麻生太郎「創氏改名」発言の背景

 

  半月城です。

  私は麻生太郎・自民党政調会長の「創氏改名」発言を最初に聞いたとき、ちょっと意外でした。というのも、これが自民党長老の奧野誠亮氏のように、戦前の日帝官吏だった人なら日本の朝鮮統治を美化する発言は十分考えられるけれど、麻生氏のように戦争をほとんど知らない世代が、なぜ日帝の植民地統治を美化する発言をするのだろうかと疑問に思っていました。

  そこで麻生氏の経歴をホームページで調べるうちに「麻生商店」に行き当たりました。のちに麻生鉱業と名義を変えた麻生商店は「筑豊の御三家」にかぞえられるような代表的な地元の炭坑資本で、麻生太郎氏はその麻生商店の後継者だったのでした。

  麻生商店は、日帝の朝鮮統治時代、朝鮮人労働者を強制連行し、三井鉱山よりさらに安い賃金で酷使し、莫大な利益をあげていたようでした。つまり、麻生は日本の朝鮮統治に寄生し、その甘い汁を吸っていたのでした。

  そうであれば、麻生グループの後継者である麻生太郎氏が日帝の植民地統治を美化し、創氏改名を「満州で仕事がしにくかったから、名字をくれと言ったのが、そもそもの始まりだ」などと語った背景が理解できます。

 

  戦前、麻生商店がいかに朝鮮人の膏血をすすっていたのか、ここでその詳細を明らかにしたいと思います。

  麻生商店は、大正時代(1923)には早くも朝鮮から労働者を移入するなど、朝鮮とのつながりは深いものがありました。わざわざ朝鮮から言葉もろくに通じない労働者を坑夫として導入した理由は、いうまでもなく低賃金で雇い、利益をあげるためでした。

 

  1932年、麻生は昭和不況に直面するや、朝鮮人坑夫の賃金を3割以上もカットし、しかもそれすら遅配するありさまでした。しかも強制配置転換など、不況のしわ寄せを主に弱い立場の朝鮮人に転嫁しました。これでは朝鮮人も立ちあがらざるをえず、麻生赤坂炭坑でストライキに突入しました。

  余談ですが、ゴム風船は押しつぶせばつぶすほど破裂したときのエネルギーは大きいものです。朝鮮人坑夫の日ごろのうっ積した不満が一挙に噴出し、そのエネルギーをストに向けたので、争議は激しくなりました。そうした事情を、ストを取り締まる側である飯塚署の柿山重春 特高主任はこう証言しました。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  翌7年(1932)の夏、降って湧いたような爆発的な朝鮮人争議が始まって、私がその主務となって直接タッチすることになった。労働運動を本格的に手がけたというか、まあ最初の仕事だから私にとっては生涯忘れられんよな。

  麻生系の炭坑と三菱系の炭坑は、筑豊では朝鮮人坑夫の数が最も多く、日鉄系の炭坑なんかはその数では問題にならん。麻生が経営する炭鉱では殆どのところで使っとったからね。

  被差別部落出身坑夫と同様、安い労働賃金のうまみがあったからではなかろうか。納屋制度でがんじがらめに縛りつけられ、朝鮮人は徹底的に圧制されて働かされていた。

  その納屋制度そのものの弊害も大きいこともあるが、賃金、労働条件、待遇なんかで朝鮮人の不満が爆発したわけだよ。賃金は安いし遅配はするし、休日はないというように、朝鮮人が起ち上がらざるをえない状況があったからね。

  納屋の頭領とか人繰りはもちろんだが、朝鮮人を人間として扱わなかった炭坑を、個人的にもよくは思っとらんやった。

  当時の不況にもよるが、労働者が要求するとすれば、賃金のことが第一になるからね。警察の賃金は特別安かったので朝鮮人には同情はしても、私たちは取り締まりが職務だからそうはいかんよ。

  朝鮮人坑夫の組織的な争議は日本じゃはじめてのことで、政府はとっても心配してくさ。県警察も特別に力を入れとった。お国が違うし、彼らが何を考えているのやら気持ちが分からんで困った。言葉が通じないことも、この争議を長引かせた原因の一つでね。

 ・・・

  今、私が冷静に見るに、根本的にいえば、麻生系炭坑はひどいところで、坑夫を一方的に酷使していた点に問題があった。それを昔から圧制 炭坑(やま)といったけどね。

  俺たちが石炭増産に協力しているという、プライドの気持ちはいくらか坑夫にはある。それを汲んでやる気持ちが経営者にないと、何時かは不満が爆発する。朝鮮人だから酷き使ってもかまわないという考えなら、人間である以上怒るんですよ。

  昔ながらの納屋制度を押しつけて圧制するだけじゃ、坑夫が働かなくなるのは当然のことといえる。麻生系の炭坑は労務管理がひどかったからね。

  麻生朝鮮人争議は、昭和初期の不況の総決算のようなもので、それによって、それまでの納屋制度そのものが抜本的に改革されたことは評価できるのではなかろうかね(注1)。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

  特高といえば、泣く子も黙るといわれたくらい庶民には恐れられた存在でしたが、取り締まる側の特高が、戦後の証言とはいえ、朝鮮人坑夫の心情をくみとるような発言をして、麻生を「圧制炭坑」と断定していたとは驚くべきことです。さらに、特高すら「麻生系の炭坑は労務管理がひどかった」と証言した事実は重いものがあります。

  こうした麻生の「圧制」に朝鮮人労働者はよほど我慢がならなかったのでしょう、坑夫たちの要求書の筆頭に「暴力行為ヲ以(もって)坑夫ヲ酷使 虐待スル悪習を絶対厳禁セラレタシ」、三番目に「坑内労働十時間法ヲ厳重履行サレタシ」と強調したくらいでした。これらが「賃金を元に戻せ」という要求より優先していたとは、「圧制」も度を過ごしていたと思われます。

  ストの結末は、成果として要求を麻生にある程度約束させたものの、解雇者191名という痛い代償を払って終結しました。しかし、麻生の虐待や暴力事件はこれで解決されたわけではありませんでした。後述するように、その暴力的体質は機会あるごとにむきだしになりました。

 

  当時の政治情勢ですが、日本は5・15事件(1932)、2・26事件(1936)を経て軍国主義が支配する国家になり、1937年には蘆溝橋事件をきっかけに中国へ大軍を派遣し、侵略を一層強めるようになりました。

  大軍の派遣は必然的に日本国内における労働力不足を招きました。それを補うために、日本政府は「朝鮮人労働者募集要項」(1939)を作成し、不足した労働力を朝鮮で「募集」し始めました。労働力移入の第1期に該当します。具体的には企業の労務係が朝鮮総督府の許可を受け、指定された地域から労働者を「募集」しました。

麻生

鉱業の労務係・野見山魏氏は「募集」をこう回顧しました。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  朝鮮に募集に行く時、麻生本社の京城(ソウル)出張所の駐在員が、総督府にコネをつけて一番条件のいい地域を指定してもらいました。労働力の豊富な郡と、山ばかりで人口の少ない郡とは全然違ってくるんです。

  道庁の社会課から、郡庁へ、郡庁から面事務所へと人数が割り当てられました。

郡庁に頼んだだけで、うちの炭坑は容易に募集が出来ました。

 ・・・

  第1回目が三百人で、郡で集まった朝鮮人を釜山まで連れて行き、そこで炭坑から出迎えの労務と巡査に渡しました。

  問題なく募集出来たのは最初の二年だけで、昭和16年(1941)から大東亜戦争になると たちまち募集難に陥って、坑夫募集のポスターをいろんなところに張りました。もう、面の中に、炭坑に連れて行くような男がいなくなりましてね。いよいよ募集が困難になりました。

  第一、炭坑の危険性を知っているから敬遠されて、外の軍需工場に行きたがってね。最後には南朝鮮の募集が不可能になって、黄海道方面まで行って、無茶苦茶に引っ張って来ました。昭和19年の終わりの百人が最後でした(注1)。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

  労働力を「募集」することがむずかしくなると、労働者の徴集方式は朝鮮総督府内におかれた「朝鮮労務協会」が主体になる第2期の「官斡旋」に切り替えられました。それもつかのま、1944年には第3期の「徴用」に切り替えられ、強制連行の度合も次第に「無茶苦茶」になったのでした(注2)。

  そうした中、坑夫の文有烈氏は 1942年「官斡旋」方式により、全羅道から麻生鉱業へ連行されました。文氏は当時のもようをこう証言しました。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  ちょうど26歳の時に結婚して、明後日が大晦日(おおみそか)という凍りつくような寒い夜でした。家族で粟のおかゆをすすっていると、大勢の足音が近づいて家の前でぴたりと止まった。

  突然、「オナラ(出て来い)!」と呼ぶ声がした。

  その頃は、毎日のように面の若い働き手が徴用されて、日本へ連れて行かれていたので、私はその声が何であるか一瞬に事態を悟りました。

  面の巡査と、面書記が5,6人土足のまま侵入してきたのです。

  「文、ちょっと一緒に来い」

  と、面巡査が横柄な態度でいいました。あんまり突然のことで、私はもううろうろするばかり。私にとっては今行けといわれても、残される妻と兄弟のことが心配でした。気持ちが動転して、後のことを打ち合わせる余裕もない。もう兄弟はおびえてしまって泣き出す始末で、女房は狂ったように取り乱した。

 「私たちを置いて行かないでおくれ。これから先、兄弟の面倒は誰が見るのよ!」  と叫んだんです。

 「早う立たんか、男の癖にめそめそするな!」

  巡査は大声で叫ぶと、私を家の外に突き出したんです。

  同じ面の34人は、面事務所の広場へ集められた。そこへ妻と妹が、私の後を追うようにやって来た。結婚式の時に着た新品の絹の上下を風呂敷に包んでいた。

 「早う帰るから、家のことを頼む」

  風呂敷包みをもらう時に、それだけを妻にいっただけで、私たちは迎えのトラックに積み込まれて順天へと送られた(注1)。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

  夜、ご飯を食べているところへ巡査たちが突然やって来て、家庭の事情を一切考慮せず、すぐそのまま日本へ強制連行するなんて信じられない光景です。こんな「無茶苦茶」なやり方で文さんが連れてこられた先が麻生の赤坂炭坑でした。そこがいかに危険できつく、きたないか文さんはこう述べました。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  赤坂炭坑の(朝鮮)半島切羽といわれる私の採炭現場は、坑口から2キロ以上の深いところにありました。しかも尺無しといわれる低石(炭層が低い)で、寝堀りで鶴嘴(つるはし)を打ち込みましたからね。4,5分採炭するだけで腰がしびれ、感覚がなくなって化石のように動かんごとなる。

  ガスの異常発生と地熱で、頭がぼうっとかすんで来てね。とても1カ所に、30分と続けて採炭出来んとですたい。

  炭層が摩擦を起こして、そこが自然発火して火の玉が出来るとですよ。ガスが異常発生するから、下手をすると大爆発を起こす可能性がありますからね。

  天井が緩んで落盤が起こる時は、大体、何らかの前兆があるものよ。

  ある日、私が切羽で採炭をしていると、ミシ、ミシ、バリ、バリと不気味な音がしたので振り返るとですな、目の前の直径20センチもある松の枕木が、地圧で張り裂けたんですよ。

  その音だったんです。それを見た瞬間、足がすくんで、地下足袋が接着剤をつけたように、地面について動かんで、全身でがたがた震えました。坑内は上から荷がかかるばかりじゃなくて、地面が下から盛り上がって来ることもありますたい。

  そうしているうち、天井からばらばらと小さいボタが落ちて来たので、さっと身をかわすと、どーっと大音響がして真っ暗闇ですたい。もうもうと暴れ舞ってから、見ると背中から下半身が埋まってしまいました。

  私は「助けてくれ!」と、朝鮮語でおらんだ(叫ぶ)よ。

  前で採炭していた3人の姿は何処にも見えないよ。

  悲鳴を聞いて助けに来てくれたが、私の体がぴくとも動かんですもん。まあ、生きとることは確かでね。助け出された3人を見ると、車に轢かれた蛙のような無残な姿でぺしゃんこだった。

 ・・・

  退院した翌朝、部屋で寝ていると、労務が来て威張りくさってから、 「おい、文。お前は何時まで寝とるか! 休んだ分だけ余分に頑張って来い」  と、木刀を振り上げて叩くですたい。私は恐いばっかりに、這うようにして入坑したですよ。3人死んだ後で採炭するのは、とてもじゃないが気持ちが悪か。ミシ、ミシと音がすると、もう鶴嘴を放り投げて逃げました。仕事どころじゃなく、その時ほど生命が惜しいと思ったことはありませんでした。

 ・・・

  炭坑というところは、一寸先が闇ですたい。

  私が知っとるだけでも、赤坂炭坑の寮生で30人は死んどる。坑内事故があっても、採炭現場が一方(ひとかた)違うと分からんし、隣の寮でさえ何があっても知らされない。ただ噂が流れて、誰かが事故死したことを知る程度でね。怪我で入院したのか、それとも死んでもいっさい知らされない(注1)。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

  石炭は、太古の植物などが地熱や高圧で長い間に炭化したものですが、炭化の度合が高ければ高いほど燃やしたときに煙が少なく良質とされます。この炭化の過程で石炭はメタンガスを発生します。したがって、良質の石炭を産する炭坑ほどガス爆発が多く、筑豊はその代表的な鉱脈でした。

  日本の炭坑が危険であるといううわさは朝鮮にまで届いていたようですが、麻生の炭坑では、メタンガスがよく異常発生して燃えるような危険なところでした。

そんなガス爆発の地獄から生還して治療まもない文さんを、麻生の労務係りは木刀でたたいてまで酷使していたようでした。

  文さんの場合は幸い命拾いしましたが、炭坑がいかに危険で、そこで朝鮮人がどのように扱われていたのか、飯塚市観音寺住職の古賀博演さんは体験談をこう証言しました。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  戦争中の2カ月間、(麻生鉱業)下三緒炭坑で 勤労報国隊で坑内で採炭した。

 ・・・

  炭坑側は、坑内の設備はちゃんとして安全だから、そんなに事故はあるものではないと宣伝したが、終戦前になると毎日のように死者が出たからね。

  事故のない日が不思議だった。炭層の高さが1メートルもないところでは、人間が立って採炭することはできない。中腰のまま寝堀りすると、30分もしないうちに腰がしびれてしまう。女工哀史どころではなく、人間の極限状態の労働で、ほんとに炭坑というところは残酷極まりない職場でした。

  朝鮮は日本の植民地だから、どう酷き使って殺そうと問答無用で、炭坑経営者の意のままだった。外国人捕虜の中にはずい分栄養失調の者もいたが、坑内で虐殺されることは少なかった。それは国際赤十字がうるさいからでね。

  炭坑は、納屋制度時代は納屋頭領の意志一つで坑夫は殺され、戦時中の朝鮮人坑夫は労務係や坑内係の意志一つで殺される。それが別に不思議とは思わない、当り前だとの雰囲気があったからね。

  朝鮮人は強制連行される時、炭坑とはどんな職場か知らない。全く自分の意志というものが通用しない時代だった。困ったことに彼らは、言葉が通じないことが原因で、暴力的な労務係や坑内係指導員から殴り殺された。

  1日1円26銭、これが日給だった。大体、麻生系炭坑の低賃金は評判で、その上に立って戦時利益を上げた。日本人は自分の国のために戦争をしているし、戦争に勝つためにはどんなことも我慢しなければならないという自覚があるが、朝鮮人は自分の国でない日本のために犠牲になって、生命を賭してまで働く理由は全くないわけだ。ところが日本人はそこをごっちゃにして、働かないとは何事だと圧制した。

  坑内の採炭現場は、6人1組、そのうち日本人は2人で後の4人は朝鮮人だった。下三緒炭坑は、坑内にメタンガスの発生がひどくて、私たちの切羽(採炭現場)は、最も危険な場所と恐れられていた。

 「あそこはガスがあって、生きては帰れない」 と、朝鮮人たちは何時もいっていた。2カ月間、彼らと危険なところで一緒に働くうちに親しくなり、私たちはもう兄弟以上になった。

  大出し日にたまたま煙草の特配があった。坑内から上がると国防婦人会の人たちが出迎えてくれたが、朝鮮人だけ煙草を渡さなかった。私は繰込場で彼らに、そっと渡してやった。するとそれを見つけた労務係が飛んで来て私の腹を蹴り上げ、煙草を吸っている朝鮮人を殴り倒した。

 ・・・

  炭坑の寮の飯の寮は極端に少ない。脱脂大豆を入れるが、それを大量に入れると米の量は少なくてすむ。脱脂大豆を食べるとお腹をこわして、坑内では下痢が散って衛生的には最低だった。血便さえ出ていたので、天井からしたたり落ちる水で坑底は血の海だった。

 ・・・

  炭坑資本は戦争になると、笑いが止まらないほど儲けるものだ。勤労奉仕はただ同然、朝鮮人は安い労働賃金、たとえ坑内事故で死んでも四、五百円の僅かな弔慰金を渡すだけだった。人間一人の生命の値段ではない。

  私は二カ月間の坑内経験だが、人生の半分にも相当するものを経験した。

  朝鮮人たちは、日本人から鞭(むち)をもらいながら、暗闇の労働に追い込まれ死んで行った。彼らは炭坑の中で一番危険な場所で働かされたのだ。

  採炭という慣れない仕事、言葉が分からないことから来る坑内係とのトラブル、殴られて殺されてもその実態さえ掴めない。寮と寮が分離されているので、何人殺されたかも分からない。坑内係から殺されても落盤で殉職したことを巧妙に隠すので、他の寮のことは一切不明でした。寮の中で突然姿を消すので、事故死したのかそれとも逃亡したのか、お互いに話すことも禁止された奴隷工場と同じだった。

 ・・・

  病気と疲労でどんどん死んで行っても、一人死ねば、一人朝鮮から強制連行してくればいいと、彼らは戦時消耗品に過ぎなかった。

 ・・・

  炭坑の周辺に、朝鮮人の無縁仏が無数にあることを発見した。

  哀れだなとつくづく思った。石炭一塊は鉄の弾といって、自分の炭坑で掘った石炭でも無駄使いを禁じられて、火葬用の石炭さえもったいないといって使うことを禁止された。すると、労務係は、炭坑の敷地内に穴を掘らせて、遺体を投げ込んで埋めたからね。

  ある炭坑では、重傷の坑夫をトロッコに乗せて昇坑して、どうせこの朝鮮人は死ぬんだからと、道路脇に生きたまま埋めて、ボタ石をぽいと置いて去った。それがまだ生きている人間をだね。そういう現場は、朝鮮人から見られると問題になるので、労務係はそっと処理したんだよ。筑豊の各地に、このようにして葬られた朝鮮人の無縁墓がいくつもある。

  分かっているものは、戦後、朝鮮人が掘り起こして、強制連行されて来た仲間が持って帰った。

  まだ不明のものが無数にある。ボタ山を見ると、赤いどろどろした血が、べっとりとついているように見えてね。特に夕日の照りつけるボタ山を見ると、どうかすると亡くなった朝鮮人坑夫の顔がちらついて来る。私たちは坊主という職業柄、死人との対話が多いが、戦後ずっと私の脳裏から朝鮮人のことは消え去ることはない。

(注1)。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

  麻生鉱業では「どうせこの朝鮮人は死ぬんだからと、道路脇に生きたまま埋める」ようなむごいことを平気でやっていたようですが、これではまるで野良犬か野良猫を処理するやり方です。かれらの目には、朝鮮人は人とは映らなかったのでしょう。

  ある日、親兄弟から突然ひき離されて強制連行された先が麻生鉱業、ここで粗末な食事で飢えをしのぎ、労務係に木刀でなぐられ、いつガス爆発するかしれないという恐怖にさいなまれながら、むし暑い暗い坑内でフンドシ一枚で重労働にあえいだ末、予期した事故に遭い、そのあげく道ばたにイヌ・ネコのように埋められていった坑夫の怨念はいかばかりだったでしょうか。

  ふるさとでは愛する家族や肉親が帰りを待ちわびていただろうに、毎日が地獄のような異国の地で、極悪人以外誰にも知られることなく死んでいくなんて、これがもし私の肉親だったらと、想像するだけで私は涙があふれそうになります。

  筑豊のボタ山には、こうして果てていった人たちの死体がいまでも冷たい地下で眠っているようです。現在のボタ山には草木が生えて、小さな丘と区別しにくくなりましたが、そこは朝鮮人無縁仏の墓標でもあるようです。

 

  突然の死、それは事故だけとは限りません。観音寺住職の古賀さんが証言するように、労務係の意思ひとつで朝鮮人の命が左右される場合もありました。その典型例が「キン玉」事件です。この暴動事件を、麻生の赤坂炭坑で「二鮮直」の寮長をしていた持田次男氏はこう証言しました。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  昭和19年の秋、赤坂炭坑のわしの寮で大事件が起こった・・・

  その朝の暴動の原因は、労務係の吉村が引き起こしたことが分かった。

  寮にあった酒を飲んで酔っ払って、夜勤で寮生が出て行った後を 各室を巡回した。そこへ一人の坑夫がうんうん唸って寝ていた。

 「こらっ! 起きて入坑せんか! スカブラするな!」

  と叫んで、足で蹴って布団をめくった。するとその寮生は腹部を押さえて、 「キン玉にインキンが出来て菌が入って、痛いから仕事を休みました。哀号!」といった。

 「勝手に休みやがってこの野郎。インキンだと? じゃ、俺が治療してやるから詰所まで来い」

  吉村は嫌がる寮生を詰所まで連れてくると、ズボンを脱がせて褌を引きずり降ろした。いすに座らせると、机の引き出しからカミソリを取り出すと、その刃先を真っ赤に腫れている局部に当てた。一杯機嫌の面白半分でやったつもりが、酔っているので手許が狂い、意外に深いところまで傷つけた。見る見るうちに股の間から血が吹き出て、下半身が真っ赤に染まってしまった。

  その寮生は出血を見て、キン玉を抜き取られたと思い込んで、半狂乱になって逃げようとしたらしい。

  吉村は襟首を掴んで引き戻すと、その場に押し倒した。カミソリを握り直すと、もう一度切りかかろうとした。それを見たその寮生は、恐怖のあまり気絶してしまった。

  吉村は詰所の椅子に敷いてあった破れ座布団を手前に引き寄せると。黒く汚れた綿をちぎって局部に当て、 「そこに寝ときゃようなる」といって、そのまま寮を出た。

 ・・・

  そのうち出血多量でその寮生は死んでしまったというのだ。

  吉村は酔いが覚めたのか、その場に来て震えとったらしい。

 「困ったの!」

  労務課長は、そこにいる者に寮生の処置をどうしようかとたずねた。早く処置をせんと、夜が明けると人目につきやすい。

 「お前たち、この半島(朝鮮人)のことは俺しか知らんし、幹部にはまだ報告しとらん。運んで来る時に誰かに見られんやったか?」

  と、念を押した。みんなはあせり始め、労務課長は頭を抱え込んだ。

 「課長、今夜、もうすぐそこの引込線に積出しの石炭貨車が入りますばい。船路に寝かせて、酔っ払って寝ていて轢かれたとか、自殺にみせかけましょうや」

 ・・・

  寮生の死体は引込線の上に放り出されたままになった。

 「おい、あれは何だ。誰か線路の上に寝ているぞ!」

  夜勤帰りの二人の寮生が戻ってきた。手を触れると、体を硬直させて死んでいた。よく見ると貨車に轢かれた跡もなく、下半身だけが血だらけになっていた。

不自然な死に方に疑問を持って寮に知らせに走って大騒動となった。

 ・・・

  事件があった日から寮生が怒ってストライキに入り、採炭は4,5日ストップした。

  暴動の激しさは話にならなかった。四,五百人が投石するので、全く近寄れず、警察も大勢来ているが、遠巻きに見るだけでね。驚いたことに、暴動を利用して会社側に要求書を出して来た。

  こうなると計画的で、誰かが指導しているとしか思えない。要求書を認めないと、何をされるかわからないほど暴動は強烈だった。あれだけ可愛がっとった寮生でもなだめようたってそれは近づけなかった。

  炭坑側との交渉で表面に出て来たのが、わしの第二鮮直の林と安と金の三人で、暴動の力を背景にして、要求闘争に切り替えた点は実に見ごとなものだった。

  6項目を炭坑側が認めると、やっと彼らはストライキを解いた。三人は飯塚署に逮捕され、すぐ朝鮮へ強制送還された。

  赤坂炭坑に強制連行されていた朝鮮人は約1200人、何時彼らの不満が爆発するか、寮長としてこれほど気を使ったことはない。もう労務係が力で抑えることは限界になって、飯塚から憲兵に来てもらった。わしのところの労務詰所には、それ以来憲兵二人が常駐することになった。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

  この事件で寮生を死に追いやった吉村・労務係や、寮生の死体を貨車に轢かせようとした労務課長は罰せられたのかどうかについて、証言を精力的に集めた林えいだい氏は何も書きませんでした。おそらく、古賀氏の「戦時中の朝鮮人坑夫は労務係や坑内係の意志一つで殺される」という当時の状況からすると、何の罪にも問われなかったのかも知れません。

  もっとも、それより問題なのは企業責任です。麻生は「キン玉事件」など数々の暴力事件や強制連行、強制労働にたいする企業責任をはっきりさせ、補償すべきは速やかにおこなうべきです。

 

  同じ筑豊の炭坑でも、三井鉱山は「強制連行訴訟」判決で、「原告らに労働の対価を支払わないばかりか十分な食事も与えなかったのに、国からは多額の補償金を受け、強制労働で多くの利益を得た」と福岡地裁からきびしく指弾され、1億6500万円(原告1人当たり1100万円)の支払いを命じられました。

http://www.han.org/a/half-moon/hm092.html#No.664

 

  麻生の所業も三井と同類です。朝鮮人を強制連行し、末期には憲兵に守られながら低賃金で坑夫を強制労働させ、莫大な戦時利益をあげました。しかし、会社の知名度が低かったためか、そうした不法行為はこれまでほとんど見過ごされてきたようです。

  それをいいことに、麻生太郎氏が開き直るかのように、創氏改名を美化するような発言をするなんて到底許されるものではありません。麻生氏が「新時代を創る」をモットーにするのなら、過去の麻生鉱業の所業をきちんと清算すべきです。ましてや、祖父・吉田茂のように首相をめざすならなおさらです。

  過去の清算を促すために、私は議員会館の麻生事務所へ前回の書き込みのコピーを送りました。多くの人が何らかのアクションをされるよう期待します。

<抗議先> 郵便番号100-8962 東京都千代田区永田町2−2−1

衆議院議員会館(03-3581-5111)、 麻生太郎事務所

【麻生太郎 筑豊事務所】0948-25-1121

 

(注1)林えいだい『消された朝鮮人強制連行の記録』明石書店、1989

(注2)半月城通信、<「官あっせん」および「徴用」>

http://www.han.org/a/half-moon/hm023.html#No.190