興 津 弥 五 左 衛 門 の 遺 書
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ー 武 家 社 会 の 主 従 の 実 相 ー

(解題)森鴎外は乃木希典と面識があった。乃木が殉死( 乃木希典の殉死 )すると、ただちに筆をとり、彼と似たような立場にあった「興津弥五右衛門の遺書」を二日で書き上げ、乃木の葬儀に出る前に中央公論に送った。霊前に捧げるつもりだったと思われる。これが「興津弥五右衛門の遺書」の初稿である。

初稿は大正二年に書き改められた。その後の考証で細部に相違する所を発見したからである。初稿で弥五右衛門の年齢を六十としたのは、乃木の齢と合わせたもので、「雪明りの窓」にむかって、一人で皺腹を斬ることになっていた。しかし実は大徳寺に仮屋を設け、多勢の京童の見物する中で切腹、介錯をしてもらったことがわかったのである。そのほかにも訂正があった。

なお、原著では遺書の部分が文語体である。著者に対して不遜、僭越至極だが、口語文らしくし、読みやすくするために適宜改行を入れた。

 1、 香 木 ・ 伽 羅 を め ぐ る 刃 傷 沙 汰 



私は年来の宿望を達したので、明日、妙解院の殿御墓前で首尾よく切腹することになった。このため子孫に事の顛末を書き残したく、京都の弟、又次郎宅において筆を取った。


私の祖父は興津右兵衛景通という。永正十一年駿河国興津に生れ、今川治部大輔殿に仕へ、同国の清見が関に住んでいた。永禄三年五月二十日、今川義元殿が陣中で逝去され、景通は殉死した。四十一歳だった。法名は千山宗及居士という。

父の才八は永禄元年に生れ、三歳で父を失い、母の手に養育されて人と成った。壮年に弥五右衛門景一と名のり、母の親族である播磨国の人佐野官十郎方に寄居していた。そこで縁故を以って赤松左兵衛督殿に仕へ、天正九年千石を給った。十三年四月、赤松殿は阿波国を併せ領せられ、景一は三百石を加増せられ、阿波郡代となり、同国渭津に住居を構えた。慶長の初めまで勤続していた。慶長五年七月、赤松殿は石田三成に荷担され、丹波国の小野木縫殿介とともに丹後国田辺城を攻めた。当時田辺城には松向寺殿三斎忠興公が立て篭もっていたが、家康公が上杉景勝を討つことになり、三斎公も随従し、後へは泰勝院殿幽斎藤孝公が留守居をすることになった。景一は京都の赤松殿邸にいる時、烏丸光広卿と知り合いになった。これは光広卿が幽斎公の和歌の御弟子であり、嫡子光賢卿に松向寺殿の御息女万姫君を娶わせたためである。さて景一は光広卿を介して御当家御父子とも心安くなった。田辺を攻めた時、関東におられた三斎公は、景一の外戚の従弟である森三右衛門を使いに田辺へ行かせた。森は田辺に着いて、景一に面会して御旨を伝へ、景一は又赤松家の物頭井門亀右衛門と謀り、田辺城の妙庵丸櫓へ矢文を射掛けた。翌朝景一は森を斥候の中にいれて陣所を出陣させた。森は首尾よく城内に入り、幽斎公の御親書を戴き、翌晩関東へ出立した。この年、赤松家が滅亡したので、景一は森の勧めで豊前国へ参り、慶長六年御当家に召抱えられた。元和五年御当代細川光尚公が御誕生され、御幼名を六丸君といった。景一は六丸君の付け人となった。元和七年三斎公が隠居された時、景一も剃髪し、宗也と名乗った。寛永九年十二月九日、御先代妙解院殿忠利公が肥後へ御入国された時、景一もお供をした。十八年三月十七日に妙解院殿が卒去され、次いで九月二日景一も病死した。享年八十四歳。

兄の九郎兵衛一友は景一の嫡子で、父について豊前へ参り、慶長十七年三斎公に召し出され、御次勤めを仰せつけられ、後、病気により外様勤めとなった。妙解院殿の御代になり、寛永十四年の冬、島原攻めの御供をし、翌十五年二月二十七日、兼田弥一右衛門と共に、攻め口の一番乗と名乗り、海を臨む城壁の上で戦死した。法名を義心英立居士といった。


私は文禄四年、景一の二男に生れ幼名を才助といった。七歳の時父について豊前国小倉へ参り、慶長十七年十九歳で三斎公に召し出された。元和七年、三斎公が隠居された時、父も剃髪し、私が二十八歳で弥五右衛門景吉と名乗り、三斎公の御供をして、豊前国興津に行った。 

寛永元年五月、安南船が長崎に到着した時、三斎公は御剃髪されてから三年目になったが、御茶事に用いる珍らしい品を買い求めるよう仰せられ、相役横田清兵衛と両人で、長崎へ出向いた。幸いな事には変った伽羅(印度産の香木、香木中の随一といわれる)の本木と末木二つがあって、はるばる仙台から来ていた伊達権中納言殿の役人が是非とも本木の方を取ろうとし、私も同じ本木に望をかけ互にせり合い、次第に値段をつり上げた。 

そのとき横田が言うには、たとえ主命であっても、香木は無用の翫物であり、これに過分の大金を費消するのはいかがか、所詮本木を伊達家に譲り、末木を買求めるべしと言った。私はそうは思わない。主君は、珍らしい品を買い求めて参れとの事であり、この度の渡来品の中で、第一の珍物はこの伽羅であり、その木に本と末があれば、本木の方が尤物中の尤物たることは勿論であり、それを手に入れてこそ主命を果すことになる、伊達家の伊達を増長させ、本木を譲ってしまっては、細川家の流れを涜す事とになると言った。

横田は嘲笑して、それは力瘤の入れ処が違う、一国一城を取るか遣るかという場合ならば、あくまで伊達家に楯をつくのがよいが、たかが四畳半の炉にくべる木の切れではないか、それに大金を注ぎ込むということは、主君御自身にてせり合はれたら、臣下として諌め止めるべき事柄である。たとい主君が強いて本木を手に入れたく思っても、それを遂げさせる事は阿諛便侫の所為であると言った。当時三十一歳の私は、この言分を聞いて立腹したが、なお忍耐して言った。それはいかにも賢人らしいいいようである、だが、私はただ主命というものが大切で、主君があの城を落せと言われたら、鉄壁であろうとも乗っ取り、あの首を取れと言われたら、鬼神であっても討ち果たす事と同じく、珍しい品を求め参れと言われたら、この上ない名物を求める所存である、主命である以上は、人倫の道に悖ることは格別、その事柄に立ち入り批判がましい事は無用であると言った。横田はいよいよ嘲笑って、お手前もその通り道に悖ることはせぬと言ったのではないか、これが武具などならば、大金を使っても惜しくはないが、香木に不相応な金銭を出すのは若輩の心得違いであると言った。私は、武具と香木との相違については私が若輩でも心得ている、泰勝院殿の御代に、蒲生(氏郷)殿が申すには、細川家には結構な道具が数多くある由なので拝見に往くとのこととなり、さて約束の当日になって、蒲生殿に、泰勝院殿は甲胃刀剣弓鎗の類をお見せになり、蒲生殿は意外に思われながら、一応御覧になり、さて実は茶器を拝見いたしたく参上した次第であると言われた。泰勝院殿お笑いになり、先には道具と仰せられたゆえ、武家の表道具を御覧に入れた、茶器ならば、それも少々持ち合わせているとて、はじめて取り出された由、御当家におかせられては、代々武道の御心がけ深くおわしまし、かたがた歌道茶事までも堪能にわたらせらるる事、天下に比類がないではないか、茶儀は無用の虚礼であると言うなら、国家の大礼、先祖の祭祀もすべて虚礼である。我らがこのたび仰せを受けたのは茶事に御用に立つべき珍らしい品を求むるほかに他事はない、これが主命だから、身命にかけても果さなければならず、貴殿が香木に大金を出だすことが不相応と思われるならば、その道のお心得なきゆえ、一徹にそう思われるのだろう、と言った。

 横田聞きも果てず、いかにもそれがしは茶事の心得なし、一徹な武辺者、諸芸に堪能なるお手前の表芸が見たいというや否や、つと立ち上がり、脇差を抜いて投げつけた。私は身をかわして避け、刀は違棚の下の刀掛けに掛けてあったから、飛びしざって刀を取って抜き合わせ、ただ一打ちに横田を討ち果たした。


こうして私は即時に伽羅の本木を買い取り、仲津へ持ち帰った。伊達家の役人は是非もなく末木を買い取り、仙台へ持ち帰った。それがしは香木を三斎公に持参し、さて御願いしたいことは、主命大切と心得たためとはいいながら、御役に立つべき侍一人を討ち果たしたのは、恐れ入る次第で、切腹仰せつけられたいと申し上げた。




三斎公は、その方が申し条一々尤も至極である、たとい香木は貴からずとも、この方が求めて参れと申しつけた珍品に相違がないので、これを大切と心得たことは当然である。すべて功利の念をもって物を見たら、世の中に尊い物はなくなる、ましてやその方が持ち帰った伽羅は早速焚き試みたが、希代の名木であるから「聞くたびに珍らしければ郭公いつも初音の心地こそすれ」と申す古歌にもとづき、銘を初音とつけた、これほどの品を求め帰ったことは天晴れである。ただ、討たれた横田清兵衛の子孫が遺恨を含んではならないと仰せられた。そこで直ちに清兵衛の嫡子を呼び、御前において盃を申しつけられ、私はかの者と互いに意趣を持たない旨誓言した。しかるに横田家の者どもが、とかく異志を存する由が聞え、ついに筑前国へ罷り越した。私へは三斎公御名忠興の興の字を賜わり、沖津を興津と改めるよう御沙汰があった。