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病 牀 六 尺 ( 全 )
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著 者 略 歴



 明治三十五年五月五日から子規が亡くなる前々日の九月十七日まで新聞『日本』に百二十七回に亘って連載された。全文を以下の三頁に分けた。



1 一 〜 三十七 2 三十八 〜 七十四 3 七十五 〜 百二十七


○病牀六尺、これがわが世界である。しかもこの六尺の病牀が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚しい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいいたい事はいいたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、それさえ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさわる事、たまには何となく嬉しくて為に病苦を忘るる様な事が無いでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寝て居た病人の感じは先ずこんなものですと前置きして

鶏 頭 図  子 規 画



○土佐の西の端に柏島という小さな島があって二百戸の漁村に水産補習学校が一つある。教室が十二坪、事務所とも校長の寝室とも兼帯で三畳敷、実習所が五六坪、経費が四百二十円、備品費が二十二円、消耗品費が十七円、生徒が六十五人、校長の月給が二十円、しかも四年間昇給なしの二十円じゃそうな。そのほかには実習から得る利益があって五銭の原料で二十銭の缶詰が出来る。生徒が網を結ぶと八十銭位の貸銀を得る。それらは皆郵便貯金にして置いて修学旅行でなけりゃ引出させないという事である。この小規模の学校がその道の人にはこの頃有名になったそうじゃが、世の中の人は勿論知りはすまい。余はこの話を聞いて涙が出る程嬉しかった。我々に大きな国家の料理が出来んとならば、この水産学校へ這入って鰹を切ったり、烏賊を乾したり網を結んだりしてかような校長の下に教育せられたら楽しい事であろう。(五月五日) 

      

〇余は性来臆病なので鉄砲を持つことなどは大嫌いであった。もっとも高等中学に居る時分に演習に往ってモーゼル銃の空撃ちをやったことがあるが、その外には室内射的ということさえ一度もやったことがない、人が鉄砲を持って居るのを見てさえ、何だか剣呑で不愉快な感じがする位であるから楽しみに銃猟に出かけるなどということはいくらすすめられても思いつかぬことであった。昨年であったか岩崎某がその友人である大学生の某を誤って撃殺したということを聞いた時に、縁も由縁もない人であるけれど余は不愉快で堪らなかった。然るにこの事件は撃たれたる某の父の正しき請求によりて、岩崎一家は以来銃猟をせぬという家憲を作りて目出たく納まったのでそれは愉快に局を結んだが、したがって一般の銃猟ということに対しては益々不安を感じて来た。しかるに近来頭のわるくなると共に、理窟臭いものは一切読めぬことになって、遂には新聞などに出て居る銃猟談をよむほど面白く心ゆくことはなかった。ある坊さんがいうには、銃猟ほど残酷なものはない、鳥が面白く歌うて居るのを出しぬきに後から撃つというのは丁度人間が発句を作って楽しんで居るのを、後ろから撃殺すようなものである、こんな残酷なことはないというたことがある。それはもっともな話で、鳥の方から考える時には誠に残酷に違いないが、併し普通の俗人が銃猟をして居る時の心持は誠に無邪気で愛すべき所があるので、その銃猟談などを聞いても政治談や経済談を聞くのと違って、愉快な感じを起す事になるのであろう。

○そのうえに銃猟は山野を場所として居るのでそれがために銃猟談に多少の趣を添えることが多い。殊に玄人になると雀や頬白を撃って徒に猟の多いことを誇るようなことはせぬようになり、おのずからその間に道の存する所の見えるのも喜ぶべき一個条である。然るに惜しいことには無風流な人が多いので、その話をきくと殺風景な点が多いのは遺憾なことである、銃猟談は前いうように山野に徘徊するのであるから、鳥を撃つということよりも、それに付属したる件に面白味があるのにきまって居るが、その趣を発揮する人が甚だ少ない。近頃親友という雑誌で飯嶋博士がドイツで銃猟した事の話が出て居るが、これは余程こまかく書いてあるので、外のよりは際立って面白いことが多い。例せば井上公使の猟区に出掛けた時の有様を説いて、各々が手製の日本料理をこしらえて、正宗の瓶を傾け、しかもそこに雇いつけの猟師〈ドイツ人〉に日本語を教えてあるので、 

それから部屋の中でからに、飯を食う時などは、手をポンポンと叩く、へイと返事をするのだと教えて置く、所が猟師の野郎ヒイというて奇妙な声を出して返事をする、どうも抱腹絶倒実に面白い生活です

などと書いてあるところは実に面白く出来て居る。総てこういう風に銃猟談はして貰いたいものである。否もう少しこまかく叙したならば更に面白いに違いない、銃猟もここに至って残酷な感じを脱してしまうことが出来る。 (五月六日)


           三

〇東京の牡丹は多く上方から苗が来るので、寒牡丹だけは東京から上方へ輸出するのじゃそうな。この外に義太夫というやつも上方から東京へ来るのが普通になって居る。そうして東京の方を本として居るのは、常盤津、清元の類いである。牡丹は花の中でも最も派手で最も美しいものであるのと同じように、義太夫はこれらの音曲のうちで最も派手で最も重々しいものである。して見ると美術上の重々しい派手な方の趣味は上方の方に発達して、淡泊な方の趣味は東京に発達して居るのであろうか、俳句でいうて見ても昔から京都の方が美しい重々しい方に傾いて、江戸の方は一ひねりひねくったようなのが多い。蕪村の句には牡丹の趣がある。蘭更の句は力は足らんけれども矢張牡丹のような所がある。梅室なども俗調ではあるが、松葉牡丹くらいの趣味が存して居る。江戸の方は其角嵐雪の句でも白雄一派の句でもたといいくらかの美しい所はあるにしても、多少の滋味を加えて居る所はどうしても寒牡丹にでも比較せねばなるまい。 (五月七日)    


四 

西洋の古画の写真を見て居たらば、二百年前位にオランダ人の描いた風景画がある。これ等は恐らくはこの時代に在っては珍しい材料であったのであろう。日本では人物画こそ珍しけれ、風景画は極めて普通であるが、併しそれも上古から風景画があったわけではない。互勢金岡時代はいうまでもなく、それより後土佐画の起った頃までも人間とか仏とかいうものを主として居ったのであるが、支那から禅僧などが来て仏教上に互に交通が始まってから、支那の山水画なるものが輸入されて、それから日本にも山水画が流行したのである。 

日本では山水画という名が示して居る如く、多くは山や水の大きな景色が描いてある。けれども西洋の方はそんなに馬鹿に広い景色を描かぬから、大木を主として書いた風景画が多い。それだから水を描いても川の一部分とか海の一部分とかを写すくらいな事で、山水画という名をあてはめることは出来ぬ。 

西洋の風景画を見るのに、昔のは木を描けば大木の厳めしいところが極めて綿密に写されて居る。それが近頃の風景画になると、木を描いても必ずしも大木の厳めしいところを描かないで、普通の木の若々しく柔かな趣味を軽快に写したのが多いように見える。堅い趣味から柔かい趣味に移り厳格な趣味から軽快な趣味に移って行くのは今日の世界の大勢であって、必ずしも画の上ばかりで無く、又必ずしも西洋ばかりに限った事でも無いようである。 

嘗て文学の美を論ずる時に、叙事、叙情、叙景の三種に別って論じた事があった。それを或人は攻撃して、西洋には叙事、叙情という事はあるが叙景という事は無いというたので、余は西洋の真似をしたのではないというてその時に笑うた事であった。西洋には昔から風景画も風景詩も少ないので学者が審美的の議論をしても風景の上には一切説き及ぼさないのであるそうな。これは西洋人の見聞の狭いのに基いて居るのであるから先ず彼等の落度といはねばならぬ。 (五月八日)       


〇明治卅五年五月八日雨記事。 

昨夜少しく睡眠を得て昨朝来の煩悶やや度を減ず、牛乳二杯を飲む。 

九時麻痺剤を服す。 

天岸医学士長州へ赴任のため暇乞に来る。ついでに余の脈を見る。

碧梧桐、茂枝子早朝より看護のために来る。 

鼠骨もまた来る。学士去る。 

きのう朝倉屋より取り寄せ置きし画本を碧梧桐等と共に見る。月樵の不形画薮を得たるは嬉し。其外鴬邨画譜、景文花鳥画譜公長略画など選り出し置く。 

午飯は粥に刺身など例の如し。

包帯取替をなす。疼痛なし。

ドンコ釣の話。ドンコ釣りはシノべ竹に短き糸をつけみみずを餌にして、ドンコの鼻先につきつけること。ドンコもし食いつきし時は勢よく竿を上ぐること。若し釣り落してもドンコに限りて再度釣れることなど。ドンコは川に住む小魚にて、東京にては何とかハゼという。

郷里松山の南の郊外には池が多きという話。池の名は丸池、角池、庖刀池、トーハゼ(唐櫨)池、鏡池、頭八婆々の池、ホイト池、薬師の池、浦屋の池など。 

フランネルの切れの見本を見ての話。縞柄は大きくはっきりしたるがよいということ。フランネルの時代を過ぎて、セルの時代となりしことなど。 

茂枝子ちょと内に帰りしがややありて来り、手飼のカナリヤの昨日も卵産み今朝も卵産みしに今俄に様子悪く巣の外に出て身動きもせず如何にすべきとて泣き惑う。そは糞づまりなるべしというもあれば尻に卵のつまりたるならんなど云うもあり。余は戯れに祈祷の句をものす。  

菜種の実はこべらの実も食はずなりぬ 

親鳥も頼め子安の観世音  

竹の子も鳥の子も只やすやすと  

糞づまりならば卯の花下しませ 

晩飯は午飯とほぼ同様。 

体温三十六度五分。 

点燈後碧梧桐謡曲一番殺生石を謡い了る。余が頭やや悪し。 

鼠骨帰る。 

主客五人打ちよりて家計上のうちあけ話しあり、泣く、怒る、なだめる。此時窓外雨やみて風になりたるとおぼし。 

十一時半又麻痺剤を服す。 

碧梧桐夫婦帰る。時に十二時を過る事十五分。 

余この頃精神激昂苦悶やまず。睡覚めたる時殊に甚だし。寝起を恐るるより従って睡眠を恐れ従って夜間の長きを恐る。碧梧桐等の帰ること遅きは余のために夜を短くしてくれるなり。 (五月十日)       


〇今日は頭工合やや善し。虚子と共に枕許に在る画帖をそれこれとなく引き出して見る。所感二つ三つ。 

余は幼き時より画を好みしかど、人物画よりも寧ろ花鳥を好み、複雑なる画よりも寧ろ簡単なる画を好めり。今に至って尚其傾向を変ぜず、其故に画帖を見てもお姫様一人画きたるよりは椿一輪画きたるかた興深く、張飛の蛇矛を携えたらんよりは柳に鶯のとまりたらんかた快く感ぜらる。 

画に彩色あるは彩色無きより勝れり。墨書ども多き画帖の中に彩色のはっきりしたる画を見出したらんは萬緑叢中紅一点の趣あり。 

呉春はしゃれたり、応挙は真面目なり、余は応挙の真面目なるを愛す。 

『手競画譜』を見る。南岳、文鳳二人の画合せなり。南岳の画は何れも人物のみを画き、文鳳は人物の外に必ず多少の景色を帯ぶ。南岳の画は人物徒に多くして趣向無きものあり、文鳳の画は人物少くとも必ず多少の意匠あり、且つ其形容の真に逼るを見る。もとより南岳と同日に論ずべきに非ず。 

或人の画に童子一人左手に傘の畳みたるを抱え右の肩に一枝の梅を担ぐ処を画けり。或は他所にて借りたる傘を返却するに際して梅の枝を添えて贈るにやあらん。若し然らば画の簡単なる割合に趣向は非常に複雑せり。俳句的といわんか、謎的といわんか、しかも斯の如き画は稀に見るところ。 

抱一の画、濃艶愛すべしといえども、俳句に至っては拙劣見るに堪えず。その濃艶なる画にその拙劣なる句の讃あるに至っては金殿に反故張りの障子を見るが如く釣り合わぬ事甚し。 

『公長略画』なる画あり。わずかに一草一木を画きしかも出来得るだけ筆画を省略す。略画中の略画なり。しかしてこのうちいくばくの趣味あり、いくばくの趣向あり。廬雪等の筆縦横自在なれども却ってこの趣致を存せざるが如し。或は余の性簡単を好み天然を好むに偏するに因るか。 (五月十二日)


          七

〇左千夫いう柿本人麻呂は必ず肥えたる人にてありしならん。その歌の大きくして逼らぬ処を見るに決して神経的痩せギスの作とは思われずと。節曰う余は人麻呂は必ず痩せたる人にてありしならんと思う。その歌の悲壮なるを見て知るべしと。けだし左千夫は肥えたる人にして節は痩せたる人なり。他人のことも善き事は自分の身に引き比べて同じ様に思いなすこと人の常なりと覚ゆ。かく言い争える内左千夫はなお自説を主張して必ずその肥えたる由を言えるに対して、節は人麻呂は痩せたる人に相違なけれどもその骨格に至りては強く逞しき人ならんと思うなりと云う。余はこれを聞きて思わず失笑せり。けだし節は肉落ち身痩せたりといえども毎日サンダウの唖鈴を振りて勉めて運動をなすがためにその骨格は発達して腕力は普通の人に勝りて強しとなん。さればにや人麻呂をもまたこの如き人ならんと己れに引き合せて想像したるなるべし。人間はどこ迄も自己を標準として他に及ぼすものか。

○文晃の絵は七福神如意宝珠の如き趣向の俗なるものはいう迄もなく山水又は聖賢の像の如き絵を描けるにも尚どこかにか多少の俗気を含めり。崋山に至りては女郎雲助の類をさえ描きてしかも筆端に一点の俗気を存せず。人品の高かりし為にやあらん。到底文晃輩の及ぶ所に非ず。

○余等関西に生れたるものの目をもって関東の田舎を見るに万事に於て関東の進歩遅きを見る。ただ関東の方著しく勝れりと思うもの二つあり。曰く醤油。曰く味噌。

○下総の名物は成田の不動、佐倉宗五郎、野田の亀甲萬(醤油)。 (五月十三日) 

      

〇名所を歌や句に詠むにはその場所の特色を発揮するを要す。故に未だ見ざるの名所は歌や句に詠むべきにあらざれども、例せば富士山の如き極めて普通なる名所は、未だこれを見ざるも或は人の語る所を聞き、或は人の書き記せる文章を読み、或は絵画写真に写せる所を見などして、その特色を知るに難からず。さわいえ矢張実際を見たる後には今迄の想像とは全く違いたる点も少なからざるべし。余未だ芳野を見ず。且つ絵画文章の如きも詳しく写しこまかに叙したるものを知らず。今年或人の芳野紀行を読みていくばくの想像を逞しうするを得て試みに俳句数首を作る。もし実地を踏みたる人の目より見ば、実際に遠き句にあらずんば、必ず平凡なる句や多からん。ただそれ無難なるは主観的の句のみならんか。  

六田越えて死にいそぐや一の坂 

芳野山第一本の櫻かな 

花見えて足蹈み鳴らす上り口

花の山蔵王権現鎮まりぬ

指すや花の木の間の如意輪寺

案内者も吾等も濡れて花の雨

南朝の恨を残す桜かな

千本が一時に落下する夜あらん

西行庵花も桜もなかりけり (五月十四日)


〇余が病気保養のために須磨に居る時、「この上になほ憂き事の積もれかし限りある身の力ためさん」という誰やらの歌を手紙などに書いて独りあきらめて居ったのは善かったが、今日から見るとそれはまことに病気の入口に過ぎないので、昨年来の苦みは言語道断ほとんど予想のほかであった。それが続いて今年もようよう五月という月に這入って来た時に、五月という月は君が病気のため厄日ではないか、とある友人に驚かされたけれど、否大丈夫である去年の五月は苦しめられて今年はひま年であるから、などとむしろ自分では気にかけないで居た。ところが五月に這入ってから頭の具合が相変らず善くないというくらいで毎日諸氏のかわるがわるの介抱に多少の苦しみは紛らしとったが、五月七日という日に朝からの苦痛で頭が悪いのかどうだか知らぬが、とにかく今までに例のないことと思うた。八日には少し善くて、その後また天気具合とともに少しは持ち合うていたが十三日という日に未曾有の大苦痛を現じ、心臓の鼓動が始まって呼吸の苦しさに泣いてもわめいても追っ付かず、どうやらこうやらその日は切抜けて十四日もまず無事、ただしかも前日の反動で弱りに弱りて眠りに日を暮らし、十五日の朝三十四度七分という体温は一向に上らず、それによりて起りし苦しさはとても前日の比にあらず、もはや自分もあきらめて、その時あたかも牡丹の花生けの傍に置いてあった石膏の肖像を取ってその裏に 「自題(みずからだいす)。土一塊牡丹生けたる其下に。年月日」と自ら書きつけ、もしこのままに眠ったらこれが絶筆であるといわぬばかりの振舞、それも片腹痛く、午後は次第次第に苦しさを忘れ、今日はあたかも根岸の祭礼日なりと思い出したるを幸に、朝の景色に打ってかえて、豆腐の御馳走に祝の盃を挙げたのは近頃不覚を取ったわけであるが、しかしそれもまずまず、目出度いとしておいて、さて五月もまだこれから十五日あると思うと、どう暮してよいやらさっぱりわからぬ。

〇五月十五日は上根岸三島神社の祭礼であってこの日は毎年の例によって雨が降り出した。しかも豆腐汁、木の芽あえの御馳走に一杯の葡萄酒を傾けたのはいつにない愉快であったので、    

この祭いつも卯の花くだしにて    

鷺も老て根岸の祭かな    

修復成る神杉若葉藤の花

引き出だす幣に牡丹の飾り花車

筍に木の芽をあへて祝ひかな

歯が抜けて筍堅く烏賊こはし

不消化な料理を夏の祭りかな

氏祭これより根岸蚊の多き (五月十八日)


         十

〇前にもいうた南岳、文鳳二人の『手競画譜』の絵について二人の優劣を判じておいたところが、ある人はこれを駁して文鳳の絵は俗気があって南岳には及ばぬというたそうな。予は南岳の絵はこれよりほかに見たことがないし、ことに大幅に至っては南岳のも文鳳のも見たことがないから、どちらがどうとも、判然と優劣を論じかねるが、しかし文鳳の方に絵の趣向の豊富なところがあり、かつその趣味の微妙なところがわかって居るということは、この一冊の画を見てもたしかに判ずることが出来る。もっとも南岳の絵もその全体の布置結構その他筆つきなどもよく働いて居ってもとより軽蔑すべきものではない。ゆえに終局の判断は後日を待つこととしてここには『手競画譜』にある文鳳のみの絵について少し批評してみよう〈もとこの画譜は余斎の道中歌を絵にしたものとあるからして大体の趣向はその歌に拠ったのであろうが、ここにはその歌がないので、十分にわからぬ〉。

この道中画は大方東海道の有様を写したものであろうと思う。かつ歌合せの画を左右に分けて画に写したのであるから、左とあるのがすべて南岳の画で、右とあるのがすべて文鳳の画である。 

その始めにある第一番の右はすなわち文鳳の画で、三艘の舟が、前景を往来して居って、遥かの水平線に帆掛舟が一つある。そのほかには山も陸も島も何もない。この趣向がすでに面白い、ことに三艘の舟の中で、前にある一番大きな舟を苫舟にして二十人ばかりも人の押合うて乗って居る乗合船を少し沖の方へかいたのが凡趣向でない。普通の絵かきならば、必ずこの乗合船の方を近く大きく正面にしてかいたであろう。 

二番の右は道中の御本陣ともいうべき宿屋で貴人のお乗込みを待ち受けるとでもいうべき処である。画面には三人の男があって、その中一人は門前に水を撒いて居る。他の二人は幕を張って居る。その幕を張て居る方の一人は下に居って幕の端を持ち、他の一人は梯子に乗って高い処に幕をかけて居る。その梯子の下には草履がある。箒がある。踏つぎがある。塵取がある。その塵取の中には芥がはいって居る。実にこまかいものである。それで全体の筆数はというと、極めて少いもので、二分間くらいに書けてしまいそうな画である。これらも凡手段の及ぶところでない。 

三番の右は川渡しの画で、やや大きな波の中に二人の川渡しがお客を肩車にして渡って居るところである。ここにも波と人とのほかに少しの陸地もかかないのは、この川を大きく見せる手段であって前の舟三艘の画とその点がやや似て居る。その川渡しの人間は一人が横向きで、一人が後ろ向きになって居る。その両方の形の変化して面白いところは実際の画を見ねばわからぬ。

四番の右はなんの画とも解しかぬるので評をはぶく。 

五番の右は例の粗筆で、極めて簡略にかいて居るが、その趣向は極めて複雑して居る、正面には一間に一間半くらいの小さい家をかいて、その看板に 「御かみ月代、代十六文」とかいてある。その横にある窓からは山人の男が、一人の鬚武者の男の鬚を剃って居るところが見える。その窓の下には手箒が掛けてあって、その手箒の下の地面すなわち屋外には、鬢盥と手桶のようなものが置いてある。今いうた窓が東向きの窓ならば、それに接して折曲った方の北側は大方壁であってその高い処に小さな窓があけてあって、その窓には稗蒔のような鉢植が一つ置いてある。その窓の横には「やもり」が一疋這うて居る。屋根は板葺で、石ころがいくつも載せてある。こういう家が画の正面の大部分を占めて居って、その家は低い石垣の上に建てられて居る。その石垣というのは、小さな谷川に臨んで居るので、家の後ろ側の処に橋の一部分が見えて居る。それだからこの画の場所を、全体から見ると、小川にかけてある橋の橋詰に一軒の小さな床屋があるというところである。その趣きのよいのみならず、これほどの粗画にこの場所から家の構造から何から何までことごとく現われて居るというのは到底文鳳以外の人には出来ることでない。実に驚くべき手腕である。 

六番の右は薄原に侍が一人馬の口を取って牽いて居るところである。この画も薄のほかに木も堤も何もないので、かつその薄が下の方を少しあけて上の方は書けるだけつめてかいてあるので、薄原が広そうにも見え、凄そうにも見え、爪先上りになって居るようにも見える。そこで侍も馬も画面のなかばよりはやや上の方にかいてある。この画の趣向は十分にわからぬけれど、馬には腹帯があって、鞍のないところなどを見ると、侍が荒馬を押えて居るところかとも思われる。これが侍であって馬士でないところ〈それは髷と服装と刀とでわかるが〉も面白いが、馬が風の薄にでも恐れたかと思うような荒々しき体度のよく現われるところも面白い。 (五月二十二日)      


十一

(ツヅキ)七番の右はむしろ景色画にして岡伝いに小さき道があって、その道は二つに分れ、一筋はその岡に添うて左に行くべく、一筋は橋を渡って水に添うて左に行くべくなっておる。点景の人物は一寸くらいな大きさのが三人あるばかりで、それは格別必要な部分を占めておるのではない。ただこういうようなちょっとした景色をこの中に挿んだのが意匠の変化するところで面白い。 

八番の右は立場と見えて坊さんを乗せた駕が一挺地に据えてある。一人の雲助は何か餅のごときものを頬ばって居る。一人の雲助は銭の一さしを口にくわえてその内のいくらかを両手にわけて勘定しておる。その傍に挟箱を下ろして煙草を吹かしておる者もある。更に右の方には馬士が馬の背に荷物を付けるところで、その馬子の態度といい、馬が荷物の重みを自分の身に受けこたえておる心持といい、そこの有様が実によく現われておる。その傍にはなお一、二人の人があって何となく混雑の様が見えておる。南岳の画は人が大勢居ってもその人はただ群集しておるばかりであるが文鳳の画は人が大勢居ればその大勢の人が一人一人意味を持って居る。ここらで見ても両人の優劣はほぼ顕われて居る。

九番の右は四人で一個の道中駕をかついで行くところで、駕の中の人は馬鹿に大きく窮屈そうに書いてある。何でもないようであるがそれだけの趣向を現わしたのが面白い。 

十番の右は旅人が一人横に寝て按摩を取らしておるところである。旅人の枕元には小さな小荷物があり笠がある。その前には煙草盆があり煙草入れがある。頭巾を被ったままで頬杖を突いて目をふさいで居るのは何となく按摩のために心持の善さそうなところが見える。按摩は客の後ろ側よりその脚を揉んで居る。ところでその右の眼だけは丸く開いて居る。しかも左の眼はつぶれて居って口は左の方へ曲っておる、この二人の後の方に行灯が三つかためて置てある。これはもちろん灯のついて居る行灯ではなかろう、客の座敷にかようの行灯が置いてあるということはいかにも貧しい宿屋であるということを示して居る。 (五月二十三日)      


十二

(ツヅキ)十一番の右は正面に土手を一直線に書いてある。この一直線に書いてあるところすでに奇抜である。その土手の前面には小さな水車小屋があって、作業がある。土手の上には笠を着た旅人が一人小さく書かれてある。こういう景色の処は実際にあるけれども、画に現わしたものはほかにない。 

十二番の右は笠着た旅人が笠着た順礼に奉捨を与えるところで、順礼が柄杓を突出して居ると、旅人はその歩行をも止めず、手をうしろへまわして柄杓の中へ銭を入れて居るところはよく実際を現わして居る。ことにその場所を海岸にして、藍などが少し生えて居り、遠方に船が一つ二つ見えて居るところなども、この平凡な趣向をいくらか賑やかにして居る。 

十三番の右は景色画でしかも文鳳特得の技倆を現わして居る。場所は山路であって、正面に坂道を現わし〈坂の上には小さな人物が一人向うへ越え行こうとして居るところが書いてある〉坂の右側に数十丈もあろうという大樹が鬱然として立って居る。筆数はあまり多くないが、その大樹があるために何となくその景色が物凄くなって、その樹はたしかに下の方の深い谷間に聳えて居るということがよくわかる。心持のよい画である。 

十四番の右は百姓家の入口に猿廻しが猿を廻して居るところで、その家の入口の縄暖簾をかかげて子供が二人ばかりのぞいて居る。一人の子供は六つ七つ、一人の子供は二つ三つくらいの歳で、大方兄弟であろうと推せられる。その入口の両側には帝が敷いて麦か何かが干してある。家の横手にはちょっとした菊の垣がある。小菊が花を沢山つけて咲いて居る。この絵などは単に田舎の景色をよく現わして居るというばかりでなく、はなはだ感じのよいところを現わして居る。 

十五番の右は乞食が二人ねころんで居るところでそこらには草が沢山生えて居る。 

十六番の右は鳥居の柱と大きな杉の樹とがいずれも下の方一間ばかりだけ大きく書いてある。それは社の前であるということを示して居る。その社の前の片方に手品師が膝をついて手品をつかって居る。禅をかけ、広げた扇を地上に置き、右の手を眼の前にひらけて紙屑か何かの小さくしたのを散かして居る。「春は三月落花の風情」とでもいうところであろう。この手品師が片寄せて書いてあるために見物人は一人も書いて居ない。そこらの趣向はあまり類のない趣向である。 

十七番の右は並木の街道に旅人が二、三人居るところであるが、これは別に趣向というところもないようで、ただ松の木の向う側に人を書いたのが趣向でもあろうか。 

十八番の右は海を隔てて向うに富士を望むところで別に趣向というでもないが、ただこの一巻の最終の画であるだけに、この平凡な景色が何となく奥床しく見える。 

要するに文鳳の画は一々に趣向があって、その趣向の感じがよく現われて居る。筆は粗であるけれど、考えは密である。一見すれば無造作に書いたようであって、その実極めて用意周到である。文鳳のごときは珍しき絵書きである。しかも世間ではそれほどの価値を認めて居ないのははなはだ気の毒に思う。 (五月二十四日)      


十三

〇古洲よりの手紙の端に  

御無沙汰をして居ってまことにすまんが、実は小提灯ぶらさげの品川行時代を追懐して今日の君を床上に見るのは余にとっては一の大苦痛であることを察してくれたまえ。

とあった。この小提灯ということは常に余の心頭に留まってどうしても忘れることの出来ない事実であるが、さすがにこの道には経験多き古洲すらもなお記憶しておるところをもってみると、多少他に変った趣きが存しているのであろう。今は色気も艶気もなき病人が寝床の上に懺悔物語として昔ののろけもまた一興であろう。 

時は明治二十七年春三月の末でもあったろうか、四カ月後には驚天動地の火花が朝鮮のそこらに起ろうとはもとより知らず、天下泰平と高をくくって遊び様に不平を並べる道楽者、古洲に誘われて一日の日曜を大宮公園に遊ぼうと行ってみたところが、桜はまだ咲かず、引きかえして目黒の牡丹亭とかいうに這入り込み、足を伸ばしてしょんぼりとして待って居るほどに、あつらえの筍飯を持って出て給仕してくれた十七、八の女があった。この女あふるるばかりの愛嬌のある顔に、しかもおぼこなところがあって、かかる料理屋などにすれからしたとも見えぬほどのおとなしさがはなはだ人をゆかしがらせて、余は古洲にもいわず独り胸を躍らして居った。古洲の方もさすがに悪くは思わないらしく、彼女がランプを運んで来た時に、お前の内に一晩泊めてくれぬか、と問いかけた。けれども、お泊りはお断り申しまする、とすげなき返事に、もとよりそのことを知って居る古洲は第二次の談判にも取りかからずにだまってしもうた。それからしばらくの間雑談に耽っていたが、品川の方へ廻って帰ろう、遠くなければ歩いて行こうじゃないか、という古洲がいつになき歩行説を取るなど、趣味ある発議に、余はもとより賛成して共にぶらぶらとここを出かけた。外はあやめもわからぬ闇の夜であるので、例の女は小田原的小提灯を点じて我々を送って出た。姉さん品川へはどういきますか、という問に、品川ですか、品川はこのさきを左へ曲ってまた右曲って…そこまで私がお伴致しましょう、といいながら、提灯を持って先に駈け出した。我々はその後からついていて一町余り行くと、薮のある横町、極めて淋しい処へ来た。これから田んぼをお出になると一筋道だからすぐわかります、といいながら小提灯を余に渡してくれたので、余はそれを受取って、そうですか有難う、と別れようとすると、ちょっと待って下さい、といいながら彼女は四、五間後の方へ走り帰った。何かわからんので躊躇しているうちに、女はまた余の処に戻って来て提灯を覗きながらその中へ小さき石ころを一つ落し込んだ。そうして、さようならご機嫌よろしゅう、という一語を残したまま、もと来た路を闇の中へ隠れてしもうた。この時の趣き、薮のあるような野外れの小路のしかも闇の中に小提灯をさげて居る自分、小提灯の中に小石を入れて居る佳人、余は病床に苦悶して居る今日に至るまで忘れることの出来ないのはこの時の趣きである。それから古洲と二人で春まだ寒さ夜風に吹かれながら田んぼ路をたどって品川に出た。品川は過日の火災で町は大半焼かれ、ことに仮宅を構えて妓楼が商売して居る有様は珍しき見ものであった。仮宅という名がいたく気に入って、席囲いの小屋の中に膝と膝と推し合うて坐って居る浮れ女どもを竹の窓より覗いている、古洲の尻に付いてうっかりと佇んでいるこの時わが手許より焔の立ち上るに驚いてうつむいて見れば今まで手に持って居った提灯はその蝋燭が尽きたために火は提灯に移ってぼうぼうと燃え落ちたのであった。    

うたた寝に春の夜浅し牡丹亭    

春の夜や料理屋を出る小提灯

春の夜や無紋あやしき小提灯 (五月二十五日)


十四

〇病に寝てよりすでに六、七年、車に載せられて一年に両三度出ることも一昨年以来全く出来なくなりて、ずんずんと変って東京の有様はわずかに新聞で読み、来る人に聞くばかりのことで、何を見たいと思うてももはやわが力に及ばなくなった。そこで自分の見たことのないもので、ちょっと見たいと思う物を挙げると

一、   活動写真

一、   自転車の競争及び曲乗

一、   動物園の獅子及び駝鳥

一、   浅草水族館

一、   浅草花屋敷の彿々及び獺

一、   見附の取除け跡

一、   丸の内の楠公の像

一、   自働電話及び紅色郵便箱

一、   ビヤホール

一、   女剣舞及び洋式演劇

一、   蝦茶袴の運動会

など数うるに暇がない。 (五月二十六日)


十五

○『狂言記』という書物を人から借りて二つ三つ読んでみたが種々な点において面白いことが多い。狂言というものは、どういう工合に発達したか充分には知らぬが、とにかく能楽とともに舞台に上るところをみると能楽がやや高尚で全く無学の者には解せられぬところがあるから、能楽の真面目なる趣味、古雅なる趣味に反対して、滑稽なる趣味、卑俗なる趣味をもって俗人に解せしめるように作られたのである。しかし昔の申楽とか田楽とか言うものの趣味は能楽よりもかえって狂言の方に多く存して居るかも知れぬ、少くとも彼ら古楽の趣味が半ばは能楽となって真面目なる部分を占領し半ばは狂言となりて滑稽なる部分を占領したのであろう。そこでこの狂言というものには時代の古いものがあるかも知れないがまず普通には足利の中頃より徳川の初めまでに出来たものかと思われる、従って狂言はその時代の風俗及び言葉を現して居るものとしてみるとなお面白いことが多い。狂言の趣味はしばらく論ぜずにただ歴史的の観察上面白いことは、たとえばここに「スハジカミ」という狂言を取ってみようならばこれは酢売と薑(しょうが)売とのことであって二人が互いに自分の売物に勿体をつけるという趣向である。これをみるとその頃酢売とか薑売とかいうものがあって、町を売歩行いて居ったということがわかる。しかもその酢亮は和泉の国と名乗り、薑売は山城の国と名乗って居るところを見ると、これらの処が酢または薑の産地であったこともわかる。それから酢は竹筒に入れてあって、それを酢筒と名付け、薑は藁ヅトの中に入れてある。それからその言葉を見るに、酢の売言葉は 「スコン」と言い、薑の売言葉は「ハジカミコン」というなど何となく興味がある。この「コン」という言葉は意味のある言葉かどうか善く分らないがあるいは「買はう」という言葉のつまったのかとも思われる。また「ショウバイ」とも言い「アキナイ」ともいうをみればこの時代からすでに両方の言葉が用いられて居ったのが分かる。また酢亮が薑亮に対して「オヌシ」といい、薑売が酢売に対して「ソチ」というのをみても当時の二人称にはかような言葉を用いたのである。余の郷里〈伊豫〉なぞにては余の幼さ頃までなお「オヌシ」または「ソチ」などいう二人称が普通語に残って居った。また薑売の言葉に「コノワラヅトウナドニハ、イカウケイヅノアルモノジャ」というて居る。しかしてその「ケイヅ」というのは昔生薑(しょうが)売が禁中に召されて何々という歌を下されたということなのである。してみるとこの「ケイヅ」という言葉は誇るべき由緒というようなことを意味する当時の俗言であったとみえる。また「スキハリショウジ」、「カラカミショウジ」などいう言葉があるのをみると、今いう紙張の障子のことを「スキハリショウジ」と言い、今いう「カラカミ」のことを「カラカミショウジ」というたのである。そのほか、風俗言語の上に、なおいろいろ変ったことがあるようであるが、よくよく研究せねば吾々には分からぬことが多い。追々分かって来たらはいよいよ面白いに違いない。 (五月二十七日)


十六

〇病勢がだんだん進むに従って何とも言われぬ苦痛を感ずる。それは一度死んだ人かもしくは死際にある人でなければわからぬ。しかもこの苦痛は誰も同じことと見えて黒田如水などという豪傑さえも、やはり死ぬる前にはひどく家来を叱りつけたということがある。その家来を叱ることについて如水自身の言いわけがあるが、その言いわけはもとより当になったものではない。畢竟は苦しまざれの小言と見るが穏当であろう。陸奥福堂も死際にはしきりに細君を叱ったそうだし、高橋自侍居士も同じことだったというし、してみると苦しい時の八つ当りに家族の者を叱りつけるなどは予一人ではないとみえる。越後の無事庵というは一度も顔を合したことはないが、これも同病相憐む仲であるので、手紙の上の問い訪ずれは絶えなかったが、ことし春ついに空しくなってしもうた。その弟のゝ人(ちゆじん)その遺子木公(もっこう)と共に近頃わが病床を訪ずれて、無事庵生前の話を聞いたが、かくまでその容体のよく似ることかと今更に驚かれる。一、二の例を挙ぐれは、寸時も看病人を病床より離れしめぬこと、すべて何か命じたる時にはその詞の未だ絶えざる中に、その命令を実行せねば腹の立つこと、目の前に大きな人など居れば非常に呼吸の苦痛を感ずること、人と面会するにも人によりて好きと嫌いとのはなはだしくあること、時によりて愉快を感ずると感ぜざるとのはなはだしくあること、敷布団堅ければ骨ざわり痛く、敷布団やわらかければ身が布団の中に埋もれてかえって苦しきこと、食いたき時は過度に食すること、人が顔を見て存外に痩せずに居るなどと言われるのに腹が立ちて火箸のごとく細りたる足を出してこれでもかと言うて見せること、およそこれらのことは何一つ無事庵と予と異なることのないのは病気のためとは言え、不思議に感ぜられる。この日はかかる話を聞きしために、その時まで非常に苦しみつつあったものが、にわかに愉快になりて快き昼飯を食うたのは近頃嬉しかった。 

無事庵の遺筆など見せられて感に堪えず、吾も一句を認めて遺子木公に示す。

鳥の子の飛ぶ時親はなかりけり (五月二十八日)


         十七

〇甲州の吉田から二、三里遠くへ這入った処に何とかいう小村がある。その小村の風俗習慣など一五坊に聞いたところがはなはだ珍しいことが多い。一、二をいうてみると。 

すべてこの村では女が働いて男が遊んで居る。女の仕事は機織りであってすなわち甲斐絹を織り出すのである。その甲斐絹を織ることは存外利の多いものであって一疋に二、三円の利を見ることがある。もっとも一疋織るには三日ほどかかる、しかしこの頃は不景気で利が少ないということである。一家の活計はそれで立てて行くのであるから従って女の権利が強くかつ生計上のことについては何もかも女が弁じることになって居る。男の役というは山へ這入って薪を取って来るというくらいのことじゃそうな。 

甲斐絹の原料とすべき蚕はやはりその村で飼うては居るがそれだけでは原料が不足なので、信州あたりから糸を買い入れて来るそうな。その出来上った甲斐絹は吉田へ行って月三度の市に出して売るのである。 

甲斐絹のうちでも蠣幅傘になるものはむろん織り方が違う。 

機を織るものは大方娘ばかりであってすでに結婚したほどの女は大概機を織るまでの拵えにかかって居る。それがために娘を持って居る親は容易にその娘の結婚を許さない。なるべく長く〈二十二、三までも〉自分の内に置て機を織らせる。その結果は不品行な女も少なくないということである。 

古来の習慣として男子が妻を娶ろうと思う時にはまず自分の好きな女に直接に話し合うてみる。その女が承諾したらはそれから仲人のごときものをして双方の親達に承諾せしむるのである。女の親が承諾しないというような場合には男は数多の仲間を語らいてその女をかどわかし何処かに隠してしまうというようなことがある。しかしこの頃ではそういうことが少なくなったそうな。 

この村は桑園菜畑などは多少あるが水田はない、また焼石が多くて木も草もないような処がある。 

この辺の習慣では他人の山林へ這入って木を樵って来ても咎めないのである。柿の木などがあればその柿の実は誰でも勝手に落して食う。干柿などがあればその干柿を取って来て食う。そうして何其の内の柿を取って食うたということを公言して憚らないそうな。 

この辺はもちろん食物に乏しいので、客が来ても御馳走を出すという場合には必ず酒を出すのである。下物(さかな)は菜漬くらいである。女でも皆大酒であるということじゃ。 

この辺はもとより寒い処なのでそのこたつは三尺四方の大きさである。しかし寝る時はこたつに寝ないで別に設けてある寝室に行て寝る。その寝室は一人一人に一室ずつ備わって居る狭い暗い処であって布団は下に藁布団を用い、別に火を入れることはない。そうしてその布団は年が年中敷き流しである〈寝室の別にあるところは西洋に似て居る〉。 

寝室に限らずあまり掃除をすることがない。 

客が来ても客に煙草盆を出すことはないそうな。もし客が巻煙草でも飲もうと思えばそこにあるこたつで火を付けるか、または自らマッチを出して火を付けるかする。その吹殻の灰を畳のへりなどへはたき落しておいて平気のものである。

前いうたように機織の利が多いのにほかにこれという贅沢の仕様もないので、こんな辺鄙の村でありながら割合に貧しくないということである。 (五月二十九日)      


十八

〇文人の不幸なるもの寧斎第一、予第二と思いしは二、三年前のことなり、今はいずれが第一なるか知らず。

○種竹山人長崎より一封を寄せ来る。開き見れば詩あり。   

      崎陽客次。閲国民新報所載。虚子俳諧日記。叙子規子近状。
     黯然 久之。因賦一絶。遥贈子規。併似虚子。

   松魚時節酔湘釃。(しょうぎょのじせつしょうれいによう)

   衆葉如煙入眼青。(しゅうようけむりのごとくまなこにいりてあおし)

   不寝思君過夜半。(いねずしてきみおおもいやはんをすぐ)

   天辺何処子規亭。(てんぺんいずれのところかしきてい) (五月三十日) 

                                     

十九

〇立斎広重は浮世画家中の大家である。その景色画は誰もほかの者の知らぬところをつかまえて居る。ことに名所の景色を画くには第一にその実際の場所の感じが現われ、第二にその景色が多少面白く美術的の画になって居らねばならぬ。広重はたしかにこの二カ条に目をつけてかつ成功して居る。この点においてすでに彼が凡画家でないことを証して居るが、なおそのほかに彼は遠近法を心得て居た。すなわち近いものは大きく見えて、遠いものは小さく見えるということを知って居た。これは誰でも知って居るようなことであるが、実際に画の上に現わしたことが広重のごとく極端なるものはほかにない。例えば浅草の観音の門にある大提灯を非常に大きくかいて、本堂は向うの方に小さくかいてある。目の前にある熊手の行列は非常に大きくかいてあって、大鷲神社は遥かの向うに小さくかいてある。鎧の渡しの渡し舟は非常に大きくかいてあって、向うの方に蔵が小さくかいてある。というような著しい遠近大小の現わしかたは、日本画にはほとんどなかったことである。広重はあるいは西洋画を見て発明したのでもあろうか。とにかく彼はたしかに尊ぶべき画才を持ちながら、全く浮世絵を脱してしまうことが出来なかったのははなはだ遺憾である。浮世絵を脱しないことはその筆に俗気の存して居るのをいうのである。 (五月三十一日)


二十

〇広重の『草筆画譜』というものを見るに寫ヨの寫ヨ略画式の斬新なのには及ばないが、しかし一体によく出来て居る。今その『草筆画譜』の二編というのを見付け出して初めから見て行くと多少感ずるところがあるので必ずしも画の評という訳ではないが一つ二つ挙げてみよう。 

毎年正月には麓より竹籠に七草を植えたのを贈って来るからこれは明治になっての植木屋の新趣向であろうと思うて居たらこの『草筆画譜』〈嘉永三年出版〉にも同じような画が出て居る。足の三本ついた竹籠に何か小さいものが植えてあってその中に木札が四、五枚立って居る、そうしてその籠の傍には羽子板が一つ置てあるのを見るとこの籠の中に植えてあるものはたしかに七草に違いない、かかる気の利いた贈物は江戸では昔からあったものとみえる。 

同じ本に亀戸神社の画があるが、これは鳥居と社とばかりがあってその傍に木立と川とがある。そうしてその近辺には家も何もない、今とは形勢が非常に変って居たものとみえる。 

同じ本に二寸角ばかりの中に女郎花(おみなえし)が画いてある、その女郎花の画き方が前の方にある一、二本はその草の上半すなわち花のところが書いてある、そうしてその画の後部すなわち上の方には女郎花の下半すなわち下の方の茎と薬とばかりのところが二、三本書いてある、これは極めて珍しい画き方と思うが果して広重の発明であるかあるいは光琳などでも書いて居ることがあろうかあるいは西洋画からでも来て居るであろうか。

同じ本に「大月原」と題する画がある、これは前に突兀たる山脈が永く横わってその上に大きな富士が白く出て居るところである。富士の画などはとかく陳腐になりまた嘘らしくなるものであるが、この画のごとく別に珍しい配合もなくしてかえって富士の大きな感じが善く現れて居るのは少ない。 

同じ本に鵜飼の画がある、それは舟に乗った一人の鵜匠が左の手に二本の鵜縄を持って右の手に松火を振り上げて居る。鵜飼のことは充分に知らぬけれど、これでは鵜縄を引上げることが出来ぬように思うが、それとも実際こういう方法もあったのであろうか。 (六月一日)      


二十一

〇余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解して居た。悟りということはいかなる場合にも平気で死ぬることかと思って居たのは間違いで、悟りということはいかなる場合にも平気で生きて居ることであった。

○ちなみに問う。狗子に仏性有りや。曰、苦。 

また問う。祖師西来の意はいかん。曰、苦。

また問う。………………………… 曰、苦。 (六月二日)


二十二

○大阪の露石から文鳳の『帝都雅景一覧』を贈ってくれた。これは京の名所を一々に写生したもので、その画に雅致のあることはいうまでもなく、その画がその名所の感じをよく現わして居ることは自分のかつて見て居る所の実景に比較してみてわかって居る。他の処も必ず嘘ではあるまいと思う。応挙の書いた嵐山の図は全くの写生であるが、そのほか多くの山水は応挙といえども、写生に重きを置かなかったのである。そのほか四条派の画には清水の桜、栂の尾の紅葉などいう真景を写したのがないではないようであるが、しかしそれは一小部分に止ってしまって、全体からいうと景色画は写生でないのが多い。しかるに文鳳が一々に写生した処は日本では極めて珍しいことというてよかろう。その後広重が浮世絵派から出て前にもいうたように景色画を書いたというのは感ずべき到りで文鳳と併せて景色画の二大家とも言ってよかろう。ただその筆つきに到っては、広重には俗なところがあって文鳳の雅致が多いのには比べものにならん。しかし文鳳の方は京都の名所に限られて居るだけにその画景が小さいから、今少し宏大な景色を書かせたらその景色の写し具合が広重に比して果してうまくいくであろうかどうであろうか、文鳳の琵琶湖一覧という書があるならば、それには大景もあるかも知れんが、まだ見たことがないからわからん。 (六月三日)


          二十三

〇欧州に十年ばかりも居て帰って来た人の話に 

 今では世界中で日本ほど恐しい国はないと西洋人は思うて居るであろう。日本の政治家は腐敗して居るとか、官吏が収賄して居るとか、議員が買収せられたとか、華族が役にたたんとか、とにかく上流社会に向ってはいくらの非難があるとしても、下等社会がことごとくたしかである。将校にはいくら腐敗したものが多くとも、兵卒は皆愛国の民である、こういう風に一国の土台となるべき下等社会がたしかであればその国の亡びる気遣はない。もしこの上に進歩して行ったならば日本はどんなことを仕出かすかも知れない。どこの国でも恐らくは日本の将来を恐れて居らぬ者はなかろう。 

ところが西洋の社会を見ると、日本とは反対に上流社会すなわち紳士なる者は皆立派なる人達であるが、下流社会すなわち一般の人民は皆腐敗して居る。下等社会に愛国心のあるなどというのは一人もない。言わば利のために集まって居るようなものである。 

スペインなどはもっとも甚だしく乱れて居る国であるが人民が少しもその政府を信用して居らぬために金のある者も自分の国の公債を買わずに信用ある外国の公債を買う。別荘を建てるのにも自分の国へ建てずに外国へ建てておくという次第である。 

フランスなども到底共和政治で持切って行くことは出来まい。フランスの下等社会も今の政府に対してあまり信用を置いて居ない。 

ドイツはさすがに今日勃興しつつある勢は盛んでこの国の下等社会は他国ほど腐敗せずに居る。 

イギリスもやはり衰えて行く方であろう。 

ロシアはえらい。 

トルコはほとんど滅びて居る。

オランダもやはり老衰でしかたがない。 

ベルギーは奇妙な国で陸海軍のない、ただ商工業をもって成立って居る国である。天子様も商売は上手で、非常な金持であるためにほかの者は心服しなくとも、少くも商人だけは一目を置いて居る。先日廃せられた有名な公許賭博場も、天子様が一大華客である。などと噂せられるほどのことである。この国の鉄道は有名なもので、これはことごとく国有である。この頃は日本からも商業上の留学生をこの国へ出すようになったが、黒田の話では画の修業も、この国へ留学させたらよかろうというて居た。 

要するに新たに勃興した国はすべて勢が強く、古い国は多くは腐敗して衰運に傾きつつあるように見える。 

それから大国と小国との関係について、例えばデンマークとかいうような兵力のない国は、大国に対して少しも頭が上らないであろうと思うようであるが、実際はそれほどでもないものである。何か国際上の問題が起った際にも、小国の方では自分が小国であるから大国に馬鹿にされるのであるというようなひがみ根性を起して存外に手強く談判を持込むようなことがある。日本でも事によると自分の弱いのを気にしてかえって大国に向って強く突込んで行くことがないでもない。権利とか平等とかいうけれど、日本ほど下等社会の権利が主張せられる処は西洋には少ないであろう。日本では下等社会の奴が巡査の前で堂々と自己の権利を言い張ってどこまでも屈しないというようなのがあるが、西洋では上等社会と下等社会と喧嘩したらば、いかなる場合でも上等社会が勝つに極って居る。よき着物を着たものと汚ない着物を着たものと喧嘩したらば、よき着物を着た方が巡査の前へ出ても必ず勝つことに極って居る。 (六月四日)       


二十四

〇近作数首。

悼清国蘇山人(しんこくのそさんじんをいたむ)

陽炎や日本の土にかりもがり

送別

君を送る狗ころ柳散る頃に

ヨーロッパへ行く人の許へ根岸の笹の雪を贈りて 

日本の春の名残や豆腐汁

無事庵久しく病に臥したりしがこの頃みまかりぬと聞きて

時鳥辞世の一句無かりしや

鳴雪翁の書画帖に拙くも瓶中の芍薬を写生して自ら二句を賛す 

芍薬の衰へて在り枕許

芍薬を画く牡丹に似も似ずも

謡曲殺生石を読みて口占数句

玉虫の穴を掛でたる光りかな

化物の名所通るや春の雨

殺生石の空や遥かに帰る雁 (六月五日)


          二十五

〇近頃芳菲山人が梟の鳴声を聞かんと四方の士に求められけるに続々四方より報知ありて色々面白い鳴声もあるようであるが、大体は似て居るかと思われる。わが郷里豫州松山では、梟が「フルツク、ホーソ」となけば雨が降る、「ノリツケ、ホーソ」と鳴けば明日の天気は晴れであるという天気予報に見られて居る、そうして梟のことをば俗にフルツクという、俳句ではこれを冬の部に入れてあるが、それは恐らくは    

梟は眠る所をさされけり   猿雖

という句が『猿蓑』の冬の部に入れられたから始まったのであろう、従ってみみずくもやはり同じことに取扱われて居るが、貞享式に「古抄は秋の部に入れたれど渡り鳥にもあらず、色鳥にもあらず、まして鳴声の物凄きは寒さを厭へる故にとや、決して冬と定むべし」とあるけれど、梟は元来いつの時候をよく鳴くものであるか、余の経験によると、上野の森では毎年春の末より秋の半ばへかけて必ず梟が鳴く、これは余が根岸に来て以来経験するところであるが、夏の夕方、雉子町を出でてわが家への帰るさ、月が涼しく照して気持のよい風に吹かれながら上野の森をやって来ると、音楽学校の後ろあたりへ来た時に必ずそのフルツクホーソの声を聞くことであった。毎晩大概同じ見当で鳴くようではあるが、しかしどの辺の木で鳴くのかそこまで研究したことはない。病に寝て後もやはり例の鳴声は根岸まで聞えるので、この頃でも病床で毎晩聞いて居る。日の晩れから鳴き出し夜更けにも鳴くことがあるが時としては二羽のつれ鳴きに鳴く声が聞えることがある。またある時はわが庭の木近くへ来て鳴くこともあるが、あまり近く鳴かれるとさすがに物凄く感じる。そうして秋の半ばやや夜寒の頃になるといつも鳴かなくなってしまう。してみると上野には秋の半ばまで棲んでいて、それからよそへ転居するのであろうか、または上野に居るけれども鳴かなくなるのであろうか、物知りに教えてもらいたいのである。

この鳥の鳴声のことをいうと余はいつもコルレッヂのクリスタベルを連想する。   
And the owls have awakened the crowing cock!

u-whit!-Tu-whoo! (六月六日)


         二十六

〇今日ただ今〈六月五日午後六時〉病床を取巻いて居るところの物を一々数えてみると、何年来置き古し見古した蓑、笠、伊達政宗の額、向島百花園晩秋の景の水画、雪の林の水画、酔桃館蔵沢の墨竹、何も書かぬ赤短冊などのほかに。 

写真双眼鏡、これは前日活動写真が見たいなどというたところから気をさかして古洲が贈ってくれたのである。小金井の桜、隅田の月夜、田子の浦の浪、百花園の萩、何でも奥深く立体的に見えるので、ほかの人は子供だましだというかも知れぬが、自分にはこれを覗くのが嬉しくて嬉しくて堪らんのである。 

河豚提灯、これは江の島から花笠が贈ってくれたもの、それを頭の上に吊してあるので、来る人が皆豚の膀胱かと間違えるのもなかなか興がある。 

ラマ教の曼陀羅、これは三尺に五尺くらいな切れで壁にかけるようになって居る。その中央一ぱいに一大円形を画き、その円形の内部に正方形を画き、その正方形の内部に更に小円形を画き、その円形の中に小さな仏様が四方四面に向き合うて画いてある。そのあたりには仏具のような物や仏壇のようなものがやはり幾何学的に排列せられて居る。また大円形の周囲には、仏様や天部の神様のようなものや、紫雲や、青雲や、白雲や、奇妙な赤い髷括りのようなものが付いて居る樹木や、種々雑多の物が赤青白黄紫などの極彩色で画いてある極めて精巧なものである。 

大津絵二枚、これは五枚の中のへげ残りが襖に貼られて居る。四方太が大津から買うて来た奉書摺のものである。今あるのは猿が瓢箪で飴を押えとるところと、大黒が福禄寿の頭へ梯子をかけて月代を剃って居るところとの二つである。 

丁子簾一枚。これは朝鮮に居る人からの贈物で座敷の縁側にかかって居る。この簾を透して隣の羯翁のうちの竹薮がそよいで居る。 

花菖蒲及び蝿取撫子、これは二、三目前、家の者が堀切へ往て取って帰ったもので、今は床の間の花活に活けられて居る。花活は秀真が鋳たのである。

美女桜、ロベリヤ、松葉菊及び樺色の草花、これは先日碧梧桐の持って来てくれた盆栽で、今は床の間の前に並べて置かれてある。美女桜の花は濃紅、松葉菊の花は淡紅、ロベリヤはすみれよりも小さな花で紫、他の一種はおだまき草に似た花と葉で、花の色はのうぜんかずらのごとき樺色である。 

黄百合二本、これは去年信州の木外から贈ってくれたもので、諏訪山中の産じゃそうな。今を盛りと庭の真中に開いて居る。 

美人草、よろよろとして風に折れそうな花二つ三つ。 銭葵一本、松の木の陰に伸びかねて居る。 

薔薇、大方は散りて殷紅色の花が一、二輪咲残って居る。

そのほか庭にある樹は椎、樫、松、梅、ゆすら梅、茶など。 

枕元にちらかってあるもの、絵本、雑誌等十数冊、置時計、寒暖計、硯、筆、睡壷、汚物入れの丼鉢、呼鈴、まごの手、ハンケチ、その中に目立ちたる毛襦子のはでなる毛布団一枚、これは軍艦に居る友達から贈られたのである。       

(六月七日)


二十七

〇枕許に『光琳画式』と『鴛邨画譜』と二冊の彩色本があって毎朝毎晩それをひろげて見ては無上の楽しみとして居る。ただそれが美しいばかりでなくこの小冊子でさえも二人の長所が善く比較せられて居るのでその点も大いに面白味を感ずる。ことに両方に同じ画題〈梅、桜、百合、椿、萩、鶴など〉が多いので比較するには最も便利に出来て居る。いうまでもないが光琳は光悦、宗達などの流儀を真似たのであるとはいえとにかく大成して光琳派という一種無類の画を書き始めたほどの人であるからすべての点に創意が多くして一々新機軸を出して居るところはほとんど比肩すべき人を見出せないほどであるからとても抱一(ほういつ)などと比すべきものではない、抱一の画の趣向なきに反して光琳の画には一々意匠惨憺たるものがあるのは怪しむに足らない。そこで意匠の点はしばらく措いて筆と色との上から見たところで、光琳は筆が強く抱一は筆が弱い、色においても光琳が強い色ことに黒い色を余計に用いはせぬかと思われる。従て草木などの感じの現れ方も光琳はやはり強いところがあって抱一はただなよなよとして居る。この点においては勿論どちらが勝って居ると一概にいうことは出来ぬ。強い感じのものならは光琳の方が旨いであろう。弱い感じのものならば抱一の方が旨いであろう。それから形似の上においては草木の真を写して居ることは抱一の方が精密なようである。要するに全体の上において画家としての値打はもちろん抱一は光琳に及ばないが、草花画書きとしては抱一の方が光琳に勝って居る点が多いであろう。抱一の草花は形似の上においても精密に研究が行届いてあるし輪廓の書き具合も光琳よりは柔かく書いてあるし、彩色もまた柔かく派手に彩色せられて居る。ある人はまるで魂のない画だというて抱一の悪口をいうかも知れぬが、草花のごときは元来なよなよと優しく美しいのがその本体であって魂のないところがかえって真を写して居るところではあるまいか、この二小冊子を比較してみても同じ百合の花が光琳のは強い線で書いてあり抱一のは弱い線で書いてある。同じ萩の花でも光琳のは葉が硬いように見えて抱一のは葉が軟かく見える。つまり萩のような軟かい花は抱一の方が最も善く真の感じを現して居る。『篤邨画譜』の方に枝垂れ桜の画があってその木の枝をわずかに二、三本画いたばかりで枝全体にはことごとく小さな薄赤い蕾が付いて居る。その優しさいじらしさは何ともいえぬ趣きがあってこうもしなやかに書けるものかと思うほどである。『光琳画式』の桜はこれに比するとよほど武骨なものである。しかしながら『光琳画式』にある画で藍色の朝顔の花を七、八輪画きその下に黒と白の狗ころが五匹ばかり一緒になってからかい戯れて居る意匠などというものは別に奇想でも何でもないが、実にその趣味のつかまえどころはいうにいわれぬ旨味があって抱一などは夢にもその味を知ることは出来ぬ。 (六月八日)      


二十八 

長崎にては昔から支那料理のことを「シッポク」というげな。何ゆえということは分らぬ、食卓という字の音でもあるまい。余の郷里にてはうどんに椎茸、芹、人参、焼あなご、くずし〈蒲鉾〉など入れたるをシッポクという。これも支那伝来の意であろう。麺類はすべて支那から来たものと見えて皆漢音を用いて居る。メン〈麺〉ソーメン〈素麺〉ニューメン〈乳麺かこの語漢語か何か知らぬ〉メンボー〈麺棒〉ウンドン〈飯能〉の類皆これである。それになお面白いことは夜間うどん、そばなど売りに来る商人が地方によりて「ハウハウ」と呼ぶことである。この「ハウ」は支那語の好の字にてハウハウはすなわち好々という意になる。支那では一般に好的(ハオデ)、好々(ハオハオ)などというてあたかもわが国の「善い」「上等」などいうところに用いる。

○ソーメンを素麺と書くは誤って居る。やはり「索麺」と書く方が善い。索「ナワ」のごとき麺の意であろう。 (六月九日)      


二十九

〇魚を釣るには餌が必要である。その餌は魚によって地方によってよほど違いがあるようであるがわが郷里伊豫などにては何を用いるかと、その道の人に聞くに 

みみず を用いるものはハヤ釣、鮒釣、ドンコ釣、ゲイモ釣、鰻釣、手長海老釣、スッポン釣 

川海老 を用いるものはハヤ釣、ゲイモ釣、ギゾ釣

エブコ 〈野葡萄のごとき野草の茎の中に棲む虫〉を用いるものはハヤ釣 

ギスゴ、ハタハタ を用いるものはハヤ釣 

蚕 を用いるものはハヤ釣 

セムシ 〈川の浅瀬の石に蜘妹のような巣を張りて住む大きなものと川の砂の中に砂を堅めて小さき筒状の家を作りて住む形の小さなものとの二種類ある〉 を用いるものはハヤ釣

タニシ を用いるものは手長海老

アカヒキ を用いるものはナマズ釣

海の小海老 を用いるものは小鯛釣、メバル釣、アブラメ、ホゴそのほか沖の雑魚釣 

シャコ を用いるものは小鯛釣 

コイカ を用いるものは大鯛釣 

シラサ海老 を用いるものは大鯛釣、スズキ釣、チヌ釣 

ゴカイ チヌ釣、雑魚釣

などのごとく多くは動物を用いるのであるが、中には変則な奴もある、それは鮎を釣るにカガシラ鈎(蚊頭)を用い、ハヤを釣るにハイガシラ(蝿頭)を用い、ウルメを釣るにシラベ(白き木綿糸を合せたるもの)を用い、イカを釣るに木製の海老を用いるごとき類いである。カガシラとは獣毛を赤黒黄等に染めたる短きものを小さき鈎につけて金または銀の小さき頭がついている。鮎はこの美しき鈎を見て蚊と思いあやまりて喰いつくということである。ハイガシラは獣毛を薄墨色に染めた短いものを鈎につけてそれに黒い頭がついている。木製の海老とは木で海老の形に作った二寸ばかりのもの、尾の所に三本の鋭さ鈎が碇形についている。烏賊はこれを真の海老だと思って八本の手で抱きつくと鈎は彼の柔かな肉を刺すのである。 

東京の釣堀なぞではおもに鯉を釣るのであるが、さてその餌とすべきものははなはだ種類が多いフカシイモ、ウドン、ゴカイ、ムキミ、ミミズ、サナギを飴糟にて練りたるもの、などを用いる。さすがは都の産れだけに東京の鯉は贅沢になってこんなに様々な御馳走を貪るのであろうか。地方によってはこのほかになお種々の異った餌があるであろう。 (六月十日)


三十

〇窮してしかして始めて一条の活路を得、始めより窮せざるものかえって死地に陥りやすし。

○釣に巧なるものあり、川の写真を見て曰く、この川にはきっと鮎が居ると。

○幕府以来の名家もとより相当の産あり、しかしてその朝飯は味噌汁と香の物のほか、また一物を加えず。これを主人に質せば、主人曰く、我もあまりまずい朝飯とは思えど、古来の習慣今更致方もなしと
○蚊が出ても蚊帳がないという者あり。曰くランプを充分に明るくして寝よ。 (六月十一日) 



           三十一

〇高等女学校の教科書に石川雅望の書きたる文を載せたるに、その文は両国の四ツ目屋(注、江戸両国にあった薬屋。四つ目結(ゆい)を紋所とし、淫薬・淫具を専門に扱った。薬では長命丸が有名)といういかがわしき店の記事にてありしため俄に世間の物議を起し著者を責むるもあれば、文部省の審査官を責むるものもあり、その責めようにもいくらか程度の寛厳があるようであるが、余の考えにては世間一般の人が責めるところの方面、すなわち著者の粗漏とか審査の粗漏とかいうことでなく、他の方面より責めたいのである。それは著者及び審査官の無学ということである。余の臆測にては著者も文部省の審査官らも恐らくは四ツ目屋の何たるを解せずしてこれを書中に引きまたこれを審査済として許可したるものであろうと思われる。してみれば彼らの無学はついにこの不都合なる結果を来したるもので、その無学こそ責むべきものではあるまいか。従来国文学者または和学者などというものは主に『源氏物語』『枕草子』などの研究にのみ力を用い、近世の事すなわち徳川氏以下の事に至ってはこれを単に卑俗として排斥し顧みないために、近世三百年間の文学は全く知らないものが十の八、九に居るのである。今度の四ツ目屋事件もこれを知らなんだということはもとより一小事であってさのみ咎むるに足らんようであるが、その実このことに限らず徳川文学を全く研究しないという結果が偶然ここに現われたのであるから余は何処までもいわゆる擬古的文学者の無学なのを責めたいのである。ことにその意味さえ解せずしてこれを教科書に引用した教科書著者の乱暴には驚かざるを得ない。この機をもって文学者の猛省を促すのである。 (六月十二日)      


三十二

〇道具の贅沢などは一切しょうと思わぬがただ硯ばかりはややよきものをほしいと思っていた。しかし二円や三円のはした金では買えぬと聞いてあきらめていた。ところがどういうわけだか近頃になってますますそれがほしくなったけれど、今更先の知れた身で大金を出すのもあまり馬鹿馬鹿しいので仕方なしに在り来りの十銭か十五銭の硯ですましていると、碧梧桐がその亡兄黄塔の硯を持って来て貸してくれた。その硯は一面は三方を溝のごとく彫り、他の一面は芭蕉の葉を沢山に彫ってある。その石材はあまりよいのでもないように思われるがしかし十五銭くらいの勧工場物とはもとより同日の論ではない上に、黄塔のかたみであることが、何となくなつかしく感ぜられて朝夕枕もとに置いて寝ながらのながめものになっている。

墨汁のかわく芭蕉の巻葉かな

芍薬は散りて硯の埃かな

五月雨や善き硯石借り得たり (六月十三日)


三十三

〇同郷の先輩池内氏が発起にかかる『能楽』という雑誌が近々出るそうである。この雑誌は今まさに衰えんとする能楽を興さんがためにその一手段として計画せられたるものであって、もとより流儀の何たるを問わず、ことに囃子方などのようように人ずくなになり行くを救わんとするのがその目的の主なるものであるそうな。元来能楽というものは保存的のものであって、進歩的のものではないのであるから、今日において改良するというても、別に改良すべき点はない。ただ時勢とともに多少の改良を要するという点は、能役者間に行われたる従来の習慣のうちで、今日の時勢に適せないものを改良して行くくらいのことなのである。しかしてその能役者間に行われて居る習慣というのは、今日からいうと随分馬鹿馬鹿しいことも少くはない上に、また今日いわゆる家元なるものが維新後扶持を失うたがために生計の道に窮して種々の悪弊を作り出したことも少なくはないのである。これらの悪習慣は一撃に打破ってしまえば何でもないようなことであるが、その実これをやろうというには、非常の困難を感ずる。まことに生活問題と関係して居ることは、考えてみれば能役者に対しては気の毒な次第であって、一方の道を打破する上は、他の一方において相当の保護を与えてやらねはならんのは至当のことである。昔岩倉具視公の存生中には、公が能楽の大保護者として立たれたるがために、一旦衰えたる能楽に花が咲いて一時はやや盛んならんとする傾きを示したに係わらず、公の薨ぜられた後は誰一人責任を負うて能楽界を保護する人もないのでついに今日のごとく四分五裂してしまったのである。たまたまある人が出て能楽界を振わせようとして会などを興したことなどもあったが、とかく流儀争いなどのために子供のような喧嘩を始めてせっかくの計画もついに画餅に属するに至ったのは遺憾なことである。能楽雑誌記者はもとよりここに見るところがあって、能楽上の一大倶楽部を起し、天下の有志を集めて依怙贔屓なく金春、金剛、観世、宝生、喜多などいう仕手の五流はもちろん、脇の諸流も笛、鼓、太鼓などの囃子方に到るまで、ことごとくこれを保護しかつ後進を養成せんとする目的をも有せらるると聞くのははなはだ頼もしいことに思われる。予の考えにては能楽は宮内省の保護を仰ぐかもしくは華族の鞏固なる団体を作ってこれを保護するか、どちらかの道によらなければ今日これを維持して行くのは、非常の困難であろうと思う。また能楽の性質上宮内省または華族団体の保護を仰ぐということは不当な要求でもなく、また一方より言えば今日これを特別保護の下に置くのは宮内省または華族団体のなすべき至当の仕事であろうと信ずる。その替りに能楽界の方においても出来得るだけの改良を図って、従前のごとく能役者はダダをこねるような仕打をやめ、諸流の調和を図りまた家元なるものの特権を揮うて後進年少が進んで行こうという道を杜絶することのないようにして貰わねばならぬ。一方に生活の道さえ立てば他方において卑しい行なども自ら減じて行く道理で、一例を言えば能衣裳の損料貸などいうことが今日ではある一派の能役者の生計の一部になって居るので、それがために卑劣なる仲間喧嘩の起るのみならず、ついには各派が分裂してしまうほどにも立ち至ったのであるが、こういうことは一方に相当の収入さえあれば自ら消滅して行くであろうと信ずる。なおこのほかにも論ずべきことは沢山あるが、それは後日に譲ることとする。  

● 正誤 「病牀六尺」第十二に文鳳の絵を論じて十六番の右は鳥居の前に手品師の手品を使って居るところであると言ったのは間違いだという説もあるからしばらく取消す。  

「病牀六尺」第二十五に猿雖の句として挙げたのは記憶の誤りであって、実際は   

木兎は眠るところをさされけり  半残  

という句が『猿蓑』にあるのであった。このほかにも木兎の句はなお 『猿蓑』 に一句あるが、梟の句は元禄七年頃の『分船』という俳書に出て居るのが、予が知るうちでは最も古い句である。   

とかく病床へ参考書を引出すのが極めて面倒であるために、善い加減な記憶によって書くのでこういう誤りを生ずるのであるから、許して貰いたい。 (六月十四日)     


三十四

〇床の間に虞美人草を二輪活けてその下に石膏のわが小臥像と一つの木彫の猫とが置てある。この猫は蹲まって居る形で、実物大に出来て居って、そうして黄色のようなペンキで塗ってある。このペンキは夜暗い処で見ると白く光るように出来て居るので、普通のペンキとは違って居る。これは水難救済会で使用するためにわざわざ英国から取り寄せたのであって、これを高い標柱に塗って救難所のある処の海岸に立てて置くと、いかなる暗夜でも沖に居る難破船からその柱が見えるので、そこに救難所のあるということが船中の人にわかるようになって居る。これを木彫の猫に塗って試に台所の隅に置いてみたところその夜はいつものように鼠が騒がなかった。しかしただ薄白く光るばかりでもちろん猫の形が闇に見えるわけでもないから、翌晩などは例の通りいたずらものは荒れ放題に荒れたほどであえてこれが鼠除けになるわけではないがしかし難破船の目標としては多少の効力があることはいうまでもない。 

この水難救済会というのは難破船を救うのが目的であってすでに日本の海岸には二、三十箇所の救難所を設けその救難所にはそれぞれ救難の準備が整うて居るそうである。今日のところではまだ不完全極まるものであってこの後幾多の設備を要することであるが、最近の報告によると昨年などはすでに一日平均三人を救うたわけになって居るそうな。してみるとその効能は極めて大なものであって日本のごとく海の多い国ではこの上もなく必要なものであるが、世人が存外にこれに対して冷淡にあるごとく見えるのははなはだ遺憾である。かの赤十字社のごときはもちろん必要なものであるけれども、しかし今赤十字社がないとしてもたちまち差し支えを生ずるというほどのものでもない。しかるに田舎の紳士共はその勲章めいた徽章がほしいわけであるか、あるいは県官らの勧めに余儀なくせられたるわけであるか、今日のところではとにかく非常に盛大なものとなって、あるいは実用的よりもかえって虚飾的に流れはせぬかと思うほどである。水難救済会はその会の目的が日常的のものであって今日の赤十字社のごとく戦場にのみ働くというようなものとは性質を異にしておるにかかわらずかえって微々として振わんのは県官の誘導も赤十字社のごとくあまねく及ばないのであるか、あるいは勲章めきた徽章のないためであるか、何にしても惜しむべきことであると思う。少なくとも海に沿うて居る各県民は振うて水難救済会の会員となるようにしたいものである。 (六月十五日)      


三十五

〇鳥づくしというわけではないが、昨今見聞した鳥の話をあげてみると

一、この頃東京美術学校で三間ほどの大きさの鳶を鋳たそうな、これは記念の碑として仙台に建てるのであるそうながこのくらいな大きなフキ物は珍しいと言うことである。

一、上野の動物園のダチョウは一羽死んだそうな。その肉を喰うてみたらばシギのような味がしてそれであまり甘くなかったが、その肉の油で揚物をこしらえてみたらこれはまた非常に旨まかったということである。

一、押入の奥にあった剥製のホトトギスを出して見たれば口の内の赤い色の上に埃がたまって居った。

一、そこらにある絵本の中から鶴の絵を探して見たが、沢山の鶴を組合せて面白い線の配合を作って居るのは光琳。ただ訳もなく長閑かに並べて画いてあるのは抱一。一羽の鶴の嘴と足とを組合せてやや複雑なる線の配合を作っているのは公長。最も奇抜なのは月樵の画で、それは鶴の飛んで居るところを更に高い空から見下したところである。

一、広重の「東海道続絵」というのを見たところがその中にどこにも一羽も鳥が画いてない。それから同人の「五十三駅」の一枚画を見たところが原駅の所に鶴が二羽田に下りて居り袋井駅の所に道ばたの制札の上に雀が一羽とまって居った。

一、先日の『日本』に伊豫松山からの通信として梟が「トシヨリコイ」と鳴くと書いてあったが、それは誤りで八幡鳩(珠数カケ鳩)が「トシヨリコイ」と鳴くのである。
一、上野の入口へ来ると三層楼の棟の所に雁が浮彫にしてある。それは有名な「雁鍋」である。それから坂本の方へ来ると、ある鳥屋の屋根に大きな雄鶏の突立った看板がある。それから根岸へ来ると三島前の美術床屋には剥製の白鷺が石膏の半身像と共に飾ってある。 (六月十六日)      



三十六

〇信玄と謙信とどっちが好きかと問うと、謙信が好きじゃという人が十の八、九である。梅ヶ谷と常陸山とどっちが好きかと問うと、常陸山が好きじゃという人が十の八、九である。その好き嫌いについては、多少の原因がないではないが、多くはただ理屈もなしに、好きじゃというに過ぎぬ。しかし一般の人は自重的の人よりも、快活的の人を好むということが、知らず知らず、その好悪の大原因をなして居るかも知れぬ。予は回向院の角力も観たことがないので、贔屓角力などはないがどっちかというと梅ヶ谷の方を贔屓に思うて居る。そうして子供の時から謙信よりも信玄が好きなように思う。それはどういう訳だか自分にも分らぬ。

  (六月十七日)


三十七

〇明治維新の改革を成就したものは二十歳前後の田舎の青年であって幕府の老人ではなかった。日本の医界を刷新したものも後進の少年であって漢方医はこれにあずからない。日本の漢詩界を振わしたもやはり後進の青年であって天保臭気の老詩人ではない。俳句界の改良せられたのも同じく後進の青年の力であって昔風の宗匠はむしろその進歩を妨げようとしたことはあったけれど少しもこれに力を与えたことはない。何事によらず革命または改良ということは必ず新たに世の中に出て来た青年の仕事であって、従来世の中に立って居ったところの老人が中途で説を翻したために革命または改良が行われたということはほとんどその例がない。もし今日の和歌界を改良せんとならばそれはもちろん青年歌人の成すべきことであって老歌人のなし得らるることではない。もし今日の演劇界を改良せんとならば、それはむしろ壮士俳優の任務であって決して老俳優の成し得らるるところではない。しかるに文学者とも言わるるほどの学者が団十、菊五などを相手にして演劇の改良を説くに至っては愚と言おうか迂と言おうか実にその眼孔の小なるに驚かざるを得ない。 (六月十八日)


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