小寺官兵衛祐隆[後改孝隆。氏改黒田。入道して如水といふ]、播磨國多可郡黒田村の産なり。其所の名に寄て、後、黒田氏に改て、當城に相續して居す[當城ハ姫路也]。(中略)孝隆ハ美濃守の猶子也と云々。 (心光寺旧記)

Introduction  [播磨黒田氏 黒田官兵衛]  Back    Next 

 ◎播磨黒田氏とは?

[Q] このサイトを覗いてみるような人なら、黒田官兵衛についてだいたいの知識があると思います。研究書は読まなくても、黒田官兵衛物の小説やコミックは見ているでしょう。ただ、そういう知識は、通説を鵜呑みにしたもので、俗説に汚染されているというのが大半です。そこで、最初からいきなりカウンターを喰らわすようですが、――黒田官兵衛の先祖は、播磨の黒田氏ということですね?
[A] 通説化した俗説では、近江の佐々木流黒田氏が黒田官兵衛の先祖ということになっているが、それはもともとあやしい話だ。我々の史料研究では、黒田官兵衛の先祖は、播磨の黒田氏だ。これを、近江佐々木流黒田氏と区別するために、我々は「播磨黒田氏」という呼称を用いている。
[Q] では、まずはじめに初歩的なことですが、播磨黒田氏とは、というところからお尋ねします。これはどこを拠点にした一族なのですか?
[A] 播磨黒田氏というのは、播磨国多可郡黒田庄の黒田城を拠点とした武家だ。その黒田城というのは、現在の地名でいうと兵庫県西脇市黒田庄町黒田にあった城だね。当地には、いまも城山といって古城址がある。黒田城は中世の山城だ。
[Q] その播磨の黒田城を拠点にした黒田氏については、どんな史料があるのですか?
[A] 地元黒田に荘厳寺〔しょうごんじ〕という寺院がある。あとで話に出るだろうが、そこに所蔵されている黒田氏の系図だね。これが播磨黒田氏に関する根本史料。これによって播磨黒田氏の存在と歴史が判明した。
[Q] その黒田氏の系図によれば、播磨黒田氏はどの時代に存続していたのですか?
[A] 荘厳寺の系図によれば、年号でいうと観応年間、つまり十四世紀半ばから、戦国末期の織田信長の時代、十六世紀後期まで、九代、二百数十年にわたって、播磨国多可郡黒田城に存続した。
[Q] 十四世紀半ばというと、室町時代初期ですね。播磨黒田氏の元祖はだれか、わかっていますか?
[A] 播磨黒田氏の元祖は赤松円光。つまり、赤松円心則村の弟だ。その息子に、七郎重光という人があって、この人が多可郡黒田庄の黒田城へ移ってきた。以来、代々黒田姓を名のり、黒田城を拠点とするようになった。この重光が氏祖、つまり黒田氏初代だ。
[Q] というと、黒田氏は播磨の赤松氏の系統ですね?
[A] 赤松氏庶流の、いわゆる赤松末葉だね。播磨には赤松流を称する氏族は多い。黒田氏はその一つだ。したがって、特に異とするにはあたらない。播磨ではごく普通のことだ。
[Q] 播磨黒田氏初代の重光は赤松円光の息子。となると、重光は赤松円心の甥ということになりますね。重光が多可郡黒田城へ移ってきたということですが、重光はどこから移ってきたのですか?
[A] 重光は多可郡黒田城へ「移ってきた」というわけだから、重光以前から黒田城という城があったらしい。重光はその城を託されて移ってきた。彼がどこから移ってきたかというと、おそらくそれは赤松氏の本拠地、播磨国赤穂郡の赤松あたりからだろう。赤松氏の本拠地は、千種川流域の谷あいだが、多可郡黒田城は加古川流域だね。播磨の西部から、東の端へやってきた。丹波国境の黒田城を守るのが、重光の任務だった。
[Q] そのように黒田城は丹波国境、播磨の東の端ですが、この城は戦略上どういう立地にある城だったのですか?
[A] 丹波国境の黒田城は、赤松氏の本国・播磨の入口であって、いわば最前線だ。黒田城からは北に丹波地域が眼下に見渡せる。それに、この地は丹波路を通って京都へ直結するという立地だ。赤松氏にとって重要拠点だね。だから、赤松氏本拠の白旗城のある赤穂郡赤松と比較しても、多可郡黒田城の城地はかなり大きい。播磨黒田氏初代・重光は、そのような城を託されたというわけだ。
[Q] 重光が多可郡黒田城へ移ってきたのは、十四世紀半ばの観応年間ということですが。
[A] もうすこし細かくいえば、観応二年(1351)がその年だ。しかも三月十一日と月日まで明確に伝わっている。これは旧暦だから、今の暦では四月七日。このように月日まで明確なのは、播磨黒田氏が代々、この日を創始記念日として言い伝えてきたということだろう。
[Q] 重光が初代で、その後播磨黒田氏は、九代、二百数十年にわたって存続したということですが、重光以下の代々黒田氏の人々は明らかですか?
[A] 重光以下は、重勝、重康、光勝、重貞、重昭、重範、重隆と続いて、最後の九代目が治隆。重隆までの系譜には、代々当主夫妻の法名・命日まで明記している。だから、代々の当主がどの時期の人だったか、その婚姻関係はどうだったか、それが具体的にわかる。
[Q] 代々当主夫妻の法名・命日まで記録があると。それは、どうしてですか?
[A] 初代・重光は、父祖のために円光寺を建立したという。つまり、この円光寺という寺が、黒田氏菩提寺だったのだね。代々当主夫妻の法名・命日の記録があるところをみると、菩提寺円光寺の過去帳を転記した文書がのこったらしい。
[Q] その円光寺はどこにあったのですか?
[A] もちろん、黒田城の城下にあった。円光寺は黒田氏滅亡とともに廃寺になったらしい。後世に至って江戸時代のことになるが、十八世紀後期の天明年間、姫路から多可郡黒田村へ現地調査に行った者らがあって、構居跡や円光寺跡のことを記録している。そして、この辺が円光寺跡だという場所を絵図に記載もしている。だから、円光寺はここにあったという言い伝えが、十八世紀後期の時点ではまだ黒田村にはのこっていたようだ。
[Q] すると、円光寺は実在の寺ですね。
[A] そうだろう。城山の黒田城址のほかに、この円光寺跡や、構居跡、表門跡なども、天明年間の記録にある。これらは、天明当時、すでに田畑になっていた。口碑伝承のみというわけだが、それを記録した黒田村の絵図からすると、だいたいの場所は比定できる。
[Q] その遺跡は発掘調査など、なされているのですか?
[A] それは今後のことだ。手がかりとなる黒田村の絵図にしても、それを九州福岡の古文書の中に発見したのが、実は数年前だった。城下の発掘調査はこれからだ。ただし、それぞれの比定地は現在農地になっているから、発掘調査というのも難しいところがある。農地整理は戦後に終っているし、発掘には何か特別なきっかけが必要だろうが、播磨黒田氏遺跡として発掘調査が期待されるところだ。
[Q] 黒田城の方はどうですか?
[A] こちらも発掘調査はまだなされていないが、現状視認できるものだけでも、天狗山(485m)を頂上として西や北へ下る山稜のあちこちに曲輪の遺構がある。こちらは農地とちがって山林だから、廃城後およそ四世紀半たってもまだ曲輪の痕跡が若干ながらのこっている。それらをまとめてみると、黒田城は延長1km以上にわたる大きな山城だね。
[Q] 稲荷社のある小丘を黒田城だとみなす説もありますが、それはどうなのでしょう?
[A] それは、山稜の上の方にある遺構群を知らないな。だからそんな錯覚をする。黒田城はそんな小さなものではない。黒田城は見ての通りかなりの規模の中世の山城だ。したがって、これを根城とした播磨黒田氏のステイタスもおよそ想像がつく。前に言ったように、黒田城は、播磨の入口であり、丹波路経由で京へ直結する戦略的拠点だ。









戦国後期諸城地図





黒田城址の城山
兵庫県西脇市黒田庄町黒田





荘厳寺蔵
荘厳寺本黒田家略系図 冒頭






赤穂郡赤松と多可郡黒田の位置






黒田城の城地








*【播磨黒田氏系図】
 
○赤松円光―黒田重光―┐
 ┌─────────┘
 └重勝―重康─光勝─重貞┐
 ┌───────────┘
 └重昭─重範─重隆┬治隆
           │
           └孝隆




*【黒田家略系図】
重光 《志摩守從五位下。又号黒田七郎。多可郡黒田城主 在住三十二年。文和之軍ニ武功ヲ顯ス。觀應二年三月十一日多可郡黒田城ニ移ル。黒田ノ庄五千貫ヲ領ス。父祖ノ爲ニ圓光寺ヲ建ル。永徳二年壬戌三月二十一日卒ス。法名浄法院松元悟空大禪定門。妻者小寺相模守頼季妹。法名浄空院清峰妙貞大禪定尼。嘉慶二年十二月七日卒ス》



播磨古事 多可郡黒田村之図




構居跡から城山を見る



黒田城址遺構群

黒田城址を南から見る

 ◎黒田官兵衛の出生地とその父

[Q] その大きな黒田城が、播磨黒田氏の居城だったということですね。以上で播磨黒田氏のことが大略わかりました。そこで、次のテーマに移ります。つまり、黒田官兵衛の先祖は、この播磨黒田氏であり、しかも、黒田官兵衛自身がこの多可郡黒田の生れだという話ですが。
[A] 播磨の旧記、古記によると、そういうことだ。まず、片付けておかねばならないのは、黒田官兵衛がこの多可郡黒田村の生れだと、どの史料に書いているか、ということだ。
[Q] それを明記した史料があるのですか?
[A] 地元黒田の荘厳寺の系図はひとまず別にして、黒田官兵衛が多可郡黒田村の生れだという記事は、播磨の事情を知らぬ他国の者が書いた文書ではなく、まさに姫路の古記に書いていることだ。
[Q] 姫路の古記に、官兵衛は多可郡黒田村の生れだと、そう書いてあるのですか?
[A] 「播磨国多可郡黒田村の産なり」と明記している。播磨の姫路は、官兵衛が姫路城を預かった時期があったりして、黒田官兵衛ゆかりの地だね。まさにその地元の姫路の古記にそう書いている。
[Q] しかし、官兵衛は姫路城で生れたという説があります。それはどうなんでしょうか。
[A] 播磨の古記にはそんな話はない。官兵衛が姫路または姫路城で生れたという説は、播磨の記録ではなく、九州福岡の貝原益軒が『黒田系譜』や『黒田家譜』で書いていることだ。
[Q] 貝原益軒は播磨の事蹟を調べて『黒田家譜』を書いたのではないのですか?
[A] ところがそうではなかったのだね。貝原益軒は数回播磨へ行っているが、まともに播磨の伝承や古記を調査した形跡がない。『黒田家譜』の黒田家前史に関する記事をみると、播磨の伝承や事情を知らず、実にいいかげんなことを書いている。
[Q] 黒田官兵衛が姫路城で生れたという話も、そうなんですか?
[A] もし官兵衛がほんとうに姫路で生れたのなら、地元の姫路の人間はそう書くはずだ。ところが、姫路の古記は、官兵衛が姫路の産ではなく、十里以上も離れた丹波国境の多可郡黒田村の産だと書いている。
[Q] 姫路の伝承では、官兵衛は姫路の産ではない?
[A] そこがポイントだね。もし官兵衛が姫路で生れたのなら、姫路の人間がわざわざ、遠い多可郡の黒田村の産だと書くわけがない。そうだろ? だれでも、それはわかることだろう。
[Q] はい。よくあることですが、官兵衛が姫路で生れたのでなくても、むしろ我田引水で、姫路の文書では、官兵衛は姫路で生れたと書きそうなものです。しかしこのケースはそれとは逆ですね。
[A] そういうことだ。姫路の古記が、官兵衛は姫路の産だと書いていない、そしてわざわざ別の場所、つまり多可郡黒田を官兵衛の産地だとしている。ここが、注意すべきポイントだ。もし官兵衛が姫路で生れたのなら、地元の姫路ではそう言い伝えがあるはずだね。
[Q] ところがそうじゃない。だから、官兵衛は姫路生れではない。しかし、そんな自明の道理なのに、そんな話はこれまで聞いたことはありません。それはどうしてですか?
[A] ようするに、先入見というものがあって、眼がくらんでいるからだね。バカでもわかる自明の理なのに、それがわからない。先入見を断ち切らなければ、わかるものもわからない。別に隠されているわけでもなく、まさに目の前に露出している真実が見えない。
[Q] そこが問題ですね。目の前に露出している真実なのに、それを見ない、見えない。だから、フィクションが通説化して反復再生産されるばかりだったと。
[A] 黒田家前史研究のケースでは、通説というのは、貝原益軒のフィクションに無批判に乗せられただけの、ようするに俗説だよ。黒田官兵衛が姫路城で生れたというほかに、官兵衛は小寺職隆〔もとたか〕の実子だというのも、その一種だね。
[Q] 官兵衛は、職隆の子ではなかったのですね?
[A] 黒田官兵衛は、職隆の実子ではない。養子だ。官兵衛にとって、小寺職隆は実父ではなく、養父、義父だよ。
[Q] それはどの史料にある記事ですか?
[A] いうまでもなく、これも播磨の姫路の古記だ。小寺職隆は姫路城主だった。まさにその地元の姫路の文書なんだよ。それには、官兵衛は小寺職隆の猶子〔ゆうし〕になったとある。「猶子」というのは養子だね。ようするに実子ではない。
[Q] またまた、通説とは違う話ですね。
[A] 通説が信用ならぬのは、地元播磨の伝承と話が違うからだ。通説が根拠とするのは、貝原益軒が『黒田家譜』に書いた説だ。ところが、益軒は播磨の古記や伝承をろくに調査せずに、『江源武鑑』の作者や、『寛永諸家系図伝』の黒田系図を書いた堀杏庵、そういう連中が考案したフィクションに依拠して、黒田家前史の筋書を書いている。だから通説信奉者たちは、益軒が知らなかった播磨固有の伝承を、まず再認識する必要がある。
[Q] それを記した姫路の古記を改めて読み直せ、というわけですね。その姫路の古記は信頼できる資料ですか?
[A] その文書が、事情を知らぬ他国の者が書いた文書ではなく、地元姫路の文書であること、しかも国府寺家や心光寺の旧記だということがポイントだね。国府寺家というのは姫路の本陣で惣年寄、先祖が官兵衛の本姓「黒田」の名字をもらった旧家の一つだね。心光寺というのは、池田輝政の時代に姫路坂田町へ移ったが、本来は、小寺職隆の妻・明石氏の発願によって小寺家菩提寺として御着近くの印南郡佐土村に設けられた寺院だ。どちらも姫路時代の官兵衛と直接関係のあった家や寺院だ。
[Q] とすれば、これは姫路の地元伝承としてかなり信憑性が高いと見なければならない。
[A] その姫路の史料が、官兵衛は姫路の産だとはせず、わざわざ多可郡の黒田村の産だと明記しているし、官兵衛は小寺職隆の実子だとは書かず、職隆の猶子になったと書いているわけだ。
[Q] そして、その多可郡黒田村の地元でも、官兵衛は姫路ではなく黒田の産だとしているのですね?
[A] 官兵衛は黒田城主の子だというわけだね。多可郡黒田村の史料だけがそんなことを書いているのなら、我田引水の疑いがあるが、そうではない。姫路の史料が、黒田村の産だと書いているんだ。ようするに、官兵衛の産地は多可郡黒田村だというのは、姫路に限らず、播磨固有の伝承だったということだ。
[Q] すると、再度確認しますが、問題の焦点となるポイントは…。
[A] ひとつは、官兵衛が姫路の産ではなく、多可郡黒田村の産だということ。もう一つは、官兵衛は小寺職隆の実子ではなく、「猶子」つまり養子だということ。この二つがポイントだね。ようするに地元播磨では、黒田官兵衛という人は、多可郡黒田村に生れて、のちに姫路の小寺職隆の養子になったというわけだ。




播州妻鹿村御塔記 心光寺旧記

*【心光寺旧記】
《小寺官兵衛祐隆[後改孝隆。氏改黒田。入道して如水といふ]、播磨國多可郡黒田村の産なり。其所の名に寄て、後、黒田氏に改て、當城に相續して居す[當城ハ姫路也]。(中略)孝隆ハ美濃守の猶子也と云々》(播州妻鹿村御塔記、播磨古事)


*【黒田系譜】
孝高 《初稱孝隆、後改孝高。爲職隆之家督。母明石城主明石宗和之女也。以天文十五年丙午之歳、十一月二十九日辰時、生孝高於幡州姫路城

*【黒田家譜】
《黒田勘解由次官孝高ハ職隆の嫡子なり。母は明石氏、天文十五年丙午の歳、十一月二十九日辰の時、孝高を幡州姫路に生り》




多可郡黒田村


「播磨國多可郡黒田村の産なり」
播磨古事 心光寺旧記



*【黒田家譜】
《黒田勘解由次官孝高ハ職隆の嫡子なり。母は明石氏、天文十五年丙午の歳、十一月二十九日辰の時、孝高を幡州姫路に生り》








*【心光寺旧記】
《小寺官兵衛祐隆[後改孝隆。氏改黒田。入道して如水といふ]、播磨國多可郡黒田村の産なり。其所の名に寄て、後、黒田氏に改て、當城に相續して居す[當城ハ姫路也]。(中略)孝隆ハ美濃守の猶子也と云々》

*【国府寺家旧記】
《下野守重隆、故有て、當国多賀郡黒田村に住。嫡子官兵衛孝隆ハ、姫路の城主、美濃守職隆の猶子と成、姫路を守る》(播州古城舊跡抜書 国府城条)



姫路城下 国府寺家と心光寺


「孝隆ハ美濃守の猶子也」
播磨古事 心光寺旧記

 ◎近江原産の虚説と播磨固有の伝承

[Q] さて、官兵衛は小寺職隆の実子ではない。そうすると、官兵衛の実父はだれなのですか?
[A] さあ、それも問題の急所だ。官兵衛の実父はだれなのか。この問題に気づくことが大事だね。姫路の旧記には、官兵衛は、多可郡黒田村の黒田重隆の嫡子(実子)だとある。姫路心光寺でも、重隆は官兵衛の父だと言い伝えていたらしい。
[Q] 姫路の心光寺というのは、先ほどのお話では小寺氏の菩提寺だった寺ですね。
[A] これは、天明年間姫路へ来て播磨の古記を収集した福岡黒田家臣、山口武乕という人が、姫路心光寺で確認したことだが、長政が心光寺に安置した位牌があった。重隆とその妻(松誉禅尼)そして如水、この三人の位牌だ。この中には職隆の位牌は入っていない。ここで注意すべきは、重隆と松誉禅尼は「如水公御父母」だという話が、心光寺に言い伝えられていたことだ。つまり長政は、重隆を官兵衛の父として認識していた。これも、すでに山口武乕が注目していた点だ。
[Q] すると、長政の代には、官兵衛の実父は重隆であって、職隆ではなかったと。
[A] それが肝腎のポイントだ。改めて言えば、姫路の古記では、
   (実父)黒田下野守重隆 ― 孝隆(実子)
   (義父)小寺美濃守職隆 ― 孝隆(猶子)
ということだ。官兵衛の実父は重隆で、職隆は官兵衛の義父・養父なんだ。
[Q] その黒田重隆という人は、官兵衛の父親ではなくて、祖父だと、多くの人がそう信じていますね。
[A] それも通説になっているが、やはりこれも『黒田家譜』『黒田系譜』の貝原益軒が書いている話だ。つまり、黒田重隆の息子が職隆で、職隆の息子が官兵衛だということだね。この「重隆―職隆―孝高」という三代嗣系説は、播磨の古記からすれば、とんでもない謬説だ。それだと、小寺職隆が黒田氏の人間になってしまう。
[Q] 小寺職隆は黒田重隆の息子ではないのですか? 「黒田」職隆は、小寺政職から小寺姓を賜って、小寺氏を名のったというのが通説ですが。
[A] それもバカげた話だ。姫路の古記には、そんな話はない。小寺職隆は、小寺則職の息子であって、生れたときから小寺氏だよ。だから、むろん職隆は黒田重隆の息子であるはずがない。播磨の歴史を知る者なら、小寺職隆は黒田重隆の息子だなどという、そんな奇怪な説を思いつくわけがない。
[Q] すると、これも播磨の事情を知らない貝原益軒の臆測から出たことですか?
[A] いや、貝原益軒以前からあった説だ。具体的にいえば、話が長くなるから、このサイトの論文集の方を見てもらうことにして、結論だけいえば、これは近江の関係者の仕業。『江源武鑑』の作者が案出した珍説で、寛永系図(『寛永諸家系図伝』の黒田系図)を書いた堀杏庵がそれに追随した。いわば近江産のフィクションだね。
[Q] その『江源武鑑』の作者や、黒田氏の寛永系図を作った堀杏庵というのは、近江関係者なのですか?
[A] 『江源武鑑』というのは、その名(近江源氏)の通り近江佐々木流六角氏関係文書だが、すでに近江の学者・寒川辰清が、これは信用できない偽書だと批判している怪文書。堀杏庵は藤原惺窩の門人で、当時尾張徳川家の儒官だったが、これは近江の医者の家から出た人だな。どちらも播磨には無関係な近江の関係者だ。貝原益軒はそんな近江関係者たちが考案した一連のフィクションを流用しているにすぎない。
[Q] 黒田官兵衛の先祖は近江の黒田氏だという話もですか?
[A] 黒田家の先祖は、近江佐々木流黒田氏で、その一族黒田高政なる人物が近江を退去して備前へ移ったというのは、『江源武鑑』のフィクションだな。
[Q] その『江源武鑑』というのは、地元近江の学者が採用できない偽書だと断じた文書ですね?
[A] 近江の寒川辰清は多数著作のある学者だが、その著『近江輿地志略』で何度もそう書いている。しかも寒川はまた、伊香郡黒田村に黒田氏元祖・宗清の墓があるという貝原益軒の説も却下している。享保年間、地元近江の学者に早々に否定されているのが、伊香郡黒田村が黒田氏本地だという貝原益軒の説だ。だからこれはもともと話にならんのだよ。
[Q] 近江黒田村説は地元近江の学者にさえ認められていなかったのでしたか。いやはや、なんとも。で、重隆の代に黒田氏が備前から播磨へ移ったという話の方は?
[A] 重隆の代に備前から播磨へ移ったというのは、『江源武鑑』にはない話で、こっちは堀杏庵が考案した筋書だ。堀杏庵は『江源武鑑』にある黒田高政という人物の存在を認めない。ところが、貝原益軒はそれを復活させた。貝原益軒は両方から流用していろいろ話を改竄しているが、ようするに、貝原益軒のストーリーの基本は、近江産のフィクションだね。黒田官兵衛の故郷・播磨の歴史事情に無知なんだから、もともと荒唐無稽な珍説だよ。
[Q] すると、職隆が重隆の息子だというのは、九州福岡産というより、近江産のフィクションだったということですか?
[A] 播磨に何の関係もない、近江原産の虚説だね。職隆が重隆の息子だと言い出したのは『江源武鑑』だが、それをもとに「重隆―職隆―孝高」という三代嗣系説を捏ね上げたのは堀杏庵だ。杏庵は、『江源武鑑』とちがって、播磨の「小寺」職隆という存在を知っている。しかし、職隆は黒田重隆の息子だという『江源武鑑』のフィクションは受け継いだから、職隆の小寺姓は小寺政職からもらったという設定にした。これは堀杏庵の創作だ。「黒田」職隆が、小寺政職から姓をもらって「小寺」を名のったというのは、『江源武鑑』にはない話で、堀杏庵が考案した筋書だ。
[Q] 堀杏庵が考案したそのフィクションが、今日の通説になっているのですね。
[A] 堀杏庵が考案した筋書を流用したのが『黒田家譜』の貝原益軒で、そしてそれが今日の通説の典拠になっている。したがって、職隆は重隆の息子だと信じて、「重隆―職隆―孝高」という三代の父子関係を想定する今日一般化した通説は、もとをただせば、九州筑前ではなく近江の人間が考案したフィクションだった。官兵衛が生れた播磨とは無関係の場所で捏造された虚説なんだよ。
[Q] なるほど。貝原益軒の筋書のベースは、播磨どころか、近江産のフィクションだったと。
[A] 貝原益軒は近江産のフィクションをベースにしてそれをいろいろ改竄している。たとえば、『江源武鑑』は重隆を備前生れとするが、貝原益軒はそれを近江黒田村生れに書き換えた。あるいは寛永系図の堀杏庵なら、職隆は播磨姫路生れだとするのに、益軒はそれを備前福岡生れに変えてしまった。これは生年との整合性を考えてそう書き換えたのだが、もともと近江産のフィクションをベースにしているのだから、恣意的な改竄だね。むしろ、重隆が備前じゃなくて近江生れで、職隆が播磨ではなくて備前生れだなんて、荒唐無稽という点では、近江原産のフィクションよりもこの筑前産の新作捏造物の方が症状が悪化している。今日の通説信奉者たちは、自分たちがそんなタワけた話を真にうけて信じていることさえ知らない。
[Q] たしかに事態は嘆かわしいとしか言いようがありません。そういう意味では、黒田官兵衛は宮本武蔵と似た状況にありませんか?
[A] 武蔵は「五輪書」として有名な兵法書の冒頭自序で、「生国播磨」と明記している。ところが奇怪なことに、いまだに宮本武蔵は美作生れだと信じている者が多い。それは吉川英治の小説の影響だ。小説というのは世間の通説形成に大きな作用をするよ。黒田官兵衛の場合は、吉川英治の『宮本武蔵』ほど決定的な小説はないがね。
[Q] これまでの官兵衛小説は、司馬遼太郎の『播磨灘物語』をふくめて比較的マイナーなものばかりです。
[A] その分、武蔵の場合よりまだ救いがあると言えるかもしれないが。ただし、武蔵のケースは、近年研究が進んで次第に事態改善の方向に向っている。それに対し、黒田官兵衛の場合は、めぼしい研究は皆無だ。そのため、先祖は近江の黒田氏で、官兵衛は職隆の息子として姫路で生れた、という妄説を信じている連中が、目下圧倒的多数派だ。小説は相も変らず俗説を再生産するしか能がない。官兵衛小説はマイナーだが、塵も積もれば山となる。そうして通説化した世間の俗説はますます健在だ。
[Q] 官兵衛さんもハライソ(天国)で苦笑い。しかし、そういう困った事態は早く改善される必要があります。どうすればいいのですか?
[A] それは言わずと知れたことだ。黒田家前史研究を前進させることしかない。まず研究者たちが、黒田官兵衛の故郷、播磨の史料を読み直して、播磨ではどういう伝承があったのか、それを再認識する、それが先決だ。
[Q] むろん、黒田氏や小寺氏の本国、播磨では、黒田官兵衛が姫路生れだの、小寺職隆が黒田重隆の息子だのという伝承はない?
[A] その通りだ。播磨の小寺系図では、職隆は小寺則職の息子だ。もし職隆が黒田重隆の息子だったら、播磨の文書にそういう記録が断片でもあるはずだ。ところがそうではない。『播磨鑑』の平野庸脩は、黒田系図を知っている。この黒田系図は貝原益軒のそれではなく、むしろ堀杏庵が書き出した寛永の黒田系図の方だろうね。その黒田系図では「識隆」は黒田重隆の子だとするが、播磨の小寺系図だと、職隆は小寺則職の長子だとある。変じゃないかというわけだが、とにかく江戸中期の播磨の学者・平野庸脩は、その決定的な相違に気づいている。話は両立不可能だ。どっちが正しいんだ。ただ、少なくとも播磨には、その黒田系図にいうような、職隆が黒田重隆の息子だなんて伝承はなかった。
[Q] 播磨の事情を知らぬ近江原産の臆説と、播磨固有の伝承と、そのどっちを信用するんだということですね?
[A] そういうことだね。小寺職隆が黒田重隆の息子だなんて、そんな冗談、だれが言い出したんだ。『江源武鑑』の作者じゃないか。むろん播磨の事情に無知な他国者だ。『江源武鑑』のどこに播磨が出てくる? どこにも出ない。『江源武鑑』は小寺職隆ならぬ「黒田識隆」を一貫して備前の住人にしている。元亀年中(1570年代はじめ)になっても、「黒田識隆」は備前から近江へ出仕してくる。
[Q] それだと、職隆の「子」は、備前生れの備前育ちになってしまうではありませんか。黒田官兵衛は備前生れの備前育ちなんですか。
[A] 『江源武鑑』の記事が荒唐無稽なフィクションだというのは、そういうことだね。だから、「識隆」という名の誤記だけではない。その起源まで遡れば、黒田重隆の子・「黒田識隆」なんて人物は、本来は実在しなかったんだ。貝原益軒がいかに弥縫しようにも、それは覆い隠せない事実だった。ようするに問題は、地元播磨の史料にある話と、播磨とはまったく無関係な近江の人間が頭の中で考え出した話と、どちらに信憑性があるか、ということだ。これは議論の余地はあるまい。
[Q] なるほど、議論の余地はありません。職隆は黒田重隆の子ではない。官兵衛は黒田重隆の孫ではなくて息子であり、そして多可郡黒田村に生れた。真実はそういうことですね?
[A] 黒田官兵衛の故郷である播磨固有の伝承を確認すれば、事の真実はそういうことだ。ようするに、黒田官兵衛は重隆の子として多可郡黒田村に生れて、そうして姫路の小寺職隆の養子になった。再三いうようだが、これは他ならぬ姫路の古記が書いていることだ。そして言い換えれば、姫路の史料だけでも、そこまではわかる。








*【播磨古事】
《播рノて一覧せし諸記録に、黒田官兵衛孝隆ハ美濃守職隆の猶子と記せし事見へ侍れバ、如水公ハ下野守重隆公の御子にて職隆公の御猶子なる事、実ならんか。尤文にもしるせし如く、姫路府下心光寺に、長政公御寄附にて宗卜様、松誉禅尼、龍光院殿の御位牌を安置なしおかれ、又ハ心光寺住職入誉も右之通、三對之御位牌ハ、如水公御父母故、長政公當寺に安置し給ひしと物語せしうへ、多賀郡黒田村にて古老の語り傳へ、彼是を以て勘考するに各符合し侍れども、我本藩にて国君の御家系、其外諸記録等に此事見當り聞傳へ侍らず。筑前国において松誉禅尼の御事を語り傳ゆる人もなし。後世に至りて博覧廣聞の君子、舊をたづねて此一事を探索し改訂し玉へと爾云》

*【播磨伝承黒田家前史】
 
   多可郡黒田村住
 ○黒田下野守重隆―孝隆
           ↓猶子
  小寺美濃守職隆=官兵衛孝隆
    姫路城主



*【黒田家譜】
《黒田美濃守職隆ハ重隆の子也。大永四年甲申の歳、備前國邑久郡福岡の城に生る。初の名、兵庫助と云。後に父と共に幡州姫路に移り住り。(中略)爰に、赤松の黨類、小寺藤兵衛政職[後號加賀守]ハ、西幡摩の大家なり。御着の城に居て大勢をしたがへ威をふるふ。職隆、其旗下に屬して戰功多し。政職、其忠義武勇を感じ、待遇厚し。明石の城主、明石宗和の息女を養子とし、職隆の妻とす。且、兵糧を借して、姫路の城を守らしむ。小寺の姓と名乘の一字を授けられ、小寺職隆と稱す


*【姫路考略記】
《小寺美濃守職隆、父加賀守則職、護守其跡也》



*【江源武鑑】
《(八月大)廾三[*二]日。佐々木黒田美濃守源識隆卒ス。行年六十一歳。法名宗圓。下野守重隆嫡男ナリ。屋形ノ氏族タルニ依テ日記ニトヾム》(卷第十八・天正十三年)

*【寛永諸家系図伝】
識隆 《美濃守。生國播磨姫路。時に
小寺藤兵衛政識、數千騎をしたがへて、威を近隣にふるふ。識隆これにつゐて度々戦功あり。このゆへに小寺の同名となる。政識死して子なし。其勢こと/\く識隆にしたがふ》










黒田氏関係地図



*【筑前黒田系図】
 
○佐々木秀義―[四代]―黒田宗清┐
 ┌─────────────┘
 └高満―宗信―高教―高宗┐
 ┌───────────┘
 └高政重隆職隆―孝高



*【江源武鑑】
《此黒田下野守重澄[シケスミ]ト云ハ、備前赤坂福岡ノ城ニ住ス屋形ノ族ナリ。黒田高政二男ナリ》(卷第五・天文二十二年)
《(二月)六日。佐々木黒田下野守重隆卒ス。五十七歳。此人ハ備前赤坂福岡ニテ生ス。父ハ黒田右近大夫高政トテ、江州旗頭ノ内ナリシガ、屋形高頼公ノ下知ニ背テ國ヲ退キシ人ナリ》(卷第九・永禄三年)
《(八月大)廾三[*二]日。佐々木黒田美濃守源識隆卒ス。行年六十一歳。法名宗圓。下野守重隆嫡男ナリ》(卷第十八・天正十三年)

*【寛永諸家系図伝】
重隆 《黒田下野守。生國備前赤坂郡福岡。後に赤松につき、播州姫路にあり》
識隆 《美濃守。生國播磨姫路。時に
小寺藤兵衛政識、數千騎をしたがへて、威を近隣にふるふ。識隆これにつゐて度々戦功あり。このゆへに小寺の同名となる》

*【黒田家譜】
《黒田下野守重隆ハ高政の二男也。永正五年戊辰の歳、江州黒田の邑に生れ、いとけなふして父に從ひ備州福岡にうつらる。後に浦上村宗、備前國中をおかし掠めし時、重隆、其難をさけて幡州飾東郡姫路に移らる》
《黒田美濃守職隆ハ重隆の子也。大永四年甲申の歳、備前國邑久郡福岡の城に生る》













*【五輪書】
生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。われ若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす…》(地之巻)

○五輪書 →  Link 






如水居士像 崇福寺蔵










*【播磨鑑】
《小寺美濃守〔モト〕隆 黒田ノ系圖ニハ黒田下野守重隆ノ子トシ、小寺ノ系圖ニハ小寺加賀守則職ノ長子ト有リ。又黒田ノ系圖ニハ隆、小寺ノ系圖ニハ隆ト有リ》


*【小寺氏系図】
 
○頼季―景治―景重―職治┐
┌───────────┘
└豊職―政隆─則職┬職隆┬則隆
         │  │
         │  └=孝隆
         │
         └政職─氏職



*【江源武鑑】
《(三月)廾七日。黒田美濃守識隆、備前ヨリ江陽ニ來リ、今日進藤山城守ヲ以テ觀音城ヘ出仕シテ、屋形ニ謁ス》(卷第十六・元亀二年)

*【黒田家譜】
《高政、既に江州を去て他國にゆき、重隆、職隆も、備前、幡磨に住すといへども、佐々木ハ黒田の宗領にて、且又、舊好ある故に、其本をわすれずして、重隆、職隆共に、遠國より江州へ時々出勤し、使節をも立てられけるなり》



広峯神社文書
小寺美濃守/職隆 花押
 ◎荘厳寺本黒田氏系図

[Q] 姫路の史料だけでも、そこまではわかる。しかも他方で、その多可郡黒田村に播磨黒田氏の史料があったと。
[A] そこが近年の我々の研究調査の焦点だったね。姫路では、官兵衛は多可郡の黒田村の産だとしている。では、その黒田村に何か遺跡や記録、あるいは伝説はのこっていないか?――実は、それがあったのだね。黒田城主だった播磨黒田氏の史料があった。
[Q] つまり、それが荘厳寺の黒田氏系図ですね。
[A] 荘厳寺所蔵の「黒田家略系図」という史料がそれだ。我々はこれを「荘厳寺本」と呼んでいる。しかし、まだこの史料を翻刻した前例がなかったので、我々が最初に翻刻して、その研究を公開した。
[Q] その荘厳寺本系図には、黒田官兵衛の記事もあるのですか?
[A] 荘厳寺本の系譜の最後に、孝隆、官兵衛尉の短い記事がある。官兵衛は黒田重隆の息子だ。官兵衛には兄があって、これが初代重光から数えて九代目で、最後の黒田城主、黒田治隆だね。そして、弟の孝隆については、小寺美濃守職隆の「猶子」になったと明記している。
[Q] 官兵衛は播磨の多可郡黒田城主・黒田重隆の息子で、姫路の小寺職隆の養子になったと。これは、姫路の古記の記事と一致しますね?
[A] その話は逆で、姫路の古記の記事が、現地多可郡黒田村の史料と合致する。姫路の記録は現地の史料で裏づけを得た、ということなんだ。それに、官兵衛は重隆の嫡子(実子)だとする姫路の古記があるが、では官兵衛に兄弟があったかどうか、これだけではわからない。荘厳寺本系図でわかったのは、官兵衛には治隆という兄があって、これが重隆の家督を継いだ。官兵衛孝隆は弟だから、姫路の小寺職隆の養子になったと知れる。しかも、姫路の古記ではわからない重要なことが、ようやく知れた。
[Q] それは、たとえば?
[A] もともと姫路の古記では、黒田官兵衛が多可郡黒田村の産で、黒田重隆の息子だということしかわからなかった。では、その多可郡黒田村の住人、黒田重隆とは何者なんだ、ということだね。その黒田重隆という名のバックに、はじめに話したような播磨黒田氏の存在とその歴史があった。それは荘厳寺本系図によってはじめて判明したことだ。
[Q] 荘厳寺本系図によって、最近ようやく播磨黒田氏の存在と歴史が明らかになったということですね。
[A] これまでは、世間では不完全な異本系図しか知られていなかった。だから、多可郡黒田城主・黒田氏が赤松氏の系統、赤松庶流だというその起源さえ知られていなかったのだよ。それだけではなく、この系図は情報量が多いので、具体的なことがかなりわかった。
[Q] その播磨黒田氏系図でわかることというのは?
[A] 系図には代々当主夫妻の法名・命日を記すから、それぞれどの時代の人か知れるし、奥方の実家もわかる。それに、当主の兄弟姉妹も記載する。これでどういう分家分枝が発生したか、だれそれはどこへ養子に出たか、それもわかる。黒田氏嫡流の系図だが、播磨黒田氏一族の族譜でもある。
[Q] そのように情報量が多い史料だということですね?
[A] 黒田氏の史料としては、他の史料では比較にはならないほど、情報量は圧倒的だね。黒田官兵衛の父母や祖父母も具体的に判明したし、さらにずっとその先までわかる。しかも、この荘厳寺本系図は題名が「黒田家略系図」とあるように省略版なんだ。系図には編纂者の奥書があって、原資料から抜粋された略系図だと知れる。
[Q] 系図には編纂者の奥書があったのですか?
[A] 荘厳寺本系図の奥書を書いた編纂者は、勝岡嘉作孔美という人だが、「当家旧記」、つまり勝岡の家にあった黒田家古文書から抜粋してこの系図を編纂したという。だから「略系図」というのだが、すると勝岡家には、荘厳寺本系図の原資料ともいうべき黒田家文書が伝わっていたらしい。
[Q] 系図を編纂したその勝岡嘉作孔美という人は、黒田氏とどういう関係の人ですか?
[A] 黒田官兵衛の母は比延氏・懿讃院〔いさんいん〕、その実家は多可郡比延山城主の比延氏だ。懿讃院の甥に種述という人がいて、この人が勝岡姓を名のって勝岡家初代。ようするに、黒田官兵衛の母方の従兄弟の子孫が勝岡孔美だ。この人は「東嶺先生」と呼ばれた学者だったらしい。彼の墓も現存する。
[Q] なるほど、勝岡東嶺先生ですか。その勝岡家に黒田氏文書が伝わっていたということですね?
[A] 好種、好冬という比延氏嫡流は滅んだが、この勝岡種述の系統は生き残った。その勝岡家には旧記(古文書)が伝わっていて、黒田氏関連文書があったらしい。それを見て勝岡東嶺(嘉作孔美)は、黒田氏の略系図を編纂して荘厳寺へ納めた。それが現存する荘厳寺本系図というわけだから、由来も成立も明確な史料だ。その点では、他の旧記史料では比較にならないほど、まったく別格の史料だ。
[Q] 赤松諸家大系図には、播磨黒田氏の記載がない、などという異見もありますが。
[A] 赤松諸家大系図が根拠資料になると錯覚しているのなら、それも無知な話だ。江戸中期以後にできた赤松諸家大系図で事が足りるのなら、播磨の歴史研究は要らないよ。その諸家大系図はだれがいつ作成したのかね。それはたしかな資料だと、だれが言えるのかね。何でもそうだが、史料批判をした上で物を言え、というんだ。荘厳寺本系図には、江戸時代の赤松諸家大系図の作者が知らない情報がある。赤松諸家大系図のような寄せ集めの海賊版系図とは、そもそも歴史資料としてのステイタスが違う。
[Q] 赤松大系図は江戸中期以後作成のあやしい資料。荘厳寺本系図は、そんなものよりはるかに身元のたしかな史料だというわけですね。で、荘厳寺本系図の原資料となったその黒田氏文書は、今はのこっていないのですか?
[A] 勝岡東嶺先生がいうところの「当家旧記」だね。これまでに確認できている範囲では、まだ見つかっていない。目下探索中だ。これが発見できれば、荘厳寺本系図以上のもっと明確なことがわかるだろうし、詳細を詰めることもできるだろう。今後の発見に期待している。








荘厳寺蔵
荘厳寺本黒田家略系図 末尾



*【播磨黒田氏系図終端】
 
八代
重隆―───────────┐
  黒田城主 下野守      │
  在住三十五年 永禄十年八月 │
  十七日卒ス 法名靈光院覺智 │
  性悟大禪定門       │
  妻者比延宮内少輔常範女  │
  元龜三年五月二十日卒ス  │
  法名懿讃院霞了妙惠大禪定尼│
┌──────────────┘
九代
治隆 左衛門尉 黒田城主
│ 石原掃部助赤井五郎與戰打死
│ 自是黒田城廃ス
│ 法名圓法院流智勇進大禪定門

孝隆 官兵衛尉
  小寺美濃守職隆猶子トナリ
  姫路城ヲ守ル






荘厳寺
兵庫県西脇市黒田庄黒田





荘厳寺蔵
荘厳寺本黒田家略系図 末尾奥書


*【黒田家略系図奥書】
《右者當家舊記之表書拔令進入候。黒田累代之尊霊御弔可被成候
 巳之二月    勝岡嘉作
            源孔美 [花押]
     荘厳寺様 》



比延山城址
兵庫県西脇市比延町城山



*【黒田官兵衛の父母と祖父】
 
○黒田重範――重隆  ┌治隆
        ├――┤
○比延常範―┬懿讃院 └孝隆
      |
      ├好種――好冬
      |
      └好範――種述 勝岡




東嶺先生墓碑
兵庫県西脇市比延町

 ◎黒田官兵衛、抹消された二つの真実

[Q] さて、ここまでのお話で、黒田家前史研究において、播磨のこの多可郡黒田村、兵庫県西脇市黒田庄町黒田という場所が焦点となることがよくわかりました。この地は、これから注目の場所ですね。
[A] 多可郡黒田村は播磨黒田氏の根本地。そして黒田官兵衛の出生地だからね。ここはもっと注目されてよい。
[Q] というわけで、このサイトでは、播磨黒田氏の根本地、多可郡黒田村のことが詳しく紹介されます。
[A] これまで世間に知られることのなかった、黒田官兵衛の先祖、播磨黒田氏の根本地。そういう意味では、これが世間に広く知られるのは大いにけっこうなことだ。ただし、それだけではない。
[Q] といいますと?
[A] 黒田官兵衛の先祖を、その根本の地に帰すこと。復位せしめること。官兵衛の先祖を、近江や備前のような異郷にさまよわせたままではいけない。そうじゃないかね?
[Q] 黒田官兵衛の先祖を亡霊にしてしまうような、そういう世間の錯誤を放置しておいてはいけない。そういうことですね?
[A] 後人の無知と誤認からそうなって、今日なお謬説が支配的だが、黒田家前史を正道にもどし、その真実を回復すること。歴史を研究する者にはいわば道義的責務があって、これはその一つだ。黒田氏の先祖の霊を、その根本の地に復位せしめること。二百年前に荘厳寺へ黒田氏系図を納めた勝岡東嶺が発願していたのは、そのことだ。我々は彼の願意を実現しなければならない。それが歴史の道理というものだ。そのための黒田家前史研究だ。
[Q] 昨年暮には、まさにその荘厳寺で、播磨黒田氏に関する記念すべき最初の講演がありました。むろん、このサイトでは、播磨黒田氏をはじめ黒田家前史に関する研究が公開されますね。
[A] いまは、ラチもない黒田官兵衛本がほとんどだ。そんな通俗書しか出ないバカげた状況のなかで、我々の研究を公開するのは、厳密な論証にもとづく黒田家前史研究の土俵をまず確立すること、そしてそれを通じて後続の研究者を育成するという目的がある。
[Q] というわけで、このWebサイトを立ち上げることになりました。「播磨黒田氏 黒田官兵衛」というこのサイトのタイトルは?
[A] もともと播磨姫路の古記では、黒田官兵衛が多可郡黒田村の産で、黒田重隆の息子だとする。そして、その現地黒田村の史料・荘厳寺本系図によれば、黒田重隆は播磨の赤松流黒田氏で、多可郡黒田城の八代目城主だ。ようするにこれは、黒田官兵衛の先祖は播磨黒田氏だ、ということを明示して、旗幟を鮮明にするためのタイトルだね。
[Q] そして、その下に「Quambioye」という文字がありますが、これは「カンビョウエ」と読むのですか?
[A] 黒田官兵衛の「官兵衛」は、今日ではふつう「かんべえ」と読んでいるが、当時の読みは「かんびょうえ」だった。これはキリシタン文献、当時のイエズス会資料の官兵衛記事から頂戴した横文字だ。
[Q] その官兵衛、「かんびょうえ」はキリシタンでしたね。
[A] 官兵衛は最後まで棄教せず、キリシタン宗徒として死んだ。それが彼のユニークなところだ。イエズス会の宣教師たちは、黒田官兵衛を「コデラ・カンビョウエドノ」(Codera Quambioyedono)と呼んでいた。「クロダ」でなく「コデラ」なんだ。
[Q] その「コデラ」官兵衛は、実家は播磨黒田氏でした。
[A] キリシタン大名・小寺官兵衛の存在は、のちに隠蔽された。『黒田家譜』の貝原益軒の段階までに、痕跡ものこさず、その過去は抹殺された。その抹殺のプロセスで、播磨時代の官兵衛、その出自が歪曲され播磨黒田氏の事蹟も忘却された。この二つの真実の抹消は同時並行している。
[Q] なるほど、「キリシタン」官兵衛と、「播磨黒田氏」官兵衛、この二つの真実が『黒田家譜』ではともに抹消されています。
[A] ただ、後者の播磨の黒田氏については、さすがに播磨にはその伝承はのこった。「キリシタン」官兵衛と、「播磨黒田氏」官兵衛、この二つの史的事実、その黒田官兵衛の真実を忘れるな、というわけで、「播磨黒田氏」と「Quambioye」で、黒田官兵衛の名を挟んで、タイトルに銘記することにした。
[Q] そういうことでしたか。「キリシタン」官兵衛の方は明治以来、一般に認識されていますが、もう一方の「播磨黒田氏」官兵衛の方は、ほとんど知られていません。
[A] 近代に入って異教・キリスト教への抵抗がなくなったからね、「キリシタン」官兵衛の方は、小説にさえ書かれるようになっている。ただ、その認識は不正確だがね。しかし他方、「播磨黒田氏」官兵衛の方は、近代になって忘却されてしまって、そのまま今日まで推移してきた。研究者の間でも知る者がほとんどいなかった。それは研究者たちの無知と怠慢というべきだ。だから、誰もやらん、やれんのなら、しょうがない、というわけで、この黒田家前史研究サイト、[播磨黒田氏 黒田官兵衛]の登場となった。
[Q] そういうわけでした。さて最後になりますが、このサイトの中身には、前代未聞、これまで聞いたこともないような論説が多くあります。通説以外には知らない人、俗説になじんでいる人には、かなりハードルが高そうですが。
[A] いやむしろ、我々の趣旨からすると、そういう抵抗のある人にこそ、読んでもらいたい。心を大きく広く開いて虚心に読むことだね。そうして最後まで読めたら、それまでの先入見が消えて、憑き物がおちるし、目からウロコがおちることだろう。

(2012年3月収録分に加筆)




多可郡黒田村 現況
兵庫県西脇市黒田庄黒田







黒田氏関係地図















*【日本史】 (1585年記事)
《これら受洗した者のうちには、関白の顧問を勤める一人の貴人がいた。彼は優れた才能の持主であり、それがために万人の尊敬を集めていた。関白と山口の国主(毛利輝元)との間の和平は、この人物を通じて成立したのであり、彼は播磨の国に非常に多くの封禄を有している。/彼は多くの高貴な侍たちを説得しようと堅く決意しているが、彼はその点多大の権威を持つ者であり、事実、後になって(我らが)期待していた以上の熱心さでそれを遂行した(中略)。彼の心を動かしたのは海の総司令官(小西行長)アゴスチイノであり、飛騨蒲生(氏郷)殿と(高山右近)ジュストが彼を受洗へ導いたのであった。この貴人は小寺シメアン官兵衛殿と称した》(Luis Frois, Historia de Iapam, 1593 中央公論社版『完訳フロイス日本史』 松田毅一・川崎桃太訳)



如水キリシタン印判
中央にクルス(十字架)、周囲に
Iosui Simeon(ジョスイ・シメオン)



姫路城十字架紋鬼瓦
「に」ノ櫓門 西面




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