四 街 道

 

 

 

 

 

戦 争 遺 跡 を 訪 ね て・・・・・[千葉県・四街道]

 

 

千葉県最初の鉄道、総武鉄道は明治27年(1894)7月

市川から船橋、千葉を経て佐倉まで開通しました。

理由は単に、沿線に点在する軍事施設を鉄道で結びつける意図があったものと思われます。

当時の「四街道」駅は人家もまばらの下志津原の原野に造られました。

軍に関するさまざまな施設を置くための試金石でした。

四街道は軍隊とともに発展したと言っていいでしょう。

陸軍の演習場としてスタートしたこの辺り一帯を更に広げて行き

陸軍砲兵射的学校が設置され、学校開設に伴い、政府は砲兵訓練のための教師団を

フランスから招き[ルボン大尉]砲兵の戦術や射撃の研究する日本で最初の学校となりました。

明治30(1897)陸軍野戦砲兵射撃学校と改称され、

大正11(1922)には広島から陸軍野戦重砲兵第四連隊がやって来ました。

この隊は、近衛師団に属し皇居を防衛する専門の師団で、

近衛兵になるという事は、本人にとっても家族にとっても名誉な事でした。

大正9年(1920)には陸軍航空学校が誕生し、

戦局の悪化と共に昭和19年(194412月から翌年3月にかけて

およそ100名が特攻隊員として前線基地に出撃して行ったと言う事です。

 

 

 

1) 砲兵学校・砲兵連隊の遺跡を見る

 

① 野戦重砲兵第四師団正門

 

JR総武本線四街道駅を北側に降り、大通りを北に進むと右手に消防署があります。

そこを左折して5分で右手に愛国学園の正門が見え、この門が、野戦重砲兵第四連隊の正門です。

連隊の跡地は、この愛国学園と隣接する千葉敬愛高校の敷地にまたがっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

② 将校集会所跡

 

 

 

 

 

 

この土手と松並木は四街道中央公民館を

取り囲んでいて、以前は「将校集会場」で、

その跡地に公民館が建てられました。

取り囲んでいる松の幹には写真のような「V字型」の傷が付いています。

戦争の際、飛行機の燃料にするために『松ヤニ』を採った後です。

ほとんどの松が枯れかかっていて、松並木が無くなるのも時間の問題です。

  

 

 

 

 

 

③ 野戦重砲兵第四連隊裏門

 

 

 

 

 

愛国学園と千葉敬愛高校の間の細い道を

敬愛高校の裏手に進むと「連隊裏門の門柱」

2本の内、1本が当時のまま残されています。

 

扉止めです。

 

 

 

④ ルボン山

 

四街道市役所の斜め向かいに四街道文化センターがあり、裏手の住宅地の

一角に、小高い山が残されています。

神社を頂いたこの丘は大土手山で、幕末佐倉藩が砲術訓練の大砲の的として

築いたものを、明治初年にフランスから来日した、砲兵大尉ジョルジュ・ルボンが

増築したもので『ルボン山』とも呼ばれています。

 

 

 

 

 

 

    ルボン山の頂までは、階段があります。

 

 

 

 

 

 

⑤ 陸軍野戦砲兵学校の石碑

 

     市役所の西側に陸軍野戦砲兵学校跡の石碑があります。

 

 

大砲に装着されていた弾丸も展示されています。

 

 

 

⑥ 陸軍墓地跡

 

     市役所の東側へ15分程歩くと「陸軍墓地跡」があります。

     地主が陸軍に寄贈して建設されたものですが、敗戦後、地区に払い下げられ、

     半分は公園になり、半分は地区住民の墓地になりました。

     旧軍人の墓が一ケ所にまとめられ、終戦後、国が身元調査を行いましたが

     どうしても解らない墓を無縁墓として地区で管理されています。

 

 

 

 

 

公園の一角に、大砲の運搬などに使われた

軍馬を祀った、「軍馬の碑」が建てられています。

 

 

 

 

 

           

                 軍用地との境界を示す「石柱」が2基、墓地の南側にあります。

                 よく見ると『陸軍用地』と刻字されているのが読み取れます。

 

 

 

⑦ 下志津陸軍飛行学校跡

 

飛行学校跡地は、現在陸上自衛隊下志津駐屯地となっています。

基地内には、『下志津陸軍飛行学校跡の石碑』、『滑走路跡』、『広報史料館』があり、

基地正面の両脇に当時の門柱が残っています。

また、歩哨所[松戸の陸軍工兵学校跡地の門柱横には現存する]は平成16年(2004

に解体されました。

駐屯地の中に入れてくれる様頼みましたが、生憎祭日だったため、後日、平日に広報課

に連絡して欲しい旨説明がありました。