毘沙門天の祈り

  竜(りょう)さんの古美術店で紹介されたその人は凛々しいお貌立ちをしていた。
鎌倉時代らしい写実主義のお顔立ちに平安の名残を残す肩と背中のライン

眉間の厳しい皺と肩から流れる優しさと…。 

年月の中で手足を失い「天部」ということしかわからないという。

「でもこれ毘沙門天さんだと思う。」

「うん 吉祥ちゃんがそう決めたのならそれでいゝと思う。」

  毘沙門天さんというのは北方を守護する神。彼の上杉謙信が旗印に掲げた「武神@戦う神」である。


 「戦う仏」の二面性…救う御心と滅す御心……いや…そうではなく本来「滅す」べきは乙の内の我欲や煩悩であった。
「戦う仏」の憤怒のお姿は内なる邪を「滅し」魂の本質に立ち戻る手助けをするためのお姿。
そはどちらも「救う」ことである。仏に「二面性」はない。あるとすれば我らの心の内にである。兎も角も、本来は一つであった仏の御心を後の世の者たちが「戦う」ことに「割り当てた」のであろう。

 
「これは蔵出し(はじめて世間に出たもの。転売されていないので一般的には値が安い)だから値段がそんなにしないんだ。
頑張れば手に入れられると思うよ。」

 竜さんの口調は淀みない。
確かな審美眼と飾らないお人柄…この世に信頼できる古美術商が居るとするならばこの人を置いて他にない。
 
 …とはいえ鎌倉時代の40冂兇諒像がそんなに安いわけはない。
値段は聞けなかった。
 
 その晩 夢を見た。
私は薄暗い須弥壇の中央に立っている。
周囲の様子からなんとなく鞍馬寺のあの須弥壇のような気がした。
須弥壇の外はさらに暗い。
その まっ暗な淵から手足のない仏が私のほうに向かって這い上がろうとしている。
それは先刻 古美術店でお逢いしたあの人だった。
 
 
 目が覚めてからも気になって毘沙門天さんを家に迎えなくてはと思った。
手足を失っても私のもとに来てくれようという仏の心に答えたいと思った。
 
 仕事帰りに竜さんの店に立ち寄って値段を聞いた。
かなりの高額だが分割で良いというので2年がかりで購入を決めたのが3月中旬…なぜか同じ月の月末にかなりの臨時収入があり家に迎えることができた。
 
 鞍馬山に坐す小手をかざした国宝の毘沙門天の写真を見つけたのは彼の人が家にいらした前か後か…。
そのお顔だちがあまりにそっくりで驚いた。
そして喪われた腕が見えた気がした。
やはりあれはやはり鞍馬だったのだ。そしてこの方は毘沙門天さんだったのだ…そう確信した。 
鞍馬の毘沙門天は山上から都を見下ろし国家の安泰を見守っていると伝わる。
我が家の毘沙門天は箪笥の上で私を見護ってくださっている。

「こゝが新しいお山…野寺山・吉祥寺だね。」

…何という贅沢。
パーソナル仏像を持つことは仏好きの夢であろうに…。いともやすやすと その壁を越え平安の権力者や戦国武将たちと同じく「念持佛」を抱く幸運に見舞われたのは、仏が私を見つけてくださったからなのだろう。

時代を超え空間を超え毘沙門天が祈りつづけた願いを私は叶えることができるのだろうか?
 
我が家は都の北方に位置する。
毘沙門天は今も吉祥寺のお山の上から都を…この世界を見護っておられる。
 

 

 
 

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