(小坂)
 祭神、菅原道真公。                                     ↑clickで大きく
 一名、荒木天神と申してご神体は、菅公御自作の御木像にて有名である。
 神社の由来は遠く、創祀の時期は不詳であるが、国主神社と称して、農耕の神として菅公を祭祀する余程前から祭祀されていた。
 菅原氏は代々学業に励み学問の名家で、道真も儒学を学び文章博士となる。宇田天皇は藤原氏の勢力を押さえ天皇親政の実現を図られ、道真を登用された。道真は参議、大納言と昇進し、天皇の近臣として活躍した。続いて醍醐天皇にも重用され右大臣に任じられたが、延喜元年(西暦901)正月、藤原時平等の策謀により、筑紫の国太宰府に権師として左遷のみぎり、難波より海路播磨灘別府沖合響灘に達したところ、急に空が暗くなり海上は風雨に襲われた。そこで舟を浜辺に着け松林の中に難を避け、安田の十五社明神と尾上の住吉神社に幣を捧げ、海上の平安を祈願した。しばらくして風雨もおさまり、九州に向かわれたという。
                                  播磨の伝説(玉岡松一郎著)より。
 或る朝、南方で楽の音がするので、小坂の村人達が音を便りに行くと、汐入川東岸我久ケ渕に御木像が漂着しているので御迎えして御祀りしたのが、菅原神社の始めである。祈願に際して身代わりとして海に流された御自刻の木像が、潮流にのって我久ケ渕に流れついたのであるという。
 徳川時代から明治、大正、昭和15年迄の社殿は立派で、特に拝殿は軒が深く、軒先が縁側より余程先に出ていた。割拝殿と称して内部が三分されていて、中央部は石畳が敷かれ、天井には彩色された世界地図が描かれ、左右両側は床が板張りで、天井は左が上り右が下りの墨絵の龍が描かれていた。共に共に郷土の画家、三木凌雲先生の力作であった。稲荷神社の東に祭祀されている流れ造りの小さな石の祠は、何も銘記されていないが相当古く当社では最古の社で、伝説にいう国主神社である。代々、古老よりの伝説によれば、小坂村に火の雨が降る様なことが起これば、この祠がたちまち広がり、氏子の者が全部この内に避難出来るという伝説がある。
 幕末の頃、社殿修復の際、御神体を一時仮殿に奉祀し、修理完了と共に本殿に還宮の節、御神体が如何しても納らず良く見ると奉仕する人の内に、三木某という忌中の世話人が一人混していた。そこで遠慮を願うと何事もなく容易に還宮が出来たということである。同じ幕末の頃、拝殿に賊が侵入、重要書類を失ったことは残念の至りであります。
 明治二十二年、管命により時の内閣修史局長官、重野安繹殿のもとによって神社の調査が行われた。その節、調査員が昇殿の際、本殿に登る刻橋で足が進まず、御神体を未調査に終わったとの事である。何か御神霊にふれたとのことである。
 神苑には樹齢何百年と思われる老松が十数本もありましたが、残念な事に昭和の初期、松喰虫の被害により大部分が枯死しました。中でも本殿の乾の方にあった御飯松は、文字通り樹の最上部が御飯を盛った様な形で、樹の高さは十数米、周囲は大人が三人も手を延ばしても未だ余りあるという老松であり、毎年正月にはしめ縄が張られたが、さすがの霊松も残念なことに松喰虫の為に枯死した。往時の雄姿を後世に残す為写真を撮りました。区長役場、及び当時の役員宅に保存されている。
 明治三十五年が菅公が太宰府で死去されてより一千年に相当するので、当社でも氏子各町が競って造物等を造り盛大に千年祭が挙行されました。その後二十五年毎に臨時祭典がおこなわれている。
 昭和十五年祭日夜、不可解な火災により社殿が焼失しました事は、残念の至りです。しかし不思議なことに焼跡清掃中、本殿の焼跡から御神体が無事に発見されました。琴平宮の仮殿に安置し奉り、氏子を始め近村遠く阪神地方の信者、篤志家に御願いして浄財を募り、本村の大工、神酒洋氏により氏の親方で宮大工、前田氏の応援を得て、昭和十七年四月竣工と共に、盛大に還座の祭典が行われました。
 御神体は、昔の三月雛の大裏様位の大きさで、御神体を納めた鞘は焼けていましたが、御神体が無事に発見されたことは、何よりも不幸中の幸であり、御神徳のしからしむ処でありましょう。

 現在、祭典には子供屋台の時代になっているが、昭和の中期までは夏秋の年二回の祭典には、氏子各戸に御神燈の提灯を出し、各町には横吊燈籠を建て、にわか芸居、浪曲、万才等の余興が行われ、秋祭には大人屋台、子供屋台の錬り出しで賑わった。
 屋台で余談になりますが、明治初年、打越村が、西土井村で古い屋台を譲り受け、小坂を通過の際、太鼓を打鳴したものだ。時あたかも孝明天皇の諒闇中であったので、小坂の若者達が不心得を諭し、屋台の通過を差し止めた。当時は未だ小坂は一橋領でおおいに気勢があったので、打越の若者達は恐れ入り数人が村に飛び帰り村の役員や世話人が来阪して平謝りしてようやく帰村したという笑話がある。この話は昭和の初年打越の古老から聞いた話である。この古老が当時の若者の一人であったと云う。
 全国に菅公を御祀りする神社はたくさんありますが、菅公御自刻の御木像を御神体として御祀りしている神社は、当社以外に聞かない。また、全国でも最初に御参りした天神様であり社殿こそ小規模であるが、京都の北野神社、九州の太宰府天神にも匹敵する、由緒ある天神様といっても過言ではありません。


 <現在は屋台大を高欄、泥台、担棒を大屋台に改造し、昔の大太鼓を積み自治会祭典が練りだしています。 >

 
       我が町の歴史小坂(おさか)
                                              中尾好三 著 より
小坂天満宮、また荒木天神ともいう。伝承によれば、道真が九州へ左遷される途中播磨灘で暴風雨にであった時、海を静めるために自刻の木像を海に流された。その木像が我久が渕(高浜町あたりの汐入川東岸)に漂着し、小坂の里人が当社にお祭りしたという。現社殿は昭和17年に再建したもの。境内の北東隅にある小石祠は、古くから農耕の神として祭られていた国主神社だとされる。非常の際には石祠が広がり、氏子みんなが避難できるとの伝説がある。金比羅社前の狛犬は天明4年(1784)の年号があり、市内の狛犬の中では古いもの。もと菅原神社前にあったものを、昭和17年に移したもので、阿形と吽形の配置が普通とは反対になっている。
                                 (神社前看板:姫路市教育委員会より)

 数百年の歴史のある菅原神社は現在の社殿が三代目で、不審火の火災で昭和17年に再建したものです。社殿の造りは立派で、特に拝殿前の木彫りの龍と屋根の牡丹や龍のかざり瓦の配置もよく人の目を引き付けています。 石灯籠の中には、寛政七年(1795年)文政十二年(1826年)安政七年(1856年)に造られたものもあります。
 また、金刀比羅の狛犬は天明4年(1784年)の作で、姫路市内に180対もある狛犬の中で2番目に古いものだそうです。         姫路の古狛犬へ


= 御飯松 =
松の格好が御飯を盛り上げた姿ににていたので、この呼び名で親しまれたが松喰い虫
のため昭和13年春に伐採。これは焼失前の裏よりの全景です。
 構造---割拝殿、中殿、本殿。   昭和14年秋祭りの夜に炎上し全焼。
昭和16年に復興し、今日の姿となっています。
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