五 つ の 大 地 震 
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西南日本周辺の海底地形図。桃色の領域は南海、東南海地震の想定震源域。海水を取り除いて海の底にある地形をみれば、海底のプレートがゆっくり陸の下に沈み込んでいる様子がわかる。(地形図は平成一二年度南海トラフにおける海溝型巨大地震災害軽減のための地震発生機構のモデル化・観測システムの高度化に関する総合研究。想定震源域は地震調査研究推進本部、地震調査委員会、二〇〇一より)





日本はアジア大陸と太平洋との境に位し、地殻の一大弱線上にあるので、世界一の地震国である。一年間にこの狭い国土内で五、〇〇〇から八、〇〇〇回の地震が記録され、そのうち約二〇lが有感地震である。すなわち一日に二回か三回、人体に感ずる地震が、どこかで起っている割合である。そのうち破壊的な大地震は、数年に一回という程度である。したがってどこかある地方に定住しておれば、破壊的大地震は数十年に一度とか、百数十年に一度しか起こらないから、二度経験するといったようなことは先ずないといってよい。

土佐の大地震は西南日本外側地震帯の活動、すなわち東海、南海、西海諸道方面沖を震源とする大地震によるもので、天武天皇一二年(六八四)の白鳳大地震が、記録に現れた最初のものである。その後昭和二一年(一九四六)の南海大地震まで、著しいいもの十一を挙げることができる。すなわち白鳳以後、天平六年(七三四)、仁和三年(八八七)、正平十六年(一三六一)、明応七年(一四九八)、慶長九年(一六〇五)、宝永四年(一七〇七)、安政元年(一八五四)の一二月二三日と二四日、昭和一九年(一九四四)と昭和二一年(一九四六)のものである。
 以上のうち、特に南海道沖、つまり土佐沖を震源とするものだけを拾うと白鳳、仁和、正平、慶長、宝永、安政(一二月二四日)、昭和(二一年)の七回であって、記録の不正確な白鳳、仁和のものを省き、正平以後のものをとれば、約一四〇年の周期、慶長以後のものをとれば約一一〇年の周期となる。ここに周期というのは振子のような周期とは違った意味で、同一地域に起こる同性質の地震の平均の期間という意味である。土佐の四大地震といえば白鳳、慶長、宝永および安政のものを指すが、筆者はこれに昭和のものを加えて「土佐の五大地震」とし、つぎにその概要を述べる。


 白 鳳 地 震 


           (天武天皇一二年、六八四年一一月二九日)


 日本書紀に「土佐国田苑五〇万余頃没為海」とあり、この五〇万頃というのは、今日のおよそ一一五七町歩(約一二平方`)にあたり、その位置についてはいろいろのいい伝えがある。これについて江原博士は高岡郡高岡町西南方をあげているが、今村博士はこの地域は高知市東部ではあるまいかと述べ、また鷺坂氏はその地域は高知市東方の低地であることは疑いがないと述べている。昭和の地震でも高知市東部は約一五平方`にわたり、一b程度の陥没(この面積だけが沈下したものでなく、沈下によって浸水した区域のことである)を見た。宝永、安政の場合も同様である。黒田郡の行方は決定的なものではないが、高知市東部の可能性が大きい。この地震で土佐湾が陥没したというのは嘘である。このときの地震津波も宝永、安政、昭和のものと同一の型のものであった。また日本書紀には道後温泉の枯れたことも述べられている。


   

 慶 長 地 震 



                  (一六〇五年二月三日)



白鳳地震と同様の地盤沈下があったらしい。津波についても同様である。当時は関ガ原の戦後で山内侯が藩主に封ぜられた直後のことで、記録が非常に少ない。今村博士はこの地震が南海道沖と、東海道沖とに震源を持った二元的のものであることを述べているが、これは安政元年のものが一二月二三日の東海道沖、二四日の南海道沖と、一日の時間的間隔があるが、二元的と考えられ、昭和地震が一九年一二月七日、東海道沖が二一年一二月二一日で南海道沖とは二年の時間的間隔があるが、やはり二元的と考えることができ、東海道沖・南海道沖外側地震帯活動の、一つの特異性として興味ある問題である。


  

 宝 永 地 震 

 

                  (一七〇七年一〇月二八日)


 この地震は日本有史以来最大規模のものとされている。倒壊家屋二万九〇〇〇戸、死者四、九〇〇人のうち、土佐における倒壊家屋五、六〇八戸、死者一、八四四人に達した。津波は東は伊豆から西は九州南部に達し、土佐種崎の波高は二〇b余、波は土佐一宮にまで打ち寄せ、土佐だけの流家一万一、一六七戸といわれる。
 地盤の水準変化として高知市以東で隆起一カ所、高知市以西で陥没二一カ所となっているが、隆起は室戸半島の南東上りの著しい傾動で、半島の南端に近い室津で一五〇a、室戸岬で二〇〇から二五〇aの隆起を見た。高知市東部隣接地域では最大二bにおよぶ沈下のために、およそ二〇平方`にわたって浸水し、その状況は昭和の場合とよく似ている。西部二一カ所の沈下については、高知市以西随所に小規模の沈下が観察された。ただし物部川河口に近い芳原は、寺石正路氏の「土佐古今の地震」によれば「浜並松の外に古田出る畔の形顕然たり」として、同地を隆起としているが、これは津波のために表土が洗われて、埋っていた古田が現われたもので、真の地盤の隆起ではないと思われる。道後温泉の枯渇は宝永、安政の時も同様で、昭和の場合もやはり枯渇した。


 

 安 政 地 震 



                (一八五四年一二月二四日)


 一二月二三日の東海道沖の地震は、土佐においてはおそらく中震程度であったと思うが、翌二四日のものは寺石氏によれば「一一月五日(注・日本暦)午後四時過絶大地震を感ず。当日天気快晴にして温照小春の如く、高知城下は南川原に相撲興行ありて貴賎見物これに群集し居り、一時大混雑を極めしといふ」とあり、その混乱の様子が眼に見えるようである。土佐だけで死者三七二人、住家全壊二、九三九戸、流失三、一八二戸、焼失二、四六〇戸、非住家全壊一、八八七戸、流失五八八戸、焼失八〇五戸となっている。地盤の水準変化として室戸半島は南ないし南東上りの著しい傾動で、室津では一二〇a隆起し、半島の首にあたる甲浦では九〇a沈下した。高知市東部地域では、宝永のときと同様の沈下があったが、沈下度はやや小さかった。西部では高岡部のリアス式海岸や上ノ加江、幡多方面で最大百a程度の沈下があったようである。道後温泉の枯渇についてはすでに述べた。


  

 昭 和 地 震 



                (一九四六年一二月二一日)


 これは土佐でわれわれの直接経験したただ一つの大地震であった。わが国の航空機生産に壊滅的打撃を与え、終戦を早めたといわれる昭和一九年の東海道沖大地震後、いよいよ沈下の速度を早めた室戸岬の挙動から予想された来るべきものが、ついに二年後にやって来たのであった。
そして土佐だけでも全壊四、八三四戸、半壊九、三四一戸、流失五六六戸、死者六七九人の大被害を出したのである。四国、紀州、九州などの全被害の過半を出したのである。ただ時刻が払暁であったため、大地震につきものの火災による被害が殆どなかったのは、不幸中の幸いであった。

 参 考 : 南 海 地 震 写 真 館 



被害率が、高知市、中村市などが特に大であったのは、地質の関係である。堅い岩盤のところでは地震波の周期は極めて小さく、また振幅も小さいが、沖積平野のように、岩盤の上に泥土や砂礫の堆積したところは、波の周期が造営物の固有振動周期(日本建築で〇・六秒、土蔵〇・三秒)と共振れを起こし、振幅も岩盤のところの一〇倍以上にもなる。しかも堆積物が細かいほどまた沖積土が深いほどその影響が大きい。主震源位置から中村市の四万十川沖積平野が二〇`で最も遠く高知市の鏡川沖積平野が一五〇`でこれにつぎ、物部川沖積平野が最も近いにもかかわらず被害率は全く反対で、特に中村市が最大であったのは、中村市の沖積土の深さが最も大で、堆積物が細かい泥土であり、その他、度々の洪水の影響もある。高知市内でも沖積土の深くて細かい下知や潮江方面が被害が大であった。また沖積地は堆積物の不均衡な揺り沈みで被害を大きくする。高知市の潮江方面の電車軌道や、港警察署その他にこの被害が見られた。
 過去の土佐の大地震後に観察されたと同じような地盤の隆起と沈降が、昭和地震でもはっきり現れたのである。しかもその変動の範囲が単に室戸とか、高知市とか、土佐湾に面する沿岸だけでなく、四国全体の沿岸や中国地方の沿岸にも及び、また四国の内陸にも及んだのである。おそらく宝永や安政その他の地震でも同様であったと思うが、科学的な観測がなされなかったので判らなかったものであろう。




 上図はその状況を示したものであるが、その隆起と沈降の分布が出鱈目なものではないことをうかがわせる。室戸岬一二〇aの隆起量が、北に行くにつれて少なくなる。東海岸では野根でゼロとなり、それより北で沈下となる。土佐湾岸では安田から安芸付近でゼロとなり、それより西で沈下となる。足摺岬でも同様で、隆起量一〇〇aが北に行くほど少なくなり、下田付近でゼロとなり、以遠で沈下となる。足摺岬から西でも隆起量が次第に減り、月灘付近でゼロとなり、以遠では沈下となる。すなわち野根―安田―下田―月灘を結ぶ一線を境にして、一つの例外もなく、その南は隆起、北は沈下なのである。これは地震の原因と密接な関係があることがわかった。地震後一週間たっても二週間たっても、一向に引きそうもない高知市東部の浸水をめぐって、県市関係当局の高潮説と筆者の地盤沈下説とが対立したのも実は、この広範囲の地盤変動が生んだ話題の一コマに過ぎなかったのである。
 以上で土佐沖に震央を持つ地震について、その概要を述べたが、地震に伴なった地盤変動や、道後温泉の枯渇などが非常によく似ているだけでなく、昭和地震後の調査で、筆者の命名した南海スラスト、すなわち潮岬の沖から足摺岬の沖へかけて続く大きな北傾斜の断層線の上に東から順に宝永、昭和、仁和、正平、慶長、安政、白鳳の各地震の主震央位置が並んでいることがわかった。ということは言い換えれば、これらの地震はすべて全く同じ性質のものであって時代こそ違え、同じ性質の南海大地震が、ある期間をおいて繰り返えされているということである。





          最 近 の 研 究 成 果
 「 地 震 調 査 研 究 推 進 本 部 ・ 地 震 調 査 委 員 会 関 係 報 告 書



 このような大地震がどうして起こるかということは、なかなか難しい問題であるが、直接の原因は四国や土佐沖二骨の地盤が、日本海側と太平洋側と地質作用の影響で押し縮められ、ある限度へくると先にのべた南海スラストの衝上面で滑り動きが起こり、断層の南側が北側を衝き上げて、その時地震が起こるわけだ。その最も激しかった部分が主震央となる。地震が起こればそれまで押し縮められていた不安定な状態が解消するが、この地域の圧縮が続くので再び不安定な状態になることが考えられ、従って同じ性質の地震が繰り返される。地震の時、衝き上げられた四国は既述の野根―月灘線を境にして、南は南上りに地盤が上り、北は中国地方の南岸までずっと沈下したという地盤変動をしたわけで、高知から須崎までのあたりが最も沈下量が大きく、どの南海地震でも高知市東部や須崎方面の浸水が、容易に引かなかったのもそのためである。なお江原博士は、安政の南海地震は豊後水道沖の海底火山の噴火としているが、これは付随現象であって、主因ではないと考える。
 地盤運動ということは今でこそ常識のようになっているが、当時はなかなかそうはいかなかった。やはり動かざること大地の如し
という考えが根強かったためであろう。実は大地は水に浮いている木片のように、極めて不安定なものである。地震直後二、三カ月で室戸その他は隆起した量の三分の一から四分の一を回復して下がり、沈下した高知市その他も全般的にその程度上ったが、その後は極めて少しずつそのような回復を続けている。そしておそらく次の南海大地震が約二、三年のうちに迫ると、その回復の仕方が早くなり、室戸、足摺方面は沈みが激しく、高知、須崎方面その他四国全般の上り方が激しくなり、次の南海地震で再び過去の南海地震の時と同じ動き方をするわけである。つまり室戸方面は隆起して船の出入りが困難となり、高知などはまた沈下して浸水することだろう。それでいまから百年の大計を立て、その時になってもあわてぬように、準備をしておくことが必要と思う。
 また地盤の動き方をずっと観察してゆけば、つぎの南海地震の時期も予想できると思うので、いまからその準備にかかり、筆者の大学でもその目的にかなうように、朝倉の鵜来巣山の岩盤上に三台の地震計を備え、昭和三二年六月一日から観測を開始したし、浦戸湾の孕の岩盤に、験潮儀を設置して、昭和三三年一二月一日から観測をはじめた。そしておもむろに土佐の地盤の動きを監視して、次の地震を予知し、その被害をできるだけ少なくしようというのである。

(「四国山脈」より・昭和三十四年、高知大学教授・理学博士 沢村 武雄)