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Bookという旅行。あべ弘士
唐木順三『中世の文学』 (更新日;2008年7月3日 2:14Am)
人は何故、評論家になるのか?Bookという旅行。The Criticism
評論&批評は、深層心理の共犯行為。・・・・・・作品との”共犯幻想”。


ヒップ・ホップな、おやじ〜。小林秀雄(評論家 1902〜1983)の遍歴

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小林秀雄と白洲次郎
・投稿者/ ジョン@シルバー@大分
・投稿日/ 2003/07/27(Sun) 07:09:21

小林と白洲のエピソードは、白洲正子の著作の他、新潮文庫の「風の男 白洲次郎」にも出てきます。
それから、「あいつは天才だ。僕は秀才だけど。」という主旨の小林の発言は、
私の知る限り、青山二郎と白洲次郎の2人に冠せられた評言だと思います。
小林は実際はどうであったかはともかく、小林自身としては「凡人」の視線から考える立場を崩さなかった人であり、
他に柳田国男さんにも上記のような感想を持っていたと思います(新潮社講演カセットの質疑応答より)。
またこれは私の勝手な推測ですが、小林の青年時代、中原中也にも同様の感想を持っていたのではないでしょうか。



★フランス近代文学を軸に、
日本近代文学にひそむ私小説性、プロレタリア文学の功利的見解などをきびしく批判して、
近代批評に独立の地位をあたえた。

1902年
明治35年
0歳
4月11日、
東京市神田区神田猿楽町三丁目三番地
(現千代田区猿楽町二丁目八番五号)で誕生。

 父、小林豊造は明治7年、
兵庫県出石(いずし)郡の清水家に生まれ、
のちに旧但馬藩の家老職であった
小林家の養嗣子になる。
明治32年、東京高等工業学校に付設された
工業教員養成所の金工科を卒業し、
東京高工助教授、
御木本真珠店貴金属工場長を経て、
日本ダイヤモンド株式会社を設立した。
欧米各国に学び、
日本で初めてダイヤモンドの研磨技術を習得
蓄音機のルビー針を開発した技術者でもある。

 母、精子は明治13年、
東京市牛込区牛込北山伏町14番地の
城谷家に生まれる。女学校を卒業し、
茶の湯、生け花、琴などにも通じていたという。
高見澤潤子の『兄小林秀雄』によれば、
本当の誕生日は三月末だったという。
ちなみに同書によると、
小林秀雄の血液型はB型
めくるめくめくりんこ。中原中也の遍歴
1907年
明治40年

6月〜 夏目漱石「虞美人草」
9月 田山花袋「蒲団」

<生>火野葦平、亀井勝一郎、高見順、
山本健吉、井上靖、平野謙
(0歳)   4月29日、父謙助、母フクの長男、
山口県山口市湯田温泉一丁目11-23で誕生。
1909年
明治42年
7歳
4月、白金尋常小学校入学。
芝区白金志田町十五番地に住む。
3月 北原白秋『邪宗門』、永井荷風『ふらんす物語』
6月〜 夏目漱石『それから』
7月 森鴎外「ヰタ・セクスアリス」

<生>花田清輝、大岡昇平、中島敦、太宰治
<没>二葉亭四迷
(2歳) 3月、父の転勤で広島に転居。
青木健『中原中也―盲目の秋』(2003年)より

後に中也の恋人となる長谷川泰子は、
時代が違うが同じ広島市内に住んでいた。
しかし、両者の家庭における境遇は
陽画と陰画のように異なっていて、
それが後の出会いを宿命的にさせ、二人の
近親相姦的な精神の構造を作り上げた。
1910年
明治43年
8歳
作文「おやのおん」。 3月〜 森鴎外「青年」、夏目漱石「門」
4月 『白樺』創刊
11月 谷崎潤一郎「刺青」
12月 石川啄木『一握の砂』

<生>埴谷雄高、保田與重郎、竹内好
<没>トルストイ
青木健『中原中也―盲目の秋』(2003年)より

中也が通った広島の幼稚園はミッション系
だったが、当時の古い写真によると、
園児たちがみな着物の上に膝まで隠れる
西洋風の真っ白いエプロンを掛けていた。
1912年
明治45年
大正元年


(5歳) 9月、父の転勤で金沢に転居。
青木健『中原中也―盲目の秋』(2003年)より

「空の奥処(おくが)」にはためく「黒旗」を
歌った詩「曇天」も、幼稚園時代に出会った
明治天皇の大葬の際の半旗の黒旗か?
1914年
大正3年
12歳
秋、学芸会で、世界大戦の原因から現状を演説 。
(7歳) 3月、山口に帰る。
4月、下宇野令小学校に入学。
1915年
大正4年
13歳
3月 白金尋常小学校卒業
4月 東京府立第一中学校入学、
同期生に石丸重治、木村庄三郎、正岡忠三郎
一期上に蔵原惟人、富永太郎が在学 。
芝区白金今里町七十七番地に住む。
1月〜 森鴎外「澁江抽斎」、
5月〜 夏目漱石「明暗」
◎トルストイブーム

<生>小田切秀雄
<没>夏目漱石、上田敏
(8歳) 1月、弟亜郎病没。
亡弟亜郎を歌ったのが詩作の始まり
1918年
大正7年
16歳
一年上級の河上徹太郎を知る。<生>中村真一郎、福永武彦、堀田善衛 (11歳) 5月、山口師範附属小学校に転校。
1920年
大正9年
18歳
3月 府立一中卒業。
一高入試に失敗し、浪人。
1月 国際連盟発足
5月 日本最初のメーデー
12月 大杉栄、堺利彦、山川均らが、
日本社会主義者同盟結成 。
(13歳) 2月、「防長新聞」に投稿した短歌が、
入選。
以後投稿を続ける。
4月、県立山口中学に入学。
文学に耽り、次第に学業を怠るようになる。
1922年
大正11年
20歳
11月 「蛸の自殺」を『跫音』に発表、
志賀直哉から賞賛の手紙を受け取る。
4月3日 スターリンがロシア共産党書記長に
7月15日 日本共産党結成(委員長堺利彦)
12月30日 ソ連邦が成立
(15歳) 5月、山口中学の上級生宇佐川紅萩、
防長新聞の若手記者吉田緒佐夢と共著で
私家版の歌集『末黒野』を刊行。
1923年
大正12年
21歳
9月1日 神田須田町で、関東大震災に遭遇。
9月6日 船と徒歩で鎌倉に、
療養中の母に会いに行く 。
<生>田村隆一、遠藤周作、司馬遼太郎、
上田三四二、谷川雁
<没>有島武郎、大杉栄、伊藤野枝、ラディゲ
(16歳) ダダイズムを知る。3月、落第
4月、京都の立命館中学第3学年に編入学。
12月、表現座に所属していた、
3歳年上の女優長谷川泰子を知る
1924年
大正13年
22歳
2月? 母と妹の三人で、
豊多摩郡杉並村馬橋226番地に転居。
2月27日 荻窪の波多野完治宅で、
永井龍男と初めて会う。
4月8日 京都山科の伯父清水精一郎の招きで
妹と上洛、従兄の西村孝次に会う。
4月? 京都山科の志賀直哉の家に行く。
4月? 奈良に行く(従兄と妹と)。
春? 神田の本屋で、
ランボオの「地獄の季節」に初めて出会う
6月10日 「一ツの脳髄」を書き上げる。
7月 「青銅時代」に「一ツの脳髄」を発表。
8月11日 「飴」を書き上げる。
8月26日 京都の第三高等学校で、
一高対三高の野球試合を観戦。
8月27日? 京都山科の志賀直哉を訪ねる。
9月 京都の富永太郎に、
『地獄の季節』の「別れ」の一節を送る。
9月14日 「断片十二」を書き上げる。
12月 石丸重治らの「山繭」に参加。
石丸の紹介で、青山二郎と知り合う。

*この年、堀辰雄に伴われて、
田端の芥川龍之介を訪ねる(?要調査)。
11月 千葉亀雄「新感覚派の誕生」、
牧野信一「蠅」
12月 宮沢賢治『注文の多い料理店』、
石丸重治・永井龍男・小林秀雄・富永太郎・
河上徹太郎等が
ら『山繭』創刊

<生>陳舜臣、安部公房、吉行淳之介、
邱永漢、吉本隆明、竹下登、村山富市

<没>黒田清輝、富岡鐵斎、レーニン、
ウィルソン、カフカ、コンラッド、
アナトール・フランス

トーマス・マン『魔の山』、
ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』、
ブルトン『シュルリアリスム宣言』、
バラージュ『視覚的人間』、
孫文『三民主着』
(17歳) 4月、長谷川泰子と同棲。
大岡昇平『朝の歌 中原中也傳』('66年)より

冨倉徳次郎氏は中原が二度目か三度目に
来た時、女を連れて来たこと、
また「あれはおれの柿の葉十三枚だ」といった
のを記憶してをられる。
これが長谷川泰子、小林佐規子、中垣泰子
等の名で、中原が死ぬまで中原の身辺にあり
彼の生涯と作品に重大な影響を及ぼした
女性であるが、今は当時彼女が中原より
三つ年上の十九歳、マキノ・プロダクションの
大部屋の女優であったことだけ記しておく。

広島の家出娘で、蒲田撮影所にゐたが、
十二年の震災で、京都へ都落して来てゐた。
河原町の喫茶店で、中原が詩を朗読するのを
賞めたら、
「おれの詩をわかるのは、君だけだ」
と喜んださうである。彼女の貸間へ来て、
「殆ど強姦されちやったやうなものだよ」と
彼女はいつている。
中原の生涯で成功した恋愛は、
私の知る限りこれ一件である。
1925年
23歳
4月 東大仏文科、入学。
富永の紹介で中原中也と知り合う。

(18歳) 3月、泰子と共に上京。
小林秀雄と知り合う
1926年
24歳
辰野助教授の勧めでヴァレリィの全論文を読破。
ベルクソン、アラン、ドストエフスキー、ポーを愛読。
佐々木幹郎『中原中也』(1988年)より

小林秀雄のもとに泰子が去ったことは、
中也には「女という物語」からの敗北だったが、
そこに物語から分化した歌が成立した。
置き去りにされて「無」になった男(=子供)が、
なすすべも知らずに子守歌を歌いだしたのだ。
自分は壊れた人間だと中也は考えていた。
他人によっては自分は救済されない
しかし他者との相互性の中で自己実現したい
という欲求も強い。
この宙づりの喪失感の中で歌い出された
中也の詩は子守歌になった。
(19歳) 4月、日本大学予科文科に入学。
5月〜8月「朝の歌」を書く。
小林秀雄のもとへ恋人が走り去ってしまい、
彼は、大きな失意と喪失感にうちのめされる。
その中で生まれた詩が、「朝の歌」である。
9月、家族に無断で日本大学を退学。
11月、フランス語を学ぶため、
アテネ・フランセに通う。
1928年
26歳
2月 大岡昇平と知り合う。
3月 東大を卒業。5月『Xへの手紙』で知られる長谷川泰子との深刻な恋愛事件に疲れ果てて、
関西に逃げ出す
(21歳) 5月、音楽団体スルヤ発表演奏会で
「朝の歌」「臨終」が歌われ、
歌詞として機関誌「スルヤ」に掲載される。
父謙助病没。
1929年
27歳
雑誌『改造』の懸賞文藝に
『様々なる意匠』が入選。
以来、評論家として活躍。
「批評とは
意(つい)に己の夢を懐疑的に語る事ではないか!」
1929年(22歳) 4月、同人誌『白痴群』創刊。
1930年
昭和5年
28歳
2月 「からくり」を『文学(第五號)』に、
「横顔」を『詩神』に、
ポオ「メルツェルの将棋差し」(翻訳)を
『新青年』に、
ランボオ「堪忍」(翻訳)を『詩神』に発表。

4月 『文藝春秋』で「アシルと亀の子」発表、
以後文芸時評の連載開始。
「ナンセンス文学」を『近代生活』に、
「新興芸術派運動」を『時事新報』に発表。
4月13日 新興芸術派倶楽部第一回総会。

5月 堀辰雄、梶井基次郎、河上徹太郎らと
『作品』創刊、
ランボオ『飾畫』を創刊号から訳載。
「アシルと亀の子・」を『文藝春秋』に発表。

6月 「アシルと亀の子・」を『文藝春秋』に発表。
『近代生活』で、
座談会「既成芸術派検討座談会」。

7月 「アシルと亀の子・」を『文藝春秋』に発表。

8月 「アシルと亀の子・」を『文藝春秋』に発表。

9月 「文学は絵空ごとか」を『文藝春秋』に、
ランボオ「七歳の詩人」(翻訳)を
『詩・現実』(第二冊)に発表。
『作品』で、
座談会「最近文学の享楽的傾向に就いて」 。

10月 ランボオ『地獄の季節(翻訳)』(白水社)。
「ランボオ・」を収録。
「文学と風潮」を『文藝春秋』に、
「新しい文学と新しい文壇」を『婦人サロン』に、
「アルチュル・ランボオ」を『ふらんす』に発表。

11月 「横光利一」を『文藝春秋』に、
「批評家失格・」を『新潮』に、
「私信-深田久彌へ」を『作品』に、
「近頃感想」を『讀賣新聞』に、
「我まゝな感想」を『帝国大学新聞』に発表。

12月 「物質への情熱」を『文藝春秋』に、
「中村正常君へ-私信」を『文学風景』に、
「アルチュル・ランボオの恋愛観」を『詩神』に、
「感想(毎月雑誌に...)」を『時事新報』に発表。

*この年あたりに菊池寛、佐佐木茂索と知り合う。
秋 一高生の木庭一郎(中村光夫)が来訪。
1月 中河與一『形式主義文学論』、
木下杢太郎『木下杢太郎詩集』

2月 大宅壮一『文学的戦術論』、
勝本清一郎『前衛の文学』

3月 井伏鱒二「さゞなみ軍記」、
牧野信一「吊籠と月光と」

4月 広津和郎「昭和初年のインテリ作家」、
嘉村磯多「不幸な夫婦」、
蔵原惟人「『ナップ』芸術家の新しい任務」、
雅川滉「芸術派宣言」

5月 伊藤整「感情細胞の断面」、
堀辰雄「ルウベンスに偽画」、
堀辰雄・井伏鱒二らが『作品』創刊

6月 横光利一「寝園」、
河上徹太郎「自然人と純粋人」、
蔵原惟人「芸術大衆化の問題」、
北川冬彦らが『詩・現実』創刊。

7月 林芙美子『放浪記』、
堀辰雄『不器用な天使』、
柳田国男『蝸牛考』、
中河與一らが『新科学的文芸』創刊。

8月 葉山嘉樹「袋小路の同志たち」、
室生犀星「足・デパート・女」、
瀬沼茂樹「文学に於ける方法と技術」、
谷崎夫人の佐藤春夫への「譲渡」事件

9月 横光利一「機械」、
谷川徹三『生活・哲学・芸術』、
ジョイス「ユリシイズ」(伊藤整ら訳)、
『ナップ』創刊

10月 梶井基次郎「闇の絵巻」、
深田久弥「オロッコの娘」、
瀬沼茂樹「心理主義文学の発展と其帰趨」

11月 堀辰雄「聖家族」、
中野重治『夜明け前のさよなら』、

12月 三好達治『測量船』、
阿部知二『主知的文学論』

<生>饗庭孝男、秋山駿、高橋英夫、野坂昭如、
開高健、菅野昭正、吉田熈生、武満徹、
大庭みな子、飯島耕一、川崎洋、渋沢孝輔
<没>内村鑑三、田山花袋

ムジル『特性のない男』、ドス・パソス『U・S・A』、
オルテガ『大衆の反逆』、九鬼周造『「いき」の構造』、
ラスキ『近代国家における自由』、
フッサール『デカルト的考察』
(23歳) 4月、『白痴群』が6号で廃刊となり、
主要発表誌を失う。
12月、長谷川泰子の息子の名付け親となる。
1931年
29歳
1月 「マルクスの悟達」を『文藝春秋』。

2月 「批評家失格・」
「谷川徹三『生活・哲学・芸術』評 」を
『改造』に発表。

3月 「心理小説」を『文藝春秋』に発表、
文芸時評の連載が終了し、
新進批評家としての立場を固める。
「二月の作品」を『作品』に発表。

4月 「文芸批評の科学性に関する論争」を
『新潮』に、
「室生犀星」を『改造』に、

5月 「谷崎潤一郎」を『中央公論』に、
「再び心理小説について」を『改造』に発表。

6月 「『安城家の兄弟』」を『改造』に、
「心理小説」を『詩と詩論』に、
「もぎとられたあだ花」を『時事新報』に発表。

7月 最初の評論集『文藝評論』(白水社)。
「フランス文学とわが国の新文学」を『新潮』に、
ボードレール『悪の華』の一部翻訳を『作品』。
「プロレタリアの星」「黒」「重盛の悩み」を
『東京日日新聞』に発表

11月 「おふえりあ遺文」を『改造』に、
「ポオ『ユレカ』(翻訳)」を『文科(第二輯)』に。
白水社からランボオ『酩酊船』(翻訳)を刊行。
6月 坂口安吾「風博士」、上林暁「欅日記」、
蔵原惟人「プロレタリア芸術運動の組織問題」、
『岩波講座日本文学』刊行開始

7月 坂口安吾「黒谷村」、
牧野信一「風媒結婚」、辰野隆『さ・え・ら』

8月 窪川いね子「小幹部」、
平林たい子「プロレタリアの星」

10月 永井荷風「つゆのあとさき」、
牧野信一「ゼーロン」「心象風景」、
小林多喜二「転形期の人々」、
中野重治『中野重治詩集』(発行禁止)
水原秋桜子「自然の真と文芸上の真」
(→『馬酔木』独立論争)、
『文科』(牧野信一・坂口安吾ら)創刊

11月 蔵原惟人
「芸術理論に於けるレーニン主義のための闘争」、
ナップ解散、プロレタリア文化連盟(コップ)結成。

12月 伊藤整ら訳『ユリシイズ(上)』、井伏鱒二「川」、
堀辰雄「恢復期」、中野重治編『ナップ七人詩集』、
柳田国男『日本農民史』、
『プロレタリア文化』(コップ機関誌)創刊

<生>磯田光一、大岡信、高橋和己、
谷川俊太郎、有吉佐和子、
清水徹、前田愛、芳賀徹、深田祐介、
山口昌男、曾野綾子、入沢康夫
(24歳) 4月、東京外国語学校専修科仏語部に
入学。
9月、弟恰三病没。
のちに小説「亡弟」を書いている。
1932年
昭和7年
30歳
1月 「正宗白鳥」を『時事新報』。

2月 「梶井基次郎と嘉村磯多」を『中央公論』。

4月 ヴァレリイ『テスト氏・』(翻訳、江川書房)。
新設された明治大学文芸科の講師になり、
「文学概論」を担当。

7月 「同人雑誌小感」を『東京朝日新聞』に。
鎌倉町雪ノ下四一三番地に転居。

9月 「Xへの手紙」を『中央公論』に発表。

10月 「手帖・」を『新潮』に発表。
『新潮』座談会「純文学の危機に就いて語る」。

11月 『続文藝評論』を白水社 から刊行。
1月8日 【桜田門事件】朝鮮愛国団員の李奉昌が
昭和天皇の行列に手榴弾を投げる→大逆罪で死刑。

1月28日 【上海事変】日本海軍が中国軍と衝突。

2月9日 【血盟団事件】井上日昭が前蔵相を暗殺
→3月5日 団琢磨三井合名社理事長を射殺。

3月1日 満州国建国宣言

5月15日 犬養毅首相を射殺(5.15事件)

7月31日 独総選挙でナチスが第1党に。

8月 アムステルダムで文学者の国際反戦大会

10月1日 リットン調査団が、満州問題報告書。

11月8日 米大統領選で民主党のF・ルーズベルト。
(25歳) 5月、詩集『山羊の歌』の編集に着手。
6月、『山羊の歌』の予約募集をするが、
10名程度の申し込みしかなかった。
9月、母からもらった300円で『山羊の歌』の
印刷にかかるが、資金不足で刊行に至らず。
1933年
昭和8年
31歳
1月 湯沢にて深田久弥にスキーを習う

2月 ランボオ「渇の喜劇」を『本』(創刊号)に、
「作家志願者への助言」を『大阪朝日新聞』。

3月 「手帖・」を『文藝春秋』に発表。

4月 「文学批評に就いて」を『文学』(創刊号)に、
『新潮』で座談会「大衆文学はどうなるだらうか」。

5月 鎌倉町扇ヶ谷三九一番地に転居。

7月 江川書房『アルチュル・ランボオ詩集』(1)。

8月 「批評について(実際の...)」を『改造』に。

10月 「私小説について」「二科展を見る」
「文藝春秋の作品」を『文学界』に、
『文学界』創刊に参加、
宇野浩二、広津和郎、豊島與志雄、川端康成、
武田麟太郎、林房雄、深田久彌とともに同人。

11月 「『文藝春秋』と『経済往来』の作品」
「故古賀春江氏の水彩画展」
「金文輯君へ」を『文学界』に発表。
『文藝春秋』で座談会「文芸復興座談会」。
『おふえりや遺文』を三才社から刊行。
横光利一とともに江川書房顧問となる。

12月 「『未成年』の独創性について」を『文芸』、
「手帖・」を『文学界』に、
「批評家の悪癖」「批評家無用論」
「『春琴抄』その他」を『大阪朝日新聞』に。
『一つの脳髄』を四季社から刊行。
1月 ロートレアモン、青柳瑞穂訳『マルドロオルの歌』

2月 小林多喜二、警察に虐殺される。

3月 小林多喜二「地区の人々」、
瀧口修造「シュルレアリスムの動向」

3月23日 ヒトラー独裁確立。

3月27日 日本、国際連盟から脱退。

4月 小林多喜二「党生活者」
「日和見主義に対する闘争」、
宮本百合子「前進のために」、
『文学』(岩波書店)創刊

4月22日 【滝川事件】鳩山一郎文相が、
滝川幸辰京大学長を容共的として辞職を要求

6月 正宗白鳥「故郷」、尾崎翠『第七官界彷徨』、
萩原朔太郎「郷愁の詩人与謝蕪村」、
三木清「不安の思想とその超克」

9月 西脇順三郎「Ambarvalia」
清水幾太郎『社会学批判序説』、

10月 『文学界』『行動』創刊

11月 林達夫『文藝復興』、『文芸』(改造社)創刊

12月 谷崎潤一郎「陰翳礼讃」

<生>大島渚、江藤淳、宮川淳、渡辺守章

<没>堺利彦、小林多喜二、宮沢賢治、嘉村磯多
(26歳) 3月、東京外国語学校専修科終了。
5月、同人誌「紀元」に加わる。
6月、同人誌「半仙戯」に作品を発表する。
12月、遠縁の上野孝子と結婚。
訳詩集『ランボオ詩集(学校時代の詩)』
(三笠書房)、刊行。
1934年
昭和9年
32歳
1月 「文学界の混乱」を『文藝春秋』。
「 嘉村君のこと」を『文芸』に、「アンドレ・ジイドのドストエフスキイ論」を『作品』。

5月6日 長野県松本市の森喜代美と結婚、鎌倉扇ヶ谷四〇三番地に新居を構える。

8月 「断想(上田進氏訳...)」を『文藝春秋』に、
「中原中也の「骨」」、「林芙美子の印象」を『文学界』に発表。
『文学界』で座談会「政治と文学に関する座談会」 。
(27歳) 9月、ランボオ全集の企画の一環として、
ランボオの詩の翻訳を始める。
10月、長男文也が誕生。
12月、生前唯一の詩集『山羊の歌』(文圃堂)。
1935年
33歳
1月 「ドストエフスキイの生活」(1)、「谷崎潤一郎『文章読本』」、「中原中也の『山羊の歌』」、
「後記」を『文学界』に、「文芸時評に就いて」を『行動』に、
『行動』で座談会「思想についての座談会」。『文学界』の編集責任者となる

2月24日 菅平の文壇スキー大会に参加。

7月 『精神と情熱に関する八十一章』(アラン)を翻訳。

8月 「私小説論」(4)を『経済往来』に、「ドストエフスキイの生活」(7)「後記」を『文学界』に発表。

9月 「新人Xへ」を『文藝春秋』に発表。
岩波文庫からジイド『パリュウド』(翻訳)を発表、「『パリュウド』について」を付す。

11月25日に文藝春秋社大阪愛読者大会で講演、文士劇「ドモ又の死」に出演(生蕃の役で)
(28歳) 1月、小林秀雄が『文学界』の
編集責任者となり、
中也は自由な発表の場を得る。
5月、『歴程』の同人となる。
12月、『四季』の同人となることを承諾。
1936年 1月 「ドストエフスキイの生活」(11)「後記」を『文学界』に、座談会「文学界同人座談会」に出席。
文学界同人改組。野田書房から『Xへの手紙』を刊行。
「作家の顔」を『讀賣新聞』に発表(→正宗白鳥とトルストイをめぐって〈思想と実生活論争〉始まる)

2月 「ドストエフスキイの生活」で第一回文学界賞受賞
「岸田国士の『風俗時評』其他」を『讀賣新聞』に発表。
(→文藝懇話会をめぐって中野重治と論争

4月 「中野重治君へ」を『東京日日新聞』に、「思想と実生活」を『文藝春秋』に。

7月 山本文庫からボードレール『ポオ論』(翻訳)を、改造社から『文藝評論集』(改造文庫)を刊行。
深田久弥と十和田の蔦温泉に滞在、『文学界』は文藝春秋社発行となる

9月 野田書房からヴァレリイ『テスト氏』を刊行。

10月 作品社から『私小説論』刊行。

12月 「吉屋信子『女の友情』」「ドストエフスキイの生活」(22)を『文学界』に、
「文学の伝統性と近代性」を『東京朝日新聞』に発表。
(→〈伝統〉〈民衆〉をめぐって中野重治、戸坂潤と論争始まる)。
『文学界』で座談会「文学は何を為し得たか」に出席。
創元社からアラン『精神と情熱とに関する八十一章』(翻訳)を刊行。

*創元社顧問になり、創元選書の企画に参画、柳田国男の諸作を広く世に知らしむ

*この年? フロオベル『ボヴァリイ夫人』(発表誌未詳)。

*「東京朝日新聞」のコラム〈槍騎兵〉に執筆。

「唯物論研究会」に加入

*明治大学で<日本文化史研究>開講。
(29歳)6月、訳詩集『ランボオ詩抄』(山本書店)。
9月、NHKの入社面接を受けるが、就職せず。
11月10日、文也病没。
12月15日、次男愛雅が誕生。
12月神経衰弱が昴じる。
1937年
昭和12年
35歳
3月6日 長女明子(はるこ)生まれる。

4月 「『日本的なもの』の問題」
『東京朝日新聞』。
野田書房から『ランボオ論』限定49部刊行。
『文学界』の常任委員となる。

5月 小熊秀雄君へ」「窪川鶴次郎君へ」
「グウルモン『哲学的散歩』」「後記」を『文学界』。

6月 野田書房からランボオ『渇の喜劇』
(翻訳・限定版)。
『文学界』で座談会「文化の大衆性について」。

7月 『文学界』座談会「文学主義と科学主義」。

8月 『改造』で座談会「最近の文学の諸問題」。

9月 「『メデューズ号の筏』」
「第二回池谷賞授賞経過報告」を『文学界』に、
「僕の大学時代」を『帝国大学新聞』に発表。
『文学界』で座談会「現代人の建設」に出席。

11月 「戦争について」を『改造』に、
「中原中也『ランボオ詩集』」を『文学界』。

12月 「死んだ中原」「中原の遺稿」
「佐藤信衞『近代科学』」を『文学界』に、
「中原中也」を『手帖』(野田書房)第十六号に、
「不安定な文壇人の知識」を『讀賣新聞』。
「宣伝について」(発表誌未詳)
4月 志賀直哉「暗夜行路(終章)」、
横光利一「旅愁」連載開始、永井荷風「墨東綺譚」、
保田與重郎「『日本的なもの』への批評について」

7月 中里恒子「西洋館」、
萩原朔太郎「漂泊者の文学」、
保田與重郎「白鳳天平の文学」、
帝国芸術院発足
(→藤村・白鳥・荷風らが会員辞退)

8月 伊藤整「幽鬼の街」、高見順「工作」、
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』

9月 徳田秋声「戦時風景」、
中野重治「真実は下等であり得るか?」、
平野謙「文学の現代的性格とその典型」

11月 井中野重治「探求の不徹底」
(→島木健作と〈「生活の探求」論争〉

12月 萩原朔太郎「日本への回帰」

*「日本的なもの」について議論高まる

*日中戦争への作家の従軍始まる
(吉川英治、吉屋信子、尾崎士郎、林房雄、
岸田国士、石川達三らが従軍) 

<生>庄司薫、古井由吉、亀井秀雄、
野口武彦、尾辻克彦
(30歳) 1月9日、千葉市の中村古峡療養所
(現・中村古峡記念病院)に入院。

中村古峡は一高から東大英文科に学んだ、
夏目漱石門下の一人。
漱石没後の1917年、文学を放棄して
自ら日本精神医学会を組織し、
月刊の機関紙『変態心理』を創刊した。

2月15日退院。
鎌倉扇ヶ谷に転居。夏、帰郷を決意する。
9月、訳詩集『ランボオ詩集』(野田書房)刊行。
詩集『在りし日の歌』を編集、
清書して小林秀雄に託す
10月、結核性脳膜炎を発病、入院。
10月22日、鎌倉で永眠
1938年
昭和13年
36歳
3月  「文藝春秋」特派員として中国へ

3月27日 杭州で火野葦平に第六回芥川賞を。
後、南京・蘇州へ。

4月28日 中国から帰国。

5月 「杭州」を『文藝春秋』に、
「杭州より南京」を『文藝春秋 現地報告』に、
「支那より還りて」を『東京朝日新聞』に発表。

6月 明治大学教授に昇格
「蘇州」を『文藝春秋』に発表
(→内務省により一部削除を命じられる)、
「雑記(支那から...)」を『文学界』に発表。

8月 ランボオ『地獄の季節』を岩波文庫で刊行。
「ボードレール『悪の華』 」を『知性』。

10月〜12月 岡田春吉と朝鮮・満州・華北
(慶州-新京-吉林-ハルビン-黒河-孫呉
-綏-熱河-北京)を旅行。
1月3日 岡田嘉子、杉本良吉とソ連へ亡命。

1月 石川淳「マルスの歌」(→「文学界」発禁)

2月1日 大内兵衛ら人民戦線グループ第二次検挙。

3月 萩原朔太郎「日本への回帰」、
石川達三「生きてゐる兵隊」(→「中央公論」発禁)

3月13日 ドイツ、オーストリアを併合。

4月1日 国家総動員法公布。

5月19日 日本軍の徐州占領。

7月5日 阪神地方で豪雨(→『細雪』)。

9月29日 ミュンヘン協定。

10月27日 日本軍、武漢三鎮占領。

11月9日 ドイツ全土でユダヤ人迫害(水晶の夜)。
1月、愛雅病没。

4月、小林秀雄によって、
第二詩集『在りし日の歌』(創元社)刊行。
生前、郷里に引き揚げようとしてまとめていた。
中也の名声は、死後いよいよ高まり、
各社から出版された詩集や全集は数十冊以上。
また、多くの詩選に収められ、海外にも紹介。
1942年
昭和17年
3月 「当麻」(『文學会』3月号)
    ▲「美しい「花」がある。
「花」の美しさという様なものはない。」
10月 文化綜合会議「近代の超克」(『文學会』10月号)

1944年
昭和19年
42歳
(42歳) 4月 筑摩書房『ヴァレリイ全集』
第3巻でヴァレリイ「テスト氏」を刊行。
雑誌統合により『文學界』廃刊。

6月 中国から帰国
(中国での半年にわたる活動の詳細については
不明のところがあまりにも多い。)

*骨董の世界に沈潜、
生活は主に創元社・明治大学時には
骨董の売買で支える。

*鎌倉の文学者間で
回覧雑誌『鎌倉文庫』計画、責任者になる。

1945年
昭和20年
1月 「梅原龍三郎」を書く
*「モオツアルト」の執筆や骨董に沈潜する

1946年
44歳
12月 青山二郎らと編集した季刊雑誌『創元』第1輯に、
『モオツァルト』、発表。
「短調のモーツアルト」
1952年
50歳
6月『ゴッホの手紙――書簡による伝記』(新潮社)
12月25日 今日出海とエジプト、ギリシャ、アメリカへ。


1953年
7月4日 帰国。迎えに来た青山二郎と、絶交。


1958年
56歳
4月『近代絵画』(人文書院)、刊行。
5月ベルクソン論「感想」の連載開始(『新潮』)
モネ論「色とは、壊れた光である」
1962年
60歳
2月「もみぢ」(『小説新潮』)
  「考へるといふ事」(『文藝春秋』)
4月「ヒューマニズム」(『文藝春秋』)
  「徳利と盃」(『芸術新潮』)
5月「壺」(『芸術新潮』)
6月「福沢諭吉」(『芸術新潮』)
6月「鐔」(『芸術新潮』)
8月「還暦」(『芸術新潮』)
10月「人形」「樅の木」「天の橋立」「お月見」
(『朝日新聞(PR版)』)
11月「季」(『朝日新聞(PR版)』)

1963年
61歳
6月「感想」が56回で異例の未完連載打ち切り。
6月26日〜10月14日 ソ連作家同盟の招待で、
安岡章太郎らとソビエト旅行。帰路はヨーロッパで遊ぶ。
11月3日 文化功労者の顕彰。
11月「ネヴァ河」(『朝日新聞』)
ソルジェニツイン『イワン・デニーソヴィッチの一日』を読んで、
「「コンミュニストの一日」といふものは在り得ない。
コンミュニストの「一日」は、原則的に、明日のために供へられ、
未来の目的によって食ひ荒されてゐるはずだ、と。」
1965年
1月「本居宣長」を書き始める。


1976年
12月「本居宣長」の連載、完結。理由は健康の異常。


1977年
10月『本居宣長』(新潮社)連載の三分の一に凝縮。


1983年
81歳
1月13日 風邪をこじらせ、鎌倉市の佐藤病院に緊急入院。
3月1日1:40Am 肝不全で、没。

1985年 高見澤潤子(1904年生まれ)
『兄 小林秀雄』(新潮社)
著者は小林秀雄とは2人兄妹で、二つ違いの妹。
漫画家・田川水泡と結婚後、岸田国士、市詩文六、真船豊らに師事して脚本作家に。
1986年 饗庭孝男(1930年生まれ)
『小林秀雄とその時代』
磯田光一による書評(『朝日新聞』1986年6月30日)
  • 震災後の東京のうちに、「故郷を失った文学」の地盤。
  • 戦後に小林が取りくむにいたるベルクソンの問題の芽。
  • 戦後の動向にそむいて『近代絵画』など美術論をへて『本居宣長』にいたった。
「著者が戦後史の肉体をより深くとらえ、
そのなかでの小林の歩みを有機的に関連においてえがくことに成功したら、
本書の説得力はいっそう増した」
1987年 高見澤潤子(1904年生まれ)
『生きること 生かされること』
小林秀雄が東大生時代、中原中也の愛人と同棲生活をしていたのは、有名。
父を早くに亡くしていた一家は経済的に困窮しており、
「病弱の母と私を捨てて女と同棲した」という著者の故人にたいするわだかまりは長年、
解けることがなかった。
1993年 西村貞二
『小林秀雄とともに』
著者は父方の従弟。オスカー・ワイルドの個人完訳の西村孝次の弟の歴史学者。
「ワインを飲みながらカン高い声でベルグゾンから宮本武蔵まで自在に語る。
カメラをなくしたり、そそっかしい忘れものの名人。」
1994年 郡司勝義
『小林秀雄と”荒ぶる魂”』
(『別冊 文藝春秋』春号)
志賀直哉の『暗夜行路』の時任謙作のモデルの一部は小林秀雄だった」
島弘之『小林秀雄』(新潮社)秋山駿による書評(『日本経済新聞』1994年5月1日)
  • 第一部は、小林をよく読んだ、頭のいい男が立っている。
  • が、解説に過ぎぬ。
  • つまらぬ批評的気遣いとみえる細部もある。
  • ドストエフスキー論で小林は、生存の真の根底としての「意識の絶対性」を問題。
  • この男はその問題を、批評するというより、むしろ生きようとしてみた。
  • これ以上もう何処へも往き場所のなくなった人間にことが、お分かりですか?
2001年第五次全集(全14巻、別巻2)8千円する全集第一巻配本(発行部数7千部)は完売。
『小林秀雄 百年のヒント』
(「新潮」4月臨時増刊)
2万部、完売。
前田速夫編集長「完売は異例」。
2002年生誕百年







■小林秀雄を批評する。
●坂口安吾
「歴史の中に文学はない。
彼は骨董の鑑定人だ」


●小林秀雄は対談で、
現実の生活に根差した文学を
主張する坂口安吾に対し
「生活では生活に勝てぬ」と
鋭く批判。
●安岡章太郎
「小林さんが亡くなって10年になるという。
確かなのは
小林さんが生きておられた頃と現在では、
何もかにも変わってしまったことだ。」
(『日本経済新聞』1993年2月24日)
Is war over?大江〜、Oh,Yeah!●大江健三郎
「小林秀雄の全体を受容し乗り越える
新しい人」を求める。
●江藤淳
価値を与えられた天才ばかりを
いじくり回す
●柄谷行人
昭和10年以前の小林を評価。
=『様々なる意匠』は
「マルクス的なイデオロギー批判」。

『無常といふ事』以降の作品には
「他者性が欠けている」。
●海老沢敏(国立音楽大学学園長)
小林秀雄『モオツァルト』について。
「奇しくも彼の没年と時を同じくして製作され、
世界に強烈なショックを与えた映画『アマデウス』」

魔術的な言語表現によって
一回的な高みにおいて実現した関係
(『日本経済新聞』1993年2月25日)
●佐伯彰一(1922年東京生まれ)
『回想(メモワール)』(2001年刊)
冨山の高校時代、
心酔する小林秀雄が講演で
冨山を訪れたと聞き、
宿泊先の旅館に押しかけた。

●高村薫(小説家、『レディ・ジョーカー』など多作)
「昔からどうも西行が苦手だったのは、
巡り巡って結局、
わたくしが小林秀雄を好きでなかったせいか。」
「西行や実朝や平家を語る小林の、
なにがどう肌に合わないのかを
ここで正確な言葉にすることが出来るようなら、

わたくしはいますぐにでも物書きをやめている。」
(『朝日新聞』2001年9月2日)
●秋山駿(1930年生まれ)
時代小説に大きな影響を
与えた。
●隆慶一郎(時代小説作家)
東大生の時、小林と出会い、
小林が役員をしていた創元社に入社。
論争のあげく、小林に殴られ、
階段を落ちる者、おいおい泣く者。
●宮城谷昌光(1945年生まれ、時代小説作家)
『ランボオ』の
「一つの言葉さえ現実の事件である」
という言葉は一生、
自分の中で消えない。
●小林康夫(東京大学
教授)
「「もう小林秀雄は読まない」−
1970年代のはじめの頃だった。
その時までは、
右のポケットに
小林秀雄の『モオツァルト』、
左のポケットに
坂口安吾の『堕落論』と、
両者のあいだでなんとかバランス
●山城むつみ(1961年生まれ)
「全部壊してしまうような破壊者として
小林秀雄が現れてきた」
バフチンとの比較の発言。

バフチンは、文学作品の多声的な構造に
注目した”ポリフォニー理論”などで
欧米のポストモダン思想に大きな影響を
与えた旧ソ連の思想家。
●永原孝道(1964年生まれ、三田文学でデビュー)
小林の前半生を泉鏡花と近い
「幻想作家」としてみる。
処女作『蛸の自殺』から『モオツァルト』までの作品に登場する
水、海、死、夢などの幻影に注目する。









■評論を評論する。



●早川義夫(歌手)
「 朝日新聞の読書欄に、二年間、書評コラムを書いたことがある。

力を入れ過ぎると嘘っぽくなるし、説明や解説だけなら僕が書く必要はない
かといって、説明がないと、なんのことやらわからない。
いずれにしろ、いい経験をさせてもらった。毎回苦しんでも、何とか穴を空けずに書けたのは、やはり、〆切があったからだと思う。 
 そう、歌も、〆切があれば作れるかもしれない。
いまだかつて、僕は人に頼まれて歌を作ったことはなく、たいそうな言い方だが、余程の心の動きがないと、歌 は生まれて来ないのだ。
ためしに、自分で〆切を作ってみても、やはり、本当ではないから、何の効果もない。
別に作れなくても、誰に迷惑がかかるわけでもなし。作れなければ、作れないのが正しいのだな んて、理屈をつけて。」
★クリックすると、♪好きに行けるわっ♪あん♪アン♪歌とロックとフォーク ☆早川義夫、GS、高 田渡、灰野敬二・哀秘謡、ルルーズマーブル、60キューティポップ、高岡早紀 





スーザン・ソンタグ
Susan Sontag
1933.1.16 - 2004.12.28

訃報 川本 恵子 (かわもと・けいこ、ファッション評論家)

2008年6月17日、食道がんで死去、57歳。
喪主は、夫で評論家の川本三郎(さぶろう)。

80年代からライター、評論家として活躍。
著書に、『ファッション主義』『魅惑という名の衣裳』など。
わぁ!恵子さんだ。

柴橋伴夫 パラパラ・・・『北のコンチェルト  ― 美の群像』響文社)、
2007年8月20日、発売!

北海道(在住・出身)の26人の画家たちを人生から絵までを紹介する美術評論です♪
★どらーるの純情♪ ★海を見つめる息子の純情♪ ★エレファントの純情♪
★返信ハガキの純情♪
★最後まで読んでね〜!返信ハガキの純情♪

2007年8月3日に開かれる「出版を祝う会」への欠席のハガキ(がくっ)。
★どらーるの純情♪
2003年3月1日に開かれ た、ギャラリーどらーる『東 誠 展』オープニングパーティにて。
左から、柴橋伴夫(美術評論家)、★just imagine...♪アートだ!あん♪アン♪なべ乙画廊ブルトン美人夫人、★just imagine...♪アートだ!あん♪アン♪Ryoさ んうぇ〜ん!久保AB-ST元宏の気 配(がくっ)。

2005!2008 年←コンサートと、疾走する汚れちまった悲しみよ、沼田町でも?がくっ。古本屋。鑑 賞日;2008年2月10日(日)