| 秘 色 青 磁 |
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| 幸 田 露 伴 |
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青磁のはじまりは確と指すことは出来かねます。が、伝説的に後周の柴世宗の時からということになっていて、そしてそれは世宗の趣味深い注文から作り出されたということになっていますが、その前に既に同じようなものがあって、世宗は其上に一段進歩した、心持の良い、色の良いものを注文したのだろうと解釈することも出来ます。何でも物のはじまりを的確に断言することは甚だ危いことです。 それでも兎に角に青磁は柴窯(さいよう)からということになっていて、昔から異論も無く、其の初頭の青磁を「秘色」と称えて非常に結構なものとしているのですが、誰もまだ確実明白に、これが真の秘色だという極めのついたものを、歴史的の証拠を具備して観定めたもののあることを聞きませぬ。 そこで今ここに世宗の時代の顕徳の年号のある美わしい青磁の器があるとしても、誰も「ツケ石」になるものを所有してもいず、確とした鑑賞眼的記憶をもってもいないのて、驚嘆狂喜して、ただそれをよくよく観るというに止まり、これは確に秘色だとも何とも云うことは出来ず、よくよく丁寧な周密な力強い観方と博大な知識による間接的の審定材料を豊富に有理的に安排し得た後でなければ、其人の一家言としても何等の断言をすることはむずかしいことであります。 秘色という名義についてすら、後世からは支那でさえ推察的な解釈を下しているほどなのですから、秘色青磁の性質がどういうものであるかという云い伝えはあるにしても、それも何の程度まて信用されて然るべきかも不明である。秘は禁秘の秘である、民間のものではなく、禁裏の器であったところから、秘色といったというのが誰も知っている説であり、「高斎漫録」に、臣庶用いるを得ず、故に秘色というとあるのが古い解であるが、秘色という熟字があることは確にあるけれど、詩文等には甚だ稀に用いられたのであろうか、自分はまだそれを用いた詩等を見うけない。唐の陸亀蒙の詩の句を引用しているのは知っているが、あれは「翠色」(すいしょく)であって「秘色」とは無い。孫引で物を合点していると、どうも危い。今ここに陸の集が無いので、はっきりとは示しがたいが、たしか千峰翠色とつづいた語であったと記憶する。千峰秘色では、なっていない語である。よし実に秘色とあったとしても、それでは秘色青磁は柴世宗より以前に出来ていたことになって、伝説の秘色青磁の由来とは釣合わぬことになる。陸亀蒙は皮目休と共に世宗時代より前の晩唐の大詩人であるからである。陸亀蒙は自分の小舟の中にさえ茶道具を置いた雅人であるから、其人の詩の句に秘色という字が使ってあってくれると、まことに宜しいけれど、そうは行かぬようである。 ところがおもしろいことには、日本の文学には「秘色」の語が明らかに見えていることである。一は『源氏物語』の中、又一は『うつぼ物語』である。勿論其物と共に舶来の語であることは疑いない。時代は丁度宜く適合している。源氏の方は、非常に高い階級の家の零落している状を写してあるところで、其家の使用人等か、貴いものとも露知らずして秘色の器で食事をしているのである。秘色の器が甚だ貴いものだということを知っていてそこを読むと、如何にも巧みに紫式部か秘色の器を点出しているのに感心する。実際にまた当時の貴い家には秘色の器が存在したような事実かあり、又当時の読者には秘色の器がどういうものだということが理解されていたから、こういう場面の描写も生じたのであろう。うつぼの方では、地方の豪(えら)くもあり財もある所謂腹ふくれの、少し野暮だけれども非常に自由のきく紳士、金づく威勢づくて美人を掌中にしようというような者が、秘色の器で傲然と酒を飲んでいるところを描いてある。これも亦実に秘色を用い得て、妙である。しかも其人が筑紫の何とかいうのであるから、西方から舶来する高貴なものを使用しているには打って付けの段取なのである。 で、多くもない平安朝時代の文学の中に於て是の如くに「秘色」が顔を出しているところを見ると、兎に角に秘色青磁が当時の人に知られて居り、どんなものか理解されていたという証であり、少くも高級社会人には普遍性を有っていたものだということを語っているものである。 それであるのに其出産本国の支那では却って余り文献がなく、又何処の誰がどういう器を有っているという記事も殆ど無く、ただ伝説的に、其色が極めて美しく、其の薄いことか紙の如くで、其の響が清亮だということが云われているばかりであり、たまたま其欠片があって、それに金銀などて覆輪をつけて装飾物として愛重するということは有っても、しかもそれが果して真の秘色であるや否やを清の梁某の疑っている記事などが見えている程だから、先ずは麒麟鳳凰の如くに、紙上もしくば想像上のものになっていると云って宜い位である。真に驚くべき宝器となっているのである。 我邦でも伝来したことは疑い無いが「きぬた」やなぞのように見及んだ人は殆ど無いから、色々な陶器書類、又は宝器鑑賞書類等にも、其記事は甚だ朦朧たるものであって、的確な解釈をそれによって得ることは難儀であり、又精鑒家であっても確としたことの云えぬのは、却ってそれが本当の事であろうと思われる。 ただ我邦に伝来したものであろうことは、我邦と呉越方面との交通は今日の人が想像するよりも甚だ頻繁であって、特に呉越王の銭氏とは親密であったことは、考察の材料が沢山残っている。銭氏は唐末より宋初にあたって、富饒な地方の広域を有し、八十余年の太平を享有したもので、唐が亡びた時から天宝、宝大、宝正等の年号をさえ立てていた儼然たる一国王であった。周の世宗の顕徳年間を秘色青磁の出来た時と伝説に従って仮定すれば、それは西暦九百五十八年頃に当るが、呉越王は唐の昭宗から有名な「金書鉄券」を得た乾寧四年即ち西暦八百九十七年から地方的に雄拠して大勢力を張り、末の太宗の太平興国三年に納土するまで、他の地方は戦乱に喘いている中を殷賑富有な広域に人民と共に平和を享有していたのである。此の銭氏の管轄した地域内は即ち今に至ってまでも猶存在繁栄する陶磁製造地の所在方面である。是の如き銭氏の拠れる地方は又同時に日本との交通の衝にあたっているのである。 で、当時支那と日本との交通は、支那とは云え、実は殆ど呉越と日本との交通であったのである。此の呉越の銭氏は始終我邦と親睦するを主としてたので、『善隣国宝記』や『異称日本伝』が列記している位の事では無く、まことに相互に敬愛し合い、文明的及び経済的の交流は随分盛んに行われたものと考えられることは、本朝文粋に見えている清慎公の為に呉越王に報ずる後の江相公の書(天暦元年だから西暦九百四十七年)又右丞相の為に大唐呉越王に贈る菅三品の書(天暦七年だから西暦九百五十三年)に徴しても分明である。呉越の最初の入貢は承平五年(西暦九百三十五年)とされているが、其翌年にも来り、又天徳元年には金を送って我が叡山にある天台宗門の書を求め、又其三年にも使をよこしたことは、我邦で人の知っていることである。 台座の記に、乙卯とあるから、周の顕徳二年(西暦九五五)に呉越王銭弘俶の造った八万四千舎利塔というものがある。これは夏承原の造った顕徳五年即ち秘色青磁の出来たと云わるる年と同年に出来た舎利塔と共に清初に現存したものである。呉越王の舎利塔は清初の詩人の之を詠じた詩やなぞが多いので知られているものであるが、其舎利塔五百個を王が日本へ頒ったということは、程珌の『勝相寺記』というものに見えて居り、且其使者の舶に附いて天竺の僧で紙衣道者と渾名された転智という畸人が日本から還ったことか記されている。舎利塔は高さ五六寸の小さなものではあるが、塗金で釈迦因位の行の相を示してあるのであり、秘色青磁の方は今「これがそれだ」と或物に示されても鑑定は謙遜せねばならぬと思うが、此舎利塔の方なら考証し得る色々の条件は有る。が、こういうように微物とは云え五百体もの塔を日本へよこしたりするなんぞするほどに呉越は我邦に親しんでいたのである。自国産の越の陶磁器を何で吝(おし)むことがあろう、我邦に沢山の陶磁器を公私の便船で送り来ったろうことは想察するに難くないことである。秘色の名義も秘は閉であり、神であり、悶(ひ)である。色は彩ではあるが、後には一色雑色諸色などとも用いられる字で、「歌い手」「笛ふきて」等の「て」又は「かた」「もの」というような意味にも用いられるのであるから、「秘色」は「御物手」「宮中もの」というような風に解してよいのである。秘色の二字に直接に美しい青い色の意は無いのてある。 そこで平安朝(西暦十世紀頃)の源氏や「うつぼ」に秘色の名が見えることに何の不思議も無いことになる。であるから自分は戦乱が我邦だとて無かったのでは無いが、支那よりも比較的に古物が遺って居る我邦の静かな山寺などに秘色とも知られないで、くすぶったものになっている茶盆などが或は存在しはしないかと思うのである。そして高眼の人が或はそれを見出す日がありはしないかと想っている。しかしそれは夢のような談だと云われれば、勿論それは夢を掛けたような談である。 青磁といえば秘色からはじまったように、何時となく人々はそう思っている傾があるが、それは少し事実とは異なっているだろう。秘色青磁は青磁の世界に大飛躍をしたものではあろうが、元来すでに青磁が出来ていたればこそ、それの最も優美なものを造れと世宗が注文を発したのであろうことは、高い地盤が有ればこそ秀でた霊峰も有り得る道理に照らして分明である。既に唐の天宝年間あたり(西暦七百四十二年〜五十五年)に茶人であり、俳諧家であり、畸人であり、癇癪持であった陸鴻漸が越州第一、次は鼎州、次は婺(ぶ)州、次は岳州、次は寿州、洪州であると、茶盆の品評をしているではないか。また当時に於て邢(けい)州から美しい白瓷(はくじ)が出ていて、世の賞讃を博した。だから杜子美の詩にさえ邢州の白瓷のことは出ていたと記憶している。この邢州の宝は雪の如くであったが、越州の碗は釉色透明度が勝れて氷の如くであったと云われている。この越州の碗はしかも其色が青かったのである。透明度が強くて青いといえば、青磁の中には乳気のあるどんよりしたのと、冴えたのと、二種あるが、其の冴えた方の青磁で無くて何であろう。では、越州は蓋し唐の時から既に青磁を産し、そしてそれが時代の賞讃を既に得ていたのである。 いやそれところでは無い、唐よりも前の晋の杜育の『せん(漢字不明)賦』について考えると、越州は晋の時(西暦二百六十五年〜四百十九年)から既に茶に用いられる器、即ち茶盌の宜いものを出して世の賞するところとなり、従って文章にも取入れられたのである。『せん』は即ち茶である。杜育は如何なる人か、歴史には見えぬようだか、蓋し晋の中頃の杜軫一族の人か。杜氏は晋には栄えた氏である。『せん賦』も全文は存せず、今はただ八十六文字の逸句を存するのみだが、茶のことを記した古いものの一であり、また茶が栽培物とならぬ時代、則ち山野から自然物を採収した頃の文であるから、おのずから興味が惹かれる。余談にはなるが、其賦の中に「月はこれ初秋、農功少しく休む、偶を結び旅を同じくし、是れ采(と)り是れ求む」とあるので、此頃は秋初の手すきに採薬者の如く山谷を跋渉して茶を摘んだことが知られる。『せん』は今日余り用いられぬ字で、茶の晩く採らるるものの義になっているが、成程と『せん賦』の題目も首肯される。さて其の末の方に「器択陶簡、出自東隅」とある。簡は簡揀の簡で、えらぶということであり、唐人の引用には簡か直ちに揀になっている。此四字は畢竟、茶の器即ち茶盌が択び用いらるるということで、其の次の句、「東隅より出ず」は前句を受けて、其器は東隅より出ずる品が用いられるということである。此の「隅」は「すみ」ということではない、「甌」(おう)という字に通じるので音が同じなのである。だから唐人か引用した此文には 「隅」字か用いられずに直ちに「甌」字が用いられている。「甌」は「粤」又は「越」と同じことである。「出自東隅」は「出自東越」であって、即ち越州より出ずるというのと同じだ、と云ったら支那文字の古今音韻仮借相通のことを合点していない邦人には、何か牽強附会なことを云うと解さるるおそれが有るが、決して自分が故意にこじつけを云うのでは無い。この賦を読んで晋の時から既に越州が茶盌を出して名のあったことが知られる。越州岳州の器の色は唐の時に青であったのだから、おそらくは晋の時でも青いものであったろうと考えられる、晋から唐末宋初に秘色の出るまでの長い間には次第々々に進歩かあったろうし、ことに又隋の時には大に精巧なガラス性の窯製品が出来たのであるから、秘色以前に既に青磁が多く出来たろうことは疑い無く、然る後に一大飛躍が柴周の頃において遂げられたのであろうと想定する。 (一九三七年「瓶史」) 注、せんは、苑の右をヰに置き換えた字 |