天正から寛文・延宝ごろまでに吉野を名乗る太夫は十人あり、井原西鶴が「なき跡ま で名を残せし太夫、前代未聞の遊女也」と絶賛したのは六条三筋町林兵衛家の二代目 吉野です。本名を徳子といい、慶長十一年三月三日に生まれ、七歳のとき林家に抱え られ禿名を林弥といい、元和五年に十四歳で太夫に昇りました。吉野という名は、彼 女が楼前の桜を見て「ここにさへ さぞな吉野は花盛り」と詠じたからだといいま す。
大変利発な女性で、和歌、連歌、俳諧はむろん、管弦では琴、琵琶、笙をよくし、 書、茶湯、立花、貝合わせ、囲碁、双六に至るまで諸芸はすべて達人の境にあり、そ の名声は遠く明国まで聞こえたそうです。寛永四年には、どうやって知ったのか、明 国呉興からラブレターが届きました。さらにその美貌を証する逸話があります。ある 時、六条廓全太夫の集まりがあり、一同今日を晴れと綾羅錦繍の贅を尽して参例しま したが、吉野の姿が見えません。昨夜上客につきあって暁天まで起きていたので、ま だ寝ていたのです。もういいだろうと起こしにやると、吉野は少しも騒がず、寝乱れ 髪に黒い小袖をひっかけ、おっとりとあらわれて、すまして上座に着きました。その 寝ぼけ顔の美しさ、太夫らは、しばし言葉も忘れて見とれたといいます。加えて、情 の厚さ、心の深さを伝える説話も多くあります。七条の小刀鍛冶駿河守金網の弟子が 吉野を見染め、せっせと小金を溜めたものの太夫を揚げることができない身にほどを 嘆いていると、それを聞き知った吉野は不憫に思い、ひそかに呼び入れて会ってやり ました。ところがこの情が仇となったらしく、寛永八年、吉野は訴論によって年季満 たずに廓を退くはめになり、それを期に上京の豪商灰屋紹益に身請けされました。時 に紹益二十二歳、吉野二十六歳。しかし、この幸せは永く続きませんでした。吉野は 紹益と添うて僅かに十二年。寛永二十年八月二十五日、三十八歳の短い生涯をとじま した。紹益は愛着のあまり、妻の骨灰を飲みほし、佳き妻をうしなった悲しみを「都 をば 花なき里となしにけり 吉野を死出の山にうつして」と詠みました。吉野の墓 は日ごろ帰依していた鷹ヶ峰・常照寺にあり、毎年四月に吉野を偲んで花供養が行わ れます。