コウノトリ (dr Stork, la cigogne)

 

                                 

(1)コウノトリに対するイメージ

                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

               

アルザスはフランスで最も多くコウノトリが営巣している地方で、コウノトリは今日のアルザス風景に欠かせない存在となっている。けれどもそれがアルザスの象徴とみなされるようになったのは比較的最近のことであり、赤ちゃんを運んでくるコウノトリのエピソードも、実はアルザス起源のものではない。それでは、実際のアルザスとコウノトリとの関係はどのようなものなのであろうか。

 

 

アルザスは昔から湿地帯の多いところで、コウノトリが営巣するには好都合な地方だった。というのもコウノトリは肉食で、湿地帯には好物としている蛙、トカゲ、蛇といった両生類や爬虫類などが豊富にいたからである。これらの小動物は害虫であり、悪徳の象徴と考えられていた。たとえばストラスブールやフライブルクの大聖堂の正面門扉にはリンゴを持った悪魔の彫像があるが、その背中には蛇、トカゲ、ヒキガエルがはりついている。また、コウノトリはキリスト教の図像学では、アヴィニヨンの司教だった聖アグリコルの表象となっている。というのも伝説によるとこの聖人は、アヴィニヨンの町が蛇に襲われたときに、コウノトリの一団の助けをかりて蛇を追い払ったと言われているからである。コウノトリの餌となるような蛇は誘惑の、ネズミは破壊者の、モグラは異教徒の象徴とされ、トカゲは蛇や竜と同一のものとして、それぞれ悪の象徴と考えられていたことから、それらを食べるコウノトリは、聖性を持った鳥であり、また正義を体現するものと考えられたのである。

 

 

 

 

コウノトリはまた、親孝行の、あるいは子思いの鳥であり、夫婦間の絆を大切にする鳥であるとも考えられていた。というのもコウノトリは、毎年、常に同じ相手と戻ってきて、同じ巣に住むと信じられていたからであり、たとえ渡りの時が来ても、ヒナドリが渡っていけるくらい飛べるようになるまでは、群れと一緒に旅立たず巣に留まってヒナドリと一緒に生活をすると考えられていたからである。アルザスでよく知られている伝説に、コウノトリが親孝行の鳥であると考えられていたことをよく表しているものがある。セルネーに伝わるこの伝説によると、もともとコウノトリは真っ白な鳥だった。ところがある日、コウノトリの一団がセルネーの近郊を飛んでいると、すぐ下の平野にたくさんの怪我人や死にそうな人や死体が横たわり、死体の上で無数のカラスが不吉な鳴き声を上げながら死体をむさぼり食っているのに気付いた。血は水溜まりのようになり、近くを流れるチュール川は赤く染まっている。コウノトリの女王は、羽を休めている一羽のカラスを見つけ、いったい何が起きたのかとたずねた。するとカラスは、次のように答えた。 

「ルイ敬虔王が三人の息子にやられ、家来たちに裏切られたんですよ。いやはや、それは激しい戦いでした。私たちにとっては大宴会ですがね。いや、私はもう充分に満喫しました」

「それじゃあ!」女王は叫んだ。「これは三人の息子の父親に対する戦いだったのね」

 それからコウノトリたちは、一時間以上にわたりくちばしを激しく鳴らして憤りの気持ちを表明すると、最後には代表団を作って神様のところへ抗議に出掛けていった。そして「私たちコウノトリは、見たばかりの恐ろしい光景に胸がはりさけんばかりになりました。どうか神様、私たちに喪に服す許可を与えてください。そして私たちの羽を黒くしてしまうことで、残酷な人間たちに、私たちの激しい憤りの気持ちとやり場のない悲しみとを分からせるようにしてあげてください」と訴えたというのである。それに対し神様は、「お前たちの言うのはもっともだ。喪に服すがよい。だが、お前たちが青い空を飛ぶことで作り出される調和をみださぬ程度の喪に服すのだぞ。それには、お前たちの翼の先端だけを失望の黒の中につけるのだ」と答え、羽の一部分を黒くする許可を与えた。こうして、この日からコウノトリの羽の色は白と黒になったというのである。この伝説は、カール大帝の築いた広大な帝国の分割をめぐり、その3人の孫が父であるルイ敬虔王をアルザスの地で捕らえ幽閉したという史実に基づいて作られたものである。ただしその場所については諸説あり、この伝説の生まれたセルネー近郊以外にもコルマールとシゴルスハイムの間の野原であるとも言われ、そこは『偽りの野原(champs de mensonge)』と呼ばれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このようにコウノトリは、親孝行で、子思いで、夫婦仲睦まじい鳥であると考えられていたのだが、最近の調査では、種の保存を大切にする本能から4〜5年に一度はほぼ必ずと言っていいほど伴侶をかえていることが分かっている。たとえば、アメルシュヴィルの町には、「コウノトリの門」と呼ばれる古い門があり、その名が示す通りその尖塔部分にはコウノトリの巣がある。そこでは毎年、バルタザールとマルグリートという名のつがいのコウノトリが営巣していた。ところがある年、マルグリートの行方が分からなくなってしまった。気落ちしたバルタザールは、やがて新しい伴侶ココットを見つける。そこへマルグリートが戻ってきて、ココットを追い出してしまったのである。この話には続きがあり、2年後、今度はマルグリートが新しい伴侶アルベールと戻ってきた。以来、バルタザールは行方不明だそうである。両者の婚姻関係は13年続いたので、よくもった方なのかもしれない。ちなみにこの話は地元の新聞の三面記事に載ったもので、現在のアルザスでもいかにコウノトリへの関心が高いかをうかがい知ることが出来る。

コウノトリが子思いの鳥であると考えられていた点についても実際は違っているようで、たとえば巣が猛禽類の鳥に襲われたとき、相手が自分よりも強いと認めると、ヒナドリに身を固くして動かないようにと指示した後でヒナドリを見捨て、相手との闘いを放棄し、その場を逃げてしまうことがあるという。この場合も、種の保存を大切にする本能がそうさせているのである。

 こうした事実を踏まえて考えたとき、実際のコウノトリは、道徳的でも正義感が強いわけでもないことが分かる。けれども昔の人々はコウノトリの固体識別が出来なかったのか、あるいは重要ではないと考えていたようで、コウノトリの見掛け上の習性から様々な徳性をコウノトリに付与し、それを拡大解釈させ、あらゆる点においてコウノトリはそのような徳性を体現する鳥であると考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(2)コウノトリの民間信仰

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アルザスでは、1960年代から湿地帯が減少していったことなどからコウノトリ数も減少し、コウノトリの留鳥化政策が始まる。そのため今日では、ハウス栽培のイチゴのように一年中コウノトリの姿を見ることが出来るのだが、もともとコウノトリは渡り鳥で、毎年春先にアルザスに戻ってきて、夏の終りに越冬地であるアフリカへと旅立っていた。そこで、春先に規則正しく戻ってくることからコウノトリは、忠実さを体現する鳥であると考えられるようになった。とはいえ、それで全てではない。というのも、春とともにやってくるコウノトリは、春を告げる鳥として、春の恵みを運んできてくれる存在としても、崇められていたからである。自然が息を吹き返すこの時期にやって来ること、また空を飛ぶこと、人里離れた湿地帯で餌を探すことなどから、コウノトリは人間界とは別の世界とつながりを持ち、何か不思議な力を持っているのではないかと人々は考えた。そして、その力にあやかろうとして、人々がコウノトリの到着を喜んだのはごく自然なことであった。こうしてコウノトリは、再生、豊饒、幸福の象徴として、様々な民間信仰を生み出していくことになるのである。

 

 

 

 

 コウノトリが春を告げる鳥であると考えられていたことから、コウノトリがいつ戻ってくるかは大きな関心事であった。コルマールのドミニコ会修道士たちの年代記には、1272年から1303年の間に、コウノトリがいつやってきて、いつ旅立っていったのかという正確な記録が定期的に残されている。年代記には、他にも多くのヒナドリがキツネに食べられてしまったという記録や、厳しい気候のせいで何度かに渡ってコウノトリが死んでしまった、といった記録も残されていて、コウノトリに対する関心の高さをうかがい知ることができる。

 

 

 1435年に、コンラット・ドゥ・ダンクロツハイムが編集した『聖人年鑑』によると、アルザスにコウノトリが戻ってくるのは2月14日から22日の間、つまり聖バレンタインの日と聖ペテロが教皇座についた日の間とされていた。実際、民間信仰では、聖ペテロが教皇座についた日から春が始まるとされ、ドイツでは「聖ペテロが教皇の座におつきになると、コウノトリも池や沼(で餌)を探す」という諺があり、町によってはこの日を「コウノトリの日」と呼んで、コウノトリ祭を催すところがある。アルザスにも、「聖ペテロが教皇の座におつきになると、コウノトリも池や沼を探す」という同じような諺がある。

 

 レガメイ(Regamey)夫妻(夫のフレデリックFredericがパリ出身の画家で、妻のジャンヌJeanneがアルザス出身の作家)が1907年に刊行した『コウノトリの地方で (Au pays des Cigognes)』という物語には、「コウノトリの到着」という一章が設けられており、アルザスのある一家の食卓での会話の中で、「今朝、コウノトリを見たよ。戻ってきたんだ」という孫に対して、一家の長老がこう答える場面がある。「もし、コウノトリたちが伝統に忠実であるなら、一週間前から戻っているに違いない。コウノトリが戻るのは2月23日だと、わしはいつも聞いていたからな」 ここには一日のずれがあるが、いずれにせよ昔から今日までコウノトリは、聖ペテロが教皇座についた日、すなわち春が始まると信じられていた日に、春の恵みとともに戻ってくるものと信じられていたのである。

Au pays des Cigognes par Regamey

 

 

 

レガメイ夫妻『コウノトリの地方で』

 

  コウノトリが戻ってくると、人々は大喜びで集まり、コウノトリを出迎えた。その際、子供たちは輪になって歌を口ずさみ、場合によっては、お祭り騒ぎを催すこともあった。アルザスの風刺画家ハンジ(Hansi)は、『私の村(Mon Village)』(1913年刊)という本の中で、コウノトリの到着を喜ぶ村人たちの喜ぶ様子を次のように書いている。

 

「戻ってくる時がやってきました。お母さんコウノトリは、巣に向かって一直線に急降下してきます。その間、お父さんコウノトリはみんなに自分の姿を見せながら、何度かぐるぐるまわってみせます。すると、あらゆる通りから、あらゆる家から、喜びの長い叫び声が沸き上がるのです。子供たちは、あちこちから走ってきます。大きい子も、中くらいの子も、とっても小さな子までが一番上のお姉さんの腕に抱かれて、走ってきます。みんなは、うれしさに 飛び跳ねながら、広場に集まります。というのも、今や春はもう間近まで来ているからです。それから子供たちは静かになります。そして、手に手を取り、丸くなると、年とった先生のとる拍子にあわせて、コウノトリを迎える輪舞をいっせいに始めるのです。それは何世紀も前から、コウノトリに歌ってきたものです・・・」

Hansi 「Mon Village」

ハンジ『私の村』より「コウノトリの到着」

 

 このように、農作業の始まる季節である春に、春の恵みとともに戻ってくると信じられていたことから、コウノトリは様々な民間伝承を生み出すことになった。11世紀にセレスタで書かれた写本には、コウノトリを「幸福を呼ぶもの」と名付けた記述があり、ここには、コウノトリを恩恵と庇護の象徴とみなす考え方が基本としてあることが分かる。

 この種の民間伝承の中で最も有名なものは、「コウノトリが屋根に巣を作る家には幸運が訪れる」というものであろう。ヨハン・フィシャルトも、彼の著述の中で、「コウノトリを迎える家は祝福されている」と書いている。先にあげた『コウノトリの地方で』の作品中でも、今度は一家の女主人が、パリからきた男の子にこう説明する場面が続く。

 

「言っておくけれど、コウノトリは、アルザスではどの鳥よりも敬われていて、ほとんど神聖な鳥になっているのよ。どうしてか分かる? 幸せを運んできてくれるとみんな確信しているからなの。そのことは小さい子にも教えてあることだから、誰もコウノトリの羽を引きぬこうとさえ考えたりしないのよ。みんな、コウノトリが巣を作るのにある家を選んでくれると、喜んでコウノトリを迎えるの。というのも、コウノトリと一緒に家が繁栄する、と考えているからなのよ・・・」

 

Cigogne sur le toit

こうした「幸ノトリ」にまつわる物語は二十世紀に入っても健在で、例えば次のような出来事が報告されている。「ある農家の屋根にコウノトリが巣を作った。それはみんなが求めていた幸福のしるしだった。そこで、若い夫婦だったハンスとケートには、恩恵が授かるものと思われていた。1940年になりドイツの脅威が迫ると、ケートは子供を連れて、他の殆どの人たちと同様にドルドーニュ地方へ避難していった。しかし、ハンスはアルザスに残る道を選んだ。最初の銃声が聞こえ出すと、恐れをなしたコウノトリのヒナたちは、まだよく飛べもしないのに一目散に巣を後にした。この巣は、その後からっぽになってしまったため、この時点で村に残っていた村人たちにこの上ない不安を与えた。コウノトリたちの庇護がなくなってしまうと、死者や迫害、嫌がらせなどが相次いだ。それから戦争の終決がやってきた。くだんの家族はまた一つになった。しかし、あのコウノトリたちはどうなったのだろう、と村人たちはささやきあった。誰もコウノトリたちが戻ってくると、真剣に考えてはいなかった。ところが、戦争の終決を祝うためであるかのように、次の春、かくも待ち望まれていたコウノトリが巣に戻ってきて、家庭を築き、村人に対して惜しむことなくその恩恵を与えたのである」

 

 

 

 

屋根に巣を作るコウノトリ

 

 コウノトリが巣を作るということはまた、こうした幸運をもたらすだけではなく、落雷から守ってくれる、という保障にもなっていた。コウノトリは天候に敏感で、雷雨の来るのを感じ取ることが出来るとされていたからである。 しかし、コウノトリが巣を作る家には幸運が訪れると信じられた一方で、そのことによって生じる危険もあった。1470年にセレスタ市は、コウノトリの巣を禁止する法令を出している。それは「屋根にコウノトリの巣を持つ者は全て、これを取り去るべし。一月以内にこれを行なわぬ場合は、5シリングペニヒの罰金に処す」というもので、理由は、コウノトリの巣にしばしば煙突の火が燃え移り、火事の原因になっていたためである。これにまつわる逸話として、やはり『コウノトリの地方で』の物語中に、こんな笑い話が紹介されている。それは、お父さんコウノトリが餌となるカエルを捕まえてきたものの、不器用だったために過って煙突の中に落としてしまった、というのである。ぐつぐつ煮えた鍋の中にカエルがぽちゃんと落ちてきて、みんながびっくりしたというわけである。

 

 

 

 春先のコウノトリに関する民間信仰には他にも様々なものがあり、例えば「春になって初めてコウノトリを見たら、歓迎しなければならない。そうすることで、むこう一年間は歯が痛まないですむ」と言われていた。二十世紀初頭になってもまだ、アルザスのオーベールスルツバックの村では、「その年の最初のコウノトリを見かけたら、すぐポケットに手を入れなければならない。そしてもし運よくお金があれば、その年はお金に不自由しない」と言われていた。コウノトリはまた、幸運を運んでくるだけでなく、予知能力にも長けていると信じられていて、コウノトリのとる行動を通して人々は、そこに自分たちの未来を読み取ろうとしていた。もし若い女性が、コウノトリがカタカタ鳴くのを初めて聞けば、彼女は何かを壊すことになるだろうと言われ、もしコウノトリが空を飛んでいるのを見れば結婚することになり(躊躇せずに若い女性の方に歩いてくれば婚約が近いというのもある)、動かずじっと立っているのを見れば代母になり、コウノトリの一団が男女のグループの上を飛べば、その場にいるうちの誰かが死ぬだろうと言われていた。このように、全てのものが息を吹き返す春に舞い戻り、死に絶えていく夏の終りに再び旅立っていくコウノトリに、人々は、人間の一生を重ね合わせながら、自分の人生を読み取ろうと考えていたのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

(3)ラテン文化圏とゲルマン文化圏でのコウノトリ観の違い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今まで見てきたことから分かるように、コウノトリは、様々な徳を持つものと考えられ神聖な鳥として崇められてきた。ストラスブールで弁護士活動をした後、普仏戦争後にパリに移住していったモーリス・エンゲルハルト(Maurice Engelhard)は、1882年刊行の著書『狩猟と釣り、アルザスの思い出(La chasse et la peche. Souvenirs d’Alsace)』の中で、コウノトリについて次のように書いている。 「コウノトリのいる場所ではどこでも、それが東方の鐘楼の上にとまっているところでもドイツのカテドラルの小尖塔の上でカタカタ鳴いているところでも、いたるところで人々はコウノトリを愛し敬っている。それは聖なる動物なのだ。コウノトリが役立っていることは、疑いもないことである。蛇や、爬虫類や、ねずみや、あらゆる害虫をとらえるからである。狩人たちは、決してコウノトリに引き金を引こうとしない。それもこれも、コウノトリの徳がそうさせているのだと、私は思っている。人々がコウノトリを敬っているのは、ただ単に肉の味が悪いせいだとは考え難いからである」

 

 

 

ただ、コウノトリに対するこうした崇拝は、当然のことながらコウノトリが巣を作る地域で顕著なのであって、そうでない地方では、コウノトリは野性動物の一つに過ぎなかったようである。その結果、コウノトリが営巣するため多く飛来したゲルマン文化圏では、コウノトリがホレ女神にお付きの鳥として崇められていたのに対し、渡りの途中に立ち寄る時くらいにしかコウノトリを見ることのなかったラテン文化圏では、コウノトリを敬うような習慣はなかったか、もしくはもはや存在せず、崇拝の対象であるよりはむしろ、狩りの対象であったようである。

 

 

 フランク王国のキリスト教会再編に力を尽くすべく、751年にゲルマニアの地へ伝導活動に出掛けることになった聖ボニファティウスは、自分が相手をすることになる住民がどんな動物を食べているのか知りたいと考え、そのリストを求めている。これに対し、時の法王ザカリアスは、彼に宛てた手紙の中で、食べるのを禁じられている三つの鳥を答えているが、そのうちの一つとして、アオサギ属という総称の下に、コウノトリを挙げている。実際、コウノトリは、ゲルマン文化圏の人々の日常生活や環境に密着していた鳥であるにもかかわらず、コウノトリを食べていたという事例は、今日一つも報告されていない。聖ボニファティウスと教皇ザカリアとのやりとりからも推測されるように、コウノトリは、古くからゲルマン文化圏では崇拝の対象として重要な存在であったが、ラテン文化圏ではあまり重要と認められない、恐らくは殆ど知られていない存在であったのではないかと思われる。

 

 

 

 このことについてもう少し詳しくみておくと、1559年にコルマールのローラン・フリエスという人が、人間の成長にためになる食物の本をミュールーズで刊行しており、この中でコウノトリについて、コウノトリは全く食すに値しない、というのもコウノトリの肉は消化に悪く、悪い血を生じさせるからである、と述べている。これは同時代の著述家全ての共通見解になっているのだが、ただ、コンラット・ゲスネールという人は、1555年に著わした『動物史』の第三章で、コウノトリの医薬的効能について、春先のコウノトリは薬になると信じられ、特に通風に効くとし、その胃は解毒に、胃の内壁の皮は粉にして水に混ぜ動物に飲ませるとペスト治療に、腸は腸と腎臓の痛みに、糞は癲癇や呼吸困難に、また糞を油脂で解いて塗布するとしつこい喉の痛みに効くとし(面白いことに、この方法を他人に洩らすと効能がなくなるとの但し書きがついていた)、コウノトリの卵にいたっては、ワインを混ぜて髪の毛に塗ることで、髪の毛が黒くなる、と書き記している。

 

 

 

 このように、薬を作るためにコウノトリを殺めるという考え方があったのは事実かも知れないが、おそらくそれは、コウノトリが特別な力を秘めていて、その力を自分に取り込みたいと考えられたからであって、その肉を食用とする、あるいは楽しみのために狩りをするという目的でコウノトリを殺めるような習慣は、ゲルマン文化圏の人々の間には存在しなかったと考えられるのである。

 

 こうしたラテン文化圏とゲルマン文化圏でのコウノトリ観の違いは、そのまま「赤ちゃんはどこから来るのか」という問いに対する答えとなっても現われてくるのだが、この問題についての検討に入る前に、コウノトリという名前の由来について、同じ観点からもう少し検討を加えてみたい。

 

 

 

 

(4)男性の象徴としてのコウノトリ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 仏語では、コウノトリのことを[la cigogne]と言うが、これはラテン語でコウノトリ を意味する[ciconia]を語源としている。また、[ciconia]という語じたいは、同じラテン語で「歌う、楽器を鳴らす」という意味の[canere]を語源としていると考えられている。 一方、独語では、コウノトリのことを[der Storch]と言い、アルザス語でも独語によく似た[dr Stork]あるいは[dr Storik]という言い方をして、その語源は独語で「膠着した、動かない」という意味の[steif]であると考えられている

 

実際のコウノトリは鳴くことはない。カスタネットのようにくちばしを打ってカタカタという音を立てるだけである。また、巣の上にじっとしたまま動かないでいることがよくあり、そのときには置物ではないかと思われるほどである。いずれにしろ、どちらもコウノトリに特徴的な習性であり、そこから名前がついた可能性は十分にあると思われるのだが、そのさいの二つの文化圏における着眼点も興味深いものと言える。というのも、コウノトリがカタカタ音を立てて鳴くという習性は、動的であるがゆえに、どちらかというと旅行者などが記憶にとどめるような、強くはっきりとしたコウノトリの印象ではないかと思われる。それに対し、じっとして動かないという習性は、静的であるがゆえに、日常生活の観察の中から残るような種類の印象ではないかと思われるのである。これはかなり独善的な結論になってしまうが、ここにもまた、コウノトリが日常生活の中にいたゲルマン文化圏とそれが渡りの途中にしか見られなかったラテン文化圏でのコウノトリに対する見方の違いが現われているような気がしてならない。

 

 

 

 

 この二つの語源が信憑性はさておくとして、より興味深いのは、実はそれらの名詞の性の問題にある。言うまでもなく、仏語の名詞には男性形と女性形があり、独語にはさらに中性形がある。そこで、「コウノトリ」という名詞の性についてなのだが、仏語の[cigogne]が女性名詞であるのに対し、独語の[Storch]あるいはアルザス語の[Stork/Storik]という語は男性名詞なのである

仏語では、ラテン語の[ciconia]が女性名詞なため、仏語でもそのまま女性名詞になったと考えられる。同様にイタリア語の[cicogna]も女性名詞であり、ラテン語系の言語でコウノトリを表す語は、女性形をそのまま受け継いでいることが推察される。どうしてラテン語系では女性名詞になったのかについてはきちんと調べたことがないので分からないが、男性か女性か明確に区別できないようなものについては名詞の性の決め方は曖昧なものなので、ラテン語でコウノトリが女性名詞になったのにもはっきりとした理由はないのかもしれない。それに対し、独語やアルザス語などのゲルマン語でコウノトリが男性名詞となった理由については、一つの推測が成り立ちうる。これは決して偶然にそう決まったわけではなく、ゲルマン文化圏では、コウノトリが男性の象徴とみなされていたようなのである。もう少し具体的に言うと、コウノトリのくちばしは、男性の性行為の象徴とみなされていたふしがあるのである。

 

 

 

 例えばアルザスでは、妊娠中の母親がお産のため寝ているのを不思議に思った子供が、どうしてお母さんは寝ているのかとたずねるようなとき、今でも「コウノトリに脚を噛まれたからだよ」と答えている。この話には、より詳しい次のようなバリエーションもある。アルザスでは子供が「弟か妹がほしいんだけれど、どうしたらいいの?」といった質問で親を困らせるようなとき、「窓の前に砂糖を置いておきなさい」と答えることがあるのだが、ある日、子供から弟か妹がほしいと言われた母親が、コウノトリに赤ちゃんを連れてきてもらおうと思い、窓のところに砂糖を置いておくことにした。毎日、窓に砂糖を置いておいたのだが、ある日、たまたま砂糖を置き忘れてしまった。この置き忘れに怒ったコウノトリは、母親のところへ飛んでいき、脚を噛んでしまう。そのため、怪我をした母親は、床に伏せることになった。その様子を窓から見ていたコウノトリは、自分に行き過ぎがあったことをたいそう反省した。そこで、母親のところへ赤ちゃんを届けることにしたという。こうした話は、子供を納得させるために作られたものであるとも考えられるが、同時に、くちばしで女性の脚を噛むというコウノトリの行為が、男性が女性に受精をほどこす行為の暗喩にもなっているのである。

 

 

 

 

 同じくアルザスのブルマットでは、「女性とカエルの間には、どんな違いがあるでしょう?」という謎々があった。答は、「違いはない」というものである。何故なら、「女性もカエルも、いつも冷たい足をしていて、コウノトリが恐いから」である。ここでのコウノトリは、男性あるいは男性器そのものを意味しており、謎々そのものは性行為を前にした女性の不安を表している。このような謎々が生れた背景として、誕生の仕組みがまだよく分かっていなかった時代に、女性が望んでいないのに妊娠してしまうということがあったためではないか、と考えられている。

 

 

 もう一つ、「青いコウノトリのダンス」と名付けられた結婚式のダンスの時の歌についても紹介しておこう。この歌の二番の歌詞は、次のような謎めいたものになっているのである。

「お偉いさん方の庭にいる、青いコウノトリを見なかったかい? そいつは、赤いバラを摘んじゃった、だからバラは死んだだろう」

 この歌の歌詞が何を意味するかを知るには、次のアルザスの古い習慣を知っておく必要がある。それは、ある男性が自分と違う村出身の女性と結婚しようとするときに、彼女を奪っていく代償として、かなりの金額をその村の青年団に支払わねばならない、というものである。そこには、女性もまた村の財産の一部である、という考え方があったことが分かる。本来なら同じ村の誰かのところに行くことによって、富の分配が共同体の中でなされるべきところを、外に出ていくことによって共同体に損失を与えることになるため、その分を相手の男性が補償する取り決めがあったわけである。こうして、婚約の際に相手の男性が婚約者の「身代金」を支払うのに先立って、青年団の代表が、相手の男性に対し、次のようなスピーチをするのが慣わしとなっていた。

 

 

「婚約者の方は、庭で最も美しい花を摘んでしまわれました。私たちとしては、これを見逃すわけにはまいりません。当然裁判にかけられるべき事柄であります。しかし、それを避けるために婚約者の方は、私たちに損害賠償してくださるそうです。そこで、こうして私たちの合意のしるしに、私たちは彼に花束を贈る所存であります」

 

 こうした慣習と合わせて考えると、最初に紹介した歌の持つ意味も理解することができるだろう。「庭で最も美しい花を摘む」というスピーチの表現、歌の中では「赤いバラを摘んだ」となっているのだが、この表現の意味するところは「若い娘を奪って妻にすること」である。そして、歌の中の「だからバラは死んだだろう」という表現は、彼女が「無垢な女性としての人生を終え、これから妻として生まれ変わる」ことを意味しており、彼女にそのような転機をもたらしたものが、青いコウノトリに象徴される婚約者であるということを示しているわけである。このことから、ここでもはっきりと、コウノトリが男性の象徴と考えられていたという事実を認められるのである。

 

 

 ゲルマン文化圏において、コウノトリという語が男性名詞に置かれ、男性の象徴とされていたというのも、受精力を持つ男性と、まだ何もない冬の大地に恵みを与えると考えられた、再生や豊饒の象徴であるコウノトリとの役割が、一致していることに起因しているのではないかと考えることができる。このことはまた、コウノトリが、ゲルマン文化圏でいかに崇められていたかの証左にもなっているのではないだろうか。

 

 

(5)赤ちゃんを運んでくるコウノトリ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ディズニー映画の「ダンボ」の冒頭は、コウノトリの一団がサーカスの動物たちのところに赤ちゃんを運んでくる場面から始まる。映画の主人公ダンボもまた、コウノトリに運ばれてきたうちの一頭である。この映画の場面を引き合いに出すまでもなく、赤ちゃんを運ぶコウノトリの話は、サンタクロースの話と同様に、世界中で知られているように思われる。けれどもサンタクロースが、もとは聖ニコラウスという聖人であり、聖人を祝う日とクリスマスの日が一緒ではないという事実を世界中の人が知っているわけではないのと同様に、コウノトリが赤ちゃんを運ぶという話が、実はゲルマン文化圏だけのものであったという事実を知る人もあまり多くないのではないだろうか。ここでは、赤ちゃんを運ぶコウノトリの伝承が生れた背景についてみていこうと思うのだが、やはりラテン文化圏とゲルマン文化圏では「赤ちゃんはどこから来るのか」という考え方に違いがあるので、まずラテン文化圏の場合について紹介しておきたい。

 

 

例えばフランスでは昔から、男の子はキャベツから、女の子はバラの花から生れてくる、と信じられていた。これは今日でも変わらないようで、ゲルマン文化圏に属するアルザスでも、何人かの人に「赤ちゃんはどこから来るのか」という質問をぶつけてみたところ、全員がキャベツとバラの花からと答えていた。中にはコウノトリが赤ちゃんを運んでくるという話を知らない人さえいたほどである。カード売り場の出産通知カードにも、赤ちゃんがキャベツ畑やバラの花園の中にいて微笑んでいる図柄のものを見かけることがある。あるイタリア人に聞いたところ、その人も同じ意見だったので、おそらくイタリアでも事情は同じではないかと思われる。

 

 

それに対しドイツでは、同様の質問をしてみたことはないが、面白い人形が売られている。「コウノトリの騎士(Storchenriter)」と呼ばれる木の人形で、その名が示す通りそれは、台車の上に乗ったコウノトリに騎士がまたがっている木製の玩具で、子供が引っ張って遊べるようになっている。騎士は背中にかごを背負い、中には木で出来たミニチュアの哺乳瓶や皿、スプーンなどが入っている。また、コウノトリの胴体部分が空洞になっていて、その中にもミニチュアの哺乳瓶や皿が入っており、尻尾を外すことによって、出し入れできるようになっている。実はこの人形は、結婚した人や子供が生まれた人に、コウノトリの胴体部分にお祝い金を入れて贈るためのものなのだそうで、ドイツではコウノトリが結婚や出産と結びついていることがよく分かる。アルザスでは、代父や代母が生まれたばかりの赤ちゃんが幼児洗礼を受けるときに、洗礼祝詞(souhait de bapteme)の紙に小銭をはさんで贈る慣習があったが、この人形の慣習は知られていない。

 

Storchenreiter

 

コウノトリの騎士

 

初めに赤ちゃんを運ぶコウノトリの話はゲルマン文化圏のものであると指摘しておきながら、同じゲルマン文化圏に属するアルザスで状況が異なっているのには理由がある。17世紀にアルザスがフランスの領土になったからというのも理由の一つに挙げられるかもしれないが、もともと赤ちゃんを運ぶコウノトリの話は、19世紀の後半までアルザスでほとんど知られていなかったのである。一般にこの伝承がアルザスで広まったのは、普仏戦争の結果、アルザスがドイツに併合されてからであると考えられている。それ以前には民衆画の訪問販売を専門に行なっていたヴェンツェル印刷所の1850年頃のカタログに、「コウノトリが運んできた」というタイトルの絵があることが分かっているのだが、これ以外にアルザスで赤ちゃんを運ぶコウノトリの話が出てくるようになるのは普仏戦争以降なのである。

 

 

 

 それではアルザスでも初めから赤ちゃんはキャベツ畑かバラの花園の中で生まれると考えられていたかというと、実はそうではなかった。いったいアルザスでは、赤ちゃんがどこから来ると考えられていたのだろうか。また、ドイツなどのゲルマン文化圏では、どうしてコウノトリが赤ちゃんを運ぶと考えられるようになったのだろうか。両者の伝承の間には、実に興味深い類似点が見られるのだが、結論を急ぐ前に、この二つの疑問のうち、まずコウノトリが赤ちゃんを運ぶようになった経緯からみていこうと思う。

 

ゲルマン民族は、人は死ぬと魂は天に昇り、雨水とともにまた地上に落ちてくると考えていた。そして、井戸、池、水源といった水のある場所にとどまり、ふたたび人間に生まれ変わるのを待っていたという。これら死者の魂を守っていたのがホレという女神で、女神は死者の魂の戸籍係のような仕事をしていた。死者の魂を、新たに生れてくる子供の体内に宿すことによって、生者の世界に送り返す役割を担っていたのである。こうして新たに生まれてきた子供を人間界に届けるようになったのが、コウノトリである。前にも触れたように、コウノトリは、ホレ女神に仕える鳥であると考えられていたからである。それではどうしてコウノトリは、ホレ女神に仕える鳥とみなされるようになり、赤ちゃんを人間のところへ運んでくる役目を担うことになったのだろうか。それには、おもに二つの理由が考えられる。

Cigones cherchant des bebes,dessin par Tanconville

 

 

 その一つは、コウノトリが「鳥」であるという点である。昔の人々は、空を飛ぶ能力があることから、鳥を超自然的な世界とつながりを持つ存在であると考えていた。空の向こうの世界は誰にも分からない世界であり、天上ともつながっていることから、コウノトリもまた、そうした超自然的な世界とつながりを持つ存在であると考えられたのである。

もう一つは、しばしばコウノトリが、水のある場所で餌をあさっているという点である。いま見たばかりのこのゲルマンの神話から分かるように、ゲルマン民族は、生者の世界と、生者の世界への再生を待つ死者の魂の世界という二つの世界の存在を認めていて、この二つの世界は、雨水やコウノトリといった仲介者を通して常に交流が保たれている、と考えていた。死後の世界と誕生する前の世界は水の世界であるとする考え方は、胎児が羊水の中で誕生を待つのと同じ世界であるとも言える。この神話は、そうした生命の神秘の寓話である、と言うことができるかも知れない。このような世界観の中で、コウノトリがホレ女神に仕える鳥とみなされるようになり、赤ちゃんを運んでくると考えられるようになったのも、それが、生者の世界に営巣しながら水場で餌をあさることによって、生者の世界と再生を待つ死者の魂の世界とを結びつける存在であると考えられたからに他ならない。このようにコウノトリが赤ちゃんを運んでくると考えられたことから、産婆は時として「コウノトリの小母さん」と呼ばれることもあった。

沼地から赤ちゃんを連れて行くコウノトリ(タンコンヴィル、Tanconville画)

 

 

 

 以上が、コウノトリが赤ちゃんを運ぶことになった経緯であるが、それではアルザスでは赤ちゃんはどこから生れてくると考えられていたのだろうか。結論を先に言ってしまうと、根本的な発想において、アルザスもまたゲルマン文化圏の一部であることから逃れられないという証左になっているように思われる。というのも、アルザスでも赤ちゃんは、水の中から来ると考えられていたからである。普仏戦争後ドイツに併合される前まで、少なくとも「コウノトリが運んできた」の民衆画が現われる1850年頃より以前のアルザスでは、子供は空に住んでいて、雨と一緒に地上に落ち、泉や池や水源で生れると信じられていた。そして、ほとんどの村に、「子供の泉(Kindelsbrunnen)」と呼ばれる泉(井戸)があり、そこで赤ちゃんが授かると言われていたのである。ミュールーズには、この泉にまつわる次のような伝説が残っている。

 

 

 

むかし、ミュールーズのシュピーゲルトールという門のすぐ横に、「子供の泉」があった(実際には存在していなかったそうである)。その井戸の横には魔女が住んでいて、人々がバケツを使って井戸から赤ちゃんを汲み上げる邪魔をしていた。ところで、彼女自身もこの井戸から二人の娘を授かっていた。一人は自分のため、もう一人は夫のためである。魔女は、自分の娘は可愛がり、甘やかしていたが、もう一人の娘には辛くあたり、いつも糸巻きをさせていた。そんなある日のこと、こき使われていた娘は、糸巻き棒を井戸の中に落としてしまう。怒った魔女は、彼女を井戸の中に突き落とした。けれども娘の落ちたところは、水の中ではなく楽園だった。そこでは鳥がさえずり、花が咲き乱れ、果樹にはたわわに実がなっていて、小さな子供たちがバラの冠を頭にかぶり、遊びまわっていた。目の前に素晴らしい光景が広がっているにもかかわらず、娘はめそめそ泣き続けた。かわいそうに思った果樹は、彼女に話し掛け、枝につけている実を落として彼女をなぐさめてやった。笑顔を取り戻した娘は、様々な種類の果物を拾い、それらをエプロンに入れると、やがて楽園の中を歩き始め、大きな宮殿を見つけた。中に入ると、美しい夫人が出てきて彼女を優しく迎えてくれた。夫人の優雅さと優しさにうたれた彼女は、不幸な身の上話をした。それを聞いた夫人は、娘に食事をすすめたのだが、彼女の召使たちを従えて食事をするのと、犬や猫と一緒に食事をするのではどちらがいいかとたずねた。娘は、「猫たちと」と答えたが、夫人は召使たちを従えた豪華な食事を用意してくれた。娘はその晩を宮殿で休み、翌朝、ふたたび夫人にたずねられた。金の馬車で戻るのがいいか、それともガタガタのオンボロ馬車で戻るのがいいか、と。娘は、ここでも「ガタガタのオンボロ馬車で」と答えた。すると夫人は、金の馬車を用意してくれた。素晴らしい金の馬車が魔女の家の横にとまり、その中から娘が、なくした糸巻き棒と一緒に黄金の果物をエプロンに持って出てくるのを見たとき、魔女は嫉妬にかられた。そして、嫌がる自分の娘を、むりやり井戸の中に突き落としてした。魔女の娘は、やはり楽園に落ちたのだが、果樹は何も話し掛けてくれないし、一つも実を落としてはくれなかった。宮殿を見つけ、中に入り、食事を出されたのだが、犬と一緒に食卓を囲むことになった。寝るときは猫と一緒である。帰りは、もちろん、ガタガタのオンボロ馬車で何のお土産もなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この伝説は、人々が赤ちゃんを汲み上げていた泉の中には別世界が存在し、そこにその世界を支配する女主人がいることを明らかにしている。つまり、この女主人が泉を通して人々に赤ちゃんを授けていたのであり、このことから彼女の役割が、ホレ女神のそれと同じであることが分かるのである。

 

 ところで、このミュールーズの伝説では、赤ちゃんをほしい人自身がバケツを使って子供の泉から赤ちゃんをえていたわけだが、一般にアルザスでは、コウノトリに代わる別の第三者がその役割を担っていると考えられていた。それが、地底に住む小人(地の精霊)である。子供たちの泉に関する別の古い伝説によると、ストラスブールのカテドラルの地下には大きな地底湖があり(この地底湖の伝説はアルザスでは有名なものである)、この湖の上を船に乗って小人が行き来していると考えられていた。そしてこの巨大な地底湖は、各村にある井戸とつながっていて、赤ちゃんを欲しがっている両親のもとへ、生れてくる赤ちゃんを連れていくのがこの小人であると信じられていたのである。このように見てくると、アルザスとゲルマン文化圏とでは、根本的には全く同じ発想から子供の誕生を考えていたことが分かる。ただ、第三者が子供の運搬に関わるとき、アルザスではそれが小人であり、ゲルマン文化圏ではコウノトリであったわけである。

 

 

 

Petit nain portant le bebe par Kinderbrunnen

井戸から赤ちゃんを運ぶ小人とコウノトリ(1884年)

 

  ところが、時が経つに連れてこの小人の伝説は、小人がコウノトリと一緒に子供を運ぶ役割を担う、という話に変貌していく。アルザスの伝説や民間伝承研究の第一人者であるオーギュスト・シュトゥーバーのため、ルイ・シュネガンが19世紀半ばに集めたストラスブールの大聖堂に関する伝説では、この件に関してコウノトリの役割についてはまだ何も触れられていなかったことから、この新しい伝説が成立したのは、その後ということになる。1866年には、シャルル・ブラウンという神父が「コウノトリが、私たちのもとへ、かわいい王子や愛らしいお姫さまを連れてきてくれ、子供が来ることでいつもあめあられの飴と一緒に、これ以上ない喜びをもたらしてくれるのは、あの泉からではないだろうか?」と言い、泉とコウノトリを結びつけていることが分かっており、アルザスで二つの伝説が入り交じったのは、どうやらこの前後の時期ではないかと考えられるのである。

 

 

 このような過程を経て、赤ちゃんを運ぶコウノトリの話はアルザス中に広まり始め、まもなく子供の泉の話を駆逐し、やがてフランスへと広まっていくことになる。そして、19世紀の終りになると、例えばストラスブールでは、母親は子供たちに対して「羽の生えた背中に乗り、首のところをつかんで座っている小さな兄弟たちを、空からコウノトリが運んできてくれるのよ」という話をするようになるのである。アルザスの寄木細工絵画の第一人者であったシャルル・スピンドレールは、1920年代にコウノトリを主題とした作品をポショワール技法でいくつも作っているが、そのうちの『誕生』と題された絵は、この母親が語っているままに描かれていて、いかにこの話が広まっていたかをうかがい知ることが出来るだろう。

 

La Naissance, en pochoir, par C.Spindler

「誕生」(C.スピンドレール画)

 

 

 

 また、20世紀初めには、赤ちゃんを運ぶコウノトリをモチーフにした、今日でもアルザスでよく知られている次のような子供の歌が現われた。「コウノトリ、コウノトリ/足を上げて/明日、連れてきてよ/家まで赤ちゃんを」この頃になるとアルザスでも、赤ちゃんを運んでくるコウノトリの伝承が一般的となり、今日までそれがはるか昔からあったかのように話されているのである。

 赤ちゃんを運ぶコウノトリの話は、アルザスに移民してきたドイツ人によってもたらされたものと考えられているが、どうしてこの話が瞬く間にアルザスを席巻してしまったのか、とりわけ普仏戦争後にプロシャ的なものを嫌悪したと思われるアルザス人が、どうしてこの話を喜んで受け入れる気になったのか、実に興味深いところである。それはコウノトリが子供を運んでくるという話の方が、小人が運んでくるという話よりも詩的で、喚起力があり、赤ちゃんの誕生する理由を子供に説明するのにより便利であったからかも知れないし、何よりもアルザスではコウノトリが人々に愛され、敬われていたことから、この話を不当なものであると判断するどころか、より本当らしいと認めることができたからなのかも知れない。

 

 

 

 

(6)芸術分野でのコウノトリの不在

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日、コウノトリはアルザスを象徴する鳥になっている。けれども、コウノトリはアルザスだけに生息する鳥ではない。フランス国内に限って言えば、巣の四分の三がアルザスにあることから、アルザスを「コウノトリの地方」と言うことは可能であろうが、1984年の調査では、巣の数においてフランスは、ヨーロッパ圏内で11番目にすぎなかったである。従って、巣の数の多さで言えば、コウノトリはラトヴィアやハンガリーを象徴する鳥になっていたとしてもおかしくなかったし、赤ちゃんを運ぶコウノトリの伝承を生み出したゲルマン文化圏の中の、コウノトリがたくさん営巣している他の地域の象徴となっていてもおかしくなかったのである。

 

 にも関わらず、実際にはコウノトリはアルザスを象徴する鳥となっている。ということは、コウノトリの巣が多いか少ないかや、「赤ちゃんを運ぶコウノトリ」に見られるようなコウノトリにまつわる有名な伝説を生み出したかどうかといった、誰もがすぐに思いつきそうな理由とは全く別の何か特別な理由から、コウノトリはアルザスを象徴する鳥となった、と考える必要がある。そこには、アルザスとコウノトリとを結びつけようとする何らかの恣意的な力が働いていたと考えざるをえないのである。それでは、いったいこのような状況が生まれた背景には何があったのだろうか。

 

 

  すでに見てきたようにコウノトリは、アルザスを始め、コウノトリがいるところではどこでも神聖視され、様々な民間伝承を生み出すのに大きな役割を演じてきた。けれどもコウノトリが、アルザス以外にある地域や国、歴史上重要な人物の象徴となった、という話は聞かれない。実際には、ある特定の人物や団体の象徴となったことがないわけではない。ローマ時代の貨幣や軍旗に描かれたり、アヴィニヨンの聖アグリコルの象徴になったりしていた。18世紀初頭のアルザスでは、ある仕立職人組合がコウノトリを紋章に取り入れていたことも分かっている。他にも、中世の時代に、スイスのバーゼル出身のある一族やアルザスの軍人が、コウノトリを紋章に取り入れていたことが分かっている。だが、歴史的に見ればいずれも重要性は認められない。アルザスにおいても、19世紀の終りまではコウノトリに対して冷淡であった。それまでコウノトリは、アルザスの図像学上、重要な意味を持たなかったのである。19世紀の前半まで好んで描かれた典型的なアルザスは、村や町並み、教会や城館などの趣きのある風景であって、コウノトリは、そうした風景の中の一部として、風景に彩りを与えるものの一つに過ぎなかった。それはあまりに日常の風景の中に溶け込みすぎていたために、かえってコウノトリそのものが、特に芸術家の関心を引くことはなかったのである。

 

 

 

 

 

 芸術の分野に初めてコウノトリが登場してくるのは、ストラスブール生れの画家ギュスターブ・ドレ(18321883)が、1862年に描いた「空と大地の間で」という作品の中においてであると考えられている。この絵は、ストラスブールの郊外の原っぱに集まった子供たちが凧揚げをしている場面を描いていて、凧の足にはカエルがつけられており、これでコウノトリを釣ろうとしている様子を見ることが出来るのである。ドレは、自分が故郷で目撃したこの子供の遊びが奇妙で印象深かったことから、コウノトリを題材として取り上げたのだろうと考えられている。ストラスブールのカテドラルを背景にコウノトリが飛んでいるこの絵は、コウノトリもまたアルザスに欠かせない存在であることを示し、コウノトリがアルザスの象徴となりうる可能性を示唆するものとして、やがて登場してくることになるアルザスのコウノトリ神話のさきがけとなっていると言うことが出来るかも知れない。けれどもこの時点ではまだ、コウノトリはアルザスの象徴とはみなされていなかったし、人々もまた、あえてアルザスの象徴を求めようとはしていなかった。それでは、コウノトリがアルザスの象徴となっていくきっかけを作ったのは、いったい何だったのだろうか。それは普仏戦争であり、その結果アルザスがドイツに併合されたという事実であった。

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「空と大地の間で」(ドレ画)

 (7)19世紀末のアルザスの状況

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここで少しこの辺りの事情を見ておくと、1871年に普仏戦争に敗れたフランスは、アルザス・ロレーヌ地方を失うことになる。これは、「失われた土地」に住む人たちにとって、本当に深刻な問題だった。当初、フランクフルト条約によって、フランス国籍を残したいアルザス人は、そのままフランス国籍を残すことが出来た。しかし、その数があまりに多かったので、フランス国籍を望む者は全て、フランスに移住しなければならない、という追加条項が発表されることになる。その上、フランスに住んでいるアルザス人は、フランス国籍を取らねばならず、さもなければドイツ人とみなされることになった。フランス出国への期限が定められ、この期限より前に出発しなかった者には、帰属国家の選択権が取り消された。こうして、約5万人のアルザス人が出発していったものとみられ、さらに72年には兵役が義務づけられたことから、ほとんど全ての新兵が、フランスに出国してしまったのである。

 

 

 

 政体の変化にともない、アルザス出身のフランス人公務員たちも大挙して国を後にし、代わりにドイツ人が入ってきた。それも、貧しいドイツ東部から新天地を求めて移住してきたような人たちばかりだったので、とりわけ彼らのうちの下級役人たちは、厳格で高飛車な態度をとったため、かなり不評を買ったようである。少し話は逸れてしまうが、アルザスにやってきたドイツ人公務員たちは、好んで家の屋根にコウノトリの巣があるアパルトマンに住んだという。こうした事情を背景にし、コルマールのハンジと並び称された風刺画家、ミュールーズのアンリ・ジスラン(Henri Zislin, 1875-1958)は、『アルザスの微笑み SOurires d'Alsace』という諷刺画集において、ドイツ人の煙草の匂いに耐えられなくなったコウノトリが、まもなくドイツ人の住む家の屋根を立ち去り、残された巣に「賃貸し」の札が下がっている、という『コウノトリ』と題した風刺画を描いた。「ユダヤ人の家にはコウノトリは巣を作らない」というガイラー・ドゥ・カイザスベルクの言葉を想起させるような話である。

Dessin ironique par Henri Zislin

 

 

『コウノトリ』(ジスラン画)

 こうした事実から明らかなように、多くのアルザス人が、基本的にドイツへの併合を望んでいなかったと言うことが出来る。アルザスのドイツ併合により、ドイツ人たちは、住民の多くがアルザス語というドイツ語の方言を話している地方を取り戻し、離れ離れになっていた兄弟と再会することが出来た、と信じていたのだが、これは全くの幻想にすぎなかった。実際アルザスは、ゲーテやシラーに代表されるドイツ文学の時代も、対ナポレオン戦争の時代も、一つのドイツ運動の時代も、彼らと一緒に体験したわけではなかった。それどころか、フランス革命という大きな歴史の動きに加わり、自由や民主主義の原則を受け入れ、ナポレオンとの戦いに参加し、革命以後は、フランス人としての国民意識を育みながら、だんだんとフランス文化の中につかり始めていたのである。確かに役人やブルジョワ階級の人々、知識人や商人といった人たち以外には、フランス語を使える人はあまりいなかった。けれどもそのことが、アルザス人のフランス人としての国民意識を妨げるものではなかったのである。

 

 

 

 1838年に、神学者のエドゥアール・ルス(Edourd Reuss1804-1891)は、エルヴィニア(Erwinia)という雑誌の中で後に有名になった『我々はドイツ語を話す(Wir reden deutsch)』という一文を載せているが、彼の主張はこの微妙な問題についてのアルザス人の立場を明確に述べていように思われる。彼によれば、政治的に言えばアルザス人はフランス人であり、フランス人のままでいることを望んでいる。ドイツの一州の中で生きることは、今となってはもはやアルザス人の望むところではない。というのも、数々の戦争の思い出と1789年に得た権利とが、アルザスをフランスに結びつけ、アルザスをフランスから引き離すことは不可能であると思われるからである。従って、アルザス人の一人一人が、自国の言葉(つまりフランス語)を知る、ないしは理解することは必要なことである。しかし、興味深いのはその後でさらに彼が、文化的に言えばアルザス文化はドイツ文化なしには考えられないとしている点にある。彼はこう続ける。・・・けれども、ゲルマン的である自分たちの伝統、言葉、習慣を恥じてはいけない。アルザス人は、それらを尊重し、忠実であろうとしなければならない。アルザスの古きドイツ精神とその言語が、フランス文化の圧倒的な力の前に屈することになるだろうという作り話が五十年前からゆっくりと、けれども仮借なくヴォージュ山脈の向こうからじわじわと入り込んできている。しかし、自分たちが説教したり歌ったり、書いたり話したり、祈ったり詩を作ったりするべきなのは、ドイツ語でなのである。もし我々から我々の言語を取りあげるのであれば、それは奴属状態の民を作り出すことになるのだ。そしてもはや、その状態の中で、(言語を取り上げた人たちは)アルザス人から信用されることはないだろう・・・。

 

 

 

 

 

 

 このようにルスは、フランスに対する愛国心と、(ドイツ的であるという)アルザスの特殊性とを同時に肯定することで、アルザスの複雑さを示していると同時に、アルザス人とは何なのかという問いに対する一つの解答を初めて与えたと言うことが出来るだろう。けれども、フランスへの愛国心とドイツ的な文化の共存(ルスの言葉をかりるなら、『フランスの幹に接木されたドイツの枝』となる)がアルザスの本質であるとする考え方は、アルザスをめぐり争うことになるフランスとドイツの側から見れば、やはり理解しづらいものあった。こうして、普仏戦争前にこの地を訪れたアルフォンス・ドーデは、その印象を「どうしてアルザスはフランスに併合されたのか? この地方は、ザウアー・クラウトといい、ビールといい、ヤーという言い方といい、全く、どうしようもないくらいドイツ的だ」と書き残し、他方、普仏戦争後にアルザスの新しい支配者となったドイツ人たちは、同じドイツ語を話していることから、あくまでもアルザス人を同じゲルマン民族であり、同胞であると信じていて、彼らの中で起きていた「フランス人のままでいたい」という内面の変化に気付いていなかったのである。普仏戦争後のアルザス人とドイツ人との間には、このように初めから深い溝ができていて、これがドイツに対する二十年以上にも渡る「墓場の沈黙」となって、アルザスを支配することになるのである。

 

 

 

 

 

 アルザスがドイツ領となってから20年後の1890年代に入ると、大きく分けて四つの大きな傾向が、アルザスに生れていた。一つは親独傾向で、アルザスがドイツのものになった以上、これは当然の流れであったが、すでに見たような事情から大きな力を持つにはいたらなかった。二番目は親仏傾向で、アルザスがフランスのものであった以上、これも当然の流れだった。この傾向は、特に工業地帯やブルジョワ階級で強く(アルザスにおけるフランス語の担い手がブルジョワ階級に多かったこともあると思われる)、フランスの激しい政治的プロパガンダなどもあって、1900年以降、さらに力を強めていくことになる。三番目はアルザス主義とでも言うべきもので、「アルザスをアルザス人の手に」というスローガンのもと、多くの知識人や一般人の共感を生み、自治の気運が高まる。普仏戦争後に二つの国の間で揺れ動いたアルザスは、この時期、初めてアルザス自身に目覚め、アルザスとは何かと自問し、自らの手でそれを発展させていこうと考えたのである。そして最後が、共産主義で、労働者の間に理解者を増やし、何よりも社会改革を求めていた。このような混乱した状況の中で、コウノトリは、アルザスの象徴へと変貌していくことになる。そしてそれは、親仏傾向の中においてであった。

 

 

 

 

 

 

(8)コウノトリの発見

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アルザスのドイツへの併合後、フランスでは、失われた二つの地方を取り戻そうとする愛国心の高揚から、普仏戦争時の英雄や有名な戦闘場面を扱った絵や物語、詩、スローガンなどが多く生れた。とりわけ併合後の数年間は、報復への気運が高まっていたことから、こうした考え方に沿った形の作品が次々と登場することになる。ギュスターブ・ドレは、子供をフランス国旗に包んで抱くアルザス人女性を描き、アルフォンス・ドーデ(18401897)は、「最後の授業」を始めとする一連の『月曜物語』を書き、コルマール出身のバルトルディ(18341904)は、ベルフォールの「ライオン像」やニューヨークの「自由の女神像」を作り、ヴィクトル・ユゴーは、「アルザスとロレーヌ」という詩を著した。

 

 フランス国内での様々な政治的プロパガンダに対し、アルザス独特の風景もまた、それらの動きに強く貢献するものとなった。蝶々の形をしたアルザスの伝統的な女性のリボンと、ストラスブールの大聖堂のシルエットは、初期の頃から「失われたアルザス」の象徴となった。さらにこれに、アルザスの風景や日常生活の中に見られるアルザスに欠かせない様々な要素が加わることになる。アクセントや物腰が奇妙だという理由で、普仏戦争前までなら嘲笑の対象にしかならなかったであろうと思われるアルザス人女性に対する見方も一変した。そして、そのアルザス人女性(シュゼルと呼ばれていた。マスカーニのオペラ『友人フリッツ』に登場してくるアルザスの娘の名も、やはりシュゼルである)の後をくっついて歩くガチョウは、コウノトリに比べどこにでもいる何の変哲もない鳥であり、その滑稽な振る舞いからさらに飼い主を嘲笑の対象としていたかもしれないのに、アルザス人にお気に入りの鳥となり、主役の次に人気を博すようになったのである。

 

 

 

 

 とはいえこの段階ではまだ、「失われたアルザス」の象徴といえるようなものは一つに決まっていなかった。人々は、アルザスにまつわるもの全てに、アルザスを象徴させようとしていたからである。コウノトリもまたアルザス風景に結びついた鳥ではあったが、アルザス人女性のお供のガチョウに比べ、扱いは小さいものだった。しかし、好むと好まざるとに関わらず、コウノトリもまた、他のフランスの地方には殆どいないアルザスの風景に結びついた鳥であるがゆえに、フランスの政治的プロパガンダの中に巻き込まれていく運命にあったのである。

 

 

 

 コウノトリが、「失われたアルザス」の象徴として初めて登場してくるのは、フランスの側からであったと考えられている。先に触れたモーリス・エンゲルハルトは、やはり著書『アルザスの思い出』の中で、「今日、フランスにはもうコウノトリがいない。アルザスを失うと同時に失ってしまったからだ」と嘆いた上で、鳥類学者トゥスネルが、すでに二十年以上前からその著作『鳥の世界』の中でコウノトリがアルザスを特別に移住先に選んでいる理由を説明しているとして、次のような引用を行なっている。「コウノトリは、この広いフランスで二つの県だけを住むべきところと考えたのだった。・・・八十六のうち二つの県だけを。何故ならそれは、ラインの二つの県が、農産業と手工業とにおいて最高の水準に達した県であるからだが、それだけではなく、何よりもまずこの二つの県が、フランスで最も誠実で教養ある人々を養っているからなのである」エンゲルハルトは、 「この賛辞は故郷を追われた者の心に何と心地よいものだろう!」と最後に結んでいるのだが、ここで注目しておきたいのは、コウノトリがアルザスに好んで住む理由が、単にその習性からではなく、そこがアルザス人のいる土地だからだ、と言っている点である。コウノトリは、そこに「フランスで最も誠実で教養ある人々」であるアルザス人がいるからこそアルザスを渡りの場所に選んでいるのだ、と言っているのである。

 

 

 

 

 このことは、コウノトリがアルザスの象徴とみなされていく過程において重要なことのように思われてならない。というのも、コウノトリのアルザスに対する忠誠心は、そのままアルザスに対するフランスの、あるいはフランスに移住していったアルザス人たちのアルザスに対する変わらぬ結びつきを象徴することが出来るからである。ストラスブールのカテドラルにしろ、アルザスの民族衣装にしろ、それまでアルザスの象徴として描かれてきたものは全て、アルザスの内側にあってアルザスの象徴とみなされるものであった。確かにそれらは、アルザスへの郷愁を誘い、アルザスを想起させる存在ではあったが、アルザスの中にとどまっていたため、アルザスの中でアルザスを象徴することができたとしても、フランス側から見れば、国境の向こうの遠い象徴に感じられたのではないかと思われる。それに対し、同じアルザスの象徴の一つでも、コウノトリの立場は違っている。コウノトリは、決してアルザスにとどまることはない。それは、国境を越え、危険を犯しながらも自由に行き来しうる存在である。フランスからアルザスへ、アルザスを勇気づけるために、あるいはアルザスからフランスへ、アルザスのメッセージを届けるために、積極的に両者を結びつけることのできる立場にあったと考えられるのである。こう考えたとき、メッセンジャーとして、常にフランスとアルザスとの間の通路を確保し、解放する側からも解放される側からもどちらからも象徴とみなすことのできるコウノトリは、アルザスをフランスに取り戻したいと望んでいた人たちにとって、理想的なアルザスの象徴だったのではないかと思われる。ともあれ、ここにきてようやくコウノトリもまた、アルザス象徴の候補者に推されることになったのである。

 

 

 

 

 

 

 同じ年、82年に、図らずも『コウノトリ,Les Cigognes』という作品がパリで出版されている。その副題には「ギュスターブ・ジャント(Gustave Jundt)が夢をふくらませて描き、アルフォンス・ドーデが小さい子たちにお話するライン地方の伝説」と書かれていた。物語は、ライン河を超えてアルザスにやってきた放蕩学生、密漁監視人、軍の司令官らを、アルザス人(仲良しの煙突掃除人)のため、渡りに出発する直前のコウノトリが嘴で捕まえて、空から彼らの居場所へ追い払う、というものである。すでにここには、コウノトリがドイツからアルザスを取り戻すためにアルザスへ向かった解放者のイメージを取り始めていることが分かる。この時期からコウノトリは、フランスの政治的プロパガンダに欠かせなくなり始め、政治的な意味合いを与えられていくようになるのである。失われた「フランスのアルザス」にコウノトリを結びつけようとするこの動きは、普仏戦争の結果パリに移住したアルザス人たちや、フランスの愛国グループらの活動に支えられて、少しずつ効果を表わし始めることになる。先にも書いたようにこうしたフランス国内の動きに、アルザスもまた同調していくことになるのである。

Dessin par G.Jundt pour le livre de Cigognes

 

『コウノトリ』中の中表紙(ジャント画)

 

 

 

 こうしてフランスとアルザスとを結びながら、コウノトリは、アルザスの象徴というより、「アルザス解放」の象徴としての座を確保していくこととなった。アルザスをフランスに取り戻そうとする国威宣揚政策を推し進めるにあたり、人々は、アルザスの象徴に相応しいものとして、ついにコウノトリを発見したのである。そして、19世紀の終わりから第一次世界大戦の間に、この政治的プロパガンダに大きく貢献したうちの一人が、すでに前にも触れたレガメイ夫妻であった。1907年にパリで出版された彼らの作品『コウノトリの地方で』は、フランス国民に、アルザスの象徴としてのコウノトリを強く印象づけることになったのである。

 

 

 

 

(9)レガメイ夫妻の『コウノトリの地方で』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レガメイ夫妻は、19 世紀末から第一次世界大戦の間に、挿し絵の入った多くの物語を発表し、アルザスの風景や町、村、日常生活などを紹介し続けた。アルザスのベブレンハイム村の出身である妻ジャンヌが本文を書き、パリ出身の夫フレデリックが挿絵を描きながら、フランスの政治的プロパガンダにそうような物語を発表し続けたのである(パリとアルザス出身の二人が、フランスにとって愛国的な物語を著すということじたいが、すでにその後のアルザスの在り方を示唆しているかのようである)。彼らの代表作『コウノトリの地方で』とはどんな物語なのか、ここで紹介しておこう。

 

 

 舞台はアルザスのコルマール。この町に住むアルザス人のヘス家に、ヘス夫妻と友人関係にあるパリ在住のジロ家から、二人の子供(レイモンとドゥニーズ)が一年間の予定で留学してくる。独語を勉強するためである。物語は、全部で16 章からなり、パリからきた二人の子供と、ヘス夫妻の二人の子供を中心に、彼らの日常生活を追いながら、その中で起こるドイツ人との軋轢、フランスへの愛国的行為、アルザスの風景や習慣などを一年間にわたってつづっていくという体裁をとっている。

 

  ヘス家は、近郊のリックヴィルにブドウ畑を持つブドウ栽培者で、家族全員が熱狂的なフランス贔屓のアルザス人である。一家の主人のヘス氏は、パリから来たレイモンとドゥニーズを国境まで迎えにいき、コルマールに戻る途中でドイツの軍隊に出会ったとき、あの兵隊たちがアルザスとロレーヌを奪ったのかと彼らに尋ねられて、「いいや、あの連中じゃない。彼らは1870 年より前に生れていなかったから。けれども、私たちは、彼らを恨んでいるのだよ、彼らがやったことのようにね。というのも、機会があれば彼らはまた同じことを繰り返すだろうから。それに、それが同じ人間でないとしても、同じ軍隊であり、同じ国民じゃないか。それだけで、彼らを憎むには充分だよ」と答えるような人物である。また、彼の息子のマルセルが、ドイツ人の学校に行くのが嫌で、フランスにある学校に行きたいと望んだとき、こう言って息子を諌めている。「ドイツ人はわざとそのように仕向けているのだ、そうやってフランス好きのアルザス人を追い出して、アルザスを自分たちの思うようなところにかえようとしているのだ、だから、アルザスを出て行ってはいけない、ここでドイツ人に抵抗するアルザス人が残らなければいけないのだ」家を取り仕切るヘス夫人もまた、プロシャ人と結婚した階下に住むストラスブール出身の女性について、こう述べるような女性である。「アルザス女性の誰かが、この裏切り行為(プロシャ人との結婚)を犯したら、もうおしまいよ、彼女はアルザス社会から閉め出されるの。もうどこへ行っても彼女は受け入れてもらえないし、昔の知人も彼女を無視して、道であってもあいさつさえしないのよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、フランスに対する盲目的とも言える愛国心を最も強く持っているのは、一家の長老だった。パリから来た少年レイモンが、アルザスに着いての第一印象を求めら、「みんながフランス語を話しているのでびっくりしました」と答えたのに対し、老人は、少年が歴史の知識を持っているだけで、アルザスの実情を何も分かっていないのだと気付かせた上で、さらに次のように続けるのである。「フランスでは、われわれの感情について話題にはするが、そのことが問題をそらすことになったのだ。これでは問題は明らかにならない。だからお前たちには、そのことを学んでほしいのだ、明日の大人であるお前たちには。お前たちはこう思っている、というより思わされている、フランスがわれわれを取り戻さねばならないのは、ただただわれわれがフランスに戻ることを切望しているからなのだ、と。確かにそれは理由の一つだが、本質ではない。大切なのは、フランスが、体の一部をもぎ取られたことであり、戦いに際し最も強く、異民族の侵入に充分に備えのしてあった二つの地方を奪われた、ということなのだ。フランスは、われわれを失うことで、国境と、防衛と、最も重要な前線基地であるストラスブールとメッスを失ったのだ。・・・フランスは、われわれのために、われわれを取り戻さなければならないのではなく、フランスにとって戦略的にわれわれが必要だから、欠かせないから、奪われたフランスの一部だから、多少の犠牲を払ってでも奪い返さなければ、新たな損失を被ることになるのだ。われわれを厄介者であるとか不平を言う奴らだと言うものがいたら、そいつらは目先のことしか考えぬ連中か、あるいはフランスが弱体化するのを願っている連中なのだ」そして彼は、リックヴィルの家の倉庫に、色褪せてぼろぼろになったフランス国旗を「戻ってきたフランスに、長い間われわれが待ち続け、フランスに忠実であったことを知らせるため」に隠し持ち、もしその日を自分の目で確かめられないときは、自分の墓の上まで来て、足を踏みならし、フランス人がいつやって来るかを伝えにくるようにと、孫たちに頼むような人物である。孫娘に、階下に住むプロシャ人の少女たちと会話することを禁じたのも彼だった。

 

 

 

 

 

 

 こうした家庭に育ったヘス氏の息子マルセルは、ドイツ人の学校が嫌いであまり勉強をしない。妹のリュシーはおてんばで、学校ではドイツ人グループと対立関係にあり、教師からにらまれている。パリから来た少年レイモンは、早くから自分の認識不足を自覚し、アルザス滞在中に起こることの全てを手帳に書き留めていく。そしていつか、ジャーナリストになり、アルザス問題を正しく世の中に伝えたいと決意する。それに対し、レイモンの妹ドゥニーズは、おとなしく、躾の行き届いた良家の少女として描かれている。

 

 物語に特別なストーリーはなく、アルザスの日常生活に触れながら、日々に起こる出来事を時間を追って取り上げ、その中でフランスを賛美し、ドイツ人やドイツの習慣を非難していく。主な出来事を拾っていくと、一家が一日ベルフォールへ出掛けたとき、マルセル少年はフランス兵に抱きつき、電車の中でマルセイエーズを歌いだすほどの愛国心を見せる。その一方で、遠足の時に木の枝だなどの山の自然を持ち帰るドイツ人の習慣にアルザス人の子供が従わなかったり、ドイツ皇帝の誕生式典で、皇帝を賛美する歌をアルザス人の子供が歌わなかったりして、ドイツ人の子供との間に軋轢を招く。おてんばのリュシーは、ドイツ皇帝に宛てて、「アルザスはドイツに留まることに耐えられないので、すぐにフランスに返してほしい、さもなければ私は将来ジャンヌ・ダルクのようになって、アルザスをフランスに取り戻すつもりだ」といった内容の手紙を書く。そのリュシーと仲の良かったブランシュという級友は、皇帝の誕生式典の際に、祝辞を述べるよう頼まれはしたけれど、承諾した覚えはないと祝辞を拒み、その場を立ち去って放校処分を受けてしまう。

 

 

 

 

 物語の最後は、それまで勉強に熱心で一度も怒られたことのなかったレイモンが、発音の問題ですでに一悶着を起こしたことがあるドイツ人のフランス語教師と、今度はウエストファリア条約の解釈をめぐって対立し、教師に殴られ、その不当性に耐えられず相手を殴り返してしまい、放校処分のみならず国外追放を受けてしまう。こうしてレイモンと妹のドゥニーズはパリに戻されてしまい、一方あとに残されたマルセルは、レイモンたちと再会したい、ドイツ人のいるアルザスにもういたくないという一心から、彼らの後を追い友人と家出してしまう。けれども家出は失敗に終わり、最後に祖父からこう諭される。 「マルセルや、お前のした事を見ていると、何度もわしらが言い聞かせたのに、お前にはまだお前の義務がどんなに大きなものか分かっていなかったのだな。だが、わしらの人生に君臨せねばならぬのは、楽しみではなく義務なのだ。万人にとって真の諺がある、とりわけ、わしら今日のアルザス人にとって。それは、山羊はつながれている場所で草を食わねばならぬ、というものだ。つまり、わしらの運命がわしらに留まれと命じている場所で、わしらは、堪え難くはあっても、他の人たちやわしら自身にとって有益な生活をせねばならぬ、ということだ。お前は、併合された者たちが自国において抵抗活動とフランス精神を支えることを使命とする時代に、アルザスに生まれたのだ・・・だからわしの言う通りにし、わしの勧めに従うのだ、そうすれば後になって、お前はわしに感謝することになるだろう」そして最後に彼はこう付け加え、物語は終わるのである。「もしお前が行ってしまえば、いったい誰がわしの墓の上にきて、彼らがいつやってくるのかをわしに伝えてくれるのかね?」

 

 

 

 

 

 

 

 物語は、最初から最後までこの調子で進んでいくので、事情に疎かったり事の当事者でなければ、辟易してしまうかも知れない。だが、この物語が20世紀初頭にパリで発表されたとき、フランス国内のみならず、アルザスにおいても多くの共感を呼んだであろうことは想像に難くない。というのも、当時アルザスで出されていたアルザスグラビア誌revues alsaciennes illustreesには、この本に関する書評が載っており、その最後に次のように記されているからである。 「(レガメイ夫妻の)物語の熱っぽさはひしひしと伝わってくる。そして私たちは、多くのフランス人の子供たちが、ドゥニーズやレイモン・ジロのように振る舞うような熱意を持ってもらえることを願っている。これが、この本の大きな美徳であり、この本は、子供たちに与えうる、アルザスの最も良き思い出の一つである」

 

 

 ところで、本の題名が『コウノトリの地方で』であるにも関わらず、物語中にコウノトリについて触れられている部分はあまりない。「コウノトリの到着」という、コウノトリを話題にした一章があるものの、その中で実際にコウノトリについて触れられている部分は、この章のうちの約半分と物語の後半に少し出てくる程度である。これはどういうことなのか。結論を待つまでもなく、『コウノトリの地方で』の「コウノトリ」とは「アルザス」の言い換えであり、この物語は、そこでくりひろげられたアルザス人の悲喜こもごもの全てを、コウノトリに象徴させようとする試みであったと言うことが出来るであろう。物語の題名を「アルザスで」ではなく、「コウノトリの地方で」とし、その表紙に五羽の飛翔するコウノトリを描くことによってレガメイ夫妻は、コウノトリをアルザスの象徴として人々に強く印象づけ、認知させようとした、と言うことが出来るのである。こうしたフランスの政治的プロパガンダによって、アルザス解放の象徴とみなされるようになっていったコウノトリは、今度は、出来るだけ早くドイツ人との違いを見いだしたいと願っていたアルザス人たちの側からも、アルザスのアイデンティティーとしての地位を獲得していくことになる。それにはアルザスの画家たちの出番が不可欠であった。そうした画家の中で最も著名なのが、アルザスの誇るフランス愛国主義者ハンジである。

 

 

 

 

 

 

(10)ハンジの『私の村』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハンジ(詳しくは『アルザスの芸術家』のページを参照)は、レガメイ夫妻が『コウノトリの地方で』を発表した5年後の1912年に、『アルザスの歴史』を刊行する。ケルト人のいた時代から当時までのアルザスの歴史を、一方的な歴史観に立ってハンジが書いたこの歴史物語は、作者が強烈な風刺家であることを差し引いても、この5年の間にドイツ人に対する風当たりがさらに激しくなっていることを、感じずにはいられない。この本の中でドイツ人を攻撃し、揶揄し、こき下ろすハンジの筆舌のすごさは止まるところを知らず、当然のことながら彼は当局から目をつけられることになる。後にハンジは、第一次大戦後に刊行した『幸福なアルザス』の中で、『アルザスの歴史』を刊行した後の状況について、次のように語っている。

 

 

「『アルザスの歴史』を書きながら、ドイツ人が許せない過ちを私は犯しました。私は、真実を言ってしまったのです。彼らは、どんなにか私を罰して、閉じ込めておきたかったでしょう。しかし、山とあるドイツの法律の中にさえ、真実を言う人を罰する法律はなかったのです。私はまた、私の本の終りのところで、ある日アルザスが幸せになりますように、との希望を表明しました。それは確かに大変なことでしたが、結局はどんなドイツの法律も、プロシャ人に対してさえ、いつか幸せになるという希望を禁じてはいなかったのです。そこで別の理由を見つけねばなりませんでした。かつて私が描いた絵のうちの一つに、1871年にアルザスに到着するドイツの公務員を描いたものがありました。はっきり言って、あまり格好良く描いたものではありませんでした。そこで、私を罰しようとして、この飢えた侵入者たちが最初にやってきた時の生き残り三人を見つけだしてきて、私を訴えるようにと、彼らに求めたのです。・・・彼らがアルザスにやってきたとき、彼らはやせていて、みすぼらしく、腹ペコの状態で、私が描いた絵と全く同じ姿をしていたものです。ところが、彼らが裁判の証言に立ったとき、アルザスに46年間いたため、彼らはぶよぶよになっていました。私が、彼らを腹ペコたちと呼んで、彼らの名誉を傷つけてしまったのは当然のことでした。・・・それから私はかなりの罰金を払い、今度やったら牢屋行きになることを承知して、また仕事に戻ったのです」

 

 

 

 

 

 このようにハンジは、強硬な反ドイツ主義者として、文と風刺画で存分にその主張を繰り広げていたが、残念ながら『アルザスの歴史』には、まだアルザスを象徴するような存在としてのコウノトリを登場させるまでにはいたらなかった。この本の中には何ページかにわたってコウノトリの姿を見ることが出来るものの、遠景の中に小さくそのシルエットを見せているだけである。このことからハンジもまた、それまでは、コウノトリを風景の中の一部としかみなしていなかったということが分かる。 しかし、裁判の後、「住民全員がまだアルザスの衣装を着ている、バ・ラン県の小さな村に行って、フランスの子供たちに見せようと、彼らの兄弟や姉妹であるアルザスの子供たちがどのように暮らしているか、絵を描いて一つにまとめた」本が出版されることとなる。これが1913年に刊行された『私の村(Mon Village)』である。

 

 

 

 『私の村』でもまだ伝統的な「失われたアルザス」のモチーフが支配的でないわけではない。この本の表紙を飾るのは、勿忘草の鉢を手にした民族衣装を着た少女だし、裏表紙には、やはり勿忘草とストラスブールのカテドラルのシルエットが描かれている。このことからハンジが、初期の頃の失われたアルザスの象徴と勿忘草とを結びつけることで、「アルザスのことを忘れないでほしい」というメッセージを、フランスの側へ送っていることは明白である。また、ハンジはこの本の中で「コウノトリの到着」と題し、コウノトリのために一ページを割いているのだが、ここでハンシがコウノトリを取り上げていることじたいは、特筆すべきことではない。もともとこの本は、フランスの子供たちにアルザスの生活を知ってもらう目的で書かれたものなので、その生活の一部となっているコウノトリが登場してくるのは、当然といえば当然のことだからである。問題なのは、その取り上げ方である。というのも、おそらくここで初めてハンジは、フランスとアルザスを結ぶ象徴としてのコウノトリを、具体的なイメージを与えて登場させているからである。次に紹介するのはこのページの前半部分であるが、ここでコウノトリの役割がかなりはっきりと示されていることが分かるだろう。

 

『コウノトリの到着』(ハンジの『私の村』より)

 

 

 

「私の村の子供たちの大きな喜びは、コウノトリがやってくることです。まず初め、冬の終りに最初にやってくるのが歳とったおばあちゃんコウノトリです。フランスから飛んでくる飛行機と全く同じように、長い間、村の上空を舞っています。それから、しばらくの間、学校の建物の巣の上で休憩し、姿を消します。コウノトリの仲間に、この美しい村が相変わらず同じ場所にあり、巣もそのままの状態で保たれ、この長い冬に沈みきっていたアルザスの子供たちが首を長くして春を告げる使者を待っているよと、知らせに向かったのです。アルザスにやってきて、私たちにこう言う人たちがいました。『どんな素晴らしくないものも、良くないものも、有益でないものも、ライン河の向こうからは来ないのですよ』と。彼らによると、コウノトリもまた、プロシャから来ると言います。一目見ただけでは、もしかすると間違えてしまうかも知れません。コウノトリの翼は、白と黒(これはプロシャの色です)をしており、くちばしは、少なくともプロシャ人の平均的な口の大きさと同じで、北の地方でもう何も食べるものがなくなると、南の地方へと移住してくる。これが理由です。けれども、外見に誤魔化されてはいけませんし、私たちの子供たちは、決してだまされたりはしませんでした。アルザスでは、コウノトリと子供は、昔から愛情で結ばれているのです。どんな悪口をいっても無駄というものです」

 

L'arrivee des cigognes dans Mon Village par Hansi

 

 

 

 ここでハンシが、コウノトリを「フランスから飛んでくる飛行機」にたとえ、コウノトリをアルザス解放の象徴とみなしていることは明らかである。しかもこのたとえは、コウノトリを、漠然とした象徴ではなく、「フランスから飛んでくる飛行機」という具体的な象徴としてとらえている点で、今までよりさらに前進したと見ることができるのではないかと思われる。 

 

 

 

  

 さらにここで、ハンジの描いた挿し絵についても見ておく必要があるだろう。この本の中での彼の本職は、風刺画家なのだから。『コウノトリの到着』と題したページには、3枚の絵が添えられていて、そのうちの一枚は、1ページ分を使った大きなものであり、後の2枚は小さく、本文と同じページに挿入されている。このうち大きな絵(前図)は、本文の内容に沿った挿絵で、学校の建物の屋根の上の巣にコウノトリが一本足で立ち、その下に見物に集まってきたアルザスの大人や子供が、コウノトリの到着を喜んでいるところを描いたものである(群衆の後ろの家の前には、軍服姿のドイツ憲兵の姿も見える)。次に、小さい方の1枚は、民族衣装を着たアルザスの子供たちが、「コウノトリの歌」の楽譜を広げているところを描いたもので、歌詞は次の通りである。

 

 

L'arrivee des cigognes dans Mon Village par Hansi

 

 

「コウノトリさん、コウノトリさん、運がいいね/毎年、フランスにやって来て/コウノトリさん、コウノトリさん、運んできてよ/くちばしにくわえて、兵隊さんの人形を」

 

 これはもともと、「コウノトリさん、コウノトリさん、長い脚をした/私を家の椅子まで届けてよ/それはどこ? それはどこ?/愛するアルザスよ」いう子供の歌だった。それが、アルザスがドイツに併合されてからは、「愛するアルザスよ」の部分が「愛するフランスよ」と歌われるようになり、おそらくハンジ自身の手によって、上記の歌に作り変えられたのである。ここでハンジが、コウノトリを具体的なアルザス解放の象徴とみなしていることは明白である。毎年フランスにやってくるコウノトリは、アルザス人の憧れであるばかりでなく、フランスから兵隊を連れてきてくれる解放者でもあると、主張しているからである。このページに挿入されている3枚目の挿絵は、まさにコウノトリがくちばしにフランス兵の人形をくわえて飛んでいるところを描いたものとなっている。

 

 

 

 

 すでに述べたように、ストラスブールのカテドラルやアルザスの民族衣装に、こうした役割を見いだすことは難しかったであろう。「ドイツ併合という長い冬の時代に沈み切ったアルザス人が、アルザス解放の象徴であるコウノトリを首を長くして待ち望んでいた」とこの文章の中に読み取ることは、無理のあることではないように思われる。また、そのような象徴であるコウノトリとアルザスの子供たちとの間に深い愛情があるということは、ドイツの悪口にめげず、アルザスは常にフランスに忠実であったという信仰告白にもなっているように思えてならない。「フランスから飛んでくる飛行機のように」という表現や、フランス兵の人形をくちばしにくわえて運んでくるコウノトリの絵は、このように風刺画家の本文を読み取る自由を私たちに与えてくれているとは言えないだろうか。こうして『私の村』が刊行された翌年、第一次世界大戦が勃発し、実際にアルザス解放のため「コウノトリ」が参戦することになるのだが、ハンジにはそのような予感があったのかも知れない。

 

L'arrivee des cigognes dans le Mon Village par Hansi

兵隊の人形を運んでくるコウノトリ(ハンジ画)

 

 

 

(11)コウノトリ部隊の誕生

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コウノトリはアルザス解放の象徴として出番を待つばかりとなった。そしてそれは、「フランスから飛んでくる飛行機」の象徴となるはずだった。けれども、国境を越えていく最初の飛行機に結びつけて考えられた「フランスの鳥」は、コウノトリではなく、ツバメであった。これより数十年前からツバメは、フランスへの祖国愛に満ちた歌に歌われていたからである。おそらくそれは、ツバメが、春を告げる鳥として昔からフランスで愛されてきたことにも関係しているのであろう。「アルザス解放」の立場に立てば、それはコウノトリなのかも知れないが、フランス全体の立場に立てば、「フランスの鳥」と言えばツバメだったのである。

 

 やはりプロパガンダ的な内容を持つ、『アルザスの美しい地方で Au beau pays d'Alsace』という本がある。アルザスのシュヴェルメルドルフ(これは架空の村だと思われる)という村に住むジッフェル家を通して、アルザス風景を描いた子供向きの本なのだが、この物語の最後には次のような記述がある。「ジッフェル家の人たちは、どうして彼らの美しい村がシュヴェルメルドルフと呼ばれているのだか、考えたこともありませんでした。でも、それを知るには、空を見上げてみるだけで良かったのです。たくさんのツバメ(シュヴェルメレ)がいるのですから。全ての屋根の下に、全ての建物の前に、ツバメたちは巣を作りました。学校の建物にだけは、ツバメの巣がありませんでしたが、ジッフェル家の人たちは、それがドイツ人の先生が村にきてからであると考えています」

 

 

 このように物語は、「ツバメの村」で展開されていて、依然としてツバメがフランスへの愛国心を示す存在であったことを示している。しかし、コウノトリはもうすぐそこまで来ていた。実際、この物語でも、さらにこのような続きがあるのである。 「けれども、ジッフェル家の人たちのお気に入りの鳥は、コウノトリです。私たちのところの全ての子供たちと同じように、揺りかごに赤ちゃんを運んでくるのがコウノトリであることを、彼らは知っています。コウノトリ! アルザスにはまだコウノトリがいるのです。というのも、意地悪なドイツ人どもには、私たちの国の鳥をやっつけてしまうことが出来なかったからですし、全てのアルザスの子供たちの心から、フランスへの愛を取り除くことが出来なかったからなのです!」

 

 

 

 コウノトリがはっきりとアルザス解放の象徴となったのは、1916年に、ランスの飛行小隊「SPA3」が、機体につけるトレードマークを探していたときのことであった。Spad戦闘機が配備されていたところから、SPA3と呼ばれたこの飛行小隊は、古くから最も有名なもので、第一次大戦の始まる前夜の1912年に組織され、1914年に初陣を飾っていた。飛行小隊は、ヴェルダン管区に基地を置いたあと、続いてピカルディーにおいて、トレードマークをつけることになった。それにはつぎのようなエピソードがある。

 

 隊のトレードマークを選ぶにあたり、猛獣や猛禽類の鳥の名前がいろいろ候補にあがったのだが、なかなか一つにしぼりきれずにいた。最終的にトレードマークを決めたのは、隊長であるブロカール大尉だった。彼は言った。「諸君、この戦争の目的は何なのか? アルザスを取り戻すことである! それなら、コウノトリこそ相応しいではないか」 この隊長の一言で、アミアンにおいて、コウノトリのマークを機体に描いた最初の戦闘機が生れることになったのである。子供を運ぶコウノトリのマークが最初に描かれたニューポート況燭糧行機は、ボレツキー曹長によって「ベベ・ニューポート」と名付けられた。こうしてフランスの飛行部隊にコウノトリ部隊が登場することになり、この部隊から何人もの空の勇士が現われることになる。このうちの一人は、エレーヌという名前の本物の剥製のコウノトリを機内に持ち込むほど、コウノトリを気に入っていた。

 

 

 

 こうしてコウノトリは、フランスの戦闘機の象徴となった。コウノトリは、「フランスの飛行機のように」ではなく、ここにおいてフランスの飛行機そのものになり、アルザス解放の象徴となったのである。コウノトリを機体に描いた戦闘機の飛行士で、特に有名なのは、ギヌメール(Guynemer)である。1917年に戦死するまでの間、彼は、「空の騎士」と呼ばれ、航空戦の英雄であり、赤いコウノトリのシルエットの入った黄色い機体は、敵軍の間で知らぬ者がないほどであった。ギヌメールや彼の同僚たちが航空戦の英雄とみなされ、語り種になったことによって、第一次大戦後に、爆発的なコウノトリブームが起こることになるのである。

Guynemer et son avion Le vieux Charles

 

 

ギヌメールと愛機「Le vieux Charles」機体にはコウノトリのマーク

 

 

(12)第一次大戦後に流行した「アルザスのコウノトリ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第一次大戦が終りフランスがアルザスを取り戻したとき、コウノトリ部隊の活躍によって「アルザスのコウノトリ」というテーマは、特に人気の的となった。この流行にあやかろうとし、コウノトリをモチーフにした様々な品が作られ、販売されることになる。煙草入れやインク壜、ペーパーナイフ、あるいはどの土産物屋にも置いてあるようなコウノトリをモチーフにした様々なキッチュが、次々に販売されたのである(今日の土産物屋にも、コウノトリのぬいぐるみや指人形、木、陶器、ガラスなどで出来たミニチュアのコウノトリ、またコウノトリの絵柄の入った焼物、生地、ナプキン入れ、マグネット、キーホルダー、コウノトリの卵型チョコレートな等々が販売されており、当時もこれと似たような状況だったのであろう)。アルザスと言えばコウノトリという具合に、コウノトリはそれ自体で登場することもあれば、ストラスブールのカテドラルや、廃墟となった城や、木組みの家や、民族衣装を着たアルザス女性といった、アルザスを代表するものと一緒に登場してくることもあった。こうしてコウノトリは、「フランスのアルザス」を表現しようとする際に欠かせない存在となってしまったのである。

 

 

 

 

 ハンジは、1919年に出版した『幸福なアルザス』の中で、コウノトリをアルザスの紋章にまで格上げしている。「眠れる森の美女」というページで、民族衣装を着たアルザスの女性がフランス兵の到着によって目を覚ます場面が描かれているのだが、彼女の寝室の壁には、アルザスの守護聖女である聖オディールと一緒にコウノトリの姿が描かれていて、コウノトリをあたかもアルザスの守護鳥のように扱っているのである。また、同じ本の別のページでは、「コウノトリもご満悦です」という挿し絵がある。三色旗が家々に旗めく村のとある建物の屋根の上で、画面全体の四分の一ほどのスペースを占めたコウノトリが、村の人たちとフランス兵が歓談している様子をうれしそうに眺めているという絵である。さらに裏表紙には、ストラスブールのカテドラルと一緒に三色旗をくわえたコウノトリがうっとりとした様子で立っている姿も描かれている。ここでは、『アルザスの歴史』とは比べものにならないほど、コウノトリが前面に押し出されていることがはっきり見てとることができる。

 

 

 

 

La Belle au bois dormant dans L'Alsace Huereuse de Hansi

La cigogne aussi est contente  dans L'Alsace Huereuse de Hansi

D'apres L'Alsace Huereuse de Hansi, la cigogne et la cathedrale de Strasbourg

 

 

 

 

ハンジの『幸福なアルザス(L'Alsace Heureuse)』より、『眠れる森の美女』では、フランスを象徴する雄鶏の柄の入ったベッドに眠るアルザス女性をフランス兵が目覚めさせている。柱頭にはアルザスの守護聖女オディールの像があり、窓の上にはアルザスの紋章に脚をかけたつがいのコウノトリが、仲良くくちばしでブレッツェルをくわえ、その向こうにはストラスブールのカテドラルのシルエットが見える。『コウノトリもご満悦です』では、コウノトリが画面を大きく占め、裏表紙は、コウノトリとストラスブールのカテドラルが一緒に描かれている。

 

 レガメイ夫妻の本もまた、この時期に公式にアルザスで受け入れられることになった。彼らの著作は、優秀な成績を修めた生徒などに対する褒美として、賞状と一緒に贈られるようになったからである。どちらかというと親フランス傾向にあったもののハンジのような極端なフランス愛国主義者ではなかったシャルル・スピンドレールもまた、第一次大戦後にポショワール技法で、コウノトリをモチーフにした絵を数多く製作している。これもまた、当時の人々の要求に応えたものである。

 

 

 

Pochoir de C.Spindler dans les annees 20

Pochoir de C.Spindler dans les annees 20

Pochoir de C.Spindler dans les annees 20

Pochoir de C.Spindler dans les annees 20

C.スピンドレールが1920年代にポショワール技法で作成した絵。左から、三色旗がたなびくストラスブールのカテドラルの周りを飛ぶコウノトリ。アルザスの村の上空を舞うコウノトリ。アルザス女性とフランス兵士。フランスの象徴である雄鶏。

 

 さらにもう一つ、この時代ならではの本を次に紹介しておこう。『アルザスのコウノトリ、クラック Klack Cigogne d'Alsace』という、コウノトリを主人公にした第一次大戦を舞台にした子供向けの物語で、この時代の雰囲気を最もよく伝えている物語である。

 クラックは、四人兄弟の長男として生れたコウノトリである。ヒナドリたちは、両親と幸せに暮らしていたが、ある日、両親とも餌を探しに出掛けたまま帰ってこなくなってしまう。長男としての責任を感じたクラックは、餌を探しに飛び立つが、まだヒナドリだったため、たちまち地面に落ちてしまう。そこへ、アルザスの国歌とも言うべき「ハンス・イム・シュノッケロッホ」の歌を歌いながら、ハンスという男の子が通り掛かり、クラックを見つけ、家に連れて帰る。

 

 一年がたち、若鳥に成長したクラックは、両親の行方をもとめて旅立った。そして沼地に住むカエルから、クラックの両親がドイツ人の仕掛けた毒入り卵を食べて死んでしまったことを聞き出し、ドイツ人への復讐を誓った。まもなく1914年になり、ハンスから独仏開戦になるだろうという話を聞いたクラックは、ある晩、フランスへと向かって飛び立つ。そしてフランス軍のアルペン部隊に加わり、伝書鳩のような役割を果たすことになるのである。

 

 

 そんなある日、クラックがいつものように空を翔んでいると、ドイツのツェッペリン船を見かけた。その瞬間、クラックの心にドイツ人に対する憎悪が燃え上がり、クラックはツェッペリン船への攻撃を開始する。そして、フランスの戦闘機の助けも借りて、ついに相手をやっつけてしまうのである。クラックは、この戦いで負傷し野戦病院に送られることとなる。しかし、戦功が認められて十字勲章を受け、「単葉機」というあだ名までもらうことになり、空の英雄として手厚く看護されることになる。

Klack,Cigogne d'Alsace

 

『アルザスのコウノトリ、クラック』の表紙(Nett作、Lisbeth画)先に紹介した『アルザスの美しい地方で Au beau pays d'Alsace』も、同じ二人の作品

 冬になるとクラックは、寒いアルザスを離れてトルコ戦役に加わる。その地で、やはりドイツ人のために両親を失った二羽のコウノトリに出会い、行動をともにすることになる。伝書鳩のような役割に甘んじていられなくなった彼らは、やがて、くちばしを鳴らすことで機関銃の音真似をし、敵を欺くことによって味方に大勝利をもたらす活躍をする。またある時は、敵の来襲を受け、いち早くそれに気付いたクラックは、味方に敵襲を伝えるのだが、その際にドイツ軍の捕虜になってしまう。クラックは、皇帝のご馳走としてベルリンに送られそうになるが、すんでのところで仲間のコウノトリに助けられ、九死に一生を得る。

 

 

 こうした数々の武勇伝の後、フランスの勝利で戦争が終ると、クラックは生れ故郷に戻って来る。そして、死んでいった兄弟たちの墓に十字勲章を埋めると、「君たちを殺した連中はもうアルザスにいないよ、君たちの眠る土地は永久にフランスのものなんだ」という報告をし、故郷の村で幸せな生活を送り始めるのである。

 

 この物語がこの時代の産物であり、この時代の雰囲気を如実に伝えるものであることはもはや疑いようのないところであろう。この物語の中では、コウノトリとアルザスの親密さ、ドイツ人への憎しみ、フランスのために戦うコウノトリ、「単葉機」とみなされたコウノトリなど、この時代に熱狂的に受け入れられたあらゆる要素が凝縮されており、この時代に出来上がった「フランスのアルザスとコウノトリ」という神話を強烈に印象づけていることが分かる。とりわけ物語の主人公クラックは、「空の騎士」ギヌメールを初めとするコウノトリ部隊へのオマージュとして登場してきた、と言っても過言ではないように思われてならない。

 

 

 

 

 

(13)今日のコウノトリ像

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 普仏戦争とそれに続く第一次世界大戦とによってコウノトリは、まずアルザス解放の象徴となり、続いてアルザスの象徴とみなされるようになった。この時以来コウノトリは、その意味合いを少しずつ変えながらも、アルザスの象徴であり続けている。第二次世界大戦後には平和の使者として、アルザスが永遠にフランスのものになったことの象徴として、アルザスへ戻ってきた。そして、平和の使者として戻ってきた後は、広告の中に広く現われるようになった。

 

 

  とりわけ広告界でのコウノトリは、「品質保証」の代名詞となった。その中でも最も有名なのは、ハンジの作った「ポタス・ダルザス」のロゴマークで、コウノトリを使った広告の中では、最も息の長いものとなった。また、第二次大戦後すぐにネスレ社が出した健康不良乳児用粉ミルクには、「ペラルゴン」(コウノトリ)の名前がつけられていたが、ここでは古代エジプトやギリシァ以来のコウノトリ神話が相変わらず健在であることを示している。

Pub Potasse d'Alsace par Hansi

 しかし,1960年以降、コウノトリはアルザスから姿を消し始めた。1960年頃まで150前後の巣が恒常的に確認されていたのだが、これ以降、電線網の普及やアフリカ各地の砂漠化の進行の結果,巣の数は1974年にアルザス全体で7にまで減少してしまったのである。現在、三代目のスピンドレール氏のアトリエで作られている寄せ木細工のアルザス風景からも、かつては繁茂に登場していたコウノトリが、姿を消している。理由は「アルザスで見られなくなったから」だそうである(しかし、注文すればコウノトリをつけ加えることも可能)。

 

 

 

 一方で、アルザス文化の根底にあるとも言えるアルザス語を話す人口も減少しつつりあった。そのような時期、1975年のことだが、あるポスターが登場する。それによって、コウノトリを増やし、アルザス語を守ろうとする運動が時を同じくして起こることになるのだが、それは次のようなものである。

ハンジによる「ポタス・ダルザス」の看板

 アルザスの典型的な村を背景に、子供と老人が話をしている。しかし、コウノトリの巣は空っぽで、そこにいるはずのコウノトリは群れをなして村とは違う方向へ飛んでいっている。その様子を見た子供が、コウノトリを指差しながらフランス語でこう尋ねる。「おじいちゃん、どうしてアルザスにはもうコウノトリがいないの?」それに対し老人は、アルザス語でこう答えるのである。「分かるだろう、坊や、コウノトリがアルザスの上を飛ぶとき、あちこちでフランス語が聞こえるものだから、まだ着いていないんだなと思って、飛び続けているんだよ」

 

 このポスターの持つ意味は実に深長である。アルザスを象徴するものの一つにすぎなかったコウノトリが、第一次世界大戦を経てアルザスの象徴となったのは、「アルザスをフランスへ取り戻そう」という、きわめて政治的な時代の要請があったからであった。その意味で言えば、第一次大戦後のコウノトリブームは、人工的にコウノトリとアルザスとを結びつけようとする試みであり、アルザスがフランスのものになったことを象徴的に示すものとして、たまたまコウノトリが好都合だったことから生れたものであった。けれどもこのポスターにおいてコウノトリは、アルザス語と結びつくことによって、「フランスのアルザス」ではなく、純粋にアルザスそのものと結びつけられて考えられるようになったのである。コウノトリがアルザスと運命をともにする存在として、両者が一体化していることを象徴的に物語っているこのポスターがアルザスの側から出されたということは、コウノトリが、本当の意味でアルザスの象徴となったことを示しているとは言えないだろうか。

 

 

 

ルネ・シッケレ協会のポスター

 

 アルザスでは、コウノトリの保護措置が始まってから、着実にコウノトリの数が増えている。毎年コウノトリグッズが増えてきているというのも、アルザスでコウノトリの数が増え始め、多くの村でコウノトリの姿が見られるようになったことと無関係ではないような気がする。このように、今日コウノトリが再びもてはやされるようになったのは、それが「フランスのアルザス」と結びついているからではなく、純粋にアルザスに欠かせない存在として、アルザスの独自性を表すものとして認められたからなのであろう。それはまたアルザスがアルザス自身に気付き、明日のアルザスの姿をあらためてコウノトリに象徴させようとする自発的な試みのようなものであるのかも知れない。

 

 

 

 

 

日常生活 (La vie quotidienne)