熊本県漢詩連盟

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      石川忠久先生特別講演

『漱石の漢詩について』

平成二十九年十二月一日、第二回漱石記念漢詩大会において、石川忠久先生による特別講演「漱石の漢詩について」 が行われた。
「ご講演要旨」
漱石と正岡子規との交流は、よく知られているが、正岡子規が兄貴分、漱石が弟分のような関係で、 ふたりは絶妙な関係にあった。 漱石の漢詩は、通常の人が漢詩を習う順序と同じで、七言絶句、五言絶句、五言律詩、七言律詩の順に漢詩を作っていった。(七言律詩が一番難しい。)、漱石は晩年(小説「明暗」執筆時)、多くの七言律詩を遺した。漱石は七言律詩が好きで、得意としていた。 新聞の文芸欄から、漢詩が消えたのは、大正八年で、とくに戦後は漢文をならう機会が少なくなったことは嘆かわしい。 吉川幸次郎氏によれば、漱石の初期の漢詩には、「和語」「和臭」が散見される。『函山雑詠』(明治二十三年)は、現存中初めての五言律詩。「函山」とは箱根のこと。大阪を「浪花」とする如く漢詩に於いては【雅称】を用いる。吉川幸次郎氏によれば、【崖は浴場を圧して立ち】の「浴場」は和語、和臭で一般的には漢詩には用いない。【雲は峰面を過ぎて砕け 風は樹頭に至りて鳴る】の「峰面」や「樹頭」は《漱石先生の新造語かも》と評している。 『無題』(明治三十年十二月十二日)に関して。「肥山」「筑水」は固有名詞がうまい。【秋風 落日を吹き 大野 行人を絶つ】…絵画的表現である。「大野」は和語で一般的には「曠野」を用いる。 漱石の初期の律詩の対句は、自然描写【景と景】が多い。「無題」(明治三十年)《秋風吹落日 大野絶行人》の如く、平板になりやすい。対句は【景と情】【情と情】とする(想い・心・情を読み込む)と趣が深まる。  そのほか、漱石の漢詩について、いくつかの漢詩を紹介されて解釈された。  全体的に、正岡子規の影響が大きかった事、明治四十三年の修善寺の大患以後、 漢詩の内容が深まった事、晩年、俗了された気分を一新するために漢詩を作り、 思索を深めた事などが特徴として挙げられる。

三賢堂現地研修会に寄せて

 熊本県漢詩連盟理事 泉田 辰二郎

  平成二十九年十一月三日(文化の日)、この日は古来より日本の四季の移ろいの中で晴れとなる公算がより高い日と言われている。その日も秋晴れの好天に恵まれ、庭園の美しい紅葉に朝日が映える中、県内各地から三三五五と集まった吟客が友との久しぶりの再会に笑顔の挨拶、そして会話が弾む。  ここは熊本市島崎にある三賢堂である。その庭園の急な坂道を上ったところに円筒二重層の鉄筋コンクリート造りの三賢堂がある。その堂内に肥後の三賢人として菊池武時・加藤清正・細川重賢の坐像が安置されている。  参集した約五十名の吟友はまず三賢人の坐像に伏し拝み、俗事を払って椅子につく。ここからが現地案内及びその解説者である私の出番となる。予め用意していた資料により、まず三賢堂の概要について説明する。  ○三賢堂は熊本が生んだ政治家、安達謙蔵先生が熊本市民の精神修養の場として昭和十一年に建立された。堂内にはくだんの郷土の先哲三賢人の坐像が祀られており、そのお姿に接することによって心身を修養鍛錬するための道場とする、というのが先生の念願であったと言われている。 昭和二十四年に先生の遺言によってその一切が熊本市に寄贈され、毎年十月十七日には熊本市によって三賢堂祭が行われており、現在は青少年の修養の場として活用されている。  ○次に三賢人の生前の功績の一端を述べれば、菊池武時公は菊池氏十二代の城主であり、南北朝期かたくななまでに南朝を支え闘い抜いた菊池一族の中心的人物である。 元弘三年(一三三三)護良親王の令旨を奉じ、鎮西探題北条英時を博多に攻めたが、かねて約した少貳貞経や大友貞宗が裏切ったため全 員が討ち死にした。これに先立ち武時は嫡子武重に後事を託して肥後に帰したが、これが世にいう「袖が浦の別れ」である。 加藤清正公は、天正十六年(一五八八)肥後半国十九万五千石の大名として隈本城に入城した。文禄・慶長の役では先鋒として出兵、その武名を轟かせた。関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に加わり小西行長を攻め、その功により肥後一国五十四万石の大名となった。 慶長八年(一六○三)従四位下肥後守となり、領内の重要河川の築堤工事、大規模な新田造成などの土木工事に才腕を振るい、慶長十二年(一六○七)に熊本城を完成させた。 細川重賢公は熊本藩六代藩主である。当時藩の財政は窮乏の極みにあったため、重賢は質素倹約を旨とし、堀平太左衛門を抜擢して大奉行に任じ、藩政の刷新につとめた。また文教政策を重視して藩校時習館を創設し、医学寮再春館や薬園の蕃滋園等を設け、後世に大きな影響を与えた。  以上の説明の中で、安達先生の三賢堂を建てたその思い入れの漢詩、三賢人それぞれの遺徳を偲ぶ漢詩、それに三賢堂を賞賛する漢詩五篇を私の漢詩教室(熊本市中央公民館自主講座「漢詩入門」)の谷山正純・山口泰輔・河野信勝・築地順一の各氏が朗詠する。  こうして各会員は三賢人の遺徳の余韻をしっかりと抱きながら、三賢堂を後にして帰路についた。


藩校時習館と後藤是山

上田誠也

十年前から後藤是山記念館を見学するよう になりました。是山が百年の生涯で研究した 分野は幅広く、埋もれていた熊本の文学や歴 史に光を当てました。江戸時代の藩校時習館 についても様々に関心を寄せ、遺墨、資料等 を収集しています。展示室の奥に掲げてある 是山の写真は、独特の書体で時習館と書かれ た額(原稿か拓本の写し)を背景に撮影されて います。

揮毫したのは時習館初代教授(学長) となった秋山玉山(一七〇二-一七六三)です。 一枚板に彫られた額は、開校の時から時習館 の玄関に掲げられていました。現在、永青文 庫に収蔵されて います。
校名の由来は、 玉山が『論語』 の最初の句「学 びて時に之を習 う」から命名し ました。玉山作 の「時習館学規」 冒頭に、次のよ うに記されてい ます。(原漢文)

維(こ)れ宝(ほう)暦(れき)五(ご)年(ねん)乙(いつ)亥(がい)の春(はる)、我(わ)が 公(※こう)新(あらた)に   学(がく)館(かん)を興(おこ)し、扁(へん)して時(じ)習(しゅう)と言(い)う。国(くに)の 子(し)弟(てい)をして業(ぎょう)を其(そ)の中(うち)に肄わ(なら〔習〕)しむ。 〔乙亥〕きのとい、一七五五年の干支 

〔我が 公〕:熊本藩第八代藩主細川重賢
※「公」の前の空白は、藩主に敬意を表す闕字 〔扁〕:(時習館の)扁額を(玄関に)掛ける
全国には藩校名を継承する学校が幾つかあ ります。福岡県には、修猷館、明善、伝習館 などの県立高校が、旧制中学以来の伝統校と して藩校名を冠して今日に至っています。
 熊本の時習館は、江 戸時代に数多くあった 藩校の代表例として、 高校の日本史などにも 取り上げられています。 しかし、跡地の熊本 城二の丸広場には、標 柱が建てられているだ けで、遺構は何も残っ ていません。
記念館奥の旧居「淡 成居」は昭和二年、是山が四十二歳の時、 時習館第二代教授藪孤山(一七三五-一八〇二) の住まいから、部材の一部を移して建てたと 伝えられています。孤山の古家は町中の坪井 にあったということなので、西南戦争の戦火 からも免れ、今も是山邸に残っているのが不 思議なくらいです。是山は、昭和六十一年に 亡くなるまでの約六十年間を、ここで過ごし ました。
昭和九年から昭和五十六年まで、是山は旬 刊誌「東火」を発刊しています。第一面には 折々の論考を執筆していて、中には思いも寄 らない記事があります。一例を挙げますと、 第十二号(昭和十年十月一日発行)は「西遊の 賴山陽」と題した一文です。そこでは、〔顧 ふに山陽の富岡上陸説は、最も人口に膾炙す る「雲耶山耶呉耶越」の「泊天草洋」の彼の 作などから生まれ出た一つの夢で、恐らく他 には何らの根拠もないのであらう〕と論じ、 「泊天草洋」の甫稿が七言絶句であったこと、 また、〔熊本に於て近藤淡泉の為に揮毫して 居るのもこの詩である〕と記しています。
続いて、〔聞く山陽は、熊本に淹留中、秋 玉山の詩集を見て大いに啓発され、その七絶 を全然改作して、「雲耶山耶」の絶唱を得た のである〕と。つまり、山陽詩の代表作であ る「天草洋に泊す」の決定稿(古詩)は、今か らちょうど二百年前、山陽が旅の途中、熊本 で玉山の詩集を目にし、その影響を受けて完 成させたと言い切っています。
是山の主張を読む限りでは、「そうかもし れない」の域を出ませんが、玉山の代表作 「芙蓉峰を望む」の詩を、山陽が戯れに改作 して二首詠んでいるのをみても、山陽が玉山 の詩に親しんでいたのは確かです。二人が生きた時代は違いますが、山陽は玉山を高く評 価していました。玉山が活躍していた頃、詩 壇の盟主と仰がれていたのは、荻生徂徠門下 の服部南郭(一六八三-一七五九)でした。玉山は 十九歳年長の南郭と″忘年の交″(年齢の差 を問題にしないで相手を尊敬する交際)を為 す程の親しい間柄でした。『玉山紫溟両先生 略伝』(明治四十五年発行)によれば、山陽は 両者の詩を比べて、玉山の方が南郭より優れ ていると評価しています。
 昨年二月、熊本地震か ら九か月半ぶりに記念館 が再開され、五月以降は、 時習館歴代教授たちの作 品が展示されました。ひ ときわ目を引いたのが、 高校時代に漢文の授業で 習った陶淵明の「帰去来 辞」です。また、李白の 「春夜宴桃李園序」も資料で閲覧させていた だきました。どちらも玉山が揮毫した全文を 六曲の金屏風に貼ったものでした。時習館に 寄せる是山の思いの強さは、関連遺墨を精力 的に収蔵していたことからも窺えます。私に とって、久しぶりに発見と学びの場となりま した。
百十五年余り続いた時習館の歴史の中で、教授(員数一人。延べ六人)や助教(員数一人。延べ一九人)、訓導(員数四人。延べ八十人)、その他多くの教師が指導に当たりました。 教授(府学祭酒、学長に相当)を拝命したのは、次の学者達です。

初代教授:秋山玉山(一七〇二-一七六三)
  二代教授:藪 孤山(一七三五-一八〇二)
三代教授:高本紫溟(一七三八-一八一三)
四代教授:辛島塩井(一七五四-一八三九)
五代教授:近藤淡泉(一七七四-一八五二)
六代教授:片山豊嶼( ?  -一八七二)

秋山玉山の学問は朱子学一辺倒ではく、荻生徂徠派の古文辞学などを取り入れた折衷学でした。また、時習館では創設期から漢詩教育なども盛んでした。玉山の後を継いだ藪孤山は、朱子学(程朱の学)を信奉していたため、藩学を朱子学中心に導きました。また、時習館の規模拡充や漢詩の振興に貢献しています。 学問・詩を好んだ藩主重賢公、天下無敵の玉山、孤山などが詩作を奨励した精華として、詩集『楽泮集』十巻、二百二十一人の詩千三十首が、孤山によって編纂・出版されます。 その後、詩文集『采芹采茆集』が編集され、采芹八軸に二百二十一人の詩、采茆二帖に二十二人の文章が収集されて世に出ました。その序文の中で、柴野栗山は「楽泮集既に多くして、今又此の華あり、富めるかな、今諸侯の国、未だ甞て此の如く其の盛んなるものあるを聞かず」と賞賛しています。 明治三十二年九月、森鷗外が熊本に来て藪孤山の墓を探しあぐね、また、秋山玉山の墓に心を寄せたのも、詩人孤山、文豪玉山に心惹かれてのことでした。 第三代教授の高本紫溟(一七三八-一八一三)の時期になると、国学や和歌を導入するなど、新たな学風を起こしました。紫溟の和歌を一首紹介します。この歌は、熊本県教育委員会発行の道徳教育用郷土資料『熊本の心』にも採録されています。

葛根ほる 岡の翁の 苦しみを 知らでや人の 遊びゆくらん

紫溟は少年時代から情け深く、仁の端緒と される「惻隠の情」(人に忍びざるの心)を強 く持っている人でした。錦秋の好日、師であ る玉山から野遊(吟行)へのお誘いがありました。これに対して、感謝しつつも、 野では飢饉で食べるものもないお年寄りが、葛根で凌いでいる時世を歌に詠み、婉曲に断っています。 玉山も、愛弟子が民の苦しみを思いやる気持ちや歌の才能の高さに改めて気付かされます。 「後生畏るべし」と、若い弟子が将来大成することを確信したことでしょう。
 時代の推移とともに、時習館も創設期から隆盛期、停滞期、改革期、そして終焉期へと 「への字」カーブで変遷していきました。開校して八十年後の天保期頃には、 郷党(連)間の反目と無益な闘争、上士の子弟の退学、教師への不敬などで藩校教育は停滞し、 幕末期に長岡監物、横井小楠らによる時習館改革が試みられますが、失敗に終わります。 その後、熊本藩の政治勢力は、後に大別される「学校党」「実学党」「勤王党」の三派の相関関係の中で、 明治維新から廃藩置県へと動きました。