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本 因 坊 と 私
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 ー 名 人 達 の 意 外 な 一 面 ー 

    

 (解題)著者・関根金次郎〈せきねきんじろう・慶応四年(1868)〜昭和二十一年(1946)〉。下総(千葉県)生れ。明治から昭和初期の将棋棋士。十三世名人。名人世襲制を実力名人制に改革し、近代将棋の父と称された。五十三歳で名人位に就く。坂田三吉との対局が有名で、坂田の十六勝十五負一分。楽天的で打算のない親分肌だったという。享年七十八歳。

関 根 金 次 郎 本 因 坊 秀 哉


本因坊秀哉〈ほんいんぼうしゅうさい・明治四年(1874)〜昭和十五年(1940)〉。東京生れ。明治から昭和初期の囲碁棋士。本名田村保寿。本因坊家の二十一世。終生名人制の最後の名人。木谷実七段との引退碁の後、本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、選手権制に移行した。力戦を得意とする棋風で、自負心が強く、金銭にうるさかったという。享年六十七歳。

本因坊もとうとういけなかったネ。全く惜しいことをした。寂しいかって?そりや、本因坊と私は四拾年近い交際だからな普通の友達つきあいにしたって三十年、四十年となると仲々難しいのに、馬が合ったと言おうか、二人ッきりの水入らずで、よく旅行もしたし、睾丸も見せ合った仲だからネ。

男の交際と言うものは、羽織袴の交際だけじゃあ駄目なものだよ。素ッ裸になってお臍の穴から睾丸まで見せ合うようにならなくっては。何処で最初に見せ合ったって?アッ、ハッハッハ……馬鹿な、日光へ二人ッきりでいった時かなア。一緒に風呂に這入ったからネ。

初めて二人が交際し出したのが、私が芝の松本町に住んでた時分だ。芝公園の裏手にあたる処で、近所に仲間の井上義雄八段も棲んでいた。

その頃本因坊は既に名人だったが、私はまだ八段で、名人になれるかどうかも皆目判らない時分さ。だから囲碁の名人、将棋の名人だから仲が良いという訳ではないんだ。さきに言った様に馬が合ったのさ。

本因坊はどッちかと言うとだんまりでむっつり屋、なかなか経済的にもしっかりしていたが、私は御承知の様に、ぱアッとしてる方だから、まして若い時分は興に乗れば着ている羽織でも着物でも脱いでみんなやってしまうという性格だから、まア陰陽がうまく合ったんだネ。

似てる処か!そうさな、後では碁将棋の名人同志、後先変わらないのは、女好き位のところかネ。アッ、ハッハッハ……。

だが、本因坊のえらい処は、何事にも熱心なところだ。どちらかと言うと器用な性で、将棋、聯珠、大弓、弓なんかあの痩せっぽちの小さな体躯をしながら相当強いのを引いたからネ。術なんだろう。懲り出すと何でもある程度に達するまで、そりゃ熱心なんだ。

将棋がそうだった。素人初段位の腕前があったが、本職の碁を打つと同様に、よく考えて決して一手も苟しくもしないという態度なんだ、あの位の程度ならまア一時間もかかればせいぜいなのに、本因坊のは考え込むので二時間も三時間もかゝった。

これに閉口して将棋会なぞに顔を見せると、

「まア、あなたはお強いんだから見ていて頂きましょう」

なんて敬遠され勝だったよ。この熱心の態度だな。私は黙ってそばで見ていて、いつも敬服していた。

いちばん最後に逢ったのは、築地の魚利という料亭だった。去年の十一月頃で、その時分喘息で大分弱っていたらしいが、それでも酒一本半位呑んだかな。

妙に懐かしがって、帰りに自動車で私の家のところまで送って来て呉れた。私の家の隣りの隣りが米内総理の今度のお宅だが、自動車がそこまで這入るんで、そこで車をとめ、私を見送って、

「関根さん、体を大事にしておくんなさいよ」

と声をかけ、

「俺よりもあんたが」

と笑って別れた。あれが最後の別れになった。

熱海へ行くとその時も言ったので、私の知っている家を紹介したが、そこの家へ行ったかどうだか。亡くなったと聞いたのでよっぽど熱海まで迎えに行こうかと思ったが、丁度折悪しく、私も風邪を引いて寝ていたので、行けなかった。残念したよ。

それでもこっちの告別式に出かけて行ったが、流石にいろんなことを考え出して、ジーンと涙が出そうだった。しばらく電柱に凭れていたよ。

私が明治元年生まれの七十三歳、本因坊は私と六ツ違いだったから六十七歳、まだまだこれからと言うところだからネ。

私の健康法として何でも無理をしてはいかん。私なんか風邪を引くとほとんど治るまで幾日でもじっと家の中にこもっている。柳に雪折れなしと言おうか、将棋でも無理筋を指すと、王様が頓死する様なことがあるからネ。何でもじっと辛抱しているのが肝腎だ。五十前なら女でも酒でもいくらやっても平気だが、六十七十となると、気をつけなければいけないよ。お蔭で今年は喘息も大分いい。

本因坊にはどこか無理があったんだな。正直だからネ。死ぬ前には体重が八貫メ欠けていたというよ。いくら小男だって、拾貫メ欠けちゃ心細いだろう。

小男に就いちや面白い話があるんだ。本因坊が台湾に出かけていった時、何処かの宿屋で盗賊に逢って、身ぐるみ持っていかれてしまったんだ。囲碁の名人だったのであっちの警察でもいろいろ心配して呉れてその結果暫らく経って犯人が捕った。どこから足がついたかと言うとネ、古着屋からなんだ。本因坊は五尺に満たない小男だから、そんな子供みたいな着物は、ざらにはないからネ。それですぐ知れたのだ。盗んだ泥棒も定めし苦笑してたろうな。

私は本因坊が死んでから二度夢を見た。ゆうべも本因坊の夢を見たよ。

何でもどっかの料理屋みたいな処で二人……、六七人の芸者や半玉に取りかこまれて芝居の切符なんかやってるところだが、目がさめてさすがに寂しかった。襟許が寒かったよ。

随分二人で遊んだからな。会計はかわり番古にやることにしていたが、本因坊は地味だろう、私が芸者を八人も九人も呼ぶとそわそわして便所にばかり立っているんだ。それで、

「本因坊さん、この口は私がもつよ」

と言うと落着くんだ。

若い頃は、二人して新宿にも吉原にも遊びによく行った。木村義雄は吉原の朝帰りの拾いものなんだ。

その時も本因坊と二人で、浅草の草津温泉の近くの伊藤作次郎という人のやってる将棋会所の前を通ると、

「先生!寄ってって下さい」

と無理に引っぱり込れて、坐敷に上ってみると小さな可愛いゝ子供が一生懸命指してるんだ。見ていると本因坊が、

「なかなか筋がよさそうじゃないか!」

と言うんだ。私もさっきから内心感心していたんで、

「坊や、俺が一番指してやろう」

と六枚落かで、五番ほど指してやった。これがいまの木村名人さ。矢張畑は違っても本因坊の目のつけ処はたしかなもんだ。

吉原からの朝帰りの拾いものとしては、大物を拾ったものさ。

近頃は二人で出かけると、方々の新聞社なぞで跡をつけられるんで、自然足も遠くなったが、十年前までは、本因坊がメリンスの腰巻き、私が麻の股引をはいて、随分弥次喜多旅行に出かけたものだ。茨城、千葉、栃木、群馬、の近県は勿論のこと、九州、越後、奥州、までのして歩いたよ。

羽織、袴の姿をしていれば、そんなこともないのだろうが、麦藁帽子に洋傘ついて二人とも余り目つきがよくないからネ。大抵の知らない宿屋へ行っては、ジロリと一ぺん見られて、体よくお断りを喰ったもんだ。

しまいにはこっちも馴れっこになってしまって、知らない土地に行くと、宵の中は料理屋で呑み、更けてから土地土地の遊郭にくりこんだものだ。私も若い頃はよく呑んだからネ。

本因坊から直接聴いたんだから間違いはなかろう。本因坊のまだ若い頃、とおし碁を頼まれた。通し碁と言うのは、二人が打っている蔭にいて、急処に来ると「こう打て!」とそっと知らせてやる奴さ。

その時は二階から通す仕組になっていたと言うが、本因坊はチビリチビリやり乍ら天井の格子の間からでも、下の碁を窺っていたんだろう。昔はよくそんな造作の家があったもんだ。

 その中に酔がまわってかいゝ気持になって、一升樽を枕にうとうとしてしまった。下では対局が佳境に入って、肝腎の急処で二階にいる筈の参謀にいくら合図をしても一向に通して来ない。不思議に思って二階を見ると、本因坊の足が格子の間から、ぶらんとぶら垂っていた。

これとよく似た話が、私にもあるよ。通し碁、通し将棋、なぞは昔はざらだったからネ。

秩父の大宮に玉金と言う親分がいた。昔は将棋遊歴をしてあるくのに、よくその土地の顔役の許を手頼っていったもんだ。あゝ言う人たちは手頼っていくとよく世話をして呉れるからネ。私は清水の次郎長親分の許を尋ねていったことがあるよ。子分達と将棋を指してぶらぶらしていた。

玉金親分は太ツ腹の面白い人達だった。将棋が好きなんだが、下手の横好きと言う方でネ、土地の高利貸しに宇野さんという人がいた。この宇野さんの将棋はがっちりしていた、どうしても玉金親分は勝てないんだ。

ある時私が訪ねていくと、どうしても宇野さんをやッけてやるんだから、通し将棋をして呉れと言うんだ。こっちはまだ若いし、面白半分に、

「ようがす、一ツやッけましょう」

と言う訳になり、しめし合せて土地の料理屋に乗り込んだ。

その仕組かえ、玉金親分と宇野さんが対局していると、親分の妻が宇野さんの背後にぴたりと坐って、つまり親分と向い合いさ。

私は親分の横の坐敷の障子に穴をあけてそこから一生懸命覗いている。そして将棋が難しくなって親分が考え込むと、ツケギッパ、ほら昔マッチのかわりに使ったあれさ、あれに五六歩なり五八飛なりと書いて女中に渡すんだ。

すると女中がまた妻君に手渡すと、妻君は宇野さんの背後に大丸髷の脇にそのツケギをひよいと出すんだ。この方法はようやったもんで、俗にツケギと私達仲間では言っていた。普通なら気が付くんだろうが、対局中は誰れでも熱くなっているから案外気が付かないんだネ。

もっとも女中が一人では判ってしまうので二三人そばに置きかわり番に坐を立たせたもんだが、おかしかったのはその時私が風邪をひいていた。で、咳が出て仕方がないんだが、私が咳をすると相手にあやしまれてしまう。

黒飴をもらってそれを舐めていたが、そんな時に限って余計に咳が出るもんで、我慢出来ずに私が咳をすると、妻君や女中達が、相手に気付れない様に、後からゴホンゴホン、やるんだ。すると宇野さんは駒を握り乍ら、

「大分風邪が流行っているな」

とすましている。おかしくても笑うことが出来ずあんな苦しかったことはないよ。

何か二人の失敗談だって。

それはあるさ、しかし失敗談は他人にも話せず、また女房にも話せない様なものばかりだ。そうさな、罪のない失敗談というと、本因坊と私と外に二人ほど、同勢四人で下総の古河に遊びに行ったことがあった。

たぶん桃見に行ったかと思うんだが、その時一杯やる積りで上りこんだ家が、田舎によくあるだるま茶屋という奴さ。茨城県は遊廓がなかったと思うんだが。そのせいか田舎の小料理屋には、大抵だるまという酌婦を置いてあるんだ。

その家も酌婦が五六人いてネ、その中にひとり三十五六の大年増がいたんだよ。それが水が垂れる様な濡羽色の大丸髷、なかなか色ッぽい女なのだ。

私達も酒がだんだんまわってくるし、するとその女が盛んに本因坊に秋波を送るんだ。本因坊も悪い気はせず、さしつさゝれつして呑んでいると、私のそばにいた女が私にちよっとゝ耳うちするんだ。

「何だッ!」

と言うと、袖をひくんで部屋の外に出てみると、女はいきなり、

「彼の大年増を何だと思う?」

と言ふんだ。

「何だって、女だろう、まさか化物じゃないだろう」

 と言ふと、

「いえや、慥かに化物だ」

と言うんだ。で私も喫驚してネ。

「どうして化物だ」

訊くと、

「あの大丸髷はかつらで、ほんとうは台湾坊主で、つるつるさ」

「でも、内密で、言っちやいけない」と言うんだが、まさかそうと知っては黙ってはいられないから、私も本因坊をそっと呼び出して、

 「あの女はいけないよ。化物なんだから」

といま聞いたそのまゝを言うと、本因坊も不思議そうに、

「どうして?」

「台湾坊主で、あの丸髷はかつらなんだ」

と言うと、吃驚してネ、そのまゝ酔も何もさめ果てゝしまって、

「帰ろう、帰ろう」

と言って、どんどん帰り仕度して、女のとめるのを振りもぎる様にして、逃げて来たことがあったよ。

まア、これ位にしておこうよ。あんまりお喋べりすると、また夢の中に出て来て、

「関根さん、あんまり脱線してはいけませんよ」

なんて言われるからネ。あゝ、あんな傑物はもうなかなか出て来ないだろうな。私は寂しいよ。

(昭和十五年、日本評論)        

 


 参 考    本 因 坊 戦 創 設 前 後    阿 部 真 之 助


私が毎日新聞の学芸部長のころ、囲碁将棋の欄といえばすこぶるお座なりで、他紙のお付合いで掲載しているといった程度だったから大変見劣りがしていた。せっかく囲碁将棋の欄があるのにこれではいけない。どうせやるなら立派なものを作ろう、ということで碁将棋の名人戦を同時に企画した。ところが秀哉名人は名人戦でなく本因坊戦でいきたいと主張して自説をまげない。当時は本因坊即名人という考えだったから、まあそれでよかろうということで将棋の名人戦と相前後して本因坊戦が創設されたのである。 

当時の将棋名人は関根金次郎氏で、秀哉名人と大変仲がよろしい。旅行をするにも遊びにいくにもいつも二人一緒だった。はじめに名人の公開を決心したのは関根名人で、秀哉名人はそれでは自分も本因坊戦を解放しようという気になったようである。といえば、まことに簡単にこのような大棋戦が成立したように聞えるが、本因坊戦が成立するにはずいぶん苦労したもんだ。本人はもちろん門下生十数名の承諾をえなくてはならない。それにそのころ飛ぶ鳥を落す勢いだった木谷実、呉清源という花形棋士も口説かなくてはいけない。その交渉は主に我が社では私の部下だった黒崎貞次郎君があたり、坊門では村島誼紀さんが軍師格だった。村島さんはまだ若かったので、いろいろの兄弟弟子たちが暗躍した。なにしろ関根名人にしろ秀哉名人にしろ、このままじっとしていたら死ぬまであぐらをかいて名人本因坊でおれる。それを手放すのだから名人一生の生活を保証しなくてはならない。一門のお弟子さんたちのことも考える必要がある。それに花形棋士の処遇の問題、そういうことがからみあって、当時としてはじつに膨大な運動費と契約金が動いた。だから私としても成功しなかったらむろん馘を覚悟していた。 

碁将棋はそのゲームの性格がそれぞれ棋士に反映すると見えて、将棋のほうはゴタゴタしても一たんこうときまったらあとは早い。さっぱりしたものだった。ただ途中で某社がスターを引き抜くという事件が生じて、合併するのにえらく骨を折った。碁のほうは道中が長い。息が長くて、実際何遍あきらめかかったかわからんほどだった。 

さて交渉の間、秀哉名人とは始終会った。あの一寸法師みたいな人だが、勝負師根性はすごいものがあった。秀哉名人は本困坊の名跡を残してそれを永久に伝えたい、という考えから本因坊戦を主張したわけだがこれは碁界のために大変よかったのではないか。はじめ名人戦を企画したときは、古いものを破って近代的にしようという狙いもあったわけだが、べつに古いものは邪魔にならないし、今日の本因坊戦隆昌を見るにつけても秀哉名人の考えは正しかったと思う。それに本因坊の名跡を権威あるものにして残したことは秀哉名人自身も満足だったことと思う。


秀哉名人が亡くなったというしらせを受けて、私は小田急の祖司谷大蔵にある名人宅を訪ねた。死骸を見たら体がちっぽけで頭だけがものすごくでかいが、体はスパーッとして何もありゃしない。でっかい西瓜が畠の真中にころがっているみたいな感じだった。死んでしまえば頭などどうでもいいものだが、名人は死んで大きい頭を残した、という印象を強く受けた。

(昭和三十七年、『秀哉名人二十三回忌追悼集』より)


引退碁のあと間もなく、秀哉名人は昭和十五年一月十八日、熱海のうろこやで保養中、心臓病で亡くなった。