旧領の日本語俳句
                                 平成22年10月
                                               福永法弘

台湾と南樺太(南サハリン)は、第二次世界大戦の敗戦までは日本の海外領土だった。
台湾では日清戦争後の明治二十八年(一八九五年)から五十年間、
南樺太では日露戦争後の明治三十八年(一九〇五年)から四十年間、日本語教育が行われ、日本の文化が広く行き渡っていた。
その文化の一翼を俳句も担っていたことは、当時発行されていた俳句雑誌や、新聞の投句欄などから窺い知ることが出来る。


その台湾とサハリンの両方に、続けて行く機会があったので、当地でどんな俳句が詠まれたのか、二冊の歳時記を中心に考察してみた。
一冊は『台湾俳句歳時記』(平成十五年刊。黄霊芝著)であり、もう一冊は『樺太歳時記』(昭和五十九年刊。菊池滴翠著)である。
ただ、この二冊の歳時記には決定的な違いがある。
それは、『台湾歳時記』の句が、台湾の人たちによって今でも日本語で作られている現代の俳句である一方、
『樺太歳時記』に収載されている句は、敗戦後の引揚げ以前に作られた過去の作品であるという点である。


    *   *

台湾は、外国人が日本語による俳句を組織的に作っている唯一の国である。
その最大の理由は、第二次大戦終結前の五十年にわたって、日本が台湾を領有し、日本語教育を行ってきたことにある。

台湾の首都台北で「台北俳句会」を率いておられる黄霊芝氏が平成十六年度の「正岡子規国際俳句賞」を授賞された。
授賞理由の一つとして挙げられたのが『台湾俳句歳時記』の編纂であり、
そこには、総数三百九十六にも上る台湾独自の季語が収録され、例句も豊富に集められている。
その例句集めの苦労に関しては巻末に詳細に述べられており、ご努力に頭が下がる。

昭和十一年、高浜虚子が渡欧の途次に立ち寄ったシンガポールで「熱帯季語小論」を表し、
「スコール」「赤道」「極楽鳥」「ドリアン」など三十五語を熱帯季語とし、『新歳時記』に収録した。
それは残念なことに、敗戦後の改訂版に於いては削除されてしまったが、そのことと直接の繋がりはないにしても、
その十倍以上もの南方風物が実は、「台湾季語」として命脈を保っていたのである。

   明々と点す病棟デング熱    朱鳳公
       熱帯シマ蚊が媒介する伝染病。
       高熱で顔が真っ赤になるので、内地人(日本人)は天狗熱と戯称した。


    (アイギョッピィン)食みをり波の綺羅見をり 邱秀琴
       クワ科の植物の種子から作った冷菓。 
       愛玉という美女が売って人気が出たのでこの名がある。


    (チイツウ)の来てゐて夜の眠れざる  陳継森
      地鼠のチ、チと鳴く声が(チイ)(チイ)と聞こえるので、この名がある。
      鼠は吉祥天の使いとして縁起物。寒い頃によく鳴く。


    神豚の誇ら顔なり義民節    荘雪華
        外敵の侵入から台湾客家(ハッカ)を守った義民を祀る祭り。
      肥るだけ肥らした豚を生贄とする。



    (ゲットウ)やローカル線の廃駅に   楊海瑞
        草丈二、三メートルに達するショウガ科の多年草。
        花の後、月を思わせる?光沢球形の実を結ぶ。


    殺したる台湾コブラ夢に出て  陳宝玉
         (ブンシイチィン)と書く神経毒の猛毒を持つ台湾コブラ。
      日本でも沖縄や奄美のハブに同じ字をあてるが、ハブは腐れ毒なので全くの別種。


    水牛と同じ顔して食檳榔(チャプンヌン)    黄霊芝
        シュロの実をガムのように噛む習慣。
      辛く爽快で多少の麻痺感があるため、習慣化する。



    福相や台湾呆けをうべなへば  黄葉
        内地人が広めた、暑さ負けのこと。けだるく虚ろで、怠惰になる。


    事故現場らしき供華や(ヘイリュウム)  范姜梢
        晩冬初春(一、二月頃)の濃霧。一メートル先も見えないほどとなる。


    (ベエフェー)の雨の宿りとなりにけり  石麗珍
        少女が街角で売る花売り。
      初夏から夏(四月から七月)にかけての台湾風物詩。


    石斑(チオパン)を海の水ごと贈らるる   楊素霞
        夏(七、八月)が盛季のハタ科の沿海魚。美味かつ高級。


    伸びきってから事切れぬ長い奴 王麗春
        台湾では「蛇」は忌み言葉であって使わない。長い奴と呼ぶ。

台北俳句会の高齢化は著しい。
第二次大戦後に日本軍に代わって国民党軍が進駐してから、既に六十余年が経つ。
その後の世代には日本語は禁止されたため、戦前の日本語教育世代がそのまま一つの塊として高齢化していき、次に続く世代が皆無なのである。
このため、日本語による俳句とともに、漢字七〜十二字による非定形「湾俳」(漢字十七文字による、大陸においての「漢俳」とは、別物である)
を新たに創設し、俳句の心を次代の台湾の人々に承継せんとしておられる。


さて、一般に台湾の人々はこうした日本語教育世代を中心に親日的であると言われている。
だが、本当にそうであろうか。
自らの言葉や宗教を奪われ、無理無体に皇民化教育を押し付けられてきた人々が、なぜ「親日」であり得るのだろうか。
その答えの一端をこの歳時記の中で垣間見ることが出来るような気がする。



先ずは「八田祭」

大正九年、水利技術者八田與一は台湾に招かれ、苦難の末、十年の歳月を要して烏山頭ダムを完成させた。
これにより痩せ地の代名詞だった嘉南平原は米、甘蔗の一大生産地に生まれ変わった。
だが、昭和十七年、八田はフィリピンでの新たな土木工事へ向かう途中、乗った船をアメリカ軍の潜水艦に沈められて戦死した。
その報を聞いた夫人は、夫の完成させた烏山頭ダムに身を投げて後を追った。
台湾の人々は八田夫妻の功績を偲び、八田夫妻を神として、船が沈められた五月八日に祭を営んでいるのである。
植民者を後々まで神と崇めるというのは稀有な例であろう。


   八田祭空を映して水澄めり  許秀梧


   片言の日本語とび出す八田祭 陳錫枢


   嘉南路の果までみどり八田祭 范姜梢


次いで「昭和草」という季語。
春菊に似たキク科の一年草。
昭和四年頃、日月譚付近で群生が発見され、戦中に食用として全島に広まったことから、昭和草と名付けられ、今でもそう呼ばれている。
黄霊芝氏は言う。
「昭和は良いにつけ悪いにつけ台湾人にも記憶から拭いがたい一代だったが、日本の置き土産のような何かが感じられる名の草である」と。


   茫々と遠く過ぎきて昭和草  岩本慶子

   一齣の植民の史や昭和草   葉顕鎧

   恙なき野の営みに昭和草   游細幼



三つ目に二二八(リィリィパッ)という季語。
日本軍と日本人が昭和二十年八月の敗戦後に日本本土に引き上げて後、
台湾全土は「半世紀も中国大陸と別れていたが、祖国に復帰する喜びで希望と歓喜に満ちていた」(洪文徳『二・二八事件始末記』)。


しかし一方では、「日本軍とともに戦った台湾人にとって、敗戦国民なのか、戦勝国民なのか、迷うところでもあった」(前掲書)。
そしてその不安は的中し、中国本土から進駐してきた国民党の先遣隊は、台湾を敗戦国と見做し、台湾人を敗戦国民として扱い、
それ故の必然として、彼らは略奪者集団と化して台湾人の富を奪い、婦女を犯し始めたのである。


これに憤った台湾学生らは、一九四六年二月二十八日、放送局を占拠し、
「支那人を台湾から追い出せ」「元○○部隊は△△へ集合せよ」と日本語で決起を促し、
日本軍に参加していた元兵士を中心に、軍艦マーチや愛国行進曲を流して、全土で、国民党軍に対して起ちあがった。
しかし、国民党は精鋭部隊を大陸から送り込み、台湾人の蜂起を徹底的な虐殺と略奪によって押さえつけた。
暴虐の内容は「二二八」に関する様々な書籍に詳しく述べられているので割愛するが、
古代中国でもこれほどひどくはあるまいと思われるほどの残虐行為のオンパレードであった。

こうした国民党の暴虐は、台湾人民の心を凍りつかせ、以後、現在に至るまで、国民党と台湾人との間の深い溝となって横たわることになるのである。

   処刑場昔語りに二二八    何?貞



   角帽の写真を飾り二二八   許秀


   語部の行燈暗し二二八    呉澄生

「親日」とはすなわち、「その後の国民党よりはマシ」という相対的な感情に過ぎないのではないだろうか。
黄霊芝氏の次の一文を読むことにより、台湾人の微妙な心情の一端が分かる気がする。


一六六二年に鄭成功がオランダ人を去らしめたあと、鄭氏の最初に取った政策はまずオランダの色彩を破壊することだったと思われる。
のち清は台湾から明の色彩を剥ぎ、日本は清を剥ぎ、民国は日本を…。かくして台湾には文化の砂漠が形成される。」

こうした自嘲は台湾人の間で根深いが、一方、「台湾文学」を独立した文学領域として評価・研究する機運も近年徐々にではあるが高まってきている。
「台湾に文学はない」と切り捨てられたり、あるいはせいぜい、中国文学の一部として語られたりすることの多かった台湾文学を、
@マレー・ポルネシア系の先住民文学、
A中国大陸から移住した漢族系の文学
B日本など植民地支配の影響を受けた文学、
の三側面から見直す動きである。
黄霊芝氏らが苦難に挫けず守り育ててきた台湾俳句がBの柱の一つであることは、誇るべき成果と言えるだろう。

なお、日本語世代の一人である台湾の李登輝元総統もまた、大の日本通で有名だが、
平成十九年に来日の際、長年の念願であった「奥の細道探訪」を果たし、松島にての、

   松島や光と影の眩しかり    李登輝

との一句は、翌平成二十年、松島瑞巌寺境内に句碑として刻まれた。


    *    *


日露戦争後の明治三十八年(一九〇五)、ポーツマス講和条約によって南樺太の日本への割譲が決まると、世に云う「樺太熱」が巻き起こった。
その年の内に早くも移住第一船が大泊(コルサコフ)に到着し、翌年にはその数は一万人を超え、新聞も発行され始めた。


樺太日々新聞に俳句欄が設けられたのは、明治四十一年のことである。
娯楽の乏しい北辺の地にあって、移住者の中から自然発生的に各地に句会が発足したが、当初は、いずれもまとまりのない小集団でしかなかった。
本格的な隆盛は、大正十三年の伊藤凍魚の「氷下魚」創刊を持って始まる。
また、昭和五年に佐藤流葉が「樺太石楠会」を興し、こちらも勢力を拡大した。
更に、昭和十三年から二年間、樺太庁長官の職にあった棟居俊一は、知音という号を持つ俳句の愛好者で「俳人長官」と呼ばれ、
このため、樺太庁でも俳句活動が盛んになり、樺太文化協会の設立も検討されるほどになった。
(後に戦局の悪化により沙汰止みとなったが)

樺太は同じく新天地であった北海道とともに、北の極寒の地として、独特の季語を生んだ。
昭和七年、比良暮雪が北方新季題二百六十余について解説した『北海道樺太新季題句集』を発表すると、俳壇の目は俄然、北辺の地に向き始めた。
そして、この暮雪による「北方季題」が一つの契機となって、
昭和十一年、高浜虚子の「熱帯季語小論」が生まれたとも言われているのである。

いくつか樺太独特の風俗のわかる句を拾ってみる。

  春愁のおもざしにして露人の子   伊藤凍魚
     樺太は帝政ロシア時代からの流刑地で、日露戦争終結時、
     ロシア人は三万五千人、そのうち流刑民が二万三千人だった。
     日本領になって以後、ほとんどが北樺太に移り、希望して残ったロシア人は二百二十七人だけだった。
     北へ引き上げるとき、町や集落を焼き払って行ったという。
     日本人を恨んだことであろう。


  虎杖の花の中なるアイヌ村     小林五山


  オロッコの丸木舟鑿る日永かな   外崎喜石

  はまなすの丘に穴居のギリヤーク    〃

  天葬の跡をちこちに落葉路     川上北仙

  熊祭の煙り上がれる花野かな    野沢一魯
     樺太の先住民として、多くの北方諸民族があった。
     敷香郊外の広大なオタスと呼ばれるデルタ地帯は彼らが多数居住する地域だった。
     アイヌの他、ギリヤーク、オロッコ、キーリン、サンダー、ヤクートなどの少数民族が独自の文化を守って暮らしていた。
     熊祭りのアイヌや、天葬(鳥葬)の風習を持つ民族もあったようだ。


  唐太の天ぞ垂れたり(にしん)群来(くき)     山口誓子
     山口誓子は大正元年から六年までの五年間、樺太の小・中学校で多感な一時期を過ごした。
     鰊の群来はその頃実際に見たものであろう。
     産卵のためにやってくる鰊で海が小山のように盛り上がり、浜が異様に活気づく、春先の風物詩。


  千歳丸氷上荷役初めけり      松原泊川

     樺太の冬の海は流氷に覆われ、船舶の往来は極度に難渋する。
     しかし、だからと言ってまったく経済活動を休眠させるわけにはいかない。
     真岡と本斗の不凍港では真冬でも荷役作業が行われた。
     〈斃馬凍てしままに氷上荷役かな〉(長谷川水皺)などの句もある。


  たんてきをたたき杣夫の昼焚火   田村硯一

     たんてきとは、握り飯を鉈で叩いて餅とし、砂糖を付けて食うこと。
     樺太の杣夫の楽しみの一つ。



  木枯や峰の日恋へる流送夫     伊藤凍魚
     流送とは木材の搬出に河川を使って行う方法で、秋田式と越中式の二つがある。
     樺太には両方から技術が伝えられ、折衷型のものがあったことが知られている。
     樺太の主要産業は、木材・紙パルプ業と鰊・鮭を中心とする漁業であった。


  養狐場の灯のみな隅や霧の街    岡崎笑羊

     毛皮のため、狐が飼育されていた。
     〈狐舎妖しう影おく原の銀河かな〉(奥山朗々子)と、飼育場は狐舎とも呼ばれた。
     〈狐守月の見張の塔を攀づ〉(伊藤凍魚)は見張り番を詠んだ句。


   馴鹿(トナカイ)の橇に乗り来し支庁長     野沢一魯
      
  犬橇(ノソ)の犬ゆきあふ犬に猛りつつ     佐藤心一


  寒林をたどりて消えし馬橇かな       野村大常
     トナカイも犬(樺太犬)も馬も、
     氷雪に覆われた真冬の大地を行き交う橇を引かせるためには欠くことの出来ない、貴重な動物だった。


  海霧(じり)晴るる流れにべりロッペン鳥   中川翠浪
     ロッペン鳥はオロロン鳥のことである。
     海豹島はその一大生息地で、洋梨形の青みがかった卵をうむ。
     やや生臭く、珍味の類だそうである。オロローンと長鳴く声に哀愁がある。


昭和も七年を過ぎた辺りから、
豊原、真岡、大泊、落合、鈴谷、馬群?、内路、知取、敷香などの主要都市には多くの句会が発足し、
様々な俳句雑誌が発行されるようになった。
そして、全島俳句大会が昭和八年に初めて開催され、以後、終戦近くまで続けられた。

内地からは橋本多佳子、池内たけし、河東碧梧桐、臼田亜浪、松根東洋城、鈴鹿野風呂、西本一都などの著名な俳人が来樺した。
文学的刺激や娯楽の乏しい北限の島にあって、俳句の果たした役割には大なるものがあった。


  曇り来し昆布干場の野菊かな   橋本多佳子
     大正十四年、来樺時のこの句には多佳子の自解がある。
     「雨後の照ったり曇ったりする昆布干場には、樺太蟹の真赤な殻などが打ち寄せられてゐて、それこそ北の涯の風景でした。
     思ひがけずそこで咲いてゐた野菊を見て、するすると出来ましたが、
     北原白秋の〈昆布干場のタンポポの花〉の影響が多分にあります」



  山火事の今宵も見えて続きけり  池内たけし
     昭和二年、高浜虚子の甥の池内たけしが来樺した。
     山火事は樺太名物とも言われ、雪解けが終り、日の光がまぶしくなる頃に頻発した。
     原因は自然発火の他、木材盗伐の痕跡をくらますための放火など様々だった。



  わらび餅木皿を重ね       河東碧梧桐
     昭和五年、樺太に来た碧梧桐は、樺太の俳人たちと積極的に交わり、俳論を闘わせた。
     この句は、世話になった伊藤凍魚へ揮毫したもの。



   国境の雲低うし虫そぞろ     臼田亜浪
     昭和十一年、亜浪は八月の半月間を滞在。
     北緯五十度の国境線にも立った。
     海豹島へ向う船中、東京の「石楠」の事務所に無電で〈時化名残る潮蹴つてオットセイ見に〉と打電した。
     未知なる光景に昂ぶった様子が見て取れる。


  秋の灯のどれやチェホフの仮の宿 松根東洋城

     東洋城は昭和十四年の自らの短い旅を、チェホフのそれと重ね合わせてみせた。
     チェホフは一八九〇年(明治二十三年)、サハリンに調査のため三か月ほど滞在し『サハリン島』を執筆している。


  膃肭獣(オットセイ)かくいとなめり白日下   鈴鹿野風呂
     昭和十五年刊の鈴鹿野風呂の句集『海豹島』は、樺太・北海道の旅吟三百十句を集めたもので、
     句集の圧巻は、樺太の海豹島で三時間の上陸中に作った五十七句である。
     海豹島は敷香の沖百五十キロの海上にある小島で、オットセイの世界三大繁殖地として名高い。
     「獣たちの闘争、修羅、歓楽、本能露出の世界が白昼に展開されるという」(丸山海道「この一句」)


   ちちろ鳴き製紙の計器目をきざむ 西本一都
     昭和十九年、のちに「白魚火」主宰となる一都が来樺した。
     「戦局が悪化し、もうおもてなしするにも何もないころでした。
     取っておきの材料でおはぎを作りましたところ、
     大へんに喜ばれておかわりされたことが今でも印象に残っています」は伊藤凍魚の妻雪女の弁。
     句は凍魚の勤務していた王子製紙の工場を見学した折のもの。


このように極寒の北の大地に独特な文化の花を咲かせた樺太俳句だったが、その歴史は昭和二十年八月をもって突然に終わることとなった。
同年八月八日、日ソ不可侵条約の有効期間中にもかかわらず、対日宣戦布告したソ連軍は、
翌九日には早くも北緯五十度の国境線を越え、南樺太に侵攻を開始した。
そして八月二十日、真岡(ホルムスク)に艦砲射撃を加えたのちに上陸、破壊と殺戮と略奪を恣にした。


ソ連は樺太にある日本の財産について、国家や個人の別なく一切を強奪することを企図していた。
そのため、侵攻直前に出港した引揚船三隻をいずれも撃沈して、日本への財産移転を封じこめるとともに、
邦人の土地家屋・家財一切を没収し、婦女子を犯し、兵士や官吏は強制労働に使役するためシベリヤに送った。

   朝寒し突如真岡は戦場(いくさにわ)   木村涙月

   木枯や国を逐はるる人の群      上田純煌

    男装の(こ)を匿まうて夜半の秋   外崎喜石

先ごろ、日本テレビ開局五十五周年記念の一環として放映されたテレビドラマ「霧の火」は、
八月二十日の真岡郵便局での九名の電話交換女性の集団自決を取り上げたものだが
、ロスケ(ロシア人の男)に凌辱されるよりも純潔の死を選んだ乙女達の悲劇である。
ソ連侵攻による樺太での死者はおよそ五千人に上る。

樺太にとどめ置かれた民間人三十一万人は、昭和二十一年末から二十四年までの引き上げ事業で日本に帰還が叶い、
ここに、日本領樺太の歴史の幕が下ろされた。

(その後、昭和三十二年から三十四年までの第二次帰還事業で更に七百六十九人が帰国したが、今なお様々な事情により残留している邦人もある)

ユジノサハリンスク(豊原)を訪問した際、そこの美術館に行って驚いた。
なんと、日本の仏壇が展示してあるではないか。
それは、北陸地方の浄土真宗門徒の仏壇で、日本ではけっして博物館に飾るような代物ではないが、ロシア人には珍しいのであろう。
あるいは、日本民家からの略奪品として誇らんとする意図の下での展示だろうか。
そこに飾られるに至るまでの、その仏壇の苦難、仏壇の所有者一家が見まわれたに違いない悲劇をあれこれ想像し、まさに、胸塞がる思いになった。


なお、サハリン滞在中、現地の政府の人々と語らう機会があったので、「どこかに句碑はないか」と尋ねたが、誰も知らなかった。
ただ、ロシアに不法占拠されている北方領土のうちの一島、サハリン州政府管轄下の択捉島には、

  咲く花はみな咲き満ちて夏隣り 

という句の彫られた、大正五年建立の句碑が残っているようだ。(ブログ「新徒然草」(吹浦忠正氏)による)

そのブログ上の写真では、句の上部に「茂木松月菴趾」と判読できるが、茂木松月がいかなる人物かはわからない。
ただ、「夏隣り」という季語の斡旋と、上五中七の言い切った清々しさに、
いかにも短い北方の夏を待ち焦がれる島の暮らしぶりが偲ばれて、かなりの句力を持った俳人であったことがうかがわれる。
大正五年は、南樺太での俳句の興隆よりも十年ばかり早いが、
択捉島は南樺太と違って元々日本領土なので、俳句も早くから普及していたのだろう。
その他、北方領土の俳人たちが釧路の俳句雑誌などに投稿していたことを、種々の資料から伺い知ることができたが、
北方領土を含む南北千島列島での俳句文化活動の全容および詳細については、いまだ不明である。