手 箱 山 の 氷 室 の 事
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以下は「寺川郷談」に記述された「手箱山の氷室」に関する全文である。


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八九月より山々に雪降。それが根雪と成りて段々ふりつもり、四月まで消ゆる事なし。兼て薪など取り元の所へ置されば、十二月正月に至り甚だ難儀しける。

手箱山と云御留山大山也。此山に雪屋と云所あり。いわゆる氷室也。むかしは毎年雪を詰めし所也。忠義君の御代迄、毎年六月朔日に此雪屋の雪を取りて壷に納め、夜送の早飛脚にて雪を献しけるとかや。領家郷の近道を今も雪屋と云う、此の故也。今は止りて其事なし。年内より雪を詰め置けば年中消る事なくありしと也。氷室の跡猶今にあり。


高 知 市 領 家 の 長 畝 峠 に あ る 「 土 佐 の 雪 道 」 の 石 碑

     

六月朔日賜冰(氷)節(しようのせつ)と云う。仁徳天皇六十二年五月に、額田大中彦ノ皇子摂津国闘鶏(つげ)と云う所に狩にいで冰室有を見給い、其氷いか様にして納るぞと問い給う。翁答て申さく、土を一丈ばかり掘、草を其上にふき、葦・萱などを集めて敷き、氷を納むればいかやうの旱にもとけず。是をとりて熱月に用いるとなん。其時王子此氷を仁徳天皇に奉らせたりと日本紀に載たり。其後季冬ごとに是を収て氷室をおかれ侍りしと也。御当国にも其節より此冰室ありけるにや。近き比迄丹波の奥山、又富士、伯耆の大山などよりも氷を献しけると也。又歳時記に、民間には旧臘製せし糧を貯え置き今日食して、氷をくらうことに準すと有。もろこしにも氷をおさむる事有。凌人職(りょうしんしょく)と云はれ氷を司る官也。晋の石季龍、三伏の日氷井台の氷をとりて大臣にあたえしと也。されば御当国の氷室もいにしえより有しか、いつ初りいつ頃やまりけるや。 此氷室の事、とかんしう・土佐遊(幽)こう・土佐日記・土佐物語其他記録にのらす。今は猶人しらす。


 この「寺川郷談」は、寺川へ赴任した下級武士・春木次郎八繁則が宝暦二年(一七五二)に友人に書き送った書状で、僻地の様子を事細かに書き留めた貴重な資料となっている。その間の経緯を彼は次のように書いている。

『御状致拝見候。然者、本川郷ハ山分之中にても殊に奥山に付、人の暮も他所に更りたる事も有之様に御聞被成、其荒ましを申こせと被仰越候へとも、公務にいとまなく御返事延引いたし候。中々ふミにて事たるましく候。けふハいたく雪もふり、淋しさのまゝ、文躰のつたなきは得もたゝさす、思ひ出筆にまかせ、おかしく思召候はんつれ共。かしく。

比は寛延辛未衣更、高知を出て、土佐の辺鄙本川郷寺川の庄村々をかけまハり、公家乃御用はしをも執行なふおりしも、山家のすまひ春も寒帰(さえかえり)、おのつから片山里なれハ、気候遅く桃李いまた開かす、猶楽ミもなく居る折から、おもひ出し御返事進候。聞およひ見及たる事、唯時の戯れ、茶のミはなしの隙より、寺川郷談(テラカハキャウタン)と題号して書付進候。御覧の後ハ、帯の中人、腰はりに用ひ給ひたり共さまたけあらし。  

宝暦壬申(二年・一七五二年)春正月    宝永堂(春木次郎八繁則)花押)』

 



なお、蛇足ながら、当時は江戸中期で桃園天皇の御代、徳川九代将軍・豊敷(とよのぶ)の頃で、政治的には大きい動きはない。

しかし、土佐藩では、一七二七年の高知城焼失、一七三三年には前年の凶作による飢饉などがあり、幕府から莫大な借金をし、藩財政再建を目指して藩政改革を断行した。行政整理や風俗の徹底、製鉄業の奨励、藩士からの半知借上、一七五二年には国産方役所を設置して製紙業の専売化をはかるなどしている。しかし専売化に反対する中平善之進らによるいわゆる「津野山一揆」が起こり、一揆側の要求を受け入れて一七六〇年に役所を一時的に廃止するなど、藩政改革は失敗に終わる。一七五九年には藩校・教授館を創設し、文武を奨励する。さらに目安箱を設置して広く意見を求めるなどしたが、あまり効果はなかったという。
 (平成十九年五月記)