首 斬 り 浅 右 衛 門 の 逸 話
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首 斬 り 浅 右 衛 門 の 逸 話 絞 首 刑 の 始 ま り






○浅右衛門の腕の冴えはいろいろな挿話となっているが、囚人の頚に張りつけた小豆を真二つに切って、しかも皮膚にかすり傷さえ負わせなかった。しかしあるとき、正装して斬られたいと願い出て許された吉原の花魁の首を斬ったときだけは、その女の美しさに心に迷いを生じ、手許が狂ったといわれる。


○幕末から維新にかけての有名な絵師である河鍋暁斎は奇矯な振舞いが多く、卒塔婆小町のノタレ死の有様を死骸が腐ってシャレコウベになるまで克明に絵巻物に作るなど、惨たらしい変態画が好きであった。あるとき画の仕事で首斬り浅右衛門を紹介してもらい、浅右衛門と同じ扮装をして刑場に臨んで、首斬りの現場をしかと見届けた。その後、親しい人に会うと、

「名士の首や、度胸のすわった人の首を、浅右衛門が見事斬って棄てると、その血はサッと勢いよく飛び散るが、臆病な弱い奴の首を刎ねたときは、血までが跳ねないで、ドロドロとみっともない出方をする」
と、笑って話した。 


○「手前共の麹町区平河町一丁目の邸に幽霊が出ると世間での評判は道理千万、手前にしたところで齢十二歳から幕府の届出を十五歳と披露して斬り始めた、されば三百有余人の怨霊取付くものなら今日まで命が幾つあつても足りる訳のものではありますまい、(中略)、ただここに手前共へ幽霊の出る為徹夜酒興を催し騒ぐといふ世間評の起こりといふのが一つあります、ソレは手前共で手前や弟子が多くの人を斬って帰ると身体はグッタリします、おまけに血に酔ふといふものか顔がボウーとする、疲労は言ふ迄もありませんから、父より其日は徹夜で騒ぐことが許されましたので、若い弟 子達は底を抜いて騒いだものです、之を世間は曲解して朝右衛門(ママ)は怨霊が出て寝られないから夜通し騒ぐのだと申し伝へたのでありませう」(明治四十一年七月十日「報知新聞」夕刊「首斬朝右衛門」より。これは吉亮の談話である)


○ある日、浅右衛門が死罪人の首を斬ろうとすると、そこに「東照大権現」と刺青がしてあった。浅右衛門は刀を振りおろすのを止めて、牢屋奉行の石出帯刀にその旨を報告して指示を求めた。家康公の名前に斬りつけるわけにはいかない、というのである。帯刀は、憎い奴だが致し方あるまい、一命は助けてやれ、といってその囚人を遠島の刑にした。ところがこの噂を聞いて悪党どもは大喜び、われもわれもと「東照大権現」の彫り物をしだした。そこで浅右衛門は それらの首を斬るときに、彫り物のしてあるところだけ細長く皮膚を切り取って、それからゆっくり首を刎ねたので、悪党たちは首の皮をそがれるだけ痛い目をみて損だと、このブームは一遍に消えてしまった。


○「徳川家の頃、罪人の首斬で名高い浅右衛門が或時賊を処置場へ引出だせしに其賊は浅右衛門に向ひ、汝は己等の仲間の為めには仇なれば此儘死すとも怨恨は汝に祟って報ひをなさんと恨めしげに述べたるゆゑ、浅右衛門は打笑ひて其方が如き鼠賊が怨を報ふなどとは小癪なり、美事祟りをなさんと思ふほどの精神ならば今拙者が首を斬たる後笑って見せよと嘲笑せしに、かの罪人は益々憤りオゝ斬れたる後笑って見せんとゆふうち閃く電光忽ち首は落ちたるが、其首両眼を開き浅右衛門を見て笑ひし故傍に在りし者は大に驚き彼奴中々執念深さ者なれば注意すべしと告げたるに、浅右衛門は冷笑してこいつ吾を怨む事甚だしけれど斬られし後笑ふべしと云ひし一心にて最早吾を怨むの念は消滅したり、人間最後の一念により生を引くといへば吾等の如き職業は平生に心得あるべき事なり、と語りし由云々」(明治十六年十二月二十一日「開化新聞」)





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