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諸國物語(泰西名著文庫第八冊) 森 鴎外 訳
73: 〜最近読んだ本 5〜

投稿者:漢 幸雄 
投稿日:2000年2月12日 16時25分


諸國物語(泰西名著文庫第八冊) 森 鴎外 訳
國民文庫刊行會  大正4年1月



 森鴎外が軍人であったことも医者であったことも作家であったこともいまさら書き出すほどのことではないので省略。



今回はその小説群からではなく、翻訳の中の一冊。



■参考
森鴎外は、同じ医者のシュニッツラーの翻訳・紹介に努めた。
アーサー・シュニッラー ARTHUR SCHNITZLER
 彼によって日本に初めて紹介された海外の作家及び作品の数は決して少なくはない。 彼自身は原書を取り寄せて、その中から気に入った作品などを新聞や雑誌に翻訳や抄訳で紹介していただけなのだろうが、 結果としてそれらが日本では初めての作品紹介になったということであろう。 現代のように情報も多かったわけではなく、著作権に関しての認識がさほどではなかったということも幸いしたに違いない。  有名な「美奈和集」「即興詩人」「フアウスト」などに加えてこの一冊がある。  この諸国物語の中にはそれらの状況が詰め込まれている。 スカンヂナヰア・仏蘭西・独逸・墺太利・露西亜・亜米利加(敢えて目次の表記のまま)の国別に、 23人の作家、34作品が掲載されている。 エドガア・アルラン・ポオとリルケの作品がそれぞれ3作品採られているのは鴎外の嗜好によるものだろうか。 トルストイとドストイエフスキーがそれぞれ1作品しか採られていないのはなぜだろう。 後世の評価と、当時の評価がこれほど異なっているのも面白い。 作品自体は今となっては目新しいものがあるわけでもないが、 そんなことを考えながら森鴎外の翻訳臭くはない、日本語らしい文章のリズムで読み進むことが楽しい。 この一冊が当時の文学者に与えた影響というのも少なくはなかったという。   数年前に筑摩書房から文庫で出たはずだが未見。 オリジナルは上製厚紙表紙丸背天金貼箱入で942頁。重厚な中にも手に持ったときの安定感がたまらない。  こんなことをクリス・コナーの旧譜を聴きながら書いていたら、 音楽の世界の状況も大きくは変わらないものだと思った。 一方的な芸術輸入超過の状態が100年以上続いたことで、 日本の本来の芸術は日常から離れて特殊なものへと変化してきたということではないか。 歌舞伎伝統を守って繁栄している、大丈夫じゃないかなどという的外れな指摘はされたくもないが。
Re:1 久保AB−ST元宏 



>去年、芥川賞@耳ピアス『日蝕』を読んだ。

賞の選考会議の時、石原慎太郎@税制改革が、

「誰も最後まで読まない小説に、何故、賞を与えるのか?」と言って反対したそうだ。

でも、読んでみると、スラスラ読めたよ。

旧かな遣いは、現代文字表記より、音楽に近い・・・と、感じた。←ちょっと偏見あり・だ・が。



まさしく、鴎外は、そこから再読されても、いいんと・ちゃう?彼の本筋じゃあないが。

今、日本経済新聞に、高橋某が、鴎外周辺の文学者の評伝を連載しているが、ちょっと面白い。チェックするべし。

漢サンが、俺のカキコのアンサーで、「欧外」と誤記されていたが、このイカシタ偶然!

まさしく鴎外は、「欧外」となるべく、苦しみ、日本文学を発明した。

欧米文学の翻訳は、そのトリガーであり、福永武彦を通過し、村上春樹まで繋がっている。

そして、翻訳者兼作家は、日本が世界で一番、顕著に多い・と、思いますが、漢サン、どうですか? 

Re:2 漢 幸雄



>末尾の「翻訳者兼作家は云々」は物の道理かもしれませんね。

なにせ日本人は外国語に弱いというのが常識ですから。

何時から英語が世界の共通語になったのか知りませんが、

ヨーロッパなどでは2ヶ国語以上を不自由なく使えるとか、

第2、第3の母国語があるなんてことが珍しくないと聞きます。

言語自体も共通点があるのでしょうが、やはり地続きだということが最大の要因なのかもしれません。

日本の場合、自分が読むために外国語を習得し、その結果翻訳を生業とするということが少なくないのでしょうし、

翻訳であっても文章を書くという作業に慣れているということから、

後はセンスがあればある程度の小説らしきものが書けてしまうということでしょうか。

ちょっと穿ち過ぎかもしれませんが。 



それにしても、翻訳書における日本語というものは、どうしてあんなに読みにくいのでしょう。

どうしても馴染むことができません。

翻訳書独特の文体というが、言い回しというか、直訳でもなし意訳でもなし、いったいあれはどうしたことでしょう。 



閑話休題 石原慎太郎にしたところで、カタカナばかりの悪文で、

「太陽の季節」一つを読んでみても決して誉められた代物ではなかったでしょう。

それが年月を経るとこういう具合になるのですから、程度がしれるというものです。

文学賞なんてものは適当な基準で適当にばら撒いたらよいので、

それをきっかけに伸びる作家もいれば、数年後にはどこにも書いてない作家もいるものです。

過去の芥川・直木賞受賞者を見てもそれは歴然としています。 



さて、旧仮名・正漢字と文体のリズム・韻の問題です。

文法上の活用から言えば旧仮名は実に理に合っているし、

正漢字は漢字の成り立ちがほぼ反映されている状態ですからこれらを使用するほうがわかりやすいというのも一理です。

加えて美文調とはいわないまでも、韻を感じる文章は歓迎です。

それでなければ俳句や短歌が残るはずもないというのが感覚的なところ。 

言文一致運動で出来上がった文体や表現方法は、決して古臭いものではなく、

単に漢文の読み下しから江戸戯作への回帰をも含むというのは解釈として如何でしょうか。乞御意見。