石 子 詰 の 刑
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長岡郡大津村に石子詰が行われた墓がある。安芸郡津呂村字清水の山伏覚伝が、寛文十一年(一七〇一)十二月に放火罪でこの刑に処せられた。その方法は刑場の中央に四角な深い穴を掘り、その中に磐石柱と名づけた石を据え、罪人をこれに繋ぎ坐らせ、第一番に大先達が祖範役の行者の掟を読み聞かせ、紙に包んだ小石を投げつけ、それより二番、三番、四番と各山伏が手頃の石を投げ付ける。中には望み打といって狙い打をする者もあり、終には大石をもって打ち殺すという。




 (参考) 石子詰は一に「石籠詰」とも書く、又一に「大垣の刑」ともいう、原始時代の処刑の名残であろう。公刑としてこれを採用した例は、越後国上杉家であるが、他には余り用いなかったらしい。「俚言集覧」に「小石にて人を生きながら埋める刑なり、中古辺土にて往々ありし事なり」とあるように、私刑として行われることが多かったらしい。江戸時代においても、奈良の春日社の狛犬を盗み取った山伏を今の飯合川で石籠詰にしたと寛永五年(一六二八)の記録にある。 

奈良春日社の神鹿を殺した者は此の刑に処せられたという。今に十三鐘の哀話が残っている。昔奈良に三作(十三歳)という子供が寺小屋で手習をしている所へ、春日社の神鹿が来て双紙を食った、三作は何氣なく筆(文鎮という説もある)を投げると生憎神鹿の鼻にあたって鹿は其の場に倒れた。三作は神鹿を殺した罪によって石子詰に処せられた。即ち一丈三尺の穴を掘り死んだ鹿と抱合せにして生き埋めにされたのである。刑死の時刻が夕の七ツと六ツとの間であったから、これを十三鐘と称したと云う。




三作の母は、供養にと墓地のそばにモミジの木を植えた。これが花札の「鹿とモミジ」の始まりという。

近松門左衛門の芝居唄の一節にも、「せめて我が子の菩提のためと、子ゆえの闇にかきくもる、心は真如の撞鐘(つきがね)を一つついては一人涙の雨やさめ、二つついては再び我が子を三つ見たやね四つ夜毎に泣き明かす、五つ命をかえてやりたや、六つ報いは何のとがぞ、七つ涙で八つ九つ、心も乱れ、問うも語るも、恋しなつかし、我が子の年は、十一、十二、十三鐘の、鐘の響きを聞く毎に、可愛々々々々々々と共に泣きに、なくは冥途のカラスかえ。」        


 石子詰は僧侶や山伏に対する私刑で日本国中相当広い範囲にわたって行われた。また血を見ることを嫌う高野山でも、「石子詰」と呼ばれる方法で処刑が行われた。縛った罪人を深い穴の中に立たせ、一枚のむしろを頭にかぶせ、石や土を放り込んで生き埋めにした。処刑は必ず深夜に行われ、そのさい、蛇柳の枝に燈明がかかげられたという。

土佐の覚伝も恐らく山伏間の私刑であったであろう。羽後や越後、摂津、備後、鳥取、紀伊高野山、長崎あたりにもその私刑が行われた。

(土佐伝説全集外より)