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2005.01.07付け西日本新聞記事
  
 京都産業大学卒で、五ヶ瀬町在住の春川幸作さんが紹介されています
 この記事は2005(平成17)年1月7日(金)付け西日本新聞宮崎版に掲載されたものです。
 著作権のこともありますので、写真は掲載しませんが、京都産業大学同窓会宮崎県支部としても、大変うれしい記事なので、ここに全文を紹介します。

日向(ひむか)の国 百人の肖像

006人目 五ヶ瀬ハイランドスキースクール校長 春川幸作さん(33) 五ヶ瀬町
心に誓う来期の営業再開
 昨年の師走のある夜。「明日は霜が降りるかもしれないな。」大阪育ちの春川幸作さん(33)はそうつぶやき、五ヶ瀬町の山中の冬にすっかりなじんだ自分をあらためて思った。
 旅館木地屋は、日本最南端のスキー場「五ヶ瀬ハイランドスキー場」を運営する第三セクター・五ヶ瀬ハイランドが経営する宿である。ここで働きだして、間もなく丸3年になる。
 本来なら今は、木地屋で働く傍ら、スキースクールの校長として忙しい日々のはずだが、今期はスキー場に人影はない。昨年の相次いだ台風の影響で、三セクが営業を断念した。しかし、嘆いてばかりはおれない。

 五ヶ瀬町との縁は、文字どおり異なもの、不思議なものだ。
 京都産業大を卒業後、1994年にあこがれの鐘紡に入社した。熊本出張所(熊本市)に配属され、医薬品販売などを担当した。
 「薬のサンプル、持ってきてはいよ(ください)。でんしこ(あるだけ)な」「?」
 初めて聞く熊本弁。先輩から「郷に入れば郷に従え。関西弁は話すな」と言われた。好きな関西弁は話すな」と言われた。好きな関西弁が話せない。当初はそれだけで落ち込んだ。
 慰めてくれたのが、高校時代に始めたスキーだった。「滑っているときは何もかも忘れた」。週末は車で広島県のスキー場に出かけた。
 ある日、熊本市内のスキー店で五ヶ瀬にスキー場があることを知った。「行ってみると、雪質もいいし滑りやすい」。以後、五ヶ瀬ハイランドに足が向く。97年の冬だった。

 一方で、鐘紡の業績不振が表面化。2000年ごろ、会社の窮状を知るが、好きな会社のサラリーマン生活だ。仕事への情熱は衰えなかった。
 だが、そんなときだった。
 ふと、五ヶ瀬町のスキー場で知り合った人たちの顔が浮かんだ。スキー場を警備するお茶農家の後継者、手弁当でスキーを指導してくれた知人・・・。「みんな無償で相手に奉仕する気持ちがあった。会社員で得られない喜びがある」。葛藤が生まれていた。
 「自然相手に人に尽くす仕事は素晴らしい。会社員とは違う」
 そんな思いを推し量るように、同年5月に入籍した五ヶ瀬町出身の妻淑子さん(28)が「五ヶ瀬に帰ろう。どうにかなるよ」と背中を押した。
 半年後、会社に辞表を出し、夫婦で五ヶ瀬町に住むようになる。

 数々のアルバイトを経験し、三セク社員として木地屋で働くようになったのは、02年4月だった。
 その年のスキーシーズンには、指導員兼務でスキースクールの校長に就任した。「芸は身を助けるかな」と笑うが、初心者への丁寧な指導は好評で、再訪者も多くいる。
 資格の取得にも励んだ。03年、全日本スキー連盟の正指導員試験にパス。行政書士の資格も取った。「やりたいことに金や時間を投資できる。自分の選択に間違いはない」
 後ろを振り向かず、飛び込んだ新天地だ。スキーが、妻が、そして多くの人々が取り持ってくれた五ヶ瀬町との結びつき。それを大事にしたい。
 「時々、営業再開の夢をみる。来季は多くの人にスキーを教えたい」。遠くに望むスキー場を仰ぎながら、今心に誓っている。

旅館木地屋で同僚の秋山畩浩(けさひろ)さん(51)
 機転が利く好青年です。仕事も熱心で、お客さんからの評判もいいです。私もスキー場の設立に動いた一人ですが、今季の営業断念は町にとって大きな痛手になりました。今は、社員がスクラムを組んで再開を目指して頑張っているところです。春川君にはリーダーとして頑張ってほしいと思っています。

 上記は、西日本新聞のサイトから直接転載したものではなく、当会宮崎県支部が独自に編集したものです。営利目的の掲載ではないので、西日本新聞社の寛大な御理解をお願いします。