から遠いものに変質させていたかをあからさまにした。ポロックの絵画は現代都市として結実した科学・技術による疎外の表現であり、都市の繁栄の夢が破れた時代の精神の自己回復の試みであったのだ。
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自己回復のための精神分析

アルコールに溺れるようになったポロックが自己回復のために頼ったのがユング派の医師による精神分析であった。
言うまでも無く、無意識の領域を発見し精神分析学を興したのはフロイトである。
フロイトのいう無意識は、個人の心的体験が意識下に沈み込んだものだった。木田恵子氏が「無意識の中は、母の胎内にはじまり、もはや再生することも困難な 人生の初期の体験から、抑圧されたさまざまの表象で満たされています。」と説明するように、フロイトは無意識の内容を個人の成長課程(親子関係)に限定し て考えました。フロイトによれば、人間の性格を決定づけるのは胎児から幼児期にかけての心的体験です。そのうちの手ひどい体験が無意識の領域に沈み込み古 い傷のように残されものを固着と呼びました。養育者、主として母親との関係からダメージを受けた体験は、意識が記憶するにはあまりに危険でおぞましく、無 意識の奥深く抑圧され隠されてしまいます。固着を抑圧しておくには普段でも多くの心的エネルギーが必要です。現実に向けるべき心的エネルギーのいくらかは 内面の平静さを保つために消費されます。ところが、固着を抱える精神が環境の大きな変化に揺さぶられると、固着を押さえ込むためにますます多大なエネル ギーを必要とするようになります。心的エネルギーのほとんどを消費してしまい現実に立ち向かえなくなった状態が神経症などの症状だというです。
フロイトはこの固着、症状と心的エネルギーの関係を外敵を駆逐しながら進む民族の大移動にたとえて説明しています。民族の一行は重大な衝突があった地点に は多くの要員を守りに残してなおも前進を続けます。この要員を残してきた地点が固着です。この一行と要員にたとえられているのが精神のエネルギーです。そ して行進する残りの一行が再び対処できないような大きな戦闘に直面したとき、体制を整えるべく多くの要員が残っている地点へ退却してしまいます。この退却 した状態が退行であり、一時的な退行でなく退行が固定化してしまったものが症状だというのです。

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自由連想法

固着を意識のもとに引き出して解消しようとするのが精神分析の自由連想法です。患者は思い浮かぶことを判断を加えずにすべて話し、そこにあらわれた無意識 の内容に分析者が解釈を加え、次第に無意識の内容に脈絡をつけていき固着のあり方を患者に気づかせ解消するものです。精神分析家の木田恵子氏によると、 「この自由連想法を用いると、まことに不思議なほど着々と精神が退行してゆき、幼児の感情時には胎児にまで戻ってしまったかと思わせられるようなものまで 表現されます。こうしてその人の性格が形成された歴史をさかのぼり、問題点を拾いあげながら赤ちゃんの最初まで行きつくと、再出発がはじまって、着々と成 長課程をたどって進行してゆきます。そして問題点をできるだけ修正しながら現在に立ち戻ります。まことに、分析するのもされるのも忍耐根気のいる仕事です が、一わたり終わって症状がきれいに消失する場合もあり、前述のようにとくにとくに問題の箇所が何度もくり返し取りあげられた後、ようやく治癒する場合も ある」のだそうです。
また自由連想の受け方について木田氏は、「私どもは普通人と話す時は、これはつまらないことだとか、今日の自分の問題に関係のないことだとか、こんな話は 恥ずかしくてできないとか、この話は不愉快だからやめようとか、相手(先生)に対して失礼だからこんなことは言えないとか、自分の話の内容をセーブします が、そういう批判や選択を一切やめて、何でも浮かびさえすれば話すというのが基本です」と説明しています。
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ポロックのオートマティスム
     
フロイトの無意識説に触発されてヨーロッパに登場したのがシュールリアリズムです。一九四〇年頃、ブルトン、ダリ、エルンスト、タンギーらのシュールリア リストたちも戦火を避けアメリカに渡っています。彼らの、無意識の内容を浮かびあがらせる表現方法はオートマティズムと呼ばれています。意識のレベルでは 何の用意もせず心をむなしくして描く行為に集中すれば、イメージはおのずから無意識の深みから立ちあがってくるというのです。しかし、ポロックは彼らの オートマティスムをそのまま受け入れたのではありませんでした。
ポロックはオートマティズムによってイメージを描くことに不満でした。集中のなかでわき上がるさまざまなイメージは、覚醒した目で見ると、色あせて、不完 全で断片的な図柄の集まりでしかありません。彼は描く行為自体のもたらす高揚感と自己集中のこそ、他者の介在を許さないリアルなものだと考えました。高揚 感と自己集中のなかにいる時、彼は遠ざけられた本来の世界、自然との媒介者でした。本来の世界、自然とつながり得たと思える瞬間、彼は分析を受ける都市の 病者ではなく、「自分が自然だ」と豪語するほど自らを完全な存在だと感じました。そして彼はついに、病み衰えた近代絵画を捨て去ってしまうのです。

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ポロックの表現

現代都市に隔てられ、かつての画家たちが通った自然に至る道を失ったポロックは、新たな道を無意識に求めます。彼は近代の合理的な理性に基づく方法を打ち捨て、無意識を通路として、世界の本来の姿である自然に至ることをめざします。 
「私の絵の源泉は無意識である。私は絵にアプローチするのにデッサンと同じやり方でする。つまり、直接の予備的な習作なしに、である」とポロックは言いま す。彼は自らが治療者のベッドに横たわる代わりにカンヴァスを床に寝かせます。自分は無意識を通して自然つながっているとする内面の緊張感だけを頼りに、 彼は絵具や塗料を含んだ筆を振り四方からそれを滴らせます。絵はすでに無意識の深層に用意されているはずです。彼はアクション行為を通してその生命と接触 を保つだけでよいのです。アクション行為に集中すれば、絵は自然に無意識から現れ出てくるのです。絵具の滴りが彼を触発し、次に続くアクション行為に向か わせます。彼が制作で唯一気づかうべきは、無意識がさし出す絵と自分のギブ・アンド・テイクの関係を可能な限り持続することでした。

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ユングの無意識

フロイトのいう無意識は、あくまで個人の心的体験が意識下に沈み込んだものでした。一方ユングは、無意識をより拡大して考えました。ユングによれば無意識は歴史の時間軸を超えて太古の時代から蓄積された心的内容です。 
その根拠はある患者が太陽に男根が見えるという妄想 でした。その妄想はギリシャのパピルスに書かれた神話と共通していました。彼はそこから、人間には太古からの心的体験が意識下に沈み込んだ共通部分がある と確信するのです。彼はフロイトのいう無意識とは別に、遺伝によって伝えられる集合的無意識を想定します。私たちの無意識は、人類が民族や宗教を形作って きた元型と呼ぶ神話的要素に満ちているというのです。この考えは私たちを一挙にロマンチックな存在にします。彼の集合的無意識説に従えば、人は自身の体験 を越えた存在です。人は無意識の広がりによって、勇ましく牛を追うカウボーイでもあり得るし、太古の宗教者でもあり得るというのです。
ユングの論の壮大さは、大恐慌にうちひしがれたアメリカ人に恰好のロマン神話を提供しました。しかし、本来、個人の存在と社会は同一視できない矛盾した存 在です。そのロマン神話は、社会と個人の誕生を同じ次元で扱う誤謬の上に成り立っていました。ユングの誤謬はポロックのアクション行為を神秘化してしまい ます。彼のアクション行為は、彼の内的世界を探るだけでなく、世界の根源をさぐるという意味を負いました。ポロックは無意識と現実をつなぐイメージを排除 し、無意識の深層に広がるとする自然と直接交感しようと格闘します。それは後戻りのできない格闘でした。彼はイメージを捨て退路は自ら断っていました。し かしポロックのアクション行為の神秘化は、彼と現実とのギャップをさら広げてしまいました。

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都市の現実

アクション行為のなかでは「自分が自然だ」として、世界の根源と共鳴し神話のなかの巨人のようにふるまう彼も、高揚が去り都市の現実に戻れば無力な存在で した。あれほど光り輝いたアクション行為も、都市の現実のなかではカンヴァスと絵具という事物との出口のない格闘だったのです。
「抽象表現主義は人間と作品が等価であるといった自己告白と自己混在があり、そのことがいつも私を遠ざけさせていた」と抽象表現主義を批判したのは、ラウシェンバーグです。
彼には、ポロックらが無意識を経由して都市から遠ざけられた自然を求めようとする行為は、画家と表現を神秘化する不自由なものに映りました。ラウシェン バーグは無意識を介在させず、よりストレートに都市の現実を直視することを主張します。ポロックは、ユングのいう無意識に世界を求め、都会の現実そのもの には目を向けようとはしませんでした。彼が現実の重みに耐えきれず自殺ともとれる自動車事故でこの世を去ったのは一九五六年のことです。


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エルンスト・マッハとニーチェ

マッハ[相対性理論に影響を与えたオーストリアの物理学者]
 実証主義哲学の論客として有名なエルンスト・マッハ(1838〜1916)は、オーストリアの物理学者。代表作は『感覚の分析』。

[要素一元論]
マッハは、一義的な立場を採らない。その目的に応じて観方を変える。

ウィーン大学で物理学を専攻し物理学の学位を取りましたが、
彼の学問的な功績は、18世紀にニュートンが提唱した絶対空間の概念をアインシュタインに先がけて否定し、相対性理論の構築に大きな影響をおよぼしたこと。

[超音速飛行機が飛ぶ現代に、その名が生き続ける]
 空気流の実験をおこなったマッハは、空気中を動く物体の速さが音速を超えたとき、その物体に対する空気の性質が急激に変化することに気づいた。
現在、与えられた温度での空気中での音の速さはマッハ1と呼ばれ、音速の2倍がマッハ2、3倍がマッハ3と呼ばれています。現代の超音速飛行機が飛ぶ時代に、マッハの名前は脈々と生き続けている。

『マッハとニーチェ 世紀転換期思想史』

木田元 著
四六判上製
本体2800円


19世紀の科学主義に抗い、20世紀思想に多大な影響を与えたマッハとニーチェ。世紀転換期のヨーロッパには、彼らを二つの焦点にして、哲学者と文学者が 複雑に交錯しあいながら形づくる、広大な知的空間が開かれていた――。世紀転換期の思想圏に、現代思想が誕生したその瞬間を描き出した快著。



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【著者からのメッセージ】
 なぜ、いま「マッハとニーチェ」なのか、と疑問に思われる方もいるでしょう。
じつは、現象学も、ゲシュタルト心理学も、アインシュタインの相対性理論も、ウィーン学団の論理実証主義も、ウィトゲンシュタインの後期思想も、ハンス・ケルゼンの実証法学も、どれもこれもマッハの思想のなんらかの影響下に生まれたのです。
 遺稿のうちに残されたニーチェの最後期の思想、いっさいの「背後世界」を否定する「遠近法的展望」もマッハの「現象」の世界とほとんど重なり合います
 一方は物理学者、一方は古典文献学者くずれの在野の哲学者。
 まったく交流のなかった二人の思想家が、同じ時期に同じような世界像を描いていたということになる。これはけっして偶然の暗合ではないのです。
 現代思想がまさに誕生した瞬間、それが世紀転換期です。二十世紀の思想の展開を理解するためには、その原風景である世紀転換期の知的空間を復原してみる必要がある。この本はそのためのひとつの試みです。読者の皆さんに、ご愛読いただければ幸いです。



目次

はじめに 7
第一回 序論――マッハとニーチェ 9
第二回 水晶宮と「二二が四」――予備的考察 29
第三回 実証主義――もう一つの予備的考察 48
第四回 風車と流れるもの――エルンスト・マッハの生涯 64
第五回 現象学的物理学の構想――エルンスト・マッハの思想1 83
第六回 感性的要素一元論――エルンスト・マッハの思想2 106
第七回 ゲシュタルト理論の成立 128
第八回 マッハと現象学の系譜 149
第九回 ある交友――アインシュタインとフリードリッヒ・アードラー 170
第十回 レーニンとロシア・マッハ主義者たち 190
第十一回 ウィトゲンシュタイン/ウィーン学団/ケルゼン 217
第十二回 ニーチェの〈力への意志〉の哲学――1 232
第十三回 ニーチェの〈力への意志〉の哲学――2 254
第十四回 ホーフマンスタールとフッサール 269
第十五回 ムージルとマッハ/ニーチェ 287
第十六回 マッハ/ヴァレリー/ムージル 306
最終回 二十世紀思想の展開 320
あとがき 342
参考文献 353
人名索引 361



【木田元 (きだ・げん) プロフィール』
1928年山形県生まれ。1953年東北大学文学部卒業。哲学者。中央大学名誉教授。著書に『わたしの哲学入門』『哲学の余白』(新書館)、『ハイデガー の思想』『偶然性と運命』(岩波新書)、『哲学と反哲学』(岩波書店)、『ハイデガー「存在と時間」の構築』(岩波現代文庫)、『反哲学史』(講談社)、 『哲学以外』(みすず書房)など多数。編著書に『哲学の古典101物語』『現代思想フォーカス88』(新書館)など。また、ハイデガー『シェリング講義』 (共訳、新書館)をはじめ、メルロ=ポンティ、ルカーチ、カッシーラー、フッサール、アドルノなど翻訳の仕事も数多く手がけている。



ヘーゲル哲学と西田哲学

ヘーゲル哲学と西田哲学を考察する。

 ヘーゲルは古代ギリシアから18世紀に至るまでのヨーロッパのすべての哲学を統合し、体系づけ、まとめ上げた。
ヨーロッパ思想、哲学、歴史っを語る上でヘーゲル哲学の理解は不可欠である。
そして、ヘーゲル哲学は、それに対する批判、その継承を通じて、
キルケゴール、ニーチェ、ハイデガーに至る実存主義の流れと、マルクス主義を生み出した。

 しかし、偉大なヘーゲルの哲学も、西洋中心主義的な一時的のものでしかなかった。
こうした西洋哲学を、東洋思想の立場から超克せんとしたのが日本の西田幾多郎であった。

そして、西田の弟子達は三派に分かれていった。
「大東亜戦争」を「聖域」とした『右派』、
マルクス主義者となった『左派』、
神秘主義的宗教体験の研究に傾斜していった『宗教学派』である。

私は、これら三派から学び取るものがあると考える。
『右派』の思想は現在の「ポストモダン」の思想にひけを取らない。
『左派』のマルクス主義はスターリン公認のそれよりも、はるかにレベルの高いものとなった。
『宗教学派』の研究は、グローバルな「霊性の交流」に貢献している。

ヘーゲルと西田を学ぶことは、21世紀のインテリゲンチャにとって、必要不可欠だろーね。
2005年
その兄弟ユニットWeathertunesは、ドイツ人ですよね?
ってコトは、ドイツ語が母国語ですよね。
それぞれ、母国語ではない言葉の者同士が、メディアとしての英語を、それぞれの立場で「不器用」に使いながら、相手に近づこうとする姿は、なんだか言葉以前の「心(?)」が準備している言葉ですよね。
ですから、私(たち)が、母国語以外の言葉を使おうとする「訓練」には、「お前は本気で相手に興味があるのか?」ということを試されているようなものでもあるんですよね。
■1983年、当時、東京の5流大学の学生であった私は単位もほぼ取得し、ツマラナイ授業に辟易して、「早稲田マスコミ塾」というところに通っていました。
それでも物足りなく、哲学者の西田幾多郎の生地、石川県河北郡宇ノ気町が毎年夏に主催&企画していた、『西田記念館付属 精神文化研究所 夏期開放講座』に通い、東京に戻ってきてからも、その東京支部「東京無學會」に参加して大学教授や大学院生に混じって哲学の勉強をしていました。
んで、私が初めて宇ノ気町に到着した、1983年8月17日(水曜日)、翌日から始まる怒涛の哲学合宿を前にして私は西田記念館前の旅館「宇ノ気荘」に宿泊しました。
したのはいいんですが、翌日から始まる講座に出席する参加者と同部屋になっちゃいました。
それが&なんと、オーストリア人の男だったんです(がくっ)。
彼は、Stephan Tumfahrt(シュテファン・トランファルト)という、京都大学文学部の国費留学生でした。
で、彼は日本語が話せない。私はドイツ語が話せない。・・・・・・最悪の一夜が始まりました(汗)。
きっと主催者側は東京の哲学を学ぶ大学生であれば、ドイツ語ぐらいは話せるだろう・とゆー部屋決めであったと思います。しかし、残念ながら私は大学は大学 でも、5流大学だし、哲学科じゃぁーなくって、経済学科だし。がくっ。ドイツ語どころか、英語もまったくダメだったのよー。がががががくっ。
相手のシュテファンも、かなり困ったことだろうなぁ〜。ごめんね、シュテファン。
長い夜、二人は無言で過ごし、翌朝、朝食を迎えました。
よくあるイナカ旅館の和食定食を、二人で向かい合いながら、無言で(がくっ)、もぐ&もぐと食べました。
すると、実は私は大学の第二外国語でドイツ語をとっていたことを思い出しました(←今ごろ〜?)。
ずーっと、愚かな記憶をたどっても、「グーテンモルゲン」とか「ダンケシェーン」などの、中学生でも知っているドイツ語しか脳味噌には入っていません。
その時、あっ!「ヴァス・イスト・ダス?」を思い出したぞ!!わーい、わーい。
「ヴァス・イスト・ダス?」、つまり「Was ist das? = What's this? ワッツ ディス ?=これは何ですか?」だ!
私はさっそく、朝食の途中で、相手の食べている朝食の焼き魚を指で指して、おそる&おそる、「ぶぁす・いすと・だすぅ?」と、言ってみた。
すると、なんと、向かいに座っているシュテファンが、「なんだ、お前、ドイツ語が話せるじゃんか!単なる無口だったんかよ?」ってな顔をして、一気にその 焼き魚の説明を早口のドイツ語で長々と説明し始めました(←たぶん、そうだろう。だって、意味、分からないんだもん・がくっ)。
私は、その流れるように上手な(?)ドイツ語を凍りついた笑顔で、聞いていました(笑)。
無言の一夜を過ごした彼は、焼き魚の哲学的考察の講義を一気に終え、ドイツ語で「ふぅーーっ。」と、ため息をつきました。
や・やばいっ。つ、次は私が話す番だ!し、しかたない・・・・「ダンケシェーン」。
■まぁ、そんなワケで、私にとっての生れてはじめての外国人との会話は無事に終了したわけです。がくっ。
それから、私とシュテファンは、お互いが苦手な(=絶対に私の方が苦手に決まってはいるが)英語を使って、ボソ&ボソと会話をしました。
「あー、ミスター・シュテファン、西田幾多郎は、オーストリアでは有名なのか?」
「有名ではない。」
「がくっ。」
「むしろ、鈴木大拙が有名だ。若者は彼の本を読んで、禅の研究をしている。」
「あはは。『善の研究』ではなくて、『禅の研究』ですか!」←おそらく、これが私が生れて初めて言った英語のジョーク。
「あははは。久保は、おもしろい、ファニーだ。」
「今の日本の若者は、鈴木大拙への興味は持っていないよ。」←1960年代に世界的な禅ブームが、ビートニク詩人やヒッピーの間で起こり、その伝道者が鈴木大拙(1870年-1966年)であったことを私が知るのは、それから数日後だった。
「ミスター久保、お前だって、オーストリアのことは知らないだろう?」
「知っているよ!カンガルーがいる国だろう?」と、言おうとして、カンガルーって英語で何と言うのかなぁ?と、考えているうちに、シュテファンが話し出した。言わなくて良かった(汗)。
「たとえば、お前は、シューベルトはどこの国で生れたのか知っているか?」
「も、もちろんだ。オーストリアだろ?」←もちろん、私は知らなかった(笑)。でも、話の流れから、こーゆー答に決まっているじゃんか(笑)。
「おお!すばらしい!ミスター久保、私が今まで知り合った日本人はシューベルトをドイツ人であると思っていたのだよ!」
「いやぁ〜。それほどでもぉ〜。うっふーん。」
と、なったワケであ〜る。
この間、私は簡単な単語を並べただけの英語しか話していないし、話せなかったのであるが、国際交流に大成功〜だったワケなんである♪
■実は私は今、すごい発見をしてしまい、少々、興奮しています。
シュテファンとは別に、『西田記念館付属 精神文化研究所 夏期開放講座』にも参加していたペーター・ペルトナーは、この2年後に、ドイツで多和田 葉子(=のちの芥川賞作家)と出会い、彼女の文学体験に重要な役割をはたしたことを、今、ネット検索で知りました。不思議なつながりです。

「1985年、大学に通い始めて3年目、ハンブルグ大で講師を勤めていたペーター・ペルトナー(現ミュンヘ ン大教授)に出会ったことはひとつの転機だった。丁度日本滞在から帰国したばかりの同氏に、多和田はまた詩や小説を書くようにと励ましを受け、日本語で書 いていた詩<絵解き>を、名翻訳で知られる氏に、独語翻訳してもらうという経験を得る。これは大きな刺激となった。」

このつながりは、私にとっては大きな興奮なんだけれど、ペーター・ペルトナーと多和田葉子を知らない人にとっては、まったく興味の無い話題でしょうね。
でも、こーゆー「興味」の沸く泉こそが、言葉に対する興味への魅力的な入り口であるということを、私は何度も換言しながら繰り返してきたんですよね。
今、私の書斎にある1983年12月18日発行の哲学研究雑誌『点から線へ』6号には、高名な哲学博士の橋本芳契大橋良介に混じって、「あなたとの距離を測ろう」(東京都調布市、久保元宏)、「線伝」(大阪府、ペーター・ペルトナー)という小論文も並んで掲載されているのだよ。
ちなみに私は、この小論文「あなたとの距離を測ろう」の思索の延長で、名曲「植物園の秘密」を作詞&作曲したんですが(笑)。
それにしても、あの時、一緒に哲学を学んだ者が、一人はミュンヘン大学の教授になり、一人は沼田町でヤミ米屋をやっているのなんて、なかなか人生は面白い(笑)。



哲学者の言葉は、時に美しい詩になる。
ジャン・ボードリヤールの発言
(1929年生まれ、フランスの哲学者)

パラパラ・・・ジャン・ボードリヤールが、死去。
(1929年7月〜2007年3月6日、フランスの哲学者)

2007年3月6日、パリの自宅で死去した。77歳。長く闘病生活を送っていた。

 1929年7月、フランス北部ランス生まれ。
『物の体系』(1968年)、『消費社会の神話と構造』(1970年)などで
現代消費社会の商品を記号としてとらえる思想を展開。
『湾岸戦争は起こらなかった』(1991年)では
現実感を欠く現代の戦争の在り方を描いて論議を呼んだ。
ほかの代表著作に『透きとおった悪』(1990年)など。
◆1983年10月 「オージーノアト、キミ、ナニシテル?」
"'What Are You Doing after the Orgy?'" Artforum (October 1983)
視線の感傷性こそワイセツだ。

or・gy
━━ n. (普通pl.) 乱ちき酒宴[騒ぎ]; 乱交パーティー; 夢[熱]中 ((of));
【古ギリシア・ローマ】(pl.) 酒神バッカスの祭り.
アーメーリカァ。ごっ・ぶれぇええすぅー。
◆1987年 『アメリカ』
無限の差異性のために差異性の意味を失ったアメリカ

反アメリカ的イデオロギーが世界的に消滅し、
この国がただ慣性によって運動し続けるヒステリシス状態にある

コノ鏡に映ッテイル物ハ見掛ケヨリ近イコトガアル!

どの民族文化にも固定的な根を持たせない「合衆」国。

アメリカは、今日もなお、ヨーロッパ人自身の文化の隠れた流刑形態と、
移住幻想・亡命幻想とにつながり、
またそれゆえその文化の内化形態にもつながっている。

ヨーロッパにしか見えないアメリカがたしかにまだある
Hey! ボードリヤール!
Jean Baudrillard
エジプトと言えば、ラクダ。
◆1991年
湾岸戦争は起こらなかった
★ニューヨークの白い夏♪
◆2001年9月 フランスの新聞ルモンドに掲載した長文の論文
テロリズムへの想像力をはぐくんだのは超大国アメリカ自身だ。
◆2002年1月 朝日新聞のインタビュー NY911「戦争」について
今回は戦争が決定的な形では終結しない、
つまり結論の出るような戦争にはならないのが特徴になるはずだ。
テロリズムとの戦いでは敵が消滅することはない

グローバリゼーションの上昇過程は終って、
これからは下降に向かうのかもしれない。
一つの言葉が盛んに使われ、
その現象が目に見えるようになった時が衰退の始まりだ
というのはよくあることだ。

貧困の解消に反対するわけではないが、
豊かさや安楽が得られれば解決するほど問題は単純ではない
事態はもっと深刻だ。
西洋人は理解していないが、
貧しい国の人々の憎悪は
搾取だけに原因があるのではなく、屈辱感によるものだ。
テロを生みだすエネルギーは貧困よりも屈辱が大きいことに
我々は目を向ける必要がある。
◆2002年 『不可能な交換』
交換によって得られるはずの経済合理性や
社会的富の増大という理想も怪しくなってきた
この事態を嘆くのではなく、
「ゲームの規則」が変わっただけであり、むしろ喜ばしいこと。
他の誰かや、自由あるいは自由になる権利を経由しなくても、
自由に自分自身になれる。
価値から解放されて、事物は自由に流通できる
◆2003年10日 朝日新聞のインタビュー
テロの暴力と軍事力の『恐怖の均衡』が生まれている。

見えない敵を相手にするテロとの戦争には、
決定的な勝利も終わりもない

対立軸や多様性を失って一極化した世界は、
かえって不安定になり、内側から崩れていくことが多い。
テロリズムの激化も、
ある意味では一極化した世界が生みだしたものだ。

グーテンベルクの印刷術が登場した時も、
これでローカルな言語は消えて
ラテン語だけが使われるようになると言われた。
実際には聖書が各国で翻訳され印刷されたために、
ラテン語は衰退していった。

Hey! ボードリヤール!
Jean Baudrillard
パラパラ・・・ジャン・ボードリヤール
(1929年〜2007年3月6日、フランスの哲学者)
『象徴交換と死』
原題『L'echange symbolique et la mort』
1968年5月のパリ「5月革命」を分析した書物。

↓北海道新聞 夕刊 2003年4月11日(金曜日)掲載の書評からの抜粋

■屋良 朝彦(大阪大学研究員)

 学生運動の特異な側面というのは、
その目的が常に抽象的であいまいなことだった。

ボードリヤールはその目的の不在に注目する。
不思議なことに、目的の不在がかえって運動を無秩序に拡大させたのである。
恐らく、目的のあいまいさのために
本来は「手段」であるはずの闘争が「自己目的化」され、
闘争のために闘争するという事態に転倒したのだろう。
しかし、この転倒が運動のたがを外し、混乱に輪をかけた。

しかし、この運動が本当に何も残さなかったわけではない。
この運動の意味を考えることが現代哲学の課題の一つとなっているから。

★参考
哲学者の言葉は、時に美しい詩になる。
『L'echange symbolique et la mort』東大の解放は可能か?落書き、JoJo!敷石をはがして警官めがけて投げたのがパリ5月革命の有名な記憶だ。


Hey! ボードリヤール!
Jean Baudrillard
パラパラ・・・ジャン・ボードリヤール
(1929年〜2007年3月6日、フランスの哲学者)
『パワー・インフェルノ』
訳;塚原史、NTT出版、1,800円

■朝日新聞 2003年9月28日(日曜日)掲載の書評からの抜粋

音好宏(上智大助教授)
 2001年9月11日、私はニューヨークにいた。
事件当日、倒壊したツインタワーの方角から、
蒼白な面もちで黙々と歩いてくるビジネスマンたちの姿は、
今もって忘れられない。
彼らは「グローバル化」の先兵であり、ツインタワーはその象徴的存在であった。

 著者は、9・11という「理想的な不運」によって、
米国は自らのパワーを自由に行使できるようになったと分析する。
★ニューヨークの白い夏♪蒼白な面もちで黙々と歩いてくるビジネスマンたちの姿。