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Mr.
Kohtaroh
Takamura
has
been
dead
from
2
April
1956
!
ぼくの前にミッチーは歌わない。ミッチーの次にケンがナンパする。
▲高村光太郎
1883年(明治16年)3月13日生れ

1956年(昭和31年)4月2日没
享年74歳
一億の号泣
高村光太郎
(『朝日新聞』1945年8月17日)

論言一たび出でて一億号泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
島谷崎神社々務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来る
玉音の低きとゞろきに五体をうめる
五体わななきてとゞめあへず
玉音ひゞき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り
普天の一億ひとしく宸極に向ってひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
ただ眼を凝らしてこの事実に直接し
荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさゞらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのずから強からんとす
真と美と到らざるなき我等未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん
パラパラ・・・吉本隆明『高村光太郎』
(1957年7月1日 飯塚書店)

 戦争に負けたら、アジアの植民地は解放されないという
天皇制ファシズムのスローガンを、わたしなりに信じていた。

 敗戦は突然であった。

 翌日から、じぶんが生き残ってしまった
という負い目にさいなまれた。

 わたしは、影響をうけてきた文学者たちは、いま、
どこでなにをかんがえ、どんな思いでいるのか、
しきりにしりたいとおもった。
 そんな日、高村光太郎の「一億の号泣」は発表されたのである。

 わづかではあるが、わたしは、
はじめて高村光太郎に異和感をおぼえた。

 ひとり、高村光太郎のみは、悪びれず戦争責任に服し、
改訂すべき思考を改訂し、
改訂すべきではないとしんじたものを主張したまま、
文学活動をつづけ、その強靭さは、別格をなした。
■高村光太郎は第二次世界大戦中、
戦争賛美の詩を書き、絵を描いた。
敗戦後、岩手県の山小屋で
隠遁生活をしながら
自らの「戦争責任」を自問していた。
それは、多くの知識人が戦争中の
言動を隠蔽しようとしていたのとは
大きな差があった。

「何も偉いことはありません。
この通りの生活をしています。
私は戦時中戦争に協力しました。
文学の方面や美術の方面などで。
戦争に協力した人は追放になっています。
私には追放の指令が来ませんが、
自分自ら追放
その考えでこう引込んでいるのです。」
(高村光太郎の言葉)
パラパラ・・・北川太一
(『日本経済新聞』2004年2月8日)

 吉本君も僕も皇国少年でした。
終戦後、それまで考えていたことが
違うと否定され、
僕らが真っ先に思い浮かべたのは
高村さんのことだった。
岩手の山奥にこもって
何を考えているのだろうと。
みんなが戦争中の発言を変えて
堕落していく中で、
高村さんだけが
人間らしく生きるとは何かを教えてくれた。


■北川太一は東京工業大学で
吉本隆明と同窓の高村光太郎研究者。
1924年(大正13年)生れの吉本の一つ下。
吉本の処女作『高村光太郎』には、
北川が制作した光太郎の年表が
底本として使われている。
しかし、この本の出版が光太郎の
死の翌年のため、年表は敗戦の年まで。
ちなみに、この本の初版本を久保元宏は
持っている。おそらく今は、超高価だろう。




Oh Yeah! 脳味噌の日々よ♪