| 壮 絶 ! 薫 的 和 尚 の 論 争 |
|
|||||
|
高知市洞ケ島(ほらがしま)町字洞ケ島に薫的神社がある。
僧、薫的(くんてき)は、土佐国司一条家の族、池田中納言の裔である(末尾、詳述)、壮にして鳳山瑞應寺の住侶であった。瑞應寺は、もと、長宗我部国親追善のため建てられた禅宗寺で、初め長岡郡岡豊村にあったが、のち慶長年間、江ノ口太於島に移した、長宗我部氏隆盛の時は、国中屈指の巨刹であった。 寛文四年(一六六四)十一月二十四日に二代藩主山内忠義公が薨じ、その十二月十五日遺骸は潮江山に葬られた。菩提所真如寺住職了谷和尚は御戒名を撰し「竹巌院雲公龍山大居士」と申し上げた。 然るにその翌年一周忌の前日、薫的は真如寺に至りこの御戒名を見て嘲り笑ったので満座のもの何れも驚き怪しんだが、薫的は瑞厳寺に帰って早速手紙を認めて真如寺へ送った。それは凡そ国主の戒名は国家長久の文字を撰ぶべきは勿論のことである。ことに雲公の雲は風に乱るる不吉の兆ある上に、竹巌の二字も巌上の竹は枯るる怖れがある。かかる不吉の文字を撰したのは不埒至極である、宜しく松巌大居士と申奉るべきだという意味の手紙であった。 真如寺の了谷はこれを見て大に怒り、直ちにこの年紙を当時の仕置役岡田嘉右衛門へ送ったが、岡田は同役の安田弥市右衛門に見せ、其の夜二人は孕石頼母、桐馬兵庫の両奉行に相談した。二人の奉行も御法事が明日に迫った今日、今更御戒名を変えることは出来ないが、元来薫的は短慮粗暴の性質故よくなだめ諭すがよかろうと、孕石は薫的を自宅に呼び事穏便にすますようにと静かに話合いをしたが、薫的は一向承服せずその夜は兎に角一先ず瑞應寺へ立ち還った。 明くれば寛文五年十一月十五日、愈忠義公一周忌の御法事があり、第三代藩主忠豊公、後の四代藩主豊昌公を始め家老中老以下の諸士が法会の式に参列した、さて僧侶席は眞如寺が上席で瑞應寺は下席で、法会は一先ず滞りなく相済んだが心のすまぬのは薫的である。
薫的はこれより瑞應寺に立てこもり一足も門外に出です、日夜に仏前に結跏跌坐して経文を読誦し一切の寺役にも顔を出さず、頭髪も鬚髯も延びるがままにまかせ、憤怒の形相物凄く、丈け六尺に余る荒法師の荒行は覗き見る者をして戦慄せしめた。この噂が段々と広まったので奉行職も遂に捨て置きがたく忠豊公へ委曲言上したところ、公の仰せらるるには薫的は、余が幼時手習の師匠であるからその気性もよく知っている、中々奉行の言葉など聞くものではない、それとなく余の考えもいれて穏やかに説き諭すがよかろう、かの江戸の増上寺は知恩院よりは下座の寺柄であるが、天下の菩提寺としては其の上座についている、真如寺も土佐守菩提寺であるから瑞應寺との席の上下は自ら判つている、又戒名名の文字の事など今更如何ともしがたい訳であり、たとい了谷を追出したとて、他国にてこの如き僧が土佐の守の菩提寺の住職であったかと笑われるも我が恥である、奉行において然るべく宥めすかすようとの御意であった。 奉行孕石頼母は公の仰を奉じて役宅に薫的を招き、慇懃丁寧に今回の出来事を談り、此上はこのままに穏便に事を済ますようにせよと説諭したが、薫的は奉行に反抗し、仕置役は味噌塩のことは精しいだろうが仏道のことや戒名のことは御存じあるまい、奉行も奉行でその日を暮さるるではない歟、真如寺の愚僧を早く追放さるるが宜しいと、却って食ってかかるので、奉行もこの無礼の仕打に大いに立腹したのを見て、薫的は居丈高になり、愚僧の行為に罪があれば、斬るなり突くなり御勝手に御成敗あれ、愚僧には仏力があるから刃は受けでも死に申さぬ。勝手に御成敗あれと、髪ふり乱して飛びかからん勢に奉行も怒り心頭に発し、大喝一声すると同時に陸目附を呼ぶと、横山源兵衛走り出でたが、薫的の形相余りの物怖しさに躊躇逡巡していると、愚僧に手を掛ければ蹴殺してくれんと罵るのて横山陸目附も手足しびれて身動きもならず、奉行内に入りて大横目大庭金太夫現場にいで、和尚の御立腹さぞかしと存ずるが今日の処は一先ず瑞應寺へ御引取りなされ、と言葉をやわらげて諭せば、薫的も声を落し、今日は再び瑞応寺に還らぬ覚悟にて出で申した最早覚悟は致して居る、御両所に御迷惑はかけ申さぬと、大庭、横山の両役人に伴われて会所嶽屋の門に入った。忠義公の御法事は寛文五年十一月、薫的の入牢は翌六年八月で、戒名問題の時から十か月を経過していた。 薫的の下獄後一日横山源兵衛が牢舎の前を通るのを呼び止め、格子戸の内から鼻紙包みを投げ出し直に戸を閉じて又再び戸を開き是を見よと左右の親指をぶつりと噛み切り、白無垢の小袖を引き出して鮮血を以って、経文を書きしるし、其の上舌を噛み切ってその断片を前の戸板に投げつけたところ、其の舌片は板戸からはね返したので小袖にそれを包み、それ以後は堅く口をふさぎ座禅を組み西方を睨んだ両眼は怒りに燃えてかっと見開いていた。 横山も全く恐怖のどん底に立ったが、早速医者を呼んで治療せしめようと思ったけれど、尋常に医療を受けることは思いもよらず遂に医者にはみせなかった。先きに受取った紙包の中には黄金小判七枚が入っていたが、是は彼が瑞應寺を出るとき、何れは国外へ追放を命ぜられるであろうと、其旅費として用意していたが、図らずも追放どころかかく牢舎する身となって旅費は不用となったのであった。 その後薫的は憤怨の余り寛文十年の末頃から自殺を企て飲食を絶ったが、横山が見廻りにゆくと薫的はさて何という深い業因か七日七夜の絶食も生命を絶つに至らず、この見苦しき有様をお目にかけるは残念至極である、然し猶今日より三十七日の間絶食して満願の暁は往生を遂げん覚悟であると告げ、両眼平常の如く西方を睨みて跌坐した様は宛ら生地獄の苦悩である。果して薫的の言の如く二十一日目になって横山が牢舎を巡視した時、薫的は跌坐したまま両眼をかっと見開き絶息していた。時は寛永十一年正月十日の暁方であった。斯くして薫的は悲憤怨恨の果てに四十七歳の生涯を閉じた。
薫的は初めは小高坂山に葬ったが、その魂魄が関係奉行その他に崇りをなす評判が高く、殊に孕石家には種々不詳の事ども多かったと云う、享保十年(一七二五)には山内規重の母堂高善院が小高坂墓上に小祠を建て、更に十二年には山内家御簾中の方々が発起して遺骨を発掘し江ノ口瑞應寺の山中に改葬した。即ち今日の洞ケ島神社である。無実の罪を受けたもの、訴訟沙汰の者など祈願すると霊験頗る顕著であるとして県内外の崇敬者が甚だ多い。 (参考) 文明年間一條房家卿幡多郡中村に下国するや、東小路、西小路、飛鳥井等の諸家同族が卿に従ひ来り幡多郡に住した。房家の後三代兼定の時池田中納言また一條家をたよりて来り投じた。中納言は中村の字崩岸の住人康松安兵衛の女を愛して妾としたが、男子を産みて次兵衛と称した。安兵衛男子なきを以て養いて子としたが、次兵衛二子をあげ、長は又右衛門、次は四郎右衛門と称した。又右衛門は後出家して瑞應寺の和尚となつた、即ち薫的である。 (土佐伝説全集より) |