田中正造の平和思想に学ぶ
真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし

在りし日の田中正造氏



私は、栃木県佐野市、明治時代に生まれた田中正造翁という偉人に遇えることができました。

田中正造は1841年(天保12年)栃木県佐野市小中村に名主の宮蔵の長男として生まれました。
  
その後23歳で大沢カツと結婚し50歳には衆議院選挙に当選しました。

しかし当時の明治時代には、他国を侵略していくことが国益であるとの風潮が世界中に充満していました。

日本もそれに流れ、国の産業を絹織物と 銅鉱山の発掘産業で利益を上げ、

軍艦や武器にし戦争をすすめることで必死でした。

その影では、足尾銅山の鉱毒水が渡良瀬川流域に流れ出し、

下流に住む 住民のすべての生活を破壊し

生物や人間の生命をも脅かす 鉱毒事件が生まれたのです。





足尾銅山の全景

足尾銅山から流れ出た鉱毒水によって全滅した農地


田畑は全滅し、生活用水も汚染し、村民は難病に犯され失明して死んでしまう人々が続出しました。

そこで国会議員であった田中正造が立ち上がり、

犠牲になってしまう谷中村の人々のために身を尽くし、

国会政府に訴え、最後には明治天皇に命がけで直訴しました。

田中正造が、足尾鉱毒被害民の救済と鉱毒問題の解決を求めて、

明治天皇に直訴したのは、

今からちょうど105年前の1901(明治34)年12月10日のことでした。

 日本国内では、帝国憲法が発布され、

議会が開設されて日本が立憲政国家になってから10年余たった時でした。

天皇への直訴の罪はそれこそ死刑になると思われていた時代です。



強制的に移住を迫られた谷中村の人々

大至急田名網氏に書物ご協議のこと、

不肖弁当欠乏につき托鉢に出ます。

田中 正造


そして「直訴」後の田中正造は、

日露戦争当時の1904(明治37)年に、 政府が鉱毒処理のために巨大貯水池建設を決定し、

水没させられ廃村に追い込まれようとしている谷中村に、

単独で移り住み、10年にわたり悲痛の苦難を受けながら、谷中村の人々のために身を投じました。
 
そして1913年(大正2年)8月2日、生活や活動資金のための托鉢から谷中村へ帰る途中、

佐野市の庭田清四郎宅の縁先で病に倒れ、駆けつけた妻カツに看取られ一ヵ月後に亡くなられました。

田中正造は、なぜ死を覚悟してまで 「直訴」を行ない生涯を投じたのでしょうか。

 それは、国が支援する足尾銅山による鉱毒水によって、

山川草木、農地や植物が枯れはて、渡良瀬川飲料水の汚染により魚類や動物が死に絶え、

多くの人が失明し難病となって死んでいくという

重大な事態の中からしぼり出された言葉でした。


 真の国とは、人間の「生存権」・基本的人権を保証し、国民の権利を守るべきである。
  
そして
自然破壊せず、
自然と人間とは共存して生きることをめざすべきである。
   
そのためには平和を愛し、他国への戦争は決してしてはならない。



以上のことを訴えつづけられたものと私は受け止めています。





最後まで国の権力から、住民の権利を守り続けようとした田中正造

大雨にうたれたたかれ行く牛の 車のあとや あわれなりける。

谷中の人にて正造に 真の同情せしもの ありやなきや。

正造は 今 政治家にあらず 宇宙の大生命。

田中正造



私たちは、過去の歴史を振り返れば、明治・大正・そして昭和20年までは、

戦争の時代といってもよいくらいの時代でした。

 日清・日露戦争から第一次世界大戟、

さらに満州事変・日中戟争・太平洋戦争とつづいた15年間の戟争では、

国民の大多数は基本的人権を保障されず、

ひたすら国家への献身を強制され、義務づけられて、

かけがえのない多くの国民の人命を失ってしまいました。
 

 そして敗戦から現在にいたる60年間、

日本の歩みは欧米をモデルに急速な近代化をなしとげ、

資本主義経済と技術の進歩により、日本人の物質的生活は豊かになりました。

しかし経済発展のみを追い求めた結果として、

かけがえのない地球自然は破壊され、

いまや地球環境の温暖化危機が叫ばれ 人類の生存をも脅かし、

さらには核兵器の増産によって人類絶滅の危機にまでいたっています。




最後の最後まで谷中村の人々のために国と戦い、
「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるなり」
と訴え、一人で生きぬいた田中正造の葬儀

いよいよ今朝より断食と決定せり・・・

わたくし気分は快然なり今日も運動中です

田中 正造



「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざなり」

潰れても またほろびぬとおもうまでに 目なき耳なき国のなりはて。

大雨に うたれ たたかれ 行く牛の 車のあとや あわれなりける。

正造は 今 政治家にあらず 宇宙の大生命。

大至急 田名網氏に書物ご協議のこと、不肖 弁当欠乏につき托鉢に出ます。

谷中の人にて正造に 真の同情せしもの ありやなきや。

いよいよ今朝より断食と決定せり・・・わたくし気分は快然なり 今日も運動中です。
 
 田中 正造

上記の詩は田中正造の残された詩です。

田中正造の自宅やすべての財産は村民のために寄付され、最後は奥様に看取られ他界されました。

まさに人のために身を尽くし 真の平和を訴えた、神仏の使いの人といえるのではないでしょうか。

私は、今の世の中にこそ、

自分を捨てきり、世の中の平和のために尽くす行動が、いかに大切であるかを教えられました。

これからの未来、世界中が平和に生きるために、

日本の国が、決して戦争をしない、武器を持たない平和な国として、

いつまでも世界に貢献できるように
 
私も日本人として、

少しでも田中正造翁の平和な生き方に近づき、 精進したいと心から念願しております。  合掌
 

 久保田光英 拝


田 中 正 造  生 涯 の 歩 み

 

 1841 (天保12年)       1歳 11月3日下野国安蘇郡小中村(現栃木県佐野市)に生まれる。名主宮蔵の長男。

 1857 (安政4年)      17歳 小中村六角家領の名主に公選される。

 1863 (文久3年)      23歳 大沢カツと結婚。六角家の改革のため活躍。

 1868 (慶応4・明治元年) 28歳 六角家改革事件により入獄11か月。

 1870 (明治3年)      30歳 江刺県花輪分局(現秋田県)の役人となる。

 1871(明治4年)       31歳 上役暗殺の疑いをうけ投獄される。2年9ヶ月の獄中「西国立志編」や政治経済の本を読む。

 1874(明治7年)       34歳 疑いがはれ、小中村に帰り、商売と勉学に励む。


 1878(明治11年)      38歳 栃木県第4大区3小区区会議員に選ばれる。政治に一身をささげることを誓う。


 1880(明治13年)      40歳 栃木県会議員に当選、以後4回連続当選。有志とともに国会開設運動に尽くす。


 1882(明治15年)      42歳 立憲改進党に入党。


 1884(明治17年)      44歳 栃木県令三島通庸の圧政に反対、加波山事件に関係したとして入獄3か月。


 1886(明治19年)      46歳 栃木県会議長となる。

 1890(明治23年)      50歳 第I回衆議院議員選挙に当選、以後6回連続当選。
                        この間改進党(のち進歩党、憲政党、憲政本党)議員として全国各地で演説。


 1891(明治24年)      51歳 第2回帝国議会にはじめて「足尾銅山鉱毒の儀につき質問書」を出す。

 1894年8月 (明治27年) 日清戦争 突入

 1896(明治29年)      56歳 渡良瀬川大洪水。鉱毒水がひろがり被害民大会が開かれる。
                        被害民とともに足尾銅山鉱業停止運動を開始。
                        議会で鉱毒事件について、くり返し政府に質問する。

 1899(明治32年)      59歳 議員歳費値上げ案反対演説をし、歳費を辞退。

 1900(明治33年)      60歳 被害民第4回大挙請願の途中、川俣事件起きる。憲政本党を脱退。

 1901(明治34年)    61歳 衆議院議員を辞職し、鉱毒事件を天皇に直訴。

 1902(明治35年)      62歳 川俣事件裁判での官吏侮辱罪で入獄41日。獄中で聖書を読む。
                     
                       この頃渡良瀬川下流の川辺・利島村(埼玉県)や谷中村(栃木県)を遊水池にする計画が起きる。

 1904年2月(明治37年) 日露戦争 突入

 1904(明治37年)      64歳 谷中村に住む。遊水池反対運動に励む。

 1906(明治39年)      66歳 新紀元社の例会その他で谷中村事件を訴える。谷中村の名が消され、藤岡町の一部にされる。

 1907(明治40年)      67歳 谷中村残留民家強制破壊。谷中村復活運動に活躍。

 1909(明治42年)      69歳「破棄破道に関する質問書」を書き、友人島田三郎議員らの名前で衆議院に出す。

 1910(明治43年)      70歳 関東大洪水。政府の治水政策を正すため関東各地の河川を実地に調べる。

 1913(大正2年)       73歳 8月2日河川調査から谷中村への帰途、佐野市庭田清四郎宅の縁先で病に倒れ、
                      
                        カツ夫人に看取られ一ヵ月後の9月4日死去。
遺骨は5か所に分骨し埋葬。



 

現在の資料館活動

請師 嶋田早苗氏

プロフィール:

 昭和4(1929)年、足利市に生まれ県内各地で教職につく。

女性を思わせる名前は、早大総長や文部大臣となった高田早苗(男性)から名付けられた。
高田は田中正造と同じ政党に属した友人でもあった。

 嶋田氏は昭和56年から佐野市郷土博物館準備室に入り初代館長となった。
その後、教職に復帰し佐野市の小学校長を最後に退職した。

退職後は県立足利工業高校の非常勤講師をする傍ら田中旧宅保存整備事業に従事した。
平成5年11月に工事は完成し、以後現在まで同旧宅の公開に尽くしている。
 
なお、本人の父・宗三(そうぞう・故人)は、
下都賀郡谷中村(やなかむら)出身で数え14歳から25歳まで田中正造に師事し、臨終を見取った。

正造亡き後は師の遺品・文書の収集保存と顕彰に努め、県の文化財功労者として表彰された。


@ 海陸軍全廃  田中正造翁談    

素裸になれ           明冶41(1908)年4月5日発行 ・ 「新生活」第五号所載

日露戦争の始まったころ、静岡県のある所で演説しろというから、こう言うてやりました。
丁度国会で五億の軍費を議決したというので大威張りでいたころでした。

五億や六億の公債で戦争のできるものでない。
昔から「下手な普請(ふしん)は三倍」と言うから十五億〜二十億はかかる。が、二十億使ってしまった後をどうする。

その後が大切だ。その後は国民の正直ということだ。
今のように政府は議会を欺き(あざむき)、議員は国民を欺き、てんでに欺きあっているんじゃ仕方がない。
というようなことを演説しましたが、その時はまだ政治家の頭で、最早(もはや)戦争が始まった上は仕様がない、
黙って戟争の終わるのを待っ他はないという考えでがした。

戦争がいよいよ済んだ。講和談判もまずかったが、戦争はとにかく立派に勝った。
急に日本が世界の一等国になった。

それも全く戦争に勝ったため…すると海牙(バーグ)の万国平和会議のことを聞いたので、足の抜き難いところでしたが、
谷中(やなか)を出て東京へ来ました。
この大勝利という好機会に乗じて、日本が世界の前に素裸(すっぱだか)になる。

海陸軍の全廃だ。これが、弱小国の口から出るのでは、折角(せっかく)の軍備全廃論も力がないが、
大戦勝の日本は軍備全廃を主唱する責任がある。いや、権利がある。
この機会を逸してはならないのだが、誰がよかろうと考えて、まず三好退蔵さんを思い浮かべた。

さよう、三好さんは久しい死刑全廃論者で長い間の愚弄(ぐろう)を忍んで主張している。
まずこの人だという考えで尋ねました。「申してみましょう」という返事でしたから、
何しろ、谷中の方が忙(せわ)しいので、すぐ帰ってしまいました。

去年、救世軍のプース大将が来ました時、私にも来いということでしたから、軍備全廃間題のことを話したいと思いまして、
大要を書き認(したため)て、東京座へ行きましたが、そんな談話の時もなかったので、ただ説教を聞いて帰りました。

さよう、さよう、私が救世軍へ入隊したというような新聞が出ましたよ。なに、私が行ったのは、そういうわけでした。

もし万国平和会議で、日本の主張を拒絶して、軍備全廃を否決したならば、
日本は自分だけで、海陸軍を撤去しなけりゃならないというのでがす。

「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」ということを、世間で一概(いちがい)に軍備を拡張することだと思うのは大変な誤解で、
軍備全廃というのが、本当の「勝って兜の緒を締める」のだということには何人も気が付かない。

今日も久しぶりで政治家諸君の演説を聞いてみましたが、いかにも調子が低い。

「敵」「敵」としきりに言う。そんな了見(りょうけん)では駄目だ。

四海同胞、世界を飲んで行くのだ。軍艦なぞ、支那へくれてしまえ。ロシアへくれてしまえ。

残りがあったら、みんな焼いてしまえ。丸裸になって、さあ来いと言うんだ。

この正直な力、どこから攻めることができるものですか、……神の道だね。


(以下略)*お断り:明治時代の原文を忠実に再録しましたが、一部現代語表記に直した箇所があります。編者:嶋田早苗

上記は、嶋田先生が資料提供してくださった、田中正造翁の話を速記で残されていた言葉、大変貴重な談話の記録です。

 


田中正造・平和活動の記録
1903(明治36年)63歳  2月2日静岡県掛川で、非戦論について演説
1904(  37年)64歳 [2月10日ロシアに対して宣戦布告] 2月26日 静岡県内6箇所で政談会に出席
1905(  38年)65歳 [9月 5日日露講和条約調印]
1907(  40年)67歳  4月22日東京で救世軍ブース大将に面会
1908(  41年)68歳  4月 5日発行の「新生活」に海陸軍全廃の談話を掲載
             5月 2日早大雄弁会主催の演説会で軍備廃止論を説く

日露戦争 
満州(中国東北部)を利益範囲外と認める代わりに韓国における支配を確立しようとする日本側に対し、ロシアは満州から撤兵せず、却(かえ)って韓国との国境地帯に軍隊を増強したので、明治36年8月から始まった外交交渉は行き詰った。有力新聞各紙が主戦論を展開する中で、内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らは反戦論を呼びかけたが、世論への影響力は小さかった。この戦争は日本軍有利のうちに終り、講和条約が調印された。日本の戦費は17億6千万円で全歳入の7倍近く、外債が8億円もあった。わが国の兵力動員110万、死傷者は20万以上にも達した。

谷中村問題 
明治29年の洪水で、渡良瀬川上流の足尾銅山から流出した鉱毒は関東各地に大きな被害を与えた。政府は鉱毒が東京へ流入しないように江戸川取水口を狭めた。このため、出水時に渡良瀬・利根両川の合流地帯の村々は逆流した鉱毒水に侵害された。田中正造の直訴後、鉱毒被害を緩和させるため、政府と栃木県は遊水地造成を計画、その候補地とされた栃木県谷中村に正造は移住し、治水政策の誤りを正す活動中、病を得て亡くなった。

救世軍 
キリスト教プロテスタントの一派。1878年イギリス人ブースが創立し、軍隊に模した組織で伝道や災害救済事業を行う。1895(明治28)年わが国にも支部が結成された。


A田中正造の非戦主義を詠んだ短歌

・槍先で取りたる土地は槍先でまたやり取りの他はあるまじ    (明治28年4月25日 日記)(遼東半島)戦の前に。

・海空を包めるほどの心せば富士ヒマラヤもふところの餅(もち)   満州遼東戦たけなわなるの秋 正造戯れ(たわむれ)に書す

<扇面に揮豪(きごう)>
・戦いは悪事なりけり世をなべて昔の夢と悟れ我が人     (明治37年 9月 5 日書簡)

・戦わで勝ち誇りたる瑞西(すいつる)を尋ねて見よや大和(やまと)民族    (同        日 同)

・戦いは国に重きを置くとても人の命を軽く見るとは    (明治37年10月30 日 同)


※上記の講演会は、平成17年9月28日、佐野市郷土博物館に於いて
足利市、佐野市150名の市民に向けて行われたものです。
田中正造翁は自らの財産をすべて村民に譲り、平和にために生涯を閉じました。

真の平和を創り出すために、私たちも少しでも語り継ぎ、
足元からの思いやりの和を拡げて行きたいと思います。合掌

立正佼成会足利教会 教会長  久保田光英 拝