| 乃 木 希 典 の 殉 死 |
|
|||||
|
乃木希典略歴、(一八四九〜一九一二)。 明治期の陸軍大将。長州藩士の家に生まれ、吉田松陰の師である伯父玉木文之進に薫陶を受ける。明治元年、戊辰戦争で幕軍と戦い、四年、陸軍少佐任官。十年、西南戦争で苦戦、軍旗を奪われ、これが終生の恨事となる。翌年結婚。十九年、ドイツ留学、帰朝後休職し、那須野で農耕生活を送るが、日清戦争に旅団長として出征。三十七年、日露戦争では司令官として旅順攻略を指揮、この激戦で二子を亡くす。しかし旅順では無謀な突撃を繰り返して、徒に死傷者を増やし、児玉参謀総長自ら指揮をとって、ようやく陥落させたのだ、という噂があった。四十年、学習院院長に任ぜられ、その精神主義を以って皇族子弟の教育に当るが、四十五年、天皇崩御により、妻静子とともに大喪の当日、自邸にて殉死を遂げた。
乃木はその朝、大礼服に身を改め、静子夫人(五三歳)とともに記念写真を撮影したのち、最後の参内に向った。帰宅して静子とその姉、馬場サタ子を加えて昼食をとり、午後も大分回ってから、静子ともども居間に退いた。乃木邸は赤坂の邸町にあり、居間はその二階、二間続きの日本間である。 階下でサタ子はいぶかしんでいた。将軍が御大葬儀に列する気配のないのは不思議であった。日も落ちて午後八時前、霊柩の宮城出発を告げる号砲が鳴り響いた。 ほどなくサタ子は、二階にあやしい物音を聞いた。すぐ様子を見に女中をやったが、座敷の戸は内側から錠が下ろされていた。内部からは呻き声らしいものが聞えたが、はっきりしなかった。 サタ子は直ちに付近の警察官詰所に電話したが、生憎話し中である。近所の医師にも連絡はつかない。最後に、御大葬の警備強化のため長野県から派遣されて付近を回っていた警察官が、たまたま女中の泣き喚く声を聞きつけて、邸内に入った。座敷の戸を押し開いてみると、血の海の中で将軍は横向きに倒れ、静子夫人はうつ伏せの姿勢でこと切れていた。死後一時間足らずとみえた。午後九時には警視庁の岩田凡平医務医員が到着、室内の状況をつぶさに記録しながら、綿密な検死にあたっていた。夫妻の死は自刃によるものと確認された。 彼は殉死の計画に細心の注意をはらい、冷静に実行した。当日、別当の少年と書生に暇をやっていたのも計画の一部であったろうと思われる。居間に篭った夫妻は明治天皇の写真、戦死した二人の息子と乃木の両親の写真を飾った。乃木は陸軍大将の軍服を着し、静子は紋付姿だった。弔砲の轟きとともに、じっと耐えて待っていたひと時が終った。 警視庁警察医による死体検案始末書から推すと、先ず、静子は短刀を用い、三度その胸を刺した。一度は胸骨に当たり、それが遮った。二度目は右肺にまで達したが、これでも死に切れなかった。三度目の右肋骨弓付近の傷は既に力が尽き始めていたのか浅かった。
その後、乃木は古式に従って自刃した。彼は坐して上着を脱ぎ、軍服のボタンを外し、腹を寛げた。軍刀を抜き、刃の一部を紙で包み、逆に擬し、やがて左腹に突き立て、臍のやや上方を経て右へ引き回し、一旦その刃を抜き、第一創と交叉するよう十字に切り下げ、さらにそれを右上方へ撥ね上げた。作法でいう「十文字腹」である。 次いでズボンの釦を丁寧にかけたのち、刃を上に、軍刀の柄を膝の間に立てると、死へ向って身を投げかけた。刃はうつ伏した乃木の頸部を貫き、頸動脈を裁断した。畳の上に鮮血が迸るなかで、乃木は直ちに絶命した。 乃木夫妻殉死の噂は、御大葬の儀式が終る前から、誰いうとなく広まった。翌朝の各紙の記事がその噂を立証した。東京朝日新聞は一面に大見出しで報じた。 乃木大将夫婦共に自殺 霊轜発引の弔砲を 合図として殉死す すぐ世界にも広がった。乃木はすでに旅順要塞の攻略者としてこの当時の日本人としては他国での知名度がもっとも高く、その死は文明世界の殆どの国の新聞に掲載された。その論評のすべてがこの日本の貴族が演じた中世的な死の様式に愕きつつも、その殆どが激しく称賛した。 公式発表は自刃の全貌を明らかにしていなかったため、新聞報道の一部には食い違いがあった。しかし全面的な公式発表がない状況でも、大衆は殉死という事件に湧き立ち、賛否両論が入り乱れた。すでに徳川幕府によって殉死が禁止されて以来、約二百五十年を経ているときに、乃木の行為は時代錯誤であると考える人々もいた。もと学習院の生徒であった作家・志賀直哉は「…馬鹿な奴だという気が、ちょうど下女かなにかが無考えになにかしたとき感ずる心持ちと同じ様な感じ方で感じた」と日記に書いている。 乃木の殉死は、日本のひとつの過渡期に終止符を打った。明治時代に、日本の指導者達は徳川幕府の鎖国政策から抜け出し、近代国家の基礎を築く事業を着々と進めていた。古い慣習は捨てられて新しい体制が採用され、社会は大きく揺れ動いた。 この過程において天皇制は要となる役割を果たし、一般大衆は明治天皇を軍事、工業立国に突き進む日本の象徴として仰いだ。実際にはすべての明治エリートがその忠義の対象を藩主・将軍から天皇へと移し変えたといってよく、一個の人格としての天皇と一体感を持つ者が多かった。一部の武士は、明治政府が天皇の”真意”を体していないとして、激しく非難した。 乃木は明治日本の栄光と闘争をともに体現している。建前として彼は、「和魂洋才」の結実である意気盛んな愛国主義と、軍国主義的拡張政策の表象だった。本音において彼は、急速に変化する社会的価値観への順応を迫られ、さまざまな心理的問題を相手に、たった独りの辛い闘いに立たされた者の典型であった。 乃木が生きている間も、また死後においても、個人的な葛藤―とくにその死―を解決するにあたって彼が採った道は、日本社会における、より大きな歴史的論争にとって、重要な意味を持つに至った。正しく乃木の自刃においては、個人的な意味の水準と歴史的なそれとが一体となっている。 乃木は例外的なケースだった。―なぜなら一九一二年七月三十日、明治天皇の死にさいして、殆んどの日本人は一時代の終焉を見た。だが乃木は、自分の生の終焉を見たのである。 |