第19回学習会報告 今出銅山探訪記 岡崎 直司
見・聞・録11号より   今まで二度空振りをしているので、やっと実現した今出銅山の探訪である。これもひとえに丸山国夫先生にご紹介いただいた日土史談会の井上淳弌氏のお陰である。しかも、念入りに健脚の小野篤美氏をガイドに立てて頂き、万全の構えでお迎え頂いた。また、当日集合場所の青石中学校前へ伺うと、既に20名ばかりの人たちがお集まりで、いつも10名に満たない面々で行っている学習会としては、驚いてしまった。それだけ、地元日土の方々の熱意が伝わり、申し訳ないやら嬉しいやら。
 さて、今出銅山であるが、これまでに丸山先生のご研究によって、「今出銅山の変遷」が昭和59年10月に、また「今出銅山の発祥・片河(かたこ)銅山」が平成6年にそれぞれまとめられている。それらを参考にさせて頂くと、1714(正徳4)年大阪の和泉屋吉左衛門が今出銅山の開発許可を宇和島藩から得ている。和泉屋(後の住友)は、1691(元禄4)年にやがて世界的大鉱山となる別子銅山の歓喜坑で採鉱を開始しているので、その23年後、余勢をかって各地を探索していたのかも知れない。
 結果を先に言うと、今出銅山に終止符が打たれたのは1963(昭和28)年、鉱石品質制限と価格低落の為ということなので、すると1714年の文献からナント240年の永きにわたって存続した大銅山だったということになる。もっとも、途中で採鉱を中止したり何度も紆余曲折があるようなので、あまり単純には言い切れないが、しかし、地域におけるその歴史的価値には目を見張るものがある。その銅山遺構を、我々は今目の当たりにしようとしているのである。気にならない訳が無い。
 当初、私は、ナタや鎌など用意して行かないと、さあ現地までたどり着けないかも知れない、とかなり威されていたので、いよいよこの日、実は期待と不安が交錯していた。
 だが、案ずるより産むが易し、的確なガイドの小野さんのリードで、それぞれへご案内頂いた。道も急峻な箇所はあるものの、踏み込めない訳ではない。また、一口に今出銅山と言っても、それはかなり広範囲に分布していて、江戸期の坑口や吹床(ふきどこ)、あるいは近代の焼鉱窯の石垣や索道跡、社宅跡などなど、多岐にわたる。地形的には、喜木川上流の今出川とその支流片河川沿いにあたるが、とてもこうした案内がないと、山中の斜面に一体どう点在しているのか皆目見当もつかない。
 そんな不案内の我々の為に、日土史談会から、ある古地図の写しを配布いただいた。それは、先の日土史談会でまとめられた「今出銅山の発祥・片河銅山」に記載されている幕末期の古文書「八組探遊記」にあった絵地図である。文久4(1864)年に宇和島藩の役人が片河銅山を視察した時の費重な現地図だ。それに基づいての現地説明だから、この上ない臨場感である。
 しかし、こうやって紙面上でその雰囲気を伝えるのももどかしい。歩を進める度に現れる焼窯跡や坑口、鉱山従事者たちの無縁仏、全国的にも貴重な吹床(ふきどこ 写真)という初期製錬の石組施設跡。これら現地の遺構の数々をもっと多くの方々に知ってもらいたい。
 丸山国夫先生を始め日土史談会の方々によって、これまでに標柱が立てられたり、諸々のご努力が底辺にあるだけに、市民レベル的には全く知られていない状況に胸が痛んだ。近代には川之石楠町に選鉱場が建設されて、ここ今出銅山の鉱石が盛んに索道(通称さるぎかい)によって運ばれ、その光景は戦後もしばらく続いたので、今ならまだ記憶している方も少なくない。行政区としては八幡浜市だが、日土の今出は保内町が活況を呈していた時代の一翼を立派に担ってもいた。
 保内、八幡浜に関わらず、より多くの方々にこうした貴重な産業遺産が身近にあることの認知を広めたいものである。それにしても、そうした手がかりとなる貴重な資料をまとめられた有為の方々が、我々の先輩に存在している事にも、我々は意を注がないと申し訳ない限りである。(2002年5月16日受)

[語句]
二度空振り・・・2月は三崎・童子鼻へ、3月は石切り場と須川を歩きました。
日土史談会・・・編集人の手元には 「先人の水利用」(昭和63年)「郷土資料の手引」(昭和63年) 「日土を歩く」(平成7年)の冊子があります。
選鉱場・・・「保内町誌」年表(p1423)には「昭和12 (1937) 年 昭和鉱業(株) 川之石に選鉱場建設」とある。また、「八幡浜市誌」(p687)には「1940(昭和15)年には川之石に大選鉱場を作り、昭和鉱業のニ坑からそこまで約4.5kmの索道を造った。」とあります。 

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