宇宙、NASA、アポロ計画、月面着陸、アポロ11号、アポロ13号、サターンロケット

 

アポロ計画の世界を楽しむ

"人が月に、他の星に行ったという偉業"

アポロ8号、アポロ10号、アポロ11号-17号

楠本慶二 著  (リンクフリー、連絡不要)


<今回のネタ>

アポロ計画で着陸した際の月面の風景を360度、グリグリ見られるサイト

パノラマで楽しむ月面


 

写真>左から日本のH-2Aロケット、米国 サターンロケット、人間、スペース・シャトル(同一スケール)。

サターンロケット (サターン5、サターン五型ロケット)は、開発経費から計算すると今の日本の感覚では1機5-10兆円程度。 アメリカは1960年代(約50年前)に、この巨大なロケットを約20機、建造した。


 はじめに&マスコミ関係者様へ> ここでは個人の趣味としてアポロ計画、アポロ11号、宇宙飛行士の世界の情報を集約しています。(宇宙関係本、DVD 現在 約94冊から選び出した知識の集合体)。このページは、リンクフリーで作者に連絡は不要です。画像の著作権についてですが、JAXAのサイトによると、「NASAの画像、動画、及び音声素材は、教育、情報提供を目的とする、写真集、教科書、展示物、およびインターネットのウェブサイトに使用することが可能であり、この包括的な許諾は個人のウェブページにも適用されます。また、個人のウェブサイトからNASAの許諾なしにリンクをはることができる」と記述されています。よって、作者に画像の使用許可申請は不要であり、私的活動ですので勤務先へのお問い合わせはご遠慮ください。

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アポロ 月表面ジャーナル(アポロ宇宙船の詳細) Apollo Lunar Surface Journal

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NASAの歴史サイト>アポロ計画

アポロ計画 写真集(ざっと一覧するなら、こちらの方が便利)


<クイック目次>

1 アポロ計画での印象的写真集 / 2 アポロ11号の記録写真集 / 2.1 アームストロング船長とオルドリン飛行士の関係

2.2 これは一人の人間にとっては〜 / 3 アポロ計画時の宇宙服 / 3.1 宇宙服(船外活動服)の着方

4 アポロ宇宙船(司令船(コマンド・モジュール)、月着陸船(ルナ・モジュール))、ルナ・ローバーの詳細

4.1 アポロ宇宙船(司令船、機械船、コマンド・モジュール) / 4.2 月着陸船(ルナ・モジュール)/ 4.3 ルナ・ローバー(月面車)

5 人類月面着陸、アポロ計画  / 5.1 アポロ計画 の時間軸の流れ / 6 アポロミッションのトピック

7 月に行った人達、月面を歩いた人達 / 8 サターンロケット / 9 アポロ計画におけるIBMの役割 /10 月面着陸捏造説を一蹴する証拠画像

/ 11 その他


○まずは写真をざっと見て楽しみ、興味が出れば文章を、お読みください。

アポロ計画:人類月面着陸( 1969年、昭和44年 )>

 アポロ計画では、今から50年前ぐらいに”旧ソ連に対する技術的優位性を示すための米国の国家優先事項として、企業2万社、 ピーク時には40万人の技術者、500人以上の宇宙船製造検査官、総合すると延べ300万人が10年、当時のお金にして300億ドル(今の日本の感覚でいうと100-200兆円ぐらい。 ) で取り組んで巨大ロケット( サターンロケット シリーズ )を 20機以上作製し、月への一番乗りでの上陸と安全に地球への帰還を目指した。ちなみに、当時、日本では 東海道新幹線が開業(1964年)した年あたりになる。

 当時、宇宙開発はスプートニク人工衛星やガガーリンの人類初飛行など、旧ソ連に、ことごとく負けており、アメリカ国民は宇宙分野や核ミサイル競争で後れをとるのではないかと恐れており、旧ソ連が月面に人を送る計画があるとの情報を得て、 「宇宙開発レースでアメリカが負けるわけにはいかない」との判断があった。

 計画当初、人類が月面に立つまでにどのくらいロケットが必要か不明だったために、アポロ20号まで計画されたが、アポロ11号で人類が月面を歩くという成果を挙げたために、アポロ12号以降は月面探査がメインとなり、一般大衆の関心も薄れたのでアポロ17号で終了となって、余った巨大ロケットは宇宙ステーション打ち上げ用としてスカイラブ計画に使用された。

 結果的にアメリカは月に24人送り込み、12人が月面に立ったので、月に人間を一人送り込むのに4-8兆円、月に立つのに 一人8-16兆円かかった計算になる。アポロ計画全体では、数十人が亡くなり、20万人程度が生活を犠牲にしたという。 この計画は膨大な予算がかかるために、米ソの冷戦という特殊な時代背景が無ければ、現在でも人類は月に上陸していなかっただろうと言われている。

 実際には、マーキュリー計画、ジェミニ計画、アポロ計画を同時並行で進めて、マーキュリー計画( 一人乗り宇宙船 )で地球を回る技術、ジェミニ計画( ジェミニ=双子座、二人乗り宇宙船 )で2人が同時に 最大2週間宇宙飛行する技術、宇宙空間でランデブー、ドッキングする技術を固め、月に向けてアポロ計画 ( 3人乗り宇宙船 )を実行した。

 1961年5月25日にアメリカのケネディ大統領は、ソ連のユーリ・ガガーリンの宇宙初飛行の1ヶ月後に、ソ連に対する技術的優位を示すために、 ドイツ人ロケット開発者フォン・ブラウンの夢である「人間が月に行く ( =この発想の原点は、フランスのSF作家 ジュール・ベルヌの小説「月世界旅行」に由来 )」事を利用して”国家優先事項”として「1960年代中( =実質8年ぐらいしかない )に人類の月面上陸及び安全な帰還」を議会で宣言した。しかし、この時点でアメリカは 「アラン・シェパード宇宙飛行士が5分間、宇宙空間に出ただけ」の経験しかなく、月に無人船が着陸したこともなく、月面のまともな写真もなく、米国議会が巨額の宇宙開発事業費を予算に計上するかも未定だった。また、NASA幹部も、「そんな夢みたいなことを実現できるか」と頭を抱えた。実際、ケネディ自身も増大するコストとアポロ計画の危険性を懸念し 、1964年頃には秘密裏に旧ソ連と一定分野で協力できないかを模索していた。 ちなみに、テレビではアポロ計画というと必ず、ケネディの演説場面が引用されるが、実際には、この演説の大部分は経済や外交や安全保障に関することで、宇宙関係は演説項目の一番最後であった。 当時のアメリカ国民は、政府は宇宙開発に予算を使いすぎ、アポロ計画には予算に見合うほどの価値はないと考えていたのも事実である。

 1783年にフランス人が熱気球で人類として初めて空を飛んで186年後、1903年のライト兄弟の動力初飛行から66年後、ユーリ・ガガーリンの地球 軌道上の弾道飛行から8年後に、アメリカは人間を月に上陸させて、無事に地球まで帰還させた。月面着陸の様子は、世界40か国で6億人以上( 当時の地球の人口は約40億人なので世界人口の15% )が生中継で見て、 アメリカでは視聴率94%、日本の平均視聴率は60%を超えたという。当時、日本ではカラーテレビは高価で、カラーテレビが白黒テレビ以上に普及したのは、アポロ計画の終了した1973年頃であり、トヨタの初代カローラが発売された時期という。 人間が宇宙空間に出られたのは、核兵器の小型化技術とナチスドイツのV2ロケットにはじまる大陸間弾道ミサイル( ICBM )の進化によるもので、重い核弾頭を仮想敵国まで正確に確実に打ち込む技術の延長として発展した。 これほどの壮大な計画であったが、アポロ11号で人間が月に立つことでアメリカが旧ソ連に勝利して、月面に石や砂以外何も無かったことが明らかになると、国民の関心は急速に低下し、当初、アポロ20号まで予定された計画は、アポロ17号で終了となった。

0-1 図 地球から月までの往復の経路

0-2 図 地球と月の実際の大きさと距離比較

 ”人類歴史上はじめて月に行ったアポロ8号、月に上陸したアポロ11号”まで、月に向けて無人宇宙船を合計33機打ち上げて、月まで確実に行く方法、月の表面の性状、気候調べ、数万枚の写真をとって月の地図を作成、軟着陸の技術開発、月の砂に着陸船が埋まらないか、等々の経験を積んで準備をした。

 人工衛星が地球を回るのに比べて、「他の惑星に確実に行って帰ってくる」というのは、太陽も、地球も、目的の星も常に動いている(自転、公転、秤動運動(コマの首振り運動)、 月面重力の不均一分布、大気の影響もある)ので、実際は「遊園地のメリーゴーランド上でキャッチボールするような状態」となり、厳密な軌道計算、タイミングが必要とな り、実際には683台の計算機で軌道を計算してから、打ち上げのタイミングを決定していた。 歴史上、これまでに月に行った人(=地球以外の星に行った人類)は24人、月の上を歩いた人は12人。


1アポロ計画における印象的写真集

 

<ミニ目次>----------------

1 アポロ計画での印象的写真集 / 2 アポロ11号の記録写真集 / 2.1 アームストロング船長とオルドリン飛行士の関係

2.2 これは一人の人間にとっては〜 / 3 アポロ計画時の宇宙服 / 3.1 宇宙服(船外活動服)の着方

4 アポロ宇宙船(司令船(コマンド・モジュール)、月着陸船(ルナ・モジュール))、ルナ・ローバーの詳細

4.1 アポロ宇宙船(司令船、機械船、コマンド・モジュール) / 4.2 月着陸船(ルナ・モジュール)/ 4.3 ルナ・ローバー(月面車)

5 人類月面着陸、アポロ計画  / 5.1 アポロ計画 の時間軸の流れ / 6 アポロミッションのトピック

7 月に行った人達、月面を歩いた人達 / 8 サターンロケット / 9 アポロ計画におけるIBMの役割 /10 月面着陸捏造説を一蹴する証拠画像

/ 11 その他

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1-1 ●アポロ8号>人類史上はじめて月に行って、月の裏側を目で見て、地球に帰還した三人右から ジム・ラベル飛行士、ビル・アンダース飛行士、フランク・ボーマン船長

 アポロ8号では、 人類史上はじめて地球の周回軌道を離れて月まで行って月の周回軌道を回って、その後、地球に帰還した。この時期は、宇宙船にカミソリなどは装備していなかったので、6日間の飛行中、ヒゲをそらないと写真のようにヒゲ面になる。ボーマン船長だけは、過去の失敗(ヒゲ面で会見したこと)に懲りて、事前に回収ヘリコプターに電気カミソリを準備していたので、すっきりとした顔をしている。写真ではわからないが、男三人が、狭い宇宙船中で食事し、トイレして、ふろにも入らず、宇宙は真空なので換気も出来ない状態で過ごすと強烈に臭いそう。

1-1-1 ●アポロ9> 打ち上げ前の準備をするデーブ・スコット飛行士(後のアポロ15号で船長を務め、月面で初めて電動車でドライブした人となる)

 アポロ9号では、月面着陸に備えて、地球軌道上で指令船と着陸船の切り離しとドッキングがうまく出来るかを10日間かかってテストした。 また、スワイカートとスコット飛行士が月面用の船外活動服と生命維持装置を着用して船外活動を行い、月面で使用可能であることを確認した。 月着陸船の愛称はスパイダー( クモ )、月司令船の愛称はガムドロップ( お菓子のガム )。ジェームズ・マクディヴィット船長 、デビット・スコット司令船パイロット、ラッセル・スワイカート月着陸船パイロット。写真をよく見ると、バブルヘルメットが2重になっているのが分かるが、これは打ち上げ前にバブルヘルメットを傷つけないように、保護カバーをつけているためであり、この保護カバーは初期型で、アポロ11号あたりの時期以降は、後ろの黒いラインが 、下の写真のような「とぎれとぎれ」ではなく、直線型になる。

1-1-2 ●アポロ9> 打ち上げ前の準備をするジム・マクディビット船長

1-2 ●アポロ10>月へ向けて出発時様子船外活動服から判断して、右からトーマス・スタッフォード船長ジョン・ヤング司令船パイロット、ジーン・サーナン着陸船パイロット

 アポロ10号では、月面着陸寸前まで行って着陸地点が本当に安全であるか、月面着陸以外の作業を行い本当に地球に帰還できるかの検証を行った。 写真中の女性( Jayme Flowers, Gordon Cooper( ゴードン・クーパー )氏の秘書、ゴードン・クーパーはアポロ10号の船長バックアップ 要員だった。)が、スヌーピーのぬいぐるみを持っているのは、月着陸船の愛称がスヌーピー、月司令船の愛称がチャーリー・ブラウン( スヌーピーの飼い主 )だったから。アポロ10号までは、宇宙飛行士らが、スヌーピーやチャーリー・ブラウンといったお気軽な愛称を宇宙船につけていたが、人類初の月面着陸をするアポロ11号以降は、真面目な愛称をつけるようにNASA当局から指導された。

  このシーンの直後、スタッフォード船長は、冗談で、この女性も一緒に月に行こうとハグして連れていくフリをした。船長が手にしているのは、地球上で、密閉された宇宙服内に酸素を送る&CO2を回収する装置で、上のホースから酸素が供給され下のホースからCO2入りの酸素が出ていく仕組み。出発前には2時間かけて体内の窒素を抜いているので、おそらく純酸素のみが供給されている。

 船長の体前面の右側にホースが接続されていないのは、月面で同僚の宇宙飛行士が酸素不足などになった時に酸素を共有するためのコネクタであり、写真三番目のサーナン飛行士の船外活動服には、船長とは反対側の体の右側に酸素供給用のホース類が接続されているのが見える。つまり、サーナン飛行士は体の左側のコネクタで非常時の酸素を共有する仕組みになっていた。 アポロ計画初期では、徹底して軽量化するために機内搭載のバンドエイドの枚数まで減らしたことがあったという。

1-3 ●アポロ11号( アームストロング船長、オルドリン月着陸船パイロット、コリンズ司令船パイロット )>月面着陸の実際の写真( バズ・オルドリン飛行士

 日本で月面着陸 ( 昭和44年 )というと”白黒の乱れたテレビ映像”ぐらいのイメージだが、実際には高解像度のカラー写真が多く残されている。 上の写真は、先に上陸したニール・アームストロング船長が、オルドリン飛行士の上陸シーンを撮影したもの。バズ・オルドリン飛行士は、映画「トイ・ストーリー」のバズ・ライトイヤーのモデルになった人で、月面の足跡、星条旗に向かって敬礼する姿など月面活動の写真のほとんどは、オルドリン飛行士の姿である。 これはアームストロング船長がカメラで記録を残すことが任務になっていたからである。

 船外活動服を来た宇宙飛行士は、地球上では、重量が160kgぐらいあるが、重力が地球の6分の1になる月面では体重が約27kgになるので、飛行士が下りるハシゴの強度も、 軽量化のために月面に合わせてあり、地球上でフル装備の飛行士がハシゴを登ると変形するぐらい華奢に作られている。 船外活動のすべては、事前に地球上で月面着陸後、何時何分何秒に、どこにどういう機器をセットして、どういう行動をする、どういうアングルで、どんな写真を撮る等、すべて何回もシミュレーションしており、スケジュール表にそって実行された。よって、どういう写真がとれるか、どういうTV中継ができるかは、事前にある程度分かっていた。 「白黒の乱れたテレビ映像」に関しては、月からNASAへは、高画質な映像が来ていたが、世界の視聴者が見られる形に映像を変換した際に画質が劣化し、さらにそれらの信号が人工衛星やケーブルを通じて世界に配信される途中でさらに画質が劣化したのが原因 だった。 アームストロングが月面に立つ時の撮影に使用されたテレビカメラは、ウェスティング・ハウス社製でカメラに当時としては先進的な43個のICを使用し、重量は3kg、必要な電力は7ワットで、サターンロケットの打ち上げ時の強力な加速度にも、宇宙空間の121℃からマイナス156℃にもなる過酷な環境に耐える性能を有していた。 テレビカメラによる中継では、アームストロングがハシゴの最下段から一気に飛び下りるようなシーンがあるが、これは予想以上にスムースに月面に着陸したため、本来は月着陸船の脚部分が着陸時の衝撃で縮むようになっているのに十分に縮まず、結果としてハシゴ部分が本来の位置よりも 、かなり高い位置で終るようになっていたからである。事実、他のアポロミッションでハシゴの高さを見ると、設計通りの低い位置から降りられるようになっている。

  これらの写真( スチールカメラ )は、ハッセルブラッド社のカメラ( 機種は500ELの改造版の500EDC )で撮影し、カメラは胸に固定されていて、直接ファインダーを覗くことが出来ないことから、事前に、地球で 、うまく写真を撮る練習をしていた。月で採集した岩石を積み込み、月から離陸するためには、機体をなるべく軽くする必要があったので、アポロ計画ではカメラ本体は月面で廃棄され、フィルムだけ持ち帰った。 ただし、アポロ15号では、ジム・アーウィン飛行士のカメラでフィルムカートリッジが、うまく外れなかったので、このカメラがスチールカメラとしては唯一、地球に持って帰ってきて、このカメラは最近オークションで日本人実業家( ヨドバシカメラ社長 )が購入した。ハッセルブラッドのカメラは、もともとは、ウォルター・シラー飛行士が1962年にヒューストンのカメラ屋で購入したハッセルブラッドのカメラを私物として宇宙飛行に持ち込んだことから、NASAとスェーデンのカメラメーカーとの付き合いが始まった。当初、NASAは、人間が宇宙に出る事が重要で、写真&ビデオは重要視していなかったが、映像がNASAのイメージアップを向上させる効果に気づいて、その後、映像、メディアを重要視するようになった。また、アポロ11号で使用したビデオカメラ( 16mm )は最近、アームストロング船長の遺品から発見されスミソニアン航空宇宙博物館に収められている。

1-4 ●アポロ12( コンラッド船長、ビーン月着陸船パイロット、ゴードン司令船パイロット )>月着陸船から降りようとしているコンラッド船長

 長年の野球帽コレクターで、特注で巨大な青白の野球帽を作製し、船外活動 時にヘルメットの上から被って飛び跳ねることを狙っていたが、巨大な野球帽を宇宙船内に秘密に持ち込むことが出来ずに断念した。バックアップ・クルー (デイブ・スコットとジム・アーウィン)のいたずらによって、結果的に人類はじめてヌード写真を月面に持ち込んだ。月面で初めてダンスを踊ったと自称していた。 アポロ11号の月面着陸時に、アームストロングの第一声が、あまりに優等生的であったために、当時、NASAが飛行士の発言を規制しているとの噂が立ち、コンラッドはNASAの規制を受けていない証明として、月面上陸時には「 ひゃっほー。これは( 大柄な )ニール(・アームストロング)には小さな一歩であるが、( 身長160cmの小柄な )自分には大きな飛躍である」と発言した。 月面での作業中は、非常にリラックスしており、ほぼ意味不明の鼻歌を歌いながら作業し、この鼻歌は世界に同時中継されていた。

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1-6 ●アポロ12( コンラッド船長、ビーン月着陸船パイロット、ゴードン司令船パイロット )>アラン・ビーン飛行士

 アラン・ビーンは、アポロ11号の次のミッション( アポロ12号 )で ピート・コンラッド船長とともに人類で第4番目に月面に立った人。NASA引退後は、昔からの趣味と、宇宙経験を活かして、月を描く画家として暮らしている。 彼は、月面活動の際、月着陸船の近くのクレーターに宇宙飛行士になるともらえる「NASAの銀色のピンバッジ」を記念として置いてきた。 このピンバッジは宇宙飛行すると「金色のピンバッジ」になるので、銀バッジは、いづれ不要になる。 アポロ11号では左手の手袋にメモが記載してあったが、アポロ12号ミッションでは、月面で行うことが多くなったために、左手に冊子を固定するようになっており、上記の写真でも冊子が確認できる。 この冊子( コンラッド船長用、ビーン飛行士用、ゴードン飛行士用 )には、バックアップ宇宙飛行士のいたずらによって、それぞれ別のカラーヌード写真が仕込まれていた。 この写真が見たい人は、グーグル検索で「アポロ12 プレイボーイ」で検索すると見られる。

 アポロ12号では、はじめてハンディタイプのカラー ・テレビカメラ ( ウェスティング・ハウス社製 )を持ち込んだが、ビーン飛行士が月面で操作中に、2秒間太陽に向けてしまった ( 当時、飛行士達は月試料の採集がメインであり、テレビ中継の訓練は受けていなかった )ので故障して使用できなくなり ( テレビカメラ自体は、非常に暗い場所でも撮影できる高性能なものだったが、強烈な光を放つ太陽に向けたのが失敗だった。)、ハンマーでカメラを軽く叩いても復活しなかった。 テレビ中継が出来なくなったテレビ局は、再現映像を流したり、あやつり人形でごまかしたが、船外活動時間自体が、一回目はアメリカの早朝、二回目は深夜であったので、テレビ中継には不向きな時間帯であった。結果としてアポロ12号でのテレビ中継の失敗が、アメリカ国民のアポロ計画に対する関心の低下を招いた。ビーン飛行士はコンラッド船長と、とても仲が良く、月面でコンラッドと二人で写真を撮ろうと思い、こっそりセルフタイマーを月面に持ち込んだが、月面ですぐにセルフタイマーを見つけることは出来ずに結局、二人で一緒に写真に納まることは出来なかった。 また、「本来はアラン・ビーンの代わりにアポロ12号でルナモ・ジュールのパイロットを勤めるハズだったが事故で死亡した同僚C.C.ウィリアムズ」の海軍記章を記念に月面に置いてきた。

 この写真を撮ったコンラッド船長は、一度は宇宙飛行士選抜試験に落ちたが、二度目の試験で合格し、人類で3番目に月面に立った。 しかし、地球に帰還後、1999年にバイク運転中の事故が原因で、この世を去った。享年69才。

1-7 ●アポロ14号( シェパード船長、ミッチェル月着陸船パイロット、ルーサ司令船パイロット )>アラン・シェパード船長

 アラン・シェパード船長は、エドガー・ミッチェル飛行士と月面に降りて、土採取用スコップの先を、持参した6番アイアンと交換して人類で初めて月面でゴルフ& 槍なげの一人オリンピックを行った。 ゴルフについては、分厚い宇宙服が邪魔で、片腕によるスイングのためにダフり、1回目はあまり飛ばなかった。2回目は、うまくヒットして遠くまで飛んで行った。シェパードはアメリカ人として初めて宇宙飛行(宇宙船で地球を 弾道飛行、ちなみに周回飛行したのはジョン・グレン)をした人物でもある。 アポロ11-13号では、船外活動服が船長、飛行士ともに白色で、後の写真分析で飛行士を区別するのが難しかったので、アポロ14号から船長用宇宙服には赤いライン ( 赤いバンド )がつけられた。 当時、フランクリン・ミント社がアラン・シェパードに月に銀貨を持っていってもらい、フランクリン社は持ち帰った銀貨を粒にして、粒を混ぜてミニコインを作製して発売し たので、その後、宇宙飛行士の商業化が批判された。

1-8 ●アポロ14号 月面に持っていくカートを地上で訓練するアラン・シェパード船長

1-9 ●アポロ14号 月面の重力になるように設定した飛行機の中で機器の訓練を行うエドガー・ミッチェル飛行士

1-10 ●アポロ14号活動中のエドガー・ミッチェル飛行士

 ミッチェル飛行士は、月への飛行中に地球に向けてテレパシー実験を行った。この時期、米軍で超能力実験を行うのは普通であり、アポロ計画はNASA単独ではなく、国家プロジェクトなので軍も全面協力していた。 多くの宇宙飛行士は、宇宙酔いで多くが嘔吐するが、写真のように船外活動中に嘔吐すると、ヘルメット内の非常に狭い空間で嘔吐物が飛び回り、窒息の危険があるので、宇宙酔いの状態では活動させない。

1-11 ●アポロ15号( スコット船長、アーウィン月着陸船パイロット、ウォーデン司令船パイロット )>月面で電動自動車で探検中( デビッド・スコット船長

 スコット船長は、ジェームズ・アーウイン飛行士と月面に降りて、地球時間で3日以上、月に滞在して調査した。この電動自動車は ( ルナ・ローバー、組み立て式&後輪ステアリングであり、動きにくい船外活動服を着ていては座席に座るのにも一苦労 )、使用後は月面に残してきた。 長時間の月面活動では、危険な太陽風による放射線の被爆の可能性、道に迷って酸素や服冷却用バッテリーの消耗の危険性がある。月面に磁場はほとんどないので、磁気コンパスは使用で きず、アポロ15号以降では、日時計に似た太陽コンパスを開発して腕に設置していた。ルナ・ローバーの開発にあたっては、無重力体験ジェット機内に、模型を設置して、月面と同じ6分の1重力状態になったわずかな時間(15-20秒)を利用して、実際のルナ・ローバーの操作状況をテストした。腕に赤いラインがある &左側に座っているので、乗っているのはスコット船長、写真を撮ったのはアーウィン 飛行士ということが分かる。電動車は船長が運転するのが基本で、 月面では、風化させる水、大気もないので、この電動車は、紫外線、熱の影響がなければ、何百年後も動くハズだそう。 アポロ13号以降は、月面探査は地質調査がメインになっていたので大衆の興味が薄れていた。 ミッションにおいては、ルールが細かく設定されており、アポロ15号の頃にはミッションルールは細かい字で500ページぐらいになっていた。アポロ15号以降では、月面での活動時間が飛躍的に増加したが、月着陸船では食べ物を温めるシステムがなかったので、飛行士達は数日間、常温の食料を食べるハメになった。ルナ ・ローバーは最大25度の傾斜も昇降可能で、時速10km程度で着陸船から6マイル( 6マイルは故障した際に飛行士が歩いて帰られる距離として設計 )の範囲で移動可能であり、月面は重力が6分の1で軽い上、デコボコしているので運転中は常に車輪が1-2個は空中に浮かんだ状態であった。また、太陽方向は、あまりにまぶしくて地形が分かりにくいので運転しずらかったという。月面では、空気も風の動物も植物もないので人間以外に動くものは影ぐらいで、背中の生命維持装置の機械音以外は音もない世界だったという。地球は大きいのでだいたい20km先に水平線が見えるが、月は小さくて丸いのでせいぜい2.5km先が水平線となる。 ルナ・ローバーの前輪の上にあるのが、RCA社製のGCTA( 地上操作テレビ・アセンブリ )テレビカメラで、地球のジョンソン宇宙センターのオペレータが直接、カメラの向きやズームを変化できるようになっており、映像は、カメラ上方の直径71cmの金ワイヤメッシュ製の高利得パラボラアンテナを使用して地球に直接信号を送るようになっていた。

1-12 ●アポロ15号月面に残してきた「宇宙開発で命を落とした宇宙飛行士のリスト」と、手前に人形のモニュメント

 スコット船長の発案によって実現した個人的なイベント( NASA当局には知らせていなかった )で、月面到達レースの途中で亡くなったアメリカ、ソ連の14人の宇宙飛行士の名前を記したプレートと ベルギーの彫刻家ヘイドンクに作製してもらったアルミ製の人形型のモニュメント「堕ちた宇宙飛行士」を置いてきた。このイベントは月面任務リストには入って おらず、この儀式を行っている途中では管制センターには清掃作業中と伝えていた。14人は、米国はチャーリー・バセット、ロジャー・チャフィー、テッド・フリーマン、エドワード・ギブンス、ガス・グリソム、エリオット・シー、エド・ホワイト、C.C.ウイリアムズ、ソ連はパーベル・ベリャーエフ、ゲオルギイ・ドブロボルスキイ、ユーリ・ガガーリン、ウラジミール・コマロフ、ビクトル・パトサエフ、ウラジスラブ・ボルコフで、実際には、14人の他にソ連ではバレンチン・ボンダレンコ、グレゴリイ・ネリュボフが亡くなっていたが、1971年当時は、ソ連は宇宙計画については秘密主義だったので、この二人の死は公表されていなかった。

1-13 ●アポロ15号敬礼するジェームズ・アーウィン飛行士

 船外活動服、ヘルメットに赤いラインがついていないので船長ではないという事が分かる。 背景に山が写っているが、月面では大気も水もないので、風化作用がなく、地球のように地殻変動もなく、重力のみが支配する世界なので、巨大な山も、のっぺりとした丸くなるそう。また、月面では、まったくの平坦な場所というのは少なく、アポロ15号では、月着陸船の後部(写真左側)が、少し窪みにかかった形で着陸した。アポロ15号では、初めて電動車を持って行ったので、月着陸船の重量が重く、アポロ11-14号の時に比べて、着陸自体も機体かかる衝撃が大きいという点で困難になっていた。アーウィン( James Irwin )は、NASA退役後に、牧師となって「ノアの箱船探索」を行ない、1991年に3度目の心臓発作で亡くなった。享年61才。

1-14 ●アポロ16号(ヤング船長、デューク月着陸船パイロット、マッティングリー司令船パイロット)>1m近くジャンプしながら敬礼するジョン・ヤング船長

 ヤング船長は、月に2回( アポロ10号で月上空周回、16号で上陸 )行っており、後にスペース・シャトル初飛行で船長もつとめた。 船外活動服&ヘルメットに赤いラインがついているので船長と分かる。 月面は、重力が地球の6分の1なので、簡単に高くジャンプできる。ちなみに、地球の水中では重力は9分の1になるそう。 このジャンプは、船外活動中に、スペース・シャトル計画を米議会が承認したとのニュースを聞いて喜んでジャンプした際の場面。このジャンプ場面は、下記の動画の10分40秒あたりで見られる。アポロ16、17号の頃は、月から鮮明な映像でテレビ中継可能な状況であったにも関わらず、メディアを含めたアメリカ国民の関心は低下しており、アメリカ人の多くはこの中継映像を見ることはなかったという。

アポロ16号 NASA製作 全般的映像 (20分めで月面車でドライブしているのが楽しそう)

1-15 ●アポロ16号月面に残してきた家族の写真

 アポロ16号では、チャールズ・デューク飛行士が、家族 (妻ドロシー、息子チャールズ&トーマス)の写真を月面に置いてきた。ちなみに一番幼かったトーマス(1967年生まれ、赤いシャツを着た少年)も現在では48才になっている。月面では大気がほとんどないので風も吹かず、砂に覆われたり、写真が劣化しない限り、何万年も 、この状態であり続ける。ちなみに、デューク飛行士は、アポロ11号の際の地球側の通信担当を務めた。 デューク飛行士の月面でのはじめての船外活動時には、宇宙服内の飲料である「カリウム成分を強化したオレンジジュース (アポロ15号では食事&過酷な任務のせいでカリウム不足となって飛行士達に不整脈が観察された。)」が不具合でたびたび漏れて、まるでオレンジジュースでシャンプーした状態になった。 また、飛行士達は体調維持のためにオレンジジュースを大量に飲むように指示されたので、胃酸過多で、「おなら」に悩まされ、狭い宇宙船内では脱臭機能が追い付かないありさまだった。

1-16 ●アポロ17号( サーナン船長、シュミット月着陸船パイロット、エバンス司令船パイロット )>ユージン・サーナン船長

 サーナン船長は、現時点で人類で月に一番最後まで滞在した人で、月に来るのは2回目( アポロ10号で月周回、17号で上陸 )。月に2回来た人は、他にジョン・ヤング飛行士( アポロ10号、16号 )、ジム・ラベル飛行士(アポロ8号、アポロ13号)しかいない。 同僚のシュミット飛行士とともに、月面に75時間滞在し、月面でのべ22時間船外活動を行い、電動車で35km移動し、歴史上、最も月面を広範囲に活動した人物。月面に娘の名前のイニシャル (トレイシー・サーナン、当時9才、TDC)を落書きしており、月面は風も吹かないので、落書きは半永久に残る。 サーナンはローバーで移動する際に誤って右後輪フェンダー(泥除け)にハンマーをぶつけてしまい、月の砂を大量に浴びて、月着陸船に戻る前には15分かけてお互い(サーナン船長とシュミット飛行士)の砂を落とした。

1-17 ●アポロ17号(サーナン船長、シュミット月着陸船パイロット、エバンス司令船パイロット)>ユージン・サーナン船長

1-18 ●アポロ17号月面を探査するハリソン・シュミット飛行士

 月には、このような巨大な石もある。シュミット飛行士は、月面歩行者で唯一の地質学者であり、米軍に所属したことのない純粋な民間人。 アポロミッションの後期では、地質探査がメインになり、米国の地質学会からの、「学者に探査させるべきだ」との圧力を受けて、地質学者のシュミット飛行士が誕生した。宇宙飛行士は、現代でも訓練中、任務中に殉職する確率の高い職業であり、スペース ・シャトル時代の初期まで、国のために命をかける軍人出身の宇宙飛行士が活躍した。アポロ17号では月面に75時間にわたって滞在した。

1-19 ●アポロ15号月面から帰還する際に、アポロ宇宙船内部からから見た月

 写真内に、宇宙船の窓枠が写っているので臨場感がある。 月を回る速度は、月の重力と遠心力の関係で決定されるので、月を1周するのに約2時間(120分)かかる。一方、圧倒的に巨大な地球では強力な遠心力(=スピードが必要ということ)が必要なので、宇宙ステーションは一周90分で地球を回っている。

1-20 ●アポロ15号月面から帰還する際に、アポロ宇宙船内部からから見た月

カラー写真なのに白黒写真のように見えるのは月が白黒の世界だから。


2 アポロ11号の写真集

<ミニ目次>--------------------

1 アポロ計画での印象的写真集 / 2 アポロ11号の記録写真集 / 2.1 アームストロング船長とオルドリン飛行士の関係

2.2 これは一人の人間にとっては〜 / 3 アポロ計画時の宇宙服 / 3.1 宇宙服(船外活動服)の着方

4 アポロ宇宙船(司令船(コマンド・モジュール)、月着陸船(ルナ・モジュール))、ルナ・ローバーの詳細

4.1 アポロ宇宙船(司令船、機械船、コマンド・モジュール) / 4.2 月着陸船(ルナ・モジュール)/ 4.3 ルナ・ローバー(月面車)

5 人類月面着陸、アポロ計画  / 5.1 アポロ計画 の時間軸の流れ / 6 アポロミッションのトピック

7 月に行った人達、月面を歩いた人達 / 8 サターンロケット / 9 アポロ計画におけるIBMの役割 /10 月面着陸捏造説を一蹴する証拠画像

/ 11 その他

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2-1 ●事前に砂漠で地質調査の練習を行った。( 左、ニール・アームストロング船長( 当時38才 )、右 バズ・オルドリン飛行士 ( アメリカ空軍大佐、39才 ))

 昭和44年(1969年)1月にアポロ11号の搭乗員決定してから、7月の打ち上げまで、7か月間で1000時間の訓練を行い、その他にバックアップメンバーの飛行士3人がまったく同じ訓練を受け、支援メンバーの飛行士3人も参加して、正式メンバー(アームストロング、オルドリン、コリンズ)の影に6人の宇宙飛行士が支援していた。

2-2 ●実物大シミュレーターで月面上陸の練習(アームストロング船長)

 「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍」という有名なフレーズの”小さな一歩”とは、このオレンジ色のお皿から踏み出すことを意味している背中の生命維持装置&船外活動服は、本物は合計で91kgあり、本物の装備で訓練していたという。この訓練では、目に入るものを的確に描写して報告したり、石を拾う練習をしたりして おり、与圧した宇宙服は、パンパンに膨らんで硬く、手を開いたり閉じたりするのに、テニスボールを握りつぶす程度の握力が必要だった。月着陸船の開発当初は、月着陸船からロープで降りることになっていたが、重装備で登るのに難があったために、ハシゴが設置された。この実物大シミュレータの他に、着陸訓練用のシミュレータもあり、訓練ではシミュレータのアクシデント発生担当班が、起こりうるアクシデントを想定して、 「トラブルによって宇宙飛行士を殺す方法」を試し、事故で死なないように、それらのアクシデントに対処する方法を考えた。

2-3 ●実物大シミュレータで岩石採取訓練(アームストロング船長)

月面用のスコップも、岩石用コンテナも、すべて専用に開発された。

2-4 ●月へ出発するために船外活動服に着替えるアームストロング船長。

 打ち上げ時の急減圧に備えて船外活動服を着用していた。この服は、 着る方法にもマニュアルがあり、背中のジッパーなどは同僚の助けが無くては着用できない。よって、一つ一つチェックリストを読み上げて着用し、きちんと機能するかのテストに1時間以上かかった。 また、打ち上げに際しては2時間以上前に、この船外活動服に着替えて、打ち上げ時の急減圧時に、血管内の窒素が気化する(いわゆる潜水病)に備えて、体内の窒素を減らしていた。この写真は、まだヘルメットを装着していないので、打ち上げ2時間前以上だということが分かる。アームストロングが手にしているヘルメット (いわゆるバブルヘルメット)はガラス製ではなく、戦闘機の窓に使用されるポリカーボネート製( プラスチック )で、ガラスは割れる危険性があるが、ポリカーボネート( CDやDVD,ブルーレイディスクの素材)は透明度が高く、軽くて変形しても割れない特徴がある。 バブルヘルメットの内部後ろ側に白い面があるのは、この端面から酸素が顔前面に向かって供給されるようになっているから。ちなみに、映画「インターステラー」の中盤で、宇宙飛行士同士がヘルメットをぶつけあって相手のヘルメットを割るシーンがあるが、本物はプラスチック製なので、実際には ぶつけあって割ることは不可能である。

 アームストロングが来ている宇宙服( 船外活動服 )は、服と首、腕の赤色、青色リングが一体になっているように見えるが、実際は、宇宙服内部の固い硬殻構造を白い「断熱&耐隕石衝突衣類」が覆う構造になっており、内部の硬殻構造のせいで、アームストロングの体格が良いように見える。 適切に月に行くタイミングは28日ごとに訪れ、太陽光が月面を約12度で照射している時がもっとも望ましく、それより角度が小さいと影が長くなりすぎる&寒すぎる、 太陽の照射角度が大きすぎると月面が真っ白になり高温になりすぎるという。 アームストロングが被っているのが通称”スヌーピーキャップ、スヌーピーハット”で2個のマイクと2個のイヤホンが内蔵されている。

2-5 ●サターンロケットに乗り込む3飛行士( 打ち上げ3時間前ぐらい 。前からアームストロング船長、コリンズ司令船パイロット、オルドリン月着陸船パイロット。

 打ち上げに際してはチェック項目が450あり、カウントダウンは28時間前から始めた。写真で宇宙飛行士達が、履いている「黄色い靴」は、宇宙服の靴を保護するための「地上歩行用カバー」。 手にもっているトランクは、宇宙服が密閉されているので、地球上で窒息しないように酸素を送る装置が入ったトランクで打ち上げ前のみに使用し、宇宙船に乗ると宇宙船のシステムとホースを接続する。

2-6 ●ロケットに乗り込むアームストロング船長うしろはコリンズ飛行士( 米国空軍中佐( 後に大佐に昇進、当時38才 )、服が指令船パイロット用

 手にもっているトランクは、簡易型生命維持装置。”通気性のない完全密閉された着ぐるみ”を着た状態なので、窒息防止&体温が上がらないように生命維持装置はかかせない。 月司令船に乗り込む場である「ホワイトルーム」は無菌状態に保たれており、乗り込みを手伝うスタッフと乗員3人以外は爆発の危険があるために周囲には誰もいないので、ロケット発射場( ケープ・ケネディ、現在はケープ・カナベラルという名称。ちなみにヒューストンは別の街にある。)は 、とても静かだという。 当日、アームストロング夫人( 後に離婚 )は、月司令船のメーカーであるノース・アメリカン社が保有するクルーザーに招待されて大衆から逃れてフロリダ沖で打ち上げを見守った。 打ち上げロケットには24時間以上前から2700トンの液体酸素と液体水素が推進剤として注入されており、何らかのトラブルで爆発したら、消火するのに数日はかかると考えられていた。よって、上昇用エレベータのとなりに高速降下用のエレベータがあり、即座にコンクリート製の地下豪に逃げ込めるようになっていた。その地下壕は、巨大な火災が発生し、瓦礫のせいで救助に時間がかかることを想定して、アポロクルーとスタッフが1ヶ月生活できるだけの食料や日用品が備蓄されていた。 この脱出風景は、映画「メン・イン・ブラック3」で見る事が出来る。

 NASAは公的機関であり、アポロ11号ミッションも、行政機関から見ると「月への出張」扱いとなる。よって、後年、オルドリンが公開した出張精算書によると、ヒューストン⇒ケープ・カナベラル⇒月⇒太平洋(空母USSホーネット)⇒ハワイ⇒ヒューストンの移動になり、ヒューストンから月ミッションを経てヒューストンまでの移動費用、宿泊費用は軍が負担し、自宅からヒューストンまでの往復の自動車のガソリン代金(当時33ドル、現在の日本円にすると2万5千円ぐらい)が支払われた。

 宇宙空間に出ると、強力な太陽光にさらされるので、1時間に1回転の割合で、宇宙船を回転させて宇宙船が均一に加熱されるようにしていた。この操作を飛行士達は「バーベキュー・モード」と呼んでいた。

 月面着陸中及び月からの離陸中に、不具合が発生した場合は、コリンズ飛行士がアームストロングとオルドリンを救出する方法が18種類考えられており、コリンズ飛行士は、これら18種類の方法をマスターする必要があった。

2-7 ●オルドリン飛行士が着陸船から出てくる場面。写真手前の白い袋は、おそらくカメラなどを入れていた袋。 1969年7月21日、日本では午後0時近く、ニューヨークでは午後11時ごろ、着陸自体はニューヨークで日曜の夕方4時17分

 アポロ11号で飛び立つ前からアームストロング達は、着陸地点周辺の地形を多数の訓練によって熟知していた。着陸地点は、月の赤道近くの「静かの海という何もない場所で、ニューヨークのマンハッタン島の半分ぐらいのエリアに着陸する計画だった。船外活動服のデザインは変更されていないのに、出口の扉が設計変更で小さくなったので月着陸船から出るのに苦労した。写真から分かるように出入り口のハッチの大きさは81cm角しかなく、かさばる宇宙服&生命維持装置を背負った状態では、出入りするだけでも大変な状況だった。当時の状況を、かなり正確に再現したBBCによる再現フィルムでは、アポロ11号の3人の飛行士達は月面軌道上で、UFOらしきものを目撃したらしい。ただし、この事実を地球に報告するとUFO探索が主要任務になるだろうとの事で、地球に報告はしなかった。月にはコンピュータ制御で自動着陸する予定だったが、コンピュータが直陸させようとしていた場所はクレーターの中だったので、アームストロングは手動操縦に切り替えて平らな場所を探して着陸したが、その時は着陸用燃料が残り2%を切っていた状況だった。 目標の着陸地点よりも離れた場所に着陸したので、着陸当初は自分たちがどこに着陸したかは不明で、結局、地球から着陸地点を割り出して翌日の月司令船とのランデブーに備えた。 月面に立った人達の報告によると、重力6分の1の世界は、上下の間隔が混乱することもなく、体が軽いために無重力空間より快適に過ごせるという。

 オルドリンは月着陸船パイロットという名称であり、この名称からすると月着陸はオルドリンが操縦しそうな感じであるが、実際にはコンピュータが自動で着陸する操作を見守るのが仕事で、コンピュータが間違った場所に着陸するのを訂正する操作は船長が行った。月に着陸した時、衝撃で月着陸船( 地球では重さ14.7トン、月面では2.45トン )が壊れていないかチェックするのに6時間費やした。月面には巨大な石やクレーターもあり、月着陸船が岩やクレーターにひっかかると横転したり、再離陸出来ない可能性もあった。また、オルドリンは秘密結社フリーメイソンのメンバーで信仰心が篤く、NASAの許可を受けた(月面で特定の宗教儀式を行うのはアポロ8号の事件で懲りていたので、儀式をやるなら秘密裏にやることで了解していた。)上で、月面で聖餐式を行うべく、 ヨハネの福音書を写した小さなカード、聖餅、黄金の小さな聖餐杯、赤ワイン少量を持参し、月面着陸後、「一人聖餐式」を行った。 この儀式は、アームストロングには知らせていなかったので、アームストロングは「何を始めたのか」とびっくりしたという。アームストロングが月面に出るためにルナ・モジュールのハッチを開けようとしたが、着陸の衝撃のためか、ハッチはスムーズに開かず、力づくでこじ開けた。 ただし、ハッチは極限に軽量化されているので、ハッチが変形すると、今度は、きっちりと閉まらなくなる危険性があった。 ハッチは外側にハンドルがないので、月面に出る際には閉まってしまわないように半開きにして船外活動を行った。当初の設計では、月着陸船の脚部分は、着陸の衝撃を吸収して、写真よりももっと短くなるハズだったが、着陸に際して予定よりも燃料を消費したこと&着陸があまりにもスムーズだったので、予定よりも脚が長い状態で固定したために、ハシゴ部分が予定よりも高い位置で固定された。

 アームストロング船長が、月面に立った後、緊急事態で早急に月面を離れなければならない事も予想されていたので、まずは、月の砂、石を拾ってヒザのポケットに収納し、その後、余裕を見て観測機器を設置した。その後、オルドリン飛行士は、アームストロング船長の14分後に月面に立った。 オルドリンは月着陸船から外に出て、月面に立つまでに時間があったので、「ハシゴにつかまっている間に、おしっこをした」そうで、人類史上はじめて月面おしっこをした人間である

2.1 < アームストロング船長とオルドリン飛行士の関係 >

 オルドリンは、父が米国ロケット工学の父、ゴッダードの教え子にあたり、マサチューセッツ工科大学で宇宙航行学で博士号を得るなど生粋のエリートである&ジェミニ計画で数時間 、船外活動(いわゆる宇宙遊泳)した実績もある( 一方、アームストロングは船外活動の実績はなかった )、人類で初めて月面に立つのは自分がふさわしいと考えていて、計画担当者に直訴したこともある。月面上陸の順番 にあたっては、オルドリンは少し変わり者&軍所属であるために2番目、アームストロングは当時、NASA所属の民間人であり、極限の状況判断に優れているテストパイロット出身なので1番目になったという伝説も流れているが、実際には、アポロ計画の順番で、たまたまアームストロングのクルーの番になり、月着陸船の出入り口構造の関係で船長が先に出ることになったのが事実とされている。

 アポロ計画の船長は、同僚クルーを選ぶ権利があり、アームストロングはオルドリンを、バックアップのジム・ラベルと交代させてもよいとの打診を受けたが、ジム・ラベルはジェミニ計画で船長の経験があり、船長経験者のプライドを考慮&オルドリンはランデブーのプロ (ドクターランデブーというニックネームがついていた)であることから、オルドリンとともに月面着陸することを選択した。当時から「誰が最初に月面に降りるか」は注目の的であり、当時のインタビューでオルドリンは「月面に月着陸船で二人同時に着陸するのだ」とコメントしている。

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 人類がはじめて月に立つことは、20世紀最大の科学的偉業であり、世界的な一大イベントであったので、当時、約6億人がラジオやテレビで見守り、月からのテレビ中継が実現したことも驚異的な出来事だった。当時のアメリカの報道では、7月20日( 日曜日 )、21日( 月曜日 )の新聞・ラジオ・テレビは、アポロ11号のニュース一色となったが、23日の夕方には報道も落ち着き、アポロ11号のニュースは最新情報やまとめ記事として時々取り上げられるだけになっていた。

2-8 ●有名な足跡写真。オルドリン飛行士の足跡( この写真を撮影したのもオルドリン )で、これを撮影することは事前に決まっていた。

 ほぼ真空状態で吹かない月面では足跡は半永久に残るという。月の土は、風、水による風化がないので、微細に割れたガラス片のように尖っており、流動性に劣るために細かい濡れた泥のような状態であり、宇宙飛行士が歩くと( 地球上で体重80kgとして、月面では6分の1では体重13kg )、1-2cm沈んだという。月着陸船( 地上では14.7トン、月面では2.45トン )では、場所によって最大20cm程度、着陸時に脚部が土に、めり込んだという。この足跡は、記念ではなく、地質学者に月の砂の性質を見せるために撮影したもので、実際には踏む前、踏んでいる途中、踏んだ後の写真が残っている。

2-9 ●星条旗に敬礼するオルドリン飛行士。( 1969年7月21日 )これも撮影することが事前に決まっていた。

 この写真は、一見すると星条旗を見ているように見えるが、高解像度写真のオルドリン顔部分を拡大するとカメラ側を向いている。月面から離れる時も大きなリスクがあり、使用される上昇用ロケット( 1機しかない )は、確実性を担保するために開発にあたって1000回近く動作試験を行ったという。背負っている生命維持装置は、4時間分の酸素、通信装置が入っており、地球では重さ54kg、月面では9kg。着ている船外活動服は、地球では28kg、月面では4kg程度飛行士の体重が地上で80kgとすると、月面では、13kg程度。人間も含めて、地上では合計162kgが月面では27kgになっている。 船外活動服を着ている状態では、黙っていると背中の生命維持装置の機械音が常時聞こえるのみだという。星条旗は、Annin Fagmakers社製で、レーヨン生地で作製されており、当時5ドル50セント、現在の価値にして約3600円(実質的な経済価値としては7200円程度)でNASAが購入したものであり、月面での昼は二週間あり、昼間は100℃、大気がないので直接、太陽光からの強烈な紫外線を既に40年以上浴びているので、現在では色あせて真っ白になってボロボロになっていることが予想されている。

2-10 ●月着陸船の設置状況。月着陸船は砂にあまり埋まっていない。オルドリン飛行士。

 月には大気がほとんどないために宇宙空間から超高速の微粒子が減速せずに降り注ぐととともに、月面の昼は+200℃、夜は-200℃になるために着陸船の脚にまで保護フイルムで覆っている。月面での船外活動が、ほどよい温度の時間帯(月面の夜時間帯)につくように、計算してから地球を出発したので、写真は月着陸船によるライト光である

2.2 <これは一人の人間にとっては〜 >

 アームストロング船長の有名な言葉、「 これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」の「小さな一歩」というのは、上記の「金色の丸いお皿(フッドパッド)」から足を踏み出す事を言っている。 ちなみに、有名な「これは一人の人間にとっては〜」というメッセージは、NASAの月面活動リストに予定はなく、アームストロング自身の思いから出た言葉 で、アームストロングの弟の話によると、事前に地球で考えていたセリフだったという。 当時の通信状況の悪さや、管制センターが興奮して騒々しかったので、アームストロングの「これは一人の人間にとっては、〜」のセリフが、地上では「これは人間にとっては、〜」に聞こえて放送され、後に「これは一人の人間によっては、〜」に訂正された。アームストロングが月面に立つ最初の人間と発表されて以来、「最初に月面で何を言うつもりか」は、世間の関心を引き、アームストロングの自宅には、聖書やシェイクスピアの一節を含めて、さまざまな言葉を提案する手紙が届いていたという。

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2-11 アポロ計画でとても有名な写真。オルドリン飛行士。

 左手を曲げているのは、手袋内側に記してあるチェックリストを見ている時に撮影したためと思われる。大概の写真で、この写真からオルドリン飛行士の部分だけトリミング(切り抜き)して掲載していることが多い。実際には手前右側に見えている長さ3mの棒状のコンタクトセンサーの埋まり状態を観察して いる写真であり、月面着陸時には、このセンサーが月面に設置したと同時にロケットエンジンを停止させるようになっていた。 このセンサーは、月面に激しく着陸して、月からの帰還用のエンジンを壊さないため用であり、このセンサーが作動した高度で月降下用エンジンを停止させるとちょうど良い降下速度になるようになっていた。

 月面では、やることが分単位であらかじめ決まっていた。飛行士の胸の部分の箱は、生命維持装置のコントロールボックス。月面用ブーツは、月面の熱や寒さに耐えるために、アルミ蒸着したプラスチックフィルム13層とガラス繊維12層を交互に重ねたもので、靴底はガラス繊維のフルト、シリコンゴム、金属製布で作られている。 特徴的な金色のバイザー(お面)は、大きいので、横を向いても動かず、写真をとる時点でオルドリンがカメラを見ていたかどうかは不明である。宇宙服の気圧は大気圧の3分の1であり、純酸素で満たされている。大気と同じ1気圧では、宇宙服が風船のようにパンパンに膨らんで、動きにくくなるとともに、アポロ宇宙船、月着陸船内が1気圧であると、機体強度が余計に必要となって打ち上げロケット重量が加速度的に重くなるので、1/3気圧になるように設計された

2-12 ●月面着陸に喜ぶヒューストン管制センター

<管制状況 > 管制センターにある制御卓( コントロール用机、コンソール )、ジェミニ計画時は約20台、アポロ計画時には240台あったという。 ちなみにフライト( ミッション )の指揮官は船長にあり、飛行管制センターは飛行士の要請にしたがって忠告を与えるだけの役目。 地球から月までは通信するのに片道1.3秒かかるので、月から返事が来るのに最短で2.6秒かかった。アポロ計画ではロケットの打ち上げ時には300人の技師と管制官が発射センター( ケープ・カナベラル 、和風にいうとカナベラル岬 )に詰め、その他の場所では、あらゆる緊急事態に備えて宇宙船製造企業関係者1500人以上が待機し、ヒューストンでは100人が飛行管制センターで常時待機した。飛行士からの質問には20秒で答えるルールになっており、与えられた20秒のうちに、バックルームの専門家と話し合って解決策を提示していた。 アポロ11号では、ジーン・クランツが月面着陸担当の飛行主任を務めたが、飛行主任が一つの色を身に着けるという習慣はマーキュリー計画の最後の飛行からアポロ計画まで続いた。映画「アポロ13号」でジーン・クランツが白いベストを新調して見せるシーンがあるが、あれはクランツの管制官チームカラーが白だったからであり、クランツの管制官チームは「ホワイトチーム」と呼ばれていた。

<通信関係> 飛行中は世界中の追跡ステーションで通信担当として数千人が関わっていた。 テレビ中継システムでは、地球の軌道上にいるときは統一Sバンドと呼ばれる周波数帯の電波でNASAの追跡基地に信号が送られ、月の近くから中継するときはオーストラリアのキャンベラ、カリフォルニア州のゴールドストーン、スペインのマドリッドの3つの追跡基地に建てられた高さ約26mのアンテナで信号をキャッチする仕組みになっており、アポロ16号以降は、高さ約64mの巨大パラボラアンテナが設置されて信号強度が向上した。アポロ11号の中継の際に、キャンベラ通信所でドラマがあったようで、この出来事は後に、映画「月のひつじ」で再現されている。

2-13 ●月着陸船の脚に残して来た記念プレート。この脚部分は永久に月面に残るものの一つ。

 地球の東半球と西半球の地図、3人の飛行士とニクソン大統領の署名、そして「西暦1969年7月、惑星地球から来た人間が月面に初めて足を踏み降ろしたことをここに記念する。我々はすべての人類の平和のために来た」と記述されている。

2-14 ●月着陸船の脚部分

2-15 ●月着陸船の後部と地球。

2-16 ●月着陸船の脚部分。伸びている棒は月面に接触した事を知らせるセンサー。

 月着陸船は、徹底した軽量化のために、手作り感満載で、ハリボテに近い構造をしている。 月着陸船の着陸にあたっては、真上から落下することが大事で、着陸に際して水平方向にぶれると脚が折れる可能性があった。 月面に着陸の最終タイミングとしては、ホバリングで月面まで近づき、長さ1m程度のセンサーが月面に接触すると、月着陸船内のランプが点灯し、そのタイミングで降下エンジンを切ると、ちょうどよい感じでソフトランディングする仕組みだった。脚部分の写真を撮影しているのは、月着陸船のような重い物が月に着陸するのは初めてだったので、着陸の状況を調べるためと、脚部分が上部ステージ(月から離陸する部分)の打ち上げに障害がないかを調べるため。

2-17 ●月着陸船の後ろのトランクから様々な観測機器を取り出して設置している場面。

2-18 ●月面に、様々な観測機器を設置している場面。

 オルドリン飛行士の手元は月面地震計。腕部分の装置は地球からの距離を精密に測定するためのレーザー反射装置。その奥の遠くの棒状のものは白黒テレビカメラ。この頃は、小型の白黒テレビカメラも画期的だった。月面は重力が6分の1なので、スコップで砂を集めるのも一苦労で、スコップで砂を持ち上げると、ハズミで約半分の砂が周囲に飛び散ったという。風も水もない月面では、10万年前に来ても、100万年後に来ても基本的に同じ風景であるといわれている。

2-19 ●月面での初めての船外活動を終了した直後のアームストロング船長。( 当時38才 )

 普段は冷静なアームストロングも、約10年かかって故ケネディ大統領の約束「人類が月面上陸を果たす」事で興奮し、写真を良くみると目が充血しているまた、地球出発から3日後であるので、無精ひげも生えている。

2-20 ●月面での船外活動を終了した後のオルドリン飛行士。( 当時 39才 )

 一般に、船長はミッションの成功に責任を負うことから、月面での活動を楽しむ余裕はなく、飛行士の方が感動や楽しむ傾向があるとされ 、船長は究極に疲れることからミッション終了後は、二度と宇宙飛行はしない場合が多い。 月の砂は非常に微細で尖っており、船外活動後は、船外活動服からほこりを払うために数時間かかり、ルナモジュール内で、ヘルメットを脱いだ際には、火薬やおもちゃのピストルのようなニオイがしたという。( これは高真空の宇宙空間に存在した金属鉄が船内で酸化した際のニオイと考えられ、地球でも鉄棒を握った後に、手が匂う現象( 金属鉄が微量に溶けて、酸化してサビになる )と同じ現象であり、月面到達以前は、この金属鉄が宇宙船内の酸素と反応して炎上するのではないかと心配する研究者もいた。アポロ11号では月面では2時間船外活動し、不要物 ( 生命維持装置、食べた食品の袋、尿の詰まった袋など )を月面に投棄した後、7時間の睡眠 (アポロ11号では、ベッドはなく、オルドリンは船外活動服を着たまま壁にもたれかかって寝た 、アームストロングは上昇用エンジンカバーの上に座って機器にもたれかかって寝たが、それ以降のミッションでは、良い睡眠をとるためにハンモックが用意された。アポロ15号以降では船内で宇宙服を脱いで裸で寝られるまでに改良された)をとった後、2時間半の離陸準備を終えてから月面を離れた。 月面着陸から、およそ22時間後の事で、アポロ11号では、船外活動は安全のために月着陸船から約60m以上離れることはなかった。

この際、 月面離陸用のエンジンを作動可能にするブレーカーの先端が外れて転がっており、ペン( アポロ計画では、宇宙使用のボールペン( Fisher space pen, AG7 )とフェルトペン( Duro Pen company, Duro Marker Pen, Rocketモデル )を一人2本所持していた。 )の先 、正確にはフェルトペンのペン先を使って ブレーカーを押し込んだとされる。 実際には、スイッチが使えなくても月面離陸用のエンジンを作動する方法はあったので、誰も心配しなかったという。その際、離陸のジェット噴流によって月面に立てた星条旗が吹き飛んだ。

 人類初の月面着陸では、上昇用エンジントラブル ( 完璧に作動するように、自己発火性のロケットエンジンを使用し、燃料の強い腐食性のせいで、事前にエンジンテストが出来ず、常に一発勝負となるエンジンだった。)で離陸出来ずに、永久に月面に留まる事態も想定されており、その際は、まず大統領から家族に電話があり、その後、用意された手紙が家族に届けられる仕組みになっており、このルールは、当然、宇宙飛行士達にも知らされていた。 月面上空で待機していたマイケル・コリンズ飛行士は、離陸できなくなった月面の二人を残して、一人地球に帰る訓練も行っていた。

地球帰還に使用したルナ・モジュール上部は、月周回軌道に放置され、その後、数週間後に月重力によって月面に衝突したと見られている。 結果的に、アームストロング船長は合計2時間13分間、オルドリン飛行士は1時間42分間、月面を歩いた。

2-12 ●アポロ11号で月面から帰還する際に、アポロ宇宙船内部からから見た地球

月面&宇宙空間から地球を見ると、地球は満月の約40倍の明るさがあるという。 月に向かう宇宙船内では、高速で移動しているにもかかわらず、「動いている」という実感がないそうで、まるでシミュレータに載っている感覚だという。アポロ宇宙船には、宇宙飛行士の体調管理を含めて、数百という項目がテレメトリーを通じて地球に送信されて不具合がないか監視されていた。

2-22 ●アポロ11号で月面から帰還する際に、アポロ宇宙船内部からから見た地球

 宇宙ステーション、スペースシャトルの飛行高度からは地球全体は見渡せないので、この風景を直に目で見たのは月に行った 累計で24人程度

2-23 ●海上に着水し回収を待つ飛行士達と回収要員( 一番左の人物 )。

 月司令船は時速3.9万kmで大気圏に突入し、大気との摩擦熱は2800℃に達した。大気への再突入は 突入角度が大事で、5.3°より浅いと司令船が大気にはじかれて二度と軌道に戻れない。7.7°よりも深いと強力なGが発生し、海に着水する前に飛行士たちが脳や内臓の重さによってつぶれてしまう。月司令船( コマンドモジュール )は、形状はシンプルな三角錐だが、重心が少し偏っているので揚力が発生するようになっており、内蔵の小型エンジンを噴射することによって、ある程度、飛行コースをコントロールすることが出来た。高度約121kmから大気の影響を受けて減速を初め( この際、宇宙飛行士には最大で6.35Gの加速度がかかる )、高度7kmから2つの減速用パラシュートが順番に開き、速度を時速200kmまで減速し、高度3kmで小型パラシュートによってメインパラシュート3基が引き出されて、最終的には時速35キロでハワイ沖に着水。( 7月24日 午前11時50分 ) 打ち上げから6日間経っているにも関わらず、予定よりも1分早いだけの正確さだった。このあとハワイ沖の司令船回収チームが近づいて、司令船の周りに浮き輪を設置してクルーを回収した。この時期(アポロ11から12号ぐらいまで)月から未知の細菌を持ち込むことが懸念されたために検疫係が飛行士と宇宙船内を消毒し、ヨウ素液で体をこすられ、マスク付きの防護服(生物隔離服)の着用が課されるとともに、月司令船の外部にも月や宇宙空間で地球外の生命体が付着した可能性があるとして、消毒液であるポピドンヨード(ヨウ素)を機体に散布した。

2-24 ●空母ホーネットに到着した飛行士達。未知の細菌の可能性があるために生物隔離服を着て移動検疫室( 隔離施設 )に直行。

 当時は、月面に未知の細菌、ウイルスがいるかもと予想されていたので、衛生面でも命がけの冒険だった。アポロ11号からアポロ14号の検疫を通じて、宇宙飛行士の安全性が確認されたので、 アポロ15号以降は検疫プロセスが解除された。

2-25 ●船上で大統領栄誉礼の儀式

2-26 ●儀式終了後に飛行士達をねぎらうニクソン大統領。

 窓の上部には「空母ホーネット+3」とあり、3人多く乗っているという意味。 左からアームストロング、コリンズ、オルドリン飛行士。月面着陸に成功したのが1969年7月で、ニクソンが大統領に就任したのが、1969年1月。もともとアポロ計画は、ケネディ大統領の決断によって始まり、リンドン・ジョンソン副大統領(ケネディ暗殺後に大統領に昇格)が担当だった。ジョンソン大統領はベトナム戦争の泥沼のあおりを受けて、大統領選に再出馬せず、結果的に次の大統領がニクソンだった。 ニクソン大統領は、宇宙開発に関心は薄く、アポロ12号以降でアメリカ人の関心が薄れてくると、アポロ16、17号の打ち上げ中止を提案した。アポロ12号でも同じ空母ホーネットが回収に使用され、窓の上の文字は「THREE MORE LIKE BEFORE(前回と同じように3人多い)」と、くだけた表現になった。

2-27 ●隔離施設に入ったまま、輸送機でアメリカ本土ヒューストンの「月物質受け入れ施設」まで空輸された。

 宇宙飛行士は、NASAの職員。イコール公務員なので、宇宙行く時も「宇宙へ出張」となっていた。その出張手当ては当時で1日3ドルだったらしい( 今で いうと2万円ぐらい? )。また、月から帰還してハワイ沖に着水し、ハワイに入国した際、税関で税関申告書を書かされ、出発国「月」、持込物 「月の石、ほこり」と記述した書類も残っている。

2-28 ●8月11日まで隔離施設(月試料受け入れ研究所)3週間(21日間)過ごして、徹底的に検査されて体調の変化を見た。

 左から、コリンズ、オルドリン、アームストロング飛行士。月試料受け入れ研究所では、ミッションの詳細を報告するとともに、バーで飲んだり、映画を見たり、トランプをやったり、エクササイズして過ごし、医師や広報官、及び、誤って月試料にさらされた研究者までもが隔離された。 宇宙開発初期の宇宙飛行士達は、軍のパイロットやテストパイロット出身が多く、基本的には一匹狼タイプが多く、海軍出身とか空軍出身などの軍人同士の方が仲がよかった。また、ミッションを成功させることが最優先で、ミッションを成功させるために選ばれ、飛行まで体調などの面で何事もなかったメンバーが結果として飛行したので、このメンバーがアポロ11号ミッション終了後も、頻繁に連絡を取り合ったというわけではない。この写真でも、それぞれの性格(もの静かな性格のアームストロング、熱中しやすいオルドリン、気楽なコリンズ)が現れている。

2-29 ●アポロ11号で月面から持ち帰った石、砂の運搬作業。

 写真の後方に、当時の車を見ることが出来て、現在でも色あせて見えないサターンロケットと対照的である。ちなみに、この時期に日本ではトヨタ自動車の「初代カローラ」が発売された。 月からは月面で真空のまま、箱に詰めて、NASAの月試料受入研究所(建設費 当時で800万ドル)に運ばれた。アポロ11号の着陸地点は、静かの海と呼ばれる月の黒い部分だったので、月の石は黒い微細な玄武岩のほこりにまみれており、見た目は煤けた石ばかりだった。当時、月の石、砂は 、未知の微生物がいることも考えて厳重に管理されて、月面に立った宇宙飛行士でさえ、地球に戻った後はガラス越しに見るだけだった。

2-30 ●ニューヨークでの凱旋パレード。

左からオルドリン、コリンズ、アームストロング飛行士。3人は地球帰還後、妻を同伴してNASA主催の世界親善ツアーに参加し、45日間で24か国を回った。


3 アポロ計画時の宇宙服

 

<ミニ目次>----------

1 アポロ計画での印象的写真集 / 2 アポロ11号の記録写真集 / 2.1 アームストロング船長とオルドリン飛行士の関係

2.2 これは一人の人間にとっては〜 / 3 アポロ計画時の宇宙服 / 3.1 宇宙服(船外活動服)の着方

4 アポロ宇宙船(司令船(コマンド・モジュール)、月着陸船(ルナ・モジュール))、ルナ・ローバーの詳細

4.1 アポロ宇宙船(司令船、機械船、コマンド・モジュール) / 4.2 月着陸船(ルナ・モジュール)/ 4.3 ルナ・ローバー(月面車)

5 人類月面着陸、アポロ計画  / 5.1 アポロ計画 の時間軸の流れ / 6 アポロミッションのトピック

7 月に行った人達、月面を歩いた人達 / 8 サターンロケット / 9 アポロ計画におけるIBMの役割 /10 月面着陸捏造説を一蹴する証拠画像

/ 11 その他

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 下の写真中、月面活動で使用した金色のバイザー( お面、強力な太陽光をさえぎるために金がコーティングされている。 )、青い指先の手袋、青い靴( ルナ・ブーツ )、及び、写真にはないが背中に背負っていた生命維持装置は、 もう不要なので、月から帰還する際に、月の周回軌道上で廃棄した月着陸船内に残すことによって廃棄した。よって、実際に月から地球に帰還した船外活動用の宇宙服関係品は、記念用としてアポロ11号( 初めての月面上陸 )時の金色のバイザー2つ、及びアポロ17号( 最後の月面上陸 )での月面を歩いた月用ブーツ( 2人分、4足 )のみとされている。その他に、アポロ飛行士が着て帰ってきた宇宙服(船外活動服2着( 船長用、ルナ・モジュールパイロット用 )、船内宇宙服1着( 司令船パイロット用 ))が、アポロミッションの数だけ保存されている。

船外活動服&船内活動服>アポロ計画では、宇宙飛行士ごとに専用の宇宙服( 船外活動服&船内活動服 地球では重さ28kg、背負っている箱は生命維持装置で 重さ54kg )が用意され、手袋については、指先まで長さを測って合わせるとともに、月面は極寒であるので指先までヒーターが設置されていた。これらの宇宙服は、おばちゃん達が作ったハンドメイドだった。

 アポロ計画時の宇宙服を作製したのは、ILC( International Latex Corporation, 現在の社名はILC DOVER )で、昔から現在も女性用の下着を販売しているメーカー。NASAの技術者達は、洋服を作る経験がないために、公募した。裁縫を担当するおばちゃん達は、宇宙服の作製にあたって、気密性を保つために仮縫い用のピン( まち針 )は使用せずに、0.4mmの誤差以内で裁縫しなければいけないという高度な製造条件を克服した。ちなみに、裁縫婦の何人かは、服の生地の裏側に、こっそりと自分の名前を記入しており、そのうちの何着かは月に行ったことだろう。宇宙服のA7Lという表記はApollo( アポロ用 )、モデルナンバー7、ILC社のLから採用した名前。この宇宙服の運用条件はー179℃〜+154℃、運用圧力3.70-3.90ポンド/平方インチ、連続運用時間は7時間。この宇宙服は完全に使い捨てで宇宙飛行士1人あたり、本番用、トレーニング用、予備用として3着、バックアップクルー用に本番1着、トレーニング用1着作られ、一回のミッションに合計15着作製された。宇宙服の価格は一着約200万ドル( 今の日本の感覚だと16億円以上 )かかったと推定されている。

 月面で活動する人( 船長、月着陸船飛行士 )には船外活動服、月面上で支援する人( 月司令船パイロット )には船内活動服が準備された。船外活動服と船内活動服では、仕様が異なり、これらの服は着用するのにルール通りに 着て、いちいち読み上げてチェック&機能テストするので同僚の手を借りても2時間かかったという。宇宙服内部は、0.3気圧で動きやすくなっていた。 ちなみに1気圧にすると真空中では、風船のようにパンパンに膨らんで動くだけで疲れる。また、アポロ8号-10号、アポロ11-13号、アポロ14-17号までは、船外活動服の 仕様が異なり、簡単にいうとアポロ11号-13号では宇宙服の後ろから着るタイプ。アポロ14-17号では前から着るタイプ。透明なバブル型ヘルメットの上に着用するバイザー ( 金色のお面 )も3種類( アポロ8-10号用、11-13号用、14-17号用 )あり、経験に学んで短期間で改良が加えられた。 船外活動服については、アポロ12号程度までは、船外活動時間が少なかったが、アポロ13号以降では月面の地質調査が目的となり、船外活動時間も大幅に延長されたので、バブルヘルメットをかぶったままで、水やカリウム補給源としてオレンジジュース、また、乾燥フルーツを棒状にしたものを食べられるように工夫されていた。

 船内活動服は、おおまかにいうと船外活動用の服から左胸部分のバルブ3つが無い形。船外活動用では、左胸側に、上から水冷却用バルブ、非常時用の酸素供給用バルブ(青色)、非常時用の酸素排出用バルブ(赤色)が設置されている。 アポロ8-14号までは、司令船パイロットは、宇宙遊泳する必要がなかったので、船内活動服を着ていたが、アポロ15-17号では、月機械船から写真フィルムを取り出すために宇宙遊泳する必要が生じたので、船外活動服(月面活動用とは違う独自タイプ)を着用した。

 司令船パイロット用の船内活動服&月面活動用の船外活動服は、打ち上げ( 高空で急減圧する可能性 )やドッキングなどトラブルの発生しそうな時に着用し、宇宙空間を安定飛行するときは白色つなぎ( ジャンプスーツ )に着替えてリラックスしていた。一方、地球に帰還する際は空気が無くなる可能性はないので船外活動服は着用しない。

3.1 具体的な船外活動服の着かた>アポロ計画の文献を元に、服着用の順番に沿って記述

 

<ミニ目次>-------

1 アポロ計画での印象的写真集 / 2 アポロ11号の記録写真集 / 2.1 アームストロング船長とオルドリン飛行士の関係

2.2 これは一人の人間にとっては〜 / 3 アポロ計画時の宇宙服 / 3.1 宇宙服(船外活動服)の着方

4 アポロ宇宙船(司令船(コマンド・モジュール)、月着陸船(ルナ・モジュール))、ルナ・ローバーの詳細

4.1 アポロ宇宙船(司令船、機械船、コマンド・モジュール) / 4.2 月着陸船(ルナ・モジュール)/ 4.3 ルナ・ローバー(月面車)

5 人類月面着陸、アポロ計画  / 5.1 アポロ計画 の時間軸の流れ / 6 アポロミッションのトピック

7 月に行った人達、月面を歩いた人達 / 8 サターンロケット / 9 アポロ計画におけるIBMの役割 /10 月面着陸捏造説を一蹴する証拠画像

/ 11 その他

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1 【緊急時ウンチ用おむつ】を穿く>宇宙空間を航行中の船内では、ウンチの場合は、 ポリエチレン製の袋をお尻にあてて、ティッシュでお尻を拭いた後は、蓋を閉じ 、殺菌剤とウンチとよくもみほぐして混合してから地球に持って帰った。 この正式名称は”ジェミニうんちバッグ”という名前だったが、後に通称”アポロうんちバック”と呼ばれるようになった。 初期は、お尻にパイプを突っ込んで吸引するタイプも検討されたが、宇宙飛行士から猛反発を受けて撤回された。ただし、船外活動服は、着用するのに同僚の手を借りても2時間かかり、 ウンチが間に合わない時も考えられたので、最大で1Lのウンチまで保持できる、おむつ(前部分は開口部)を穿いている。 アポロ宇宙船では大人3人が最大で7日程度狭い宇宙船内で過ごすことから、なるべくウンチが出ないように食料も工夫されていた。 また、「誰々の何時のうんちは何グラムだった」というのも随時記録されていた。

2 【尿採取バッグ】を穿く>下の写真で、黄色い帯に見えるのが、おしっこをためておく袋で、飛行士はコンドーム状のゴムをはめており、いつでも、おしっこ出来るようになっていた。 その後、おしっこは、船外活動服の右モモ部分のコネクタを通じて、月司令船の機械によって吸引され、毎回、量も計測されてから、その後、月司令船から宇宙空間に放出された。

3 【液体冷却式下着】を着る>下着に相当する服は、極細の柔軟パイプで編んであり、背中に背負った生命維持装置を通じて冷却水を循環させて体から発生する熱を除去して体温調整を行った。月面が寒いからと言って温水が流れているのではなく、月面は真空に近く て伝熱成分がなく体内の熱が発散しないので、これを冷却するために水を循環させた。

4 【生体情報収集用ベルト】を腰にまく>腰部分に、心電図などをとるためのセンサからの情報を集める機器があり、このデータはリアルタイムで、月面から地球に送信されて、宇宙飛行士の身体状況、精神状況をチェック&記録されている。

5 【船外活動服】を着る>服の外側の白い布は、太陽光の輻射熱を避けるためにアルミ箔を内蔵するとともに、月面で微小隕石が直撃して宇宙服に穴が空いても大丈夫なように、20-21層の素材で構成されていた。 船外活動用では、左胸側に、上から水循環冷却用のバルブ( 青色 )、生命支援システムが故障した時の非常時用の酸素供給用バルブ( 青色 )、非常時用の酸素排出用バルブ( 赤色 )が設置されており、右胸部分は、上から、電子機器用コネクタ( 青色 )、生命支援システムとつなぐ酸素供給用バルブ( 青色 )、酸素+CO2排出用バルブ( 赤色 )があり、バルブの横には切り替え弁のノブがある。さらに、二人で月面活動中に、片方の生命支援システムの水循環システムが故障した時のために、同時に二人、水循環ホースがつなげるようになっている。

6 【首周りの保護膜( ネック・ダム )】を装着>首から下で、何らかの原因で水漏れが起きた場合、顔面まで水が漂ってこないように、首周辺を軽く覆っておくための保護膜。

7 【通信用キャップ( 通称、スヌーピーキャップ )】をかぶる>マイクやヘッドフォンが仕込まれてる帽子。スヌーピーのような外観なので通称、スヌーピーキャップ。この帽子からはケーブルが出ており、生体情報収集ベルトと接続して電力を得る。

8 【バブルヘッド( 丸い透明なヘルメット )】をかぶって服の首リングと接続>飛行士に酸素&気流を供給するためのヘルメットで、後頭部に酸素を供給するためのダクトが設置されている。ヘルメットはポリカーボネート製で 、地上の訓練時には本体の上に防護用としてポリカーボネート製のヘルメットカバーをつけていた。

9 【船外活動用手袋】を装着>手には、コンフォート用手袋(汗などを吸収する手袋)を着用した上で、船外活動用手袋を着用し、船外活動服と金属リングで接合し、気密を保つ。

10 【生命支援装置】を背負う>地上では54kgもある生命支援装置を背負って、リモコンを胸に装着。電気コネクタ、水循環冷却ホース、酸素導入ホース、排気ホースを接続し、気密のチェック。 ちなみに、無重量(無重力ではない)空間では、空気の対流がないために、人間の吐いたCO2が顔面に滞留し、窒息の危険があるので、人工的に常に気流の流れを作り出す必要がある。

11 【月面用外部手袋】を装着>月面では、-200℃になる&高速微小隕石がふりそそぐ状態なので、月面用の手袋を特別にはめる。アポロ11号では、手袋の手首側の内側に月面で行う活動のチェックリスト( ここで写真をとる等 )が記されていたが、アポロ12号以降では「やるべき事」が多くなったので、冊子型のチェックリストを装着する方法に変更された。

12 【月面用ブーツ(ルナ・ブーツ)】をはく>-200℃になる月面で活動するためのブーツ。船外活動服と一体となった船内活動用の靴の上からルナ・ブーツをはく。

13 【月面活動用のバイザー(お面)】をかぶる>月面は、ほとんど大気がなく、太陽光( 可視光、輻射熱、赤外線、放射線 )&高速微小隕石が直接、 船外活動中の飛行士に届くので、保護用に「ポリカーボネート製のバイザー」をする。 バイザーの前面は、2重の面になっており、一番外側のお面は太陽光の紫外線、赤外線を反射するために金を蒸着しているので金色でマジックミラー状態になっている。その内側は透明な、お面。ちなみに人工衛星が金色しているのは、金を蒸着している訳ではなく、黄色のカプトン ・フィルムに金属アルミニウムを蒸着して何層にも重ねているので金色に見えるだけ。ちなみに、金色の折り紙も、銀色の紙の上に透明な黄色を塗って作られている。 ちなみに、SF映画ではガラス製?バイザーが割れるシーンがあるが、実際にはポリカーボネート製の強靭なプラスチック製なので、映画用のように簡単に割れる代物ではない。

14 着用終了

 写真中、月面活動で使用した金色のバイザー( お面、実際に金をコーティングしている )、青い指先の手袋、青い靴( ルナ・ブーツ )、及び、写真にはないが背中に背負っていた生命維持装置は、 もう不要なので、月から帰還する際に、月着陸船内に残して廃棄した。 よって、実際に月から帰還した宇宙服は、記念用としてアポロ11号( 初めての月面上陸)時の金色のバイザー2つ、及びアポロ17号( 最後の月面上陸 )での月面を歩いた月用ブーツ( 2人分、4足 )のみとされている。

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 下の船外活動用では、左胸側に、上から水冷却用バルブ( フタ付の青色 )、酸素供給用バルブ( 青色 )、酸素排出用バルブ( 赤色 )が設置されている。 これらのバルブはホースが万が一外れないようにダブルロック式になっている。 右側上部の青いのは背中の生命維持装置からの電源コネクタ、その下のフタつきの青いバルブ及び赤いバルブは、非常時に同僚と酸素&二酸化炭素排出を共有するためのバルブ。 靴( 青いルナブーツではない )の裏側には、月面の月着陸船内で不用意に飛び跳ねないようにマジックテープが張り付けられている。 当時の写真を見るとバブルヘルメットの首リングには、青タイプと赤タイプがあり、船長用と飛行士用で区別されているのか、それとも色の違いで月面で人物を特定するためかとも思うが、アポロ11号ではアームストロング、オルドリンともに赤色のネックリングであり、金色のバイザーをかぶるとネックリング自体見えなくなるので、この色の違いは不明である。 この写真の船外活動服は精密なレプリカで、本物(実際に船外活動で使用したもので、実際に使用した汚れ( 左足もも部のポケット上部がオレンジ色に変色 )とかほつれがある)はスミソニアン協会の倉庫で厳重に保管されている。

3-1●

 宇宙飛行士は公務員>宇宙飛行士は、NASAの職員。イコール公務員なので、宇宙行く時も「宇宙へ出張」となっていた。その出張手当ては当時で1日3ドルだったらしい(今で いうと2万円ぐらい?)。また、月から帰還してハワイ沖に着水し、ハワイに入国した際、税関で税関申告書を書かされ、出発国「月」、持込物 「月の石、ほこり」と 記述した書類も残っている。

 バズライトイヤーとオルドリン飛行士の関係>ピクサーアニメ映画「トイ・ストーリー」で主人公の一人としてバズ・ライトイヤーという宇宙飛行士が出てくるが、これは2番目に月面を歩いたバズ・オリドリンに由来している。有名な月面に記した足跡の写真、月面での船外活動のほとんどの写真は、オルドリンのものである。ちなみに、「おもちゃのバズ・ライトイヤー」は2008年のスペース・シャトル ・ミッションSTS-126のクルーとして宇宙ステーションに行っており、の夢は実現された。


4 アポロ宇宙船の詳細

 

<ミニ目次>------

1 アポロ計画での印象的写真集 / 2 アポロ11号の記録写真集 / 2.1 アームストロング船長とオルドリン飛行士の関係

2.2 これは一人の人間にとっては〜 / 3 アポロ計画時の宇宙服 / 3.1 宇宙服(船外活動服)の着方

4 アポロ宇宙船(司令船(コマンド・モジュール)、月着陸船(ルナ・モジュール))、ルナ・ローバーの詳細

4.1 アポロ宇宙船(司令船、機械船、コマンド・モジュール) / 4.2 月着陸船(ルナ・モジュール)/ 4.3 ルナ・ローバー(月面車)

5 人類月面着陸、アポロ計画  / 5.1 アポロ計画 の時間軸の流れ / 6 アポロミッションのトピック

7 月に行った人達、月面を歩いた人達 / 8 サターンロケット / 9 アポロ計画におけるIBMの役割 /10 月面着陸捏造説を一蹴する証拠画像

/ 11 その他

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4.1<アポロ宇宙船:司令船(コマンド・モジュール)+機械船(サービス・モジュール) >

製造>ノース ・アメリカン社( 現 ボーイング社 ) 宇宙&誘導システムズ部門、部品数、約200万個

設計&とりまとめ>Harrison Storms

4-1●

 アポロ宇宙船は 、三角錐状のアポロ司令船( コマンド・モジュール )+機械船( サービス・モジュール )を合わせてアポロ宇宙船と呼ぶ。

アポロ宇宙船(ブロック1型)>ノースアメリカン社(  ノースアメリカン社はその後、スペースシャトルを開発したロックウェル社と合併してノースアメリカン・ロックウェル社となり、現在はボーイング社の一部門 )のHarrison Stormsが主導して設計され、1962年初頭には14000人の従業員が開発に関わっていたとされる。開発は難航し、22機のモックアップ及び20機の試作を重ねた上で、8機の初期型( ブロック1型 )宇宙船の試作機を作製した。

 2回の無人飛行に成功した後、アポロ宇宙船の有人初飛行に向けてテストを行っている最中に、宇宙船内のケーブルのショートによって発火し、宇宙飛行士3人が亡くなった。( このメンバーは後にアポロ1号メンバーと命名された。)これは、宇宙船内の環境が1.1気圧の純酸素で満たされており、ショートによる発火とともに、すぐに炎上したからである。 宇宙船内の空気を大気と同じ窒素と酸素にした場合、気体の混合操作が複雑になるし、配管も増えて宇宙船の重量が増加する事が懸念されたので純酸素を使用することになっていた。アポロ計画の前のマーキュリー計画やジェミニ計画でも、純酸素が使用されていたが、事故は起きていなかった。 それまで誰も月航行用の宇宙船を建造した経験はなかったので、製作時及び組み立て段階では2万か所以上の故障が生じていた。事故後は、 1500人以上の人員を動員して原因を調査し、報告書は3300ページにもなった。ブロック1型は、月に向かう仕様ではなく、地球周回軌道を回るだけを目的として設計されており、 月着陸船とのドッキングシステムも、月誘導・通信システムも搭載されいておらず、アポロ1号だけでしか使用しないことが決定していた。事故に関しては、ノースアメリカン社は、これまでに有人宇宙船を建造した経験がないことから、事故前からブロック1型は欠陥品であると、皆、認識していた。

アポロ宇宙船(ブロック2型)>事故後、宇宙船内は、1.1気圧から0.3気圧の純酸素(純酸素は気圧が低くても発火する恐れがあり、1.1気圧では、発火の可能性がはるかに高くなる。)に変更され、素材は不燃性のものにするなど徹底して改良された「ブロック2型」と命名された宇宙船が、その後のアポロ計画に使用され るとともに、当時建造中だった月着陸船、月面車も対策が取られた。 アポロ宇宙船の設計陣によると、徹底した冗長性(システムの多重化による安全性)の採用で、設定としてはアポロ宇宙船の信頼性は99.9%、つまり1000回飛行して1回宇宙飛行士が死ぬ程度の確率と考えられていた。

 飛行用の司令船は累計18機、機械船は累計16機程度を製造し 、後述の月着陸船( ルナ・モジュール )を含むと、当時のお金にして総額80億ドル( 80億ドルx360円x2倍( 実感物価係数 )x物価上昇10=60兆円、今の日本の感覚でいうと60兆円)かかった。ちなみに、アポロチョコは、このアポロ司令船の形が名前の由来になっている。

 機械船 ( サービス・モジュール )に搭載しているロケットは月軌道に入るための減速及び、地球に戻るための月軌道からの脱出のために使用される。

<アポロ宇宙船:司令船(コマンド・モジュール>

4-2●

 月司令船の上部に見える3つの白い風船は、海に着水した後に、脱出口が海上の方向に自然に向くようにするための浮き輪。 大気圏突入時に窓側部分の温度が上昇しないように船体の重量バランスが設計されているために、回収後の写真をみると、窓側部分は表面が焼け焦げていないのが分かる。この司令船は、地球帰還時にはただ落下するだけのように見えるが、適切なスピード、角度で大気圏突入できるように、飛行中にある程度、姿勢制御することが可能な仕組みになっている。

4-3●

司令船の居住空間>全長110mのサターン ・ロケットでも、3人を月まで運ぶアポロ宇宙船の居住スペースは写真の通り。 司令船の下部直径は3.9m、キャビンの容積は、たった5.9m3。これは1.8mx1.8mx1.8mの空間に相当する狭さ で、飛行士には上限182cmの身長制限があった。地球上では非常に狭く感じられるが、無重量状態 ( 宇宙の果てを含む宇宙空間では至る所に引力(地球が引っ張るのは重力と呼ぶ)が存在し、厳密な意味での無重力という場所はないので無重量と呼ぶのがならわし。)では、椅子を折りたたんで( 無重量空間ではイスは必要ない )、空間を三次元に使用できることから、そんなに狭く感じないそうで、司令船で最大で2週間暮らした。

司令船の装置類>アポロ指令船には、 主にアナログ式の必要な装置が、びっしりと詰め込まれており、スイッチだけでも560個程度 、電気の接続部分が4万8700個、48kmの電線が使用されているという。アポロ宇宙飛行士達は徹底した訓練によって、目をつぶっていても、どこにどのスイッチやボタンがあるのか分かるようになっていたという。 これらのスイッチは連動しており、操作によっては300個ぐらいのスイッチを順番に押していく場合もあり、順番を間違えると全システムがダウンすることもあった。 非常事態には、宇宙空間でハッチを開けて宇宙遊泳することも予定されていたので、すべての電子機器、スイッチは低温&真空状態でも確実に作動するように設計されており、重要なスイッチには、簡単にスイッチ操作出来ないようにスイッチ ・ガードがついている。打ち上げ時、船長は手元のハンドルを握って非常時のロケット脱出に備えていた。 船内は狭い上に、宇宙服も動きにくいので、背中方向にあるスイッチ類は、鏡を見ながら操作出来るように、表示が逆になっていた。

司令船の断熱構造>司令船の壁は、外側から耐熱用アブレーター( 2.2cm )+ロウづけステンレス立体構造( 1.27cm )+断熱剤( 3.4cm )+アルミ製ハニカム( 1.27cm )で構成されており、総厚さは8.2cm( 大人の拳1個分 )、司令船の底部は、底部から耐熱用アブレーター( 6.8cm )+ロウづけステンレス立体構造( 5cm )+断熱剤( 2cm )+アルミ製ハニカム( 3.8cm )で構成されており、総厚さは17.6cm( 大人の拳2個分しかないということ )。 耐熱用アブレータを担当したアプコ社では中年女性を12人雇用し、38万個のハニカムの穴に石炭酸エポキシ樹脂を注入し、エックス線検査で気泡が見つかるとやり直していた。この月司令船が、地球の大気圏に突入する際は、大気との摩擦で8.6万キロワット時のエネルギーが発生し (宇宙船の下部は5000℃になる)、これは当時のロサンゼルス市内の灯りを1分半点灯出来るエネルギー量だという。

 

< アポロ宇宙船のコンピュータ >

製造>マサチューセッツ工科大学 ( MIT ) Charles Stark Draper研究室

設計&とりまとめ>Charles Stark Draper( チャールズ・スターク・ドレイパー )

ハードウェア>ドレイパー教授は、慣性航法装置( 慣性誘導技術 )を考案し、バスケットボール大のジャイロ装置を試作して、1953年に当時の空軍の爆撃機に設置して、自動操縦( パイロットは見守っただけ)で全米横断飛行を敢行して、慣性航法装置の優秀さを実証した。 当時、ソ連も月に人間を送り込む計画を立てていたが、ケネディ大統領は、この慣性誘導システムが、ソ連よりも圧倒的に優れていることの報告を受けており、月面到達では確実にアメリカが勝利できるとの確信をもったことで、アポロ計画を宣言( 1961年 )したと言われている。月までの航法用ジャイロは、さらに精密なものが必要だったので、( 時計で有名な )ウォルサム社でジャイロを作製した際には、日焼けした者( 皮膚が剥げ落ちる )、化粧した女性は作業に当たらせないほどだった。アポロ宇宙船以前のコンピュータは、かさばり、重くて部屋一杯になるような代物だった。1960年代初めに、 兵器開発などの経験が豊富なマサチューセッツ工科大学( MIT )のチームは、ICを使用してコンピュータの小型化に成功していたので、コンピュータの開発はMITのCharles Stark Draper研究室と共同で開発した。当時のMITは、大学ではあったが、IBMなどに匹敵する技術力を有していたので政府はコンピュータの開発で契約した。MITでは、最初、トランジスタ・スイッチを多数使用して、米国製大型冷蔵庫4台分の大きさをもつMOD3というコンピュータを試作した。その後、1962年にMITはフェアチャイルド半導体製の新しい半導体を多数採用して、新しい小型のMOD3を1963年に開発し、これにThe Apollo Guidance Computer ( AGC )と命名し、このコンピュータは、30cmx30cmx30cmの体積に収まるサイズ(重さ30kg)であった。アポロコンピュータを正確、確実に製作できるように、NASAは、1962年から1967年の間に、100万個以上のシリコンチップを購入し ( 最盛期には当時の米国の生産量の60%に相当 )、ほとんどのチップは結果的にアポロコンピュータの製作には使用されなかったが、この大口購入が、後の半導体業界飛躍の原動力になった。コンピュータはアポロ7号での地球周回任務で、良好に動作したので、アポロ8号( 人類史上はじめて人間が月を回って帰ってきた。)で実際に月での航行を担当した。 アポロ用コンピュータ以前のコンピュータは相当な電力を消費していたが、ICの採用によって55W( 60ワット電球よりも省エネ )で動作するようになっていた。

 アポロ宇宙船の実際のフライトでは、ほぼ同じ仕様のコンピュータが2台、月着陸船と月司令船に搭載され、地球から月面着陸までは月着陸船のコンピュータ、月面上空から地球への帰還には月司令船のコンピュータが使用された。

 航法装置には、この新しい装置( 慣性誘導装置 )が完全に機能するか分からなかったので、慣性誘導装置が機能していることのチェック用に昔の船乗りが使用する六分儀( ろくぶんぎ )機能が付け加えられ、宇宙飛行士が星に向かって慣性航法装置を調整できるように訓練用として研究所の屋上にシミュレータを作製した。 六分儀を使用した宇宙航法では、ほぼ等間隔で離れている36個の星の位置を測定して、宇宙空間での自分の位置を確認していたが、初期にはそのうちの3つの星だけ名前がなかった。それでアポロ1号の悲劇の後に、それらの星に、犠牲になったアポロ1号の飛行士の名前( エド・ホワイト二世、ガス・グリソム、ロジャー・チャフィー )をもとにして、エド・ホワイト二世( second )のsecondを逆にしてdnoces、ガス・グリソムのミドルネーム IVANのスペルを逆にしてNAVI、ロジャー・チャフィーのRogerを逆さまにしてRegorと名づけられた。1960年代半ばのコンピュータはメモリ容量32キロバイトで現在のパソコンのメモリ容量にははるかに及ばないが、この中に月飛行に関する命令がコード化されておさめられており、月司令船の位置と航路を計算し、星の角度をもとに司令船のジャイロスコープ航行プラットフォームの位置を調整したり、ロケットエンジンを正確に噴射するのも、アンテナを地球に向けるのもコンピュータの仕事だった。

ハル・ラニング氏( Hal Laning, MIT )>当時のコンピュータはICの処理速度が遅く、マルチタスク作業に限界があるために人命が関わるコンピュータが停止する問題を解決。

ディック・バッティン氏( Dick Battin リチャード・バティン MIT )>コンピュータを宇宙船用に小型化する技術担当( シリコンチップの製造 )、ソフトウェアの責任者

コンピュータ・メモリー>

製造>レイセオン社( Raytheon )

 MITがコンピューターの仕事を始めた時、ROM( 読み出し専用固定メモリー )は4キロバイト、RAM( 書き換え可能なランダムメモリー )は0.5キロバイトで足りると考えていたが、結果的にはソフトウェアの増大によって、ROMは36キロバイト、RAMは2キロバイトになった。ちなみに、最近のメモリーはギガバイトが普通で、1ギガバイトは1キロバイトの100万倍の記憶容量があるといえる。アポロの飛行データ及びソフトウエアを収めるのには、コア・ロープ・メモリーが使用された。ソフトウェアはハードディスクにではなく、銅線とフェライトの磁気コア ( 銅線がコアを通れば1、通らなければ0を意味する )によって作製されたコアロープメモリーに収容された。コアロープメモリーはレイセオン社( Raytheon )の工場に、時計メーカーや元洋服メーカーの熟練のおばちゃん達が集められ、2人一組になって、約6週間( 42日 )かかって編んでいた。よって、プログラミングはフライトの6か月前に 完成させて、完成品をフライト前に数か月にわたってテストしていた。 現在から見ると非常にローテクなメモリーであるが、その分、信頼性に優れており、このメモリーは現在も使用可能であると考えられている。このメモリー製造時には、愛情をかけて繊細なメモリー作製に取り組んでもらえるように、当時の花形職業であった現役の宇宙飛行士を工場に派遣して、メモリー製造に愛着を持ってもらえるようにした。

ソフトウェア>

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月航行用ソフトウェア>月までの宇宙航行用コンピュータの開発は1960年代初めにマサチューセッツ工科大学( M.I.T )に発注され、マーガレット・ハミルトン( Margaret Hamilton )という当時20代の若い女性エンジニア(写真の時は、おそらく28才ぐらい)がソフトウェアを主に担当し、ソフトウェアは印刷すると、彼女の背丈と同じぐらいの量になった。 アポロ計画時には、「ソフトウェア」という言葉自体、存在せず、マーガレットも当時は珍しい”働くママ”であった。NASAはアポロ計画の進展につれてソフトウェアの重要性に気づき、1968年になると400人以上がアポロ計画のソフトウェア開発に関わるようになっていた。当時の宇宙飛行士達は、テストパイロット出身が多かったので、コンピュータによる宇宙船の自動制御に拒否反応を示していた(パイロットはお客ではなく、操縦するものだという概念)が、アポロ8号の飛行中に起きたハプニング( ジム・ラベルが疲労で、飛行中に誤って飛行データのリセット操作を行なって宇宙空間で自分達の位置が分からなくなったが、ハミルトンの指示でデータを送信して難を逃れた)をきっかけにして、宇宙航行時のコンピュータ利用に理解を示すようになった。 月までの軌道計算は、MITの研究室のIBM360とハネウェル社のメインフレームを使用して地球ー月系の軌道学、宇宙船の挙動、実際の宇宙飛行士の挙動までも計算にいれて計算を行ない、シミュレーションを行った。アポロコンピュータでは、安全のために複数のプログラム言語のプログラムを同時に作動させていた。 ソフトウェアの開発は難航し、アポロ計画の遅延が予想されたので、NASAの決定によって宇宙船単独で月まで自動航法する方法はあきらめ、随時、地球からソフトウェアを送信し、地球から電波が届かない月の裏側時のみに、宇宙船のコンピュータが動作する仕組みに変更された。

月着陸船用ソフトウェア>アポロ11号の月着陸船用のプログラム 当時22歳のドン・アイルズ氏( ドナルド・アイルズ、Don Eyles )

 

4.2<月着陸船(ルナ・モジュール、LM)>

製造>グラマン社( 現 ノースロップ・グラマン社 ) 、部品数 約100万個

設計&とりまとめ>Tom Kelly ( Thomas Joseph Kelly )

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 アポロ計画の当初では、コンパクトな月着陸船ではなく、巨大なロケット( 高さ20m、重量200トン )で着陸して、そのまま地球に帰還する案を計画していたが、月面への着陸方法や、ロケットの高い場所からどうやって飛行士が月面に出るかが問題となり、月着陸船が計画された。

 ルナ・モジュール ( 設計初期はルナ・エクスカーション・モジュール、LEM、月遊覧船だったが、遊覧はしないということでルナ・モジュールと変更された )は、米グラマン社( 現 ノースロップ・グラマン社 )製で 、大別して上下ニ層構造になっており、月着陸後は、宇宙飛行士達の基地となり、燃料込みで総重量15トン以上ある。 このルナ・モジュールは実験用10機、シミュレータ用2機、飛行用15機の合計27機が作製され、当時のお金で5億ドルで契約されたが、設計変更の連続で、結果的には16億ドル(今の日本円でいうと総額12兆円、1機4260億円ぐらい) 及び完成までには7年かかった。すべての部品は手作りで、数年にわたって毎日作業した。ルナモジュール第1号機に関しては重量オーバーに加えて配線トラブル、金属の腐食、上昇ロケットの問題などに悩まされ、出荷された時には品質管理検査管によって100個所の欠陥が発見されるなど開発は難航した。ルナ・モジュールの製造過程では重量オーバーが問題になり、NASAでは打ち上げ重量を1ポンド( 454g )減らすたびに5万ドル(当時の金額)の報奨金を出した。

月着陸船の外観、構造>月面は、ほとんど真空で空気抵抗もないので翼も不要、流線型である必要もなく、月面着陸にあたっては空気がないのでパラシュートも使用できないので、ロケットエンジンで噴射しながら着陸する必要がある。地球に帰還時はルナ・モジュールの下部が発射台として機能し、上部が分離して月軌道に戻ることになり、飛行士が月司令船に移動した後は、上部ルナ・モジュールは月軌道上に廃棄される。月面を離陸するは、ロケットエンジンが1機しかないために、エンジンが故障すると地球に帰還できなくなる。よって、月離陸用エンジンは、開発にあたって累計1000回近く動作試験を行ったという。ルナ・モジュールの脚の強度は、地球でのサターン ・ロケットの打ち上げ重量を極限まで減らすために月の重力に合わせてあり、地球では自立して立つことが出来ないぐらい華奢に作製されて おり、上部ステージで一番薄い所の金属の厚みは0.13mm、船内の床にいたっては、作業員がドライバーを落としただけで床を突き破ったぐらいに華奢であったという。 飛行士達が乗る上部ステージは実質的に「アルミ製の風船、ティッシュペーパーで出来た宇宙船」と表現してもいいぐらいであり、船内を予圧すると、 ハッチ部分が膨らんで飛行士達を不安にさせたという。

 船外活動服を来た宇宙飛行士は、地球上では重量が160kgぐらいあるが、月面では体重が約27kgになるので、飛行士が下りる階段の強度も月面に合わせてあり、地球上でフル装備の飛行士が階段に上ると変形するぐらい華奢に作られている。 また、初期には重量軽減のためにハシゴ(階段)は設置せず、宇宙飛行士がロープで上り下りする予定だったが、実験では上り下り出来ないことが判明したので、ハシゴ(階段)が設置された。月面活動の中継用テレビカメラ、月面観測装置、月面車は写真の 「United States」と書いてある部分に折りたたんで収納して持って行った。

 アポロ11号以降では、月面車を運んだり、科学機器を運んだりしたので、毎回改良が加えられており、実質的に同じ構造の機体はなかった。Tom Kelly ( Thomas Joseph Kelly )が設計をとりまとめたので、彼は”ルナ・モジュールの父”と呼ばれている。

  

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 上の写真は月着陸船のコックピットで、月面は重力が地球の6分の1なのでイスは不要とされ、月面における船内では宇宙飛行士をフックで吊っていた。 このスペースに、かさばる船外活動服を来た2人の宇宙飛行士が滞在していた。ちなみに、計器盤のスイッチ一つ ( ロケットの振動で壊れない、確実に動作し、ショートしない、火花を出さないこと )でも1960年代で5000ドルの開発コストがかかっており、これは現代の日本の感覚でいうと1800万円以上になる。徹底的に軽量化するために、配線を覆うカバーは設置されず、配線むき出しのままに製造された。 写真中央の赤い丸ボタンが着陸を中止する際の非常ボタン。 ちなみに、三角形の窓は、人間の顔より少し大きいぐらいの面積しかない。組み立てにあたっては、当時としては珍しいクリーンルーム内で組み立てられ、組み立て中には機体を360度回転させてゆらし、組み立て中のゴミ(宇宙空間でゴミが浮遊すると飛行士が吸ったり、トラブルの原因になる)などが残っていないかチェックした。また、当時は月面は10mぐらい細かい砂で覆われているという説があったので、着陸時に転倒しないように、コンピュータを使用して模型を、およそ400通り着陸させてシミュレーションしたという。 ルナ・モジュールには船長とルナ・モジュール・パイロットが搭乗しており、名前からするとルナ・モジュール・パイロットが操縦するはずであるが、実際には船長が操縦して月面着陸するようになっており、ルナ・モジュール・パイロットはデータの監視など補助的な役割であり、訓練はしているが非常時だけに操縦出来るルールだった。しかし、アポロ12号の帰還場面では、コンラッド船長がビーン飛行士に配慮して、地球と更新できない月の裏側で、こっそりとルナ・モジュールを操船させた。アポロ宇宙船の模型の表紙では、月司令船と月着陸船がドッキングした状態の時に月着陸船の脚が開いている状態があるが、あれは正確ではなく、脚を開くのは月面に到達してからである。

出入口構造>写真下部のハンドルのついた四角い部分が外部への出入り口で、幅は人間の肩幅より大きいぐらい。ドアは内開きで左側が大きく開く構造であり、人類初の月面着陸では、狭い空間では船長がパイロットよりも先に出ていかざるを得ないことが判明して、左側が船長席であるアームストロング船長が先に月面に立つことになった。ルナ・モジュールの出入り口の寸法に余裕がないことから、かさばる船外宇宙服を着た宇宙飛行士達は後ろ向きで外に出るのに苦労した。設計当初は大きな窓、丸い出入り口が想定されていたが、重量軽減のために大きな窓は小さな窓に変更され、丸い出入り口は、船外活動服の生命維持装置がひっかかるので、四角く (出入り口は81cm角)変更された。

月面で寝る時>月面で寝る時はアポロ11号では、宇宙服を着たまま (これは就寝中に空気漏れで窒息することを恐れたため)壁にもたれかかって寝た。アポロ11号では着陸船の電源をすべて切ると、船内の熱源がすべてなくなり、宇宙服内には酸素が絶えず流れているので飛行士達は寒さに震えて眠れなかったという。アポロ12号では十分な睡眠をとるために、宇宙服を着たままハンモックで寝たが、宇宙服はごつごつしているので体にあたって眠りにくかったという。アポロ15号以降では、月面滞在時間が大幅に増えたので十分な睡眠をとるために宇宙服を脱いで寝 られるようになった。月面では、体重が6分の1になるので、ハンモックでも快適に寝られたという。また、月面で十分に確実に睡眠が取れるように、月着陸船内の機械音を録音したテープを使用してシミュレータ内で寝る訓練を事前に何回も行っていた。

4-6-3 ●アポロ11号で月面でアームストロング船長が寝た時の状況(実際には体より一回り大きい船外宇宙服を着たまま寝ていた。)アポロ宇宙飛行士は、事故、故障で月着陸船が離陸できない場合、月まで救出に行けないので、同僚飛行士と、この中で一生を終える覚悟が出来ていた。

下降用エンジン>世界初のスロットルのついた推力調整可能なロケットエンジン 。地球では、事前に小型ジェットエンジン+ロケットエンジンに座席を取り付けた機体(LLRV, LLTV, ジェットエンジンを上向きに設置して重量の9割を負担させ、残りは化学反応式ロケットで操作する)を準備して、月面降下訓練を行った。

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写真>月面降下訓練用の特殊機体LLRV( Lunar Landing Research Vehicle,後に改良されてLLTV ( Lunar Landing Test Vehicle )と呼ばれるようになった。)

重力が6分の1の月面では、横移動するのに通常の6倍機体を傾けないといけないので操縦が難しく、燃料の関係で一回に4分程度しか訓練できなかった。

上昇用エンジン>シンプルで絶対の信頼性をもつエンジン。燃料の腐食性が高く、1回しかエンジンが持たないために、月面でのエンジン作動は毎回一発勝負だったので完璧が求められた。故障したら、飛行士が月面から帰還できなくなる。

金色の断熱フィルム>月面は日なたでは120度、日陰は-150度にもなり、そのままでは月着陸船が熱でゆがむ可能性もある上、燃料は37度で沸騰、−約1℃で凍結するので、デュポン社によって開発されたアルミメッキのポリエステルフィルムの25層重ねの断熱材で覆った。

ジョン・フーボルト氏>月着陸船を使用し、帰りに月軌道上で月司令船とランデブーするとのアイデアを出したのはチャンスボート社のトム・ドーランであり、NASAに提案したが、断られた。しかし、彼の報告書が、当時NASAでも無名だったジョン・フーボルトに渡り、フーボルトは、この方法が唯一の方法であると確信した。当初、フォン ・ブラウンは大型ロケットで月に行って帰ってくることを主張していたが、フーボルトは解雇覚悟でNASA幹部に直訴状を出して、月面ランデブー方式が月面着陸の唯一の方法だと主張した。その後、フォン・ブラウンも考えを改めて、月面ランデブー方式となり、フォン・ブラウンはアポロ11号の月面着陸直後にフーボルトにお礼を言ったという。ただし、当時のNASAでは地球軌道上でランデブー成功した程度の技術であり、遠く離れた月面軌道上でランデブーするというのは、未経験の技術であった。

 

4.3<ルナ・ローバー>

 

 ルナ・ローバー(月面車)は、正式にはLRV ( Lunar Roving Vehicle )という名称で、最終的には当時3800万ドル(現在の貨幣価値にすると約1500億円ぐらい。3800万ドルx100円x3.6(昔は1ドル360円)x5(物価スライド)x2(実態物価=1500億円)かかって訓練車1台、実験車6台、本番用4台(単純に1500億円/4台で計算すると400億円/台)が作製された。アポロ11、12、14号では、動きにくい船外活動服のせいで、月着陸船の周囲しか月面探索が出来なかったが、ローバーを使用することによって、広範囲で探索をすることが可能になった。アポロ15号, 16号, 17号にて3台は月面に運ばれて使用され、現在も月面に放置されている。残りの1台は、アポロ18号用に作製されたが、アポロ18号が費用の関係でキャンセルされたので、場所は不明だが米国 内で保存されていると思われる。

 基本設計はポルシェ、製造はボーイング社が請け負い、わずか2年足らずで設計から製造、試験走行までこなして出来上がった。4輪独立駆動( 4WD )、4輪操舵( 4WS )で、各タイヤホイール内に電気モーター( デルコ・エレクトロニクス製 )を内蔵し、銀ー水酸化亜鉛カリウム一次電池2台で駆動し、北、南など方位磁石の効かない月面上(月では磁極がほとんどない)で移動するために、独自の誘導コンピュータを装備し、通信システム、月面図、地質調査用の道具と月の石を積むための荷台が装備されていた。地球上では車重は210kg、月面では35kg。最高速度は時速16km。月面は100℃を超える可能性があるので、タイヤ( GM、ゼネラルモーターズ製 )はゴム製ではなく、亜鉛メッキした鉄製ワイヤの織物で摩擦力を高めるためにチタン製の板が貼られている。フレームは2219本のアルミ合金のチューブで作製され、3つのシャーシが中央で蝶番で接続されているので折りたたむことが出来た。傘(通信用のアンテナ)が開いている方向が前部分で、船長が運転手となって左のシートに座った。車の前部には、地球から操作できるカメラが装備されており、宇宙飛行士に指示しなくても、地球側要員からの興味で独立してカメラを動かすことが出来た。性能的には92km走行可能なように設計されたが、万が一、ローバーが故障した場合に、飛行士が歩いて安全に帰還出来る距離に制限され、実際には月着陸船から4.5-7.6kmの範囲で使用され、一回のミッションで3-4.5時間使用された。結果的には、一台400億円の月面車を4時間使用しただけなので、現代の感覚でいうと「ローバーの使用代金は1時間100億円だった」ということも出来る。プールの水中(重力は9分の1)で故意に倒れようとしても、ゆっくりとしか倒れないように、重力が6分の1しかない月面では、走行のハズミでタイヤが空中に浮くと、着地までに数秒かかり、実際はいつもタイヤの一部を空中に上げたまま走行することになった。

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傘のようなアンテナのついた方が前で、傘の下にあるのが地球から遠隔操作可能なテレビカメラ。

 アポロ計画の当初では、人間用にサターンロケット1台、機械運搬用にサターンロケット1台の使用が予定されており、当初は大型のローバーも検討されていたが、膨大なアポロ計画の予算を削減するという方針の元、高価なサターンロケットを2台使用することは中止し、写真のような組み立て型のローバーが考案された。

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5 人類月面着陸、アポロ計画

 

<ミニ目次>---------

1 アポロ計画での印象的写真集 / 2 アポロ11号の記録写真集 / 2.1 アームストロング船長とオルドリン飛行士の関係

2.2 これは一人の人間にとっては〜 / 3 アポロ計画時の宇宙服 / 3.1 宇宙服(船外活動服)の着方

4 アポロ宇宙船(司令船(コマンド・モジュール)、月着陸船(ルナ・モジュール))、ルナ・ローバーの詳細

4.1 アポロ宇宙船(司令船、機械船、コマンド・モジュール) / 4.2 月着陸船(ルナ・モジュール)/ 4.3 ルナ・ローバー(月面車)

5 人類月面着陸、アポロ計画  / 5.1 アポロ計画 の時間軸の流れ / 6 アポロミッションのトピック

7 月に行った人達、月面を歩いた人達 / 8 サターンロケット / 9 アポロ計画におけるIBMの役割 /10 月面着陸捏造説を一蹴する証拠画像

/ 11 その他

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 アポロ計画では、”米国の国家優先事項”として、企業2万社、ピーク時には40万人の労働者、総合すると延べ300万人が10年、当時のお金にして300億ドル( 今にすると日本では200兆円ぐらい 、200兆円は数字で表示すると200,000,000,000,000円 )で取り組んで巨大ロケット( サターンV、サターンロケット )を 20機ぐらい作製し、片道3日かけて月を目指した。 ロケットも含めて何もかもが一から特注で作製され、例えば、月着陸船のメカニカル・スイッチ一つで、1960年時点で5000ドル( 現代の相場感にして300万円以上 )のコストがかかっていた。 この時期は、まだコンピュータ、電卓も貧弱で、設計の大部分は、”計算尺”を使用して設計されたという。

  アメリカは、 旧ソ連のガガーリンの宇宙初飛行の1ヶ月後に、旧ソ連に対する技術的優位を示すために、”国家優先事項”として「人類の月面上陸及び安全な帰還」を宣言し、この時点でアメリカは 「人間が5分間、宇宙空間に出ただけ」の経験しかなかった。

 ”人間がはじめて月まで行ったアポロ8号、月に上陸したアポロ11号”まで、月に向けて無人宇宙船を合計33機打ち上げて 、月まで確実に行く方法、月の表面の性状、気候調べ、数万枚の写真をとって月の地図を作成、軟着陸の技術開発、月の砂に着陸船が埋まらないか、等々の経験を積んで事前準備をした。

 衛星が地球を回るのに比べると、他の惑星に確実に行くというのは、太陽も、地球も、目的の星も常に動いている( 自転、公転、秤動運動(コマの首振り運動)、重力の不均一分布、大気の影響もある )ので、実際は「遊園地のメリーゴーランド上でキャッチボールするような状態」となり、厳密な軌道計算、タイミングが必要となるらしい。

マーキュリー計画で地球を回る技術、ジェミニ( 双子座 )計画で2人宇宙飛行する技術、宇宙空間でドッキングする技術を固め、月面に向けてアポロ計画を実行した。

 アポロ計画の”アポロ”は、NASAのエイブ・シルバーシュタインがサターンロケットに載せる宇宙船の名前を考えていた時に、たまたま手にした神話の本で太陽の車にのって大空をかけるアポロンの姿を見て、アポロと命名することを提案をして採用された。( 出典 ニュートン別冊 月のミステリー、教育社 )

 スペース ・シャトルは離陸後8.5分で高度150km程度の周回軌道に到達する (国際宇宙ステーションは高度約400km )のに対して、アポロ計画では月まで38万km( 宇宙ステーションまでの距離の950倍、光のスピードで片道1.28秒 )の距離を片道3日かけて行った。新幹線で行くと片道で約80日、ジェット旅客機で行くと約20日、コンコルドでマッハ2の速度で行くと約2週間かかる距離。ちなみに火星に行くまで( 片道8000万km )は現在の技術では 火星の位置によるが片道で最短で4ヶ月、一番長いと2-3年かかるそう。宇宙空間では、太陽光が当たる部分は200℃、当たらない部分は-200℃ぐらいになるので、 バーベキューのように少しづつ宇宙船が回転するようにして、宇宙船の温度が均一になるようにした。

 地球をリンゴの大きさ( 約10cm )と仮定すると、大気の厚みはリンゴの皮以下( 0.08ミリメートル )で、この大気層が、宇宙からの紫外線をカットするとともに、地球内部からの熱、太陽光由来の熱の宇宙空間への放出を抑えているらしい。ちなみに宇宙ステーションはリンゴ表面の3ミリメートル上空を周回しているだけで、月はリンゴの約3m先を周回していることになり、このことからも「アポロ計画で月に人間が行った(どれだけ遠くまで行ったか)」という事実が 、いかに偉業かということが分かる。

 実際問題として、光のスピードでいうと、月までは片道1.28秒、太陽までは8分、火星は最も地球に近くにあると片道4分、地球と最も反対位置(太陽の向こうにいるから)にいると片道20分かかり、人類が作り出した人工物として最も遠くにいる惑星探査機ボイジャーは現在 、太陽系を脱出しつつあり、光のスピードで17時間かかる場所( 太陽系の端まで35年かけて行った。)にいる。


5.1 アポロ計画の おおまかな時間軸と流れ

 

アポロ計画黎明期----------

1912年 ドイツ ベルナー・フォン・ブラウン誕生

1930年8月 アメリカ ニール・アームストロング誕生

1934年 ソ連 ユーリ・ガガーリン誕生

1955年2月 アメリカ ニール・アームストロングがNACA(エヌエーシーエーでナカとは呼ばない。後のNASA)で勤務開始。

1957年10月 ソ連 スプートニク1号打ち上げ(スプートニク・ショック)、人類史上初の人工衛星、人工物が地球から出た。

1958年 米国航空宇宙局(NASA)設立 (スプートニク1号打ち上げから1年後、アイゼンハワー大統領時代)  マーキュリー計画(1953-1963  現代の価値にして約2兆円)

1959年9月 ソ連 ルーニック2(無人ロケット、ルナ2号)が人類史上はじめて月に到着する。実際に月に人工物を行かせることが出来た。

1960年 NASAマーシャル宇宙飛行センターが開所し、初代所長にフォン・ブラウンが就任

1961年1月30日 アメリカ チンパンジーHAM君を打ち上げて 、宇宙空間で運動&生還させることによって、人間が宇宙空間で生存&活動出来ることを証明した。

1961年4月12日 ソ連 ユーリ・ガガーリン(27才)が世界初の有人宇宙飛行(飛行時間は108分で地球1週した)に成功 。人類初めて宇空間に出た。この時、アームストロング31才。(ちなみに、人間が月に上陸したのは1969年で、ガガーリンから、わずか8年後。)

1961年5月5日 マーキュリー計画でアラン・シェパードがアメリカ人として初めて弾道飛行。人類として2番目に地球から出た。 本当はガガーリンよりも先の3月に初飛行が予定されていたが、ブースターのトラブルで5月に延期になっていた。マーキュリー計画の目的は、人間が宇宙空間で生き延びられることを証明することだった。 ちなみに、アポロ計画で使用したサターン5ロケットの推力(340万キログラム)は、アラン・シェパードが乗ったレッドストーン・ロケット(3.5万キログラム)の100倍以上の推力がある。

1961年5月25日 ケネディ大統領が有名な演説「今後10年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」を行ない、アポロ計画(1961-1972年)が

           国家最優先事項になる。 この時点でアメリカは人間が5分間宇宙空間に出ただけだった。 フォンブラウン50才。

1962年2月 マーキュリー計画でジョン・グレンがアメリカ人として初めて軌道飛行(地球3週)する。 人類5番目で宇宙に出る。

1963年 月にアポロ宇宙船を打ち上げたサターン5ロケットの製作開始 (スプートニクショックから5年後)

1963年6月 ソ連 ワレンチナ・テレシコワが26才で、人類史上初の女性として地球を出る。

1963年11月 ケネディ大統領 逝去、ジョンソン副大統領が昇格して大統領になる。 もともと宇宙政策はジョンソン副大統領が担当していた。

1966年 ソ連 ロケット開発者 セルゲイ・コロリョフ死去

1966年2月 アポロ1号>無人。アポロ指令船と機械船が弾道飛行 アポロ指令船が大気圏突入に耐えるかのテスト

1966年7月 アポロ3号>無人。サターンVの三段ロケットのテスト 2回目だがアポロ3号という名称になっている。

1966年8月 アポロ2号>無人。アポロ宇宙船の制御システムと生命維持システム、熱遮蔽の再チェック

1967年1月 アポロ4 (当初はアポロ204号で、事故後にアポロ1号に改名)> 発射場でのテスト中に、アポロ指令船内の機器のショートによって発火し、宇宙飛行士3人

                  (ガス・グリソム、 エド・ホワイト、ロジャー・チャフィー)が逝去。 この事故を記念してアポロ1号クルーと名づけられる。アメリカ宇宙開発史ではじめての犠牲者。

1967年 無人のルナ・オービターから送られた4322枚の月面写真を詳細に調べ、約3ヶ月かけて16の着陸候補地点を選び出す。

1968年1月 アポロ5号>サターン4ロケットを用いて月着陸船を打ち上げテスト。(無人)

1968年3月 ユーリ・ガガーリン 訓練中の飛行機事故で死亡(享年34才)。

1968年4月 アポロ6号>サターンV ロケットを用いて打ち上げテスト。(無人) 無人のアポロ宇宙船と実物大月着陸船を載せてサターンV

                 (サターン5)ロケットの初飛行。強烈な騒音と振動で、打ち上げ場所から6km離れた場所において天井タイルが剥がれ、ガラスが

                   割れそうな勢いだったそうで、その後、周辺への影響対策が取られた。

1968年10月 アポロ7号>ロケット、宇宙船の信頼性確立のために地球を11日間回った。

      12月 アポロ8号>フランク・ボーマン、ジム・ラベルウイリアム・アンダースが、人類で初めて月に到達し、無事に戻ってきた。

                    無人での練習飛行なしで、宇宙を漂う可能性も高かった。

1969年1月 ニクソン大統領誕生

1969年3月 アポロ9号>地球軌道で月着陸船の性能を確認。

1969年5月 アポロ10号>月着陸の直前まで行って、すべてをテスト

1969年7月 アポロ11号 >月面着陸に成功(ニール・アームストロング 1930年生まれ、39才)

1970年4月 アポロ13号>事故によって、月を周回した後、命からがら地球に帰還 。アポロ13号から、ミッションの目的が月の地質探査になった。

1970年夏 アポロ18号のキャンセル決定。 ちなみに、現在、ヒューストン、フロリダに展示されているサターンロケットはアポロ18、アポロ19号で使用するためのものであった。

1971年1月 アポロ14号>手押し式カートを初めて持ち込み、月面で様々な科学分析装置や実験装置を展開、作動させた。

1971年7月 アポロ15号>月面に3日以上滞在し、電動車を持ち込んで、広い範囲で調査を行った。

1971年8月 ニール・アームストロングがNASAを退職、大学教授になる。 (41才、NASAにいたのは累計16年間)

1972年4月 アポロ16号>ジョン・ヤングとチャールズ・デューク、月面に電動車を持ち込んで3日間、 27kmドライブして探索(主に月の高地)を行った。ケン・マッティングリーが人類として初めて深宇宙(地球と月の間の何もない空間)で、宇宙遊泳を行う。

1972年5月   フォン・ブラウンがNASAを退職 (60才)

1972年12月 アポロ17号>最後の月面着陸ではじめて地質学者(ハリソン・シュミット)を連れて行った。 月に行きたいベテラン宇宙飛行士は

            多くいたが、選ばれた地質学者は訓練中は複雑な心境だったそう。月面を車で探査し、オレンジ色の土を発見した。 月に行くための最適な打ち上げ時期、いわゆる打ち上げ窓「ローンチ・ウインドウ」の関係で、はじめて夜間打ち上げになった。

アポロ計画終了-------------、スカイラブ計画、アポローソユーズ計画、スペースシャトル計画に続く。

1977年6月   フォン・ブラウン逝去(65才)

2012年8月   ニール・アームストロング逝去(82才)


6 アポロミッションのトピック

 

<ミニ目次>-----------

1 アポロ計画での印象的写真集 / 2 アポロ11号の記録写真集 / 2.1 アームストロング船長とオルドリン飛行士の関係

2.2 これは一人の人間にとっては〜 / 3 アポロ計画時の宇宙服 / 3.1 宇宙服(船外活動服)の着方

4 アポロ宇宙船(司令船(コマンド・モジュール)、月着陸船(ルナ・モジュール))、ルナ・ローバーの詳細

4.1 アポロ宇宙船(司令船、機械船、コマンド・モジュール) / 4.2 月着陸船(ルナ・モジュール)/ 4.3 ルナ・ローバー(月面車)

5 人類月面着陸、アポロ計画  / 5.1 アポロ計画 の時間軸の流れ / 6 アポロミッションのトピック

7 月に行った人達、月面を歩いた人達 / 8 サターンロケット / 9 アポロ計画におけるIBMの役割 /10 月面着陸捏造説を一蹴する証拠画像

/ 11 その他

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<主要なアポロ計画と、任務、トピック>

アポロ1号>1967年1月  ガス・グリソム船長、エドワード・ホワイト飛行士、ロジャー・チャフィー飛行士。 発射台で、打ち上げ本番さながらの訓練中にアポロ宇宙船内で火事が発生して ( 火花の原因は、宇宙船内の尿収集システムに使用されていた電線と推定されている )、グリソム、ホワイト、チャフィー飛行士が脱出出来ずに死亡 (事故発生から30秒後には意識を失って4分後には窒息死したと考えられている。)。 当時は宇宙船内が100%酸素で加圧されていて、可燃性のマジックテープが大量に使用されていたので、発火から15秒程度で加速度的に炎上&爆発した。また、初期の宇宙船の内部ハッチはジェミニ計画の反省から内開きになっており、船内の加圧によって、人力では開けないようになっていた。この反省から宇宙船内部から 迅速に脱出出来るように簡単にハッチが3秒で外側に開くように改造された。 しかし、真空の宇宙空間において加圧された宇宙船のハッチが外側に開くのは困ると考えていた宇宙飛行士もいた。( 注>初期はアポロ1号という名称ではなかったが、事故後、正式にアポロ1号と命名された。) ちなみにエド・ホワイトは米国人として初めて宇宙遊泳した人物である。 事故後、NASA内、宇宙船製造企業間で意思の疎通がうまく行っていないことが判明し、NASAはボーイング社の提案を受け入れて、アポロ技術統合評価プログラム( アポロTIE  )を立ち上げて、宇宙船の改良に役立てた。 月司令船&機械船、月着陸船、サターンロケットでは、部品総数が600万個以上になり、基本的にどの部品に欠陥、不具合があると困るので、NASA及び企業は、有人飛行啓蒙プログラム( MFA, Manned Flight Awareness )を立ち上げて、宇宙飛行士の顔が入ったポスターを企業に配り、工場の作業者、技術者達に「手抜きすると宇宙飛行士の命が危ない」との緊張感を持たせた。

アポロ2号、3号>アポロ1号の事故を受けて事故対策のためにキャンセル

アポロ4号>1967年11月  無人のアポロ宇宙船と実物大月着陸船を載せてサターンV( サターン5、サターンロケット )ロケットの初飛行。強烈な騒音と振動で、打ち上げ場所から6km離れた場所において天井タイルが剥がれ、ガラスが割れそうな勢いだったそうで、その後、周辺への影響対策が取られた。 実際には月着陸船は完成していたが、ロケットに搭載する前のチェックで400以上の問題点が発見されたので、ロケットに搭載することはなかった。( 無人飛行 )

アポロ5号>1968年1月  サターン1Bロケット( サターンロケット )を用いて地球周回軌道で月着陸船の打ち上げテスト。( 無人飛行 )

アポロ6号>1968年4月  サターンV ( 5 ) ロケット、サターンロケットを用いて打ち上げテスト。( 無人飛行 ) 。F1エンジン同士の共鳴現象が発生して危うく爆発するところだった。続いてJ2エンジンも5基のうち2基が停止したが、何とか地球軌道に乗せることが出来た。

アポロ7号>1968年10月  ウォルター・シラー船長、ドン・エイゼル司令船パイロット、ウォルター・カニンガム月着陸船パイロット。 サターン1Bロケット(サターンロケット )を用いて、火災事故を起こした宇宙船( ブロック1 )を改良した宇宙船(ブロック2)の初飛行。アポロ計画において、はじめてアポロ宇宙船で3人が乗船して宇宙空間に行った。 ロケット、宇宙船の信頼性確立のために地球を11日間回った。 ミッション中、風邪をひいたシラー船長が管制側と険悪な状況になった。 F1エンジンの共鳴振動はエンジンにショックアブソーバーを設置することによって解決した。 アポロ7号、8号では、RCAというテレビ製造会社( 日本ではソニー、シャープに相当 )とNASAが当時の金額で約420万ドル( 今の日本の金額にして60-100億円ぐらい? )かけて重さ2.8kgのテレビカメラを開発して、地球軌道上( アポロ7号 )及び月上空( アポロ8号 )からテレビ生中継を行った。

アポロ8号>1968年12月  フランク・ボーマン船長、ジム・ラベル司令船パイロット、ウィリアム・アンダース月着陸船パイロット。 人類史上はじめて月の周回軌道まで行って、月から地球が出てくるシーン 、及び宇宙にうかぶ地球の姿( これが歴史上はじめて地球全体を写した写真といわれており、その後の人類の地球観を変えたと言われている。)を撮影し、無事に戻ってきた。しかし、無事に戻ってくる保障はなく、そのまま宇宙をさまよう危険性もあった。 後のアポロ13号事件では、月着陸船を非常用ボートとして活用できたが、アポロ8号では月着陸船を持って行ってなかった ( 月着陸船の完成が遅れて間に合わなかった。 )ので、事故が起きれば非常に危険な状況だった。 当時は、帰還できない可能性も高かったので、NASAは妻に夫の追悼コメントを作成するよう依頼していた。飛行時期がクリスマスだったので月に到着した際には 旧約聖書の「創世記の第1節から第10節」までを交代で朗読したが、後日、無神論者で社会活動家のマダリン・オヘアから「特定の宗教を持ち込んだ」として訴えられ 、この訴えは最高裁判所で却下されたが、その後、NASAは同様の騒ぎが起きないように配慮するようになった。打ち上げの前日には、大西洋単独横断で名を馳せたチャールズ・リンドバーグ夫妻の訪問を受けた。

アポロ9号>1969年3月 ジェームズ・マクディヴィット船長 、デビット・スコット司令船パイロット、ラッセル・スワイカート月着陸船パイロット。 月面着陸に備えて、地球軌道上で指令船と着陸船の切り離しとドッキングがうまく出来るかを10日間かかってテストした。 また、スワイカートとスコット飛行士が月面用の船外活動服と生命維持装置を着用して船外活動を行い、月面で使用可能であることを確認した。 月着陸船の愛称はスパイダー( クモ )、月司令船の愛称はガムドロップ( お菓子のガム )。

アポロ10号>1969年5月 トーマス・スタフォード船長、ジョン・ヤング司令船パイロット、ジーン・サーナン月着陸船パイロット。 月まで飛行して着陸船の降下テストを行い、月面高度15.6kmまで近づいた。またアポロ11号の着陸予定地点「静かの海」が本当に着陸に適しているかを調べた。 その際、月面上空約48kmで飛行中、スイッチを間違えて切った事で、突然、機体が激しく旋回しはじめ、機体を制御するまでの30秒間、機体が揺れた。宇宙空間からカラーテレビ ( ウエスティング・ハウス社製 )による生中継を行った。 月着陸船の愛称はスヌーピー、司令船の愛称はチャーリー・ブラウン。

アポロ11号>1969年7月  ニール・アームストロング船長、マイケル・コリンズ司令船パイロット、バズ・オルドリン月着陸船パイロット。 月に着陸した際に着陸船が砂中に沈んで、地球に帰還できなくなることも予想されていた。 月面での行動範囲は月着陸船の周囲60m程度。月から離脱する際に、発射スイッチの頭が外れており、オルドリン飛行士がマーカーペン”Duro 'Rocket' aluminum bodied marker pen”の先でスイッチを押して出発したという逸話が残っている。昭和44年7月20日、月着陸船イーグルは、日本時間の5時17分に月面に着陸し、この映像は世界40か国以上に同時中継され、5億人以上の人々が見ていたといわれる。 この歴史的なテレビ中継において月面で使用されたのはウエスティングハウス社の白黒テレビカメラ(月面で使用されたテレビカメラはすべてウエスティング・ハウス社製)で、これはNASAが当時の金額で229万ドル( 現在の日本円にすると100億円ぐらい )で契約して開発したものだった。

 アームストロング船長の言葉、「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」はあまりに有名で、NHK特別番組『アポロ11号月着陸』では、月面着陸までの様子を深夜0時から衛星生中継で計13時間にわたって伝え、着陸に成功した瞬間の視聴率は68.3%だった。 「これは一人の人間にとっては〜」の言葉は、その場で思いついたと長年言われてきたが、アームストロングの弟の証言によると、月面上陸の数ヶ月前に考えていた文章だった。月面から未知の病原菌を持ち込んでいる可能性があるということで、地球帰還後、 「手、足、頭がつながったスーツ」を着て、アポロ宇宙船から出て、空母上の移動式隔離施設( キャンピングカーのようなもの )に隔離され、隔離されたまま輸送機で米国に運ばれ、約3週間 、隔離施設で過ごした。

 ニール・アームストロングが月上陸の1番手に選ばれたのは、月着陸船の開発段階で参加し、着陸船の操縦に慣れていたことと、元軍人ではあるが、アポロ計画時はNASA職員の民間人であったこと、オルドリンに比べて冷静沈着な性格であったことが理由とされている。 また、バズ・オルドリンが選ばれたのは彼が宇宙工学の博士号を有しており、宇宙航行、ランデブーの専門家だったことが要因として考えられており、オルドリンは人類で最初に月面に立つことは出来なかったが 、月面活動中の記録写真のほとんど、及び有名な「月面の足跡」の写真はオルドリン飛行士の足跡である。 アポロ11号で、アームストロング、コリンズ、オルドリンが選ばれ、人類初の月面上陸をおこなう事が決定した際、オルドリンは、過去にジェミニ計画で5時間半も宇宙で船外活動をした経験があった&アームストロングは、一度も宇宙空間に出たことはなかった&通常、船長は船に最後までいるのが普通で、最初は部下が探索に出るのが普通という考えから、自分(オルドリン)が月上陸1番目になるものと予想した。しかし、狭い月着陸船の構造上、ハッチから出るには船長が先の方がスムーズであること&NASAとしては各人の性格上、総合的に判断するとアームストロングの方が適任であると判断した。当初、アームストロングは、オルドリンの代わりにバックアップクルーの一人であったジム・ラベルへの交代も打診されたが、ジム・ラベルはジェミニ12号で船長を務めており、アポロ11号で月着陸船パイロットを務めさせるのは忍びないという理由で断ったとされる。 月着陸船の愛称は、アメリカにちなんでイーグル、月司令船の愛称はコロンビア。コロンビアとは、小説家ジュール・ベルヌが書いた小説「月世界旅行(原題 From Earth to the Moon)」の中で出てくる架空の宇宙船の名前から命名した。これはアポロ10号での月着陸船&司令船の愛称がスヌーピー&チャーリー・ブラウンだったので、もっとミッションに関係のある含蓄のある名称をつけろということになった。

 宇宙開発でアメリカと競争していた旧ソ連も、アポロ11号の時期に、アメリカを出し抜くために、無人探査機「ルナ15号」を月に向けて打ち上げており、ルナ15号で月の土を地球に持って帰ることで、人類月面着陸のインパクトを薄めようと考えていた。しかし、実際にはルナ15号は月に衝突した事で、大きな話題にはならなかった。

参考情報>

アポロ11号の運行記録>「宇宙開発」 ニュートン別冊 教育社詳しく載っている。

「アポロ写真集 月着陸第1号」 朝日新聞社 AP通信 共編 昭和44年発行

半分ぐらい白黒写真であるが、当時の宇宙食、訓練風景写真などが収められており、アポロ計画に興味がある人には有益。

 

アポロ12号>1969年11月  ピート・コンラッド船長、リチャード・ゴードン司令船パイロット、アラン・ビーン月着陸船パイロット。 アポロ11号では不正確だった着陸精度の向上( 無人月面着陸機 サーベイヤー3号が見えるぐらいの場所に着陸 )、岩石の採取などを行った。月面での行動範囲は月着陸船の周囲150m程度。12号の予備乗員達のいたずらによって月面で使用するチェックリスト中に「プレイボーイ誌のヌード写真」が仕込まれており、人類史上はじめて月にヌード写真が持ち込まれた。アポロ12号で持ち帰った月の石は、1970年3月から開催された大阪万博で展示された。 サターンロケットの打ち上げ時に、雷に打たれて、その影響で、着水用パラシュートが開くかどうかが懸念され(開かなかったら命はない)たが、まずは月を目指すことになり、結果的には着水用パラシュートも問題はなかった。しかし、着水時にカメラをきちんと収納していなかったので時速30kmで着水する際に、カメラがアラン・ビーン飛行士のコメカミを直撃し、一瞬気絶したという。カメラが額を直撃していたら死亡していたという。

アポロ13号>1970年4月  ジム・ラベル船長、ジャック・スワイガート司令船パイロット、フレッド・ヘイズ月着陸船パイロット。 本来は、スワイガートの代わりにケン・マッティングリーが正式クルーだったが、打ち上げの1週間前にバックアップクルーだったチャーリー・デュークが風疹を患い、マッティングリーに風疹の発病の可能性が否定できなかったのでスワイガートが交代でアポロ13号クルーになった。マッティングリーが、交代の事実を最初に知ったのは 彼の車のカーラジオ経由だったという。地球出発前にラベル船長は通信担当者と秘密の暗号を決めており、飛行中にマッティングリーが発病したかどうか、暗号にて連絡(ヒューストンで花は咲いたか?「咲いた、咲いてない」でマッティングリーの発病を連絡していた。)をとっていた。 命を懸けている宇宙飛行士にとって通信担当者は信頼のおける同僚飛行士がつとめる(おそらくスペースシャトル時代以前の話)ことになっており、ミッション中は、飛行士達は通信担当(キャプコム)としか、会話出来ないルールになっていて、通信担当者を通じてやりとりしていた。月に向かう途中で事故のために月面着陸は中止されたが、月を回ってから奇跡的に帰還し、このエピソードは、後に「アポロ13」として映画化された。 月に行く途中でテレビ中継を3回行い、うち2回はアメリカのゴールデンタイムに合わせて行われたが、アポロ12号のテレビ中継失敗の影響で、テレビ局では生中継されず、この事実は当時の飛行士達には知らされていなかった。アポロ13号からは、船外活動中の宇宙飛行士を特定しやすくするために船長用の宇宙服には赤いラインがつけられた。 当時の通信記録によると、非常時の宇宙飛行士の眠気を覚ますために、覚せい剤(デキセドリン)が薬のキットに含まれていたことが判明している。当時は、アポロ11号でもそうだが、アポロ13号でも月面機器の電力用として小型原子炉発電機が 月着陸船に搭載されており、地球に帰還した際に約4kgの核燃料がばらまかれることが懸念されたが、月着陸船は地球軌道に乗る前に投棄された。 映画「アポロ13」で、四角の容器と丸い容器を、宇宙船内のありあわせのもので繋いで二酸化炭素の吸収フィルタを作製するシーンがあるが、あれはアポロ8号のシミュレーション訓練時に船室の換気扇が故障したという想定で、すでに考え出されていたものであり、アポロ13号事件ではじめて考え出された方法ではなかった。この時期、1970年から1971年にかけては、アメリカ各州の人々に歴史的な宇宙船と技術的な偉業をアピールするために「アポロ11号50州ツアー」が催され、巨大トレーラーに司令船コロンビアや月の石を搭載して、各州で展示会を開催した。

アポロ14号>1971年1月  アラン・シェパード船長、スチュワート・ルーズマ司令船パイロット、エドガー・ミッチェル月着陸船パイロット。アポロ13号の事故の反省を受けて宇宙船を改良 (支援船の酸素タンクの設計変更&従来の2個から3個に増加、タンク間にバルブを追加、司令船には水貯蔵システム追加、月着陸船には予備の電池を追加)し 、中止となったアポロ13号のミッションが実行された。手押し式カートを初めて持ち込み、月面で様々な科学分析装置や実験装置を展開、作動させた。月面を初めてカラー撮影を行った。 2回目の船外活動の終了間際に、岩石採取スコップにウイルソン製の6番アイアンをつけて、人類初めて月面でゴルフを行った。また、月面で使用するスコップで槍投げを行い、人類初めて月面でオリンピックを行った。エドガー ・ミッチェル飛行士は、月に向かう途中で密かに地上と超能力実験を行った。 アラン・シェパード船長は、マーキュリー計画のフリーダム7でアメリカ人としてはじめて宇宙に出た人物で、月面に立った人類としては最高齢の47才だった。

アポロ15号>1971年7月  デビッド・スコット船長、アルフレッド・ウォーデン司令船パイロット、ジム・アーウイン月着陸船パイロット。 月面に3日以上滞在し、電動車( ルナ・ローバー )を持ち込んで、広い範囲で調査を行った。 アポロ15号以前では、テレビカメラには長いコードが必要で、三脚に設置して中継していたが、月面車を使用するようになるとコードが邪魔になるので、月面車用に特別なハンディカメラが用意されて、このカメラは地球から遠隔操作で映す方向を変更することが出来るようになった。 月支援船には小型の人工衛星が積み込まれ、月周回軌道上で放出されて「月の磁場」を探査した。さらに、超高性能のカメラが2台設置されており、そのうちの一台は機密扱いを解除されたスパイ衛星に使用されたタイプのカメラで月面上の約90cmの物体を細部まで撮影することが出来るほどだった。ミッション終了後に、飛行士がNASAの許可を受けて月面に持って行った (ミッションの間、宇宙服のポケットに入れていた。)約400通の初日カバー( ( FDC, First Day Cover ) 、郵便ハガキみたいなもの ) が、業者によってNASAに無断で販売されたことによって、スキャンダルとなった。 これらのFDCの販売による収益は、アポロ15号乗員の子供達の信託基金に入ることになていた。 ジム・アーウィン飛行士は、月面に父親の写真を含む、小さな記念物を置いてきた。 月司令船の愛称はキャプテン・クックにちなんでエンデバー、月着陸船は、乗員がすべて空軍出身者だったのでアメリカ空軍の公式にシンボルであるハヤブサにちなんで”ファルコン”。スコット船長は、ハヤブサ( ファルコン )の羽を月面に持って行き、両手から同時に羽とアルミニウム製ハンマーを落下させることによって、真空状態では羽とハンマーが同時に落下する事を証明した。また、地球の植物の代表として4つ葉のクローバー、地球の文化の一つとして 小さな赤い表紙の聖書を一冊、ルナ・ローバーの制御盤の上に置いてきた。地球帰還時に、3つあるメインパラシュートのうち、一つが開かなかったが、無事に着水した。 アポロ15号に関わらず、アポロミッションで地球に帰還した乗員たちは、クルー仲間とともに、技術陣に、管制官に、上司に、ミッションの報告をし、ワシントン、連邦議会でスピーチをさせられ、ニューヨーク、ロサンゼルスでトークショーやパレードに呼ばれ、一か月近くも同じ質問を聞かれ続けた。

アポロ16号>1972年4月 ジョン・ヤング船長、ケン・マッティングリー司令船パイロット、チャールズ・デューク 月着陸船パイロット。月面に電動車を持ち込んで3日間、 27kmドライブして探索(主に月の高地)を行った。デューク飛行士が月面に家族の写真を置いてきた。ケン・マッティングリー飛行士は、事故が起こったアポロ13号に搭乗するハズだったが風疹の疑いがあったので結果的にはジャック・スワイガートと交代した。16号では、テレビ中継システムに改良が加えられ、地球に高さ64mの巨大な受信用パラボラアンテナが設置されて受信信号強度の向上が図られた。このようにテレビ中継の画質は劇的に向上したが、アポロ計画に対する関心の低下から、中継を見たアメリカ人はほとんどいなかった。この時期になるとNASAは、アメリカ国民の関心が得られるように船外活動時間を、ゴールデンタイムに合わせるようにテレビ局に提案したが、3大ネットワークは、利益率の高いゴールデンタイムにアポロ中継をやるのは割に合わないということで、中継しないことを決定した。

アポロ17号>1972年12月 ユージーン・サーナン船長、ロナルド・エヴァンス司令船パイロット、ハリソン・シュミット月着陸船パイロット。 最後の月面着陸ではじめて地質学者( ハリソン・シュミット )を連れて行った。 月に行きたいベテラン宇宙飛行士は多くいたので、選ばれた地質学者は訓練中は複雑な心境だったそう。月面を車で探査し、オレンジ色の土を発見した。 サーナン船長は、月面に娘( トレイシー・サーナン )のイニシャルを落書きしてきて、月面は風が吹かないので、この落書きは半永久に残る。 NASAは、米国民の注目を集めるために、アポロ計画史上はじめて、夜のテレビのゴールデンタイムにロケットを打ち上げる事を計画し、午後9時38分の打ち上げを予定したが、実際には打ち上げ30秒前に不具合によって打ち上げカウントダウンが停止し、実際に打ち上げられたのは夜中の12時30分近くであり、テレビ中継のスタッフは、3時間近くアドリブで話したりしてつないだ。


7 月に行った人達、月面を歩いた人達

 

 歴史上、これまでに月に行った人は24人、月の上を歩いた人は12人。人類がこれまでに行った最も遠い所は 、月の周回軌道の地球から裏側でアポロ計画では宇宙飛行士が3日かけて月に行った。 ちなみに、月面を歩いた12人が、後日、一度に集合した事は一回もなかったという。 これは基本的に、初期の宇宙飛行士は、軍人出身のパイロットで、一匹狼タイプが多かったことによるとされている。

40年前に月の上を歩いた人の順番と名前、及び指令船パイロットとして月面上空で支援した人>

●は著者が直筆サイン( 又はオートペン、機械署名)を有している飛行士。★は亡くなった飛行士。

1番目★●船長 ニール・アームストロング ( Neil Alden Armstrong, 人類最初に月面に立った人で当時38才 ) ( 2013年に死去 )

 オハイオ州ワパコネタで州会計検査官の息子として生まれ、16才の時に貯金して自動車の運転免許を取る前に飛行機の免許を取った。アメリカ海軍に在籍し、朝鮮戦争では累計78回出撃した。アポロ計画時の年収は3万ドル( 現在の日本での貨幣価値にすると6000万円ぐらい? )。アポロ計画では、アームストロングのみが注目され、神格化されたのに対して、「アポロ計画&月面上陸は、アメリカが国家として取り組み、自分はその中の一人に過ぎない」として、メディアに出ることを自粛し、アポロ計画終了後、しばらくしてサインをしなくな った上、2013年に手術後の合併症で亡くなったので自筆サインは高騰しつづけている。現在の相場は、サインのみだと20万円から。 故人の遺志によって、遺灰は、海に流された。アームストロングは、常に冷静さが要求されるテストパイロット出身であり、月着陸船の開発段階から関与(操縦経験も豊富)していたことから、アポロ11号の船長に選ばれたとされている。 テストパイロットは、通常の戦闘機のパイロットとは異なり、機体性能の限界までテストすることから非常に危険な仕事であり、最高の飛行技術と冷静な判断&慎重さが必要とされる。1994年に妻と離婚。

2番目●バズ・オルドリン (Edwin Eugene Aldrin, 後にバズ・オルドリンと改名。アームストロングの20分後に上陸 (当時39才)

 トイ・ストーリーのバズ・ライトイヤーのモデルとなった人で、月面ではじめて、おしっこした人としても知られ、当時のペットはサル( 小型のサル )だった。 空軍大佐の息子で、彼も空軍大佐。父は、ライト兄弟、米国ロケットの父で有名なゴダード(ゴッダードとも表現されることもある)、及び大西洋無着陸飛行で有名なチャールズ・リンドバーグの友人だった。マサチューセッツ工科大学(MIT)で博士号を取得。朝鮮戦争では66回出撃した。元来は宇宙オタクで 「ランデブー理論」に詳しいこともあってメンバーに選ばれた。有能で、きちょうめんな完全主義者で、本来、人づきあいが苦手であり、アポロ11号メンバーになって月面着陸を果たした後、燃え尽き症候群になって、うつ病を患ったが、現在は、回復し慎み深いアームストロングに代わって宇宙開発の宣伝マン役を果たしている。アポロ11号のメンバーに選ばれた時、「人類初の月面上陸者」となることが確定したと思ったが、月着陸船の出口の構造、及び人格の点で、アームストロング船長が選ばれたとされる。 本名はエドウィン・オルドリンであったが、妹が幼い時に、ブラザーをバザーと発音し、これが後にバズという家族内の愛称になり、大人になってもバズと呼んでもらうようになった。実際には、後にエドウインからバズと改名したそう。

ちなみに、母親の結婚前の名前はマリアン・ムーン

参考>指令船パイロット マイケル・コリンズ ( Michael Collins, アポロ11号 、引退後、スミソニアン航空宇宙博物館の初代館長になり、設計と建設を統括した。)

3番目★●船長 ピート・コンラッド ( Charles "Pete" Conrad, Jr .)  ( 1999年に死去 )

 長年の野球帽 コレクターで、特注で巨大な青白の野球帽を作製し、船外活動時にヘルメットの上から被 って飛び跳ねることを狙っていたが、巨大な野球帽を宇宙船内に秘密に持ち込むことが出来ずに断念した。バックアップ・クルー(デイブ・スコットとジム・アーウィン)のいたずらによって、結果的に人類はじめてヌード写真 、及び漫画(スヌーピー)を月面に持ち込んだ。 月までの飛行中は、コンラッド船長から白い野球帽がプレゼントされ、船長の防止にはドラえもんのタケコプターのようなプロペラがついていたという。その後、持ち込んだ音楽テープに合わせてダンスをして過ごしていた。月面で初めてダンスを踊ったと自称していた。 アポロ11号の月面着陸時に、アームストロングの第一声が、あまりに優等生的であったために、当時、NASAが飛行士の発言を規制しているとの噂が立ち、コンラッドは 飛行前に取材したイタリア人女性ジャーナリストと当時500ドル賭けて、NASAの規制を受けていない証明をするといい、実際に月面上陸時には「 ひゃっほー。これは( 大柄な )ニール(・アームストロング)には小さな一歩であるが、( 身長160cmの小柄な )自分には大きな飛躍である」と発言した。 しかし、地球帰還後に、お金のやりとりはなかったという。 世界で初めて月面で転んだ人でもあり、転んでも難なく立ち上がることは出来た。その後は何度も転びそうになったが、重力6分の1の世界では、転ぶまでに非常に時間がかかる(重力9分の1である水中で転ぶことを想像してみよう)ので、転ぶまでに足を前に出して転ばないで済んだという。

4番目●アラン・ビーン ( Alan La Vern Bean, 引退後、画家になった。)

参考>指令船パイロット リチャード・ゴードン( Richard F. Gordon, Jr .)( アポロ12号 )

注>アポロ13号は事故のため途中で帰還。

5番目★●船長 アラン・シェパード ( Alan Bartlett Shepard Jr, ) ( 1998年に74才で死去 ) アポロ14号。47才で月面に立った最高齢の人。月面で初めてゴルフ、一人オリンピックした。月面に、はじめて手押しカートを持って行った。 アメリカ人として、はじめて宇宙飛行した人( 地球軌道上に5分間滞在 )で、メディア嫌いで有名で取材を受けることはめったになかった。その後、メニエール病をわずらい、手術することによって結果として10年後に月面に立った。病気中の一時期はNASAで管理職を勤めていたが、気性が荒いことから、シェパードの秘書 はデスクに「笑顔、しかめっつら、無表情」といった表情の漫画の描かれたサイコロを用意して、部下の宇宙飛行士達に伝えていた。

6番目★●エドガー・ミッチェル( Edgar Dean Mitchell, 宇宙から地球に向けて密かにテレパシー実験した人 )(2016年死去)

参考>★指令船パイロット スチュアート・ローサ ( Stuart Roosa )( アポロ14号 )  ( 1994年死去 )

7番目●船長 デビッド・スコット ( David Randolph Scott, アポロ15号、月面をはじめて電動車でドライブした人 )

8番目★●ジェームズ・アーウィン ( James Benson Irwin, ジム・アーウィンとも表記)NASA退役後は牧師として活動し、ノアの箱船探索に活動した。1991年に、愛してやまなかったコロラド山中にて心臓発作に襲われて死去。

参考>指令船パイロット アルフレッド・ウォーデン( Alfred Worden ) ( アポロ15号 )

9番目●船長 ジョン・ヤング   John Watts Young, アポロ16号、月に二回行って、一回は月面を歩いた。スペースシャトル第一回飛行時の船長、合計6回宇宙飛行。月面を車でドライブ ) 1972年に妻と離婚。

10番目●チャールズ・デューク  ( Charles Moss Duke, Jr., 家族の写真を月面に置いてきた。月面に立った12人中で最も若くして( 37才 )月面に立った人 )

参考>指令船パイロット ケン・マッティングリー ( Ken Mattingly ) ( アポロ16号 ) 。 マッティングリーは、当初、アポロ13号で司令船パイロットを務めるはずだったが、風疹発症の恐れがあるとして、結果的にスワイガートと交代した。結果的には、風疹は発症しなかった。 マッティングリーは史上初めて深宇宙(この場合は地球と月の間の何もない空間)で宇宙遊泳をした。

11番目★●船長 ユージン・サーナン Eugene Andrew Cernan, アポロ17号、現時点で最後に月を離れた人 、ジーン・サーナンとも表記。月面に娘の名前を落書きしてきた。 月面を累計22時間探査し、月面を電動車で約35kmもドライブするなど、月面でもっとも広範囲を活動した。2017年死去)

12番目●ハリソン・シュミット( Harrison Hagan "Jack" Schmitt, (ジャック・シュミットと表現される場合も多い) 月に立った唯一の地質学者。他は軍隊、NASA上がりの宇宙飛行士。月面を累計22時間探査し、月面を電動車で約35kmもドライブするなど、月面でもっとも広範囲を活動した。 アメリカの地質学会から、月の地質調査をするなら学者を連れて行くべきだとの圧力を受けてNASAが選抜し、彼は他の宇宙ミッションも経験していなくて、いきなり月に行くことになったので、アポロ17号に搭乗が決まった際には、他の同僚宇宙飛行士関係者から祝福の電話が一本もなかったという。

参考>★指令船パイロット ロン・エバンス ( Ronald Evans ) ( アポロ17号 ) ( 1990年死去 )

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アポロ8号船長●フランク・ボーマン( Frank Frederick Borman, II )   パイロット●ジム・ラベル ( James Arthur Lovell, Jr. ) パイロット ●ウィリアム・アンダース ( William Alison Anders, ビル・アンダースとも表記 ))( 人類で初めて、月に到達した人達 )

アポロ10号 船長 トーマス・スタッフォード ( Thomas P. Stafford )   パイロット★●ユージン・サーナン (Eugene Cernan) 指令船パイロット●ジョン・ヤング ( John Young )( 月面着陸寸前まで行った )

アポロ13号 船長●ジム・ラベル ( 月に2回行ったが、結果的に月に立つことはなかった。)   パイロット フレッド・ヘイズ( Fred W. Haise, Jr., 月に立つハズだった。)   指令船パイロット ★ジョン・スワイガート( John L. Swigert, Jr., 1982年死去 )

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 太字の人は月に2回行った人達。ジム・ラベルは月に合計2回行ったが月面には降りられず。ジョン・ヤング、ユージン・サーナンは月に2回行って一回は月面を歩いており、特にサーナンは、初回のアポロ10号で着陸船パイロットとして月面着陸直前まで行っているので、人類史上最も月と密接だった人といえる。

 9番目に月面を歩いたジョン・ヤングは、アポロ10号で 司令船パイロットとして月上空を周回、16号で月面を歩き、スペースシャトル初飛行( STS-1 )STS-9を含め合計6回も宇宙に出かけており、マッハ35という人類最高スピード記録を体験した人でギネスブックにも掲載されており、人類史上、最も移動した距離の長い人、及び「ミスター宇宙飛行士」であろう。


8 サターンロケット 〜 人類史上、最も速く、最も遠くへ旅した乗り物 〜

 

<ミニ目次>-----

1 アポロ計画での印象的写真集 / 2 アポロ11号の記録写真集 / 2.1 アームストロング船長とオルドリン飛行士の関係

2.2 これは一人の人間にとっては〜 / 3 アポロ計画時の宇宙服 / 3.1 宇宙服(船外活動服)の着方

4 アポロ宇宙船(司令船(コマンド・モジュール)、月着陸船(ルナ・モジュール))、ルナ・ローバーの詳細

4.1 アポロ宇宙船(司令船、機械船、コマンド・モジュール) / 4.2 月着陸船(ルナ・モジュール)/ 4.3 ルナ・ローバー(月面車)

5 人類月面着陸、アポロ計画  / 5.1 アポロ計画 の時間軸の流れ / 6 アポロミッションのトピック

7 月に行った人達、月面を歩いた人達 / 8 サターンロケット / 9 アポロ計画におけるIBMの役割 /10 月面着陸捏造説を一蹴する証拠画像

/ 11 その他

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43年前に”月3人を運んだアポロ宇宙船”を打ち上げるのに使用した史上最大のロケット” サターンV、サターンロケット

製造>ボーイング社、ノースアメリカン社、ダグラス社、グラマン社、IBM、MITその他。 部品数 300万個以上

設計&とりまとめ>Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun ( ヴェルナー・フォン・ブラウン )

 

8-1●

サターンVロケット 、サターンロケットは、2000トンの燃料を2分半で消費(1秒間に20トン、小型原爆なみのエネルギーを内蔵)し、打ち上げ後11分でほとんどの部分が廃棄される>

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 1960年代、アポロ計画は旧ソ連に対する科学技術の優位性を1960年代、アポロ計画は旧ソ連に対する科学技術の優位性を示すためにアメリカ国家の最優先事項として計画され、企業2万社、延べ300万人が10年、当時のお金にして300億ドル( 今にすると日本では20兆円ぐらい )で取り組んだ。スペース ・シャトルが地上100kmぐらいを周回する( 打ち上げて約9分で打ち上げ完了 )のに対して、アポロ宇宙船は、43年前に月まで片道3日かけて38万kmを宇宙空間を単独航行し、帰ってきた。( スペース ・シャトル:アポロ=100km:380000km→ 3800倍の距離 )。

 アポロ宇宙船の打ち上げに使用されたロケット「サターンV ( ファイブ )、サターンロケット」は、全長110m ( 30階建てビルに相当、部品100万個)、燃料込みの総重量3000トンで、打ち上げ総重量の93%が燃料で占められる。トータルで20機ほど製作され ( 費用総額70億ドル=今の日本の感覚では25兆円、1機1.25兆円 )、25万人の技術者と、約2000の企業が関わり”当時の技術で可能な限り小さく作った”とされ、最下部の第1段ロケット部分は、燃料のケロシン ( 成分は灯油とほぼ同じだが、高高度の低温で水が凍結しないように灯油から水分を徹底的に抜いたも の)、液化酸素合わせて2000トンを2分30秒( 当時の原爆の10分の1のエネルギー、1億6000万馬力、毎秒15トン、自動車50万台以上、ジェット戦闘機543機の推力 )で消費した。第1段ロケット部分は、街で見かけるタンクローリー( 1.6万L )48台分のケロシン、75台分の液化酸素を搭載し、2秒間の燃焼でタンクローリー1台分のケロシンを消費 ( 一秒に灯油8000L、18Lのポリタンクにして、一秒間に444個、その他に超低温で高価な液化酸素も大量に消費 )した。ロケット上部の”銀色以上の部分がアポロ宇宙船”で、すぐ下の三角錐部分に月着陸船を収納 している 。月着陸船を収納している部分は、外側の薄い覆い( 宇宙船・月着陸船アダプター、上部直径4m、厚さ45mm( DVDケース三枚分 )のハニカム構造 )で重さ30トンの宇宙船を支えている。 48トンのアポロ宇宙船+月着陸船を月軌道に運ぶためには、打ち上げ時には3038トンのロケットが必要で、第一段ロケットの燃料は2056トン、第二段ロケットは485トン、第三段ロケットは26.7トンの燃料を使用し、ロケット本体の重量は470トンに対して燃料は約5倍の2568トンが必要である。 サターンロケットのロケット本体( 正確にはアポロ打ち上げ乗り物、アポロ・ラウンチ・ビークル )の黒い部分は、ケロシンや液体水素などの燃料が入っており、白い部分は酸素のない宇宙空間で燃料を燃焼するための液体酸素などの酸化剤が入っており、白黒の交互模様は、燃料と酸化剤が混合する部分を表現している。

 地球に帰還するのは銀色部分の上にある三角形部分( アポロ指令船 )だけで、この形が”アポロチョコ”の原形になった。左図の下部に見えるのは大型ヘリであり、ロケットの巨大さがよく分かる。 打ち上げ時のロケットには窓がないので、宇宙飛行士は地球を出るまで外の風景を見ることはな く、打ち上げ直後の重力加速度は1.1Gと快適で、宇宙船内部は意外に静か(宇宙船には音も振動も伝わらなかったという)で、飛行士たちは計器が作動を始めて打ち上げに気付いたという。この時代( 40年前 )のコンピュータは初代ファミコン以下の計算能力であったのは有名な話。 月面が熱くない夜に上陸することを目標にして、当時700台近くのコンピュータを使用して月までの軌道を計算して ( 地球も、月も、太陽も動いているので、実際にはメリーゴーランド上でキャッチボールするような状態になり、そのための計算 )から打ち上げた。 5つある第一段ロケットのエンジンの一機でも、故障すれば離陸は不可能であり、そういう時の脱出に備えて、アポロ宇宙船の上部に、脱出用ロケット( 一番上の筒状の部分 )が装備されている。また、燃料充填係は、志願制で打ち上げ時は地下に設置された地下壕に避難していた。

  ロケットが膨大な燃料を消費して、わざわざ真上に離陸するのは大気層( 100km、時速100kmの車で行くと1時間 )を最短で通過するためであり、まずは真上に上昇し、空気が薄くなったところで徐々に水平方向に姿勢を変化してスピードアップを図り、地球周回速度に達するようにしている。ただし実際には、大気が濃い所で、スピードが速くなるとロケットにかかる空気圧が最大になるポイント( Max Q )があり、ここで一度スピードの増加率を下げて、大気が薄い高度まで上昇した後に、さらにスピードを増加させている。

 「サターン( 土星 )」という名前は、以前に使用していたロケットが「ジュピターC( 木星 )」だったので、順番からいくと 次は「土星( サターン )だろう」という経緯で決まった。

 最新のロケットは外板の厚さは、1.6mmで、これをハニカム構造にすることによって強度を保っている。ロケットの直径4mに対して板の厚さが1.6mmなので、割合でいうと1万分の4しかない。一方、卵は殻の厚さが0.3mmなので直径4cmに対する割合は1万分の75なので、「卵の殻は最新ロケットの20倍も厚い」ということになり、これぐらい薄くなると、タンク内部にガスを注入しないと変形してロケットを立てることも出来ない。

 ボールを投げる事を考えた場合、速く投げるほど遠くに落ちる。これをどんどん速くすると、理論的には地球を一周して元の投げた位置に戻ってくる。これが人工衛星の理論で、実際には、時速28000kmで飛行すると、地球の重力と遠心力がつりあって、空気抵抗を無視すると半永久に地上に落下しないことになる。ちなみに、これはアイザック・ニュートンが考えていたことで、著作にも記述している。時速28000km以上のスピードを出すと、地球重力から少しづつ解放され、軌道はだ円を描くようになり、時速40000kmになると月軌道まで到達することが出来るようになる。よって、人間+アポロ宇宙船+月着陸船という大きな重量物を時速40000kmまで加速するのに必要なロケットを地球軌道に乗せるために、逆算していくとサターンロケットのような巨大なロケットが必要になった。

ユーチューブ動画> 本物のアポロ11号の打ち上げ風景(カウントダウン音あり←おすすめ)

<第1段ロケット S-IC  燃料=液化酸素+ケロシン>

製造>ボーイング社  製造数>19台

〜地上から大空へ〜

 打ち上げから、2分42秒燃焼し、マッハ8、高度70kmまでの加速を担当。直径、約10m、全長42m、上部タンクには約1400トンの液化酸素、下部タンクには約630トンのケロシンが入っており、下部のF-1エンジン5基に燃料を送り込む。 液体酸素は、可燃物に触れると発火する可能性があるので、液体酸素の充填前には、タンク、配管などを、手の脂さえ残らないように徹底的に洗浄していた。第1段ロケットに5つ装備されているF-1エンジンは、一基でスペース ・シャトルのメイン・エンジン3基以上の推力(1秒で3トンの燃料を消費)を発生し、5基のエンジンは、スペース・シャトル5機以上の出力、1億6000万馬力を発生し、小学校の25mプールの水を30秒で空にするほどの冷蔵庫よりも大きいポンプを搭載している。燃料を送る弁は樽の蓋ぐらいあり、燃料パイプは人が入れるぐらいに大きい。 打ち上げ時には2200トンの重量であるが、燃料を除く本体は、約137トン( 打ち上げ時の重量の6.2% )しかない。 第1段目ロケットの胴体は歴史上最大の直径を有するアルミニウム製。

 発射8.9秒前に、5つあるうちの、中央エンジンが点火され、続いて周囲の向かい合わせになるエンジンが、機体にかかる負荷を抑えるために0.3秒の間隔をおいて点火される。発射2秒前にエンジンが全開になり、機体に搭載されたコンピューターが異常がないことを確認すると、ロケットと塔をつないでいたアームが切り離される。続いて第一段ロケットを発射台に固定していたピンが外され、機体はすみやかに離陸を開始する。 この際、轟音と炎による発射台の損傷を防ぐために毎秒2.8万ガロンの水が炎に向けて噴射される。いったん離陸してしまえば、エンジンが停止するような事態が発生したとしても、ロケットを発射台に戻す方法はない。

 ロケットが完全に塔から離れるまでには、約12秒かかる。その間、強風が吹いて塔と接触したりすることのないよう、機体は塔と反対の方向に1.25度傾けられる。高度130mに達すると、機体は方位角を合わせるためにローリングを開始し、第二段ロケットの点火38秒前まで、徐々に角度を傾けていく。このプログラムは、発射が行われる季節の風向きによっても異なってくる。周囲の4基のエンジンは、仮にどれかが故障して燃焼を停止しても推力線が重心を外れることのないよう、わずかに外側に傾けられている。飛行の初期段階はもっぱら高度を得ることに費やされ、速度を得るのは後半部分になる。

 第一段ロケットは150秒の燃焼で2,000トンの燃料を消費し、機体を 高度130mまで上昇させた後、飛行制御で傾きはじめ、高度68km、マッハ8にまで到達させる。 高度68kmで分離した第1段ロケットは、惰性によって高度110kmまで上昇したあと、ケネディ宇宙センターから560km離れた大西洋上に落下する。

 サターンロケットを打ち上げる瞬間は、約45キログラムの破片を5キロメートル先に飛ばすパワーがあり、また、確実にロケットが宇宙へ安全に飛び立つ可能性があるわけではなく、空中爆発の可能性もあったので、ロケット発射場から5.5キロメートル離れた場所に、招待者用の見物席が設けられた。 じっさい、初期のサターン5ロケットは莫大な振動を発生し、打ち上げ上から5km離れた録音スタジオ内の天井タイルが振動で何枚も剥がれたという。初期のサターン5ロケットは、振動が大きすぎて「アポロ6号」ミッションでは5台あるロケットエンジンのうち2台が予定よりも早く停止するというアクシデントがあり、改良のために、その後のアポロ7&8号では、小型のサターン1Bロケットが使用された。F-1ロケットエンジンの開発初期においては、燃焼状態が不安定という問題があり、燃焼プレートの表面を特殊な形状の「銅製しきり」で区切ることによって問題を解決した。 実際にサターンロケットに載った宇宙飛行士の話によると、サターンロケットは巨大なために、司令船から100m下( ビルでいうと32階下 )で轟音が鳴っていても、宇宙船は密封されているので遠く聞こえ、リフトオフ時( 打ち上げ時 )は、きずかないぐらいスムーズだったという。また、スピードが増加してマッハ1を過ぎると、ロケット噴射音は前進方向には届かなくなる (&高空で空気が薄くなる=音の伝わる媒体が無くなる)ので、意外に静かだという。

<緊急脱出システム LES分離>

 燃料には液第2段ロケットが燃焼をはじめて35秒後に、高度96kmで安全が確認されれば緊急脱出システムが分離されて、この時点( 打ち上げから3分17秒後 )で宇宙飛行士は、はじめて外の風景が見られる。緊急脱出システム自体が一種のミニロケットであり、発射台上でトラブルが発生した場合、システムが月司令船を抱えて打ちあがり、安全に月司令船を脱出させるようになっている。 サターンロケット準備中に避難する場合は、飛行士達が月司令船から出て、ロープウエー風のカゴに乗ってコンクリート製の避難豪に避難する仕組みで、この風景は映画「メンインブラック3」の後半で見られる。打ち上げ開始中に避難する場合は、LESを使用して、司令船だけ軽く飛び上がってロケット本体から分離して海上や陸上にハードランディングするようなっていたが、これは飛行士達がケガする可能性が大きかった。また、ロケット打ち上げ場から900メートル離れた場所では、飛行士達を助けるために装甲車が準備していた。

 

<第2段ロケット S-II  燃料=液化酸素+液化水素>

製造>ノースアメリカン社  製造数>19台

〜大気圏から宇宙へ〜

 燃料には液化水素と液化酸素を使用し、打ち上げ直前まで、気化して損なわれる液化水素を充填している。打ち上げから、第一段ロケットの分離後、5基のJ-2エンジンが360秒燃焼して、アポロ宇宙船を高度184km、秒速7kmまで加速させた後、発射点から4200km離れた大西洋上に落下する。 第2段ロケットの開発過程においては、液体燃料をフロリダの暑さから守るための断熱技術が問題となり、タンクの周囲にハニカム断熱材を接着していたが、うまく貼れないという問題があり、当時、カリフォルニアの工場の近くのサーファー達が、サーフボードにハニカム材料を使用することに長けていたので、サーファー達を雇用してロケットの製造にあたった。しかし、良い波が来るとサーファー工員たちは、サーフィンに出かけてしまうという問題があった。

<第3段ロケット S-IVB  燃料=液化酸素+液化水素>

製造>ダグラス・エアクラフト社  製造数>32台

〜地球から月へ〜

 第2段ロケットと同じJ-2エンジンが一基ついており、最初の165秒の噴射でアポロ宇宙船を地球周回軌道速度まで加速後、その後、335秒の噴射で地球の重力圏脱出速度である秒速11.2km(時速39000km)までアポロ宇宙船を加速する。その後、分離して太陽を回る軌道に投入される。 サターンロケットの建造にあたっては、軽量化するためにリベットではなく溶接が用いられたが、巨大かつ薄い金属板を信頼性高く溶接するために、新しい溶接方法を開発する必要があった。 アポロ13から17号では、第3段ロケットS-IVBを月面に衝突させ、事前に月面に設置した地震計で観測することによって月の内部構造を調べた。

 

9 アポロ計画におけるIBMの役割

 

以下の文章はIBM社のサイトをかなり参考にしている。

 アポロ計画には、IBM社のフェデラル・システムズ( Federal Systems )部門に所属する約4000人の社員が関係し、アポロ計画を実行して地球まで安全に誘導するコンピュータを開発して多くの複雑なソフトウエア・プログラムを書いた。 アラバマ州ハンツビルのジョージ・マーシャル宇宙飛行センターではIBMのエンジニアと技術者が、サターンロケットの誘導用飛行制御装置を作製した。フロリダ州ケープ・ケネディ( 現在のケープ・カナベラル )では最終的なシステムテストを行ってロケットの打ち上げに貢献した。テキサス州ヒューストンのNASA有人宇宙飛行センター( 現在のジョンソン宇宙センター )では、NASAのフライトディレクターの傍らに座って宇宙船を地球周回軌道から月周回軌道に乗せて、再び地球周回軌道に戻すために必要な分析を分刻みで行った。ワシントンDCのゴダード (ゴッダード)宇宙飛行センターでは宇宙船を追跡し、交信するために、リレー・ステーションと宇宙船の世界中継ネットワーク( 4つの船と17の局を利用 )を開発した。ニューヨーク州のオウェゴ周辺の社員は小型集積回路を開発、構築してコンピュータを冷蔵庫サイズからスーツケースサイズに縮小し、打ち上げの振動に耐えるぐらい頑丈にした。

 

10 月面着陸捏造説を一蹴する決定的画像

 

 アメリカ、日本をはじめとして「月面着陸はなかった。飛行士は1週間地球軌道を回ってきただけ」という捏造説があり、捏造説派の人は、感心するぐらい熱心にアポロ計画時の資料を読み込み否定部分を探している。しかし、最近、NASAは着陸地点を詳細に撮影して公開しており、これらの活動痕跡を見ると各アポロミッションの内容と一致しているので、「月面着陸はあった」と考えてよいだろう。ちなみに捏造派は、この写真自体CGで書き込んだと主張している。

〇アポロ11号の着陸地点の写真

アポロ11号では、月面に着陸して砂、岩を採取してすぐに帰還するのが任務だったので、月着陸船(LM)の周りしか活動していないのが分かる。

〇アポロ12号の着陸地点の写真

 アポロ12号では、アポロ11号では不正確だった目標着陸地点への着陸精度の向上を図り、目的とする月面探査機「サーベイヤー」の状況をチェックするために着陸点を設定し、実際、以下の写真のように、飛行士が歩いて行ける距離まで正確に着陸したことが分かる。

〇アポロ14号の着陸地点の写真

アポロ14号の目的地は、アポロ13号が着陸するはずの地点だった。

〇アポロ15号の着陸地点の写真

アポロ15号では、はじめて月面に電動自動車を持ち込み、以下の写真に月面に残された自動車(LRV)が写っている。

〇アポロ16号の着陸地点の写真

〇アポロ17号の着陸地点の写真

アポロ17号では、月面に3日間という最も長い時間滞在し、広範囲を探索したので、活動痕跡も大きくなっている。

〇アポロ15号 で月面に設置したレーザー反射用器具(アポロ月面実験機器パッケージ(ALSEP)の一つ)

〇月面に設置したレーザー反射用器具に向けて地球からレーザーを発射して地球と月の距離の変化を測定している様子。

 

11 ネタの倉庫

 

●アポロ12( ピート・コンラッド船長、月に3番目に上陸 )>月着陸船から月面に降りようとしているコンラッド船長

写真>歴代アポロ宇宙飛行士で最も個性的だった人 > アポロ12号 ピート・コンラッド船長

 

 コンラッド船長は、野球帽コレクターであり、特注で巨大な青白の野球帽を作製し、船外活動時に月面上でヘルメットの上から被って飛び跳ねることを狙っていたが、巨大な野球帽を宇宙船内に秘密に持ち込むことが出来ずに断念した。バックアップ・クルーのいたずらによって、結果的に人類はじめてヌード写真 、及び漫画(スヌーピー)を月面に持ち込むことになった。 月までの飛行中は、コンラッド船長からクルーに白い野球帽がプレゼントされ、船長の帽子には「ドラえもんのタケコプター」のようなプロペラがついていたという。その後、 宇宙船内では持ち込んだ音楽テープに合わせてダンスをして過ごしていた。また、月面で初めてダンスを踊ったとも自称していた。 アポロ11号の月面着陸時に、アームストロングの第一声が、あまりに優等生的であったために、当時、NASAが飛行士の発言を規制しているとの噂が立ち、コンラッドは飛行前に取材したイタリア人女性ジャーナリストと当時500ドルを賭けて、NASAの規制を受けていない証明をするといい、実際に月面上陸時には「 ひゃっほー。これは( 大柄な )ニール(・アームストロング)には小さな一歩であるが、( 身長160cmの小柄な )自分には大きな飛躍である」と発言した。 しかし、地球帰還後に、お金のやりとりはなかったという。 このように、くだけた人柄だったが、まじめな時は、すごく優秀であり、アポロ11号に続くアポロ12号で船長を勤めた。

●<アポロ宇宙飛行士が月面に「何らかの構造物を発見した」際の記録>

 アポロ計画では、月までテレビカメラを持っていって、何でも自由に公開したが、通話記録だけは長い間、秘密指定になっていた。宇宙人の存在を信じるか、信じないかは個人の自由だが、最近、秘密指定解除になったアポロ14号の会話記録によると以下の気になる部分があるのは事実である。

ご興味があれば、「アポロ14号の通信記録 」のpdfの124ページ(文書内のページでいうと120ページ)の下の方に以下の発言が記録されている。

会話番号03-12-23-05 エドガー・ミッチェル飛行士 「Sure does. Really got a very complex central structure (本当にあります。非常に複雑な中央構造物があります。)」

03-12-23-37  スチュワート・ルーサ飛行士 「〜 Yes, They're mining it, I think.(あれらは採掘場です。私が思うに)」

 ちなみに、アポロ計画時の宇宙飛行士達は、体力的に、視覚的にも優れたエリート中のエリートであり、現在のようにカメラ、ビデオカメラが発達していない時代なので、「短い言葉で的確に物事を表現する訓練」を受けていたので何かを見間違える可能性は少ないと言われている。

アポロ11号でも月への飛行中に、UFOらしきものを目撃しており、「これを報告すると、UFO探しがメインになるのでやめておこう」という会話があったとの後日談がある。これは後日に作成された再現ドラマの中の会話ででてくる。

●アポロ11号で、月面で寝た時の状況>月面で寝る時はアポロ11号では、アームストロング船長は宇宙服 (バブルヘルメット付の船外活動服)を着たまま(これは就寝中に月着陸船の空気漏れで窒息することを恐れたため)壁にもたれかかって寝た。 オルドリンは奥の上昇用ロケットエンジンの上で宇宙服を着たまま寝た。アポロ11号では着陸船の電源をすべて切ると、船内の熱源がすべてなくなり、宇宙服内には酸素が絶えず流れているので飛行士達は寒さに震えて眠れなかったという。アポロ12号では十分な睡眠をとるために、宇宙服を着たままハンモックで寝たが、宇宙服はごつごつしているので体にあたって眠りにくかったという。アポロ15号以降では、月面滞在時間が大幅に増えたので十分な睡眠をとるために宇宙服を脱いで寝 られるようになった。月面では、体重が6分の1になるので、ハンモックでも快適に寝られたという。また、月面で十分に確実に睡眠が取れるように、月着陸船内の機械音を録音したテープを使用してシミュレータ内で寝る訓練を事前に何回も行っていた。

4-6-3 ●アポロ11号で月面でアームストロング船長が寝た時の状況(実際にはバブルヘルメットをかぶったまま体より一回り大きい船外宇宙服を着たまま寝ており、この姿では顔、 体を掻く事さえままならない。)アポロ宇宙飛行士は、事故、故障で月着陸船が離陸できない場合、月まで救出に行けないので同僚飛行士と、この中で一生を終える覚悟が出来ていた。

 


とりあえず以上。

より詳しい情報は、英語ですが、NASAのサイト

アポロ 月表面ジャーナル Apollo Lunar Surface Journal

アポロ イメージジャーナル Apollo Image Gallery

アポロ計画 通信記録 アーカイブ(Communications Transcripts: Mercury Through Apollo

⇒ Communications Transcripts: Mercury Through Apollo

SP-368 Biomedical Results of Apollo(アポロ計画時の飛行士の食事、排せつ関係の記録集)

 から読めます。


アポロ計画の世界を楽しむサイト

 ここでは、個人の趣味として、勉強がてらアポロ計画の世界(宇宙、NASA、構造、速度、打ち上げ、 サターンロケット、技術等)をいろいろと記述しています。リンクフリーであり、作者に連絡の必要はありません。

 累計90冊以上の資料を見た経験からすると、アポロ計画の詳細については、「人類、月に立つ(上、下)」 NHK出版、写真集なら「フル・ムーン」 新潮社、アポロ計画のその後なら 月をマーケティングする アポロ計画と史上最大の広報作戦」 日経BP社、動画は From the Earth to the Moon (フロム・ジ・アース)/人類、月に立つ 」が、お勧め。

本ページの画像、及びNASAへのリンクについて> JAXAのサイトによると、「NASAの画像、動画、及び音声素材は、教育、情報提供を目的とする、写真集、教科書、展示物、およびインターネットのウェブサイトに使用することが可能であり、この包括的な許諾は個人のウェブページにも適用されます。また、個人のウェブサイトからNASAの許諾なしにリンクをはることができる」と記述されています。

スペースシャトルの世界を楽しむサイト

アポロ計画(人間が他の星に行った)の世界を楽しむサイト

宇宙開発関係の豆知識集のサイト

宇宙関係のリンク(動画、文献等)

アポロ 月表面ジャーナル Apollo Lunar Surface Journal

アポロ イメージジャーナル Apollo Image Gallery

アポロ計画 通信記録 アーカイブ(Communications Transcripts: Mercury Through Apollo

⇒ Communications Transcripts: Mercury Through Apollo