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武士の発生と成立  下向井龍彦氏の「兵=武士」

寛平・延喜の軍制の改革  武士第一号・延喜勲功者 平将門・天慶の乱  天慶勲功者

寛平・延喜の軍制の改革

895年(寛平7)物部氏永を頭とする板東群盗が搬送中の官物の強奪を繰り返し、関東諸国の兵が討伐に向かうと足柄峠や碓氷峠を越境し他国へ逃走してしまいどうしようもありません。
899年には上野国から、また武蔵国からも、そして901年(延喜1)には信濃国から東国群盗蜂起の早馬が。

こうした寛平・延喜の群盗蜂起の鎮圧過程で朝廷も先の国政改革と平行して軍制の改革も行います。
これもまた下向井龍彦氏の著書からですが、

  1. 受領の軍事動員に対する裁量権を強化。「発兵勅符」(緊急動員令)から「追討官符」にシフト仕始めたこと。
  2. 国毎に軍事指揮官である押領使(おうりょうし)を任命したこと。押領使は追討官符を受けた受領の命令で国内の武士(健児?)を動員して反乱を鎮圧することを任務とする。
  3. 王臣家人であろうが何だろうが、国内に住む武勇に優れた者は国衙の命令に従うように義務づけた。

これが下向井説の国衙軍制の始まりです。ただし現存する資料のなかにぼんやりと浮かび上がってきたものの正体を推測するために無理矢理画像処理でコントラストを上げたみたいなところはあります。従って輪郭の位置は正確とは言えないかもしれません。

おまけに異論も出されています。その「異論」については後のページ(「橋昌明氏の国衙軍制論への態度」)で触れるることにしますが、仮に「王臣家人であろうが武勇に優れた者は誰であれ、国衙の動員に従うように義務づけた」というのがそのとおりだとしても、それが目論見通りに機能したのなら、そもそも将門の乱は単なる一族の中の私闘だけで終わったでしょう。

国衙を通じた武士の動員は、この時代にどれほど確たるものであったのかはちょっと疑問であり、何よりもそれでは将門が、対国衙の段階において、圧倒的な動員を果たし、数ヶ国の国衙を占拠した後には初期に動員した軍勢が四散した理由が説明出来ません。
というような問題はありますが、ここではしばらくは下向井説にそって進めて行きましょう。

武士第一号・延喜勲功者

延喜元年がピークであったことからここではそれらの鎮圧に当たった武将を「延喜勲功者」と呼んでおくことにします。これらの討伐で名を上げたのが関東においては平氏の祖平高望、『古今物語集』、芥川龍之介の短編『芋粥』で有名な藤原利仁将軍、そして俵藤太こと藤原秀郷の3名ですが、下向井龍彦氏はそれぞれ前述の守を補佐する介兼押領使として任地に赴いたのではないかと推測されています。証拠は無いのですが。

 藤原利仁

藤原利仁は薨伝(文徳実録)に

美濃介であった時、威恵兼ね行い取締りを厳しくしたため、国内には盗賊がいなくなった。・・・また、席田郡に妖術を行う巫女がいて人々に害毒を与えていたが、みなは恐れて放置していた。しかし、彼は単騎出かけていって一味を捕らえ厳しい刑罰を加えた。 

と書かれた越前守藤原高房を祖父に、叔父には魚名流の中にあって初めて従三位中納言にまで昇進し藤原山蔭(孫娘は藤原道長の母)を持ち、越前の大富豪有仁の女婿で、「海路を飛ぶこと、翅在る人のごとし。以為へらく、神の人に化すか」(『尊卑分脈』)とまで言われた、まざに武勇に優れた王臣子孫。軍事貴族の先駆けとも言えるかもしれません。

 高望王(平高望)

高望王(平高望)も都で謀反を平定したその武勇を見込まれて上総介兼上総押領使(県警本部長?)として赴任したのではないかと。
高望については確実な史料がほとんど無いのですがその息子達が皆武勇で競い、尊卑分脈で見る限りでは子の多くは鎮守府将軍となっているところから、高望の代から武芸を家業としていたのであったろうと思えます。

 藤原秀郷

藤原秀郷は先の二人より後の平将門のライバルですが、尊卑分脈によると祖父藤原豊澤、父藤原村雄、そして秀郷自身も下野国衙の下級官僚(在庁官人:要するに富豪か?)の娘を母にもつことから代々下野国に根を下ろしていたように見えます。あるいはその実態は下野国の豪族だったのかもしれません。

しかしこの秀郷、お国自慢的なある説で927年(延長5)下野押領使(県警本部長?)になったとも言われるそうですが、しかしその前にも後にも犯人側で訴えられていました。
前は915年(延喜15)2月、上野国で上毛野(かみつけぬの)基宗、貞並らに大掾藤原連江(つらえ)らが加わる反受領闘争があり、受領藤原厚載(あつのり)が殺された事件です。
この事件に太政官府は下野国衙(国府)に秀郷とその党18人の配流を命令、しかし秀郷はそれに従わず国司は強制連行も出来ません。

後は、929年には下野国衙は秀郷らの濫行(らんぎょう)を訴え、太政官府は下野国衙と隣国五カ国に秀郷の追討官符を出しますが秀郷らが追討された形跡はありません。こういうことは良くあるんです。隣国の国守からすれば下手に突っつくと自分の足下の大負名達まで王臣子孫達まで刺激して足をすくわれかねないと思ったのかもしれません。下向井龍彦氏の言う「追討官符」の軍制システムもその程度のものです。
しかしこの藤原秀郷は本当にこの時期(927年)に押領使だったのでしょうか? どっちかと言うと群盗と変わらないんじゃないですか? 実際のところこれら王臣子孫達はある時は在庁官人として国衙に協力し、またある時は国衙、と言うか受領に牙をむくと言った存在だったと思います。下向井龍彦氏はそれより13年も後の940年、将門の「新皇」宣言が朝廷に伝わったときとお考えのようです。根拠までは示されていませんがこれなら納得出来ます。このときの朝廷はまさに非常事態宣言ですから「毒をもって毒を制す」と。

ともかくこの当時の地方における国衙と王臣子孫、党、国衙が動員する軍事力(国の兵)との関係を象徴するような人物です。そして「勝てば官軍」の最初の実例であったかもしれません。平将門とも、後の平忠常とも本質的にはそんなに変わらない存在であったように思います。

この3人はある意味「最初の武士」と言っても良いと下向井龍彦は主張しますが、それぞれ後で大成したから名が残っているものの、延喜勲功者と言うだけでは「兵(つわもの)の家」と認知されるまでには至りませんでした。きっかけは作りましたがまだ「兵(つわもの)の家」、と言う概念(武士と言う職能)までは生まれなかったのです。「家」と言う概念自体が前期王朝時代までは希薄でしたし。

ある意味でその不満、あるいはそうした「兵(つわもの)」をきちんと遇しなかったことが「承平・天慶の乱」、つまり平将門、藤原純友の乱を引き起こしたとも言えます。少なくとも当時の為政者、藤原摂関家(当時は藤原忠平)はそう考えたようです。

天慶勲功者

平将門・天慶の乱 は別にまとめました。そちらをご覧ください。

平将門、藤原純友の乱を「承平・天慶の乱」と呼びますが承平年間の平将門ははっきりと平家一門の内紛で朝廷もそのように扱っています。しかし平将門が常陸の国衙を襲って以降、相次いで西国では純友の乱が起こり、朝廷ではこれがえらい衝撃となり乱を平定したあとの政策にも影響を及ぼします。ちょうどこのあたりが武士と言う身分の成立にも関係してきます。

このあたりは講談社『日本の歴史』7巻『武士の成長と院政』の下向井龍彦教授の説を参考にしています。

平将門の乱の首謀者達はそれより前の寛平・延喜年間の東国での未曾有の反乱の勲功者の土着した子孫です。敵味方共にですが。また寛平・延喜年間の騒動の多くは(あまり資料は無いのですが)国司(受領・守や介)と郡司や在庁官人、負名(とりあえず富豪層)との抗争です。「駿馬の党」なんてのもそれですね。藤原利仁が名を上げたのもその征伐です。

純友の乱は同じ様な西国での争乱を鎮めた純友への恩賞の不手際がベースに有ります。それから起こった東と西、挟み撃ちの火の手に反省した朝廷は平将門、藤原純友の乱の功労者を任官、または昇進させて不満を抱かないようにし、加えて在京勤務させて直接コントロール出来るようにし、極力地方から引き剥がそうとします。天慶勲功者上位5人は

  • 藤原秀郷 下野掾から従四位下下野守、武蔵守(こりゃ3階級特進ぐらいですね)
  • 平貞盛  常陸掾から従五位下右馬助 
  • 源経基  武蔵介から太宰少弐(大体正五位上)
  • 平公雅  上総掾から安房守、(秀郷の後武蔵守)
  • 平清幹  上野介から因幡守 (誰のことだか解りません、平高望流ではない?)

任官者は数十人に及んでいるそうです。ちなみに藤原秀郷、平貞盛、平公雅らがそれぞれの国の掾(じょう)になったのは平将門追討のために将門に組みしていない、あるいは敵対していた延喜勲功者の子孫(富豪層)を取り立てたものですからほとんど無位無冠からと同じです。平貞盛は六位ぐらいの官位ではあった様ですが。

源経基は平将門の時は逃げ帰って「いまだ兵(つわもの)道に練れず」と評されましたが、その後の藤原純友の乱では追討使次官として活躍したそうです。ここから源氏が武家となって行きます。

しかし清和であれ陽成であれ、天皇の孫にしては位が低すぎますね。なんか変

また、こうした過程を通じて朝廷が承平・天慶の乱の勲功者を貴族社会が認知したのが後の武士階級の始まりと言われています。また兵の家(つわもののいへ)もほぼここに固まります。

2008.01.04追記