2004/8/9

大野原の昔々

西讃府史や大野原町誌から抜粋しました。


大野原の歴史
和名抄によれば古代の財田川以西は刈田郡、その後豊田郡と呼ばれていた。刈田とは大化の改新以前の既成耕作地を切木田(かりた)と言っていたがその後政令で二字に改字したということである。
現在の大野原町豊浜町および観音寺市の一部は
和田郷:和田、箕浦、田野々、井関、萩原、蝦済
姫江郷:姫浜、花稲、在木、内野々、丸井、粟井、木の郷、中姫
という行政区分であった。中姫地区姫江郷の中心であり、宗像三神の中津姫を祀っている事から中姫と呼ばれ、大野原(大野原八幡)地区は中姫の一部であった。
江戸期寛永年間に高名な西島八兵衛による井関池の構築、平田家による開墾が始まった。正保二年の大野原新田開墾略図には現在の小字のなかで唯一下林の名が見える。
井関池の改修や源泉の掘起し(13泉、下林付近では新兵衛泉がある)といった苦難の歴史を辿る中、承応三年に藩による開墾支援が始まり、大野原の現在ある姿のスタートとなった。人口は寛文年間1424人であった。
大野原八幡宮は寛永20年平田家が勧請したがそれ以前から同場所に応神社が祀られており、いつの時代から祀られたいたかは不明である。社殿の奥にある椀貸し塚は御神体とも言える。大きさは直径35m高さ7.5mで周濠があった。お旅所である平塚古墳は直径53m高さ7mで周濠があった。角塚と合わせた巨大円墳はすべて玄室の入り口を高尾山に向け南面してる。大野原は古墳の多い所であり、現存していないが豆塚は名前と違って壮大な古墳だったらしい。大野原八幡宮でその巨石を使用している。
旧大野原村にはお寺が極端に少ない。西讃府志によれば花稲に大化5年三島神社を勧請した時、萬願寺(現豊浜町)と延命寺(現柞田)が社僧であった。二寺とも当時は花稲に有った。何故出て行ったかは不明である(火災説を聞いた事があるような・・)。因みに我が実家は延命寺の檀家、隣家は萬願寺の檀家である。
大野原地名あれこれ
時の流れと共に消えていった大野原の地名や謂れを記したいと思います。
謂れ編
大野原:野=緩い傾斜地 原=平坦地からなる地勢を表す。
花稲:埴穴塚(はにあなつか)埴輪でも沢山出土したのでしょうか?
四軒屋:平田氏開墾時代に大阪守口から4名入植。
五軒屋:同じく、玉作から入植。
小山:小山や塚が点在していた。
上の段:地形から。
下組:地形から。
中央:四辻に姫之江庄の政庁があり、地勢的にも中央だから。
大鞘:平田家開墾前から居住していた土佐武士が居住。「我が祖は長鞘のさし込みにて宿毛城主なり」と自尊したため。
下林:松の林があり、下の方にあったため。正保二年の大野原新田開墾図に記載されている唯一の大野原地区の地名である。
十三塚:昔は大将軍塚と呼ばれていた塚を含め、十三の塚が有った。
林:上林(高松)と下林に対して中間にあり林の中に屋敷があり林屋敷となる。
安井:菅原道真が当地に来りて民の疾苦を問うた。人民その徳を慕い逗留を乞うた際「吾当地に来りて政務を果し心易いなり。重ねて来りて汝   等に遭わん」といった言葉から。
札場:昔の高札場の名残。
石砂:さこ(砂畑)で水もちが悪いため。周囲は粘土質でここだけ珍しいから。
昔の地名
先林:西新海(それで絆纏に西若と入っているのか?)
中林:中新海
本村:松ノ木&流畑
原:子の田
下林:下林&天々出水(太鼓蔵の脇の川の東側が天々出水)
十三塚:醍醐坊&札場
また残水の六反地、十三塚の三反地は天平時代の条里制(班田法)の名残の地名である
 



ホーム ちょっとだけ大野原 大野原昔々 お祭り紹介 その他
その他 壇尻とちょうさ達 想いでの一枚 心に足跡・お祭り風景 お祭り初日
お祭り中日 お祭り三日目 十八年他地区 日記 リンク集
掲示板