第17回学習会報告 童子鼻に三崎製錬所跡を訪ねる 岡崎 直司
見・聞・録9号より     「眠れる森の石垣」2002年2月2日 参加者10名
 これ程の産業遺産が眠っていようとは。いや、この写真の石垣群の在りようのことだ。
 以前から三崎町の童子碆には、かつて製錬所があった、ということは聞いていた。一度はこの目で見ておきたい、と思いつつ、しかし、実現しないままに時が経過していたのだった。それが、昨秋のこと、県の近代化遺産調査の一環で、若手スタッフの一人から、「三崎に凄いものがありましたよ!」といくつかのデジカメ映像を見せられた。当然、私の目は釘づけである。エッ、ナンダコレハ!
 それまでに見たことのない石積み風景だった。アーチ形状の開口部が一段に等間隔で並び、しかもそれが斜面に沿って階段状に平行して延びている。しかもしかも、その間には無数の雑木が縦横にニョキニョキと林立し、この遺構の眠っていた時間的迫力を示していた。
 これまでに私は何度もすぐ近くの三崎町井野浦へ通っている。そこには私の好きな空間、「畑を囲む石垣」の風景があるからだ。かつてあった「ジ・アース」という地域誌に「石垣のある風景」を連載する際も、この場所からスタートした。去る平成6年10月には、地元の若者塾「さきがけ橘塾」主催による「石のシンポジウム・人と自然の共生 新時代の地域づくり」が、まさにこの現地空間で野外開催されもした。が、ついぞその時も、こうした眠る石垣群のことについて会話されることは無かったのである。
 やはり、全てのことにおいて、時間を惜しまず、取り敢えずは現地を押さえること、必ずこの目で現物を見ておくこと。そうしたウォッチング道の基本中の基本を、改めて思い知らされることとなった次第。
 ハテサテ、そんなこんなで、年明けにやっと時間を作り感動の現場体験を済ませた後、日を経ずして2月2日の学習会で、計らずも現地再訪となった。阿弥陀池の周回道路から逸れ、ミカン畑の続く斜面地を20〜30分歩かねばならないので、案内者が居ないと、チョイト現地到達は難しい場所。地元の人の間でも口の端に上らないハズである。全く目立たない。そうした、まるで人の目に触れない立地条件下で残るこの石垣群こそ、冒頭で述べた「三崎製錬所」の遺構なのだった。
 町誌によると、35基の焼鉱窯があったことになっていて、現地のアーチ型開口部一段に5ヶ所認められるから、都合7段の施設があったことになる。しかし歳月の経過で形の崩れた箇所もあり、正確な断定は避けておこう。加えて、当時の製錬技術は、現在のような公害対策が整っていなかった為、周辺の魚村民による反対運動も苛烈で、人為的な破壊もあったらしい。
 ともかくも、それでも尚、これだけ立派な初期製錬施設としての残存状況は、寡聞にして聞いたことがない。保内町須川の柳谷銅山より規模が大きく、伊方町女子岬*や佐島製錬所*にも、ここまでの遺構は無い。
 幕末から明治にかけて活躍した立志伝中の人物長州の久原房之助の興した久原興行(のちの日立鉱山)などもこの地に関わっていたとされるが、そうした歴史背景も実に興味深い。それら三崎製錬所のベールの部分については、分かる範囲で次回に迫ってみることとしよう。ある時期、銅で栄えた保内との対比で眺めるのも好奇心がくすぐられる気がする。(2月22日受け)

[語句解説]
 <伊>「伊方町誌」昭和62年発行   <三>「三崎町誌」昭和60年発行   <朝>「朝日人物事典」1990年発行
三崎町の童子碆・・・・「岩礁を碆と三崎では呼んでいる。」 <三>
「ジ・アース」・・・・1989年1月創刊の「The Earth(接地線)」 編集・発行人:忽那 修徳 奇数月の隔月 年6回で39号まで発行。
         手元にある第35号(平成6年9月)で「石垣のある風景 VOL.23」とあります。
阿弥陀池・・・・・・・・「井野浦の童子寄りの砂浜は台風時の波浪で砂がせり上げられ、閉鎖した潟湖(せきこ)である。」 <三>
           参考 伊方町の加周池(亀ヶ池)は周囲4km、面積13ha、最深部9mの県下最大の潟湖。
町誌・・・・・・・・・・・・日清戦争(1894〜95)後の軍需産業の発達から1900年(M33) 三崎製錬所設置。
1902(M35)付近の農漁業に煙害を与えるので、 青年100余名が同所をおそい、焼窯35のうち、33を破壊し、その他の設備にも致命的な打撃を与えた。
1908(M41)明治製錬会社三崎製錬所、銅価暴落のため当分営業を中止。
今でも、周辺の海岸には黒ずんだ処理廃石が散在し、往時をしのばせている。 <三>
         参考 1893(M26) 「高浦鉱山」の経営は矢野荘三郎が行うことになった。
伊方町女子岬・・・・「明治31年宇和鉱業が女岬に製錬所を設置し、稼動を始めた。〜明治44年明治製錬会社に売り渡され、大正初期閉鎖・ 廃止された。」(878ページ)  <伊>
佐島製錬所・・・・・・・明治26年(1893)川之石村の伊予製鉱会社によって設置され、製錬が始められた。明治40年、大阪の明治製錬(株)が買収。
大正2年向灘地区の麦作が特に大きな被害を受けた。煙害調査委員会を結成し、交渉することになった。第一次世界大戦(1914〜18)後おそってきた経済不況の波を乗り切ることができず、ついに大正9年(1920)閉鎖することとなった。 <伊>
久原房之助(くはらふさのすけ)・・・・1869(M2)〜1965(S40) 実業家。政治家。森村組、藤田組を経て、05年独立。 茨城県の赤坂鉱山を買収して日立鉱山と改称。11年久原鉱業所を創立して成功をおさめ、各地の鉱山を買収した。
14年(T3)の第1次大戦勃発とともに、石油・海運・運搬・製鉄・生命保険・商事などの分野に進出して巨富をつんだが、 戦後恐慌で大打撃を受けた。28年(S3)久原鉱業などの経営を義兄に委ね、政界入り・・・。 <朝>

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