190.【こ】 『紺屋(こうや)の白袴(しろばかま・しらばかま)』 (2003/07/22)
『紺屋(こうや・こんや)の白袴』
布を紺色に染めるのを仕事とする紺屋が、自分の袴も染めないで、白袴を穿(は)いているということ。
1.他人のためにばかり忙しく、自分のことには手が回らないこと。
2.いつでもできるにも拘(かか)わらず、放置しておくようなことを指摘する言葉。
類:●医者の不養生髪結いの乱れ髪●坊主の不信心●儒者の不身持ち
★一説に、染色の液を扱いながら、自分のはいている白袴にしみ一つつけないという職人の意気を表したことばであるとする。<国語大辞典(小学館)>
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「梅雨時って、傘貼りには忙(いそが)しい時期なのよね」と言っておきながら、お咲は「だるま」に毎晩顔を出していた。
お咲が来るたびに、お夏は熊五郎の顔を見て、にっと笑うのだった。

>咲:ねえ、ぐずぐずしてないで、勘定組頭の家を見に行きましょうよ。
>熊:そう慌(あわ)てるなって。・・・それより、伝六には報せてあるんだろうな?
>咲:当たり前じゃない。只働(ただばたら)きなんかご免だもんね。
>熊:そういう理由かよ。
>咲:他にどんな理由があるって言うの?
>熊:危ないからに決まってんじゃねえか。娘がやることじゃねえんだからな。
>咲:その点は平気よ。こう見えても逃げ足は速いんだから。
>夏:それに、熊お兄ちゃんが一緒だもん、とっても安心よねえ?
>咲:どうかしら? 却(かえ)って邪魔かもね。
>熊:あのなあ・・・

>八:そんなことより、組頭と吟味役の素性(すじょう)ってのは分かったのか?
>夏:あ、それ、あたしが聞いといたわ。林田って人と、亘理(わたり)って人。駿河台小川町の方に住んでるんだって。
>八:凄(すげ)えな、お夏ちゃん。どうやって調べたんだい?
>咲:馬鹿ね、八つぁん。お夏ちゃんの兄上に決まってるじゃないの。ねえ?
>夏:違うわよ。兄上に聞いたりなんかしたら、変に勘繰られちゃうじゃない。そうじゃなくたって、父上からここの手伝いを辞めなさいって言われてるんだから。
>八:そんなこと言われてるのか? ・・・でも、辞めたりしないよな? な?
>夏:少なくとも秋頃まではね。
>八:その先は?
>夏:さあ。どうなることやら。
>八:続けて呉れよな。後生(ごしょう)だから、ずっと続けて呉れよ。
>咲:八つぁん、女々しいこと言わないの。いなくなっちゃう訳じゃあるまいし。
>夏:あら、いなくなっちゃうかもよ。・・・へへ。

お夏は、ちょっとだけ、寂しそうな顔をした。
八兵衛は泣きそうな顔になった。

>夏:そんなことより、詳しく知りたくないの、2人のお屋敷のこと?
>熊:おう、そうだったな。駿河台小川町だったっけな。ちょいと遠いな。
>夏:長い道程(みちのり)も2人で行けば近いもの、なんてね。
>熊:止(よ)せってんだ。
>夏:お屋敷の場所もちゃんと書き付けてあるわよ。
>咲:抜かりがないわね。誰に調べさせたの?
>夏:へへ。鴨太郎さん。・・・半端役人の割には、結構役に立つのよね。
>熊:お前ぇ、太市の旦那の返事も待たねえで、勝手に
手を回しやがったな?
>夏:良いじゃないの。順番がどうだって、結果がおんなじなら良いのよ。それに、鴨太郎さんなら、兄上や父上に告げ口したりしないもんね。
>熊:あいつだって、お役目ってもんがあるんだぞ。こっちの都合だけで、引っ張り回したりしちゃ駄目じゃねえか。
>夏:暇そうにしてたわよ。番所で鼻毛なんか抜いてたんだから。

>熊:それにしたってなあ。・・・番所には他の役人とか番太郎とかもいたんだろう?
>夏:大丈夫よ。みんな、花札をしてたから、こっちの話なんか聞いちゃいなかったわ。
>熊:なんだと、番所で花札だあ? 鴨太郎の奴は黙って見てたのか?
>夏:何か考え事してたみたい。でも、「銭を賭けてる訳じゃないから構わねえだろ」だって。
>熊:どうかしちまってるんじゃねえのか? いくらお役目のことを考えてるにしたって、番所の中で花札なんかしてたら、どやし付けてやらなくちゃ駄目じゃねえか。
>夏:それは立派なお役人様のことでしょ? 鴨太郎さんなんだもの。半端役人らしいじゃない。
>熊:まったく、お夏坊に庇(かば)われてりゃ世話がねえな。・・・それで?
>夏:鴨太郎さんも日頃から気になっていたらしいのよね、その林田主税(もんど)って人のこと。でも、自分のお役目ではとても手を出せる相手じゃないもんだからって、焦(じ)れてたみたいなの。
>熊:真逆(まさか)、考え事ってのは、当の林田って奴のことだった訳じゃねえだろうな?
>夏:真逆。あたしには「口が裂けても言えないようなこと」だってさ。
>熊:なんだ、そういうことか。
>夏:そういうことって?
>熊:なんでもねえよ。・・・ま、そういうことなら、この際、どっぷりと関わらせてやった方が良いかな。
>夏:ん? どういうこと?

怪訝(けげん)そうに首を傾(かし)げたお夏であったが、熊五郎から催促(さいそく)されて、袖(そで)から鴨太郎が書いたという地図を取り出し、卓に広げた。
牛込箪笥町(たんすまち)からでは、確かに遠い。夜の行動を追うとなると、お咲を六之進のところへ連れ戻す刻限が、相当遅くなってしまう。

>熊:こりゃあ、やっぱり、おいらと伝六の2人でやった方が良さそうだな。
>咲:どうしてよ。あたしじゃ頼りないって訳?
>熊:そうじゃねえよ。ことに拠(よ)っちゃ、夜の日本橋辺りへの遠出になるかも知れねえんだぞ。
>咲:夜の足取りを追うこと以外にだって、やれることはあるでしょ?
>熊:例えば、どんなだ?
>咲:馴染(なじ)みの棒手(ぼて)振りの人に話を聞くとか、井戸端にいるお内儀(ないぎ)さんたちにそれとなく当たってみるとか、下働きしてる人にお小遣いを握らせるとかよ。
>熊:そんなこと、おいらにやらせようってのか?
>咲:当たり前じゃないの。大工の半纏(はんてん)を着てたら、怪しまれないで済むしね。案外良い働きができるかもしれないわよ、熊さん。
>八:おいらもそう思うぜ。なんなら、与太郎に言って、野菜売りの道具一式借りてやっても良いぜ。きっと似合うに違(ちげ)えねえ。
>熊:手前ぇ、面白がってやがるな?
>八:いっそのこと、お咲坊共々、伝六の手下の下引(したっぴ)きになっちまえば良い。後もことはおいらに任せて、心置きなく野菜売りにでもなんでもなっちまえば良い。
>熊:手前ぇんとこの軒(のき)の雨漏りも直せねえようなぐうたらになんか、任せられるかってんだ。
>八:お、言いやがったな? おいらだってな、飲まねえで真っ直ぐ帰ってりゃ、ちょちょいのちょいでやっつけちまわい。見ていやがれ、お前ぇとお咲坊が駿河台に行ってる間に向こう三軒両隣、ぜーんぶ直してやらあ。
>熊:そんなこと言って、おいらがいなくても飲んだくれるのが落ちだろう? お前ぇが真っ直ぐ帰れる日なんか待ってたら、梅雨(つゆ)どころか秋の長雨まで明けちまうだろうよ。

「まあまあそれくらいにしてよ」とお夏が割って入らなかったら、騒ぎになってしまっていたかも知れない。
何しろ、すぐそこまでしょぼくれて歩いてきた坂田太市が、何事かと駆け込んできたのだから。

>太:八つぁん、熊さん、仲間割れはいけません。お止(や)めなさい。世の中には、仲間割れほど効率の悪いものはないのですぞ。
>八:おや? 太市の旦那じゃあありやせんか? どうしたんです、そんなに泡を食っちまって?
>熊:もう7日目ですぜ。一体どうしちまってたんでやすか?
>太:え? お2人は今、喧嘩をしてたんじゃなかったんですか?
>八:喧嘩でやすか? とんでもねえ。唯の酒飲み話をしてただけですって。なあ?
>熊:お騒がせしちまいましたか? でも、ほんとにいつものことなんです。ほら、他の客たちの面(つら)を見てくださいまし。おいらたちのことより、血相を変えて入ってきた旦那の方に驚いてるでしょう?
>太:そ、そうでしたか。これは、申し訳ありません。・・・でもまあ、そういうことでしたら言うことなしですな。
>八:何が「言うことなし」ですか、太市の旦那。一体何日待たせりゃ気が済むってんですか。
>太:そ、そのことなのですが、まったく思うように進みませんで・・・
>八:2、3日で話が付くって言ってたんじゃなかったですかい?
>太:それが、てんで話にならなかったのです。
>八:竹上がですかい、他の奴がですかい?
>太:どいつもこいつもとはこのことを言うのです。誰一人として賛同して呉れる者はいませんでした。どうなってしまったのでしょうかね、この国は。

太市の説明によると、断り方は、大雑把に3つに分かれるという。
ある者は若年寄怖さのため。ある者は自分の保身のため。そして残りの大多数は、現状を変えるのが面倒だからという消極さのために、である。

>八:なんですかい、そりゃ? お国を良くしようって役人は、1人もいねえんですか?
>太:情けないことですが、1人もいませんでした。
>八:あーあ。やんなっちまうな。役人ってのは、国を良くしていくのが本分なんじゃねえんですかい? それを、自分らはなんにもしねえで、人任せでやすか?
>太:人任せならまだ可愛いものです。悪い慣習を変えようとしないのですから、言ってみれば、半分以上が悪事に荷担(かたん)していることになる訳です。
>八:そんなんじゃ、景気はいつんなったって良くなる訳ねえじゃねえですか。
>太:「長いものには巻かれろ」というのを、確かにこの目で見たきた思いです。
>八:そんでもって、その長いもんってのが、若年寄でやすか。・・・あーあ、またここで行き止まりかよ。
>五六:力を持ってでっかくなる一方の奴がいると、残りのもんは縮んでいく一方になっちまう。そんな絡繰(からく)りになっちまってるんでやすね?
>太:そういうことです。・・・どうやら、なるようになるのを、唯々、見守っているしかないようです。

>夏:まったく、お役人たちって駄目ねえ。・・・こうなったら、あたしらが頑張るしかないんじゃない?
>咲:賛成ぇー。
>太:しかし・・・
>夏:坂田様は見なかったことにして呉れていれば良いんです。あたしたちで、ちょっとだけ人騒がせなことをしてきますから、それを取り沙汰して、良しなに片付けてくだされば良いです。
>太:人騒がせなこととは?
>夏:
蓋(ふた)を開けてのお楽しみ。
>咲:賛成ぇーっ。
つづく