高村光太郎「三陸廻り」に関する現在的視点


  1. 高村光太郎(1883-1956)

    高村光太郎の父、中島光蔵(高村光雲1852-1934)は、祖母の縁故から牡鹿半島金華山のお寺(黄金山神社)へ養子として行くはずであった。ところが光蔵の父中島謙吉が、床屋の親父の勧めでそれを止めさせ、12才で高村東雲の徒弟に出させた。
    高村智恵子が生涯大事にしていた御守り袋の中にあったのは、高村光太郎作の木彫りのサザエであった。そのサザエは何処のサザエをモチーフにしたか。高村光太郎は、作品を作る時、自然の物を丁寧によく観察する人であった。サザエは黒潮の磯で多く取れる。金華山や唐桑で昔、サザエが取れたかどうか。紫ウニやアワビ、岩牡蠣(いわがき)などのようだ。唐桑の御崎の日高見神社に高村光太郎の碑があるので確かに来た事があるはずだが。
    高村光太郎は、東京美術学校彫刻科を卒業後、23~25才の時、ニューヨーク・ロンドン・パリで学び、1912年(大正元年)銚子へ旅行した際、犬吠崎で智恵子と出会った。1914年(大正3)に福島県出身の智恵子と結婚。貧困生活が続く。1931年(昭和6)、時事通信社の委嘱で三陸旅行。その留守中から智恵子に精神病の兆しが出始めた。1937年(昭和12)、肺結核で智恵子死去。1945年(昭和20)の第二次世界大戦中、駒込のアトリエを焼失(62歳)し、高村光太郎は岩手県花巻の宮沢清六(宮沢賢治の弟)方に疎開した。その宮沢家も空襲で壊され、やむなく小屋で農耕による自給自足の生活をし始める。
    唐桑は1871年から1874まで水沢(現在岩手県)の管轄地域であった。水沢町には当時有名な緯度観測所(国立天文台水沢観測所)があり、高村光太郎はその場所を訪れ、東京で見る星空と大分違っていたと感想を残している。汽車・バス・トラック・馬車などが走り、気仙沼・唐桑の海産物が一の関まで運ばれていた。大型蒸気船が八戸・宮古・釜石・大船渡・高田・気仙沼・石巻・塩釜・いわき・銚子・築地間を航行していた時代である。


  2. 気仙沼 時事新報/昭和6年10月高村光太郎「三陸廻り」 1931年(昭和6)7月末~8月初旬 

     外洋に出ると、船は南方二十余キロの金華山を後ろにして針路一直線に北に向ふ。水温二〇度、気温二七度、東方右舷の水平線に有るか無しかの遠洋航路の船が数分間置きに一定の煙を空に残してゆく。この水平線上の電信記号がいつまでも消えない。暮かかる頃、岩井崎から奥深い気仙沼湾にはひる。湾内は浅瀬で、もう暗やみの水路が甚だ狭い。大浦の陸とすれすれに進み、浮標の灯をたよりに入港する。午後七時半。
     船から見た気仙沼町の花やかな灯火に驚き、上陸して更にその遺憾なく近代的なお為着せを着てゐる街の東京ぶりに驚く。賑やかな海岸道路の宿屋には、もう渡波から此所に来てゐる虎丸一行御宿の大きな立札が出てゐる。玉錦一行の割当人名が出てゐる。私は或る静かな家に泊つたが、夏に旅行する者の必ず出会ふ旅館の普請手入といふものに此所でも遭つて当惑した。勉強な大工さんが夜でもかんかんやるのである。さうして在来の建方を「改良」して都会風な新様式に作りかへる。
     翌日は朝からがんがん暑い此新時代の町を歩き廻る。社会施設の神経がひどく目につく。さういふ事に余程熱心な自治体らしい。古刹観音寺にゆけば婦人会の隣保事業があり、少林寺の焼あとにゆけば託児所で子供が鳩ぽつぽを踊つて居り、天満宮の山に登れば山上に公衆用水道栓があり、海の見晴らしにゆけば日本百景当選の巨大な花崗石の記念碑があり、あらゆる道路に街灯が並び、大きな新築の警察署があり、宏壮な小学校にはテニスの競技があり、学術講演会があり、一景嶋近辺へゆけば塩田何々町歩を耕地に整理して水田の何々町歩を得たといふ立札が立つて居り、夜になれば鼎座に浪華節(なにはぶし)があり、シネマがあり、公娼が居なくて御蒲焼があり、銀座裏まがひのカフエ街には尖端カフエ世界、銀の星、丸善がある。「車引いて商売する。悪いことあるか。」朝鮮人のアイスクリイム行商が反抗する。「ある、ある」とお巡りさんが腕をねぢつて連れて行つてしまふ。おそろしく至れり尽せりの外客整備に旅人はただ茫然として突き放されてゐる。
     此日小高い山腹の曹洞宗木食上人道場自在庵を訪ふ。洒脱な住職が慧海師将来の西蔵(チベット)仏などを見せてくれた。「私は山形の画かきでありますがごらん下さい。お志があれば紙代でよろしい」と突然縁がはに軸をひろげた人がある。住職は、「此寺は貧乏寺でな、お盆前では御交際も出来ません、お盆にでもなれば何ぼか貰ひがありませうが」と断つてゐる。画家は又軸を包んで横に背負ひ「御縁があつたらまた」といつてとぼとぼ山を下りて行く。
     私は忽ち海が恋しくなつて其夜十時、遂に気仙沼の新調の洋服を見ただけで、釜石行の船に乗る。


    現在的視点その解説

    79年前のこの文を現在から見ると、天満宮の山というのは安波山(あんばさん239m)で、観音寺と少林寺を見学した後、その場所から近い八日町(ようかまち)市役所脇から安波山へ登った。しかし、山頂に公衆用水道栓は設置されていず、浜見山(はまみやま)や五十鈴(いがれい)神社の水道栓を一緒にして略したようだ。海の見晴らしの記念碑は、五十鈴神社の石碑か、浜見山から内湾の眺めか、巨釜半造(おおがまはんぞう)か。巨釜であれば唐桑(からくわ)の小鯖(こさば)まで小船に乗り、そこから20分ほど歩かなければならない。唐桑は道がうねっているので、小鯖から巨釜半造まで丘の多い情景と、蝉が鳴き、磯の波の音が聞こえる断崖絶壁について感想を書くはずと思える。その場所へ行きたかったが時間と費用がかかるため、五十鈴神社の石碑を見ながら神明崎(しんめいざき)の上の岩場から内湾風景を眺めたと考えた方が近い。小高い山腹は、その形状から考えると陣山しかない。大きな新築の警察署は、その当時南町にあった昭和5年3月に新築された木造建築物。一景嶋(いっけいじま)は内ノ脇(ないのわき)の砂浜の離島だった所で今は埋め立てられ公園。銀座裏まがいのカフエ街は、南町裏通りから八日町までの振商会通り。その場所を通った事になる。滞在日が記述されていないので何日歩き回ったかはっきりしないが、一日でこれだけ回りきれないので2泊2日ではないかと思える。観音寺、少林寺側の託児所、御蒲焼(扇屋)、丸善(文信堂書店)は、現在もそのまま残っている他、地名や店名が変わり、尖端カフエ世界、銀の星は無い。「公娼が居なくて御蒲焼があり」と表現されている言葉から、昼食時間に扇屋に入り、鰻の蒲焼を食べ、尖端カフエ世界にするか銀の星にするか迷いながら、味見をするため尖端カフエ世界でコーヒーを飲み、地図を調べたり行動記録などのメモを取った。その後、書店の中でどのような本が並んでいるかを見回り、新潮社装丁の島崎藤村の本を見ながら、その出版社名の意味や韻律を考えたり、タカテイで新調の洋服を買うべきか我慢すべきか迷った可能性が高い。そうでなければ後で店の名前を思い出すことは難しい。尖端カフエ世界は、現在のバンガードの前身かも知れない。高村光太郎は、この日の夕方から夜9時過ぎまでどのように過ごしたか。新疆(しんきょう)の焼き鳥屋店内に入り、夕食代わりに焼き鳥を食べながらビールを飲んでいた。その店には入る人が多く、夜9時過ぎまで営業していた。
    気仙沼では大正4年3月30日(午後3時30分出火1064戸焼失)と昭和4年2月23日に町が全焼する大火事があり、高村光太郎が来たのはその2年後だった。街路には新築の店舗や家屋が建ち並んでいた。「私は忽ち海が恋しくなって」という文は本当にそうか引っかかる。銚子での出会いを思い出したのか、異邦人的な旅人の郷愁か、人間嫌いからか。この場を早く去りたい適切な理由や言葉が思い浮かばず、気がゆるんでとりあえず書きつなげたようだ。三陸沖の「潮目」や「やませ」がどうゆうものか、自分の目で観察したかったのではないだろうか。
    三陸旅行中、高村光太郎は間食としてとおもろこしを食べた事を何度か記述している。しかし、宿泊した場所での晩餐の食事に関しては、あまり細かく書いていない。どこの旅館も食事の献立はあまり変わらないため、表現上の繰り返しを避けたものと思える。特に酒に関しては一言も触れていず、飲む人か飲まない人か不明にした意図を察すると、飲むには飲むが他人に勧めたくないためその表現を避けたと考えられる。陶芸家や彫刻家の知人を思うと酒豪が多い。飲んでも酔わず、頭が明晰になり、眠れなくなる人のようだ。自然に対する朴訥な殻があり、派手でも素朴でもどうでもよかった。確かなことは神経質な性格だった事がうかがえる。時間を無駄にするより仕事や制作に専念したい気持ちの方が強くなるため、酒に関する記述をあえて回避した人ではないかと思える。


  3. 夜の海 時事新報/昭和6年10月高村光太郎「三陸廻り」 1931年(昭和6)7月末~8月初旬

    夜の十時に気仙沼を出た小柄な東華丸は何処へも寄らずに釜石までゆく。夜の海は私を寝かさない。私は舷側に立つて珍しいものを見るやうにいつまでも海の闇黒を見ている。むしろ寒い。船員は交替時間にどしどし船底へ行つて眠るのが本務だ。客の好奇心などに構つていられない。五六人の船客も皆ねた。私は一人で露地裏のやうに狭い左舷右舷の無言のレエヴリイを楽しむ。十一時半。船が気仙沼湾の大嶋の瀬戸をぬけて御崎を出はづれ、漁火のきらめく広田濁を左に見て外洋の波に乗る頃、むつとする動物的空気の塊に肌が触れる。
     殆と無風。何かが来たと思ふまもなく船は二、三秒で、ガスに呑まれる。まだ頂天の星の光はおぼろに見えるが、四辺は唯この青くさい不透明な軟かい物質の充満だ。船は眼そのもの、耳そのものとなる。ちんちんと低い鐘が三つ鳴る。又一つ。機関の音がぱたりと止み、船はうねりの横波の中で停る。急に静になつた舷側をぱちやぱちやと水がうち、盥のやうに船はゆれる。針路の漂?(ひょうちゅう)をなほす爲か、舵の鎖が重く強く長くずるずると音を立てる。船首の燈火が闇黒の世界にぼやけた暈(かさ)をつくる。十分、二十分。依然たる寂箕。やがて三点鐘。又一点。機関は再び呼吸を始める。微速前進。船は幾度か考へなつむやうに又停り又進む」「いつ知らずうとうとするまに、「快挙録」で知つていた綾里(りょうり)や、越喜来(おきらい)や、津浪惨害の甚大で聞えた吉浜を濃霧の中に通り越し、しらしら明けの空に尾崎の三角岩があらはれる。やがて船はもういいといふやうに勢よく汽笛を鳴らして釜石港の午前六時に挨拶する。

    現在的視点その解説

    高村光太郎は観光名所に寄らず、船旅ができる港町内、旅館や船着場から半径1.5km以内の視察に限定し、経費を節約していた。昭和6年の船は、大型の新東北丸(三陸汽船)が石炭燃料の蒸気船、大正末期から小型エンジンが出始めていた。夜十時に乗った釜石行きの船東華丸は、船底に畳が敷いてあり汽笛の鳴る機関船だった。漁船は一本マストに帆が付いたものが昭和初期まで多く、昭和6年の漁船は小型帆船からエンジン式に代りつつある時代だった。昭和9年に合併して発足した釜石製鉄(株)は、第二次世界大戦前まで鉄の産出量において国内の65%を占めた時代もあり、鉄道のレールや鋼鉄などを生産していた。

    東京都内から湘南へ車で行く時、海風に運ばれ平野を渡ってくる砂浜や海の匂いがする。その匂いに10km先から、一早く気づいたのは、清里高原育ちの友人だった。「漁火のきらめく広田濁を左に見て外洋の波に乗る頃、むつとする動物的空気の塊に肌が触れる」と、高村光太郎が注意しながら表現したのは、他に形容のしようがないその通りの現象だったからのようだ。干潮時の浜や磯岩の匂いと異なり、動物的空気の塊は何であったか。イカ釣り船から上がるイカの吐く墨の匂いか、鯨の呼吸か、広田濁の海底ガスの匂いか。不可解だったにちがいない。
    昨年、湾内に霧が深くたちこめ、風がない生暖かい日があった。この匂いは何だろうと、そのむっとするような特別な匂いが気がかりだった。冷気ではない。暖流の海水と同じような、視界10mほどの海の中にいるような状態だった。高村光太郎が形容した「動物的匂い」と違い、満潮時間の海面の匂いに近い。初めて巨釜へ行った時の、原始の底に着くようなガツンとした磯の強い匂いや砂浜の匂いと異なっている。「動物的匂い」とは、鯨の吹き潮の匂いではないかと臆測している。

(C)Junpei Satoh,2008