保内の秋祭りを再認識するための基礎資料
8月4日の「保内大学 夏季セミナー『八西地域の祭りについて』」について、講師の大本敬久さん(県歴史文化博物館・学芸員)にHP用に資料をお願いしたところ、8月12日(土)に、お返事と一緒に提供をしていただきました。勝手なお願いにも関わらず、快くお引き受けくださり、ありがとうございます。
注:保内大学・・・地域のまちづくり・まちおこしグループ
●保内三島神社の秋祭りについて
10月23日 保内町秋祭り 場所(交通) 西宇和郡保内町宮内三島神社(JR予讃線八幡浜駅よりバス保内町役場前下車)
[概説]三島神社の秋季大祭では、「牛鬼」、「五ツ鹿踊り」、「唐獅子」の他、「四ツ太鼓」と呼ばれる布団太鼓や、金糸で刺繍された幕を飾る「御船」、ふんだんに彫刻を施した人形屋台である「山車」が勇壮に練り歩く。南予地方の祭礼の特色を最も色濃く残している祭りである。
(参考文献:大本敬久「祭礼・行事」、『新版愛媛県の歴史』山川出版社、2003所収)
●愛媛県内の祭りの山車(ダシ)について
祭礼に際して、神輿とは別に、風流(装飾)を凝らして、担いだり、ひいたりする屋台のことを山車(ダシ)という。京都祇園祭の山鉾はその代表的なものであるが、ほかに、ダンジリ、曳山、山笠、太鼓台など、地域や時代によって名称や形態は様々である。愛媛県内では、新居浜市の太鼓台をはじめとして瀬戸内海沿岸地域や南予地方に「太鼓台」、「ダンジリ」、「四ツ太鼓」と呼ばれる布団太鼓が分布し、また、西条市周辺には、二、三層の彫刻を施したダンジリが有名である。それ以外にも、笹花で飾られた北条市のダンジリや、北宇和郡吉田町、西宇和郡伊方町、保内町の山車など、様々な種類の山車が登場する。
もともと、祭礼の主人公は神輿に乗って御旅所へ渡御する祭神であり、それに供奉するのが山車である。都市化が進行した現在では、伝統的な祭礼が急速に衰退、消滅しつつあるが、山車の登場する祭りは、多くの観衆を集めて活発に行なわれており、現代では神輿にかわって、祭りの中で最も注目される存在ともなっている。
さて、愛媛県内で山車というと、六種類に分類できるかと思われる。
第一には北条ダンジリのように木枠に笹竹を飾る単純な構造のものである。第二は、屋台形式で、二、三層にわたり精緻な彫刻を施したもの。つまり西条市などに見られるものである。第三に布団屋根の太鼓台である。これは新居浜太鼓台をはじめ、越智郡の「布団ダンジリ」、南予地方の四ツ太鼓もこれに含まれる。
これらは、一八世紀に東予地方では屋台が見られ、その一世紀後に太鼓台が見られ、また、明治時代初期以前には北条にダンジリが登場するという歴史的過程がある。どのダンジリの形態が古くて源流であるとの系統立ては困難であるが、形態上からは、もともと北条ダンジリのように木枠のみの単純な構造であったものに、西条ダンジリのように高欄を巡らし彫刻を施して飾り付けて派手とするか、布団を屋根に乗せ、さらに周囲を刺繍で飾って派手にするかで発達の様式が決定したものと言えるだろう。
第四に南予地方の山車が挙げられる。これは「ダンジリ」という呼称は地元では聞かれないが、人形屋台の一種で、中、東予には見られないものである。ただし、大阪の地車(ダンジリ)に共通する部分が多く、山車の一種に分類してみた。
第五は数は少ないものの県下広範囲に見られる船型山車で、第六は南予地方の祭礼の花形である牛鬼である。牛鬼は神輿渡御の露祓いから発達したもので、もともと山車とは別種のものと思われるが、現在では大型化し、祭礼の中でも布団太鼓と鉢合わせをするなど、山車的な要素も強くなっているので加えてみた。
愛媛においては、祭礼の中で「曳いて見せる」文化は、一九世紀(以前)的なものと言え、近年では山車を担ぐことによって、「見せる」要素が強くなったと考えている。南予地方の牛鬼についても、一九世紀に描かれた絵巻を見ると、すべて担ぎ手は胴体の中に入っているものの、現在では外に体を出して担ぐのが一般的となっている。現在でも明浜町や三瓶町では人が中に入って担いでいるが、これは古風な担ぎ方を伝承している地域なのだろう。また、西条市のダンジリも現在は人間が外に出て担げるようになっているが、「伊曽乃神社祭礼絵巻」(伊曽乃神社蔵、江戸時代末期成立)を見ても、人は中に入って担いでいる。つまり、一九世紀には、担ぐ姿を「見せる」という祭りの雰囲気ではなく、装飾を見せるのが一義だったのではなかろうか。このように、山車の曳き方、担ぎ方の歴史をたどっていくと、一九世紀から二〇世紀にかけての祭礼における「見せる」要素の変遷がわかり、人々の祭礼に対する思いの変化も理解できるのではないか。
(参考文献:大本敬久「四国の祭礼山車」、植木行宣・田井竜一編『都市の祭礼−山・鉾・屋台と囃子−』岩田書院、2005所収)
●四ツ太鼓(布団太鼓)について
布団太鼓とは、台組や櫓組の中に太鼓を据えて、少年が乗り込み打ち鳴らすもので、形式は四本柱の上に何重もの布団を乗せることが多く、布団ダンジリ、太鼓台とも呼ばれる。
布団太鼓は、江戸時代に上方で発生したもので、一八世紀後半から文化、文政期頃に、現在にように布団を積み重ねた形の太鼓台が、海上交通の発達と相まって西日本各地に伝播した。現在、太鼓台は東限は三重県(名張市平尾町の宇流布志禰神社祭礼)にあり、近畿地方では大阪府、京都府、奈良県、和歌山県の一部に見られるほか、山陽地方、四国各県に、九州では大分県、宮崎県、長崎県に点在している。
愛媛県内では、川之江市、伊予三島市に七重の蒲団屋根で、高欄にかけ布団を乗せる太鼓台(宇摩型)があり、新居浜市、土居町、西条市に上幕、高欄幕を吊すいわゆる新居浜型太鼓台がある。なお、土居町では、戦前は宇摩型が主流であったが、近年は新居浜型へと変化している。また西条市や東予市には、ミコシもしくはミコシダンジリといって、車輪の付いた太鼓台も見られる。同様の構造のものは大三島町宮浦にも存在するが、これは大正時代以前に西条から流入したと推測されている。大三島を除き、これらは金糸の刺繍で豪華に飾られた太鼓台であるが、瀬戸内海島嶼部には、装飾の簡素な布団太鼓が弓削島、大三島、津和地島など各地にあり、これらは地元で「ダンジリ」と呼ばれている。また、南予地方各地にも布団太鼓はあり、「四ツ太鼓」と呼ばれ、南宇和郡では「ヤグラ」とも呼ばれている。これらは新居浜太鼓台のように豪華絢爛に発達する以前の、いわば太鼓台の原型と言える形をとどめているものと考えられる。なお、南予の「四ツ太鼓」の呼称は、櫓の中央で太鼓を囲むように子供が四人乗ることに由来すると思われるが、これと同じ呼称が和歌山県御坊市にもある。しかし、両者の関係は不明である。
(参考文献:大本敬久「愛媛の祭礼風流誌」、『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第6号、2001所収)
●御車(人形屋台)について
南予地方の祭礼には、西条ダンジリや新居浜太鼓台ほど有名ではないが、人形を乗せた山車が各地に登場する。高欄付きの台の上に人形を乗せ、唐破風屋根で覆い、台下にて三味線や鉦、太鼓をたたくという構造である。台の部分には木彫りの鮮やかな彫刻がある。現在、三崎町、伊方町、保内町、明浜町、吉田町、御荘町の南予六つの町の祭りに登場するが、戦前には八幡浜市や宇和町、宇和島市でも出ていたが次第に少なくなってきている。
(参考文献:大本敬久「愛媛の祭礼風流誌」、『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第6号、2001所収)
●御舟(船型山車)について
県内の船型山車については、おおまかに三種類に分類することができる。一つ目は宇摩平野のもの、二つ目は大西町紺原のもの、三つ目は南予地方のものである。
宇摩平野で代表的なものとしては、川之江市川之江町東浜から出される船型の山車で、「関船」と呼ばれるもので、八幡丸とも呼ばれる。船体は全長六メートルで、前後に車の付いた台に乗せ、回転可能となっている。船体は黒漆塗りに仕上げ、周囲に金糸で縫った飾り幕を巡らす。先にも挙げた文化年間の史料「役用記」にも記載されており、十九世紀初頭には祭りに取り入れられたものである。このような飾り幕を巡らす船型山車は、現在は川之江市、伊予三島市、土居町に見られ、戦後間もなくまでは新居浜市大島や土居町藤原にも存在した。「伊曽乃神社祭礼絵巻」にも描かれており、江戸時代には西条にもあったことがわかる。つまり、現在、大規模で、金糸の立体刺繍の飾り幕が装飾された太鼓台の存在する地域と重なっている。この地域の船型山車も金糸の立体刺繍が施される豪華な装飾が施されているという共通性が見られる。
次に、越智郡大西町に一台のみであるが、紺原地区に船御輿と呼ばれる船型山車がある。全長約六メートル、幅約三メートル、高さ約三.五メートルの屋形船風の山車である。船上では、大山積神を形にした白髪の翁人形と、筆を手にした藤原佐理(三蹟の一人)の人形が向かい合って座っている。その由来は、平安時代、藤原佐理が大宰府の長官の任期を終えて都へ帰る途中、瀬戸内海が嵐となり、立ち往生した。その時、夢に大山積の神があらわれ、大山積神社の神額を書くのなら、嵐はおさまると神託があった、そこで、佐理は舟板に「日本総鎮守大山積大明神」と書いて奉納すると、嵐は静まり、無事京都に帰着することができたという。この神額を書いた地が神野原(紺原)の海岸であったといわれており、その時、佐理を村の人々が船御輿に乗せてお連れしたと伝えられている。山車に飾られる人形・装飾は、牛若丸と弁慶や太平記、記紀神話などの故事に基づくものが多いが、この山車の装飾は地元の伝承にもとづいているものとして興味深い。
次に、南予地方のものであるが、現存するものとしては、吉田町立間八幡神社祭礼に登場する「御船」と呼ばれる船型山車と、保内町三島神社のものがある。吉田の御船は、天保六年成立の「吉田祭礼絵巻」にも描かれており、江戸時代後期には既に祭礼に出されている。吉田藩主の御座船を模しており、周囲の幕には伊達家の家紋が付けられている。このような船型山車は「宇和津彦神社祭礼絵巻」(宇和島市立伊達博物館蔵)にも描かれており、江戸時代には宇和島でも見られた。また、八幡浜市八幡神社の祭礼にも戦後間もなくまで登場していた。形状はどれも御座船を模したもので、類似しており、江戸時代に宇和島で登場していたものを周囲が真似て、伝播したものと思われる。
(参考文献:大本敬久「愛媛の祭礼風流誌」、『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第6号、2001所収)
●牛鬼について
南予地方では、多くの祭りに牛鬼という、顔は牛とも鬼ともつかない形相で、胴体が牛を象った作り物の鬼が登場し、祭りを盛り上げる。この牛鬼は、祭りの当日、神輿渡御の先導を務めたり、地区内の家々をまわったりして、露祓い、悪魔祓いをする役割を果たす。祓いだけではなく、西条祭りの鬼頭のように、ダンジリが暴れたり、行列を乱すことのないように、祭りを統括することもある。祭りの中に登場する鬼は、凶悪な怪物というよりも、逆に人々に福をもたらしたり、祭りを管理したりする存在でもあり、祭りに欠かせない役柄といえる。
牛鬼は南予地方周辺地域の祭礼に登場する顔は牛とも鬼ともつかない形相で、胴体は牛を、尻尾は剣をかたどった練物の一種で、神輿渡御の先導を務め、悪魔祓いをしてまわる。
この牛鬼の出る祭りは愛媛県南予地方のほぼ全域のほか、上浮穴郡小田町、越智郡菊間町にあり、かつては、上浮穴郡柳谷村や久万町にもあった。また、南予地方と隣接する高知県側では檮原町、十和村、大正町、西土佐村、宿毛市に分布し、その数は約百五十箇所にのぼる。このように牛鬼は旧宇和島・吉田藩領を中心として、その周辺地域に分布しており、旧大洲、新谷藩領内でも宇和島に近い地域に濃厚に見られる傾向があるなど、旧宇和島藩領からその周辺に伝播したと考えられている。なお、旧宇和島藩内にて牛鬼が各地に伝播した要因の一つとしては、宇和島藩の一宮といわれる宇和島市野川の宇和津彦神社の祭礼(一宮祭礼)を藩領内各地の神社が模倣したことにより広まったことが挙げられる。
牛鬼がいつの頃から祭礼に登場するようになったかは不明であるが、一八世紀後半以降南予地方各地の祭礼に登場していることが確認できる。確認されている最古の史料は、現東宇和郡宇和町田苗真土の亀甲家文書の中の天明四(一七八四)年「牛鬼練物仕成諸入用人数面付帳」(伊予史談会編『郷土古文書等調査報告書』一九七六年)である。なお、史実とは異なると思われるが、牛鬼の起源伝承として、加藤清正が朝鮮出兵の際に敵を威圧するために用いたのが始まりである(宇和島市)とか、大洲太郎が赤布で牛鬼を作って敵を退治した(大洲市)とか、宇和島藩主の許しを得て、狼退治のために牛鬼を作ったのが始まりである(御荘町)などと、様々な起源伝承が各地にある。
牛鬼の呼称については、「ウシオニ」、「ウショーニン」、「オショウニン」等があるが、先にも挙げた江戸期の文献史料には「牛鬼」と表記されており、「ウシオニ」が原初的な呼称であろう。
牛鬼の一般的な形態としては、ドンガラと呼ばれる胴体が全長三から七メートル程で、竹を割って牛の胴体のように編まれ、赤や黒布もしくはシュロの毛で覆われている。尻尾は剣を象ったもので、木製である。首は全長二から四メートルほどの丸太でつくられ、その先に頭をつける。頭は牛とも鬼ともつかないような形相で、張り子で製作される。これは江戸時代後期製作のものも同様であり、木製のものは県内では確認できず、高知県宿毛市沖の島の母島地区に残る牛鬼の頭が唯一である。なお、これは昭和初期に地元で製作されたもので、現在では使用されず、張り子製の頭に取って代わっている。
牛鬼の祭礼の中での役割は、神輿渡御の先導・露祓いや地区内の悪魔祓いなどの祓え的機能が基本的性格である。なお、神社祭礼だけではなく、七夕や盆に牛鬼が登場する地区もある。宇和町窪や明石では、盆の先祖霊を迎えるために牛鬼で家々を祓い清めるのである。牛鬼の顔の形相の恐ろしさは、祓いを一義としていることからきているのであろう。
さて、牛鬼の頭は、頭の基本部に二本の角、左右の耳を付け、三日月もしくは日輪の形をした前立物を額に乗せている。また、馬毛もしくは棕櫚を髭として垂れ下げるのが一般的な形である。
牛鬼の頭は、牛とも鬼ともつかない形相をしているが、その表情は一様ではなく、地域により異なっている。一般的には宇和島地方の牛鬼の形相が有名であるが、頭の様式を大まかに分類すると、上浮穴郡型、喜多郡型、西宇和郡型、宇和島型、南宇和郡型、その他に分けることができる。
上浮穴郡型は小田町やかつての久万町、柳谷村で見られたもので、顔が完全に牛の表情をしており、鬼の要素は感じられない。牛鬼に笹などの餌をくわえさせたり、鼻緒を付けるのも特徴である。このような牛の顔をした牛鬼は、五十崎町など一部喜多郡にも見られるが、旧宇和島藩から離れた地域において独自に発達している。この地域は、例えば小田町本川の広瀬神社の奉納絵馬のように、牛の頭をかたどった絵馬などを神社に奉納することがあり、牛が神の使いであるという信仰が根強く見られる。神輿渡御の先導をする牛鬼についても、牛が強調され、鬼の要素が薄れたものと思われる。
喜多郡型は、大洲市、喜多郡に見られるもので、上浮穴郡型のように牛の表情にも近いが、顔に皺をよせて恐ろしさを強調しているものが多い。上浮穴郡型と宇和島型の中間形式とも言える。
西宇和郡型は、八幡浜市周辺に見られるものである。八幡浜市大島のように、鬼としての恐ろしさが薄れてはいるが、形状は宇和島型に似ており、宇和島市に残る明治時代の牛鬼の頭に類似しているという特徴がある。宇和島型の亜流といえるが、宇和島型の古い形式ともいえる。
宇和島型は、現在、最も一般的とされる型で、牛鬼の中でも、最も恐ろしさを強調しているものである。西宇和郡型に比べると、口を大きく開け、牙をむき出しにし、眼光を鋭く表現している。これは、戦後、宇和島市の張り子職人宮川氏が完成させたもので、現在でもその後継者が唯一の牛鬼職人として活躍している。宇和島地方だけでなく、近年新調した牛鬼のほとんどはこの型のものとなっている。
南宇和郡型は、南宇和郡全域に見られるものである。丸型を基調として、眉や鼻を強調し、牙を並べて恐ろしさを強調している。また、前立物は、他地域では三日月型であるが、南宇和郡では日輪型がほとんどである。この牛鬼の型を考案したのは、南宇和郡御荘町の末武家で、明治時代初期から代々受け継がれながら製作し、南宇和郡型の牛鬼を定着させている。
その他に、上記では分類できない牛鬼もある。喜多郡長浜町櫛生、東宇和郡明浜町狩江、北宇和郡日吉村上鍵山の牛鬼である。これらは、南宇和郡型と同じく、丸型を基調としているという共通性を持つ。いずれも、牛鬼の分布からすると、周縁部に位置するものであるが、牛鬼の分布に関して、宇和島市を中央部と見た場合、周権論的に見れば、これが牛鬼の古態を示していると言えるのではないだろうか。つまり、牛鬼は、かつては丸型を基調としていたが、宇和島型へと発展し、一部喜多郡、上浮穴郡では、伝播する際に、鬼の要素が解消されて、牛に近い表情となったのだろう。そして南宇和郡では末武家によって、古態をとどめた丸型を基本として、その顔のパーツを強調し、現在の型となったものと思われる。
このように、牛鬼の頭の分布を見ると、分布の中央部にあたる宇和島地方に新しい型の牛鬼があり、南予地方の周縁部にいけば古態の型の牛鬼が見られるという傾向があると言えるのである。
なお、現存する最古の牛鬼の頭は、喜多郡肱川町大谷で使用されたもので、肱川町立歴史民俗資料館が所蔵している。江戸時代後期に製作されたものであり、文政年間ともいわれる。その他に古い牛鬼としては、内子町掛木の牛鬼で、これは明治時代初期に、地元の瓦職人が全国の社寺の護符を張り付けて製作したと伝えられるものである。この牛鬼のように、古い牛鬼には神社の御札を張り合わせて製作したものが多い。これは牛鬼に悪魔祓いとしての性格を付帯させることを意図したものと考えられる。
先にも述べたとおり、牛鬼は南予地方周辺にのみ見られるもので、全国的に比類を見ない祭礼の練物である。ただし南予地方周辺以外で唯一牛鬼の出る祭りがある。お供馬で有名な越智郡菊間町浜の加茂神社祭礼である。この牛鬼は、南予地方のものとは異なり、頭を張り子ではなく、箕を重ね合わせて作られている。この製作方法は愛媛県内では類例を見ない。
(参考文献:大本敬久「牛鬼論」、『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第4号、1999所収)
●唐獅子(獅子舞)と五ツ鹿(鹿踊)について
県内に伝承されているシシ舞は大きく二種類に分類できる。一つは一般に「獅子舞」と言われる二人立ちシシ舞、もう一つは「鹿踊」と言われる一人立ちのシシ舞である。
二人立ちの獅子舞の主な分布は、東予では川之江市、西条市、東予市、周桑郡、今治市、越智郡など、中予ではほぼ全域、南予では宇和海沿岸部である。
川之江市の獅子舞は中所にあり、三人の童子が太鼓をたたいて興じているところへ獅子が戯れ寄り、それを童子が撥で退けるといった内容である。これは天保二(一八三一)年に庄屋が我が子の病弱の快癒祈願のため始めたと伝えられるが、獅子舞の多く分布する隣接の香川県のものに類似しているので、そこから伝播したと考えられる。宇摩郡地域では唯一の獅子舞である。
次に西条市には、千町や大保木など比較的山間部に見られる。西条市の平野部ではダンジリが祭りの主流であるが、山間部にはダンジリは見られず、獅子舞が分布しているのである。
周桑郡の獅子舞は「ムカデ獅子」とも呼ばれ、二人以上の多人数立ちで、油単に数名が入り、横に巨大化した獅子である。これを縦(上下)に巨大化させたものに、今治市、越智郡の獅子舞である「継獅子」と呼ばれるものがある。若者が基壇となってその上段に男子の獅子が扇子等の採り物を持って諸芸を披露する曲芸的なもので、祭りの中で最大の呼び物である。多くは獅子の他に、獅子が演じる場所の四方を固めるダイバ、獅子をからかうオヤス、少年の扮する狐が登場する。
越智郡でも島嶼部では、軍配を持つ少年が獅子と相対し、鳴物に太鼓とササラが用いられるのが特徴である。例えば、上浦町甘崎では、演じる少年が「獅子とめ」と言われ、豪華な衣装をまとう。その衣装は、重ね着物に肩脱ぎし、胸の部分に七色の前垂れを付け、腰には金糸による刺繍が施された化粧まわし等をつけ、華やかに着飾る。頭には、金色の扇状の飾り物、右手には軍配、左手に刀を持つ。この越智郡島嶼部では、獅子とめの子供の衣装を以て、祭りの中で「見せる」要素としており、甘崎の場合、以前はダンジリが存在したものの、廃れてしまい、獅子が注目される祭りとなっている例があるのである。
さて、もともと獅子舞は、祭礼の中では神幸行列に加わったり、地区内の家々を廻って庭先で舞うことで悪魔祓いを行なうことが期待されている芸能である。しかし、中予地方の獅子舞では、猿と狐が登場して種蒔きを真似したり、畑荒らしを演じたりと、五穀豊穣を祈願する要素も見ることができる。ところで、松山市内では、昭和五〇年代まで、秋祭りの際に、道後において近隣の獅子舞の競演大会が開催されていた。その影響からであろうか、他地区の獅子舞と差別化をはかろうと、リズムを早くしたり、衣装を新調するところが出てきたという。この地方の獅子舞は、髪を振り乱すほど獅子頭を激しく揺さぶるなど、東、南予のものと比べて、動きの緩急が大きい。山車の見られない地域である中予では、越智郡のような曲芸や衣装を凝らすのではなく、芸態そのものに派手さを求めているのである。
なお、南予地方のうち、大洲市、喜多郡の獅子舞は中予のものに類似しており、オヤジ、オヤス、猿、狐が出る演目が主である。南予地方でも八幡浜市、西宇和郡以南の獅子舞は「唐獅子」や「荒獅子」と呼ばれ、獅子を操る少年は派手な衣装に襷、鉢巻き姿で太鼓を打ち、獅子は翻弄されるように荒れ狂い、やがて鎮められる。分布は宇和海沿岸部に集中しており、山間部にはあまり見られないのが特徴である。ところで、南予ではもう一つのシシ舞である「鹿踊」があるが、同一の祭りの中で両者が登場する例は多い。鹿踊は悪魔祓い的性格は薄く、祝福芸としての性格が強いため、同じシシ舞ではあるが、共存が可能となっているのであろう。
その鹿踊についてであるが、一人立ちで張り子でできた鹿頭をかぶり、胸に鞨鼓を抱え、横縞模様の幌幕で半身を覆って踊るもので、南予地方周辺の祭礼に登場する民俗芸能である。一人立ちの鹿踊(シシ舞)は、全国的に見ると東北地方をはじめとする東日本に広く分布しているが、西日本では、福井県小浜地方と愛媛県南予地方周辺にのみ見られる。南予地方の鹿踊は、江戸時代初期に、宇和島藩初代藩主伊達秀宗が宇和島に入部した折に、仙台から伝えられたと言われているもので、源流は東北地方にあり、仙台周辺の鹿踊と共通する点が多い。ただし史料上、宇和島藩領内で、広く鹿踊が踊られていたのを確認できるのは、一八世紀半ばの宝暦年間以降(「小原村清家日誌」伊予史談会蔵)であり、史実として伊達秀宗の入部時に仙台から伝播したとは確認できない。
また、鹿踊は南予地方でも旧宇和島、吉田藩領内とそれに隣接する地域に分布しており、牛鬼と同様に、宇和島地方からその周辺に伝播したもので、現在、約百箇所で踊られている。名称は「シカオドリ」、「シシオドリ」、「カノコ」等であるが、踊る人数によって「○ツ鹿」と呼ばれることが多い。踊る人数は地域によって異なり、宇和島市や城川町窪野等では八人で踊る「八ツ鹿」、吉田町等では「七ツ鹿」、城川町下相等では「六ツ鹿」であるが、ほとんどの地区は五人で踊る「五ツ鹿」である。
鹿踊で使用される面の中で古いものとしては、宇和島市裏町一丁目(安政四年)、城川町下相(嘉永四年)、広見町清水(嘉永六年)の鹿面などが知られる。これらはいずれも江戸時代末期に、宇和島城下に住んでいた張り子職人森田屋礒右衛門が製作したものであることが、それぞれの鹿面に記された墨書からわかっている。
さて、南予の鹿踊のルーツは東北地方であるが、東北地方の鹿踊は、六頭から十二頭までの多頭の一人立ち獅子が陣形を組んで踊るもので、その系統はいくつかにわかれる。宮城県には仙台市を中心に「仙台鹿踊」と称するものと、宮城県北部から岩手県南部にけかて、ササラという背中に長い竹を背負って振りたてて踊る「行山流」の系統をひくものとがある。南予地方の鹿踊は秋祭り等の神社祭礼の練物として登場するが、東北地方の鹿踊は、盆に家々を巡り、祖霊供養と五穀豊穣を祈る踊りであるという違いがある。また、旧仙台藩領内である岩手県江刺市の鹿踊の場合、踊り手が踊りを修得した際に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石造の鹿踊供養塔を建立する。このように、東北地方の鹿踊は、盆の死者供養や「南無阿弥陀仏」の銘が示すとおり、仏教的な側面が色濃いのである。神社祭礼にのみ登場する南予鹿踊とは対照的である。
また、鹿頭も、南予地方のものは鹿を模した形状であるが、東北地方の頭は、鹿ではなく、獅子という恐ろしい形相を示している。このことから、鹿踊のことを南予地方では「シカオドリ」と呼ぶが、東北地方では「シシオドリ」と呼んでいる。
南予地方の鹿踊の頭は、鹿のままで恐ろしさを付帯しなかったのは、盆の先祖供養ではなく、神社祭礼の練物として定着したことと、その練物の中に、牛鬼や獅子舞といった、祓えの役割を担うものが他に存在し、鹿踊には除災ではなく、招福が期待されたため、優美な芸能として今日に至っていると考えられる。
このように、南予鹿踊は、形態上は東北鹿踊と共通する点も見られるが、踊り自体、東北地方は勇壮であり、南予地方は優美であるといった違いがあり、その要因は鹿踊の供養的側面といった機能が東北地方から南予地方には伝わらなかったことに求めることができる。つまり南予鹿踊は、東北からの伝播当初から神社祭礼の練物として取り入れられていたのだろう。
さて、南予の鹿踊の説明としてよく聞くことのできるものに次のようなものがある。南予地方の鹿踊は、江戸時代に仙台から宇和島に伝えられた当時は、八人で踊る「八ツ鹿」であったが、宇和島から各地に広がるうちに鹿の数が減り、現在は五人で踊る「五ツ鹿」が一般的となっているという俗説である。
ところが、宇和島城下で踊られた鹿踊、つまり宇和島市裏町一丁目の鹿踊は、現在では「八ツ鹿」であるが、江戸時代後期の宇和津彦神社祭礼を描いた「宇和津彦神社祭礼絵巻」(宇和島市立伊達博物館蔵)を見ると、五ツ鹿であり、明治時代以前には五ツ鹿もしくは七ツ鹿であった。実際には大正時代に宇和島に摂政宮(後の昭和天皇)が来られた際に、台覧に供するために八ツ鹿に変容させているのである。この影響からか、昭和初期の東宇和郡や南宇和郡の鹿踊は「八ツ鹿」と呼ばれている。
また、宇和島市の隣の吉田町は、現在では七ツ鹿であるが、大正時代以前の祭礼の様子を描いた絵巻、例えば「吉田祭礼絵巻」(原本天保六年成立、大正五年の写本を当館所蔵)には五ツ鹿で描かれており、近代になって、五ツ鹿から七ツ鹿へと変容したことがわかる。
つまり、南予地方の鹿踊は、仙台から伝えられた当時が何頭であったかは不明だが、少なくとも江戸時代後期には五ツ鹿が主流であり、これが宇和島から各地に伝播したと考えられる。
なお、城川町窪野にも八ツ鹿があるが、これは文政年間に地元の庄屋が仙台から鹿踊の師匠を招いて習い、八ツ鹿としたという伝承がある。この窪野の八ツ鹿は周囲に伝習される際に、一頭減らさないと教えないといい、伝えられるごとに、実際に一頭減らしている。鹿踊は八ツ鹿が原型で五ツ鹿へと減っていったという俗説は、このような史実が一般論化されて広がっていったものと思われる。
ところで、城川町窪野から伝播したと伝えられる鹿踊は、南予地方山間部、つまり城川町、野村町、肱川町に見られるもので、南予の他地域と若干、衣装が異なり、背中に笹を背負うのが特徴である。
(参考文献:『愛媛まつり紀行』愛媛県歴史文化博物館企画展図録、2000年)
●相撲練りについて
化粧廻しをつけた八〜一二名の子供力士が円陣を組み、立行司の語る文句に合わせて踊るもので、演じる者はほとんどの地区が小学生である。南予地方の祭礼の練りに加わるものであるが、現在の分布は、大洲市上須戒、平地(現在中断)、長浜町出海、八幡浜市川名津(平成八年より中断)、舌間、真網代、保内町川之石楠町、伊方町河内、瀬戸町川之浜、三崎町三崎、三瓶町朝立、明浜町狩浜、高山、野村町惣川、宇和島市三浦大内、日吉村上鍵山、内海村家串にあり、西宇和郡、八幡浜市近辺に多いという特徴がある。旧宇和島藩・吉田藩領内の分布がほとんどであるが、一部、旧大洲藩領内にも見られる。大洲市上須戒では、天保年間(一八三〇〜四三)に、宇和島藩側から移入したと伝えられ、また、同じく大洲藩であった長浜町出海も、宇和島藩に隣接する位置にあり、宇和島藩側からの伝播と考えられる。
『愛媛県の民俗芸能−愛媛県民俗芸能緊急調査報告書−』(愛媛県教育委員会、一九九九)が引用している宇和島市三浦の田中家文書によると、天保一五(一八四四)年八月二九日「天神宮祭礼の節、大内浦より角力礼差出度く願済」、同年九月一八日「大内浦相撲礼八番に相立、船隠よいやさ、千代浦牛鬼は其の後一相廻候様申し聞かす」とあり、宇和島市三浦大内では、この年に相撲練りが始まっていたことがわかる。また、野村町惣川でも、祭礼に取り入れられたのが天保年間と伝えられており、この時期に南予地方各地に伝播したことが推測できる。ただし、その伝播の要因や、相撲練り自体を最初に始めた祭礼がどこであったかは不明である。なお、西宇和郡や八幡浜では、明和六(一七六九)年に、八幡浜浦八幡神社で始められたのが最初という説明がなされることが多いが、史料上では確認できない。八幡浜市舌間では、佐田岬半島方面から伝習したという伝承があり、また、伊方町河内や瀬戸町川之浜では、保内町楠町のものを伝習したと言わる。三瓶町朝立でも、明治時代初期に八幡浜方面から習ったと伝えられており、現在、西宇和、八幡浜方面に多く分布するのは、明治時代に各所で伝習し合ったことによるものと思われる。
(参考文献:大本敬久「愛媛の祭礼風流誌」、『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第6号、2001所収)
2006年8月12日にメールでいただきました。
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