晴耕雨読 特集記事

 

題目

21世紀に向けて−都市交通の改革を (’98.11/24)

社会主義の終焉と資本主義の黄昏 (’98.10/25)

沖縄の問題と日米安保 (’98.2/15)

原子力の暗い影 (’97.9/21)

行革するなら命懸けで (’97.8/23)

広島・長崎の夏を忘れてはならぬ (’97.8/10)

教育の荒廃とやさしさを失くした社会 (’97.7/27)

遺伝子組み換え食品は安全か? (’97.6/30)

御嵩町住民投票と日本のゴミ問題 (’97.6/23)

諫早湾干拓と利権政治 (’97.6/19)

都会の脱アスファルト化を (’97.6/8)

インターネットと情報規制 (’97.6/6)

 

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21世紀に向けて−都市交通の改革を

 

環境問題の中心となりつつある自動車問題

 今日での人類における最大の問題は地球環境問題である。増加し続ける二酸化炭素は温室効果の恐怖を撒き散らし、人類存亡の危機さえ囁かれる状態になっている。また忘れてならない問題にエネルギー問題もある。地球における化石燃料の埋蔵量は有限であるのに対して、人類のエネルギー消費量は爆発的に増加しつつあり、これらの燃料資源の枯渇の恐れも現実化しつつある。この問題の解答として「原子力」が推進されたことがあるが、原子力は二酸化炭素よりさらに悪質な「放射能」という処理不能な毒物をばらまくし、ウランも化石燃料同様に埋蔵量が限定されていることから、この問題の解答にはなり得ないことはもはや明らかになっている。将来的には太陽エネルギーなどの実用化が期待されるが、いまだ技術的に開発途上にあることを考えれば、現状はエネルギー消費を押さえつつしのいでいくしかない。

 日本においては都市環境の劣悪さも深刻となりつつある。異常な過密と大量のエネルギー消費によるヒートアイランド現象(都市部の気温が以上に高くなること、現に東京では同緯度のほかの地域よりもはるかに早く桜が咲く)、公害が原因と思われる喘息・アレルギーの増加などの諸問題が噴出している。

 この都市問題の大きな原因となっているのが自動車の存在である。まず都会における異常なエネルギー消費の一翼は車がになっている。しかも工場排ガスに厳しい規制がかかった今日では都市部における公害の主たる要因は自動車による排ガスである。また自動車は交通事故という形で直接的に膨大な人命を奪ってもいる。

自動車排除の困難さ

 かといって、自動車という文明の利器を全面的に追放することは可能だろうか。それは恐らく無理であろう。自動車には害も多いが、明らかに利益も多い。今更、徒歩や馬車の時代に戻ることは不可能であろう。だが、ここで考えなければいけないのは、本当に都市部に溢れるすべての自動車が必要なものであるかだ。これに関しては疑問が多かろう。結論から言うと、人間一人だけを乗せて走っている乗用車などエネルギー資源の無駄と公害の生産以外の何者でもない。

 自動車はエネルギー効率としてはあまり良い機械ではない。というのも高々100キロに満たない人間一人を運ぶために、同時に1トンもの鉄の固まりを動かす必要があるからである。人間一人運ぶためのエネルギー効率という点では自家用車などの乗用車は、バスや鉄道などの大量輸送機関よりもはるかに劣るものである。

 この時点でもう解答は現れたに等しい。つまり自家用車を捨ててバスや鉄道に移行すれば良いのである。しかしこれは何も私の独創的アイディアではなく、以前から何度も言われて来ていることである。実際に「ノーマイカーデー」なども呼びかけられたことがある。それにも関わらず現実には「面倒くさい。不便だ。」という声に負けて実現が出来ていないのである。

都市基盤を整備し、自転車の活用を

 確かに路線や運航時間が限られたバス・電車などは、目的地まで自由に動かせる自家用車に比べて不便である。その不便なものに振り替えさせるには、その不便を補う案を提供する必要がある。ここで私が提言するのは自転車の活用である。

 私自身が大阪という大都会で生活している者であるが、実感として感じているのは都会においては自転車というものは非常に便利であるということである。小回りが利いて機動力がある。そして駐車場を気にする必要がない。さらに運動不足気味の都会人にとっては格好の運動になる(体に無理がかからなくて、有酸素運動であるのがミソである)。このような多くの利点を持つ自転車を活用しない手はない。

 自転車における最大の泣き所は、長距離移動が不可能であることだ(運転者の体力にもよるが)。そこでこの弱点を補うために自転車を鉄道やバスと組み合わせるのである。自転車の弱点である長距離移動力をバスや電車で補うことが出来れば自転車は自動車に匹敵する機動力を確保することができる。またこれは駅前の放置自転車の問題の解決にもつながる。

 ただ現状では鉄道に自転車を持って搭乗することは設備上困難である。これを実現するためには駅や車両の構造などを改造する必要があるし、またバスなども改造が必要である。しかしこれは非常に有意義なことであろうと考える。自転車で乗り込みやすい公共輸送機関というのは、車椅子でも利用しやすいものになるだろう。これは障害者にとっても非常に有効なものであるといえる。

都心部においては自家用車規制が必要

 なおいくら鉄道と自転車を組み合わせることを可能としても、やはり自家用車にこだわるわがままな人間ばかりいては効果が上がらない。そこで自転車への切り替えを推進するためには、将来の自家用車全面禁止を標的に入れつつ、当面は都市部での自動車税を地方の数倍にするなどの促進処置を行う必要があろう。こうして集めた自動車税は鉄道やバスなどの公共輸送機関の充実のための財源としていくことにする。公共輸送機関の整った都市部における自家用車の使用は、環境に負担をかけている贅沢であるのだから、それに応じた負担をさせるのは当然のことだと思われる。現在の自動車税のシステムは基本的には都会での贅沢のためのベンツも、地方での生活のためのファミリアもどちらも同じ自動車として扱っているところに矛盾がある。必要度に応じて負担に軽重をつけることは公平であり、重要なことである。また地方においても公共交通機関の充実に努め、順次この割り増し自動車税の適用地域を拡大していくのが望ましいのは言うまでもない。

 また都市内での自家用車を禁止しても、周辺地域から流入して来ては無意味である。そのために、都市地域への自家用車の乗り入れは原則として禁止する。その代わり郊外部に極めて低料金(無料にしても良いと思うが)の大規模の公的駐車場を設立し、そこからバスや鉄道で都心部へのスムーズな移動を可能にする。都心部での人の移動は電車・バス・タクシー・自転車に事実上限定するのである。これによって都心部の車両数は激減し、渋滞・騒音・公害・交通事故などの問題は一挙に緩和されるであろう。また路上駐車や渋滞の解消は救急車・消防車などの緊急車両のスムーズな運用にも貢献する。さらにバスの本数が増加することで、年寄りや障害者の利便性が増すことが期待され、都会が弱者にとって優しい地域になるのである。

船舶の活用でトラックの減少を

 自動車について考える場合に忘れてはならないのはトラックの問題だ。まず長距離トラックを順次減少させていくことが必要であろう。エネルギー効率を考えた場合、トラックが北海道から九州まで走るのはどう考えても馬鹿げている。エネルギー効率的には船舶輸送がもっとも有効であるが、残念ながら通常船舶では速度の問題がある。そこで最近開発が進んでいる高速船舶を活用したい。これらの船舶は輸送効率では通常船舶に劣るものの運航速度は自動車並みの速度を持っている。全国に数箇所の拠点となる港湾を整備し、貨物をそこに集中させた上で、トラックによる輸送は港湾と都市の間だけにすれば、トラックの台数を劇的に減少させられる。またそこで協同輸送などを活用すればさらにトラックの台数を減少させられる。ただそれでもドアトゥードアの利便性にこだわる企業なども多いと考えられるので、そこは税制による優遇などで経済的メリットが生じるようにしていくことも重要な政策である。

実現に立ちふさがる困難−根本的な改革が必要

 以上のような提言をまとめたが、実行面の困難は多数ある。まず設備面の整備である。これは公共事業として行うのが適当だろう。これこそは現在青色吐息のゼネコンの仕事を増やすことであり、景気回復につながることも期待できるという副次効果も期待できる。同じ公共事業でも意味のない環境破壊を行うよりはよほど有意義だろう。諫早湾干拓や河口堰などのような馬鹿な事業に費やす予算を回せば良いだけのことである。

 また都市部で自転車を鉄道に搭乗させる場合、最大の問題は都心部(特に東京)における異常な過密であろう。現在の山手線に自転車を搭乗させることは車両の改造だけでは不可能である。そのためにはやはり東京一極集中の解消が必要であろう。都心部の交通問題とあわせて考える必要のある問題である。なおこれについては、私は日本全国に人口50万〜100万ぐらいの拠点都市を配置し、それを取り巻く農村地域と共に自給自足圏を確立し、その拠点都市間を高速鉄道と通信網で結びつけるという都市改造構想も持っているのだが、これについてはまた時を改めて説明したい。

 実は一番の障害は、自動車業界などの反発と、それらの業界から賄賂を受け取った愚かな族議員どもの暗躍である。これについては世論による後押しを期待するしかない。都市部における自動車を減少させるといっても自動車そのものを全廃するわけではないし、また一年や二年で劇的に行う作業ではないので、自動車業界も十分生き残りのための業務転換などの対応をする余地がある(かつて国策で突然炭坑が見捨てられた時などと比べるとはるかに穏健な変革だと思う。企業の業種転換も労働人口の移動も十分に可能だ。)。近視眼的な利益に縛られた政権ならそれを排除し、真に未来を見据えた政権を樹立させることも必要となってくるだろう。

 現在に至るまで日本においてまともな都市計画は不在であった。しかしもう既に日本の都市は限界に達し悲鳴を上げているのである。根本的な改革が必要なのだ。 この変革は地球環境のみならず、実は多くの住民にとっても望ましい方向であるものであると、私は信じる。後は実行できるかどうかである。

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社会主義の終焉と資本主義の黄昏

 

社会主義の崩壊により浮き彫りになった資本主義の限界

 資本主義に対抗する概念としてマルクスによって提案された社会主義は、ソ連の崩壊により事実上終焉した。現在も中国や北朝鮮など社会主義を名乗る国家はまだ存在するが、中国は緩やかに開放経済に向かいつつあるし、北朝鮮は社会主義を口実にした独裁主義国家であり、本当の意味で社会主義を目指している国家はもはや存在しない。マルクスの壮大な実験も結局は失敗に終わったのである。

 勝利した形の資本主義であるが、これとても原形のまま生き残ったわけではない。社会主義によって提唱された労働者福祉などの概念は資本主義にも導入され、現在の資本主義はかつての弱肉強食的色彩の強かったものから、より穏健な修正資本主義へと至った。またこの変遷により資本主義は生き残ることができたとも言える。

 社会主義の終焉は、資本主義を信奉する学者や資本家などを狂喜させた。彼らは資本主義の原理が世界を支配することによって、平等で民主的な社会がやってくると主張した。そしてしばらくの間はそれも全くのデタラメとは思えなかった。各国は好況に沸き、アジアを中心に経済の成長には目まぐるしいものがあった。

 しかしその幻想はついに破れた。現在経済的問題にあえぐ国家は増加し、自由主義理論に沿ったIMFの経済指導もこれらの国を回復軌道に乗せることに失敗している。また環境問題や資源問題などの資本主義原理では絶対に解決不可能な地球規模の問題が持ちあがり、人類の未来に暗い影を投げかけつつある。

資本主義に潜む問題点−拡大再生産の限界

 資本主義の基本原則は人間が利益を追求する行為が社会全体に好影響をもたらすという思想である。資本家が利益を追求することによって生産効率が向上し、それが拡大再生産につながり、社会全体が裕福になるというのが根本的な考えである。これは人間の欲望を肯定的に捉えた性善説的世界観でもある。しかし実はこの拡大再生産という考えが矛盾を含んでいるのである。資本主義が成立するためには持続的な成長が前提となっている。もし地球が無限の大きさを持ち、世界が人類にとって常にフロンティアでありつづけるならそれも可能である。しかし現在のように人類の経済が世界規模にまで拡大すれば、早晩に限界に行き当たるのは必至であった。それこそが現在の世界不況の一因と言ってもよいだろう。つまり資本主義は成長が行きづまれば破綻する世界規模のネズミ講と言ってもよい性質を持っているのである。

 その成長志向の資本主義は、近世においてはヨーロッパによる市場と資源を求めての世界進出を促した。この過程ですさまじい侵略と収奪が行われ、それが今日の南北問題の根底の一つになっていることは周知の事実だが、ここではその問題を扱うつもりはない。重要なのは、もはやそのような収奪を行える場所は人類にとって存在しないことだ。未だに第三世界の収奪で延命しようとする資本家も存在するが、そのような無理はいずれは不可能になろう。そうなればSFの世界よろしく宇宙にでも進出するしかないが、これはまだ100年はかかろう。

 社会主義が労働者の理性と誠実さを過大評価して失敗したとするならば、資本主義は人類の欲望の大きさを過小評価して限界を向かえつつあると言ってもよいだろう。パイが拡大可能なうちは成立可能であった資本主義も、人類の欲望が地球よりも大きくなってしまった今日では、パイ自体の拡大はもはや不可能であり、かぎられたパイをどう配分するかになっているのである。

 この矛盾は現在の日本政府の景気対策を見れば端的に現れている。現在、景気対策として掲げられている政策の目的は、すべて消費の刺激である。実は景気の回復はある意味では実に簡単なのである。国民全員が無駄遣いと浪費をすればいいのである。昔アメリカで「消費は美徳」といわれた時代があったが、まさに資本主義は拡大し続ける消費によって支えられているのである。しかしこれは今日では確実に地球自身を食いつぶしていくことになる。

欲望刺激社会の歪み

 また資本主義社会は欲望刺激社会といっても良い。資本家は消費者の消費意欲を促すために、常に手を替え品を替え市民の物欲を始めとしてあらゆる欲望を刺激し続けることになる。実際に現在流されているおびただしい量の広告を見てみればいい。我々は生まれた時から、ありとあらゆる方法で物欲を始めとする各種欲望を刺激され続けているのである。この結果どうなるかは自明の理である。最近の中高生の援助交際や、和歌山の保険金殺人事件に見られるような、金のためなら倫理も道徳も消し飛んだ強烈な拝金主義の横行である。欲望に押しつぶされた人間の末路はあまりに哀れである。

 自然界では欲望には一定のタガがはまっている。例えば肉食動物は満腹の時は、いくら獲物が目の前にいても決して襲うことはない。彼らは無用に獲物を狩りすぎることが自らの首を絞めることになるのを、本能的に知っているのである。これに対して人類はそもそも欲望に対するタガが弱い種族である。楽しみとして狩りをするのは人類だけであるし、発情期を持たず年がら年中性交が可能であるのも人類だけである。そしてこのような特質を持つ生物である人類が社会的に欲望を増幅させ続けているのだから、やがては地球を押しつぶさんばかりに欲望が暴走してしまうのもある種の必然だったのである。

 もっとも人類には理性というタガがある。ただ先に述べたように、資本主義の友人が「無駄遣いと浪費であり」、「質素と倹約」が彼の敵である以上、経済の世界では理性が働かない制度になってしまっているのである。この暴走する欲望にいかに経済の側面から抑制をかけていくかが、今後の地球環境問題を考えた場合、重要になるのは間違いない。

資本主義の次にくる体制の確立を

 しかしながら残念なことに未だにどんな経済学者も資本主義や社会主義に変わり得る新しい経済原則を示せずにいる。しかし是非とも取り組んで欲しい課題である。でないと人類に未来はない。

 世界中の学者が未だに考え付かないような経済原則を、私が考え付くはずもないが、私がポイントとして考える事柄を数点あげておく。

1.新経済原則は地球規模のものでまた全人類的に公平なものでないといけない

 今の資本主義経済の限界を見ていると、一国レベルで経済原則を変更しても影響は少ない。また最近問題になっている地球環境問題などを考慮に入れるためにも、世界規模のものであるのは必須である。また近代から現代に至る資本主義のように、国内での矛盾を海外(第三世界など)で辻褄をあわせるようなものであってはいけない。

 また経済が世界規模になる場合、特定地域の人間だけが特権階級になってしまうような制度が通用するはずがない。人類全体が平等でいられる制度でないと存続は不可能である。

2.地球環境の負担も考慮に入れた制度であること

 これから人類のとっての最大の課題は地球環境問題である。人類は当面この星で暮らしていくことを余儀なくされる以上、この星をこれ以上荒らすことは自らの首を絞めるに等しい。地球環境に対する負担は資本主義でも社会主義でも欠落していた概念であり、このため経済規模が拡大するにつれて地球からの収奪が増加し、地球環境に致命的なダメージを与えつつある。新経済原則は地球環境への影響も考慮に入れて、なるべく環境に悪影響を与えない方向に進める制度である必要がある。

3.発展を否定するものでないこと

 社会主義は経済の成長に計画で枠をはめた。しかしこのことは経済の成長率を制限するだけでなく、技術などの発展をも抑制することになってしまった。一方の資本主義は利益を追求することで技術の発展を促す効果があるが、その暴走が現在の状況である。

 新経済制度は発展の可能性も持ちつつ、地球環境と折り合いのつく制度でないといけない。

4.ゼロ成長で持続できる制度であること

 資本主義の最大の矛盾は、先にあげた拡大再生産にともなう持続的成長である。新経済制度はゼロ成長を基本として、それで成り立つシステムでないといけない。

 

 以上のこれらの特徴を併せ持つ制度が果して可能であるのかどうかは私にも分からない。またこれではあくまで理想論だという批判もあるだろうことは了解している。しかし制度を考える場合は、まず理想を掲げてからそれを現実と妥協させていくことが不可欠だと思う。残念ながら現状を無条件に追認し続けるのは限界が来ている。

 私のイメージとしては、恐らく自給自足をベースに置いた穏健な制度になると考える。細かい点は経済の専門家のみならず、多くの人に考えてもらいたいところである。そろそろ我々の常識もコペルニクス的転回をするべき時にさしかかっているようである。

 

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沖縄の問題と日米安保

名護市市長選挙に見る沖縄県民の苦悩

 米軍の海上ヘリポート建設が最大の問題点となっていた沖縄県名護市で、先ほど行われた市長選挙では基地賛成派が推薦した岸本候補が僅差で基地反対派の玉城候補を破って当選した。この結果をして、政府は海上ヘリポートに対しての建設の準備は整ったと、経済振興策を見返りにつけた上で基地建設に踏み込もうとしている。しかしことはそう単純ではない。実はこの投票結果には沖縄県民の苦しい現実が見えているのである。

 実は今回の選挙の最大の争点を、海上ヘリポートに対する賛否ととらえていたのは、本土の人間の考え方なのである。実際は今回当選した岸本氏も「海上ヘリポート建設については知事の判断に従う」と発言しており、賛成とも反対とも明言していないのである。その上に太田知事が海上ヘリポート建設について反対の姿勢を明らかにしており、現地の空気は「もう海上ヘリポートについては建設できない」という空気が広がっていたと言う。その上で岸本氏の政治家としての手腕、主に経済振興策について期待したと言うのが実状のようである。そういう意味では、名護市民の意思は前回の住民投票の時にすでに決まっていたと言える。

地方の事情につけ込んでの強引な基地押し付け

 そもそも、経済振興策か基地建設かという二者択一を強引に迫った政府の姿勢自身が姑息だったと言える。そもそもこれら両者は個別に議論すべき事柄であるにも関わらず、政府は強引にこれを結び付けた。特に中心となる産業が存在しない沖縄が、経済的に非常に立ち後れているのは現実である。それだけに沖縄県民としては経済振興策はのどから手が出るほど望んでいることである。だからそれを見せ付けることで基地に対しては文句を言うなとの論理を振りかざそうとしたのである。

 また不思議なことに今回の名護市沖の海上ヘリポート案にしても、移転候補としては沖縄県内のみしかあがっておらず、政府の姿勢は「名護が駄目なら、沖縄のほかの地域に移転する。それにこれに反対するなら普天間基地の縮小はできない。」と言った調子で、どうも沖縄県内での対立を煽ろうという策謀も見える。

 政府は数限りない論点のすり替えを行っている。経済的に立ち後れている沖縄に対して経済振興策を行うのは、もともと政府の任務と言え、むしろこれまで完全に放置して来たのは政府の怠慢なのである。それどころか沖縄がアジアの貿易センターとしての貿易的立地を目指そうとした時に、政府は種々の規制によりそのプランをつぶしてきていると言うのが実体なのである。かつての沖縄は琉球王国として海外との貿易中心に栄えた歴史がある。実際に沖縄の地理的条件はアジアの中心に位置しており、中国・朝鮮・台湾・東南アジアなどとの貿易の中継点としての可能性を秘めている。だから沖縄は以前に政府に対して規制の緩和を求めたことがあるが、それを政府は撥ね付けている。これでは沖縄県民に強引に基地を押し付けるために、沖縄が経済的に自立することを妨げようとしたのではないかとの疑念さえも出て来る。

 そして政府のこのような姑息な姿勢が許されているのは、本土の人間の無責任さに原因がある。

日米安保についての国全体の議論が必要

 日米安保条約は日本国全体の問題であり、沖縄県民だけで判断できる問題ではない。ここをとらえて政府は「国の政策に地方が反抗するな」と言う姿勢であるし、読売新聞などの御用マスコミに至っては沖縄県民の姿勢を「地域エゴ」と言わんばかりの論調である。

 しかしこれはそもそも考え方の根本からして間違っている。国全体の問題であるからこそ、沖縄だけに押し付けてしまってはいけないのである。その議論をまともにしない状態で沖縄県民の考えを「地域エゴ」として片づけてしまう姿勢は無責任で卑劣な姿勢である。そもそも日米安保が国策としてどうしても必要であると言うのなら、その負担については何らかの形で日本全体で負うべきであるのである。

 本土の人間は「日米安保は必要だ」と言うが、「では米軍の基地があなたの町に来たら」といったら、それには反対する。それで結局、米軍の騒音も銃弾による危険も米兵による犯罪もすべて沖縄に押し付けて「仕方ない」と言っている。日米安保と米軍駐留が不可分である以上、本土の人間も日米安保が本当に必要だと思うのなら、応分の負担はして当然なのである。もし米軍基地が来るのはどうしても嫌だと言うなら、安保を改定するか破棄するかしかないだろう(もっともアメリカがそれを認めるかは別だが)。

 話は少し変わるが、この同様の図式は産業廃棄物処分場問題などにも見られる。国民全体で考えるべきゴミ問題を、都会人は強引に地方に押し付けて知らないふりをする。そして地方での反対運動については「仕方ない」の一言で済ませる。これが日本人の無責任体質である。

成熟した「同盟」関係を

 なおこれと別の問題として、駐留米軍兵の綱紀粛正の件はアメリカに対して厳に要求していく必要があるだろう。米軍の駐留を認めたとしても、日本国民が米軍の犯罪を甘んじて受けなければならない理由は全くない。現状では米軍基地の存在は確実に犯罪の増加をもたらしている。沖縄などでは米軍兵による強盗・窃盗・婦女暴行などは日常茶飯で、今更ニュースにもならないぐらいであるという。しかも犯罪ではなくとも、町の中を最優先で我が物顔に振る舞う米軍の行動は多くの不満を県民に感じさせている(米軍車両には日本の交通法規は適用されないのである)。

 日本の弱腰のせいで米軍は事実上の治外法権になってしまって、これが沖縄での米兵による犯罪の増加につながっている。この前の少女暴行事件などのような事件が起こって、県民の怒りが爆発した時だけは政府も抗議をしたりするが、基本的にはアメリカの言いなりになっている。日本は何もアメリカの植民地ではないし、日米安保は「同盟」条約であるのだから、日本政府はアメリカに対して、「約束を守るか、それでなければ出て行くか」ぐらいの強い姿勢でのぞんでもよいだけの権利があるのである。すべてをうやむやにしているのが最大の問題なのである。

 いくら現状で米軍に基地の縮小を訴えても、日本が毎年払ってる莫大な「思いやり予算」からも分かるぐらいの、三食昼寝付の至れり尽くせりの「おいしい」基地をアメリカが縮小するわけがないのも現実だろう。「日本の金でアメリカの失業者を養ってやってるようなもの」とまで言う者もいるぐらいである(私はここまで極論するつもりはないが)。ただ、アメリカが日本に駐留しているのは、あくまでアメリカの世界戦略のためであり、これまでもこれからも日本を守るために戦うなどということはありえないことを考えると、日本のアメリカに対する経済援助的側面があることは否定できないだろう。実際、アメリカはそのうまみをよく知り尽くしているから、湾岸戦争のときに日本からもっと経済援助を引っ張り出そうとして、「安保ただ乗り論」を煽った時、煽りすぎてアメリカ国内で「安保にただ乗りしてる日本なんて守ってやる必要がないから、日本の基地を撤収しろ」なんて世論が出始めたら、慌ててただ乗り論を引っ込めたぐらいである。ここに日本の付け込む余地がある。日本としてはしたたかな外交交渉が必要とされるのだ。

国防問題は避けては通れない

 日米安保の意義と共に今後の日本の進路についても議論する必要がある。今回制定された日米ガイドラインは、なぜかマスコミではあまり取り上げられなかったが、明らかに北朝鮮や中国を仮想敵国として米軍と日本の自衛隊が共同作戦で戦闘することが想定されている。つまりアメリカは後方にいて日本近海場合によっては日本本土を戦場として戦うことになるのである。これは日本の防衛政策にとって大きな転換点になると思うがなぜかこのことは一般にあまりに話題にされていない(というよりもわざと話題にならないように誘導している)。

 防衛政策とは国の根本政策の一つである。それに対して国民的合意ができていない事態は非常に問題がある。あくまでこのまま米軍に追従していくのか、それとも独自防衛の道を歩むのか、それとも外交重視で軽軍備の方向に向かうのか、それとも国連などの組織を中心として積極的に参画していくのか。いろいろな考え方が存在するはずだが、それについての議論はいまだまともになされたことはない。このことについては与党と野党の怠慢である。おかげで大東亜共栄圏の亡霊にとりつかれたような時代錯誤で危険な連中だけが突出することになって、そのことが日本やアジア全体に対して影を落すことになっている。今こそ建設的かつ徹底的な議論が必要とされているのである。

 国防問題こそまさに、沖縄だけに押し付けることができる問題ではないのである。

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原子力の暗い影

未来エネルギーとはなりえない原子力

 昔は原子力はクリーンエネルギーとか未来エネルギーなどと言われたものであるが、それが全く嘘であることは既に暴露されている。チェルノブイリの事故で見られるように、原子力発電所は一度事故を起こすと周囲の環境に致命的ダメージを与える。どうも意図的に情報が伏せられている気配があるが、チェルノブイリ周辺では悲惨なことが起こっているらしいことは、数少ない情報からもうかがえる。例えば、周辺地域で小児ガンが異常に増加しているとか、牛に奇形が現れたりしているとかの話が漏れてきている。なおこの事故の直後、日本の原子力関係者は、「日本にはチェルノブイリ型の原子炉は存在しないから安全」と宣言したのだが、日本と同型の炉であるスリーマイル島でも事故が起こっているということには、意図的に触れなかった。

 また原子力発電所は事故を起こさなかったとしても、常に周囲に放射能を撒き散らしている。国は環境基準内であり大丈夫であると言うが、実際にそれが証明されているとは言い難い。また周辺でガンが増加したと言うようなデータが現れたとしても、因果関係がはっきりしないなどと言って逃げられるのがオチである。

 最近温室効果の問題などで、二酸化炭素の削減がいわれている。このために原子力を代替エネルギーにと言う意見もあるが、ウランの採掘・精製・運搬、原子力発電所の建設・運転などあらゆる場面で石油が使われているので、原子力は全く代替エネルギーにはなっていない。またウラン自身がその埋蔵量は限られているので、いずれは枯渇することも確実である。またウラン採掘現場での労働者の被爆も問題になっており、ウラン採掘を続けること事体が人道的に問題があるのである。このように原子力は代替エネルギーとしての資格も全く持っていない。

技術的に不可能な前提に基づく原子力

 元来あらゆる技術確立の歴史は、スクラップ&ビルドである。どんな技術も事故を起こしながら、それを反省し対策を行うことで発展してきた歴史がある。航空技術などがまさしくそれで、飛行機の発展は無数の墜落事故の歴史といっても良い。何度も致命的な事故を起こしながら、その度ごとに原因を究明し改良を重ねることで安全な乗り物へと進化を続けてきたのである。つまりどんな技術も100%確実なものはなく、だんだんとそれに近づけていく努力が必要なのである。

 それに対して原子力は前提が異なっている。原子力技術に関しての基本は、まず原子力の技術は100%確実なものであって、すべての事故はその想定を越えることが無いことになっている。この前提が技術的に全く無理なことを言っているのは容易に分かることである。そもそもすべての事故が想定内で発生するのであれば、そもそも事故そのものが起こることが無い。例えば航空機などでも、当然あらゆる事故の想定は行っており、その対策は事前になされている。それにも関わらず今日でも航空事故が皆無にならないのは、常にその想定を超えた事態が発生するからである。しかしながら技術としては、航空技術よりもはるかに歴史の浅いはずの原子力技術が、なぜか最初から完璧な技術である想定をとっているのである。

 原子力がこのような荒唐無稽といっても良いような前提をとらざるおえないのは、万一の事故が起こった場合の影響が大きすぎるからである。先に技術の発達はスクラップ&ビルドといったが、残念ながら原子力に関しては、一度スクラップが起こると次にビルドを行う余地はない。例えば、原子炉の1つが致命的事故を起こしただけで、日本の大半が居住不能なレベルに汚染されるのである。チェルノブイリ事故の危険地域の地図は、日本がすっぽり入る大きさがあることを忘れてはいけない。

 このようなそもそも技術的に不可能な前提に基づいているから、事故が起こった場合は当然のこととしてまず隠す。そしてどうしても隠し切れない時は、いかに小さなトラブルで事故というほどのことでもないかを強調し、まともな調査を始める前からとりあえず「外部への影響はなく、安全である。」という発表を行う。そして事故の中身が実は非常に深刻なものであったことが分かった場合は、その事故がいかに特殊な状況で起こったもので通常はまず起こらないものであるのかを強調する。

 例えばチェルノブイリの事故の場合、その深刻さに震撼した日本の原子力関係者は、いかにソ連の原発の管理がずさんであったかをやたらに強調した。昨日まで「ソ連は原発先進国である」と言って散々持ち上げていた連中が、突然手のひらを返したようになって、まるでソ連は事故を起こすために原発を動かしていたとでも言わんばかりの論調になったのである。しかもその事故の被害を重大視させないために、穀物の輸入禁止等の処置をとらなかった。おかげでヨーロッパ等での輸入禁止処分で行き先をなくした汚染作物は、かなりの部分が日本に入ってきたのである。これは政府が国民の安全よりも、原子力のイメージを重視した結果である。

 また美浜原発で事故が起こった時も、最初は正式な発表すらもろくになく。やがて出てきた発表は、お決まり通りの「たいしたことではない、安全性に問題はない」であった。それにも関わらず、事故の実態は細管破断という想定外の重大事故であったことが分かった後は、一転して、工事がきちんとなされていなかったの何だのといい始めた。つまり工事がきちんとなされてさえいればこんな事故は起こらなかったと強調することで、なるべく事故の矮小化を測ったのである。

 このように原子力に付きまとう事故隠し体質は、そもそも無理な技術的前提にその源があるので、体質がどうこうというよりも、かなり根本的なものといえる。

解決の目処さえない核廃棄物問題

 放射性廃棄物の処理についても解決していない。よく原発は「下水のないマンション」にたとえられるが、運転に伴って必ず排出される廃棄物の処理方法がないのであるから、破綻は見えている。今までいろいろな処分方法が検討された。まず地中に埋めることについては、地下水が放射能汚染されることが確実で、非常に危険性が高いので中止された。深海への投棄も検討されたが、同様に海域を汚染することになるので特に周辺諸国の猛反発を食らって挫折した。宇宙にロケットで打ち上げるという案まであったが、コストが高すぎるのと、万一事故が起こった時の影響の大きさを考えると非現実的であった。また核反応によって放射能を消滅させる技術を研究するということも言われたが、技術的にほとんど夢物語である上に、発電で生み出す以上のエネルギーを必要とする可能性が高く、何をやっているのか分からなくなってしまうので、最近は言わなくなってしまった。以上のように万策尽きている状況である。

 結局はドラム缶に詰めて保管し、常に監視しておくしかないのだが、それについてもこの間の動燃の低レベル廃棄物貯蔵庫が浸水したまま放置されていた事件に見られるように、非常に危なっかしいものであることが暴露された。しかもドラム缶は溜まる一方であって、これらが安全になるのは1万年以上先の話である。一体そんな先まで誰が責任を持って管理するのだろうか。しかも未来の人類は、原子力の恩恵に浴することなしに、廃棄物だけ押し付けられることになるのだ。

 これだけ問題が山積みであるにも関わらず、政府はいまだに原子力政策を推進している。太陽エネルギーの開発などにも予算は使われているが、原子力関係の予算に比較すると微々たるものである。そこに利権がらみの話があることは容易に推察がつくが、どうもそれだけではないような気がする。

核燃料サイクルに付きまとう軍事利用の影

 政府は核燃料サイクルと言って、原子炉によって生成したプルトニウムを再処理工場で抽出して、高速増殖炉で発電に利用するという計画を考えていた。高速増殖炉は、プルトニウムを金属ナトリウムで冷却するという非常に危なっかしい構造の炉であり、その技術的困難さからヨーロッパの国々は開発を放棄したのだが、日本だけは継続していた。その結果、懸念されていた通りもんじゅでナトリウム漏れ事故が発生し、高速増殖炉の開発に決定的な破綻が生じてしまった。しかもプルトニウム抽出のための再処理工場でも事故が発生するなど、核燃料サイクルは今や完全な破綻状態である。それにも関わらず、政府は未だにプルトニウム利用に固執しており、国民からの反発が弱まれば、また核燃料サイクルを構築しようとする可能性が高い。

 そもそもプルトニウムは平和利用はし難いものである。プルトニウムはその不安定さから、核反応を暴走させることは容易であるが、核反応を制御することには非常な困難が伴う。要するに、爆弾を作るのは簡単だが、発電に利用するのは最初から困難な代物なのだ。そのような物質が、発電に伴って国内にどんどん蓄積されていくことになるのである。日本が核兵器を持とうとしているのではないかと外国が疑うのは当然であり、また実際に一部の政治家などはそれを狙っていることはほぼ間違いないと考える。

 発電で利用されるプルトニウムは低品位であるので、高性能な核弾頭を作ることはできないというが、それはあくまで、世界を数発で破壊できるような高性能な爆弾は作れないという意味であり、爆弾ができないという意味ではない。例えばあの広島を吹き飛ばして多くの犠牲者を出したあの原爆は、今日的基準では決して高性能な爆弾ではないのだ。本当はプルトニウムさえあれば核爆弾を作ることは比較的容易であるらしく、実際プルトニウム燃料の輸送は、テロリストによる襲撃を警戒して厳戒体制で行われている。

社会構造の変革で脱原子力を

 以上のように原子力エネルギーには、その将来性は全く無いと断言しても良い。しかもその危険性及び現在も放射性廃棄物が蓄積していることを考えると、即刻廃止することが好ましい。しかしながら現実問題としては、それは困難であろう。日本は既にその発電のかなりの部分を原子力に依存しており(これはそうなるよう意図的に誘導されたのだが)、これを突然停止することは事実上は不可能であろう。しかしながら現状をこのまま継続していくのが好ましいはずがない。あるべく多くの原子炉を停止できるようにする必要がある。1つでも多くの原子炉が停止すれば、それだけ事故の確率も減少し、放射性廃棄物の排出量も減少する。

 そのためには、まず消費エネルギー量を減少させる必要がある。現代社会はエネルギーの垂れ流し社会であるといっても良いぐらいである。本当にこれだけ大量のエネルギーが必要なのか、きちんと考えてみる必要がある。特に大量のエネルギー消費が都会に集中するために、その廃熱で都会の気温が上昇し、クーラーの使用が増えてさらに気温が上昇するという悪循環が最近は見られる。これについては、首都機能の分散などの、集中の排除を行う必要がある。これが実現すれば、エネルギー消費の問題だけでなく、居住環境の問題などからも好ましい。

 またいくら省エネルギーを進めても、人間が使用するエネルギーが0になることはありえないのだから、代替エネルギーの開発も急ぐ必要があるだろう。例えば太陽エネルギーの開発などに、もっと本気で予算と人員を投入する必要がある。今までこれらの分野はほんの申しわけ程度の研究しかなされていなかったのが実態だ。(本気で研究しすぎて有望なエネルギー源が出できてしまうと、原子力の必要性が疑われることになるのを政府が恐れていたのだと考える。)もっとこれらの研究を進め、一日も早く有望なエネルギー資源を開発する必要がある。

 エネルギー消費量を減らす、エネルギー生産形態を変更する、この2点により1日でも早く脱原子力を図る必要があろう。繰り返すが、原子力は危険であり将来性もないものである。今ここで原子力を継続することは、核兵器製造でも目指すのではない限り何のメリットもないのである。

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行革するなら命懸けで

看板の付け替えに過ぎない「改革」

 関連企業の大赤字のために、グループの存続の危機に立たされた経営者がいた。そこで彼の打ち出した再建策とは、各関連会社の看板だけ付け替えて、1つの会社にすることだった。こんな改革しか行えなかったとしたら恐らく、その経営者は無能として更迭されるか、そうならなかったとしたら、そのグループは早晩倒産してしまうだろう。

 政府の行政改革会議による省庁再編案が現れてきた。最近の官僚の相次ぐ不祥事や、非効率な行政に対する不満の高まりに対して、政府として何らかの対処を余儀なくされたのであろう。しかしながら、ここで提出された案は、確かに省庁の数は減少するものの、結局は単なる統合の域を出ず、上記のような看板の付け替えに過ぎないとの感が強い。

許認可権限の縮小こそが必要

 言うまでもなく、真に行政改革の目玉となるべきは、中央省庁の巨大な許認可権限の整理縮小である。日本は中央省庁の許認可権限が強すぎるために、何を行うにも中央省庁のお伺いを立てる必要があり、煩雑極まりない。また一方ではこの制度は、新規参入者を排除して既得権者の利益を保護する方向にも働く。そこでこの権限を目的に、民間企業などが中央官僚に接近するため、そこに汚職や癒着が生まれる。またこの許認可権こそが中央官僚の権力であり、この権力を有するが故に「天下り」などのおいしい生活が保証されているのである。つまりこの中央省庁の許認可権の縮小なくしては、霞ヶ関の浄化はありえない。

 また権限の中央への集中は、地方の自由な発展を阻害している面が強い。現在は地方自治体が何かをしようとしても、いちいち中央にお伺いを立ててから行う必要がある。そのために即効性が損なわれ、しかも地域の実状に適していないことがなされることが多い。この点からも、権限の地方への委譲というのは、行政の効率化のためには必要不可欠である。

 しかしながら今回の改革案では、これらの姿勢は全く見られない。各省の境界が変化するだけで、中身は旧態依然のままになる可能性が高い。それどころか、省庁の数が減少することで、さらに巨大な権限を有する省庁が出現し、現在以上の腐敗と非効率が進行する恐れさえある。

財政と金融の分離及び公共事業の見直しが必須

 今回の案を個別に見ていった場合、問題点がいくつか存在する。

 まず、財政と金融の分離がなされず大蔵省が事実上の手付かずになったことは、最も大きな問題点であろう。大蔵省は国家の財布を握っている省庁であり、その権限は巨大で、まさに許認可権限の頂点に立っていると言ってよい。そしてその巨大な権限故に、最近も大蔵官僚の不祥事が相次いだ。また財政と金融が分離していないために、財政の状況に応じて金融政策が恣意的に運用され、その結果が例の「バブル」を生み出して、日本経済に大きなダメージを与えることとなった。このような大蔵省にメスを入れ、その権限を分散することなしには行政改革はありえない。

 また、現在では公共事業は、もはや国土及び財政の破壊にしか貢献していないとさえ思われる状況であるにもかかわらず、公共事業に関する省庁を2つも設置している。現在でも、建設省と農林水産省で同じような事業が同じ地域に重複するというような無駄が生じている例がある。今後は公共事業は大幅に整理し、真に必要な事業だけを選択していく必要があるのだが、この案ではそれは不可能ではないかとの懸念が隠せない。

急がれる真の行政改革

 このように今回の案は、あまり積極的に改革を志向しているとは思えない。しかもこれはまだ政府案に過ぎず、今後は与党内での調整や国会での審議を通過していくことになる。与党内には族議員と呼ばれる、官庁の利益と直結した議員が多いし、国会においても、官僚との癒着では自民党に負けず劣らずの新進党が存在する。これらの議員によって、今回の案がさらに骨抜きにされていくことは想像に難くない。

 現在の日本は、あらゆる社会的歪が限界に近づきつつあり、真の行政改革は急務である。行政改革のお題目を唱えるだけでなく、官僚の既得権益などに踏み込んだ大胆な改革の必要がある。橋本総理も行政改革を掲げるなら、ポーズだけでなく、これらの抵抗を排して命懸けで行う覚悟が必要である。もし自民党政権が、既得権の保護のみに汲々として、国の将来を投げ出すのであれば、我々国民は選挙で審判を下すしかない。

補足

 22日付け読売新聞はその社説において、信用秩序維持のための財政出動などのためには、財政と金融の一体化は当然であり、金融監督庁の新設や透明性の高いルールを導入することで弊害は除けるとし、大蔵省の権限の分散は「大蔵省憎し」という感情論だと一蹴している。

 しかしながらこの主張には、信用秩序維持という錦の御旗のもとに無制限に金融機関を保護した結果が、現在の金融不安につながっていると言うことに対する分析が全くない。また行政機関内での監査や自主ルールと言うものが本当に現在までまともに機能してきたか、と言う点に関する考察も全くなく、非常に浅薄な主張であると考える。今回の社説は、大蔵省の官僚が読めば泣いて喜ぶような主張であり、日本を代表する大新聞でさえ、権力に迎合することばかり考えていると、このような次元の低い主張を展開するのかと、ため息を禁じ得ない。

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広島・長崎の夏を忘れてはならぬ

日本人にとって忘れてはならぬ夏の思い出

 また日本に夏がやってきた。日本人には夏が来る度に忘れてはならないことがある。それは原爆の投下と敗戦のことだ。8月6日広島に、8月9日長崎に投下された原爆は数多くの死傷者を出し、未だにその後遺症に苦しむ者さえいる。また8月15日には、とうとう限界に達した日本が無条件降伏をし、長い血みどろの戦争がひとまず終了した。日本人の夏はこれらの犠牲者に対する鎮魂の心を忘れてはならない。

 広島・長崎への原爆の投下については、言うまでもなく許すべからざる大罪である。原爆投下は最初から、後方の民間人を標的とした大量虐殺が目的であり、戦争の常識から見ても卑劣な行為である。古来より戦争においては、戦場における兵員同士の殺し合いはともかくとして、後方の非戦闘員に対する殺戮行為は犯罪とされていた(もっともだからといって後方が安全であったというわけではないが)。それが兵器の発達によって、前線を越えた後方の攻撃が可能となり、非戦闘員の被害が飛躍的に増加していったのが近代戦の特徴であり、その最たるものが原爆の投下である。

 この原爆の投下に対するアメリカの言い分は「戦争の犠牲を減らすためには仕方なかった」であり、未だに全く反省の様子もないどころか、現在も核兵器の開発を続けており、当然戦時にはこの核兵器が敵国の民間人の大量虐殺のために使われるのである。アメリカの原爆投下の真の理由は、開発済みの核兵器の実地テスト及びソ連に対する牽制であったことはかなり知られており、そのことはアメリカ軍が広島・長崎の被害についてつぶさに調査していたこと、戦後脅威を感じたソ連が慌てて核兵器開発を行ったことなどからも証明される。

 唯一の被爆国である日本としては、核兵器の非人道性・残虐性を世界に訴えて核廃絶を目指すことは責務であり、この事こそがあの夏広島・長崎で散った命に対する鎮魂である。

忘れてはならない加害者としての日本

 もう一つ、先の戦争について日本人が忘れてはならないことは、加害者としての側面である。日本の中国・東南アジア等に対する侵略行為で犠牲になった人々の数は多い。また日本軍は、中国における南京大虐殺等、非戦闘員を含めた虐殺行為を多数行っている。また現地女性を従軍慰安婦として性奴隷にした件も忘れてはならぬ。

 日本人として、これらの罪について考えていくことは重く苦しいことである。しかしながら、かつての同胞が行ったこれらの罪をはっきりと自覚して、2度とこのような行為を繰り返さない決意を示していくことなしでは、日本の国が世界から真に信用されることはありえない。

 先の原爆の被害者などの間でも、被爆者としての訴えを世界に行うためには、加害者としての日本の責任についても言及することは避けられないとの考えがある。実際原爆資料館に日本の戦争での加害行為についての展示も行われたりしている。彼ら原爆の被害者のほとんどは、自ら中国に出かけて残虐行為を行ったわけではない。それにも関わらずあえて日本の加害責任について言及することにより、戦争のすべてを明らかにし、世界が日本の声に真摯に耳を傾けるようにしようとしているのである。このような日本人として痛みを伴う行為をあえてとるところに、彼らの広島・長崎の惨劇を世界中に伝えなければならないとの想いの強さがうかがえる。

 実際、日本は戦争の被害者と加害者の両方の側面を持っている。先の戦争は、俗な例えで恐縮だが、金に困って、弱そうな奴を見つけてカツアゲしたら、恐いお兄さんが出てきて半殺しにされた挙げ句に逆に金を取られたというような面がある。それだけに日本が被害者としての側面ばかり強調しても、世界は耳を傾けることはないだろう。つまり原爆の悲惨さを伝えるには、先の広島・長崎での動きは正しいことであると言えるのである。

戦争犠牲者に唾するに等しい歴史修正主義者

 しかしどうしたことか、先のような真に日本のことを思う立派な行為に対して、冷水を浴びせようとする者たちが存在する。歴史修正主義者と呼ばれる保守派の一部が、戦争の加害責任について言及することは広島・長崎を免罪することになるという的外れの批判を展開し、原爆資料館での日本の加害行為についての展示などに反対をしている。

 彼らの一部は、南京大虐殺や従軍慰安婦についての教科書への記載を「自虐的」であるとして、削除を求めている。彼らが著書などで繰り広げている主張は極めて単純であり、要するに「先の大戦で日本はないも悪いことはしていない。日本は中国で虐殺行為など行ったことはない。日本は正しい戦争をおこなったのだ。」ということであり、その主張に都合のよい資料(軍内部での資料等が多いようである)だけを引っ張ってきて補強している。これらの主張の中身についてはほとんど3歳児の駄々に等しいレベルであり、考慮の必要さえ感じないが、真に問題なのは、このような主張が未だ公になされ、しかもその背後に権力中枢の意向が見え隠れしていることである。実際彼らと同レベルの主張を行った大臣などもおり、その根の深さがうかがえる。

 先の戦争での日本の加害行為を否定する者たちにはいくつかのタイプがいる。

1.先の戦争で身内や戦友等が亡くなっており、彼らが亡くなったのが国を守る戦のためならともかく、侵略戦争のためならあまりに死者が浮かばれない、死者の名誉を汚したくない、と考える者たち。

2.内地で、空襲にあって家を焼かれたり、身内をなくしたり等の戦争の被害者としての側面は散々体験しているが、戦争の加害行為などは聞いたことも見たこともない者。

3.戦前に受けた洗脳教育が未だに抜けておらず、大東亜共栄圏などの日本の大義名分を未だに本気で信じている者。

4.日本が行ったことについては十分すぎるぐらい知っている上で、この事を一般大衆に知らしめるのは自己の利益のために好ましくないと考える者。

5.戦後生まれで戦争のことは全く知らず、自分がしたわけではない戦争のことで、いつまでも中国や朝鮮などにウダウダ言われるのはかなわないと思っている者。

 大体権力中枢にいる連中は4が中心で、一部3を含んでいる。この連中が巧みに1.2.3の連中を前面に立てて主張させ、5の連中をのせているといったところであろう。当然彼らの目的は、戦争を賛美し、来るべき将来に国民を戦場にかりだしやすくすることである。

 歴史修正主義者と言われる連中は、日本人の誇りや尊厳などという言葉を持ち出すことで、戦争での加害責任を否定する行為を正当化するが、他ならぬこのような行為自身が、日本を「自己の罪について反省どころか、それを認めることさえできない国」と世界に思わせることになり、日本の尊厳を大いに傷つけ国益さえ損ねていることに気づいていない。また戦争のすべてを明らかにした上で、その犠牲について検討していってこそ、先の大戦での犠牲者達も浮かばれると思うが、彼らのようにそれを否定し、挙げ句は死者達を戦争賛美に利用しようとする行為は、戦争犠牲者達に対して唾するにも等しい行為と考える。

広島・長崎の犠牲者を無駄にしないために

 しかし幸いにして未だ彼らは少数派であり、実際長崎市民のアンケートなどでも、原爆資料館への戦争の加害展示についても賛成派が過半数である。ただし先のような歴史修正主義者達は権力と結びついているだけに、その声が大きく。それ故に大きな影響力を持つことになる可能性がある。特に先の大戦のことについてよく知らない若者への悪影響が心配される。

 また南京大虐殺や従軍慰安婦などの真相を究明する際も、脅迫などにも関わらずに真実を証言した多くの勇気ある証人たちの存在が大きかったのだが、彼らのほとんどは高齢で、もう既に亡くなった方々も多い。今後このような体験者たちが消えていくことで、権力側による戦争賛美工作はより容易になることが予想される。

 また最近は一部マスコミを動員して、「国際貢献」を旗印に(最近は在外邦人保護なども掲げている)、憲法を改訂して軍隊の海外派遣等を自由に行えるようにとの主張も展開させている。実際最近も自衛隊の輸送機が橋本総理の一存で、突然海外に派遣された。この結果としては全く無意味に終わった行為は、次の機会に対する伏線であることは明らかで、現にもっと迅速に(要するに自由に)対応できるようにとの主張をさせ、軍隊に対する規制をはずそうともくろんでいる。(私個人としては、重装備の軍隊が海外に飛んでいくことより、災害時などに非武装の救助隊が早急に現地に飛ぶほうがよほど国際貢献だと思うが、このことについてはまた改めて論じさせてもらう。)

 このような中、我々のつとめは、戦争の悲惨さの真実を日本の加害行為・被害行為のすべてを含めて語り伝え、核兵器の廃絶を第1歩として、世界から戦争をなくすように訴え、働きかけ続けていくことである。そうすることによって初めて、広島・長崎を含むあの戦争での犠牲者たちの血を無駄にせずにすむのである。一部権力者の利益のために多くの民衆が血を流すような、悲しい歴史はもう2度と繰り返してはいけないのである。

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教育の荒廃とやさしさを失くした社会

青少年に進む心の荒廃

 神戸で起こった中学生による残虐な事件に驚愕した人も多いだろう。しかしこの事件は、ある特殊な児童によって起こされた特殊な事件として扱って良いものではないと考える。この事件の深層には、現在の青少年が抱えている多くの問題が浮き彫りになっているような気がする。

 容疑者の少年が、以前から猫殺しなどの残虐行為を行っていたという事が報道されている。この1点を取り上げて、この容疑者の少年がことさら残酷な性向を持った者で、その残虐性がホラービデオなどによって加速されたというような分析を行っているマスコミ報道が多いが、今回の事件をただ単にこの少年の残虐性を原因と考えるだけでは、この事件が明らかにした本質的問題を見失う事になる。実際猫殺しのような残虐行為は、何もこの少年に限った事ではない。最近は小学校で飼っていたニワトリが殺されたりなどという事がしょっちゅうで、今さらニュースにもならないぐらいである。また子供だけでなく大人でも、飼っている犬を野良猫などにけしかけて殺させて楽しんでいる者がいるなどという話を聞いた事がある。

 昔から子供はある種の無邪気な残酷さを持っているものだ。例えば蛙に爆竹をくわえさせてバラバラにするなどという事は、結構昔から子供によってよくされていることだ。何を隠そう実は私も、小学生の頃はレンズでアリを焼いた事がある。思い返してみれば、何らかのこのような残酷行為を行った覚えのある者は結構多いのではないか。これは大人になるための一種の通過儀礼のようなもので、そのうちにやがて残酷とはどういう事か、生きているとはどういう意味か、何はしても良い事で何はするべきでない事かを自然に学び、そのうちにこのような行為をする事はなくなっていくのである。そういう風に考えると、最近の青少年はこのような事を学ぶ間がなかったのではないかと考えられる。元来10歳以下ぐらいまででするべき事を、中学生や高校生ぐらいになってするので、その「いたずら」の規模も体の成長に応じて大規模になってしまい、「いたずら」の範囲を超えた社会問題になってしまうのではないかと考える。

 最近の青少年を見ている場合、一番切実に感じるのは、他者の痛みに対する共感の薄さである。他者の痛みというものが想像できないために、平気で身体的・精神的暴力を振るえるのである。今回の事件でも、犯行声明文の中で被害者の事を「汚い野菜」といった表現をしている。この言葉の中には相手の生命に対する感覚が見事に欠落している。このために「殺す」ではなく「壊す」という表現になってしまうのである。

教育を破壊した競争原理の導入

 なぜ青少年がここまで他人に対する思いやりを失くしてしまったのか。この現象の奥には現代の教育制度や社会機構の根本的問題が隠れている。現在の教育制度は基本的には、東大を頂点とする学歴ピラミッドの頂上をいかに目指すかという事を目的としている。そのための基本原理は競争であり、競争をさせた上で選抜をすることになっている。しかもこの競争は結果がすべてであって、その過程は重要視されない。そうなれば当然勝つためには手段を選ばないという事になり、場合によっては他人の足を引っ張る事さえよしとされる。

 結果のみを重視した競争がどういう現象を巻起こすかは、現代のオリンピックを見れば明らかである。昔のような「参加する事に意義がある」オリンピックではなく、現代のオリンピックはメダルが即ち栄光や富と直結してくる。こうなってくるとドーピングなどの不正行為が日常化してきて、スポーツマンシップなどという掛け声とは裏腹の醜い状況が起こってきている。

 当然、受験戦争に勝ち残るために特化させられ子供たちというのも、その心のどこかが歪になる。ある東大合格者を多く出す事で有名な進学塾で一つの事件があった。その日はたまたま授業が遅れて、授業が終わって教室から出ようとする生徒達と、次の授業のために教室に入ろうとする生徒達が階段で出くわしてしまった。ここで別に互いに道を譲り合って順番に出入りすれば何の事件も起こらなかったのだが、何と彼らは我先にと押し合いをした挙げ句に、将棋倒しになって多くの怪我人を出してしまったのだ。階段で道を譲るという極基本的な事を知らなかった彼らを笑うのはたやすい。しかしながら彼らは日頃からの繰り返し吹き込まれていた「他人を押しのけてでも勝て」という教えを実践したのに過ぎないのだ。真に恐るべきは、将来この中からエリートとして官僚になり、日本を動かしていく人物が現れるのであろうという事実である。競争原理に忠実に従うと、弱者に対する配慮など全く無用であるし、他人に対する共感など邪魔物以外の何者でもない。このような思想で染まった者が人の上に立つと、当然ながら弱者を平気で切り捨てるし、自らがいくら不正を働いても、それは勝者の当然の権利として反省する事はない。実際にこの事はこの国の現在の、弱者切り捨て路線(阪神大震災の被災者に対して国が何をしたかを見れば明らかだろう)、相次ぐ官僚の不正として現れている。

進路の多様化と脱偏差値社会を

 また幼い頃から「お勉強」を強制されて十分に遊んだ経験のないことは、社会生活を営む上で致命傷になる。子供たちは自然の中で同年代の子供たちと遊ぶ事で、社会生活の何たるか(わがままばかりでは誰も遊んでくれなくなる。人と付き合うためにはルールというものが必要だ。自分がされて嫌な事は人にするべきでないなど)を学び、感受性(傷つけば痛い、生き物はすべて生きている。自分の痛みは他人も同じように感じるのだ)を身につけていくのである。この経験を十分に積んでいないものは、どうしても自分中心の世界観に陥り、自らの欲求のみを実現しようとするようになるし、それが実現されない時は癇癪を起こす(ムシャクシャしたから人を殺したらスッキリすると思った、なんとなく気に入らなかったから刺した)。

 このような幼児的自我しか確立していない者に対しても、競争を伴う社会では並大抵でないストレスが強制される。そのため結果として、ストレスのはけ口を求めて、強いものが弱いものをいじめていくという一種の連鎖が起こる。また内向的性質を持った一部の者は、現実世界から逃避して空想の世界に入り込んでしまったり、自らの命を絶ってしまったりもする。

 このような歪んだ構造を変えるには、社会の人物評価基準になっている偏差値信仰を打破する必要がある。最近この事を修正すべく、評価基準にクラブ活動などの項目を加えようという動きもある。しかしながらこのような修正を行っても、根本的な学歴社会が改革されてない以上、クラブに名前だけ入部したり、点数稼ぎのために生徒会長に立候補するなどの事が起こるだけである。学歴社会の根本を変革する必要があるのだ。偏差値というのは確かにその人物の記憶力等の一部の能力を測る尺度にはなる。しかしそもそもその一つの尺度のみでその人物のすべてを測ろうとする事が無理がある。また実際に世の中が偏差値天才ばかりでは動かないのも事実なのである。生物が一つの能力のみどんどん特化していく事を定向進化という。極限まで定向進化してしまった生物は環境の激変に弱く、容易に絶滅する(恐竜の絶滅の原因としてもあげられている)。現在の日本はあまりに定向進化し過ぎてしまった気がする。実際にそのあたりが産業の空洞化、熟練技術者の不足として現れている。 

 偏差値信仰打破には、事実上東大卒業者のみで占められているに等しい中央省庁の人事の選抜を多様化する必要がある。また権限を地方に委譲する事で、中央への集中を防ぐ事が重要となろう。さらに企業側にも、もっと選抜の多様化を求めたい。各企業の人事部担当者に問う、あなたの会社では必ずしも一流大学卒業生のみがすべて優秀な社員となっていますか? 現実にはそうでない例が非常に多いのではないかと思う。あなたは学歴にこだわるあまり、有為の人材をむざむざ見逃しているのではないですかと忠告しておきたい。

 また我々自身の考え方も変革していく必要がある。職業に上下はない、すべてこの世の中で必要とされているものなのだ。役人もサラリーマンも職人も農民もすべて自らの職業に誇りを持って欲しい。その仕事は社会から必要とされているものだと考え、変に優越感を持ったり卑下したりしないで欲しい。

 すべての人々が真に自らの能力に合った職業を選べる事によって、社会は活力を持つし、無意味で冷酷な競争もなくなる。また互いの仕事を尊重し合う事で、変な特権意識や、劣等感に基づく不満もなくなる。そのことは社会全体のストレスを和らげ、他人を思いやる「やさしい社会」を確立する第1歩だと考える。

 子供は大人を映す鏡である。大人がまともになれば、自ずと子供もまともになってくるのである。大人達は、今の子供たちがおかしいと感じるなら、一度自らを振り返って欲しい。子供たちは、今の大人達がおかしいと思うなら、自らが将来の世の中を変革していく気概を持って欲しい。

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遺伝子組み換え食品は安全か?

 

薔薇色?の遺伝子組み替え技術

 遺伝子組み換え作物の輸入が認可された。今回輸入される遺伝子組み換え食品は、大豆・ナタネ・トウモロコシ・ジャガイモなどである。これらは主に加工品の原料として輸入され、従来の作物と同様に使用されることとなる。まず外食産業などで利用されるだろうが、従来作物と区別する必要がないとされているので、一般市場や学校給食などにも現れるだろう。

 ある生物の遺伝子に、遺伝子組み換え技術で他の生物の遺伝子を加える。そうすることによって、今まで存在しなかった生物を作り出す、これが遺伝子組み換え技術である。この技術を農業に利用すれば、今までよりもはるかに収量の多い作物、腐りにくいトマト、害虫のつきにくい大豆などの新しい作物を作り出すことができる。例えば植物に動物の遺伝子を導入するなど、従来の品種改良では越えることのできなかった壁も越えることができるのがこの技術の特徴である。また今までの品種改良では何世代も経過させる必要があったため非常に時間もかかる上に、狙った特性を確実に導入できるという保証はなかった(例えば、収量の多い作物とおいしい作物を組み合わせて、おいしくて収量の多い作物を作ろうとしても、逆のまずくて収量の少ない作物ができることもあった)。しかしながら遺伝子組み換えでは、組み込む遺伝子の性質がわかっていれば、その性質を確実に導入することができる。こうしてみると、まさに科学の発展による薔薇色の新技術のように見える。しかしながらこの技術はまだ大きな問題を含んでいるのだ。

非常に危うい安全基準

 遺伝組み換え作物の安全性を認可するに当たって、厚生省は「実質的等価性」という基準を導入した。つまり今回輸入する大豆も、基本的には同じ大豆であり、また導入した遺伝子も毒性を導入するための遺伝子でないから、従来の大豆が安全であると審査されている以上、遺伝子組み換え大豆も安全であるという判断である。

 しかしながらこの基準は非常に問題が多い。例えば、新規に導入した遺伝子と大豆に従来から存在する遺伝子との相乗効果によって、全く予測しなかった特性が現れる可能性を考慮していない。現在の人間の遺伝子に対する知識というのは、まだ完全とは程遠いもので、ある遺伝子同士の組み合わせによる効果というのは全くブラックボックスと言っていいにもかかわらずなのである。

 しかも安全性審査に関わるデータについては、ほとんどを輸出側のメーカーに頼っている。遺伝子組み換え作物に莫大な投資を行ってきたメーカーが、少々問題のあるデータが出たからといって、果たしてそれを本当に公開するであろうか。ましてや厚生省は、薬害エイズ問題でもわかるように、非常にメーカーに対して「理解のある」お役所である。

 さらに遺伝子組み換え技術を抜きに考えても、今回輸入される大豆は非常に問題の多いものである。今回輸入される大豆の特徴は、害虫に対する抵抗性を持っているということである。これは大豆内に農薬成分を製造する遺伝子を導入しているため、これを食べた害虫は成長を阻害され死んでしまうからである。現在作物に対して散布される農薬が食物アレルギーの原因として疑われているが、この大豆は最初から農薬成分を持っているわけであり、我々は大豆と共に農薬を確実に摂取することになるのである。それだけに全く予測できないアレルギーなどの発生の可能性が非常に高いといえる。

生態系を破壊する遺伝子組み換え作物

 遺伝子組み換え作物は、最初は食品として輸入されるが、これからは日本の農家でも農作物として生産されることになると考えられる。しかしながらこのことが、非常な危険となる可能性がある。

 遺伝子組み換えによって作られた作物は、当然今までに自然界に全く存在しないものである。品種改良によって作られた植物も自然界に存在しないものだが、主に交配によって作られるものであるので、自然界でも生成する可能性がある雑種である。これに対して遺伝子組み換え作物は、自然界では絶対に生成する可能性のない新種である。それだけにこの新種が生態系に対してどんな影響を与えるかは、全く予測不可能なのである。

 従来生態系中に存在しなかった新種が、従来生態系に劇的な影響与える例は多い。例えばブラックバスは日本の生態系中には存在しなかった淡水魚であるが、これが日本の生態系中に放たれた途端に、日本の生態系中で一気に繁殖し、鮎などの日本の従来種の存在に対する脅威となってしまった。ましてや遺伝子組み換え作物はこの地球上に元来存在しなかった種である。それだけに地球全体規模の生態系に回復不能の変化を加える可能性は高い。

 また一部のウィルスなどが遺伝子の運搬を行うことが知られており、遺伝子組み換え作物に導入した性質が付近の雑草などに伝播する可能性も指摘されている。実際に除草剤耐性を加えた作物を栽培していた周辺では、除草剤耐性を持った雑草が現れたという事実もあるらしい。このように遺伝子組み換え作物が広く栽培されることで、従来の除草剤を使用できないスーパー雑草が現れ、従来の農業さえ不可能になる可能性があるのである。

一部の企業による食品支配の危険性

 上記のようなスーパー雑草が現れた場合、企業側としては遺伝子操作でさらにこれに対抗できる新種を繰り出すこととなろう。これは現在の抗生物質と耐性菌との関係に似ており、この勝負はすでに人類側の敗北が見えてきている。人類側がこの勝負に敗北したとき、人類は食料という生存の根本を一気に失う可能性があるのだ。

 また遺伝子組み換え作物の栽培は、特定の企業によって開発された種と農薬の組み合わせによって行われるので、食品の栽培が一部の企業に完全に握られることとなる。そうなれば、それでなくても利益率が低いといわれている農業の、利益の大半をその企業に持っていかれることになり、農業の荒廃は更に進む。

 アメリカは以前から、食料を戦略物資として扱っており、米ソ冷戦時代には幾度もソ連に対する農作物輸出禁止を行っている。このことから今後日本が何らかのかたちでアメリカの機嫌を損ねたとき、アメリカがこれを日本に対して行う可能性は否定できない。現状の穀物自給率ではこうなった時には、日本は壊滅的状況になるだろうが、まだ現在の農耕地を総動員して穀物自給率をあげていくことは全く不可能ではない。しかしながら、上記のようなスーパー雑草の登場で従来農業が不可能になってからでは、これさえできなくなるのである。つまり食料を一部の企業に握られるということは、国全体がその企業や国に隷属することに等しくなるのである。

遺伝子組み換え作物の表示義務を

 遺伝組み換え作物について、厚生省は表示を義務づけないという。つまり従来作物と全く区別しないということである。しかしながら今まで述べたような危険性が存在する以上、消費者には遺伝子組み換え作物を拒否する権利がある。それを真っ向から否定すること自体、何か後ろめたいことが存在するのではとかんぐってしまう。

 最近食品添加物は表示を義務づけられるようになった(まだまだ不十分ではあるが)。それと同様の表示を遺伝子組み換え作物に対して行うことは、物理的に可能なはずだ。なぜたかがその程度のことができないのであろうか。アメリカの圧力・食品業界の思惑・企業と役人の癒着、そういった図式がこの問題の背景にも見え隠れする。

 「安全性なんかどうでもいいんだ。安くて奇麗な食品が一番。私は科学もアメリカも信用しているから、別に遺伝子組み換え作物でも大歓迎」というなら、それも一つの選択肢だろう。しかしながらそういった選択を万人に強制するのは、一種の犯罪行為である。何も国中で遺伝子組み換え作物の安全性テストのモルモットとなる必要はない。それを否定する権利は認めるべきである。

この際農業について考え直す機会に

 都会人は特に、農業について一度考え直して欲しい。農作物というものを工業製品のように考えていなかったか。一度農家の人が無農薬で育てた野菜を食べてみて欲しい(無農薬野菜というのは実はそう特別なものではないのだ、農薬の危険性を熟知している農家の人は、自分達の食用の作物には絶対と言っていいほど農薬を使わないのだ)。あなたの舌がファーストフードなどで完全に破壊されていなければ、その違いに気づくはずだ。人間にとっての食料の基本とは、近くで取れたものを近くで食べるということだ。わざわざ食品を地球の裏側から運んでくること事態に無理があるのだ。無理があるからこそ、腐らないトマトや虫のつかない大豆を作る必要があるのだ。一度そのことについてじっくり考えて欲しい。

 

補足

  私が農業の現状について疑問を感じたのは、ある事情で私の家族が都会を離れて、田舎で過ごすようになってからだ。その時ご近所の方にいただいたほうれん草やゴボウなどは、私の常識を覆すものだった(ほうれん草はもっと硬いもので、ゴボウはもっとアクが強いものだと思っていた)。話を聞いていると、これらは自家消費用にほとんど無農薬に近い状態で栽培したものだった。その方がおっしゃるには「市場に出すものは丹念に薬を撒いて、奇麗んだけど恐くて」とのことであり、続けて「だけどそうしないと買ってもらえないから」とも言われていた。我々は一体今何を食べさせられているのかについてもっと考える必要がある。もう既に国家ぐるみの実験のモルモットにされているかもしれないのだ。

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御嵩町住民投票と日本のゴミ問題

 

産廃問題は地方だけの問題ではない

 「産業廃棄物処分場はいらない」これが、過疎の山村の住民が下した判断だった。産廃処分場建設の是非をめぐっての、御嵩町住民投票は建設反対派が8割を占めるという結果となった。この住民の意志は日本のゴミ問題に対して大きな不信感をなげかけている。

 御嵩町に限らず、最近産業廃棄物処分場での住民の反対運動が増えている。今までこのような廃棄物は、大抵人口の少ない山村などに押しつけて、そのかわり地元にはそれなりの金銭を支払うという形で片づけてきた。しかし一方的によそのゴミを押しつけられることに対する住民不満が、とうとう限界に来たということだろう。ゴミを出している側の都会人は、よく「仕方ない」という言い方をするが、「仕方ない」で自分の家の庭先によそのゴミを積み上げられたら果たして納得できるだろうか。

 またゴミ処分場に関しての問題は、実は都会人にも非常に密接に関係あることなのだ。これらの処分場が建設されるのは、大抵山間地であるが、これらの地は往々にして貴重な水源となっている。水源の土地が汚染されれば、そのことはすなわち我々の水道水の安全性にはねかえってくるのである。

産廃問題と日本建築文化

 現在、産業廃棄物の中で大きな割合を占めるものの一つが、建築廃材である。昔の日本においては、建築の思想はリサイクルであった。木造建築物は、解体してその部品を再利用することが比較的容易なのだ。実際に、古い木造建築物には、再利用された柱などが使われていることがある。つまり一定の期間ごとに、建て替えもしくはこれに準ずる大修理を行うことを前提としているのである。

 これに対して欧州などの石造建築の多い地域の思想は、堅固に建設し修復しつつ長年使うという思想である。このような思想のない日本に、コンクリートという再利用困難な建築物が大量に流入してきたのは悲劇であった。結局毎年莫大な量の建築廃棄物が排出されることとなってしまった。この点に関しては、コンクリートから木造に時代を逆行させることが不可能である以上、日本の建築物に対する考え方を変更する必要に迫られていると言える。

ゴミ問題に対する都会人の意識の低さ

 しかしゴミ問題は何も産業廃棄物に限った話ではない。家庭の一般ゴミの問題も非常に大きいのである。最近一般ゴミの焼却施設の処理能力が追いつかないとか、焼却処理してもその焼却灰の処分先さえないとかが大きな問題となっている。つまり都会のゴミの量が異常に多すぎるのである。最近ゴミの減量が声高に叫ばれ始めたが、これに対する都会人の意識は一般的に低い。ゴミの減量どころか、分別回収さえ徹底されていない地域もある。

 都会においてゴミは、袋に入れて決められた日に出しておけば、無料で処分される。このようにゴミが我々の目に見えないところで処分されるのが、とかくゴミに対して無責任になりがちな原因の一つと考えられる。分別しなくても、量が多くても、自分が困るわけではないという意識が働いてしまうからだ。しかしこういった態度によって生じる結果は、処理しきれなくなって溢れ出すごみの山、可燃物といっしょに燃やされたプラスチックによって生成したダイオキシンなどの形になって、結局我々自身に返ってくるのである。

 地方においては可燃ゴミは大抵自焼却するので、当然のこととして、分別に対する意識は変わってくる。自家焼却のゴミにプラスチックや缶などが混ざっていると燃やせないからだ。都会でもこうすれば良いのだが、住環境の違いで不可能である。せめて町単位ぐらいで自分たちのゴミを処分すればよいのだが、プライバシーの問題等の難問がある。

経済効率優先により深刻化するゴミ問題

 江戸時代における日本は優れたリサイクル国家であった。日常のありとあらゆるもの、かまどの灰までが何らかの形でリサイクルされていたのである。また住民の糞尿でさえ、優れた農業用肥料であり、昔の大家は借家人の糞尿の所有権を有していたほどである。このような徹底したリサイクル社会の伝統も、近年の経済効率優先思想のもと完全に駆逐されてしまい、今や大量消費・大量廃棄国家になってしまった。

 資本主義経済の原理からいくと、市場は常に回転している必要がある。このためには次々と新しい商品を提供して、消費させていく必要があり、当然のこととして、古い製品が大量にゴミとして廃棄されることになるのである。地球が人類にとって無限に思われた頃なら、この方法でも問題はなかったのだが、今日ではこのやり方は、地球の環境・資源問題の観点から限界が見えている。今や人類の経済規模に比べて地球は小さすぎるのである。日本もその原点に戻ってリサイクルを検討する必要に迫られているのである。

将来に向かって脱大量消費社会を

 最近自動車業界がやっと本気でリサイクルのことを検討し始めたり、家電業界に製品の回収を義務づけようとする動きが現れるなど、企業側もやっと重い腰を上げ始めている。今後企業の責任としては、資源として再利用のしやすい製品・末永く使える製品を製造することが要求されよう。このように、ゴミ問題を根本的に解決するためには、現在の日本の経済・文化等に劇的変化をもたらす必要があるのである。

 我々も家庭レベルでゴミ問題を一度真剣に考える必要があろう。実際にドイツなどでは、過剰包装を廃止する等の合理的思想や、徹底した分別によるリサイクル等で、家庭ゴミを劇的に減少させた実績がある。我々日本人としても大いに参考にするべきであろう。我々一人一人の行動が日本の将来、我々の子孫の住環境に大いに関わってくるのである。

 ごみを捨てるのはただではない。それは我々の環境を捨てているに等しいのだ。またゴミとして捨てればただのゴミだが、リサイクルすれば立派な資源となるのである。

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諫早湾干拓と利権政治

 

 諫早湾干拓は国による環境テロ

 諫早湾にギロチンが振り下ろされてから、はや2ヶ月近く経つ。現在も干潟生物たちは生存の危機にさらされている。諫早湾は世界的にも珍しい大規模な干潟で、その環境故に独特の干潟生態系が完成しており、それを目当てに飛来する海鳥なども含めて、地域生態系の核となっている。そのような貴重な天然資源に対して、国の行った政策は、堤防建設による湾締め切りでの干潟生物根絶政策であり、世界的にも恥ずべき暴挙である。

 工事に反対しているグループも、何も干拓事業を全面否定しているわけではない。今回のような大規模干拓ではなく、もっと小規模の干拓を時間をかけて行えば、それと共に干潟も沖に進出していくので、生態系に致命的な打撃を与えずにすむと主張している。しかしながら国はあくまで湾締め切りによる大規模干拓を目指しており、このたび前述の湾締め切りを行ったのである。しかも全国で盛り上がりつつある抗議にも一切耳を貸さず、なおも工事の継続を狙っている。しかも実はもともと工事を続行するとしても、この段階で湾を締め切るべき理由はなかった(つまり湾を締め切らなくても工事を継続できる)のである。こうなれば今回の行為は、まさに干潟生物の絶滅のみを目的としていると言える。つまり「もう諫早湾には守るべき生物などいませんよ。だから我々が何をしても良いでしょう」と言える状況にすることが目標なのだと考えられる。もはやこれは国家による環境テロと呼んでもよいであろう。

 工事の目的は利益誘導にあり

 そもそも今回の干拓事業の目的自身がはっきりしない。当初は米増産のための農地造成であったのだが、昨今の米余り状況の中で無意味になり、次は牧畜用地として使用することを考えたが、採算性の面から挫折、そこで無理矢理ひねり出した目的というのが、防災のためというわけである。このように口実を変えながらひたすら工事を続けることだけを目的として今日に至ったのである。このため防災という観点においては役に立たないという、専門家の指摘もある。実際の計画でも大規模水害時には対応不可なので、その際には干拓地内に水を入れることになっているとのことである。

 なぜこのようにまでして、単なる税金の無駄使いとも思える工事を続ける必要があるのか。実はこの税金の無駄遣いというのが一番大事な点である。このような無駄な公共事業の代金は、当然ゼネコンや地元の土建業者を潤わせることになる。その見返りは、直接的には政治家に対する政治献金という形の公の賄賂として返ってくるし、間接的には組織を動員しての選挙協力という形で現れる。

 「地元の悲願」の陰に隠れる利権構造

 全国からの抗議に対する反論としては、よく「地元の悲願」という言葉が持ち出される。つまり、地元の事情も知らないよそ者が口を出すなと言うことである。しかしながら、実際に「地元の悲願」という言葉を口にする連中は、自治体の長などの政治家や、いわゆる地元のボスと言われる者たちばかりであり、こういう連中は全国どこでも大抵土建業者と結びついている(時には自治体の長自身が、まさに土建業者の親玉だったりすることも日常茶飯事)。その陰に隠れて本当の地元の声というのは聞こえてこない。結局この工事によって潤う者たちのみが声高に「地元の悲願」を訴えているのであり、「地元の悲願」というよりは「我らの悲願」と言い換えてくれたほうがすっきりする。

 諫早だけではない愚行

 しかしこのようなことは、何も諫早湾に限った話ではない。例えばつい最近でも、島根県の宍道湖の干拓に絡んで、中海を淡水化するという件が問題になったことがある。中海はいわゆる汽水湖であり、それ故に日本のシジミの大部分はこの宍道湖水系で得られている。しかしながら中海を淡水化することで、シジミが全滅するのが確実となったのである。この無謀な計画に対しては全国から抗議の声が殺到し、最近「凍結」ということになった(中止でない点に注意)。しかしながらこのような大規模環境破壊の例は全国津々浦々枚挙に暇はないほどなのである。

 もし今回まんまと諫早湾での暴挙が成功すれば、中海の件も蒸し返されるのは想像に難くない。実際「工事再開は地元の悲願」との陳情が現時点でも地元土建業者を中心に行われているのである。

 環境破壊中心の政治からの脱却を

 このような政治家と土建業者の癒着による利権構造は、田中角栄の時代に確立され、その後も自民党一党支配下で強化されていき、今日に至っているのである。その結果日本中の自然が破壊され、我々が愛すべき山河は大きく変貌してしまった。もはや日本の自然は限界に近づきつつあるのである。しかも巨大な公共事業費は国家財政に大きな負担を与え、国が元来注力すべき福祉分野などの予算を圧迫することになっているのである。このようにいまや我々国民を二重三重に苦しめる原因となりつつあるのである。21世紀を展望したとき、日本の土建依存体質からの脱却は、アメリカの軍需依存体質からの脱却と並んで西側国家全体でも大きな課題となるであろう。

 これ以上環境破壊を許してはならない。環境を破壊するのは簡単だ。しかしそれを回復することは非常に困難か、時には完全に不可能なのである。

 

用語説明

汽水湖…海と部分的につながるなどの理由で、海水と淡水が混ざった湖。その性質上独自の生態系を形成しやすい。 本文に戻る

 

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都会の脱アスファルト化を

 

 アスファルト舗装は人のためではない

 都会の中を歩いていて、道路工事などでアスファルトがめくられ土が出ているのを見ると、時々はっとする時がある。我々は無意識のうちに、都会の道路はアスファルトであるのが当然であると思い込んでおり、その下に土が存在しているのを忘れているのではないか。もっと言えば、都会の下はすべてアスファルトの固まりであるかのような錯覚に陥っていないかということである。

 アスファルト舗装が始まったのは、そう昔のことではない。都会がここまで徹底してアスファルト化されたのは、戦後のことである。しかしそもそも道路のアスファルト化は車のためであって、歩行者のためではない。

 以前私が山歩きをした時に、最も辛かったのは山から駅前に下りてきた時だった。アスファルトの路面の硬さが、疲れきった足の裏にまともに襲ってきたのである。さっきまでの土の山道を歩いてきた時には足の痛みは感じなかったのだが、アスファルトの路面になった途端、あまりの足の痛みにとても歩けなくなってしまった。

 人間とは元来森林地帯から草原地帯のあたりで進化してきた生物であり、当然のことであるが、岩場を歩いてきた生物ではない。そういった意味では、人間にとってアスファルトの路面は硬すぎるのである。我々現代人は、人類史上もっとも硬い路面を歩行しているとも言える。私自身日頃は、このアスファルトの硬さというものをそれほど意識していなかったのだが、足が極端に疲れていた故にこれを思い知らされたのである。

 アスファルト舗装で人類が退化する?

 人類の進化の過程における特徴的形態変化の一つは、頭蓋骨の変形に伴う脳の容積拡大である。脳が大きくなるにつれて、頭蓋骨が前にせり出してきて、額が出てきたのである。この時にもう一つ必要であったのは、前にせり出してきた脳への衝撃を減らすために、あごが小型化して後退することであった。つまり脳とはかように精密なものであり、元来あまり衝撃を加えるのはよろしいものとは言えないのである。その意味では、現在のように足元から多大な衝撃を加えつづけいたら、将来人類が退化していくことになるかもしれない。

 もっとも上の話はあまりに極端に過ぎるが、現在腰やひざの障害に苦しむ人が増えいてる原因の一つに、アスファルト道路による衝撃をあげることはそう無茶なことではあるまい。どちらにしろ歩行のたびに体全体に過大な衝撃が加わるのは、健康上好ましいとは言えないであろう。

 アスファルト舗装で都会の気候が変わる

 路面をアスファルト化することで環境的にはどうなるか。まず雨水の路面への浸透がなくなる。このことによって地面が保水力を持たなくなるので、降った雨が一斉に河川等に流れ込むことになり洪水の可能性が増加する。また雨が上がった直後には、アスファルトの路面から一斉に水が蒸発するので極端に湿度が上がって不快になるし、そのさらに後には逆にカラカラに乾燥してしまうことになる。実際現在の都会の湿度は砂漠並みにまで下がることもあるらしい。路面が人工化することで、気候変動に対する許容力がなくなっているのである。

 またアスファルト舗装した道路には、当然植物の生える余地はない。このことが上の傾向に更に拍車をかける。最近街路樹なども植えられるようになったが、アスファルトの下に根を張っている状態では効果は薄い。

 人間にあわせた舗装方法を考える必要があるのでは

 アスファルトの舗装が人間にとって良くないからといって、現実にはいきなり土の道に戻すわけにはいくまい。自動車には舗装道路は必須であるし、土の道ばかりでは雨の日にぬかるんでしまうということもある。

 現在洪水防止などの意味から、浸透性舗装の研究が進んでいるらしい。ここで望むのは、是非とも人間の足にやさしい、なるべく土に近い感触になる舗装方法の研究もしていただきたいということである。そして車用の道路と歩行者用の道路で別の舗装をするべきである。

 道路の主役を車から人間に取り返す時代がやってきた。

 

用語説明

浸透性舗装…雨水を通すことができる舗装。具体的には細かい穴の空いているアスファルトなど 本文に戻る

 

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インターネットと情報規制

 

 インターネットによって結ばれた世界

 インターネットの発達により、世界中がまさにリアルタイムの情報網で結ばれるようになった。現在も種々様々な情報が世界中を駆け回っている。今やいながらにして世界中のことを知ることができるのである。これは実に画期的なことであり、まさに情報化社会の幕開けにふさわしいと言える。

 法規制による情報支配を狙う政府

 しかしながら自由な情報が発信されることによっての弊害も指摘されている。猥褻図版の配布や・個人に対する中傷・デマの流通などである。実際、これらの問題への対応を口実として、インターネットの実質的な法規制を目論んでいる政府も存在する。アメリカのクリントン大統領はインターネットの法規制に積極的で、そのための法律を何度か提案しているし、また日本でも同様のことは議論されている。

 情報というのは国家にとっては、時には軍事力以上の武器となる。実際に東欧の崩壊は外部の情報の流入によって促された側面は強いし、未だに真実の情報を封鎖することによって、その政治的体制を維持している国もある。またそんなに極端な例でなくても、湾岸戦争におけるアメリカのように、ある情報を意図的に流すことで世論を誘導しようとするのは政治の常套手段である。そのような政府にとって、政治権力の全く関与しない世界で情報が自由に行き交うのは非常に好ましくないことである。

 昔から権力が狙うのは教育とマスコミ

 権力側が自らの意図を達成するときにまず最初に狙うのは、教育とマスコミである。どちらも個人が情報を得る手段としては非常に重要だからである。この段階に介入することで、民衆を自らに都合の良いように洗脳するのである。外部からの情報の遮断によって正常な判断力を失わせることは、洗脳の基本原則である。戦時中の日本の皇民化教育と大本営発表のニュースを見ればよくわかる。今日大本営発表はなくなったが、今でも権力が何かを目論むときは事前に「御用マスコミ」を使ってキャンペーンを仕掛けることはよくある。この手のキャンペーンというのは、まさか政府公報で流すわけでなく、例えばニュース番組でそれとなく情報を誘導するとか、バラエティ番組等に御用評論家を登場させて主張させるとかの比較的巧妙な方法を採る。例えば老齢年金の支給年限を遅らせようとした時は、「最近の老人は金持ちである」とやたらにテレビで宣伝したし、今の大学生はアルバイトで結構お金を持っているとテレビが言い出した直後には、国公立大学の授業料が大幅に値上げされた。また現在、読売新聞などを動員して憲法改正(要するに戦争の放棄を唱えた第9条を廃止すること)を煽っているのは明らかである(国際貢献という美名を隠れ蓑にしているが、なぜ国際貢献が軍事力による必要があるのかの議論は、あえてごまかしている)。

 また教育の方でも、一部の反動勢力が中心となり、教科書から「従軍慰安婦」「南京大虐殺」の事実の削除を求めている。このような事実を国民から隠して、無かったことと思わせることで、戦争の残虐性を否定し、来るべき将来に国民を兵隊として戦争に動員する時の抵抗を減らすのが、彼らの目的であるのは明らかである。

 このような連中にとっては、自由な情報の交換など忌むべき存在以外の何者でもない。

 自由な情報交換は基本的人権の一つ

 人間が社会的存在である以上、外部の情報の入手は必ず必要である。またその情報収集チャンネルは多様なほど良く、さらにその情報は特定の意図に基づいて捏造されたものであってはならない。この点を重視して、およそ近代民主国家の憲法はみな、報道の自由を保障している。インターネットもその一環であり、ごく一部の不心得者の存在を口実にして規制されてよいものではない。例えばいたずら電話をするものがいるからといって、電話が廃止されただろうか。暴走族がいるからといって、バイクを全部廃止してしまっていいのだろうか。インターネットに対して規制をかけようというのは、そのように非常に乱暴な議論である。インターネットに善悪はない、使用する人間に善悪があるのみである。

 インターネットは性善説に基づいて作られたシステムです。我々の使命は、このシステムを正しい方向に発展させていくことです。

 

用語説明

御用マスコミ

…権力にとって都合の悪いことは書かない、権力にとって都合の良いことだけを書くというような、いわゆる権力の思い通りに動くマスコミ。同義語に「権力の提灯持ち」「政府の番犬」など   本文に戻る

従軍慰安婦

…日本軍が戦争中に占領地等の女性を強制的、もしくはだまして連れていき、軍隊の性的奴隷にした事実。   本文に戻る

南京大虐殺

…日中戦争において、南京周辺で日本軍が多くの中国非戦闘員に虐殺・暴行・強姦等を働いた事件。その犠牲者数は数十万人とも言われる。かつて文芸春秋等を中心とする御用マスコミが、南京大虐殺否定論を繰り広げたが、当時の加害者自身の勇気ある証言等により、完全に敗北し、現在は専らいかに被害を小さく見せるかに腐心している。ただ未だに、否定論を理論的ではなく感情的に展開している政治家等も存在する。   本文に戻る

 

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