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黒田家遺跡発掘と播磨の旧記 5  Back    Next 



  第二章 御着墓所の発見と廟所建設 (承前)

 (3)福岡黒田家の逡巡と遅延

 黒田美作からの書状が心光寺へ来て、その後半年ほど、なしのつぶてであったらしい。
 天川家書留帳によれば、翌寛政六年(1794)三月になって黒田家大坂蔵屋敷から書状がきた。それによれば、黒田家から役人を派遣して調査をすべきなのだが、昨年主君が福岡へ入部して以後きわめて多忙であり、しかもこのたび江戸屋敷が類焼して、罹災復興に追われているので、しばらく待ってほしいとのことである(三月七日付天川久兵衛宛大坂蔵屋敷花房久七・皆田藤七郎書状)。
 この江戸屋敷類焼とあるのは、寛政六年正月の江戸大火のことらしい。この大火について他家の記録をみれば、盛岡南部家の家臣であった市原篤焉の『篤焉家訓』(十之巻)には、
《正月十日昼四ツ時、西風はげしく石砂を吹散し候程の大風にて、火元麹町五丁目秋田屋より出火す。段々焼抜、永田馬場、霞ヶ関、外桜田、新橋、久保丁、幸橋、見付ばかり類焼、御番所は焼残り、二葉丁より本町、本丁通へ焼出し、芝口二丁目より源助丁にて焼留り、日影店宇田川にて止る。愛宕下は稲葉様の御屋敷にてこの筋の火留る。それより芝口の方へ焼抜、総体に御大名様方一万石已上ばかり四十五カ所御類焼と申す事に候。御上屋鋪は、黒田様、安芸様よりの火にて、小笠原様へ移り、昼七ツ時に至りこの方様も御類焼す》
とある。この日午前十時ころ麹町五丁目から出火して、はげしい西風にあおられ、江戸城の南部はあらかた焼けたらしく、諸大名の江戸屋敷、四十五ヶ所が類焼した。ここに黒田様とあるのは筑前福岡の黒田家、安芸様とあるのは安芸広島の浅野家、小笠原様とあるのは豊前小倉の小笠原家である。外桜田にあった黒田家江戸屋敷もこの大火で類焼し、建物はほぼ全焼したらしい(黒田新續家譜 巻之四十二)。
 上述のように大坂蔵屋敷から天川久兵衛への通知があったのだが、正月の大火で、この三月の書状だから、たしかに黒田家中もまだ混乱の最中であろう。上記の天川家書留帳の記録によれば、《當時ハ及延引候之間、先宜及御挨拶置候様、役人共より申越候。此段爲可得御意、如斯御座候》、つまり、さしあたり墓の調査は延期するので、そちらへよろしく挨拶しておくよう、役人たちから言ってきた。これを了承してもらいたいというわけである。
 その後ひと月ほどして、心光寺にも大坂蔵屋敷から書状(四月十一日付)が来て、主人多用で、また江戸屋敷類焼もあり、調査が延引しているが、近々役人たちが調査に派遣されるはずなので、天川家へも伝えてもらいたいとのことである。ところが、この後も黒田家からは見分役人派遣の動きはなかった。
 八月は職隆の命日があるので、例年大坂蔵屋敷から代香の役人が派遣されてくる。八月二十一日、大坂留守居役の杉山清太夫が、妻鹿村の職隆廟所代参の帰りに御着へ立ち寄った。心光寺入誉も同道である。杉山が言うには、筑前守は長崎御番で忙しいが、この度の参覲の前後には、役人たちが出張してくるのでよろしく、とのことであった。それで、秋の江戸出府のころかと思って待っていると、なおまた役人が来そうにない。ようするに、このあたりから、黒田家の逡巡が目立つようになってくるのである。
 そのうち十一月中旬になって十五日、姫路の国府寺家から使いの者が天川家へ来て、黒田家の家臣、牛尾と長井の両名が、有馬入湯のついでに、ごく内分で御着廟所を見分したいと言っているので、よろしくねがいたいとのことである。「ごく内分」とはいっても、役所に通報しないわけにはいかない。それで早速、天川家はこの旨を代官所と寺社奉行所へ届け出て、墓を見せる許可を得た。
 翌日、牛尾と長井両人と供の者一人が来て、天川久兵衛方に宿泊することになった。十六日の晩方、墓所をすみずみまで見分し、十七日も墓所を調べて石蓋の銘文を写した。十八日早朝は佐土の心光寺跡を見分した。この件は十九日に天川家から代官所へ委細報告している。
 この牛尾と長井の両名が御着天川家に数日宿泊して現地調査したという件については、奇妙なことがある。それは、かれらが「有馬入湯のついでに、ごく内分で」調査したということである。つまり、「有馬入湯のついで」とはいささかふざけた話だが、黒田家側にしては、あくまでも非公式の調査にしたかったのである。これはむろん奇妙な言い分である。
 この寛政六年十一月の内分調査については、『黒田新續家譜』(巻之四十四)に記事がある。それによれば、古事に博識な牛尾辰之丞に、側筒・喜多岡勇平を付添わせて、播磨へ派遣したようである。彼らは御着の天川家へ行く前に、播磨のあちこちを廻って調査したとあるが、そうした記録は播磨側にはない。第一、この件で彼らが知っている場所といえば、心光寺と、それに十年まえに建設された妻鹿村の職隆廟以外にありそうにない。
 おそらく彼らは、まず姫路の国府寺家へ行って、領主酒井家の役所の許可を得る仲介を依頼し、そうして国府寺家の手配にしたがって、先に心光寺と妻鹿村を廻ったのであろう。《兩人其國を廻りて諸人に問糺し》とは誇張がある話である。その上で、御着の天川家へ行って同家に泊まり、その屋敷内にある墓所を調査したのである。墓所は酒井家が封鎖保全しているかたちなので、天川家では、彼らに墓をあばいて見させるために、郡奉行と寺社奉行に改めて許可を求め、また彼らが帰った後、この一件の報告書を提出したのである。
 しかし、奇妙なのは、前述の通り、福岡黒田家から派遣されてきた彼らの調査の意味づけである。つまり、これがあくまでも「ごく内分」の非公式の調査だというわけである。なぜ、わざわざそんな非公式であることを強調しなければならなかったのか。
 上記の『黒田新續家譜』によれば、そんな非公式の調査だと記してはいない。御着の墓については、家中に疑う者が出ているので、古事に知識のある牛尾を選んで派遣したということである。したがって、家中の疑念を掃うのに非公式調査ということはありえない。真偽いづれかを決することが調査の目的なのだから、非公式調査という意味づけは無用である。
 しかし、御着で調査した牛尾らが、これは有馬入湯のついでに立ち寄っただけで、あくまでも私的な調査だと強調したとすれば、それは、この調査によっても家中の結論は早急には出るまい、ということのようである。ただし、これは牛尾らの独断で調査の非公式性を強調したのではなく、派遣調査を命じた家老衆から「そう言っておいてくれ」と言い含められていたのであろう。
 これが正式調査なら結論は速やかに出るし、また出さなければならない。制札まで立てて墓の現状を保全している姫路酒井家への体面もある。それを非公式な調査だということにすれば、時間が稼げるかもしれない。しかし、それは黒田家側の都合にすぎない。姫路酒井家の家中では、黒田家は一体何をやっているのかと、おそらく物笑いの種になっていたであろう。
 『黒田新續家譜』をみるかぎり、このときの牛尾辰之丞の調査結果は決してネガティヴなものではなかった。しかし、それでも家中では、《然れどもいまだ眞偽決しがたく》というわけで、牛尾の調査にもかかわらず、これまた結論が出ないまま問題の処理は先送りされた。天川家書留帳には、この後四年、記録がない。
 他方『黒田新續家譜』(同前)によれば、寛政六年から二年後の寛政八年(1796)に、牛尾らが再度播磨へ派遣されたらしい。
 牛尾は姫路心光寺へ来て、入誉に質疑状の条々を示して疑問点を質し、入誉はそれに書面で回答を呈したらしい。牛尾はそれを福岡へ持ち帰って提出し、この通りですと報告した。これによって、御着の廟所を建設し、先祖の墓として祭ることに決定し、姫路の領主酒井家に通告して、云々という話である。
 しかし、天川家の書留帳にはこの寛政八年の牛尾による調査に関する記録がない。したがって、播磨側では裏づけが取れない。寛政八年の何月何日のことなのか、それも不明である。もし『黒田新續家譜』の記事が本当なら、このとき牛尾は、姫路の心光寺へは行ったが、御着の現場には来なかったということになる。心光寺入誉との間の質疑応答だけで事を済ましたのであろう。これも牛尾の行動に疑問の残るところである。
 けれども、もっと奇妙なのは上記の『黒田新續家譜』の記述である。というのも、寛政八年の牛尾による調査結果にもとづいて、御着廟所の建設が決まったように書いているが、その後も黒田家には何の動きもないからである。そうして、寛政八年はもちろん、翌寛政九年も、天川家書留帳の記録は空白である。
 つまり、寛政八年の牛尾の再調査によって御着廟所の建設が決定し、姫路の酒井家へ通告して云々、ということは、実際にはなかったのである。この点、『黒田新續家譜』の記録には明らかに誤りがあると言わねばならない。福岡ではなおまだ疑念が晴れず、黒田家では依然として逡巡を続けていたのである。
 この一件につき、天川家書留帳に黒田家の動きが見えるのは、ようやく寛政十年(1798)になってからである。前に「この後四年空白」と述べたのは、寛政六年十一月の牛尾らの御着調査以後、天川家書留帳には記録がないからである。
 しかし、その寛政十年にしても、天川家書留帳に記録があるのは一件のみである。すなわち、この年、冬になって十一月二十五日、黒田家の大音中が大坂からの帰りがけに、御着へ立ち寄り、墓所を見分したという。
 この件は、『黒田新續家譜』(同前)にも記事があって、《同十年、大音中[裏判]を御着に寄せて検視せしめ》というから、天川家書留帳の記録と符合する。裏判役というから、大坂蔵屋敷の財務を担任したようだが、大音はその任務を終えて福岡へ帰る途中、御着へ立ち寄ったのである。
 これは、見分、検視というから、この一件はまだ調査中という段階にとどまる。それゆえ、事はそれだけで、黒田家には依然として具体的な動きはない。そのまま放置された格好で、翌寛政十一年もなしのつぶてである。
 寛政十二年(1800)、八月二十二日、職隆廟代参の帰りであろう、大坂蔵屋敷の関谷十左衛門が御着天川家へ立ち寄り、墓所を参詣して、御意口上を聞かせた。だが、その口上には具体的な話はなかったようである。
 それからひと月ほどして、九月二十七日、黒田家中の花房又助という者が天川家へ突然やって来た。あいにく亭主不在のため、書置をのこして帰った。その内容は、――黒田家先祖の墓所建設について姫路表(酒井家)と協議しているところである。今度、参府(江戸参覲)のため主君が当地を通行するが、まだ墓所を設けていないので、恐れながら代参なども御着墓所へ派遣されないので、承知されたい、とのことである。
 これは参覲上府の行路としてしばしばそうしたように、九州から海路播州室津まで来て、そこで上陸して、姫路を通り大坂へ向うということであろう。これだと、まさに黒田家当主は御着を通るのである。しかし、先祖の墓所の前を通るのに、何もしない、代参すら出さないのである。そのための断りを天川家へいれたということである。
 その筑前太守たる黒田家当主・斉清(なりきよ 1795〜1851)は寛政七年生れ、一歳に満たない乳児が黒田家の家督を相続して、当時六歳の文字通りの幼主、これがはじめての江戸上府の旅である。むろんこの幼童が自分の意思で代参すら出さないということではない。これは家中重臣らの合議評定である。つまり、御着の墓所については、まだ真墓だと判定できていないから、こういう措置になったのである。
 九月二十八日、当主一行は姫路を通るとき、姫路本陣・国府寺家で休憩した。そのとき、天川久兵衛は鯛二枚を献上しようとしたが、受け取られなかった。先祖の墓を屋敷内にもつ天川家に対して、まことに無礼なあしらいであろう。だがこれも、家中の世論が、真偽いづれとも、この段階でも決していなかったからである。
 ところで、心光寺入誉が墓を掘り当てて以来すでに七年である。これほどまでの逡巡は、いかなることであろうか。家中にいかなる疑念があったのか、それは後述のことにして、ここでは、この御着墓所の件で――前回の妻鹿村職隆廟所のケースとは逆に――黒田家が延々逡巡の過程をたどったという事実を確認しておきたい。



*【天川家書留帳】
《追而役人等も差越可被遣詮議候得共、筑前殿入部以後別而多用、其上、此節江戸屋敷致類焼、其取紛候時節之儀ニ付、追而御掛合申述ニ而可有御座候。當時ハ及延引候之間、先宜及御挨拶置候様、役人共より申越候。此段爲可得御意、如斯御座候》(大坂蔵屋敷花房久七・皆田藤七郎より天川久兵衛宛書状 三月七日付)


筑波大学附属図書館蔵
黒田家江戸屋敷(松平筑前守)
分間江戸大絵図












黒田家墓所関係地図










*【黒田新續家譜】
《或は疑者もありしかバ、同六年また牛尾辰之丞[馬廻組、牛尾源三子]が古事に博識なるを遣し、側筒[喜多岡勇平]を副られ、播磨に趣かせ給ひしかバ、兩人其國を廻りて諸人に問糺したる上にて、御着に徃き、再び發て視しに、其蓋となりし石は白赤色にて其文字も二百年前の筆跡と見えて古雅也。瓶も備前焼の如く赤くして綿密なり。又里人に聞に疑しからず。誌文の天川郭内とハ、此地は昔小寺氏の城にて、重隆の墳に近き處に堀の跡も存せり。泰譽は心光寺第二世にて、心光寺もと佐土村梨原寺の廢跡を取建たる也。天川城も、小寺氏落去し、後に職隆住給ひしにや。墳の存せる地は黒田御部屋跡と言傳たるのミにて、書しるせしものハなしといひしかバ、歸國して其旨を言上す。然れどもいまだ眞偽決しがたく…》(巻之四十四)

























*【黒田新續家譜】
《…然れどもいまだ眞僞決しがたく、寛政八年再び辰之丞、勇平、命をうけて播磨に趣き、條書を以て心光寺僧入譽に疑しき件々を問究しに、條毎に考案をしるして呈せしかバ、辰之丞、歸來て是を獻、相違なしとぞ申ける。是に依て墓を築き祭を修らるべしと評定し、其地の領主酒井雅樂頭忠道に告て》(巻之四十四)

















*【寛政八年以後の経緯】
寛政八年(1796)
 牛尾辰之丞らの再調査
寛政九年(1797)
  (記録なし)
寛政十年(1798)
 十一月二十五日、大音中現地見分
寛政十一年(1799)
  (記録なし)




*【天川家書留帳】
《大坂御蔵屋敷関谷十左衛門様御立寄、御墓所御參詣。其場ニ而何歟御尋被成、御意御口上被仰聞候》(書留 八月廿二日)

*【同前】
《御着駅天川久兵衛宅江(花房又助)立寄、左ノ通演述、
官兵衛先祖之墓地相知、墓所取建之儀、姫路表被及掛合事候。今度爲參府通行之儀ニ候得共、未墓所取建も無之ニ付、此節迄乍恐代參も不被差越候。此段爲承知相達候》(書留 九月廿七日)
 (4)御着廟所の建設

 寛政十二年秋、当主は代参も出さずに御着を素通りしたのだが、黒田家側のやや具体的な動きがあったのは、その翌年享和元年(1801)のことである。
 天川家書留帳によれば、享和元年八月になって、同月五日付の天川久兵衛宛書状が大坂蔵屋敷から届いた。つまり、姫路酒井家と協議して、墓所の囲いを設けることについて了承を得たと、江戸表から連絡があった。追ってそちらへ役人を派遣すると、国許福岡から言ってきたので承知されたし、という内容である。
 天川家は、八月十一日に大坂蔵屋敷へ了承したとの返書を送り、姫路酒井家の代官所(郡奉行)と宗門奉行所(寺社奉行)へは、黒田家からこんな書状が来たと写しを添えて届出た。
 これは黒田家側が囲いを設けたいということなので、墓所に塀を建設するということである。上屋の話はないから、妻鹿村の職隆廟所のような計画ではなさそうである。それに注意したい。ただ、姫路酒井家と交渉してこの件の承認を得たというわけだから、これまでのプロセスからすれば、やっと具体的な動きが出始めたということである。
 ところが、この年はそういう事だけで、福岡から役人が派遣されてくるというようなことはなかった。まだ何か、制止の動きが家中に残っていたものと見える。
 では、心光寺入誉はこの頃どうしていただろうか。入誉は翌享和二年(1802)に死去している。これは、平成二十四年秋、現在の姫路心光寺で代々住職の過去帳を閲覧する機会があって、そのときはじめて確認できたのであるが、「当山十四世」「深蓮社入誉上人正阿愚念和尚」とある入誉の卒年月日は、享和二年(1802)五月七日であった。つまり入誉は、御着廟所の建設がどうなるか、知らぬままに死去したのである。
 しかるに、その享和二年の入誉死去の翌月になって、六月十二日、福岡から池野平九郎と岩崎多兵衛という者が天川家へ来て、伊藤源右衛門の書状(五月二十六日付)を手渡した。内容は、当家(黒田家)の古墳を今般修補するので、作事方小頭・池野平九郎を派遣する。そちらへ着いたらよろしくたのむ。委細は同人から申し述べるということである。天川家は、福岡から池野らが来てこんな書状を持参したと、代官所と寺社奉行所へ届け出た。
 伊藤源右衛門は作事奉行であり、普請方の池野と岩崎をまず派遣してきたのである。池野らは天川家に宿泊したものであろう。翌十三日には墓所とその周囲を調査し、御着の村方まで見て廻った。さらに十四日には、明田村から海辺の木場村まで調査をした。
 これは資材搬入経路の下見だったらしい。妻鹿村と違って、御着は海から距離がある。八家川を使って木場村から明田村まで輸送し、そこで陸揚げして搬送するようである。これは福岡ですでにある程度まで工事計画が練られていたことを意味する。十六日には石材調達のため魚橋村の石切場へ下見に行っている。池野らはこうした現地調査にもとづいて計画図面を作成し、十七日には、酒井家の代官(郡奉行)利根川彦兵衛に会い、工事絵図を直接手渡した。
 かくして調査を終えた池野らは、十八日朝出発、帰路につく。天川屋は彼らを室津まで見送った。翌六月十九日、この件の報告書を代官所へ提出、黒田家の作事方小頭・池野平九郎、岩崎多兵衛両人が、当地各所を調査したこと、来月下旬か八月に入るあたり、福岡から喜多村彌次右衛門、伊藤源右衛門が来る予定だと報告した。
 しばらくして、九月になって大坂蔵屋敷から天川久兵衛へ書状(九月十一日付)が届いた。廟所建設のため役人たちを派遣すると、国許から連絡があったので、よろしく取計らいねがいたいとのことである。そして日をおかず、池野が大工頭らを連れて御着に到着した。
 ここからは早いもので、天川家書留帳によれば、九月二十二日、池野と大工頭・木本らが、本郷村、木場村、妻鹿村をまわり、以降、工事のための調査と段取りを進めた。十月四日に総責任者の喜多村彌次右衛門が到着、五日には工監の作事奉行伊藤源右衛門も到着した。
 そして十月八日、現場にて法要。これは心光寺住職の立会いのもとに、骨壷を取り出して洗浄し、妻鹿の職隆廟所と同じく石槨を設け埋め戻して整地したものであろう。『黒田新續家譜』(同前)は十月五日着工とするが、その日は伊藤源右衛門が到着した当日であるから、五日着工はありえない。心光寺住職が読経勤行して法要を行ったのであろうから、法要のあったこの八日が起工式ということである。
 この御着廟所に関して、『播州妻鹿村御塔記』と『播磨古事』には、職隆廟所のケースのような工事の具体的な記録はない。他の資料が出るのを期待するところであるが、ここはとりあえず、『黒田新續家譜』(巻之四十四)の記事によれば、――享和二年、喜多村彌次右衛門安義(用聞)、伊藤源右衛門勝好(普請奉行)、中西茂十郎安貞(買物奉行)等を派遣し、筑前国産の木石を運び、国人の工匠を使って、十月五日起工。重隆と長壽大姉の墓を、石槨を設け元のまゝに封じ、儒者嶋村夘八撰文、大文字役横田久平書の墓誌を納め、五輪石塔(銘は書家二川幸之進書)を建て、板屋を造営してその上を蓋い、石の垣を廻らして門を設け、その前に石燈籠を並べた。十一月十二日に成就――ということなのである。
 この墓所にはもともと石塔はなかったので、骨壷を埋めた上に新しく五輪塔二基を建てた。これが現在も御着廟所にあるものだとすれば、二つとも小ぶりな同形の五輪塔である。
 そうして、石塔を覆う上屋を建設した。これは板屋というから、妻鹿村の職隆廟と同じ仕様である。石の垣を廻らし門を設て、とあるのは、外郭の石塀のことだろうが、むろんその内には石の玉垣がある。《國産の木石を運び、國人の工匠を役し》とあるから、職隆廟と同様に、材木と石材を筑前から輸送したようだが、どの部位のものが筑前から運んだ材料なのか、記述の範囲では特定できない。
 ただし『播磨古事』には、《改葬之節、碑銘之通、石ハ魚橋と云所の石也》とある。この「魚橋」は、筑前ではなく播磨の、印南郡魚橋村(現・高砂市阿弥陀町)のことであろうから、いづれにしても『黒田新續家譜』の記事は話半分にして読む必要がある。
 石燈籠は、これも職隆廟と同じ要領で、建て並べたものらしい。『黒田家譜』だと門前に石燈籠を列ねたとある。石燈籠は玉垣の前に建てるから、少なくとも一対は門内である。家老衆と一門衆による石燈籠は門前に配置したのかもしれない。街道から門前まで参道を設けたようすだが、具体的なことは知れない。
 なお石燈籠について云えば、『黒田家譜』だと、《家老、筋目の人々よりも石燈臺三對を[一對ハ黒田源左衛門一定、一對ハ大音伊織厚通、一對ハ黒田諸左衛門利郷]獻ず》と記す。つまり、黒田源左衛門、大音伊織、黒田諸左衛門の三人が献じたというわけだが、ところが『播磨古事』によればそうではない。職隆廟と同様にこれも多数の名がある。
 つまり、一対は筆頭家老の黒田源左衛門だが、他は、大音伊織、毛利内記、野村隼人、久野治左衛門、加藤半之亟、大音六左衛門(厚年)、隅田市左衛門、浦上四郎太夫、矢野六太夫ら九名の家老衆よる一対、それから、黒田諸左衛門、黒田惣右衛門、黒田八右衛門、沢辺藤左衛門、間嶌長吉、以上五名の一門衆による一対である。したがって、石燈籠はたしかに三対だが、そのうち一対は家老衆九名、一対は一門衆五名による寄附建立である。それゆえ『黒田新續家譜』の記事は、この点、正確さに欠け、厳密に云えば誤りである。
 ともあれ、十一月十二日に廟所が竣工。この日、やはり落成法要を行なったであろう。天川家書留帳によれば、十一月十五日、喜多村と伊藤が出立、帰路についたということである。
 以上のようにして、重隆と長寿大姉の廟所が完成した。この年、六月に普請方の池野らが事前調査にやってきて、それから廟所完成まで半年足らずである。事が決まれば仕事は早い。しかし前述のように、寛政五年に心光寺入誉が墓を発掘して重隆と長寿大姉の墓たることを確認してから、ここまで九年の時間が経過しているのである。こうした事業決定の遅延には興味深いものがある。
 しかし、入誉にすれば、発掘したらそんな石蓋が出たまでのことで、それが心光寺の位牌と過去帳の記録と一致するから、福岡へ報せたのである。石蓋銘文の記事を信じるか否か、それが議論の別れ目だが、入誉としては、判断はあくまでも福岡黒田家にゆだねたかたちである。
 そうした経過はともあれ、結局、入誉の発見から九年後になって、しかもその入誉本人が死去した後になって、黒田家はあっという間に御着廟所を建設してしまった。それまでの逡巡遅滞が嘘のようである。そうして、現在でも見るごとく、一つ屋根の下に重隆と長寿大姉の墓が並んでいる。この姿は、これが夫婦墓でないから、いっそう不自然である。せめてなぜ二棟にしなかったのか、という疑問も出よう。
 しかしこれも、二棟にするには用地が狭かったという物理的な制約があったからではなく、家中の疑惑紛糾が長期にわたった結果生じたかたちかもしれない。つまり、一方が重隆なら他方は松誉宗貞禅尼のはずという意見が消えず、また一方が長寿大姉なら他方は重隆ではあるまいという組合せの矛盾である。その調停不可能な矛盾を棚上げにしたのが、一つ屋根の下に二つの墓碑が並ぶというかたちである。
 また二つの墓碑は、この廟所建設時新造のものだが、五十余万石黒田家先祖の墓にしては、いかにも小さい。姫路酒井家の領分で派手なことはできないという配慮もあったろうが、それにしてもささやかすぎる墓碑である。言い換えれば、家中の疑惑が解消されないまま建設されたから、こんな小ぶりなものになった、いわば黒田家の消極的な姿勢がそのまま現れているとみえるのである。





*【天川家書留帳】
《(前略)此方先祖廟所、其御許御屋舗之内ニ有之候付、最前も及御掛合通ニ候。然右圍等被申付度、於(酒井)雅樂頭様御役人中江、此方役人共より及御相談置候處、勝手次第申付候様、且其御元江も御相對ニ而可申談旨返答有之候段、江戸表役人共より申越候。依て相調子候上、追而役方之者其御地へ差越に而可有之旨、國元より申越候。此段爲可得御意如斯御座候》(大坂蔵屋敷関谷十左衛門・斎藤杢より天川久兵衛宛書状 八月五日付)



現在の姫路心光寺
兵庫県姫路市北平野台町



*【天川家書留帳】
《(前略)兼而御承知も被成當家之古墳、今般被致修補候ニ付、作事方小頭池野平九郎、爲調子差越申候。其御地參着之上、事々宜敷致頼入候。委細者同人より可申述候條不能審候。恐々謹言》(福岡黒田家伊藤源右衛門より天川十吉宛書状 五月廿六日付)


*【同前】
《池野平九郎様、岩崎多兵衛様、右御作事方小頭両人、天川九兵衛方ニ御座候。筑州御先祖様御廟所御見分被成、御塔玉垣等之儀ハ國元ニ而御仕立被成、木場村川迄御廻被成度由ニ付、十四日、明田村より木場村船宿見分、夫より妻鹿村江御越被成、十六日、魚橋村へ御出被成者、御塔土塀、品ニより石塀被成度由ニ而、魚橋村石切場所見分ニ御出被成候。来月下旬八月差入頃、喜多村弥次右衛門様、伊藤源右衛門様御越被成候様被仰聞、今十九日御帰被成候。右之通御掛合之趣申上候。以上》(天川久兵衛他より代官利根川彦兵衛へ報告 六月十九日)
















*【黒田新續家譜】
《享和二年、喜多村彌次右衛門[安義、用聞]、伊藤源右衛門[勝好、普請奉行]、中西茂十郎[安貞、買物奉行]等を遣し、國産の木石を運び、國人の工匠を役し、十月五日より重隆及び長壽の墓を、石槨を設け元のまゝに封じ、誌文[儒者嶋村夘八撰其文言。大文字役横田久平書]を納め、五輪石塔[書家二川幸之進に書しめらる]を建られ、板屋を造て其上を蓋ひ、石の垣を廻らし門を設て、その前に石燈籠を列ね給ふ。十一月十二日に成就す》(巻之四十四)





御着廟所工事関係地図








御着廟所周辺現況






御着黒田家廟所
重隆と長寿大姉の連立墓
昭和43年改修時瓦屋根を銅板葺に





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