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武士の成立・論点4   奥州後三年記と義家の郎党

概要

'''奥州後三年記'''(おうしゅうごさんねんき)は、平安時代後期の1083年(永保]3)から、1088年(寛治2)にかけての、陸奥・出羽両国にまたがった争乱、いわいる「後三年の役」、または「義家合戦」と呼ばれるものを描いたものである。「三年」とされるのは京に合戦が伝わった1086(応徳3)の沼柵の戦いから、義家が陸奥守を解任された1088年(寛治2)までを指す。その成立は、平安時代末期の1171年(承安1)と、南北朝時代の1347年(貞和3)の2段階があり、現在目に出来るるものは、南北朝時代に描かれた絵巻の、詞書のみを書き出したもの。

奥州後三年記』と貞和版『後三年合戦絵詞』

『奥州後三年記』は、群書類従 第二十に納められたものでありその「序」にはこうある。

俗呼でこれを八幡殿の後三年の軍と称す。星霜はおほくあらたまれども、彼佳名は朽ることなし。源流広く施して今にいたりて又弥新なり。古来の美歎、誰か其威徳を仰がざらん。世上のしるところ猶ゆくすゑにつたへ示さん事を思ふ。・・・于時貞和三年、法印権大僧都玄慧、一谷の衆命に応じて大綱の小序を記すといふことしかり。

『奥州後三年記』は『後三年合戦絵詞』から、詞書のみを抜き出して誕生した作品であるといわれる。現在、『後三年合戦絵詞』には、東京国立博物館に収蔵されているは、鎌倉幕府滅亡の14年後の南北朝時代、1347年(貞和3)に、飛騨守惟久筆により描かれた絵巻であり、三巻が現存する。ただし、途中の欠落が見られる。

序文を書いた玄慧は、天台密教を修めて法印権大僧都となった当時屈指の学僧である。持明院殿の殿上で『論語』を談じて、花園上皇にも認めらる。その後も足利尊氏の弟、足利直義の恩顧を受けて、没後には、その文雅を慕って追悼の詩を作る禅僧達もいたと伝えられる。その当時屈指の学僧が、序文を担当していることで、この絵巻がかなりの一大事業であったことが判る。

『実隆公記』1506年(永正3)11月12日条に、中原康富がその絵を実見したとあって、詞書は源恵(玄慧)法印が草し、詞書筆者は「第一尊円親王、第二公忠公、第三六条中納言有光、第四仲直朝臣、第五保脩朝臣、第六行忠卿」(増補史料大成刊行会編『史料大成』1965年)とある。

中原康富が見たものは、後述する『康富記』により、後白河法皇の承安版『後三年絵』と思われるので、三条西実隆は承安版『後三年絵』を知らなかったのか、取り違えたのかもしれない。しかし、各巻の詞書筆者は、東京国立博物館蔵の現存『後三年合戦絵詞』各巻末に記された筆者名と見事に一致しているという。このことから、貞和版『後三年合戦絵詞』は、本来6巻であったとされる。

後白河法皇の承安版『後三年絵』

しかしそれより以前、平安時代末期の1171年(承安1)、平治の乱から約10年、平清盛の娘を妻とする高倉天皇の即位後、後白河院が出家して法皇となった後に、後白河法皇が静賢法印に命じ、絵師明実の筆による4巻の絵巻を制作させたことが知られる。それを記した吉田経房の日記『吉記』1174年(承安4)3月17日条には、「義家朝臣為陸奥守之時、興彼国住人武衡家衡等合戦絵也」とある。

静賢法印は平治の乱で源義朝に殺害された藤原信西の子で、後白河院の信任を得て蓮華王院(三十三間堂)執行(寺院総括者・上座)を任じられ、『後三年絵』を始めとした絵巻に関与した。以下これを現存『後三年合戦絵詞』と区別するため、承安版『後三年絵』と記す。

この蓮華王院の承安版『後三年絵』の存在は思わぬところにもうひとつの傍証があった。武蔵国の秩父、阿久原牧のを管理していた有道一族が、武蔵七党のひとつ、児玉党の長となるが、その庶流に、頼朝の御家人となった小代氏がいる。鎌倉時代後半に、その小代伊重が残した子孫への置き文が伝わっており、その中に、鎌倉時代の初めの頃、当時京都守護職であった平賀朝雅とその一行が、蓮華王院の宝蔵に秘蔵されていた絵巻を見せてもらったとある。(後述)

この後白河法皇プロデュースの絵巻は、後年、1444年(文安1)に中原康富(やすとみ)が、伏見宮貞常親王の伏見殿に行った折り、御室(仁和寺)宝蔵から取り寄せた『後三年絵』という4巻からなる絵巻(正格なタイトルが『後三年合戦絵』だった可能性はかなり低い。後三年と言われだしたのがいつからであるかは諸説ある。)を見せてもらい、康富はそこで見た絵巻の粗筋を、漢文で日記に記した。(『康富記』閏6月23日条)

現存する『奥州後三年記』『後三年合戦絵詞』ともに欠けている部分、例えば清原真衡の死と、その後の清原清衡と異父弟・家衡の衝突の経緯などの粗筋を、この「康富記」から知ることが出来る。例えば清原真衡の死については、「此間真衡於出羽発向之路中侵病頓死了」とある。以下に『奥州後三年記』の欠落部分についての『康富記』の記述を引用する。

・・・太守之郡使、合力成衡有合戦、城中頗危、寄手清衡家衡得利之間、太守義家朝臣自率利兵有発向、被扶成衡、先之遣使於清衡家衡仰云、可退歟、尚可戦歟也、清衡家衡、申可退之由、欲避之処、清衡之親族重光申云、雖一天之君不可恐、況於一国之刺史哉、既対楯交刃之間、可戦之由申之、与太守官軍及合戦、重光被誅了、清衡家衡両人跨一馬没落了、此間真衡於出羽発向之路侵病頓死了、此後清衡家衡対太守不存野心、死亡之重光為逆臣之由陳之請降之間、太守免許之、六郡割分、各三郡充被補清衡家衡処、家衡雖讒申兄清衡、太守不許也、剰清衡有抽賞之間、家衡令同居清衡館之時、密謀青侍、々々欲害清衡、々々先知之、隠居叢中処、家衡放火焼払清衡宿所、忽殺害清衡妻子眷属了、清衡参太守此歎訴申之間、自率数千騎、発向家衡城沼柵、送数月、遇大雪、官軍失闘利、及飢寒、軍兵多寒死飢死、或切食馬肉、或太守懐人令得温之蘇生、如此之後重率大軍欲進発之、太守義家之弟義光、於京都、聞此大乱、雖申暇、無 勅許之間、辞官職逃下属太守攻敵給了、此後家衡打越伯父武衡館、相談此事、武衡申云、太守者天下之名将也、巳得勝軍之名、非高運乎、可楯籠金沢城之由誘也、武衡同所籠入也、太守又攻此城、・・・

尚、このページを書いてから見つけたのですが、『康富記』での上記の前後のほぼ全文が、関幸彦『武士の誕生』(NHKブックス 1999年)に、漢文でなく口語訳されて載っています。

『奥州後三年記』の信頼性

  • 貞和本『後三年合戦絵詞』との時代は、南北朝時代まで下がること。
  • 更にその序文が『太平記』の作者にも擬せられ、室町幕府との関わりが深い玄慧の筆であり、その『太平記』は、極めて近い年代の出来事を記述したにも関わらず、創作が多く、その史料価値は明治時代から否定されていること。

これらを重ね合わせると、和本『後三年合戦絵詞』の詞文を書き出した『奥州後三年記』は、単なる物語に過ぎないのでは、との疑いも生まれる余地がある。

一方、後白河法皇プロデュースの絵巻承安版『後三年絵』の詞書は、当時に残る国解、官符、公卿の日記、その他の記録、伝聞を参考にしたであろうと思われる。それならば、一次史料ではないながらも、『陸奥話記』に近い信憑性はおけたかもしれない。

残念ながら、この承安版『後三年絵』は現存しないが、しかし『康富記』の内容から、現存する貞和版『後三年合戦絵詞』は、源義家に関わる説話の増補が想定されるとはいえ、基本的には承安版『後三年絵』とほぼ一致しているはずだと見られている(小松茂人氏『後三年合戦絵詞』日本絵巻大成・中央公論社 1977年等)。

鎌倉時代以降に付け加えられた、源氏賛美の部分があるとすれば、この「雁行の乱れ」以外には無いであろう。しかし、顔を射られて血が噴き出すさまなど、実にリアルである。

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義家の朝臣先年宇治殿へ参じて貞任をせめん事など申けるを江帥(大江)匡房卿たち聞て、器量はよき武士の合戦の道をしらぬよとひとりごち給ひけるを、よし家の郎等聞て、わが主ほどの兵をけやけき事いふおきなかなとおもひつゝ、よし家に此よしをかたる。義家これを聞てさる事もあるらんとて、江帥の出られけるところによりてことさら会釈しつゝ、その後彼卿にあひて文をよみけり。よし家はわれ文の道をうかゞはずば爰にて武ひらがためにやぶられなましとぞいひける。兵野に伏時は雁つらをやぶると云事侍るとかや。

大江匡房は1041年(長久2)生まれで、義家より2歳若い。「宇治殿へ参じて貞任をせめん事など申ける」は前九年の役の直後であるはずで、匡房はまだ20歳代前半である。40〜50ならいざしらず、20代前半の者が「器量はよき武士の合戦の道をしらぬよとひとりごち給ひける」などと、言ったのなら、大江匡房は実に「鼻持ちならない嫌なやつ」ということになる。

そもそも「卿」言われるような三位への昇叙は1086年(応徳3)11月20日であり、既に義家は奥州で「義家合戦」を始めている。更に大蔵卿遷任は1011年(天永2)7月29日である。後付の逸話であるからこそ、年代の矛盾が出てくると考えるのが自然だろう。
また、書かれたのが後世だから、書かれた当時の呼び方で、大江匡房を「江帥匡房卿」と呼んだのだとしても、いかにもな逸話である。

上記の通り、後世の逸話・文飾が紛れ込んでいるにしても、南北朝時代時代の貞和版『後三年合戦絵詞』には、更に平安時代末期の底本があり、かつ、それ以外に、奥州後三年の役を知る史料も無いことから、欠損分を『康富記』から補う形で、『奥州後三年記』が、後三年の役の奥州での経緯を今に知る、唯一の史料となっている。

もっとも、鎌倉滅亡の最後のシーンなど、北条方生存者からの証言の収録とみられる部分などには、検証可能なところもあり、全く無価値である訳でもないが。

『奥州後三年記』の残虐性

城中の美女ども、つはものあらそひ取て陣のうちへゐて来る。おとこの首は鉾にさゝれて先にゆく。此は妻はなみだをながしてしりに行。

これを、夫の首を、妻が泣きながら追いかけたと、オブラートに包んで説明する学者も居るが、包み過ぎと言えよう。男は殺され、その妻は連行されて慰みものにされたと読むのが正しい。

この話が、乱の直後から伝えられたものとの想定での話しだが、さして年代は違わないはずの『今昔物語集』の何処を見ても、このような凄惨さは出てこない。例えば「平維茂、藤原諸任を罰ちたる語」の話しなどと比べてほしい。

尚、『今昔物語集』にも、巻25の14話に「源義家朝臣、罰清原武衡等話」があったらしいが、タイトルだ残るだけで本文は伝えられていない。

『奥州後三年記』も、貞和版『後三年合戦絵詞』も、その特徴のひとつは残虐性である。確かに『陸奥話記』にも、藤原経清の首を鈍刀をもって、何度も打ち据えるように斬り殺した、というような話しはあるが、レベルが違いすぎる。また、『陸奥話記』には、源頼義を賛美しながら一方で、安部氏に対する同情ともとれる、人間味あふれる記述の方が勝っている。『奥州後三年記』にはそのようなあたたかさは感じられない。

その嗜虐性を『太平記』との共通項と見る見方もあるようだが、それもレベルが違い過ぎないだろうか。またこれを、後白河法皇の嗜虐性と見る見方もある。

千任が舌をきりをはりて、しばりかゞめて木の枝につりかけて、足を地につけずして、足の下に武衡がくびををけり。千任なくなくあしをかゞめて是をふまず。しばらくありて、ちから盡て足をさげてつゐに主の首をふみつ。将軍これをみてらうどうどもにいふやう。二年の愁眉けふすでにひらけぬ。

この話しを詳細に書き記し、舌を引き抜く処、その後、千任が木に吊され、力尽きて、主人武衡の生首を踏んでしまうところを絵に描いた嗜虐性を、後白河法皇の嗜虐性と見る見方もある。


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しかしながら、京に伝えられた義家の無限地獄の伝承や、義家の同時代人藤原宗忠が、その日記『中右記』に、「故義家朝臣は年来武者の長者として多く無罪の人を殺すと云々。積悪の余り、遂に子孫に及ぶか」と記したことも合わせ考えると、義家に従って参戦した京武者から伝え聞いた義家のひとつの側面であり実話と見なしうる。

貞和版『後三年合戦絵詞』詞書は、玄慧法印が草したとあるが、玄慧法印自体に不明なところもある。絵自体は飛騨守惟久の筆だが、同じ話しは後白河法皇の承安版『後三年絵』にも載っていたはずである。後白河法皇の嗜虐性があったとすれば、承安版の編集に当たって、それを強調したことだろう。後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』巻第二にある「鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」は、そのような言い伝えを反映しているものと思われる。

また、義家の同時代人、藤原宗忠が「多く無罪の人を殺すと云々。積悪の余り」というのは、以下に引用する部分の原型を聞いていたからだろう。このような部分を義家賛美の為に鎌倉時代以降に付け加えた、と思う人は居ない。

此くだる所の稚女童部は、城中のつはもの共の愛妻子どもなり。城中におらば夫ひとりくひて、妻子に物くはせぬ事あるまじ。おなじく一所にこそ餓死なんずれ。しからば城中の粮今すこしとく盡べきなりといふ。将軍是を聞て尤しかるべしといひて、降る所のやつどもみな目の前にころす。これをみて永く城戸をとぢてかさねてくだる者なし。

このような戦法は、異民族間の戦争においては現代でも見られることであるが、騎馬武者の個人戦をベースとした京武者の感覚には無い。その異民族間の抗争を生き抜いてきた出羽の吉武秀武から出された作戦であることには真実みがある。
例えば城郭で言えば、大陸や、ヨーロッパなど、民族間の戦争が中心だった地域では、一般市民の住居全体を囲む都城が一般的である。陸奥北部の蝦夷の集落の発掘調査でも、集落全体を囲む土塁が見られる。一方、陸奥以南では、そのようなものは見られず、南北朝時代に至まで、城郭とは騎馬武者に対する一時的なバリケードと矢を射かける櫓だった。

義家の郎党の構成

金沢の柵での戦いの終盤で冬になり、柵を包囲する義家軍も「大雪に遭い、官軍、戦うに利をうしない、軍兵多くは寒さに死し飢えて死す、或いは馬肉を切りて食し・・・」(康富記)という、前年の沼柵での悲惨な敗北を思い出し、自分が死んだあと、国府(多賀城)に残る妻子が、なんとか京へ帰れるようにと、手紙を書き、旅賃に変えられそうなものを送り届けるシーンがある。

城をまきて秋より冬にをよびぬ。又さむくつめたくなりてみなこゞへて、をのをのかなしみていふやう、去年のごとくに大雪ふらん事、すでに今日明日の事なり。雪にあひなば、こゞへ死なん事うたがふべからず。妻子どもみな国府にあり。をのをのいかでか京へのぼるべきといひて泣々文ども書て、われらは一ぢやう雪にをぼれて死なんとす。是をうりて粮料として、いかにもして京へかへり上るべしと云て、我きたるきせながをぬぎ、乗馬どもを国府へやる。

この一節の中から、彼らが京から義家に着いてきたことが解る。それも5〜6年の任国統治の為に、最初から引き連れてきた行政のスタッフ、期間契約社員としての郎党(館の者共)と見られる。20世紀第三四半期の学説では、義家は多くの関東の武士を引き連れて、後三年の役を戦ったとされる。しかし、農閑期の一時的な出稼ぎ戦争に、妻子を伴ってくるようなことはあり得ない。また、その妻子の帰る場所は京ではない。

更に、前九年の役でも源頼義に、関東の武士が沢山従ったが、それは朝廷の命令があったからだ、今回は朝廷の命令無しに、義家個人の力で関東の武士を大勢動員した。この間に、武士団の大きな成長、源氏の武士の棟梁への上昇があった、と見られてきた。

安田元久氏も『源義家』の中でこう書かれている。

もちろんこの時代に、義家を首長とする完全な私的武士団が組織されていたものとは考えられない、一つの戦闘組織としての、大規模な武士団が形成されるのは、12世紀半ば頃であり、義家の時代には、彼を頂点として、その下にいくつかの独立した武士団が、ヒエラルヒッシュにとう統属されるという形は考えられない。

旧学説のリーダー安田元久氏ですら、冷静に前段のような見識を持たれているのに、その後の旧学説の学者方(福田豊彦氏は除く)は、何故そのことをネグってしまうのか。そこが不思議でならない。それはともかく、その安田元久氏も、結局は後段のようなまとめ方をされていることもまた事実。

しかし、この戦役を通じて、東国の在地武士と、義家の間に、私的主従関係が馴致され、さらにその関係が強化されていったことは否定できないのである。

ほんとうにそうなのだろうか。その根拠には、後世の関東御家人の家に伝わった伝承が含まれていないのだろうか。

ところで、先に小代伊重の置文に、京都守護職であった平賀朝雅とその一行が、蓮華王院の宝蔵に秘蔵されていた絵巻を見せてもらったと記されていることに触れたが、平賀朝雅は新羅三郎義光の孫で、北条時政の後妻・牧の方の娘婿にあたり、北条時政の失脚と同時に、京で殺されたあの平賀朝雅である。従ってそれは1203年から殺される1205年までの間ということになる。

小代伊重はその絵の中に、義家の対の座に副将軍として、小代氏の祖先にして児玉党の長、有大夫弘行が「赤皮の烏帽子かけをして座って」いるのを一族の者が確かに見たというのである。ところがその後、誰かがそれを別の名に書き換えてしまったと。そういうことはよくあるらしい。

仮にそれが本当であったとすれば、その動機は理解できなくもない。有大夫弘行は武蔵七党のひとつ、児玉党の長であるが、本貫は武蔵国の秩父、阿久原牧であり、馬の放牧地、そこから京の武官の一部を構成する馬寮とのつながり、牧は最も早い武士団のベースであること、そして奥州は良馬の産地であり、義家以前からの陸奥とのつながりも想定され、陸奥守であり、また軍事貴族である義家への接近は、本貫の阿久原牧の経営、有大夫弘行と、その児玉一族の栄達の為にも必要だったと考えられる。

それが本当なら義家の有力武将として武蔵・児玉党が参戦していたことになるが、そもそも承安版『後三年絵』そのものが伝わっていないので、確認のしようがない。あっても難しいだろうが。

義家の郎党のプロフィール

さて、以下に貞和版『後三年合戦絵詞』をベースとした、『奥州後三年記』における源義家の郎党を個々に見ていくことにする。

(1) 鎌倉の権五郎景正(景政)

有名な話しなので今更という気もするが、

相模の国の住人鎌倉の権五郎景正といふ者あり。先祖より聞えたかきつはものなり。年わづかに十六歳にして大軍の前にありて命をすてヽたヽかう間に、征矢にて右の目を射させつ。首を射つらぬきてかぶとの鉢付の板に射付られぬ。矢をおりかけて当の矢を射て敵を射とりつ。さてのちしりぞき帰りてかぶとをぬぎて、景正手負にたりとてのけざまにふしぬ。

鎌倉権五郎景政の系図は諸説あってはっきりしない。安田元久氏は、「陸奥話記」の、藤原景通の弟、鎌倉権守景成が平良正の子、致成(むねしげ)の養子となって、その子が権五郎景政とするのが最も妥当とされている。

藤原景通は美濃を本拠とした京武者で加賀介となり、そこからその子孫は加藤を名乗るようになる。仮に安田元久氏の想定通りであれば、京における郎党(同盟軍)の子弟という、京武者コネクションでの動員と見た方が可能性としては高いだろう。権五郎景政はこのとき16歳。自分の政治的判断で従軍したとは思えない。

しかし、野口実、元木泰雄両氏は、『今昔物語集』巻第二十五第十「依頼信言平貞道切人頭語」に出てくる源頼光の郎党、平貞通(道)の孫と推定している。平貞通は、京で源頼光に仕えながら、関東との間を行き来している。

それから約20年後の、長治年中(1104〜1106年)、五郎景政は相模国鵠沼郷一帯を先祖伝来の地として、多数の浮浪人を集めて開発を始め、それを伊勢神宮に寄進しようと国衙に申請した。そして、1107年(永久5)10月23日にその承認を得て、「大庭御厨」を成立させる。「御厨(みくりや)」とは天皇家や伊勢神宮の荘園を意味する。景正は、「供祭上分米」を伊勢神宮に備進して子孫に下司職を相伝する権限を手にする。いわゆる寄進系荘園の典型である。

「大庭御厨」は13郷で成立しており、庄域は「東:鎌倉郡玉輪庄、西:神郷、南:海、北:大牧ア」、面積は1145(久安元)年当時95町。ということが正格に知られるのは、それから140年後に義家の祖孫、源義朝(頼朝の父)に攻めこまれるという、「大庭御厨の濫妨」事件があり、その伊勢大神宮司の訴状に対する官宣旨案(天養記)が公家の日記の背文書として発見されたからである。

鎌倉権五郎景政が、義家の郎党としてこの合戦に参加していたからといって、景政やその兄弟一族である鎌倉党が河内源氏の譜代の郎党とはいえないことを示している。当時の一家をなすもの同士の結合が極めて緩やかであり、親兄弟がそれぞれ別の主人?に名簿(みょうぶ)を差し出すことはごく普通である。これは義家の孫、為義の代においても変わらない。

(2) 三浦の平太郎為次

同国のつはもの三浦の平太為次といふものあり。これも聞えたかき者なり。
つらぬきをはきながら景正が顔をふまへて矢をぬかんとす。景正ふしながら刀をぬきて、為次がくさずりをとらへてあげざまにつかんとす。為次おどろきて、こはいかに、などかくはするぞといふ。景正がいふやう、弓箭にあたりて死するはつはものののぞむところなり。いかでか生ながら足にてつらをふまるゝ事にあらん。しかじ汝をかたきとしてわれ爰にて死なんといふ。為次舌をまきていふ事なし。膝をかヾめ顔ををさへて矢をぬきつ。おほくの人是を見聞、景正がかうみやういよいよならびなし。ちからをつくしてせめたヽかふといへども、城おつべきやうなし。

この三浦氏は確かに関東の豪族で、開拓領主であり、義朝にも、頼朝にも従っているので、「源氏が関東の武士団を郎党にしました」と言える良い例ではある。しかし、こちらも京で源頼光に仕えながら、関東との間を行き来していた平貞道(貞通)の孫で、鎌倉権五郎景政の従兄弟との噂(野口実、元木泰雄両氏とか)もあるので、最近野口実氏が言い始めた「一所傍輩ネットワーク」も無視出来ない。

三崎庄は摂関家の荘園である。三浦氏の系図は『尊卑分脈』の中ですら、3種類も出てきてはっきりしない。特に、この『奥州後三年記』に登場する為次以前がグチャグチャであり、為次の子、義次(義継)の代から三浦庄司とある。これは3系統の系図の内、庄司の記載のある2系統で一致している。(残り1系統は義明・義澄親子が逆転するなどメチャクチャでありもとより参考に出来ない)「三浦の平太為次」の子、で、三浦義明の父・三浦庄司吉次(義継)の名は、「大庭御厨の濫妨」事件で源義朝側で攻めた方(訴えられた方)に出てくる。天養記(官宣旨案)は太政官符の下書きなので、第一級の史料である。これらのことから、三浦の平太為次はこの合戦の頃は三浦に、そう大きな所領は持っていない、ないしはそもそも三浦には居なかったことすら推定される。

(3) 首藤資道(資通)

藤原の資道は将軍のことに身したしき郎等なり。年わづかに十三にして将ぐんの陣中にあり。よるひる身をはなるゝ事なし

安田元久氏は相模国の在地領主とされます。

同じ相模国の在地領主山内首藤氏もまた義家の家人となった。すなわち、吾妻鏡によれば、「相模国住人山内首藤資通が、義家に仕えた」(治承4年11月26日条)という。これは「山内首藤系図」の記載にも一致するので、おそらく事実であったと思う。

事実と見なしうるのは「首藤資通が、義家に仕えた」ことであって「相模国の在地領主山内首藤氏もまた義家の家人」ということではない。首藤氏に山内と出てくるのは、『尊卑分脈』において、首藤資通の孫の首藤義通に、山内刑部丞と傍注されているのが最初である。「山内首藤系図」は『続群書類従』に収録されているものを指すが、そこでは義通の子俊通に「相模国に住み、山内滝口を号す」とある。

「藤原の資道」こと首藤資通の祖父、藤原公清は秀郷流藤原氏で、従五位下左衛門尉検非違使。京武者であり、その系統の多くは佐藤を名乗る。その嫡流は鳥羽院に使えた北面の武士、従五位下左衛門尉佐藤季清であり、その孫が、やはり鳥羽院に使えた北面の武士・従五位下佐藤兵衛尉義清、後の西行である。

「藤原の資道」こと首藤資通はこのとき(1087年11月)13歳、義家の陸奥下向の時から従っていたとすればまだ9歳(今で言う8歳)、当然自分の意志ではなく父の意向であろう。その父藤原資清(助清)と一緒に陸奥に赴いたのかもしれない。ただし、藤原資清の名は『奥州後三年記』には出てこない。

その藤原資清は「守藤太夫」とも、「首藤大夫」とも呼ばれる。「守藤太夫」と呼ばれるのは系図上は藤原公清が関東の受領を務めていたときに出来た子を伴い、京に戻る途中で、美濃国席田郡司守部氏にその子が見込まれて守部氏の養子となった。その守部氏は源頼義の郎党であったことから、頼義に仕えることとなったとされるが、研究者の間では、美濃国席田郡司守部資清が、藤原公清の猶子となったのだろうと見られている。「首藤大夫」と呼ばれるのは首馬首(しゅめのかみ)となったことからである。

従って、その子首藤資通の頃は、美濃を本貫とする京武者であり、相模国とななんの関係もない。
実際に首藤資通は、京において義家の六条の屋敷の向いに、「みのわ堂」を造営したとされている。つまり、本宅は京の義家の屋敷の隣。首藤氏はその後も、首藤資通の子、首藤親清が1130年に北面下臈、すなわち北面の武士となる。そして1149年に左衛門少尉。最初に山内と出てくる前述の首藤義通は更にその子である。そして首藤氏が山内首藤を名乗る初見は保元・平治の乱においてである。
首藤義通・俊通が相模国鎌倉郡北部の山内に住したのは、八条院を本所とする大規模荘園、山内荘の成立と同時と見られており、その時期は鳥羽院の頃、12世紀中頃で、ちょうどその頃、相模においては源義朝が「大庭御厨の濫妨」などを引き起こしていた。

(4) 兵藤大夫正経

参河国の住人。大夫なので五位か。隆家流を名乗る菊池系の系図に兵藤経隆が居るが、関係は不明。兵衛の藤原ぐらいで沢山いそう。しかし兵衛の藤原で、五位なら、京武者でもあるだろう。

(5) 伴次郎兼仗助兼

参河国の住人。兵藤大夫正経の婿で、ともに行動していた。兼仗の「兼」は正確には「人べんに兼」、「仗」は武器、「人、兼ねる、武器」でおおよその役割は想像できよう。位は高くないが一応武官の官職らしい、例えば鎮守府将軍の場合は、将軍判授(将軍が選んで朝廷に申請)の従者として兼仗を置くことが出来た。官人の公的な従者、護衛官ぐらいに見ておけばそう大きくは外れないと思う。

(7) 腰瀧口季方

腰瀧口季方なん一度も臆の座につかざりけり。かたへもこれをほめかんぜずといふ事なし。季方は義光が郎等なり。

義家の弟、源義光が京より伴った瀧口に勤務する京武者。下の絵では向こう左が腰瀧口季方か。向こう中央が義家、右が義光、手前後ろ向きが「臆病なりときこゆるもの五人」と思われる。確証は無いが。

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(8) 大三大夫光任

年八十にして、相具せずして国府にとゞまる。腰はふたへにして将軍の馬の轡にとりつきて涙をのごひいふやう、年のよるといふ事は口惜くも侍るかな

後述する『中右記』寛治7年7月30日条に大宅光房を「件光房者。前陸奥守義家朝臣郎等光任之男也」とあり、「大三大夫光任」は「大宅大夫光任」か。「大夫」とあるので、五位の官位を持つ京武者。

(9) 大宅光房

兼仗大宅光房におほせてその頸を斬しむ。

兼仗は先述。
藤原宗忠の日記である『中右記』の、寛治7(1193)年7月30日条と、康和4(1102)年7月28日条に、義家郎党の「相撲人」として書かれており、関東の武士ではなく、京武者であることがわかる。

寛治7(1193)年7月30日条

中宮御南殿東也。額間以東垂御簾。
御出之後。公卿未昇之前。右少将顕実朝臣進御後。奏擬近奏。三人勅許云々。
右脇大宅光房今年初立。是脇藤井恒正不参之替也。件光房者。前陸奥守義家朝臣郎等光任之男也 。 去年之白丁。雖無成功。依容躰相叶。所被立也。紀成清依之為大憂云々。其理可然。公卿昇南殿之後。 賜座於酒番侍従。座左西廊東庇。其後引屏幔。今日左勝四。右勝三。自余皆以申障了。 蔵人頭左中将宗通朝臣右少将顕実朝臣二人着縫脇。自余脇闕也。
今日御出頗遅。是依左大将遅参歟。

『中右記』康和4(1102)年7月28日条

廿八日 ・・・午時許依催参入鳥羽殿。是依可有御覧左右相撲人也。未刻許於北殿南庭御覧相撲人。 先公卿候南簀子敷。敷円座。権大納言家忠卿以下公卿十二人。直衣。殿上人。布衣。候西中門前庭。 先左方年預中将俊忠朝臣。直衣。依召参入南階日蔭間庭。左相撲人最手大蔵永末。 脇県直以下十九人列立。依仰令肩脱。次白丁廿人許列立。頃而退出之後。次召右年預頭中将顕実朝臣。 直衣。相撲人最手大宅光房今年初立。脇豊原惟遠以下初立 。十余人列立。 次白丁廿余人。如初御覧了。申刻許帰洛。

右最手苅田秀定。去八日於本国死去。讃岐国者也。仍光房被立最手也。 光房者陸奥守義家朝臣郎等 。此七八年雖参相撲。一番未勝負。偏依容体所被立也。頗雖有強力之聞。又無骨法之体歟。 未一番不次勝負者被立最手之例。

 

(10) 源直(みなもとのなおし)

源直といふものあり。寄て手を持て舌を引出さんとす。

一字名の源氏であることから嵯峨源氏か、後の渡辺党も含んで、滝口等内裏守護の京武者と思われる。嵯峨源氏の松浦党に、源直が登場するが、1151年(仁平1)とあり、別人であろう。

(11) 県(あがた)小次郎次任

小次郎次任といふものあり。当国に名を得たるつはものなり。

「国の兵」。尚、約100年後の1198年(建久9)に、藤原長兼の日記『三長記』に、「鎮守府軍曹県兼友」という名が見える。

(12-16) 末割四郎惟弘他

今度殊に臆病なりときこゆるものすべて五人ありけり。これを略頌につくりけり。鏑の音きかじと耳をふさぐ剛のもの、紀七、高七、宮藤王、腰瀧口、末四郎。末四郎といふは末割四郎惟弘が事なり。

紀七、高七、宮藤王、腰瀧口、末割四郎惟弘は不明。腰瀧口は誤記か腰瀧口季方とは別人か。江戸時代の随筆作者・喜多村信節(筠庭?)著『嬉遊笑覧』には、「前文の腰滝口とあるは、非なるべし」とある。貞和版『後三年合戦絵詞』の該当部分は・・・、「てにおは」は微妙に違うように見えるが・・・、よく判らない。
しかしこの4〜5名の内、宮藤王、腰瀧口は「王」「瀧口」から、京からの郎党であろう。しかし絵には確かに5人並んでいる。

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以上から、後三年の役を伝える唯一の史料、『奥州後三年記』においては、関東の武士と言えるものは、鎌倉権五郎景政、三浦の平太郎為次だけに限られる。16名中、京武者と思われる者は、11名、国の兵(つわもの)1名(郎党も入れれば2名)、不明が3名である。

最近野口実氏は『源氏と関東武士』(吉川弘文館 2007年7月)の中で、義家への鎌倉権五郎景政、三浦の平太郎為次の与力は、当時(1086年)の相模守が義家の母方の従兄弟で同じ平直方を祖父にもつ、藤原棟綱であったことも関係しはしないか、とされている。

受領が、「国の兵」、または「館の者共」を、遠い陸奥の国まで派遣することが出来たのかどうかはなんとも言えないが、便宜をはかったぐらいはあるかもしれない。

しかし、義家が生まれたとき、鎌倉の地が、屋敷とともに母方の祖父平直方から、父源頼義に譲られたという話しが、南北朝時代の時宗遊行寺の文書に見え、また吾妻鏡が伝える、由比元八幡の経緯などからも、義家が相模国鎌倉に別業(拠点)を持っていた、とすることは不自然ではない。

そこから、鎌倉、及びそれに隣接する土地の武士である、鎌倉権五郎景政、三浦の平太郎為次などに、また同様に、かつて受領を務めた下野国の武士団の一部(『奥州後三年記』には明確には登場しないが)、などに対しては、それほど強力ではないにしても、ある程度の影響力を持っていたと見ることは妥当かと思う。

しかしながら、それは今日まで一般に思われてきたような、「関東の武士がこぞって義家の傘下に」、というイメージとは、ほど遠いものがある。

2007.12.08 初稿
2008.11.09 更新


後で見つけたもの [PDF] 後三年記の研究上長崎大学教養部紀要(人文科学) 9 1968.12.
まだ良く読んでません。(2008.8.22)

尚、本稿はWikipediaに一部を修正して投稿しました。というか、これが下書きなんですが。だからこのページだけ「である」調に。一部を修正してとは、あちらでは独自見解は出せませんので。
こちらでは独自見解・・・、はそんなに多くはないですが。

ところで、「大三大夫光任」は「大宅光房」の父であるという推測は、内心新発見(独自見解)「俺って凄い♪」と思っていたところ、研究者の間では既知の事柄だったようです。関幸彦『武士の誕生』(NHKブックス 1999年 p188)にあたりまえのように「大宅光任、およびその子光房」と書いてありました。世の中そんなに甘くは無いんですね。残念。