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家系図(「野村、入江家系大要」から抜粋)
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野村・入江家 家系大要(中間報告)責任者 入江 遠 家系図を別窓で表示
 野村家の始祖、野村諸親 のむらもろちか は古く橘家より出たという。諸親から4代目の野村就房の庶子房高が野村家支流となる(本家の後裔に萩藩士野村正名、その養子野村素介 [天保13年生まれ] 等がある)。房高以下は、家系図のページの通り。
 入江家の遠祖に就いては現在不詳(入江家は野村家とは古くから何回も養子縁組をしたという)。野村嘉傅次が入江姓を名乗っているが、これは入江久之進(1786.4.8没)の3人の男児が皆夭折して、後が堪えたのでその家を継いだと考えられる。久之進の祖については現在不詳。

 入江杉蔵(九一)は天保8年(1837)4月5日、毛利藩足軽入江嘉傅次、満智の長男として萩土原 ひじわら 村(現萩市土原町)に生る(現在当所の路傍に「入江九一、野村和作生誕の地」の小さな石標がある)。家貧しけれど両親は教育に熱心で、幼少から読み書きや武術を教えられた。5歳の時(天保12年)弟寅吉誕生するも夭折す。翌年(天保13年)次弟和作誕生、更に11歳の時(弘化4年)妹すみ(寿美子)誕生し、家族睦じく暮した。和作(靖)はこの年(弘化4年)野村家を継いだ。杉蔵は13歳で藩御蔵元の胥徒 しょと (小役人)となる。17歳で福原冬嶺の門下に入り、読書、史学を、また村上惣篤に武術を学ぶ。安政2年2月父嘉傅次が脳充血でたおれ半身不随となる。更に翌安政3年7月脳充血再発し死亡する。時に杉蔵20歳、和作15歳、すみ10歳であった。

 杉蔵は翌年江戸藩邸の胥徒となり、萩と江戸との間の飛脚を勤める。安政5年(1858)7月、たまたま飛脚として萩へ帰った時、福原の同門で当時吉田松陰の門下となっていた中谷正亮のすすめによって松陰を訪ね、江戸へもどる迄の数日間毎日松下村塾で松陰の講議を聴き、会読にも加わり、深く松陰に傾倒し、松陰も杉蔵を将来期待できる青年と見た。ただ杉蔵は未だ学問が未熟であるから、よく勉強する様にとさとした。江戸にもどった杉蔵は心して勉学にはげみ、その年の11月また飛脚として萩へ帰った時正式に松陰の門下となった。尚弟の野村和作は既にその前年安政4年11月に松陰の門下生になっていた(16歳)。以後九一、和作兄弟は松陰の片腕なり、終始師に従い、伏見要駕策で兄弟共岩倉獄に投ぜられた。この時母満智は「松陰先生すら獄にあり、汝輩今般の事あるは怪しむに足らず」と頗る自若たるものであったという(伏見要駕策については別冊にやや詳しく記す)。松陰は周知の如く、安政6年5月野村獄から江戸送りとなり、10月27日伝馬町の獄で処刑された。

 九一と和作はその翌年閏3月に出獄、亡き松陰に代り主に久坂玄瑞を師として国事に奔走し、その功により文久3年1月士分に抜擢された。入江九一は高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿と共に松門の四天王と云われるまでになった。その年(文久3年)2月、九一は堀音右衛門好持の娘粂 くめ と結婚した。

 その翌年、元治元年7月19日所謂禁門の変が起り、九一は久坂、寺島と共に鷹司邸内で自刃した。和作はこの時益田大夫等と共に八幡社にあり、離宮の守護に当っていたので無事であった(禁門の変に就いても別冊でやや詳しく記す)。

 此の様にして九一は粂と結婚して一年半ほどで死亡し、2人の間に子は出来なかった。そこで粂の実弟堀音次郎弘剛が入江家を継ぐことになった。音次郎は18歳で御楯隊に属し、羽後から北上、青森に到り、更に翌年幕軍を追って北海道に渡り、江差に達した後函館に入り、6月江戸に帰る。明治5年官命によりアメリカに留学し、ワシントンで勉強していたが、翌年肺を煩い、明治6年3月20日客死す(墓はワシントン郊外ニューブラウスウィッキにある)。享年23。

 この様にして入江家は再び絶えたが、明治13年野村靖(和作)の次男貫一が2歳で入江家を相続した。

 靖は維新後政界に入り、明治4年岩倉具視の欧米使節団に随行し、後には内務、逓信大臣等を歴任した。靖の母満智と義姉粂は靖の家(最後は東京市麻布区三河台町28番地―現六本木四丁目)に於て安楽に余生を送った。粂は靖夫妻に協力して満智の世話をよくし、明治26年満智を看送り、11年後、明治37年他界した。

 野村靖は晩年自叙伝ともいうべき「追懐録」を書いている。それには兄入江九一の遺稿も含め、かなり詳しい記載がある。その他、欲庵(靖の号)文藻、欲庵随筆、野村靖伝記草稿等を残している。

 靖は明治42年1月14日、妻花子は明治44年4月14日他界した。墓は東京都世田谷の松陰神社にある。  尚、入江嘉傅次・満智夫妻、入江九一・粂夫妻、入江音次郎の墓は萩市長寿寺にあり、入江九一の首塚は京都市鞍馬口の上善寺に、体は京都市東山の霊山墓地(ここには久坂玄瑞等、維新の志士の墓が列んでいる)に葬られている。

【追記】野村家・入江家にあった多くの資料は国立国会図書館に寄贈され、憲政資料室に保管されている。野村親正の処に野村家の系図があり、入江遠は靖の「追懐録」のコピーを保管している。また満智の肖像画の掛軸は入江紀が保存している。