
〜〜 モノの変化 = コトの変化 〜〜 text by 久保AB-ST元宏@害毒=解読 (2005年9月29日 木曜日 午前3時24分)
では、”社会的”とは何だろう。それは、”役割り”の別名である。 我われは、かけがいのない個人であると同時に、現実という世界に接するために”役割り”を担う。個人と世界の間には、摩擦(=無理)が発生する。それを調整するために、役割りを導入するのだ。 渡辺の絵が擬古的な趣味を展開しつつも、我われの前に現代を切り取ってさらけ出していることを隠せないのには、”役割り”がゆらいでいる時代である現代を描ききっているからであろう。 もしかしたら、渡辺が風景や人体ポーズよりも、ずばり顔の表情に興味を集中させるのは、役割りのゆらぎと偶然性の頻度の問題なのかもしれない。顔は、表情の坩堝であるのだから。 私たちが、彼の作品を観て「笑顔さえ怖く思える」時、役割りのゆらぎと偶然性の頻度が演出する坩堝に追い込まれているのだ。 ひとりの顔の表情の中に、幼と老、聖と俗、正と悪、笑いと悲しみなどが同居している。そこから浮かび上がってくる大きな印象は、メランコリック、臆病、自尊心、堆積した空虚と絶望。 しかし、渡辺はその表情の現代性がペシミスティックに傾きかける誘惑に対して、子供に頼ることによって見事な逃げ道を用意している。 大人の想像力を超えた子供の表情が持つ複雑性は、子供が子供であるがゆえにこそ、人生の豊かさ、可能性、希望を私たちに感じさせてくれるのだ。 人生の入り口ではあっても、そこは現実の世界であり、そこで準備されている”役割り”という名の形式に犯され、裏切られないために、自らの顔に異端の”役割り”の表情を育てる工夫を始めた生物を、子供と呼ぶのだ。 もちろん、子供を描きさえすればそれが可能なわけではない。そこに、渡辺の子供への踏み込みの深さがある。 その踏み込みの深さを「感性」と呼び、それを記録する手段を「技術」と呼ぶのだ。
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吉田豪介 元小学校教師であった渡辺が、 いま子どもたちに何が足りないのかを 語ろうとしているのだ。 作品には、愛を込めて診察し 治療しようとする医師に似た姿勢が 感じられる。彼らが垣間みせる表情が 語り、訴えようとしている悩みごとをよく 知る作者の優しい感情が、 そこにあろう。 | ![]() |
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A Car Crash In The Blue
■2006年8月4日(金曜日)6:35Pm 仕事を終わらせ、新車マークXで、札幌へ向う。追突のハイウェイ275
■2006年8月5日(土曜日)7:30Am 札幌で目覚め、 シャワーをあび、それからバスに乗って、お出かけ。暑い日になりそー、と、思いながらバス亭に立つ。
あぶらだこ『あぶらだこ』 と、小川美潮『4 to 3』 なんだけど、こりゃ、見つけてビックリ!なんで、即、買。この店ではかつてテラが紹介したオールマン・ブラザーズ・バンド『ブラザーズ・アンド・シスターズ』や、マディ・ウォーターズ『アット・ニューポート』(1960年)など、 ふつーなら、どー考えても定番商品にならない中古CDも売っていて、 まさか、ここの店員、『共犯新聞』読んでいるのかよ?ってな具合です(笑)。
■2006年8月6日(日曜日)7:35Am 札幌で目覚める2日目。今日も、暑くなりそーだ。 愛車マークXで、小樽に向う。
■2006年8月6日(日曜日)4:00Pm 森ヒロコ・スタシス美術館へ。
私に、この美術館の魅力を教えてくれたのは、故・坂本順子画伯である。札幌に住んでいた坂本画伯は、JRを乗り継いで、一人でここへ絵を観に来ていた。 その時、散歩を楽しみながらのリアル・タイムの写メールを私に送ってくれていた。 下記は、その美術館をめぐる私と、札幌の美術家、山里稔氏のEメールのやりとりである。
上記の会話から数日後、当時、私が乗っていた車「マークU」が不慮の事故(がくっ)で配車となり、そこで私が買った新車が、「マークX」であった。
それはまったくの偶然であったが、ジェフリーとの会話のように、「文化横断」の生活を送っている私にとって、「X」は見事な「交差」の象徴となった。 ▲2006年8月6日(日曜日)6:35Pm 新車マークXは、一瞬にして傷モノになってしまった。・・・がくっ。 月形町の国道275号線で、左右を確認しないで駐車場から飛び出してきた車が、偶然にも私のマークXと「交差」したのだ! ガリガリガリ・・・。新車は一瞬にして、助手席側のドアに大きなキズあとが。 おいおい、車同士までが、「交差」しなくてもいいのに。とほほほ。 |
![]() 「あ、そーそー。久保さんっ。明日の朝、早起きしてよぉー。」 「へぇ?」 「あら。まだ、知らなかった?」 「ナンすか?」 「ほほほ。それなら、言ーわない。」と、女学生のよう。がくっ。 「早起きって、山菜採り?まさか(笑)。」 「朝、4時よ、4時。」 「4時ったら、私の今朝の寝た時間ですよ。」 「がくっ。そーじゃナクって、4時に届くのよ、北海道新聞がぁ。」 「ああ。朝刊ね。何?死亡記事?」 「がくっ。全道展よー!発表なのよ、明日の朝刊が!」 おお。北海道を代表する3大公募展の中でも、その中では一番アグレッシブな全道展の入選発表か。 「ほへー。んで、誰か、お知り合いが金メダルでも取るんスか?」 「金メダルじゃなくって、協会賞よ。一番、スゴイ賞。」 「へぇー。んで、誰?」 「うふふ。言ーわないっ。」だから、あなた女学生? 「えー?ヒントは?」っー私は小学生?がくっ。 「そぉーねぇ。普通は選ばないわよ。あの作品を、全道展が良くぞ選んだ!ってゆー感じ?」 「ええ?ナンだろ?去年の道展みたく、キバツな作品をあえて選んだのかな?最近、美術界も悩んでいるよーだし。ゆらぎ、かな?」 「新聞、見たら、すぐにメールで、おめでとう、って伝えてあげてね!」 「えっ?私がメールでやりとりしている人?むむむ。へぇー。誰だろ?桔梗さんじゃぁーナイだろーし(笑)。」 「だから、明日の朝、4時に新聞を見れば分かるわよ。私も今では新聞を楽しみにもしなくなったケド、 全道展に応募し始めたころには、毎年、発表の新聞は朝の4時に待っていて開いたものよぉ〜♪」 「なるほどっ!」 「いつもさぁ、自分の名前が載っているか、どーか、ってね。」 「へぇー。んで、誰?」 「言わない〜♪」
もちろん(?)、小川俊郎さんの名前もあった。 今、私は不用意にも「もちろん」などと書いてしまったが、 1年間の芸術活動が生かされるか、死刑宣告(?)を受けるかの、作家にとっては重要な早朝4時の儀式なのである。 それは大げさ、ではない。 今回、私が最も嬉しかったのは、沼田町の「吉川博幸」の名前を見つけたことだ。たぶん、島津明美さんの協会賞よりも、「嬉しく」て、「驚いた」。 彼は、沼田町の消防に勤めている若き酒乱(?)だ。「若い」んだったが、もう30歳代も中盤を過ぎた。 4月に私が沼田消防署に行った時に、彼から声をかけられた。 「あのー。久保さんっ。ちょっと、ボク、久保さんの意見が聞きたいんですけどー。」 「何よ?」 「全道展、らしさ、って、何んですかねぇ。」 「あはは。オレに聞くなよ。お前、もう4回も応募してんだろ?あはは。」 「でも、連続、落選スからね。もう、今回で5回目。これがダメだったら、もう絵をやめようかとも思ってるんですよ。少なくとも全道展には出せないなぁ。」 「なに言ってんだよ。そんなのカンケーないじゃん。」 「はぁ。だから、何がボクに足りないのかなぁ、って。」 ふと見ると、彼の机の上には今年の全道展の応募要綱が書かれた新聞広告の切り抜きが、こっそり書類からはみだされていた。 なんだか、いじらしかった。 「ふん。まぁ、スゲー単純に言えば、道展と全道展の差は、”狂気”だよな。」 「きょ?きょーき?」 「そっ。気が狂っているか、いないか、の差。もしくは、狂っていることとの距離感の差。」 「ふげー。」 「これ、めっちゃ、単純化して言うんだけど、道展は学校の先生の絵、だよな。全道展は、在野の狂気の回収回路、だろ。」 「ほほー。」 「お前の絵が毎年、毎年、落選するのは、お前が自分の”狂気”をコントロールできていないから、だよ。」 「え?どーゆーコトっスか。」 「つまり、油絵を描くためには、長い時間が必要だっっーコトさ。」 「んんんんん?」 「オレが思うには、お前は酒乱だし、狂気は間違いなくアルんだよ。」 「しゅ、しゅらん〜?」 「絵を描き始める時点では、お前にも、描かれている絵にも”狂気”はアルはずなんだよ。」 「え?じゃ、なんで?」 「でも、長い時間かけて描いている最中に、お前の絵も、お前の狂気も、つまらなく整理されちゃうんだよ。」 「むむむ。」 「幼稚な画家がストロークに頼るのは、筆のストロークには一瞬の”狂気”を演じることができるから、さ。 でも、その初期衝動の”狂気”を持続して1枚の絵にするのには、別の体力がいるのさ。」 「じゃ、ボクは何をすればいいんですか?」 「本を読みながら絵を描きなよ。」 「ほ、本?」 「たとえば、もうお前なら、自分が絵を仕上げるまでの時間が何日、何時間かかるか分かるだろう?」 「はい。」 「んで、そのかかる時間にふさわしい長さの小説を平行して読むのさ。たとえば、大作を描く時には、一緒にドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読む、とかさ。」 「は、はぁ。」 「ドストエフスキーは長い小説でも”狂気”が持続されているから、そのドストエフスキーの”狂気”の時間と、お前の絵を描く時間を同時に進ませるんだよ。」 「音楽を聴きながら絵を描く、っーのはアリだけど、小説を読みながら絵を描く、って……。」 「つまり、ドストエフスキーがお前のテンションのキーパーになってくれるんだよ。」 「ああ。ボクの”狂気”をキープしてくれる、っていうことですか?」 「そう。『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャとイワンの議論を読みながら、自分自身の描き始めの”狂気”を正確に作品にまで登りつめるように、持ってゆくのさ。」 などと、テキトーなアドヴァイス(?)をした私ではあったが(笑)、とにかく、5回目にして合格した吉川くん、おめでとう! 彼も「うなかがめーゆ美術館」渡辺通子オーナーの旦那の、渡辺貞之画伯のお弟子(?)さんだ。 そう、島津明美さんも、小川俊郎さんも、そのとりまき、だ。 今回も、渡辺貞之チルドレン(?)が多く入選している。 その中で、吉川クンは遅れをとっていると、大きなアセリがあったのだろう。でも&まぁ、そんな流れでの入選。めでたい。まずは一緒に、美酒でも♪
この中の「まわりの理解に感謝」。
おそらく、書かれているよーに、絵を描く教師&主婦という複数のワラジへの「理解」なんだろーが、 たぶん、彼女の「作品」を「理解」してくれた全道展のベテラン審査委員たちへの「感謝」も含まれているんじゃぁーないのかな?たぶん。 そう。絵を描くこととは、どこまでも「孤独」な作業なんだろーけれど、作業が「作品」にたどりついた時には、「理解」という道への「メディア」と、なるんだね。 さて、全道展の入選などの全作品は、2006年6月21日(水)〜7月2日(日)まで、札幌市民ギャラリーで展示される。 そして、島津明美さんの個展が、「うなかがめーゆ美術館」で、2006年8月1日(火)〜15日(火)に開かれる。 まさに、凱旋個展? ここの美術館でも数年、毎年、彼女は個展を続けてきたようだけど、年頭に企画に入れた時には、こんな嬉しい午前4時を迎えられるとは思ってはいなかっただろーね。 あわてて、私が『共犯新聞』に書いた、島津明美評を読み返してみた。 何んて書いたんだろ?
嗚呼、『共犯新聞』に午前4時の夜明けは、こない。 がくっ。
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久保AB−ST元宏の感想文 ▼ 「芸術」と「説明」の問題は、常に「大衆」という幻想の回りでグル&グルしている。 この演劇も、そう。 しかし、そーゆー判断の大きく手前で、 これは地方都市の自主的な「市民劇団」の公演である、 ということが感じさせる「感動」も大きい。 よくもまぁ、少女を中心にここまで充実した俳優をそろえた&育てたものだ。 まずは、それに脱帽。 シンプルな舞台装置は、演出が画家の渡辺貞之画伯であるのだから、文句は無い。 あえて言えば、場面転換の暗転の多さ・であろうか。 舞台装置をシンプル化して、装置に大きく互換性を持たせたのであれば、 暗転を削って、そのままグイグイと進めた方が物語りに勢いが付いたと思う。 そして、その物語だが、 チラシに書かれていた「いじめられっこにだって、いいとこいっぱいあるんだ!」で 全てが語られてしまう。少し意地悪く言えば、演劇を観ないでも物語が分かる。 それこそが、「芸術」と「説明」の問題だ。 また、主演の少女の一人が、 先日知り合った全道展の彫刻家の小川俊郎さんの娘であったことにも、超びっくり! また、小川さんの自慢話が始まりそうなので早々に退席しました。がくっ。 |
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それぞれが独立した「組織」であるが、見事に有機的に結びついている。 その魅力的な「接着剤」とは、もちろん&やはり、渡辺貞之画伯だ。 今年一年、渡辺画伯は、大きな個展、美術団体の役員、東州館の館長、主催する劇団の公演、などなど、超人的なスケジュールをこなしたようだ。 それでいて、年頭には40日間のイタリア半島周遊を実行している。イン・プットとアウト・プットが見事に結びつき、複数の大きな「成果」を生んだ一年であったのだろう。 今回、私が回った深川市内の各会場は、なんだか渡辺画伯の「熱」の落下傘作戦のよーでもある。 「中心」の存在は幸福である。同時に、「中心」の存在は、「中心」の不在を目指す運動によってこそ、引き継がれる。 そんなことを考えるのはヘソマガリでもあるし、「中心」がある安心の上での発言なのだろう。 ■それと、まぁ、私の個人的なことになるが、私は、まだ(?)、なんとなく、深川市とゆー街と「和解」できていなかったようなことに、今さらながらに気がついた。 1977年(=大昔だ)、沼田町の中学生であった私にとって、地元を飛び出した最初の土地が深川市であったんだなぁ、そーだよ、そーそー。 なにもかも(←あー、あれも&これも)中途半端なままに投げ出し、札幌へ行き、東京へ行き、また札幌へ戻り、んでもって、結局、沼田町に住んでいる私。 (そう考えれば、私が深川の法人会などに馴染めなかったり、札幌や旭川では落ち着くのに、深川で酒を飲もうという気にならない謎が、よーやく解けた。のかよ?がくっ。) メリー・クリスマス。 (←こう言えば、何でも許される、この時期でもある。笑&がくっ。) |
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