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瀋陽日本語クラブ 21号

2005年11月12日発行

目次

 

瀋陽へ来て(新会員の声)
           私の「食」生活 石井みどり
現実を見据えて 安藤知恵
瀋陽での生活 中野亜紀子
辻岡邦夫中国滞在記 辻岡邦夫
教育現場から
遼寧大学の教育環境 小林豊朗
高校3年生と共に 長澤裕美
傾向と対策傾向と対策 竹林和美
大学の中から見えること 中道恵津
わたしの教室 池本千恵
回いえか? 南本みどり
工作狂 山形貞子
瀋陽に来て感じたこと 中村直子
中国に新幹線? 南本卓郎
私の仕事 鳴海佳恵
学生の未来 斉藤明子
自己紹介 加藤正宏
教育環境とは 渡辺文江
学生のメモから 峰村洋
「日本語サロン」発足 片山皚
漫画図書館 岡沢成俊
瀋陽師範大学外国語学院日本語科 金丸恵美
振り返って 中道秀毅
「先生」 丸山羽衣
襤褸は着てても心は錦でござい 山形達也
アイデア勝負! 森林久枝
ジシンダ〜 宇野浩司
即席漬け 高山敬子
会員寄稿文
自転車ドロボー市場 峰村洋
キッズとのバトル 丸山羽衣
西安の旅 渡辺京子
巴金の死を悼む 多田敬司
マンホールの蓋を尋ねて 加藤正宏
わが師への恩返し 山形達也
寧波からの特別参加 石井康男
瀋陽を去られた方々の近況
瀋陽への思い 沢野美由紀
「日本語クラブ」 本保利征
近況 前田節子

 

 

私の「食」生活

石井 みどり

(東北大学)

瀋陽へ来て2ヶ月が過ぎようとしています。初めての海外生活となる今回、最初に困ったのも、そして楽しんでいるのも食事です。

自炊の準備が整うまでは学食にお世話になることにしましたが、庶民派(?)中華は、実に油っぽくて味付けが濃く、健康には人一倍気を遣っているつもりの私もすぐに体調を崩してしまいました。慣れない環境での生活ということももちろんありますが、食事も大いに関係していたと思います。一方で、市場では新鮮でおいしい果物やめずらしい野菜をおどろくような安さで手に入れられ、2日に1回は市場に行くのが楽しみです。同僚の奥様にいただいたカスピ海ヨーグルトと果物を一緒にいただくのがデザートの定番になっています。

私にとって学食や市場は、「食」以上の意味を持ちます。仕事柄、せっかく中国に住んでいるのに日本語だけでも生活できてしまう毎日の中で、唯一中国語が必要となる場所だからです。学食や市場は、覚えたての中国語を使う貴重な場所でもあり、外国で生活していることを実感する現地の方との交流の場でもあります。

学内にはいくつかの食堂がありますが、私のお気に入りの食堂があります。それほど大きくありませんが、2階では一般のレストランのように注文して作ってもらうこともできます。また、あまり混んでいないので、職員が落ち着いて対応してくれます。外国人の利用者は少ないのか、下手な中国語で職員を困らせるのは私だけなのか、職員はすぐに私のことを覚えてくれました。便利な食堂カードがあり、食べたいものを指差してカードを機械にかざすだけで、注文も支払いもできます。しかし、そこでは私はレジで食べたいものを言って支払いをし、カウンターへレシートを持って注文に行きます。職員とのやり取りが楽しいからです。一見愛想がないようにも見えてしまうほど淡々と仕事をこなす職員も、私がカウンターへ行くとにっこり笑って「最近、来なかったね。」「辛くないのでしょう?」と声をかけてくれ、料理名を正しい発音で言い直してくれます。最近、厨房の職員は衛生面への配慮のためかマスクをつけていますが、やはり優しい目で微笑み、帰りには手を振ってくれます。その様子は、まるで子供に対するようでもありますが、しばらくは子供でいるのもいいかなと思っています。ちなみに、先日、職員同士の会話から、私は韓国人留学生と思われているということがわかりました。

 今では学食の味にもだいぶ慣れ、「請打包」と言って学食のお惣菜を利用しつつ、自炊生活を楽しんでいます。これから市場にはどんな食材が登場するのでしょうか。お料理好きな方、ぜひこちらの食材の調理法を教えてください。

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現実を見据えて

安藤 知恵

(瀋陽薬科大学)

(2002年)

学生が自分で作った俳句と好きな言葉を、自筆で書いた短冊や色紙などが飾られた9番教室は、私のすてきな城であった。授業後、「荷物をお持ちします」と重い鞄を部屋まで運んでくれた学生は、私の騎士であった。

 学生の輝く瞳と真摯な姿勢、信頼と敬愛の精神で創造した授業は、私に教師冥利に尽きる歳月を与えた。

 サーズ問題で学園や社会が揺れ、不便な生活を強いられたけれど。

(2003年)

 アメリカのフロリダから豪華客船で、カリブ海クルーズを楽しんだ。

 帰途、ルイジアナ州のニューオルリンズで、ジャズの音に酔いしれた。

 先日のハリケーンで大打撃を受けた ジャズのメッカ。

 不死鳥の如くよみがえり、あの街、この路にトランペットが鳴り響く日を切に願っている。

(2004年)

オーストラリアのシドニイにある公立高校(6年制)の日本語教師を勤めた。放課後、オペラハウス・植物園・ヴィクトリアデパート・知人訪問など市内を闊歩した。夏休みには、エアーズ・ロック・キャンベラ・メルボルン・アデレード・カンガール島を独り旅し、YHで世界の若者と友好を深めた。

(2005年)

高熱を発した風邪で、孤独と寂しさをいやというほど味わった。

再派遣で来た瀋陽は、大きく変化し、とまどいを覚える。

街並み、建物、空気、雰囲気、学生気質、組織など。

躍進する中国の大うねりに流されず、道を拓いていこう。

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瀋陽での生活

中野 亜紀子

(東北育才外国語学校)

瀋陽に来たのは8月下旬。暑い日差しの中にも秋の風を感じられる心地いい 季節だな、と思ったのもつかの間、2ヶ月あまりの間にずいぶん寒くなってしまいました。もうすぐ本格的に冬がやってくるのかと思うと・・・。ちょっと憂鬱になってしまいます。

大学を卒業した後、日本語教師養成講座に通い、資格だけは取ったものの、経験も何もないまま、瀋陽の高校で働くことになりました。中国での生活も初めてなら、日本語教師の仕事も初めて。生活に慣れることと、授業をこなすことだけで、あっという間に過ぎた2ヶ月です。

生活には少しずつ慣れてきましたが、授業は2ヶ月経っても進歩がなく、このままでは学生が日本語嫌いになるのでは、と焦れば焦るほど、から回りしているような。「学生にとっては、日本人と話すこと自体が勉強になるはず」と、自分に言い聞かせてみたり、「明日はもっといい授業を用意するから今日はこんな授業だけど、許してね。」と心の中で謝ったり。授業が終わってからの学生の笑顔だけが救いです。

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辻岡邦夫中国滞在記

辻岡 邦夫

(東北育才外国語学校

私は1937年出生後まもなく両親に連れられ、渡中し、1946年9歳に引き揚げるまで、瀋陽に住んでいました。父は満州飛行機会社(満飛、マンピ)に勤務していました。現在68歳の私は、奇しくも、瀋陽にある東北外国語学校で教えています。その経緯から書いてみます。

私は大学で数学を専攻し、埼玉大学で数学者として30数年働き、2003年に定年で退職しました。私の専門は数学ですが、語学が好きで中国語、韓国語を独習し、1999年には韓国の釜山大学に10ヶ月滞在し、韓国語で数学を教えたことも あります。定年以後中国で働くのは私の夢でした。

1.大連での生活

定年退職の前年2002年、直接中国東北に行き、大連にある大連理工大学、瀋陽の東北大学と退職以後働けるかどうかの、交渉に来ました。私は出来れば、瀋陽にある東北大学で働きたかったですが、勤務校の埼玉大学と協定のある大連理工大学と話がまとまりました。2003年9月中国での単身生活が始まりました。大連理工大学は中国の重点大学の一つで、日本で言えば東京工業大学くらいのレベルだそうです。この大学の機械学部の日本語強化班というクラスで、日本語で数学を教えるというのが私の仕事でした。1年から日本語の学習をはじため学生の、3年生に対して、理系数学の基礎の線形代数を日本語で教えました。部屋を訪れる何人かの学生に、手料理を供し、親しく交流しました。授業は週1回90分だけで、暇が十分あり、数学の研究をする時間もあり、長春の東北師範大学、ハルピン師範大学、天津の南開大学など一流大学で成果を発表しました。大連の昔の東本願寺が京劇の劇場になっており、 そこに毎週土曜日、観劇にいきました。大連はきれいな町で半年楽しく過ごしました。

2.アモイ集美大学での生活

(その1、理学部学数学科)

半年で大連理工大学は任期満了しました。東北大連から一転し、南中国アモイに移りました。ここには、日本に留学しわたしの下で数学を研究し、現在アモイ大学で教えている弟子がいます。弟子の斡旋によって、福建省立集美大学で、働くことになりました。集美大学は陳嘉庚という華僑が建てたいくつかの専門学校を統合して出来た大学で、アモイ島を前に見ることの出来る美しいところです。アモイは四季春の如しといわれ、温暖な気候に恵まれ1年中熱帯性の花が見られます。ここでは、数学の若手教授に中国語で専門的な数学を教えるというのが 仕事でした。独学の中国語でついに数学を教えるところまで来ました。大連理工大学同様、週1回、90分で仕事でした。わたしがここにいた時期は、大学は、学部再編に向け毎週会議に次ぐ会議で、会議のときは、わたしは休講で、実際には、半分くらいしか講義はありませんでした。アモイは台湾の対岸にあり、食べ物も広東料理同様、南中国風で日本人の口に合いおいしいです。ここの数学科で半年働き、理学部数学科の仕事が終わりました。ここの数学科は大学院増設を申請しており、認可されれば、院生の指導をする予定でしたが、認可がうまくいかず、数学科での仕事がなくなりました。

3.アモイ集美大学での時代

(その2、外国語学部日本語科)

(アモイよ、さようなら)

 数学を教える仕事はなくなりました。しかし、日本語科の唯一の日本人教師が帰国することになり、その後任に推薦されました。数学教育については日本での30数年の教育の経験はありますが、日本語教育は初めてです。しかし、私はこれまでの、外国語歴が少しでも役立つかと思い、日本語科で教えることにしました。数学の教師から一転日本語教師です。1年生と2年生の会話、ヒアリング担当です。1年生は50音を終えたばかりで、ほとんど日本語を知らない学生、2年生は、すでに親しくしている学生たちです。授業は1、2年合わせて週に3回で、一回90分です。私は学生が好きなので、週末は学生を宿舎に呼び、日本料理を出し、交流しました。外国語を学ぶにはその背後の文化の理解が必要と思いいろいろ話しました。最初の3ヶ月は家内も手伝ってくれました。集美の町を歩いていると、道路の向こうから「せんせーい」と大きな声でこちらに渡ってきます。そういう時は、数分間立ち話します。日本の将棋を学生に教え、中国将棋を教える将棋の会を毎週しました。わたしの中国将棋の腕は上がり、彼らにあまり負けなくなりましたが、彼らの腕はあまり上達しませんでした。私にとっても楽しい将棋会でしたが、学生もその後楽しかったとメールをくれました。学生とは家族のような付き合いをしました。わたしの手料理の日本食は、人気がありました。わたしの子供たちも、何回か訪れ、学生と交流しました。学生たちにとって私と私の家族は初めての日本人でした。教科書で学んだのとは違う日本人に接し、学生は感動し、大の日本好きになりました。楽しい1年が終わり、任期満了しました。彼らは私の去ることを残念がり、私も 別れがたかったです。それで福建省の他の大学に職を得れば、彼らに会うこともあるかと、人を介し、就職運動を始めました。紆余曲折があり、結局、旨く行きませんでした。最後にアモイの大手日本語学校から責任者としてきて欲しいというお誘いがあり、ここならば、教え子との交流も続けられると、ほとんど決心していました。

4.東北育才外国語学校(瀋陽) 

ところが、不思議な縁から東北育才 外国語学校という高等学校中学校から、いますぐ、数学、日本語教師として、  それも直ぐ、赴任して欲しいという要請がありました。東北というので血が騒ぎましたが、当初瀋陽にあるとは思っていませんでした。条件も決していいとはいえませんが、ここが瀋陽にあり、しかも名門受験校であることを知り、今までと違う環境なので、働くことを決意しました。集美の学生は私と離れることを、残念がってくれましたが、私の気持ちも理解してくれました。学校とは2年契約しました。瀋陽の町については、わたしはあまり記憶がありません。しかし、ここにいる間に出来るだけ瀋陽、遼寧を楽しみたいと思います。学生は以前の 大学とは違い、学生との交流は限られています。しかし、将来のために、日本で学びたいという学生の力になってやれればと思います。希望に燃えている学生はどこでも気持ちのいいものです。

5.我が母校高千穂小学校跡。

 2002年に東北大学を訪れたとき、母校跡は瀋陽第101中学でした。そのとき、校長はその学校が瀋陽で一番遅れている学校で、そのうち、建て直すといっていました。今回7月に来たときは、その  建物は完成間もなく、学校名も第134中学校と変わっていました。この学校の近くの南寧幼稚園が戦前私の住んでいたアパートのあったところです。101中学から134中学に変わったいきさつとか、この付近について、ご存知のかたがあったら、教えていただけるとうれしいです。

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遼寧大学の教育環境

小林 豊朗

(遼寧大学)

 遼寧大学での生活が2年目に入った。私は昨年の8月の終わりに神奈川県から派遣され、任期は1年間の予定だったのだが、任期がもう1年延びたので図らずも2年目を迎えることになった。本来なら今頃は新しい勤務先の高校で生徒と文化祭の準備でもしていたのだろうが、世の中と中国は全く何が起こるかわからないものである。

さて、遼寧大学の教育環境についてであるが、遼寧大学は昨年から文系の学部がすべて郊外の新校区へ移った。しかし私たち外教の宿舎は老校区にあるので、授業のある日は毎朝通勤バスで30分程かけて通わなければならない。バスの発車時間は、行きが@7:45A9:40B12:40である。その後にもあるようなのだが、乗ったことはない。帰りは@10:20A12:15B15:20C17:10である。帰りのバスは授業時間の終了15分後に出発するので、授業後に学生と話をする余裕もなく慌ただしく乗り込むことになる。時間を見れば分かるが、1本乗り遅れるとおよそ2時間待たねばならないので、授業の終わった教員は争うようにバスに乗って帰るのである。そのため新学期になってから一度も顔を見ていない日本語学科の先生が何人もいるということにこの文章を書きながら気がついた。

(古の万里の長城)

また他の交通手段として236の路線バスの発着所もあるのだが、そこまでかなり歩かなければならないし、舗装されていないので雨が降ったりすると悲惨な状態になる。新キャンパスの周囲は昨年に比べれば新しい店なども少し増えてきたが、いまだにほとんどトウモロコシ畑であり、遮るものがほとんどないので風がとても強い。これからだんだん寒くなるので通勤も楽ではない。学生も街中へ出るには時間がかかるのであまり出かけないようで、外向けの言葉で言えば、勉強をするにはとてもよい環境である。

次に昨年と大きく変わった点は、学生の数が増えているにもかかわらず日本人の外教が私一人になったことである。昨年は石井先生と二人だったのでいろいろ相談しながらやれたのだが、今年は一人なので何かと不便であるし、独善的になりそうなのが怖い。授業時間数も当然のように増え、今年は週に8コマ(1コマは90分なので、日本で言えば週16時間である)担当している。しかも1年生から4年生まで全部教えるので、授業の種類は何と7種類である。日本でもこれほどハードな授業はしたことがないが、外向けの言葉で言えば、生徒(学生)に教えることは私の生き甲斐なのでつらいとか思ったことは一度もない。

授業の内訳は1年生が「視聴説」で2コマ。1年生は50人を2クラスに分けているが、そのうち13人ほどが日本語を初めて学ぶ学生である。私は中国人の先生とペアを組んで、主に発音を教えているのだが、初学者の中にはかなり上手に 日本語の発音ができるようになった者もいる。成長が目に見えるという点では1年生の授業はおもしろい。ただ、「我説的漢語不好」なので、1年生を教えるのはちょっと問題があるような気がする。

その他には2年生の「日語泛読」が1コマ、3年生の「写作」、「日本古典文法」が1コマずつ、4年生の「日本文学作品選読」、「日本文化」、「応用写作」がそれぞれ1コマずつといったところで、日本語学科としては標準的な授業内容であると思うが、3年生の「日本古典文法」については、最初はちょっと戸惑った。私はもともと平安文学専攻なので古典文法を教えるのは大好きなのだが、いくら日本語学科の学生とはいっても中国人に古典文法まで教える必要があるのだろうかと思ったからである。日本でも以前ベトナム人やカンボジア人に古典文法を教えたことがあるが、その時もそう思ったものである。しかし授業を始めてみると学生は一生懸命勉強するし、暗記能力に長けているので「いろは歌」も、「竹取物語」や「徒然草」の冒頭もしっかり暗唱してくる。以前「日本語クラブ」にも書いたが、日本人の精神的な面を理解するためには古典を学ぶことが有効であり、そのためには古典文法は絶対に必要だと思うので、今では日本の高校生に教えるのとほぼ同じ内容の授業をしている。まだ品詞分類や「あり・をり・はべり・いまそがり」とか「き・けり・つ・ぬ・たり・けむ・たし」などの段階だが、いずれ古典文法と並行して代表的な古典をいろいろ読ませたいと考えている。

以上、何だか雑駁な内容になってしまったが、学生が近くにいないというのは本当に寂しいもので、夜なども静かである。しかしまあこの状況は如何ともし難い。外向けの言葉で言えば時間にはかなり余裕があるので読書をしたり中国語を少し勉強したり、内向けの言葉で言えばサウナに行ったりして、まさに己を磨くのに使いたいなどと考えている。

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高校3年生と共に

長澤 裕美

(東北育才外国語学校)

(鴨緑江と北朝鮮)

瀋陽での生活が5年目になりました。一年目から高校3年生と縁が深く、3年続けて高校3年生の担当で、主に、能力試験や、日本留学試験の対策を中心に 授業をしてきました。昨年は高校一年生の担当になり、はじめて初級を教えることができました。今年はまた高校3年生に返り咲きです。東北育才外国語学校の日本語選択の学生は、卒業後日本の大学に留学することになるので、彼らにとって、日本語の勉強というのはとても重要です。他の学校で教えたことがないので、わかりませんが、うちの学生は熱心な方だと思います。ただ、やはりどうしても、毎年クラスに数人は全然やる気がなく、またぜんぜん話せない子がいます。こんな状態で日本に行ってどうするんだろうと、こちらが心配してしまうぐらいです。そんな子でも、日本に行って一年、二年後に学校に遊びにきた時には、なかなか流暢に日本語を話せるようになっていて、環境というのは大きいなあと感じます。

外国語なんて、「やろう!やらなきゃ!」と思えば、それなりに話せるようになるものかもしれません。願わくは、彼らが中国にいる間に、そういう気にさせられるような授業をできればいいのですが・・・。

 現在は聴解力アップを狙って、ディクテーションを取り入れた授業を主にしています。ただ、学生は聴解の 授業はあまり好きではないらしく、私がテープレコーダーをもって教室に入っていくと、「聴解、聴解、聴解・・・」と思わずつぶやく子も・・・。もちろん毎日しているわけではないのですが、彼らにとってはもう、「gou le!(もう十分、もういいよ)」なのかもしれません。試験でいい点数をとれるようにというのが大きな目標ですから、どうしても授業も楽しさから遠く離れてしまいがちです。なるべく学生に嫌がられないように、且つ、点数アップにつながるような授業はできないものか・・・。悩む毎日です。

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傾向と対策 (題名、ちょっと堅すぎかな?)

 竹林 和美

(東北育才学校)

東北育才学校には各学年に一つずつ 日本語クラスがあり、中学一年から高校三年までの約六年間日本語を勉強することになります。そして高校卒業後はほぼ全員が日本の大学に留学します。今私は高校の全学年を担当していますが、日本留学という目標があるためか生徒の意欲はとても高いと感じます。授業の内容ですが、現在は高一、高二は日本語能力検定一級対策を、高三は日本留学試験対策を中心に行っています。

 九月の始めに「授業でどんな力をつけたいか」について一人一人書いてもらったところ、次のような結果になりました。

 

〈授業でどんな力をつけたいか〉

 

1位

2位

3位

高1

聴解

語彙力

会話力

日本の歌

高2

聴解

日本文化の知識

会話力

高3

聴解

作文力

会話力

 

 どの学年も一番つけたい力は聴解力のようです。つまり、聴解が弱いと思っている生徒が一番多いということです。 また、会話力をつけたいというのも共通した傾向です。

 高一に語彙力という答えが多かったのは日本語能力試験を意識した結果だと思います。また日本の歌を歌いたいという生徒が多いことから分かるように、このクラスは歌がとても好きです。毎月ひとつの曲を決めて歌っていますが、いつも大きな声で歌います。

2005年6月末


高3クラスの学生と一緒に。
瀋陽で浴衣を着るのは
これが最初で最後でしょう

 高二は日本文化について知りたいという答えが多くありました。この夏、富山県と遼寧省の交流の一環で富山県を訪れた何人かの生徒や、日本で暮らした経験をもつ生徒などの影響もあるのかもしれません。伝統文化、サブカルチャー、話題のニュースなど各方面から日本について紹介していきたいと思っています。

 高三では作文の力をつけたいという声が多くありました。これは一年後の日本留学試験を意識してのことだと思います。この試験には四百字の記述問題があるので、それを踏まえた記述対策は今後継続して行っていきたいと思っています。

 「傾向と対策」というタイトルにしたものの、傾向を掴んだだけでその対策はまだまだこれからです。いろいろ試行錯誤しながらやっていこうと思います。と、ちょっと堅苦しく書きましたが、私のモットーは私自身が楽しんで授業することです。

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大学の中から見えること 

<中道 恵津

(瀋陽師範大学)

 瀋陽師範大学が北陵公園の近くから今の敷地に移転したのは2000年、たくさんの学院と付属の学校をもち、省立の総合大学として今大きく発展しつつある。

私がこの学校に赴任した2002年には キャンパスの樹木もまだ幼く、構内の いたるところで工事が続いていて、潤いのない広さだけが際立っていた。今、厳しい冬が明けて緑がいっせいに萌え出す季節がやってくると、緑あふれる美しいキャンパスに変身する。宿舎と校舎の往復のつど、思わず足を止め生長した木々や芝生のなかの草花を眺め胸いっぱいに爽やかな空気を吸い込む。

夏になると外事処周辺の池はいつの間にか水蓮に覆われてピンクの花が可憐に頭をもたげ、葉陰の水面には無数の赤い小魚の影が見え隠れする。ここと人工の川でつながっているもう一方の池には、数十羽のアヒルや鴨などが人の投げるパンくずなどに群がり賑やかだ。

木陰のベンチはたいてい恋人たちに占拠されている。何組ものカップルが、近くを通り過ぎる大勢の学生たちの傍らで人目も憚らずに平然と抱き合ったり、彼女をひざの上に抱きかかえたりしている。大学の正門まえのバス停でも、バスを待つ大勢の学生たちと5〜6メートルも離れていない場所で、顔と体を密着させているカップルを時折見かけるが、 かえって他の学生たちの方がいかにも遠慮がちで、二人をわざと見ないようにしている。こんな当代大学生の恋愛模様を目にしながら“人目も憚らず”という見方は日本的な感覚なのかなあと考え込んでしまう。だからたまに一人でひざを抱えてうつむいているのに出会ったりするとかわいそうになってしまう。

 日本語科は1996年設立、はじめは1クラスだったのが、01年入学生から2クラスに増え、04年、05年と続けて倍増の4クラスとなった。同時に一クラスの定員も20人から25人と増やされた。04年のときは前学期には2クラスが3クラスになるという話だったのが、夏休みが終わっていざ新入生が来るという段になって4クラスになっていた。主任も知らない話だったという。急激なクラス増は、ひとえに日本語科の就職率のよさから幹部の判断で決定されたようだ。すでに前学期のうちに編成が終わっていた先生方の授業配当はまたやり直しということになった。ご苦労な話である。来年は日本語科に大学院も設置される。

 省直属の大学であるから、学生は基本的には遼寧省出身者で占められる。姉妹校関係の北海道教育大学へは、毎年3年生のなかから数人交換留学生として1年間留学し、単位の互換性が認められているので、帰ってきてそのまま4年を継続する。日本語科の先生方も順番に大学院に公費留学する。

 ところで語学系は女子に人気があるのは何処も同じだろうが、師範大学の日本語科もまさに女の園だ。教師十数人のうち男性はたったひとり。学生も1クラスに3〜4人の男子学生がいるにはいるが、影は薄い。日本人の教師定員は2人で、外事処の規定で持ち時間は週12時間(45分×12)となっている。急激な学生増に伴って、時間手当て付きで12時間以上を持つことを頼まれもするが、強制はされない。しかし以前はなかった2クラス合併授業が出現した。実質的な労働強化だ。もっともこれは中国人の先生もみな同じ憂き目を見ているのだからしょうがない。主任をはじめ教師陣はどなたも細やかに学生の面倒を見るし、就職の世話もする。課題のノートチェックなども丹念に行い指導熱心だ。きびしい受験戦争を潜り抜けてきた学生たちがこれまで出会った教師たちの多くは、ただ厳しいだけというのが普通のようで、だから師範大の先生方の細やかなやさしさに出会って彼らは一様に感激するのである。これは主任の人柄の影響かもしれないと最近思う。実際主任は外国人である私たちにもよく気を使ってくれるし、彼女の裁量でできることなら可能な限り融通を利かせてくれる。たとえば学期末試験の日程など、一番最初に持ってきてくれるし、都合でどうしても授業を交換してもらいたいときでも気持ちよく応じてくれる。たまたま交換がうまくいかないときは、代わって授業をやってくれさえもする。こういう配慮は本当にうれしい。もっとも主任の配慮は外教だけに及ぶのでなく、配下の先生たちが、たとえば妊娠したり、出産後だったり、双子が生まれたり、あるいは手術後だったり、女性の体は時にいろいろなことが起こるものだが、そういうとき主任は授業を軽減してあげるなど、細やかに配慮するのだ。誰かを軽くすれば誰かが重くなるものだが、そういう場合でも自分を例外とせず、みんなでその重荷を負おうとするのである。こういうことって当たり前のようでいてなかなかできるものではない。だから先生たちの雰囲気はとても明るく、主任の下でよくまとまっているように見える。

日本語科では授業担当者による様々な個別的な企画以外に、発音や朗読やスピーチなど学年に応じた小さなコンクールを頻繁に開催するし、就職面談を目の前にした4年生には先生たちが面接官になって本番さながらの面接の練習も行う。こういうとき、日本語科の先生方は外教も含めて全員が一致協力してことに当たる。これはなかなかいいものだ。私も面接官として予想される設問を準備したり審査員や講評などを受け持つ。学生たちも変化に乏しい学園生活のなかでのこういう行事は高みに挑戦するいい機会となり、マンネリ化した毎日にいい刺激となるようだ。

ただ気になるのは、どんな単位で行う取り組みでも、どんな方法でどのようにするかを集団討論で生み出すでなく、一部の担当責任者が作った案をそのまま他が黙って受け入れていくという、上意下達の方式が徹底しているところだ。会議といえば上司からの伝達事項を聞くだけ、これは前の青島の私立大学でもそうだった。私は社会主義の中国ではもっと自由に討論しあい、みんなの知恵で運営していくとばかり思い込んでいたが、中国で暮らしてみて私の思い込みとはずいぶん違うらしいとわかってきた。

(休み時間に)

例を挙げれば、ひとつの仕事なり行事なりに取り組むとき、責任を任された人がすべてお膳立てして、ほかの人々はその指示通りに動くだけだ。内容に問題があって矛盾を感じても、修正意見を出すことはまれで、何とか形を繕ってしまう。よく言えば個人の責任範囲がはっきりしているともいえる。今の中国社会の特徴かもしれない。だがこの方式では、結果が悪ければ企画責任者だけの問題とされ、また、回を重ねるごとにもっとよいあり方を生み出すことも難しいのではないか。私が長い間仕事をしてきた日本の中学校では、ひとつの行事を進めるためにはもちろん責任者がいて、実施までのこまかな原案を提案するが、それはあくまでもたたき台であって、その仕事を受け持つ部署で練られ、さらに職員の全体会議で練られ、最後はみんなで納得した計画を作り上げたものだ。だから会議には時間がかかった。その代わり本番となれば行事の目ざす狙いを達成すべく教師全員が適切な動きをし、主人公である生徒たちに十分の達成感をもたらして終われるように努力した。さらに終了後には、行事の評価活動も徹底し、次回に向けて反省点を明らかにして終わったものだ。民主主義とは時間がかかるものなのだ。

この3年間、私は1,2年生の会話を受け持ったこともあるが、主として、3,4年生の「高級日語(精読)」、新聞やインターネットからのニュースをもとに授業を組み立てる「???」や「网上??」、「日本文学」、「論文写作」「高級写作」などという授業を受け持っている。どの科目でも心がけていることは、語学としての日本語の知識を深めることだけでなく、日本語を学ぶことにより、日本の社会・文化に対する理解を深め、日本語という言葉を操る民族の心を理解させたいということだ。というとなにやら狭いナショナリズム的な言い方になってしまいそうで困るが、そうではなくて、大げさな言い方をすればせまい民族主義的な視野を超えたグローバルなものの見方、考え方を育てたいということ。要するに相手の中に自分たちと異なる部分を認めると同時に、共通点あるいは人間としての普遍的な部分をも見出してほしいということだ。事実学生たちは日本語の学習が進み、日本の文化や過去・現在の日本社会のありようについて学ぶうちに、中国とか日本という狭いナショナリズム的な考え方に拘るのでなく、国や民族を超えて人間としての喜びや悲しみの感情は共通であり、生活上の悩みも共通であるという当たり前のことが自然にわかってくるように思う。共感から理解が生まれる。そういう意味でも文学作品はいい教材だ。たくさん扱いたいと思う。けれど文学の授業は3年生後半からだから時間的には十分とはいえないのが残念だ。作品理解にはその作品の書かれた時代背景についての歴史的な知識が欠かせないから、 いつも丁寧に扱っている。

ところで、日ごろ学生たちの社会的な常識がとても少ないことに気付く。長い期間受験勉強を強いられる中でそうなってしまったこともあるだろう。そこで最後に中国の学生たちに望みたい。もっと世界の出来事に関心をもって、積極的に知識を吸収してほしい。自分の頭でものを考えられる人になるためにも。  (2005.10.16)

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わたしの教室

池本 千恵

        (和亜久外国語中心)

私は和亜久外国語培訓中心という民間の日本語学校で教えています。日本にたくさんある英会話学校のような感じです。ですから、いろんな学生がやってきます。日本に留学したい人、これから日本へ研修に行く人、中国で日本企業に勤めたい人、趣味で日本語を勉強している人など、目的も様々です。学生はだいたい20代の若者が多く、みんな日本語を勉強したいと思って来ているので、その点では教えやすいですが、学生の能力や学歴や学習環境はバラバラなので、センスのいい人もいれば、そうでもない人もいます。

 クラスは5〜10人位の少人数制で、 この半年の間に、ゼロ初級から中級の 会話クラスまで色々なクラスを担当しました。1つのクラスは大体2ヶ月で終了します。同じクラスで1冊の教科書を1人で続けて毎日教えるので、気楽な反面、責任も重いです。

クリックしてね

(自宅で授業の準備中)

 中国へ来て驚いたのは、学費が教科書1冊当りいくらと決まっていることです。つまり、その教科書をできるだけ短い 時間で教え終わった方が、学校としては得というわけです。もちろん、一般的な授業時間は決まっていますが、日本に いた時より教科書1冊にかける授業時間がずいぶん短いので、いかに効率よく、且、定着するように教えるか、工夫が  必要です。1日にたくさんの項目を教えることは可能ですが、人間そんなにたくさん覚えられるわけもないし、消化不良で日本語の勉強が嫌いになっても困るので、「手を替え、品を替え」繰り返し復習できるように考えています。

 また、大学等のクラスと違って、学生は先生を選べます。ほかの日本語学校は瀋陽にいくらでもありますから、もし、私の授業が気に入らないなら、学生はほかの学校に行ってしまいます。

私のクラスには日本語を習いたいという人がしょっちゅう見学に来ます。それはかなりのプレッシャーです。実際に私のクラスに入るかどうかはいろんな条件がありますから、私だけのせいではないのですが、授業を見学した人が興味を 持ってもらえるような授業を目指して がんばっています。

 中国の学生は、授業といえば「先生の説明をきくもの」、そして「学生はそれを丸暗記する」と思っている人が多いです。ですから、日本人の先生が日本語で授業することに不安を持ってやってくる人もいますが、実際に授業に参加してもらうと、先生と学生が対話をしながら、だんだん日本語が上手になっていくことを分かってくれます。

日本語を勉強したいという人は結構いると思うのですが、語学のクラス(特に初級)は、途中から入るということが難しいので、学習者の希望に沿えずに断らざるをえなかったり、学習者に無理をさせてレベルの合わないクラスに入ってもらったりすることもあります。それは 本当に心苦しいのですが、私も体が1つしかないので、1人1人に合わせてたくさんのクラスを開くわけにもいかないし、悩みの種です。

実際に私は同じ時期に様々なクラスの準備をしなければなりません。「あれっ、急に学生が上手になったぞ?そうか、ここは中級のクラスだった!」なんて、頭が混乱してしまうこともあります。

私ができることは限られていますが、私と一緒に日本語を勉強した人たちが「2ヶ月しか勉強してない割には、日本語が上手だね」と言われるような日本語の運用力を身に付けること、そして、その人たちがそれぞれの目標を実現していくこと、そして、日本や日本人に対して少しでも親しみを持ってくれることを 目標に、これからも日々「備課」に追われながら努力していきたいと思います

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回いえか?

南本 みどり

(瀋陽薬科大学)

 最初に中国人の日本語教師が「あいうえお」を教え、翌週から日本人教師が授業を始めます。私のクラスは中薬(漢方薬)専攻の3年生31人。それプラス後方に陣取っている所属不明の聴講生7人。名前を書くように言ったけど拒否されたので、以後は空気として扱っています。ところが、この空気は小テストをするとちゃっかり自分のノートを学生のに混ぜて提出します。選り出すエネルギーと 採点するエネルギーを天秤に掛けて採点する方を選んだので、目下38人のクラスといったところです。

(学生と運動会の練習
 太鼓の乱れうち)

ペアを組む中国人教師が「新日本語」を教え、私は「標準日本語」を週10時間教えます。4時間で1課という猛スピードなので、会話や作文指導は時間外の サービス授業に頼らざるを得ません。他に、持ち上がりの4年生の授業が週2時間あります。

我が家は共働きなので、夫の受け持つ1・2年生と合わせて4クラスの学生が入れ替わり立ち替わり会話練習に来るので大賑わいです。夕方と夜の二座敷をこなす日はさすがに疲れます。が、好きで選んだ職業なので弱音は吐けません。

さて今年の3年生。2課が終わったところで会話練習に行きたいといいます。「何言ってんのよ、去年の3年生は国慶節の休み明けから来はじめたのよ、〈わたしは田中です〉と〈これは本です〉しか話せなくてどんな会話をしようって言うの、ひと月早いわよ」と言いたかったけれど、中国語の出来ない悲しさで、ノーと言えない日本人はにっこり笑って親指を立ててしまいました。

クラスを5グループに分けて、いよいよ第1班の初会話の日です。てぐすね引いて待っているとピンポーン。期待で「はーい」思わず1オクターブ高い声が出ます。ひと渡り文型どおりの自己紹介が終わると、案の定「ネイガー」「ネイガー」と次が出てきません。と、1人がやおら書き出しました。「先生、回いえか?」きょとんとしている私の様子を見て書き直しました。「先生、回家か?」やっと分かって大爆笑。学生の緊張もいっぺんに解けました。それからは双方辞書を駆使し、名探偵コナンばりの推理力を発揮して単語で会話をします。あっという間の2時間、学生の会話デビューは大成功でした。

5年制の薬科大学で、来年からは日本語で専門教科を勉強しますし、その前に中国の「日語4級試験」があります。4級試験合格が卒業の必須条件だそうなので、全員合格を目指して飴と鞭に砂糖をまぶして日々授業をしています。

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工作狂                        

 山形 貞子

(瀋陽薬科大学)

 学生の一人が日本人の先生は“工作狂”だと言われていますという。意味は仕事中毒、Workaholic ということらしい。Workaholicは日本人には良く知られているが、調べてみるとwork(仕事)とalcoholic(アルコール中毒)との合成語として、1970年代にアメリカの作家オーツによって作られた語だそうで、そんなに古いものではない。

 確かにこの歳になっても、私たちは毎朝7時にはラボに来て、夜は7時過ぎまでいる。土曜日の午後と日曜日は休むことにしているけれど、それでもうっかりするとラボに来ている。働き過ぎと言われればその通りだ。“工作狂”といわれても、悪いことだと思っていないところが問題かも知れない。

 私たちの仕事の場は1つの教授室兼用のオフィスと2つの実験室だ。研究室には3人のドクターコース、4人のマスターコースの学生が配属されている。後期になるとこれに卒業研究の学生が3?4人加わることになる。彼らはドクターコースの学生は博士号を、マスターコースの学生は修士号を、あるいはドクターコース進学を、そして卒業研究で配属された学生は大学卒の資格を一刻もはやく取りたいと懸命に実験をしている。

 私たちの研究室では土曜日の午前中は世界的に認められている専門誌から最新の論文を、二人がそれぞれ選んで報告するセミナー、また水曜日の夜には自分の実験の進捗状況を報告する会を持っている。私たちが中国語を話せないために使われる言葉は英語である。彼らはその当日の1週間くらい前には、インターネットを使って論文を選び読んで報告してくれる。配属された最初こそ読み方が分からずおたおたしているが、回を重ねるごとにその論文についておよその意味をとって堂々と話しまくる。英語についても然り、ちょっと発音がおかしいなと思う学生でもそんなことお構いなしで実に堂々としゃべって上達していく。

 実験報告の際には仕事の背景、実験方法、結果、考察、そして今後の方針を話すようにいってあるので、みんな約1ヶ月分の実験結果をまとめてプリントし、それに基づいて報告している。彼らはきれいなグラフを作って沢山の実験結果を見せてくれる。

 私たちの研究には細胞培養やRNA を細胞から取り出すことが必要で、そのためには隔離された清浄な空間がなければならない。2室ある実験室の1室は間を仕切って培養室とDNA,RNA を扱う特別の部屋にしてある。そうなると他の仕事は全てもう一つの部屋で行うことになる。勿論学生達の居室を含めてである。彼らはそういう環境のなかでもうまく折り合って怠けることなく実験を進めている。

9月10日の教師節の日

大学院生7人と私たち

 一つには私たちが週に1回は一人一人の学生と仕事について検討することにしていることもあるだろう。私は時に結果が出ないときもあるのではないかと思うのだが、彼らは何らかの結果を一つは出さないとメンツがつぶれると考えているのだろうか、何とか結果を出そうと、前日あるいは前前日にはがんばって実験をしてこんな結果がでましたと持ってくる。

 彼らは日本の学生達と同様にあるいはそれ以上にhard workerだ。

 但し、どれだけ面白がって仕事をしているのだろうかという点になると疑問を感じてしまう。良い仕事をしたいというのでなく、なんとか早く論文を書いて学位を取りたいという気持ちがとても強いことをひしひしと感じてしまう。

 毎朝挨拶に来るとその際、細胞の数はどれだけにしたらよいか、反応時間は?濃度は?などなど細かい実験条件を聞きに来る。誰かがやったことをそのままやるならそれは学生実験、細胞数も反応時間も反応濃度も最適条件は自分で決めなくてはならないということが分かっていないのだ。一つ一つ積み重ねていくということをやりたくない。出来れば一気に結果を出したいのだ。

 私はまずそれでやってみればとなるべく良さそうな条件を言うけれど、そして先生は絶対ではないんだと何度も言うけれど、多分これまで先生は絶対だったのだろう。私の示した条件で期待された 結果がでないと非常に不満げだ。条件をいろいろ変えても期待通りでなければ、新しい発見につながるかもしれないのだ。こういうときこそ喜び勇んで挑戦して欲しいのに。小さな実験でも自分の発想で進めなくてはいつまでもただ追いかけるだけの仕事になってしまう。先生の言うとおりのことをしていたら先生を超えることは決してないのだ。

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瀋陽に来て感じたこと

中村 直子

(瀋陽市朝鮮族第一中学)

瀋陽に来る前は湖南省長沙市の中学校で日本語を教えていたことがあります。その学校も今と同じ重点学校だったのですが、やはりところ変わればいろんな違いが見られます。以前の学校は外国語学校の日本語科で1クラス20人でした。今の学校での1クラス50人ということを考えれば、やり易くちょうどいい環境だったと思います。しかし、やんちゃな学生が多かったせいか、毎回まともに授業ができたことは少なかったように思います。生活の面においても周囲に日本人の少ない中で、中国の人との考え方の違いに、どうしていいのか戸惑うことも多かったです。それに懲りて、もう二度と中国には来ないと誓ったはずなのに、またなぜか縁あって今の学校に赴任が決まったときは、少し気が重かった反面、もう一度頑張ってみたいという期待もありました。

(感謝)

そして瀋陽に来て10ヶ月が過ぎました。その間に私の心配もすっかりなくなっていきました。学生はみな熱心で、その一生懸命な姿に初めは私のほうが少し戸惑うこともありました。しかし、今ではそんな学生たちに私も一生懸命応えなければという気持ちでいっぱいです。 

異文化の中で日本語教師という仕事をしていながら、今まで私が見てきた中国だけで中国はこうだとか、中国人はこうだというステレオタイプな考え方があったように思います。中国には来ないと誓って、そのまま本当に来なかったとしたら、私はずっとそのような考え方のままだったでしょう。しかし、瀋陽に来て今までの考え方も一掃されました。南方と北方の環境の違い、民族の違い、学校や学生にもいろいろな特徴や性格があるということを知りました。その違いを感じることができただけでも、再び中国に来ることができて本当によかったと思っています。

残りの任期の中で、またどれだけの中国を知ることが出来るのかとても楽しみです。

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中国に新幹線?                      

南本 卓郎

(瀋陽薬科大学

今年は1年生を主に教えることになった。1年生は9月3日入学後18日まで 2週間の軍事訓練に入り授業が始まったのは19日からである。最初は中国人の日本語教師が50音を中心に教えるし、22・23日と運動会があったので、私が教え始めたのは9月26日からである。丁度1週間教えたところで国慶節の休みになり機先をそがれた気もする。

したがって、まだ学生の様子も十分把握できていない状態なので、主題とは少しはずれるが、国慶節の休みに旅行したり市内を探索したりしたとき、新たに体験したことを紹介することにした。

○ 丹東に旅行したときのことである。ゴールデンウイークは旅行者が多いので、案内してくれる学生に硬座の座席指定が取れなければ硬臥車や軟臥車の切符でも良いと言ったら、その列車には寝台車は無いという。なるほど時刻表を見ても「N117次」列車には硬臥車や軟臥車の料金は載っていない。しかし駅のホームで気がついたが硬臥車が連結され、人が乗っているではないか。お陰で私たちはラッシュアワーなみの硬座で3時間あまりかけて旅行した。

○ 錦州からの帰りの列車は新幹線並みの列車であった。この列車は「錦州南」から「瀋陽北」までノンストップで所要時間は1時間37分(230Km余り・普通早い列車で2時間半〜3時間かかる)であった。下車するときにはプラットホームが列車から段差がなくフラットで楽に下車できた。また、座席の間が広く、久しぶりにゆったり寛ぐことが出来た。もちろんリクライニングシートで洋服掛け・読書用個人ライト(点かなかったが)、1人ずつテーブルもあって、真新しい絨緞が敷き詰められていた。しかも電光掲示板があり、ニュースこそ流れないが、車両の案内(酒?が5号車・医薬が6号車等)、現在の時刻表示、車外気温、天気等が逐次流されていた。トイレは垂れ流し式では無く、湯や水が出て、石鹸・トイレットペーパーが備えてあり、かみそり用の電源もある。もちろん禁煙車であり、実に快適な旅が出来てこれで38元は安い。この列車は「L517・518次」といい山海関から瀋陽北まで運行されている。時刻表には無い。

陸と繋がった筆架山で二人

○ 10月6日「皇寺」へ出かけた際「中共満州省委旧址」の前を通りかかったのでそこを見学した。チケットを購入しようと思って窓口へ行くと、職員が居眠りをしているではないか。ガラスを叩いて起きてもらい、1人10元ずつ払って入り口へ行くと施錠してあり入場できない。しばらくして、係員が20個あまりの鍵がついている大きなキーホルダーを持ってきて鍵を開けてくれた。見学者があまりいないので、平常は施錠しているのだそうだ。なるほど、まだ工事中のところもあり、何も展示してない部屋もあったりして、トイレも使用禁止になっている。独立した展示室は入り口に施錠してあり中に入れない。そこで一緒に行った中国人を通じて事務室へ開錠を依頼すると、先ほどの数十個の鍵のついた大きなキーホルダーを貸してくれ、これで開けて勝手に入れと言う。なんとおおらかな国ではあると改めて感心した次第である。見学して出口を出ると直ちに施錠したのはもちろんであるが、この未完成の施設で見学料10元は高いと思う。

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私の仕事

鳴海 佳恵

(遼寧省基礎教育教研培訓中心)

学校勤務の先生方が毎日の授業準備に大変な思いをしているころ、ぐーたらしている私ですが、皆さんが日本で温泉につかったり、リュックしょって大陸を横断しているころ、一応働いています。  本日はそのお話。

これも仕事?

国際交流基金ジュニア専門家と一口にいっても、派遣される国や地域によって求められる仕事の内容はさまざまです。私の場合遼寧省(たまに全国)の公立小学校、中学校、高校で日本語を教える先生方の研修やサポートが主な仕事で、学校が休みになる夏休み、国慶節、土日、クリスマス、正月などを狙って研修会を開催します。「研修会で日本語教師会に来られませんでした。」といっても、私が勉強に行っているわけではないので怒らないでください。仕事なんです。

公立の初中等教育機関の先生方は、中学校、高校で日本語を学んだだけという人も少なくありません(もちろん大学で専攻だった先生もいますが)。私なんて中学校、高校、大学2年まで英語を学んでいたけれども、今中学校で英語を教えろと言われたら「無理!」と叫ぶこと間違いなしですので、現場の先生方には頭が下がります。その先生方を集めて、授業のヒントや、教え方のポイント、発音、文法、文化紹介などなど、時と場合と相手にあわせて講義をするのですが、毎回毎回、何をどのように教えるか、非常に頭を痛めます。何しろ現場にいないので、先生方にとって何が必要で何が不必要なのか、とても悩むわけです。私に引き出しがたくさんあれば、無理なく解決なんですが、ない知恵をしぼるのは大変です。そういう時には協力隊!中村・岩田両先生にはいつもお世話になっています。中学校・高校で教えていらっしゃる先生方、「同僚の先生方はこういうところが弱いみたい。」「中学生、高校生はこういうところが弱いので、ここを強化するような内容はどう?」といったご提案お待ちしております。よろしくお願いします。

さて、いつも人様のお知恵拝借というわけにもいきませんので、年に数回、1週間程度の巡回指導に行きます。大連なら大連地区、阜新なら阜新近郊の学校を1日2校ペースで授業見学に行くわけですが、どこに行ってもご馳走で大歓迎してもらえます。最終日には胃も肝臓もへとへと、体重の2キロや3キロは余裕で増えます。だから、というわけではなく、あんまり学校の負担になるのも申し訳ないので、ぜひとも歓迎の宴は控えめに、授業見学は多めにお願いしたいものです。

また、入試が近づくと、中考・高考の模擬テストなんかも作ります。去年は同僚から「早めに作り始めないと泣きを見るよ!」とさんざん脅されていたのですが、本当に全く、泣きましたとも!!  正しい答えはいいんです。それ以外の選択肢が思いつかないんです。

例:

問)日本人は家に帰ったら家族に「ただいま」と言い、家族はその人に___。

A 「おかわり」と言います。

B 「おかえり」と言います。

C 「帰りましたか」と言います。

D 何も言いません

「誰がひっかかるかいっ」というツッコミの声が聞こえるようですが、なにせ文法&日本事情は45問×3回分=135問。まともな問題を思いつくのは最初のうちだけで、だんだん頭が朦朧としてくるんです。前の問題とかぶってないか、確実に100%正解と言えるか、だけにこだわった結果、へんちくりんな問題になるんです・・・HSK(漢語水準考試)なんて、一回で百何問もあるようなテストを年に何回も作ってる人々を心から尊敬しました。たまに「うーん、AとBはどっちでもいいわね・・・」なんて問題に目くじら立てて怒ってましたが、これからは止めよう。百何問に1問ぐらい、疲れてたのよね?わかるわ〜。ってなもんです。

ということで、「ヒマ」と「忙しい」のふり幅が非常に大きいのが特徴です。大学で教えていたころは、学生と一緒にご飯食べたり、映画見たり、楽しかったなぁ・・・と、一人ラーメンを食べながら涙したり、研修会前に完徹の目をこすりながら「ああ!授業がなくてよかったっ!!」と神(=同僚?)に感謝したり、情緒のふり幅も心なしか大きくなっている今日この頃です。「ヒマそうでいいわねぇ」なんてイジメないでくださいね。

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学生の未来

斉藤 明子

(遼寧省実験中学)

わたしは実験中学という高校で日本語を教えています。実験中学での日本語 教育は今年で5年目を迎えました。

実験中学では、日本語を勉強している学生達は第2外国語として日本語を勉強しており、授業を希望する学生のみが勉強しています。学年ごと(1クラス)で日本語を教えており、各学年一週間に40分の授業を、約5コマずつ受け持っています。

高校生になってから日本語を始める 学生がほとんどで、「あいうえお」から勉強を始めます。学生が日本語に興味をもったきっかけは、やはり日本のアニメや漫画が大半です。日本へ留学を希望している学生もいますが、国内の大学を目指している学生も日本語を勉強しています。大学受験に必要のない科目ということで、国内の大学進学を目指す学生にとっては、ほかの科目との両立はなかなか難しいようで、最終的に3年間日本語の勉強を続ける学生は指で数えられるほどの人数になってしまうのが現実ですが、昼休みや日曜日の授業でも熱心に勉強しに来てくれる学生がいるので本当に感心してしまいます。

今期から北の三台子のほうに分校ができ、そちらでも日本語を教えることになったので、コマ数も倍に増え、忙しくなったようにも思うのですが、各クラスの学生の人数も少なく、日本語が好きな学生ばかりなので、授業をするというよりも、毎回学生とは「おしゃべりタイム」のように、楽しく授業をさせてもらっています。

また、ここ実験中学には、日本語教師が私一人ということで、学生からの大きな愛を独り占めさせてもらっています。「あいうえお」から勉強した学生が、  習ったばかりの文型を使って、日々の出来事を一生懸命に話してくれると、本当に嬉しくてたまりません。目をキラキラさせて、これからの夢を話してくれるとき、嬉しかったことを話してくれるとき、冗談をいってくれるとき、ここ実験中学に日本語を教えに来てよかったなぁと心から感じることができます。また、そういう学生がいるからここで教え続けていられるのだと思います。このかわいい 学生達が高校を卒業してから、どんな道に進むかはわかりません。大学で日本語を専門に勉強する学生ばかりではないと思いますが、それぞれの未来にいろんな形で日本や日本語と関わりを持ち続けてもらえると嬉しいです。学生の未来に つながるような授業を心がけて、学生との距離をもっと縮めていけたらなと思います。

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自己紹介

加藤 正宏

(瀋陽薬科大学)

兵庫県の高等学校で世界史を担当していた教師です。中国で日本語の教師をするのは3回目です。1回目は1986年4月から88年3月までで、西安の西北工業大学です。2回目は2000年9月から2002年7月にかけてで、長春(偽満州国時代には新京と呼ばれた首都)の吉林大学です。これら2回は兵庫県の現職教師の籍を保持したまま、休職して、中国へやって来ました。

今回(昨年9月からの瀋陽薬科大学)は、定年を迎えて、フリーになった状態でやって来ています。

今年度、教えているのは中薬日本語班の学生31人で、旧版「標準日本語」をテキストとして使っています。1年間で、中級の下までやり終えるのが目標で、1週間に12時間の授業があります。この他に昨年度1年間勉強してきた薬学日本語班の学生30人に、2時間の授業をしています。これらを合算すると、1週間に計14時間になります。

以上のような簡単な紹介にしようと思ったのですが、余りにも素っ気無い感じがしますので、中国生活の中で楽しんでいる事柄を以下に挙げて、自己紹介の 補足としたいと思います。

私の中国での楽しみの一つは中国人との交流です。とりわけ、庶民(老百姓)との交流です。

(路上での老百姓との食事)

街中で出会う人々と、下手な中国語を使ってですが、交流してきました。どの都市でも、街中で出会った庶民(老百姓)の方、何人もと友人となり、家に迎えられて食事をご馳走になったり、小さな食堂で酒や食事を共にしたりしてきました。時には、路上で車座になり、食事をしたことも何回かあります。東北の長春や瀋陽では、日本語を話す庶民との出会いも、時にはあり、交流を深めることがありました。これらの方は、満州国(中国では偽満という)時代に日本語を身につけた高齢の方たちです。当時の経験を、生の話として語ってくださるこれらの方たちとの交流は、歴史の教師であったこともあり、私にとっては宝物のようなものです。この国慶節の黄金週間にも、長春でのこれらの友人4人に会ってきました。78、80、81、87歳と、いずれも高齢な方たちです。若かった頃の話を、思い出し、思い出し、彼らは語ってくれます。

また、土日に開かれる、路上の古書・古玩市に欠かさず出かけては、歴史の証言者(物)としての当時の文書・書物などを探し、集めていたので、古書・古玩市の小店主とも顔なじみとなり、交流を深めることになった店主も少なくなくありません。今回の国慶節の長春旅行でも、3年前の私を忘れていず、久しぶりだと言って、小吃店でご馳走してくれた人物もいます。彼らはまったく日本語が喋れないので、私の下手な中国語での交流になりますが、時には筆談を交えるので、意思疎通は十分できます。このような庶民(老百姓)との交流が私の中国での生活を豊かにしてくれています。

なお、昨年の「日本語クラブ」第1号(第18号)に違った角度から自己紹介を書いていますので、そちらも併せて読んでいただければ幸甚です。(記、2005年10月11日)

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教育環境とは

渡辺 文江

(遼寧大學外国語学院)

「ご自分が担当している教育環境の紹介をして下さい。その苦労、喜び、悩みも含めて」

 こんなテーマを頂いて、「教育環境とは、そもそも何ぞや?」と考えて見た。

 私は、日本で35年間の高校教師、中国で7年間の大学教師をして、今年43年目の老教師である。

日本では、10年ほど前から教室はエアコン完備、最近は完全五日制で一年中、休日がたっぷり、その上、ゆとり教育で内容は少ない、誰でもお金を払えば大学生になれる。子供の頃から、豊かさと、大人と同じ中流生活を謳歌している。苦しいことは何もない、勉強だけが嫌い。学校を卒業して、働くのも適当に。これも、教育環境の結果といえる。ほんの一部の人のことかも知れないが、何かどこか違っている「人間」が社会に出て行っている。

では、中国はどうか。

社会経済発展とグローバル化の影響で、御多分に漏れず、このような若者もいくらかいる様である。

そこで、教育環境とはどうあるべきかと大上段に構えて考えてみても、一つの正解は出て来ない。私なりの、そもそも論を書きたい。

人は、家庭環境、学校環境、社会環境などの影響を受けながら、大人になっていく。又、国の状況、時代の影響から離れて存在する事もあり得ない。将に、社会的動物が人なのである。

そこで、そのそもそも論の 本題と現実に戻る。

私は、中国での7年間の大学教育で1年生から4年生まで、科目も日本語、会話、作文、文学、概況など10科目位担当した。クラス人数は15−30人位で、もちろん語学教育であるし、知識教育である。相手は青年、大人である。私がいつも心懸けていることは、授業の最奥の部分に「愛、やさしさと厳しさ、人の有りよう、社会で生きるとは、生きがい、幸福とはなど...」を語ることである。

さて、中国では、女性に「自信、自立、自尊、自強」の四自を説いている。

この言葉を、ああ、いい標語だなあと思っている。自分自身こそ、教育を自覚する第一の人、つまり、「自分育て」が教育環境の原点である。どんな有名学校、有名大都市、マンモス大学、美しい教育棟の林立の環境にいても、『自分が自分を育てる自覚』が最も大切というわけである。ところが、その自分が最も弱い人である。なかなか、思うように、実践が伴い難いものである。

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(俄日語系全体教師)

そこで、教育環境の第一は、よき友、よき仲間、よき教師であると考える。これらは、上下の差なく、切磋琢磨して、教室という教育環境が和やか、真剣、理解と発見、あくなき好奇心の発揚の場であれば、理想であろう。私は、授業はどうあるべきか、どう教えたらよいか、何かよい方法は、学生の求めるものは? などといつも悩んで考える。答えは少し、あるとき、ないとき、さまざま、私も至らない人間なので、あるがままに、進んでいる事が多い。

学生達も支えあい、助け合い、励ましあって、勉強している。外国語の習得は一朝一夕には行かない。毎日のたゆまぬ努力が必要だ。「こつこつと」「石の上にも三年」などと言いながら、学習している。

私は、支えあう仲間、苦労を共にするクラスメート、そして、慈愛にあふれる熱心な教師がいることが、最大の教育環境と考える。家庭において然り、社会において然り、である。よき両親、家族、よき上司、同僚、つまるところ、人は人によって育てられるので、これらを教育環境の第一と、私は考えている。

第二は学ぶ原動力である。「ハングリー精神を持て」とよくいうが、お腹いっぱいの人は、ハングリーになることは出来ない。教育環境は少々、ハングリー状態である方が、頑張りが出るように思う。高い要求と目標を自分に課せる人は、心のどこかにハングリー精神を持っているはずだ。その原動力は人さまざまだが、これも、人に負うるところが多いと思う。中国では、両親の厳しい労働と貧しさを見て、子供が一生懸命勉強に励む学生は多い。ある一面から見ると、誠によい教育環境だ。学ぶ原動力をどこに求めても、人それぞれだが、ほとんどの場合、人は人に支えられているので、第一と重なるとも言える。又、感心しているのは、大學の全寮制などによる教育管理制度である。それを第三に述べる。

第三は施設、設備などの条件と管理

教室、自習室、図書館、キャンパスの緑陰の下のテーブルと椅子、専門の設備、体育設備などは必修条件であることは勿論だが、私は、中国の全寮制は大変よいと考えている。衣食を共にして友情と互助を育むだけではない。清貧と厳守を要求している。私の学院では、一部屋6−8人の共同生活、テレビ持込禁止、洗濯機なし、起床時間とラジオ体操の義務、消灯時間の厳守、届け出許可なしの授業欠席の禁止、学生の安全管理や義務労働などである。これは中国全国の大學の一般的状況である。この他にもあるようだが、「人は元来怠け者、厳しく切磋琢磨してはじめて輝く」とある先生がおっしゃった。然りである。

そして、私の大学は、一学部でキャンパスを構成しているので、こじんまりとしていることが私には好ましく思える。体育、文化活動は活発で、学生の自治によるラジオ局は、毎日、さまざまな放送や音楽を流している。それも、中国語、英語、   日本語、ロシア語で放送する。それを聞きながら、夕方の散歩をすると足も軽やかになる。

これらは、思想、徳、智、体を柱において、さまざまの要求を課している。  例えば、夏休み、冬休みなどにさせる  社会実践である。その優秀報告が掲示 されるので、読んでみると、社会の現実そのものへ入り込んで奉仕をしている ものが多い。感心する。

古今東西、どんな教育環境のもとでも、幾多の人材が生まれてきた。どんなに先進的な設備、条件がそろっていても、自らの内的力が発揚して初めて、若者の無限の可能性は伸びるというものだ。教育環境と言っても、一言で、その是々非々を語れない。

以上、私の考えは、そもそも論だけに陥っているかも知れないが、教育は百年の大計なので、そんなにゆるいではいけない。教育は人間教育なのである。そのための教育環境は自ずから決まっている。基本は「人垣」であると考える。

教育の喜びを最後に一言。自ら天職と信ずる教師が運命的に出会った学生達を慈しむこと、ここに、苦しみもあるが、喜びも自然に湧き出るのである。(2005.9.22

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学生のメモから 

峰村 洋

(瀋陽薬科大学)

クリックしてね

瀋陽三年目です
何でも教材にしましょうね

「私は○○といいます 去年四年生の時あなたの学生でした、今は会話を練習するためにごへやへきたがお留守しました.今晩6時はお忙しいですか. ご時間があれば私は、6時にここへるつもりです.すみません面倒した. 午後4時」

6時少し前にドアを遠慮がちにノックする音が聞こえた。「それっ」とドアを開ける。実は6時にクラスの学生(3年生)を5人“蕎麦”に招待してあったからだ。だがしかし、ドアの外に見えたのは、どこかで会ったような、また、初めて見るような女子学生の顔だった。「先生、メモをみましたか」という。実は小生、先刻15分ほど前に帰った時、このメモには 全然気が付かずにいたので、伝言入れに入った上記のメモについては、言われて初めて知ったわけ。

さて、このメモを見て、先ず湧き出た感情はというと、思わずむっとしてしまったことだ。読者?は、こんな小生を、「何てけちな料簡なんだろう」とお思いになるに違いない。可愛いはずの女子学生に対して抱く感情としては、穏やかではないからだ。ましてや中国に日本語を教えるためにここに来ているのではないか。人が「ケチな野郎」と思うのも無理もない、小生自身、自分をそう思うのだから。

少し冷静になって、このむっとしてしまった感情の原因なるものを分析してみると、こうだ。

@ドアの外にいた相手が、心待ちしていた学生達と違っていたので、一瞬面食らってしまったこと。

Aメモ「あなたの学生でした」では、「あなたの」が気に喰わない。「あなた」の使い方については、教室での授業の折、学生に対してうるさく注意してきたはずだ。目の前にいる相手の人に対しては「決して使うな」というくらいに。男子学生が使おうものなら、胸倉でも掴んでやりたいような衝動にさえ駆られてしまう。これもちょっと狂気じみているが。

手元にある辞書には、2人称代名詞として、「相手を尊敬して使う言葉」(『角川国語辞典』)、「自分と同等程度の相手を軽い敬意をもって指す言葉」(三省堂『新明解国語辞典』)、「目上や同輩である相手を敬って指す語。現今は敬意の度合いが減じている」(『広辞苑』)などとあるが、どれも現代の日常会話のやりとりでの使用とはぴったりしないからだ。

 次は、「学生でした」が気にくわない。本当に小生の学生だったなら、いくら惚けたセンセーでも、一年前に教えた学生の顔ぐらい覚えていようというもの。思い当たることと言えば、彼女が出席した授業は確か2度程度でしかない。それも学生達の要望で始まった補習希望者の一員として参加し、いつのまにか、すーと来なくなってしまった。無論、無断だ。「学生でした」と言われると、責任を感じてしまうし情も移ろうというものだが、自分の正規の学生ではないし、今回は冷ややかに応対する結果となった。

B学生は、彼女に限らず、自分の都合でものを考える傾向が ある。

昨年彼女は、小生の日本語の補習に出てみた。おもしろくないから、そして自分のためにあまり有益でないから、止めた。(と思われる)

今回は、日系企業にでも就職が決まったからかもしれない。会話の必要性を感じた。だから、先生と会話の練習がしたい。昼間は忙しいので、夜ならいい。先生は、いつ暇か。いつならいいか。

彼女には、決して悪気などは無い、と思う。他にも似たようなケースに接することがままあるからだ。先輩の諸先生方からも同類の話を聞いている。かといって全部が全部そういった学生ばかりではないこと、言うまでもないが。

Cその他、書かれた日本語がいかにもお粗末だ。文章を正しく書く、ということは、彼等学生にとって、なかなか難しい。国際日本語能力一級試験に合格したといっても、1年半という即席でできあがった日本語だけに、その後継続して勉強しなければ語学力も急激に劣ってしまうというもの。専門の薬学の勉強に明け暮れる彼等には、日本語を一級試験が終わった後も、以前同様に続ける余裕がほとんど無かったといえよう。今回は、また目の前の日本企業への就職試験の必要性に迫られてやって来たというわけ。

このメモ書きは、逆に今教えている学生の作文の添削練習に使うことで、自身満足することにした。敬語、依頼の仕方、ていねい体、句読点等の復習教材としても利用できよう。

日本語授業の中で、何を、どのくらい、どうやって教えるか、改めて自問している今日この頃である。

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「日本語サロン」発足

片山 皚

(瀋陽航空工業学院)

さる9月12日、「日本語サロン」が開設された。

  これは日本語専攻の学生たち数人が発起人となり自発的に設けたもので、日本語に興味のある者なら日本語学科に限らず広く学内から誰でも自由に参加できるというものだ。

毎週月曜日の夜7時から9時まで特定の教室で開催されている。その間は日本語以外は一切使用禁止という決まりで、その都度リーダーを決めて、その日の話題を発表して、いくつかのグループに分かれて討議と言うか、談話を開始する。

  途中でも自分たちのグループ或いは 個人で、皆に発表したいことが出来るとリーダーの許可をもらって,前に出て発表する。

この活動が発足した一番の理由は、学生たち自身が自分たちの日本語レベル、特に会話能力に危機感を持ったということである。

他の大学の日本語専攻学生との交流や、休み前の企業等での実習をとおして実感したものである。このように学生自らが自発的に始めた活動は、強制的にやらされる活動とは違って、毎回非常に楽しい雰囲気で活発に議論が行われている。 

まだ始まって間がないが、今後さらに活発な交流の場となるよう私たちも見守っていきたいと思っている。

 そして、珈琲でも飲みながら参加者それぞれがそれぞれの話題について会話を弾ませるサロンに発展してもらいたいものだ。

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漫画図書館

岡沢 成俊

(東北大学)

いわゆる「日本文化」と呼ばれ連想されるものは、茶道・華道や精神文化論のような伝統文化的なものと、漫画・アニメに代表されるポップカルチャーという、全く異なる二つの「文化」に大別される。

(東北大学 日本文化体験室)

 東北大学では今年の9月に日本語科のための和室が完成した。作っている途中に見ていた感じではどんなものになるのか不安だったが、予想していた以上に 立派な和室に仕上がり驚いている。最も 和室はできたものの、使い道はこれから考えようといった状況である。

 一方、私自身の方では、8月に日本に一時帰国した際に日本の漫画を200冊程購入して船便で送り、自室で個人的に 学生に貸し出すということを開始した。学生の娯楽のためという意味合いもあるが、日本語にたくさん触れる機会を作るため、そして何より漫画というものが 日本語の擬音語・擬態語が文字化されている最良の教材であるためである。

 9月初めから貸し出しを始め、貸し出し件数が9月末に百件、10月中旬で二百件突破と非常に順調に利用されている。一度に数冊借りる学生が多いので総貸出し冊数は結構なものである。漫画を読む時間で本来の学習時間が減っている可能性も高いので、学生の日本語学習にとって本当に役立っているかどうかはまだまだ先まで見ないとわからないのであるが。

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瀋陽師範大学外国語学院日本語学科

金丸 恵美

(瀋陽師範大学)

対象:日本語科1年生(ゼロスタート)

日本語科2年生(日本語学習歴1年

科目:会話(1クラス25人) 

作文(1クラス50人)

使用教科書:会話『無師自通日本語口語』 外語教学与研究出版社

作文『日本語作文』 

瀋陽師範大学出版

授業内容:

@会話(1年生、2年生)

どちらも直説法で教えている。そのため1年生は教室用語を覚えてもらう事から始めた。また、会話の授業ではあるが、基本をしっかり身につけてもらうため、50音図の発音練習と表記の確認もしている。2年生はまだ初級の教科書が終わっていないため、まず文法を説明し、本文の会話を読むという流れで教えている。初級の教科書が終わったら、ロールプレイなどをして、自発的な会話を目指そうと思っている。

A作文(2年生)

作文の授業は2年生から始まるので、まず原稿用紙の使い方を指導した。はじめは横書きで慣れてきたら、縦書きで書く練習をしようと思っている。まずテーマについて会話をさせることにより内容を膨らませてから、書かせるようにしている。先月まで毎週作文を提出させていたが、学生の負担が大きいため、今月から隔週に変えた。今では添削をする時、間違いの箇所を訂正しないで、どうして間違いなのか学生に考えさせ、自分で直して清書してもらっている。将来は弁論大会に出せるような作文を書く力を養いたいと思っている。

クラスの様子:

@1年生

軍事訓練が終わったばかりで、まだ2、3回しか顔を合わせていないが、日本の大学生と比べて純粋でかわいい。大学に入ってはじめて触れた日本語は何をとっても新鮮なようで、好奇心旺盛で授業

に取り組む姿勢が熱心だ。

A2年生

日本語資料室で

はじめてネイティブの先生に教わる クラスもあって、今まで1年間積み重ねてきた日本語を実践する場を得て、毎日目を輝かせている。こちらも大変やりがいを感じる。感想:1ヶ月教えてみて、まず感激したのがクラスに男の学生がいることだ。以前は女子校で教えていたので、また雰囲気が違って楽しい。去年なんて時間がないときはすっぴんで出勤していたが、最近は毎朝念入りに化粧をしている自分に気がついた。

授業にも男女のペアがつくれて、それがまた盛り上がって効果的だ。それから 師範大学の学生は自分が日本語を勉強する目的を明確に持っているので、みんな熱心で驚かされた。ある日教室へ行くと、教壇の上に全員分の宿題が集められきれいに並べてあるのを見て、つい涙腺が緩んでしまった。学生が受身的じゃなくてこちらの要望にしっかり応えてくれたとき、ああ教師をやっててよかったと思える瞬間だ。

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『振り返って』

中道 秀毅

(瀋陽師範大学)

1932年1月2日生まれの私の子供時代は戦争そのものの時代であったといえます。「ほしがりません勝つまでは」と「天皇陛下のためならば」の精神が日本人を支配していました。日本は大東亜共栄圏という世界を建設するのだから、役に立つ人間になるのだ、というように男の子の自分は考えていました。小学校の3年までが男女共学でしたから、そのころの思い出はたくさんありますね。男の子でも、女の子でもいろいろな家庭の子がいることを知つたのが戦争中であったことは、私に、広い視野から物を考えることを身につけさせてくれました。中1で敗戦、戦後の飢餓、貧乏、価値の転換のさなかの高校、大学時代。しかし、新憲法に始まる戦後の日本の流れを自覚するには大学へ入るまでの年月を要しました。

(撫順戦犯収容所にて)

貧乏人の子沢山の両親は、子供を愛し、正直な人柄でした。子どもの友達にも公平でした。その女の子は個性の強いわがままな、一人っ子でしたが、遊び仲間でもありました。我の強い子なので皆とよく対立します。私は温和で大勢の仲間がいます。正義感の強い私からみると、その子はわがままが過ぎるように見えました。クラスには、ボス的な奴がいます。子供の世界ほど力関係はっきりしています。友達の家へ遊びに行くと、大きくて立派なお屋敷とかいろいろです。貧富の差があり、自分と違うみんなのそれぞれの世界があることを知りました。Mは元気で痛快でいい奴でした。戦後彼の父親が日本経済団体連合会の専務理事として活躍しているのを新聞紙上で知りました。当時、若い両親には『中道君』が息子の遊び仲間であったと印象にあったでしょうか。一度ですが私の父がM、T、K、Hをつれて上野の帝室博物館へいきましたが、それよりも、不忍池でボートに乗せてくれた父との思い出は消えません。

 戦争が本土空襲や、玉砕へとむかっていることを日本人の誰が予期してたでしょう。4年になると男子組である私の組からは、女の子たちは遠くヘと去りました。Mは4年2組の男女組、我の強い勝気な子は、女組の3組でした。軍国少年としての日々でした。あるとき映画『かくて神風は吹く』という時代劇を見ました。鎌倉時代に蒙古の大船団が博多を襲うという“国難来る”の事件を映画化したものです。執権北条時宗を総大将に武士団はじめ、町人,百姓みなが立ち上がるのです。日蓮宗開祖の日蓮上人の説法も、幼い軍国の子を、愛国の子へと変えていきました。

6年のはじめころ、3年までよく遊び、喧嘩をしても、仲直りを繰り返していたT・ 靖子が転校しました。姿が見えなくなる幾日か前に、昇降口でばったり二人は会いました。突然のことで、どうしょうもなく、隔たりばかりが自分を金縛りにしました。後に風のうわさでT・靖子は満州へ行ったと伝え聞きました。

中学は男子校で殺伐のかぎりでした。国語の時間に、松尾芭蕉の『奥の細道』を読みました。『この道や行くひとなしに秋の暮れ』の芭蕉の心境は、軍国少年だつた私の気持ちを慰めてくれました。学徒出陣のことでは悲しい思い出がありますし、サイパンの玉砕、沖縄戦の無惨な結末、ヒロシマ・ナガサキの原爆の洗礼と続きました。ポツダム宣言を国のリーダーが即刻受諾していたら、と思います。

高校卒業の昭和25年に今井正監督の『また邂う日まで』に出会います。田島三郎を新人俳優岡田英次、小野蛍子を新人の久我美子が演じました。二人は空襲下に知り合います。原作はロマン・ローランの『ピエールとリュイス』で、水木洋子・脚本でベストテン第1位をとった作品です。物語は哀しみきわまりない反戦映画の秀作です。窓ガラスごしのキスシーンは、その世代なら共感をしたといえます。

次号は大学・文学・時代とし、結びに日本語教育・楽しさ・歴史認識について考えてみましょう。

2005年度も、ご指導ください。05年10月8日,在沼津)

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「先生」

丸山 羽衣

(瀋陽大学)

「先生」になって2年目を迎えた。本当であれば1年限りでここでの「先生」は終わりだった。私もそのつもりでいた。けれど、後任の先生の履歴書を見せられ「9割がた採用決定」という言葉を聞いて、悔しくなった。「生徒たちには新しい知識が必要。日本人は沢山いるから。」という理由。私は思わず言ってしまった。「そんなことしているから、生徒たちは授業を掴みきれていないままじゃないですか。1年かけて関係を築いて、ようやく授業にも慣れてきて…。それなのにまた新しい先生が来る。また一からやり直し。私の後任の先生も1年限り。そんなこと繰り返しているから生徒たちの力も伸びないんじゃないですか。」

他の先生方のお陰もあって、生徒たちのお陰もあってこうして無事に2年目を迎えることができた。みんなに感謝しなければならない。

 去年、「先生」と呼ばれることに少し抵抗があった。それは慣れていないことと恥ずかしさからだ。いつの間にやら留学生たちからも「先生」と、呼ばれるようになった。初対面時、私は「丸山です。」と言っているのにすぐにみんな「先生」と呼ぶ。何で?と、不思議だった。しかし、「いや、だって先生じゃないですか。」と言う。確かにそうなんだけど…。

 留学生が入れ替わった今でも私は彼らに「先生」と呼ばれている。逆に生徒からは時々「ウイちゃん」なんて呼ばれたりもする。別にコレに対しては嫌な気はしないし、生徒たちも時と場合を考えて言っているから。

「先生は先生らしい!」生徒の一人Sさんが言った。どこをどう見てそう言ったのかは分からない。それがまた今定着しつつある。それを聞いたみんなは「先生は先生らしいです。」と、言う。「何それ?」その時は笑いつつも少し考えさせられる言葉だ。

私は「先生」としてどうなのだろうと考える。教えられる立場から教える立場へ、生徒から先生へなった私。立場上、ここでは確かに「先生」。だけどよく分からない。資格を与えられた者が「先生」なのだろうか。いや、たとえ資格がなくとも皆それぞれが「先生」ではないのだろうか。皆それぞれ持つ能力や知識が違う。それをお互いが接することによって、相手に、また自分に足りない部分を補い合える。みんなが生徒であり先生でもあるのではないのだろうか。

「先生」と呼ばれることにはまだ少し慣れない。しかし立場上は「先生」。慣れないにしても私は「先生」なのだ。でも、自分の生徒だけでなく、留学生や第二外国語で日本語を学んでいる生徒たちからも「先生、こんにちは。」と声を掛けられることはとても嬉しいことだ。ほとんど面識のない生徒にもそうやって顔と名前を覚えてもらい、そう呼んでもらえることに喜びを隠せない。そう、私は「先生」なのだ。この学校で唯一の日本人教師。「先生」として恥ずかしくないよう精一杯先生業を全うせねば。残されたわずかな時間、彼らに少しでも多くのことを吸収してもらうために。悔いを残さないように…。

 

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