心に残る思い出


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思い出の「修学旅行」、今から56年前。1952年(昭和27年)10月
                              思い出の修学旅行


「関東明教」の原稿協力の依頼で、われわれ同期の「修学旅行」の日程などが皆さんのご協力で、少し判明してきました。
忘れかけた記憶を思い返すいい機会になりました。
まずは「世話役の漆原さん」の編集による、データを掲載しておきます。
順次「写真」などは、追加していきたいと思っています。

「日程」についてどうしても「確定」が、まだ出来ていないようです。「漆原さん」にご苦労をかけています。
「九州班」は確定できました。昭和27年(1952年)10月26日(日)〜11月1日(土)
            宿泊 船中泊2泊、列車泊1泊、旅館泊3泊
「関東班」は、日程が定かでないところがあるようです。

「写真」の閲覧方法は、
@その「写真の上」または「下線付きのタイトル」を「クリック」します、
Aしばらく待つと、「Yahooアルバム」が開きます。
Bさらに、開いた写真の上で「クリック」するとさらに一段大きく表示されます。
C最大画面の閲覧の終了は、Webの「戻る」を「クリック」します。


「2月6日」「漆原さん」から最終稿が届きましたので掲載いたします。

関西汽船に頼み込んで当時のことを調べてもらいました。
1.当時の定期船の松山(大阪-別府航路の寄港地)と神戸間の運航は松山発が22:10、神戸着が10:50、逆コースは大阪発が15:30、松山着が6:40でした。使用船は「るり丸」、「こがね丸」、「に志き丸」が交互に就航していました。
2.当時は修学旅行専用船を不定期に運航していました。[舞子丸」、「明石丸」は当時弊社が所有しており、修学旅行にも使用されたと思われます。これらの船は国策に基づいて戦後間もなくの昭和22,23年に建造された「小型客船28隻組」と呼ばれる貨客船でした。ただ運航記録は残っておらず、お問い合せの日に運航したかは不明、時刻や船名なども調べようがありません。
 
以下に石川さん、平田さんの報告全文を再掲します。
紺色が今回の修正です。他の情報と整合性がとれない部分のみの修正で、寄稿者のご了解を得ておりません。できれば寄稿者ご自身で修正或いは思い出の追記をされてeast-28で発表してください。)
 
    漆原康行


「関東班」
(2月6日、漆原さんの最終通告資料による)
◎ 石川千代志さん(栗原彬さん、豊後屋昌明さんと話し合われたそうです。)からのFAX

記憶ですが日程については10月26日出発11月1日高浜港帰港と記憶しています。

1日目 松山高浜港関西汽船舞子丸にて神戸港へ 

2日目 東海道線元町駅まで徒歩 東海道線熱海駅下車 熱海観光 熱海幾代旅館宿泊
3日目 観光バスにて十国峠を越えて江ノ島へ 江ノ島観光と記念写真撮影
    江ノ島電鉄で鎌倉へ 鎌倉観光 鎌倉大仏で記念写真撮影
    東京駿河台ホテル宿泊
4日目 東京都内見学 皇居、国会議事堂記念撮影 浅草寺観光
    東武鉄道にて日光へ 中禅寺湖畔の宿中善寺ホテル泊
5日目 朝から華厳の滝、日光東照宮観光と記念撮影
    東武電鉄日光駅より東武浅草駅へ 地下鉄にて銀座へ
    銀座をギンブラして有光君のお兄さんの案内で日比谷公園へ
    ここで夕食をとることになっていたが夕食の準備が整っていなかったため、
    各々が夕食をとることになり自由行動となった。
    そこでパンと牛乳で済ませた人、親子どんぶり、かけそばなど人それぞれ。
    その晩東京発の夜行列車で翌朝京都到着
6日目 京都市内観光 京都駅より列車にて大阪港へ
    午後10時発の関西汽船明石丸乗船 船中泊
7日目 11月1日朝8時30分高浜港到着解散
船中泊2泊、旅館泊3泊、夜行列車泊1泊、6泊7日の旅だったと記憶を辿りながら列記してみました。


3日目 江ノ島記念撮影

4日目(10月30日?) 皇居二重橋をバックに


「九州班」
◎ 平田暢夫さんからのメール(1月28日east-29宛に送信されたものの転載)

正確ではありませんが九州組の旅程を記して見ます。
記憶違いもあると思いますので九州組の方訂正がた宜しくお願い致します。
二年生の秋口でしたので昭和27年9月末〜10月初旬と思います。正確には覚えていませんが
九州在勤時代に再訪した折の季節感から判断して9月末だったと思いますが・・・??。

1日目 夕方松山駅〜予讃本線〜八幡浜駅〜徒歩〜八幡浜港〜
    22時頃宇和島汽船あかつき丸 船中泊
2日目 早朝大分港〜徒歩〜南大分駅〜日豊本線〜南宮崎駅〜バス〜
    青島鬼の洗濯岩・鵜戸神宮・宮崎神宮〜
    宮崎旅館泊(大淀川畔・当時も宮崎一の高級旅館でした。現在も宮崎観光ホテル
    として盛業中です。あの一流旅館がよく高校生の修学旅行の団体を泊めてくれた
    ものです。)
3日目 早朝南宮崎駅発〜日豊本線 都城経由〜霧島神宮駅〜バス〜
    霧島神宮〜バス〜林田温泉
    ・林田旅館泊(その後林田温泉ホテルとして繁盛しましたが、バルブ崩壊後経営
    不振となり平成7年頃には休業となってました)。旅館到着後自由行動、大浪池
    まで登ったり、露天風呂に入ったり楽しみました。大浪池行った連中は夕食時間
    に若干遅れ忽那先生に注意を受けました。
4日目 林田温泉〜バス〜霧島神宮駅〜日豊線〜鹿児島駅〜駅前の桜島桟橋〜
    フェリー〜桜島港〜徒歩にて溶岩流の岩山登山〜フェリー〜鹿児島市内へ
    磯公園・尚古館・城山・西郷さん終焉の場所などを訪問の後、夜行列車発車まで
    の時間で天文館通り(中心街)、山形屋などの観光。どこかの食堂で夕食摂った
    のですがどこで何を食べたか思い出せません。結構美味しかった筈です?。
    夜行列車で鹿児島西駅(新幹線開通後鹿児島中央駅と改称されました。)発〜
    鹿児島本線〜鳥栖経由〜長崎本線〜浦上(車中泊)
5日目 浦上着〜記憶は???ですが移動はバスであったと思います。
    長崎観光 浦上天主堂・原爆公園・グラバー邸・出島・カステラの福砂屋他(平
    成2年九州着任ご挨拶に参上した折修学旅行で来た折と替わっていませんねと申
    し上げて以来親しくして頂き今でも交流があります。是非五三焼カステーラをご
    賞味下さい。お奨めです。)
    〜バス?小浜経由〜雲仙〜
    九州ホテル泊(本格的ホテルでベットで寝たのは初めての経験でした。)雲仙の
    地獄なども見たのでしょうが余り記憶にありません。
6日目 雲仙〜移動はバスだったと思いますが?〜口之津?or島原外港?or
    (どうしてもはっきりと思い出せません 〜フェリー〜三角〜三角線〜
    熊本〜豊肥本線〜別府〜徒歩〜別府港〜(船中泊)
7日目 八幡浜〜松山駅 解散。
 
以上 船中泊,車中泊を含め6泊7日でした。今考えても豪勢な旅であったと思います。
何方の発案だったのでしょうか? 米持参で宿屋に着く度に米をだしましたので荷物がだ
んだん軽くなったのが思い出されます。その後13年に及ぶ九州生活中に何度か想い出の
地を訪れました。同じ時期に九州勤務をした忽那さんと「九州なんて行けるチャンスはな
いだろうから九州にしようと行った。まさか九州生活を楽しめるとは思わなっかたね」と
中洲を徘徊しました。

以上 思い出すままに記してみましたが如何でしょうか?九州へご一緒した方々是非小生の記憶違いをご訂正下さい。また出発日時の正確な記録が母校に残っていないかお問い合わせ頂ければ幸甚です。



10月31日、「雲仙・九州ホテル」

5日目(10月30日) 長崎「グラバー邸」


◎ 九州組の旅程谷口光志さんから送られた当時の「旅程表」を元に漆原作成)
日程 昭和27年10月26日〜11月1日
宿泊 船中泊2泊、列車泊1泊、旅館泊3泊
1日目 松山発20:19−八幡浜着22:37−八幡浜発23:30−(船中泊)
2日目 大分着4:30−南大分発5:52−南宮崎着13:29−青島、鵜戸神宮見学−(宮崎泊)
3日目 宮崎発バスにて霧島神宮へ−(霧島林田温泉泊)
4日目 霧島神宮発8:28-鹿児島着9:51−鹿児島市内、桜島見学−鹿児島発20:12(列車泊)
5日目 鳥栖乗換で長崎着10:23−長崎市内見学−バスで雲仙へ−(雲仙泊)
6日目 雲仙発8:00-島原、三角、熊本を経て別府着19:39−別府発22:00−(船中泊)
7日目 八幡浜着3:00−八幡浜発5:27−松山着7:52


      


現在七部をご紹介ができました。その他、体育部だけでなく、文化部の「部活」も是非ご紹介くださいね。

12/31
「ラグビー部」の資料が手に入りました。


【宮内さん】の姓が「宮歌」になっていました、「漆原さん」からのご指摘でした。

2月10日・・・・「平田暢夫さん」から、「水泳部」のご紹介です。

戒田・川口女河童夫妻・古茂田聡っさん・豆タンクこと日野経敏・岡村弘久・2年から三重県立津高校へ転校した青笹登建(たしかナリタツ難しいよね)・それに私。井上・石橋君が亡くなったのが残念です。戒田・古茂田・日野は自由型、川口・岡村・井上・私が平泳。石橋は小さい体で自由形とバタフライを器用にこなしていました。

(敬称略)
上段、左より、戒田恭子、井上 稠、平田暢夫、
岡村弘久、
下段、左より、青笹登建、戒田平人、古茂田聡、
石橋恒雄、日野経敏。
構成。「ピエロ」








1月10日・・・・「金子彰徳さん」から、「バスケット部」のご紹介です。

バスケット部のメンバー
センター  渡辺延明
フォワード 先年死去した橘章と1年下の吉良俊彦
ガード    八木敏夫、金子彰徳
県下で一番背が高かった5尺11寸(6尺1寸)の渡辺延明を中心にがんばっとったんよ。
バスケットコートはセメンじゃったけん靴がようちびよったわい。










12月22日・・・・「白石美和さん」から、「軟式テニス女子」のご紹介です。

遅く成りましたが軟式テニス部についてご報告します。
私達が入学した当時の軟庭部は、男子は松商のコートを、女子が東高のコートを使用してました。同期では、平松埃子さん、乗松節子さん、滝沢佐枝子さん、渡部幸子さん・・等です。部員が少なくて対外試合には出場出来ない状態でしたが、平松さんとは済美中学からのテニス仲間でしたので2人丈でよく練習をしてました。

お陰で、現在も石手川のコートでテニスを楽しんでます。
何方かご一緒に汗を流しませんか!。松山レディーステニスクラブ 大歓迎です!!。
        白石美和

写真、後列右より、「渡部幸子さん」「瀧澤佐枝子さん「乗松節子さん」
前列、右から、「平松埃子さん」「西原美和さん」
いずれも旧姓です。



12月19日・・・・「山本 滋さん」から、「機械体操部」のご紹介です。

東高には器械体操部があって、南高の体操部や北高の体操部と一緒に、練習をしました。
東高の体操部には、「井手大さん」と「山本滋」の2名でした。      
その後「一柳君」が入部しましたが、ハードな運動だけに続けらなかった様で、気の毒だった事を覚えております。  山本 滋













12月13日・・・・「仙波さん」から、硬式テニス部のご紹介です。

同期生は山本幸一さん、松岡良樹さん、豊後屋さん、水田黎さん、亡くなられた仲田容子さん。多分この5人だったと思います。
ラケットの中心でボールを受けられず端の方に当たるとガットが良く切れて自分で修理しました。修理ばかりしていたように思います。
5人の内、国体行きは山本さん、松岡さんでした。二人は熱心でしたねー、山本さんは運動神経抜群、松岡さんは努力家、でしたね。

ちょっと「カリカチュアー」させていただきましたよ。(「ピエロ」)

12月6日・・・・「石川さん」から、ボート部のご紹介です。

同期のボート部員であった仲間をご紹介しましょう。
僕らの高校時代はフィックス艇と言って、固定席の6人漕ぎで舵付きでコックスという、舵手がいて7人で1チームでした。

コックス 川本賢弘     1年6組・ 2年3組・ 3年?
整  調 石川千代志   1年2組・ 2年6組・ 3年1組
5番手  首藤 洋     1年4組・ 2年1組・ 3年8組 
4番手  廉岡省三    1年3組・ 2年5組・ 3年2組
3番手  塩崎雅敏          2年6組・ 3年4組
2番手  中田一弘    1年5組・ 2年2組・ 3年7組
BU手  丹下時克     1学年下級生
今一番印象に残り残念に思うことがおります。それは昭和27年の国体予選愛媛大会興居島の富子の浜でのレースで4番の廉岡省三君のオールが折れ準決勝敗退でした。
今もその時の悔しさが頭から離れません。廉岡君と会う度に50年前の話ですが良く話題になります。
それと、もう一つは3年生の時ボート部部長の鈴木 清先生(ニックネーム ロングさん)が、高校総体のレースが終わった時ご馳走してくれた肉ジャガの味は今も覚えています。     千石船船長こと石川千代志

「バレー部」

前衛左・・・三橋英明
前衛中・・・磯谷経一郎
前衛右・・・白田國彦(故人)

中衛左・・・渡部正昭
中衛中・・・森 円太郎
中衛右・・・田中 巌(故人)

後衛左・・・下級生
後衛中・・・松岡邦年
後衛右・・・下級生



練習もろくにしないだらけた、バレー部でした。
部長は、池内純衛先生でした。












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