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2010年7月27日 火曜日 午前1時10分みんな何んという顔だろう。人間なぞは一人もいない、(小林秀雄『おふえりや遺文』)気温20.2℃←■べろ&べろになりながらも、呑み会を途中で抜け出し、NHK教育テレビ『北山修・最後の授業』♪
2009年10月17日 土曜日 午後3時44分山羊も大好き、おはぎ♪気温17.5℃←■えっ!?「加藤和彦さんか?ホテルで首つる!」・・・・・・。

軽井沢のホテルの
バスルームに
ぶら下がっていた
♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Dieフォークと♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Dieロックの共犯ブリッジ

加藤和彦 1947年3月21日〜
〜2009年10月16日、享年62歳

Don't Think Twice,
It's All Right, Mr.Tonovan.
You only live twice.

歌とは、大地と肉体との共犯。

text by うぇ〜ん!久保AB-ST元宏
(更新日;2009年10月19日 月曜日 2:23Am)
トノバン、どのバンド?

加藤 和彦 (かとう・ かずひこ、1947年3月21日〜2009年10月16日、享年62歳)
音楽プロデューサー、作曲家、ギタリスト、歌手。
京都市伏見区、生まれ。東京の高校を卒業するが、仏師である祖父を継ごうと、京都の龍谷大学に入学。
龍谷大学在学中の1965年、北山修ら計5人で「ザ・フォーク・クルセダーズ」を結成。
1967年、グループは解散したが、解散記念で自主制作したアルバムに収録した
「帰って来たヨッパライ」(作詞;北山、作曲;加藤)と
「イムジン河」(北朝鮮の曲)がラジオで取り上げられ、1年間限定の条件付きで活動を再開。
この際、加藤の友人、はしだのりひこがメンバーに加わった。

1967年末メジャー発売の「帰って来たヨッパライ」が大ヒット。
しかし、第二弾シングル「イムジン河」は政治的配慮で発売中止に。
他に「悲しくてやりきれない」、「水虫の唄」、「青年は荒野をめざす」など時代を彩る曲を多数発表。
1968年10月、予定通り、解散。
1970年7月、楽屋に押しかけて、いきなり「加藤さん、ギター教えて下さい!」と迫ったファンのミカと、結婚。

1971年、北山修と「あの素晴しい愛をもう一度」を発表。

1972年、当時の妻ミカ、角田ひろ、高中正義と、ロック・バンド「サディスティック・ミカ・バンド」を結成。
1974年、イギリスの音楽プロデューサー、クリス・トーマスのプロデュースによるアルバム『黒船』を発表。歴史的名盤となる。
1975年、ロキシー・ミュージックの全英ツアーの前座をつとめ、欧米での注目度を上げる。
しかし、全英ツアー中にクリスとミカが不倫。その結果、加藤夫妻は離婚し、バンドも解散。ミカはロンドンでクリスと暮らし、料理研究家となる。

1977年、作詞家の安井かずみ(1939年1月12日〜1994年3月17日、享年55歳)と再婚。
夫婦で多数の曲を発表。

1995年、オペラ歌手(ソプラノ)の中丸 三千繪(なかまる・みちえ、1960年7月24日生まれ)と結婚するが、2000年に離婚。

2009年9月20日、南こうせつ主催のライブ・イヴェント『サマーピクニック〜つま恋コンサート』に出演。
2009年9月28日、ニッポン放送で1時間ほどのインタビューを収録。この録音は、10月19日に追悼特番として放送される。
2009年10月2日、松任谷由美の東京ライブにゲスト出演。
これら死の一ヶ月前の行動では、加藤はいつもどおり笑顔で冗談を交えて交流しており、死の予感はまったくなかったという。

2009年10月17日土曜日9:25Amごろ、長野県軽井沢町のホテルの客室で首をつった遺体が発見される。

うぇ〜ん!忌野清志郎が、5月2日に死んでから半年弱。2009年の日本は、加藤和彦も失った。
私、反芻ばかりしてそうだから、あまりいいことじゃないと思ってびくびくしながら書いた(笑)。
キヨシローと加藤の共通点と言えば、フォークで始まり、ロックへ展開していった、とゆーことだろう。
ほら、過去を振り返るのは今が充実してない証拠とかって言うでしょ。
フォークからロックへの「進化」(?)と言えば、もちろん元祖は1965年にそれをやっちゃった♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Dieボブ・ディランなんだけれど、
キヨシローと加藤にはボブ・ディランが体験した「悩み」やファンからの「非難」も無く、まるでそれが必然かのように自然にロックへと移行した。
だからディランと、ディラン以外を比較することには意味は無いのだろう。
しかし、キヨシローと加藤がフォークで音楽に目覚め、それをロックへと昇華していった経路は同じだ。
1970年をはさんで、この傾向は世界中で起こったようで、♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Dieデヴィッド・ボウイ♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Dieマーク・ボランも、同様だ。
1960年代、音楽で自己表現を目指す若者にとって、フォークは優れたツールであったことは間違いない。
それがなぜ、ロックへと向かわせたのだろうか?
私が考える理由は、大きく言えば「サウンド志向」であり、具体的に言えば「音色」と「リズム」、だ。
表現者は過剰なるものを抱えているからこそ、それを移し変える器として、表現に向かうのだ。
その過程でより過剰で、よりエキセントリックな表現者であれば、より複雑な表現方法に向かうのが自然である。
もちろん、フォークが単純だ、とゆー意味ではない。より複雑な「音色」と「リズム」を持った器がロックである、というだけのことだ。

音楽での表現の入り口にフォークを選んだ者は、まずは「メロディー」を重視する。
それは、初めてオリジナル曲を作ろうと踏み出すときに「言葉(=歌詞)」は、「音色」や「リズム」よりも、まずは「メロディー」と馴染もうとするからだ。
しかし、やがて「言葉」は「メロディー」をはみ出してゆく力を持ち始める。その時にミュージシャンは、「音色」と「リズム」を導入するのだ。
「音色」と「リズム」の果てに生れるグルーヴは、音楽における存在論だ。
そのとき、ロックは思想になる。それは人類が初めて体験する「言葉」に頼る必要のない思想だ。
誰よりも言葉を重視するミュージシャンである、キヨシローや加藤が「言葉」を超えようとしたことがそれを裏づけている。
もちろん、ボブ・ディランしかり、デヴィッド・ボウイしかり、だ。

そして、「うた」という「表現」には、パフォーマンスという作業がつきまとう。
つまり、「作る」ことと「演じる」ことが溶け合いながら生れてくるのが、音楽だ。
それは絵画や文学などの他の表現ジャンルと決定的に違うところなのかもしれない。
パフォーマンスがつきまとう「作る」作業には、初期衝動としてオーディエンスを「びっくりさせる」ことを重視する傾向を準備してしまう。
その傾向の結果、音楽の処女作や初期の作品には、コミック・ソングが多い。
そして、キヨシローも加藤も、そうだった。
加藤のメジャー・デビュー作「帰って来たヨッパライ」は、まさに、それだけの曲、と言い切ってもいい。
しかも、加藤はキャリアの出発であるこの曲から、もうすでに「メロディー」だけではなく、「音色」や「リズム」も手に入れていたのだ。

また、キヨシローと加藤のコミック・ソング好きは最初だけではなく、最後までその傾向があった。もう、それは傾向ではなく、資質、だったのだと思う。
その資質を最後まで無くさなかったからこそ、バランスをとるために、もう一つの資質であるシリアスな歌の作曲も深めることができたのだと思う。
サディスティック・ミカ・バンドとゆーバンド名だって、ジョン・レノンの「プラスティック・オノ・バンド」のパロディーだったわけだし、
デビュー・アルバムなどは高品質の演奏力に担保された、質の悪い(?)コミック・ソング集のようなものだ。
セカンド・アルバムも「お花見ブギ」とゆー曲が入った『駅前旅館』になる予定が、クリス・トーマスの出現でシリアスな『黒船』になっちゃったんだと、思う。
イギリス人のクリスが日本語のコミック・ソングに笑えたわけはなく、彼は純粋に彼らの演奏力の今日性(=世界同時性)に強く関心を持ったのだと思う。
加藤のコンセプトであるユーモアをクリスが排した結果、『黒船』は歴史的大傑作になったわけだが、同時に加藤は愛妻ミカをクリスに寝取られてしまう。
このとき、加藤は2つのものを同時に失った、と考えるのは傍観者の勝手な想像か。
マストだもんな。
なんだ&かんだ言って、
私も10枚ほど加藤和彦のアルバムを持ってる。
加藤の死体が発見された日の朝日新聞は、加藤より1歳下の、
あがた森魚(1948年9月12日生まれ)をカラーで2ページ特集していた。
思えば、あがたもフォークからロックへ移行した表現者だ。
この特集記事には、あがたや加藤のようにデビュー作から大成功した表現者ではなく、
同世代ながら虚無感と絶望の貧乏生活を続けながら表現していたマンガ家も紹介されている。
それは街に加藤やあがたの歌が流れる1970年前後に劇画雑誌『ガロ』に描いていた、
鈴木翁二(1949年生まれ)、安部慎一(1950年4月7日生まれ)、
そして、古川益三(1950年10月21日生まれ)だ。

古川はこの記事の中でこう回顧している。
「精神こめて月に1本、短編を仕上げても、たかが2万円ぐらいの原稿料しかもらえず、
そもそも不安定な心をなんとかするために描いている漫画で、
生き延びる金を稼ぐこと自体に矛盾があったから、身も心もくたびれ果てていた。
心を通じ合える女がそばにいてくれればよかったんだろうけど
白昼夢のような幻覚のなかに現れただけでした。」

もちろん全ての表現者は孤独なのだが、これは加藤と同世代ながら、
まったく違う生活環境をくぐってきた者の告白だ。
しかし、3度の結婚と離婚をした加藤が死の直前に携帯電話で話したのが女性で、
その女性が必死に加藤の行方を探した結果、手当たり次第に電話をかけて、
ようやく翌日の早朝、同姓同名の男が宿泊しているホテルを探し出し、
見つかったのがバスルームでの加藤の死体だった。
そこに古川の「心を通じ合える女がそばにいてくれればよかったんだろうけど」の
言葉を重ねて読もうとするのは、今はあまりにも軽率、か。

ちなみに今、古川は年商70億円の漫画専門古書店チェーン「まんだらけ」の経営者だ。

死後、加藤の作品を改めて通して聴いてみると、
やはりどの時代にも基本的にある種の半歩だけ過剰なサービス精神があることに気がつく。
たとえばコミック・ソングや、おしゃれな都会生活のキーワードや、流行の音楽の先取り、だ。
それらの「半歩だけ過剰なサービス精神」も、
この死を前にすれば、全てが孤独者がさしのばした手に感じてしまう。

フォークよりも音数が多くリズムが複雑なロックは、にぎやかな表現手法なのではなくて、
孤独者がさしのばした手、なのだ。
すばらしい歌詞にすら書き漏らしてしまった感情を「メロディー」に映しとり、
複雑な「音色」の海に投げ込み、
共感のわざとらしさを「リズム」のグルーヴで共犯にするのだ。

私はフォークもロックも聴くが、この両者のブリッジに加藤和彦がいたことを嬉しく、誇りに思う。
ただ、そのブリッジが想像を絶する孤独によってぎりぎりにつながれていたと教えてくれたのが、
軽井沢のホテルに垂直に降りていた長身の加藤をつないでいたものであったと知るのは、
あまりにも辛い。
加藤が過剰でエキセントリックであったのは、孤独だったからなのか?
加藤は京都の龍谷大学に入学したが、東京から来たばかりの加藤には友人はおらず、音楽仲間の2歳年上の、はしだのりひこの下宿に入り浸っていたそうだ。
学生時代の友人がそのままフォーク・グループとなり、それがロック・バンドになる。
グループやバンドが解散するたびに結婚したのは、偶然ではないだろう。
加藤にとって歌手や作詞家との結婚はまた、孤独から遠い島としての新しいバンドだったのではないだろうか。
ともだちが欲しい小学生が友人にわずかなおこづかいで買ったおもちゃをあげるように、加藤は次から次へと曲を提供し続けた。
それがあまりにも素晴らしい曲ばかりだったから、まわりの者たちも本人自身も孤独であったことに気がつくのがずいぶん遅くなってしまったのか。
もし、そうだとしたら、
62歳でそれに気がつくって、どーゆーことなんだろう。
同じ年齢の鳩山 由紀夫(1947年2月11日生まれ。)が愛妻と手をつないで、華やかな総理大臣の生活を連日、テレビにさらしている日々だからこそ、その答えがほしい。

うぇ〜ん!加藤の死が発見された翌日、2009年10月18日(日)、NHK−BS2で9月20日に行われたライブ・イヴェント『サマーピクニック』が放送された。
たったの27日前のこと。現在臨床心理士をやってる友人がすごい久々にゆっくり話しをしました。
加藤和彦のコーナーも、4:40Pmごろに放送。加藤は「イムジン河」と、「あの素晴らしい愛をもう一度」を歌った。
久保兄のことだからこれも飛ばさないのだろうなーと思っていた。機会があったら、この、初期によくくりかえししていた質問の意味や意図を 改めて訊いてみたいって思っていたの。歌は死ぬことができない。。
「あの素晴らしい愛をもう一度」は、この手のイヴェントではフィナーレで出演者全員が再登場して合唱する歌だが、
南こうせつが「今回は本人、加藤和彦が来ているから。」と、加藤のコーナーに出演者が全員登場して、ここで歌った。
大勢の観客も含めて、世間にはこの曲を愛している人が無限に近い数いるはずだ。
そんな気の遠くなる大勢の大合唱の中心にいて、この日、この瞬間、加藤和彦は孤独だったのだろうか。
表現者にとって、死ぬってなんなんだろう。


あなたはそうしてくださらなければならない。でなければ一体誰に、それが出来るというのでしょう。
だからこそ、「出逢い方」にちょっと慎重でありたかったりもするのです。
エンパイア・
ステートビルに
棲む蛍

(久保元宏 2001年6月)

★日付をクリックすると、♪好きな時代に行けるわっ♪あん♪アン♪歴史から飛び出せ!
たとえば10月31日の歴史
抱っこしてもらってる最中に、なんだかすごくさみしくなってしまいました。

Happy
Birthday
to
Ms. 過去の反芻の価値って、私には、「自分への客観性の保持」の為、って思っていたー。Marie Laurencin
!
Around the World in 加藤和彦's Life
加藤和彦 海外録音3部作
 1979年バハマ録音
3月28日の、共犯音楽祭★TERAのROCK名盤100枚!★Music〜音という抽象芸術♪『パパ・ヘミングウエイ』
オ・ト・ナの青春は、いつも「表現」。
バハマ録音の打ち上げ。
中央はギタリストの、故・大村憲司。
右は“ズズ”こと、加藤和彦夫人の故・安井かずみ。

1980年ベルリン録音
3月28日の、共犯音楽祭★TERAのROCK名盤100枚!★Music〜音という抽象芸術♪『うたかたのオペラ』
ボウイ&イーノの3部作を意識したのかなぁー。
ベルリンで。左から加藤和彦、高橋幸宏、
大村憲司、細野晴臣、矢野顕子。
・・・すげぇ〜・・・。

1981年パリ録音
3月28日の、共犯音楽祭★TERAのROCK名盤100枚!★Music〜音という抽象芸術♪『ベル・エキセントリック』

ザ・フォーク・クルセダーズ
メガネっす♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Die★kyoutoはいいね好き好きみんなのザ・フォーク・クルセダーズ♪
誕生日が3月21日の人々

1685年  ヨハン=セバスチャン=バッハ【作曲家】 〔ドイツ〕
元祖プログレ♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Die
1839年  モデスト=ムソルグスキー【作曲家】 〔ロシア〕
1889年パラパラ・・・柳 宗悦 (やなぎ・むねよし) 【思想家】 〔東京都〕
1906年  ジョン=ロックフェラー 【実業家】 〔アメリカ〕
1947年  加藤 和彦 (かとう・かずひこ) 【作曲家】 〔京都府〕
1947年  平野 レミ (ひらの・れみ) 【歌手】 〔東京都〕
1949年  ジョニー吉長 (じょにー・よしなが) 【ミュージシャン】 〔福岡県〕
スモーキー♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Die
1950年  タイガー大越(たいがー・おおこし)【ミュージシャン】 〔兵庫県〕
1950年  チョー・ヨンピル 【歌手】 〔韓国〕
1955年  フィリップ=トルシエ 【サッカー】 〔フランス〕
1958年  シルヴィア (しるびあ) 【歌手】 〔大阪府〕
1958年  田崎 真也 (たさき・しんや) 【ソムリエ】 〔東京都〕
ワインは頭髪に悪いのか?
1960年  アイルトン=セナ【レーサー】 〔ブラジル〕
1980年  ロナウジーニョ (Ronaldinho) 【サッカー】 〔ブラジル〕
和製ジギー・スターダスト★1972年♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Die