歴史投稿 朝鮮通信使  朝鮮通信使の隠された真実の姿を暴く(笑)



歴史投稿その1 「朝鮮通信使と鶏」




2006年10月に、ENJOY KOREAという、韓国人に正しい歴史を教えてあげるサイトに、この絵を投稿したところ、いろいろな所で引用され、反響の大きさに驚きました。

これは『日韓中の交流』山川出版社からの引用です。

『船着場から上陸して町の中をうろついていた朝鮮通信使一行が、町人が飼っているニワトリを盗んで逃げようとし、日本人とけんかになっている。』という説明文がついています。

『日韓中の交流』山川出版社 1800円。
図書館で借りて読んだのですが、一応、筋を通して一冊購入しました。笑。


この絵について少し調べてみました。

1748年(延享5)に来日した朝鮮通信使が淀藩領に入った際、接待役を務めたのは家老の渡辺善右衛門という人です。善右衛門は「来聘記」を書き残しました。それには付図(来朝行列図)があり、この図の一部分がこの絵と思われます。

接待役の善右衛門にとって、このケンカ騒ぎは大事件のはずですから、「来聘記」に、この事件についての詳しい説明が書かれていると思います。
翻刻がなされたら、是非読んで見たいです。

このころ、淀藩城下では、『猫は朝鮮通信使の大好物で、町中の猫を彼らがつかまえて料理して食べているので、町から猫がいなくなった』という噂もたっていました。


さて、この図の全体は縦横1.4Mもある大きなもので、複製が教育機関に配布されているようです。残念ながらネット上で見つけることはできませんでした。

しかし、面白い情報を見つけました。
それは、読売新聞2004年5月4日の「朝鮮通信使絵図作者子孫に戻る」という記事です。



http://www5f.biglobe.ne.jp/~sans-culotte/topics297.html

記事の中の「朝鮮聘礼使淀城着来図」は、「来聘記」の付図(来朝行列図)そのものだと思うのです。記事の最後のところに、次の文があるからです。

『藤井教授は「日本の子どもと遊んだり、鶏を一緒に追いかける韓半島人の姿が活き活きと描写され、日本の民衆と交流していた様子がわかる」と話している。』

この文だけ読むと、日本の子供と朝鮮通信使のほのぼのとした触れ合いを想像しますが、実際に絵を見るとぜんぜん違います。



右端には棒を振り上げて韓半島人に向かっていく日本人が描かれていますし、遊んでいる様子とはとても思えません。

藤井教授が天然なのか、それとも、総連、民団が朝鮮通信使を日韓友好の象徴であり、かつ『自分たちの誇り』と位置づけているために、下手なことを言うと人権問題(笑)になってしまうのを恐れているのか、いずれにしても、このようにして朝鮮通信使の実態が隠蔽されているのです。笑。








歴史投稿その2 「日本人は朝鮮通信使をどう見たのか」


埼玉新聞   www.saitama-np.co.jp/news10/26/09l.html


「あなたもチャングムの衣装で川越市内を練り歩きませんか」
江戸時代に行われていた朝鮮通信使の 行列をまね、町民らが川越まつりで行っていた「唐人揃い」を復活させた仮装行列「復活!唐人揃い―朝鮮通信使―多文化共生・国際交流パレード」が十一月十二日、川越市内で行われる。
日本と朝鮮の平和の象徴だった証の唐人揃いを復活させようと、市民団体「埼玉・コリア21」などを中心に各種団体で組織した実行委員会(江藤善章委員長)が昨年初めて開催した。今年二回目。




「唐人揃い」という唐人行列が、川越で行われるようです。

記事には、次のように書かれています。

『唐人揃いが川越まつりで行われたのは、江戸時代の川越の豪商・榎本弥左衛門が九州から東海、江戸地域で行われていた朝鮮からの文化使節団の行列を見たのがきっかけ。
その後、川越まつりで唐人揃いの仮装行列が取り入れられ、川越氷川神社祭礼絵巻にも記録が残されている。 』

川越氷川神社祭礼絵巻に描かれている唐人揃いの仮装行列を良く見ると、唐人の衣装を着て、魚の作り物を頭に被っている子供の行列であることがわかります。
行列には、「浦島太郎」と「乙姫」を演じる子供がいて、全体として見ると、浦島太郎と乙姫の婚礼行列です。

「唐人揃い」は、朝鮮通信使を真似たものではなく、竜宮城の近くから来ると思われていた琉球使節を真似たものなのです。

つまり、川越氷川神社祭礼絵巻に描かれた、江戸時代、町民らが川越まつりで行っていた「唐人揃い」の唐人とは琉球の人たちのことで、浦島太郎と乙姫の引き立て役として登場しているのです。

朝鮮通信使とは全く関係がないのです。

川越氷川神社祭礼絵巻が複数あるのでなければ、市民団体「埼玉・コリア21」は、明らかに嘘をついていることになります。笑。


江戸時代、祭りの仮装行列で演じられた朝鮮通信使行列には、「お約束」の唐人がつきものでした。

その唐人は、「賄い唐人」と呼ばれていました。日本人が創造した架空の朝鮮通信使です。

朝鮮通信使のうち、身分の高い人たちには、幕府からご馳走のもてなしがありましたが、下級身分の人たちは、米・味噌・卵などが支給されて、宿泊先の厨房で自炊していました。
彼らは、支給されたもののうち、いらないものを売って好きなものを買ったり、上役の命令により密かに持ち込んだ朝鮮国の人参を日本の商人に売って金を得たりしました。このような行為から日本の庶民の間に架空の朝鮮通信使「賄い唐人」のイメージが生まれました。

「賄い唐人」は、朝鮮国の人参を売るために使う天秤ばかりと売買を記載する帳簿を持ち、鞍には、仕入れた兎や鶏が入った籠をつけています。

日本各地の祭礼で行われた仮装行列で、朝鮮通信使仮装行列の「賄い唐人」は、道化役として、見物客を楽しませていました。



画像を見てください。
鞍に兎が括りつけられています。
そして、左手に鶏を持ち、右手で引きちぎった羽根を口に入れようとしています。
この兎や鶏は本物ではなく、お菓子で作った作り物です。

賄い唐人は、日本の庶民が持っていた韓半島人に対するイメージを表現しているのです。
密かに朝鮮国の人参を売り、腹が減ると生肉を意地汚く食べ散らかす。
このような肉食の野蛮で滑稽な「賄い唐人」は、江戸時代の日本人が抱いていた「韓半島人のイメージ」のひとつなのです。

実際に、本物の朝鮮通信使が通過した町で、『猫は朝鮮通信使の大好物で、町中の猫を彼らがつかまえて料理して食べているので、町から猫がいなくなった』という噂がたったこともあります。

妙な市民団体が、日本各地で朝鮮通信使を模した唐人行列を復活させても、賄い唐人は決して復活しないでしょう。

今や、朝鮮通信使は日韓友好の象徴であるとともに、韓国人、在日韓半島人の「自尊心」と「優越感」そのものなのです。笑。








歴史投稿その3 「朝鮮通信使殺害事件 前編」





朝鮮通信使殺害事件について書きます。

その前に、「朝鮮通信使と鶏」について、もう少し書き足しておこうと思います。
実は、この鶏強奪事件と殺害事件とは関連があるからです。

私が先週の週末に書いたスレッドに、韓国人のcsk3451さんが良いレスをつけてくれました。



http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=72306&st=writer_id&sw=ushirock


csk3451 10-30 02:30----日本幕府の手厚い待遇を受けた朝鮮通信使何が不足で泥棒行為をするの? 朝鮮王の国書を伝達する任務を遂行した朝鮮通信使がお金が不足ヘッウルリもなくて? そんな任務を遂行した朝鮮通信使が盗みをヘッダヌンゴン常識的に理解がアンガンダ..



これは重要な指摘です。
csk3451さんのレスのとおり、日本側は朝鮮通信使に莫大な費用を使って手厚い待遇を与えていました。
上級の身分の者には高級料理を出し、下級の身分の者には米、味噌、卵、魚、野菜などを支給しました。それは、充分な量だったと思います。

しかし、肉の供給量は少なかったと思われます。日本人にとって肉食は一般的ではなかったのに加えて、朝鮮通信使の宿舎が寺であることが多かったからです。
朝鮮の寺では肉食するのでしょうか?日本の寺では肉食は禁じられていました。僧侶は、朝鮮通信使が寺で肉食するのを嫌がっていました。当然、肉の供給量は少なかったはずです。朝鮮通信使は肉に飢えていたことでしょう。

それでは、なぜ、朝鮮通信使は金を払わずに、鶏を盗んだのでしょうか。それは、朝鮮では貴族が平民から物を奪うことが一般的だったからです。

韓国の人たちも、両班の横暴については知識があると思います。

韓国国内限定で朝鮮のルソーと呼ばれている丁若繧ヘ、地方官の心得を書いた「牧民心書」の中で「王命を受けて地方官になった以上、人々が夷狄禽獣の域に陥っているのを、座して救おうとしないとすれば、それは自己に与えられた勤めを果たさないことになる」と書きました。

一読すると立派なことを書いているように思えますが、統治すべき人々を夷狄禽獣と書き記しているところに着目すれば、この文は両班が自国の民衆を禽獣視していたことを如実に示しているのです。(『朝鮮からみた華夷思想』 山内弘一 山川出版社)

両班は、朝鮮の民衆を人間とは思っていなかったのです。さらに、両班は、日本人を野蛮人とする小中華思想を持ち、朝鮮でしていたことをそのまま日本でも行ったのです。

そのような生来の習性に加え、csk3451さんが指摘した「幕府の手厚い待遇」が朝鮮通信使を一層、傲慢にし、尊大な態度をとらせる原因になっていました。

日本側の外交姿勢にも問題があったのです。

江戸時代、大名たちは、家の格を守るために幕府に忠誠を尽くす必要がありました。戦争があれば武功で忠義を示すことができます。しかし、江戸時代は戦争がない時代です。大名は、幕府に命じられた仕事を熱心にやり遂げることによってしか忠義を示すことができなくなっていました。

幕府は、朝鮮通信使の接待を大名たちに命じました。大名たちは、幕府のために熱心に朝鮮通信使を接待しました。
また、大名同士の見栄の張り合いから、幕府の想定を遥かに超えた、過剰な接待をしてしまいました。
つまり、朝鮮通信使への「手厚い待遇」は、朝鮮通信使への敬意や大事に思う気持ちからではなく、大名の幕府への忠誠心と大名同士の牽制から行われたのです。

このような大名と幕府の事情は、朝鮮通信使たちは知りません。彼らは、自分たちが偉いから日本人が手厚く接待してくれると誤解したのです。
江戸への旅で、過剰な接待を受け続けた朝鮮通信使の一行は、甘やかされた子供のように、しつけをしていない犬のように、どんどん傲慢になり、有頂天になって傍若無人な態度をとるようになっていきました。それは、もはや不良中学生の修学旅行の一行でした。


そんな朝鮮通信使でしたが、「馬鹿と鋏は使いよう」と言うように、利用価値が無いわけではありませんでした。

幕府は、朝鮮通信使を「朝貢使」として、大名や民衆に見せることで、幕府の権威付けに利用したのです。
現代では、外交交渉の結果は共同声明という形で公にされますし、交渉の過程もマスコミによって、ある程度、明らかにされます。
しかし、400年前の世界では、外交交渉の結果などは支配者層の一部しか知りえません。
朝鮮との外交の詳細は、幕府と対馬藩の上級職の者しか知りませんでしたから、大名も含めて、日本人のほぼ全員が、朝鮮通信使を朝貢使として認識していました。

リチャード・コックス(Richard Cocks  1623年の閉館まで平戸のイギリス商館長)の日記には、「ある人々(それは庶民であるが)は、彼ら(朝鮮通信使)が来たのは臣従の礼を表し、貢物を献上するためで、もしそうしないと皇帝(将軍)は再び彼らに対して戦争を仕掛けたであろうと噂している」1617年8月31日 とあります。

朝鮮通信使を朝貢使とする見方は、既に1617年の第2次朝鮮通信使の来日頃にはあり、それは、神功皇后の三韓征伐や秀吉の朝鮮出兵と結びつきながら、一般向けの書物を通して、庶民の間に急速に広まっていったのです。

韓国の歴史学者の中には、「18世紀中葉から国学が発達していき、日本書記的な歴史観が再び頭をもたげながら、通信使を朝貢使節視する傾向が一部において台頭した」などと主張する人がいますが、上記のリチャード・コックス(Richard Cocks)の日記で明らかなように、完全に間違った主張です。 17世紀初頭には、既に大多数の日本人は、朝鮮通信使を朝貢使と見なしていたのです。 (日韓歴史共同研究委員会 第2分科(中近世) 第2部 韓国側報告 第1篇 研究史整理論文 『通信使研究の現況と課題』 張舜順 )


朝鮮通信使が金を払わずに鶏を盗んだ事情と、日本人が朝鮮通信使を朝貢使として認識していたことについて書きました。


さて、朝鮮通信使が盗んだのは鶏だけではありません。そして、それが殺害事件の遠因になってしまうのです。

後編に続く。












歴史投稿その4 「朝鮮通信使殺害事件 後編」





前編では、小中華思想と日本側の過剰な接待により、朝鮮通信使の一行が、甘やかされた子供のように、あるいは、しつけをしていない犬のように、非常に傲慢になり、ついには、日本人から物を盗むことも平気になっていたことを書きました。
これは最重要ポイントなので良く覚えておいてください。


『江戸時代を「探検」する』 山本博文 新潮社 には、次の記述があります。

「通信使の随員の中には、そのような扱いに慣れ、段々と尊大な行動をする者も現れた。出船の時に、前夜出された夜具を盗んで船に積み込んだり、食事に難癖をつけて、魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したりというような些細なことから、予定外の行動を希望し、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりするようなこともあったという」

現在、多くの日本人、韓国人は、何人かの朝鮮通信使と日本の儒学者との間に親交があったと思っています。それは、確かに一つの歴史的事実です。しかし、同時に、朝鮮通信使の傲慢で尊大な態度と無礼で無法な行為の数々を苦々しく思い、憤りを感じていた日本人が多かったことも、また歴史的事実なのです。

朝鮮通信使は、まるで頭の悪い不良中学生と同じですから、日本の庶民が、朝鮮通信使は猫が大好物であると、彼らを笑い者にするような噂をしても、当然でしょう。布団のように嵩張るものさえ盗むのですから、持ち運びやすいものなどは、すかさず盗んだことでしょう。まさしく朝鮮通信使は国家使節の皮を被った窃盗団だったのです。



さぁ、みなさん、今日の「その時」がやってまいります。

その時、1764年4月6日。

この日の昼、江戸からの帰途、大阪は長浜の荷揚げ場で、朝鮮の下級官人が鏡を紛失しました。
通信使の都訓導(中級官人)、崔天宗という者が、これを咎め、「日本人は、盗みの仕方が上手だ」というような悪口を言いました。

これに対応した鈴木伝蔵(Suzuki Denzou)という対馬藩の通詞(通訳)は、紛失しただけで何の証拠も無く日本人が盗ったと言われたのは「日本の恥辱」になると感じ、また、日頃から通訳として朝鮮通信使のそばにいて、彼らの姑息な窃盗にうんざりしていたので、「日本人のことをそのように言うが、韓半島人も、食事の際に出た飾りの品々(食器など)を持って帰っているではないか。これをどう思うのか」と言い返しました。


そうです。朝鮮通信使は、食器も盗んでいたのです。

当然、接待役の武士は、このような朝鮮通信使の盗癖を知っていたでしょう。武士たちは、国を代表する使節が宴会で出された料理の皿を盗むのを見て、驚き呆れてしまったことでしょう。こんな幼稚な人々に下手に関わるよりも、さっさと他領へ送り出せばそれでよいと考えたとしても無理ありません。あるいは、朝鮮は清の属国であることから、韓半島人を低く見て、可哀想だからと大目に見たのかもしれません。しかし、このような態度は結果として、朝鮮通信使を益々増長させることになったのです。物を盗むことは犯罪であると教えてあげたほうが、朝鮮通信使のためにも良かったと思います。


鈴木伝蔵(Suzuki Denzou)に痛いところを突かれた崔天宗は、身に覚えがあったからでしょう頭に血が上り、人々が見ている前で、鈴木伝蔵(Suzuki Denzou)を杖で何度も打ちました。

鈴木伝蔵(Suzuki Denzou)は、下級の武士とはいえ武士です。このままでは、武士として生きていくことができません。思いつめた鈴木伝蔵(Suzuki Denzou)は、仕方なく崔を殺すことを決心します。

その夜、鈴木伝蔵(Suzuki Denzou)は、崔天宗の喉を槍で突き刺し殺害しました。



対馬藩にとっては、朝鮮との貿易は大きな利益をもたらしました。
また、日本との貿易で大量の銀を得ていた朝鮮は、日本と貿易をしなければ、清との朝貢や私貿易で使う銀に不足し、ますます貧乏国になっていったでしょう。

一方、対馬藩を考慮外にすれば、日本は、朝鮮と外交関係を持っていることに何の利益もありませんでした。
日本と清とは国交が無くても、貿易関係があり、長崎の唐人屋敷や、その周辺に中国人が滞在していました。黄檗宗の僧侶を始め、絵師、学者などの文化人も来日していました。中国文化は、朝鮮経由でなくても、直接、恒常的に入ってきていたのです。

幕府権力が確立し、朝鮮通信使を朝貢使に仕立てることで対外的な力関係を他の大名に見せつける必要がなくなれば、朝鮮通信使は無価値になりますから、朝鮮との外交を止めても良かったのです。
それは、朝鮮通信使の来歴をみれば分かります。江戸時代265年間に、朝鮮通信使の派遣は12回でした。そのうち半数の6回が1655年までの江戸時代初期の50年間に行われ、最後の1811年は江戸には来ず対馬止まりの来日でした。



1607年、 1617年、 1624年、 1636年、1643年、 1655年、 1682年、 1711年、 1719年、 1748年、 1764年、 1811年


1636年、第4回の朝鮮通信使が来日した頃には幕府権力が安定し、朝貢使の役をさせる朝鮮通信使の価値は低下し始め、先例として惰性で続けられたものの、1764年をもって朝鮮通信使は完全に無価値になり、その使命を終えました。


日本は、貿易によって対馬藩と貧乏な朝鮮を救うために、朝鮮と外交をしていたに過ぎないのです。

要するに、朝鮮通信使は、外交的に全く意味の無い国からやって来た、妙な音楽を演奏する窃盗団でした。








歴史投稿その5 「朝鮮通信使にいたずら」



朝鮮通信使の行列を描いた屏風には、祭り気分で行列を見物する庶民の姿を見ることができます。

屏風は、先の渡辺善右衛門が描いたような記録絵とは異なり、画家の想像をもとに描かれることが多いのですが、画家や当時の人々の朝鮮通信使に対する知識や意識を反映していると言えます。




若衆遊びで酒を飲みながら見物する破戒僧




通信使を棒で叩こうとする若者




『朝鮮通信使駿州行列屏風』


これは、『朝鮮通信使駿州行列屏風』で、1682年の使節を描いたものです。

見物に群がる庶民の様子が描かれています。

お約束の、笑い、指差しの他に、若衆遊びで酒を飲みながら見物する破戒僧、通信使を棒で叩こうとする若者の姿が描かれています。

残念ながら、カラー画像がないのですが、尼崎市教育委員会が管理していて、時に市の美術館で展示されるようなので、機会があれば見てみたいです。









朝鮮通信使と在日


図書館で「朝鮮通信使」関係の図書を検索すると、大半が在日の朝鮮韓国人の著作です。

1970年代から、在日の朝鮮韓国人の間で朝鮮通信使の研究が始まり、1988年のソウルオリンピックを契機に日韓友好の機運が高まったからでしょうか、1990年前後に朝鮮通信使ブームが起きました。

『今日は通信使ブームであり、多くの人たちがそれぞれの立場から、興味深く書いている。なかには、ちょっと首を傾げたくなる刊行物もある。ブームになると、華やかさばかりが強調されるらしい。』 (『近世の日本と朝鮮』三宅英利1993)

当時、研究において先行していた在日の朝鮮、韓国人たちが必死になって、朝鮮通信使の本を出しまくっていました。

それら在日の朝鮮、韓国人たちとは、辛基秀、李進熙、姜在彦で、特に中心となっていたのは、辛基秀です。辛基秀は学者ではなく、映像作家です。
(参考、日韓歴史共同研究委員会 第2分科(中近世) 第2部 韓国側報告 第1篇 研究史整理論文 『通信使研究の現況と課題』 張舜順 の脚注15)

どの本を読んでも一貫している彼らの主張は、次のとおりです。

1.朝鮮通信使は江戸時代における日韓友好の証である。

2.朝鮮通信使は、朝鮮の先進文化を日本に教えてあげた。

3.日本人は、朝鮮から来た人々を尊敬の念を持って熱狂的に歓迎した。

4.唐人行列や唐子踊りは、本来、朝鮮通信使に由来するもので、朝鮮通信使への感謝を示している。

5.唐人行列や唐子踊りが神功皇后の三韓征伐に由来するとの伝承は、明治時代に帝国主義的妄想から捏造されたものである。


朝鮮通信使ブームが起きると、普通の歴史学者が通信使研究に参入してきます。史料に裏づけされた研究によって、在日の朝鮮韓国人の研究はあっけなく無価値なものにされてしまいました。在日の朝鮮韓国人の研究者は、古文の理解が不十分な上に、「民族的自尊心」をもって曲解するので、文章に意味不明、矛盾が多く、読んでいて頭が痛くなることがしばしばです。

在日の朝鮮、韓国人の朝鮮通信使関連本は、歴史捏造本(トンデモ本)として、図書館の片隅で朽ち果てていく運命です。

めでたし、めでたし…

否、残念ながら、それで終わらないのが在日の朝鮮韓国人の執念です。

彼らは、著作活動のかたわら、祭り改変活動を行っていたのです。

上記の彼らの主張

4.唐人行列や唐子踊りは、本来、朝鮮通信使に由来するもので、朝鮮通信使への感謝を示している。

5.唐人行列や唐子踊りが神功皇后の三韓征伐に由来するとの伝承は、明治時代に帝国主義的妄想から捏造されたものである。

この主張より、日本各地に残る唐人行列、唐人踊りから、三韓征伐的要素を消去する作業を行っていたのです。


江戸時代には、多くの日本人は、神功皇后の三韓征伐を事実だと思っていました。

朝鮮通信使や琉球使節の行列を眼にした人々は、単にそれを真似るのではなく、そこに、自分たちが楽しくなる要素を加えて祭りの催し物にしたのです。従って、唐人行列、唐人踊りは、発生時には既に三韓征伐や秀吉の朝鮮出兵と結び付けられていたのです。 (『日韓中の交流』山川出版社)

ところが、在日の活動家たちは、「唐人行列や唐子踊りが神功皇后の三韓征伐に由来するとの伝承は、明治時代に帝国主義的妄想から捏造されたものである。日韓友好のために正しい姿に戻さなくてはならない」という嘘の主張を声高に述べることで、唐人行列や唐人踊りが残る地方の自治体に圧力をかけて、祭りの意味づけを変えていったのです。




李元植


『それでは、(隣国と善隣友好だった歴史が)いつごろからゆがんでいくかといいますと、だいたい幕末から明治始め にかけてのようです。』

『二十年近く前『李朝の通信使』を書いたときは、これだけ善隣友好の素晴らしい事実を、正反対に蔑視の手段として使うのがやりきれなくて、 まったくの素人が『李朝の通信使』を書きました。』

(『朝鮮通信使と日本人』学生社1992 21ページ)




辛基秀


『岡山県の牛窓では、昨年引退された前町長の新地勇さんがよく慨嘆しておられました。
牛窓では、若い人が出ていって、人口八千七百人となり高齢者が目立ちます。「古老たちは、どうして唐子踊りを神宮皇后の三韓征伐に結び付けて考えるのか。これを払拭するためにはどうしたらいいんでしょうか。相談に載って欲しい」というお話がありましたが、ご本人も7、8年前まではまったくその虜になっておられました。最近は朝鮮通信使、日韓交流に最も熱心になっておられます。歴史の見方が変わったのです。』

『かつて国際都市・外交都市であった牛窓は、山陽鉄道が通りだして、海の交通手段がさびれてしまうと、神功皇后の「三韓征伐」という神話に江戸時代の朝鮮通信使の置き土産が結び付けられ、歪曲されました。』

『神功皇后の亡霊をいかにして退治するかということで、新地さんに申し上げたのは、「ここだけ見ていたら、孤立してわからなくなるけれども、岡山からさらに足を延ばして三重県の津、鈴鹿、大垣の竹島町に残っている唐子踊り、唐人行列をずっとつないでいけば、 明治以降歪曲され、不都合な部分をぜんぶ隠し、秘密のベールに包んできた歴史の輪郭が見え始めるでしょう。通信使資料館をつくったり、シンポジウムを開いて、一同に会する機会をもってはどうでしょう」ということです。』

(『朝鮮通信使と日本人』学生社1992 146ページから147ページ)





牛窓の唐子踊りの2人の唐子は、神功皇后の三韓征伐の際、連れて来た新羅の王子だという伝承がありました。

江戸時代に、既に、そういう伝承のもとに唐子踊りは行われていたのです。

ところが、辛基秀氏が、歴史に疎い愚かな老人、新地勇氏に、「唐子踊りが神功皇后の三韓征伐に由来するとの伝承は、明治時代に帝国主義的妄想から捏造されたもので、日韓友好のためには正しい姿に戻さなくてはならない」と言って騙し、ついに、公式の解説から、三韓征伐の伝承を削除させたのです。

確かに、牛窓の唐子踊りの起源は歴史学的に見て「神功皇后の三韓征伐」にあるのではないでしょう。しかし、だからといって伝承を切り捨てていいのでしょうか。
牛窓の唐子踊りは「神功皇后の三韓征伐」という伝承と一体になってこそ、牛窓の伝統文化だと思います。伝承を捨ててしまった唐子踊りは、江戸時代から続いてきた唐子踊りではありません。

今では、唐子踊りを踊るの2人の子供たちは、自分たちが何の役で何のために踊るのか知らされないまま、「朝鮮通信使から教えてもらった踊り」という嘘の説明を受け、唐子踊りを踊らされているのです。



唐子踊りの「意味」が消滅したのです。


ボシタ祭りの「名前」が消え、

唐子踊りの「意味」が消え、

そして、四天王寺ワッソが生まれる。

これらは、一連の「活動」の成果なのです。





filippa_jさん 11-12 23:53

面白い投稿だとは思いますが 2枚目の画像についての説明は 絵から読み取れる内容と大きく違うと思いますよ。 若者が棒で脅している相手は 通信使の右の 小者に見えます。
どうせなら別の 画像で説明を行った方が 良かったのでは ないですか?




その部分は、『歴史を読みなおす 行列と見世物』 朝日新聞社 からの引用です。
小者を脅すようにも見えますが、とばっちりを避けようとしている風にも見えます。
小者を脅す意味がどこにあるのかという点を考えると答えは明らかだと思います。








以下、韓国の人たちから、朝鮮通信使殺害事件の史料などを示して欲しいとのことでしたので、参考資料も含めて整理しておきます。

朝鮮通信使殺害事件の参考資料一覧

朝鮮通信使殺害事件 前編
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&page=9&nid=72538

1 朝鮮通信使が鶏を盗んだ事件。

1748年、朝鮮通信使の接待役、淀藩の家老、渡辺善右衛門が書いた『朝鮮の人来聘記』 付図『朝鮮聘礼使淀城着来図』(『日韓中の交流』 山川出版社)

2 朝鮮通信使に対する過剰な接待。

『江戸時代を「探検」する』 山本博文 新潮社

3 幕府が朝鮮通信使を「朝貢使」として大名や民衆に見せていたこと。

朝鮮通信使、従事官、李景稷が書いた『扶桑録』に、幕府が朝鮮通信使に「四拝礼」を強制したことが記述されている。

「四拝礼」とは、服従を誓う朝貢の様式である。

朝鮮通信使、正使、趙?が書いた『海槎日記』、金仁謙の『日東壮遊歌』にも、幕府が朝鮮通信使に四拝礼を強制した記述がある。

(『近世の日本と朝鮮』三宅英利 講談社、『日東壮遊歌』金仁謙 平凡社)
日韓歴史共同研究委員会 第2分科(中近世) 第2部 韓国側報告 第1篇 研究史整理論文 『通信使研究の現況と課題』 張舜順 の本文および、脚注46

「近世の日朝関係」荒野泰典『日朝関係史を考える』青木書店1989

4 日本の民衆が朝鮮通信使を朝貢使として見ていたこと。

リチャード・コックス(Richard Cocks)の日記 (「近世の日朝関係」荒野泰典『日朝関係史を考える』青木書店1989)

江戸時代に発行された多数の朝鮮通信使見物用ガイドブックにおける記述

黄表紙



朝鮮通信使殺害事件 後編
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&page=9&nid=72539

1 朝鮮通信使が夜具を盗んでいたこと。不良行為。

『江戸時代を「探検」する』 山本博文 新潮社

朝鮮王、英祖が戒論の中で、朝鮮通信使使節団に対し、「潜売、飲酒、強慢、不敬」を指摘する。(『近世の日本と朝鮮』 三宅英利 講談社)

2 朝鮮通信使は猫が大好物という噂

『日韓中の交流』 山川出版社

3 朝鮮通信使殺害の経緯

『鈴木伝蔵取調書』(宗家記録 慶応義塾図書館蔵)(『近世の日本と朝鮮』 三宅英利 講談社、『江戸時代を「探検」する』 山本博文 新潮社)

先頭へもどる