
<目次>
| 1.関税制度の生成 (1)開国以前の対外交易 (2)近代的貿易と関税制度の生成発展 2.日本統治時代の関税制度 3.軍政・過政時代の関税制度 4.政府樹立後の関税制度 (1)新関税法の制定 (2)6.25動乱期の関税政策 (3)臨時特別関税法の施行 (4)韓米行政協定の施行 (5)その他の関税制度の変遷 (6)税関行政機構の変遷 (7)関税法の改正沿革 |
韓国の対外交易に関する記録は三国(高句麗・新羅・百済)時代から始まる。中国(晋、宋、唐)に朝貢という形式で輸出し、その答礼として輸入をした。また、三国は各々日本に対しては来貢貿易の形式で日本から貢納を受け、その答礼を送る形式での輸出入があった。このような朝貢形式の交易は原則として国家と国家間の公貿易であった。
<注:韓国の歴史書は、最も古いものでも1145年の「三国史記」(金富軾)である。政権交替時には自己の正統性を強調するため、前政権時代の文化的なものまでも否定したためといわれる。>
統一新羅時代には新羅は唐との公貿易を拡大し、山東半島には新羅館・渤海館のような東方諸国の使臣の留宿地と外国貿易船が出入りする互市場があった。
このような公貿易とは別に、三国時代以来私貿易もさかんで、対日私貿易は対馬島を根拠地とし、対唐私貿易は山東省から江蘇省に至る沿岸一帯を中心とした。当時、清海鎮を中心に一種の海上王国を建設し、対外私貿易で東方貿易の覇権を掌握した海商 張保皐(?−841)は有名である。
高麗朝になって10世紀中葉の光宗のときから宋との交易が本格化し、宋の文物を欽慕する風潮がおき、多様な品目の交易があった。また、高麗の対北方民族交易をみると、契丹ははじめ高麗に朝貢使を送ったこともあるが、その後は侵入を繰り返したりしたので交易は微々たるものであった。女真は高麗に対して来貢貿易を行って来たが、一方で辺方を侵犯することも多く、高麗は懐柔・撫順策で女真族の帰化服属を図る一方、国信物の交換という形式で来貢貿易を維持してきた。
高麗は蒙古の侵略と支配を受けるや、献上の性格の強い朝貢貿易となり、毎年莫大な金銀・毛皮等貴重品のみならず童男、童女、工匠等まで差し出さなくてはならず、蒙古からは答礼物として異民族征服過程で鹵獲した寳物をわずか賜与したにすぎない(井上靖の小説「風涛」参照)。高麗の対日交易をみると、当初は両国の通商使節が往来したが、海賊の跋扈のため通交が阻害され、日本の商人が来朝して貢物を献上し、回賜の形式をとった私献貿易が辛うじて行われていた。
朝鮮時代に入り鎖国主義的政策が厳重になり、商工業蔑視の気風の強化に伴い対外交易は消極的・退歩的になっていった。
明国に対しては毎年定期的に聖節使(明帝の誕生日祝賀のための使臣)、正朝使(元旦に送る使臣)等を派遣し、各種貢物を献上し、回賜品を授かるという形式の公貿易が行われていた。朝鮮初期50余年間に4万余匹の馬と2万余匹の牛を対明歳貢品として貢献したため、農業生産に破局的危機を招いたという事実から当時の対明公貿易の事大主義的性格が分かる。
清との関係でも、丁卯胡乱(1627年)及び丙子胡乱(1636年)以後朝鮮は、高麗が蒙古から受けた収奪と同様、事大の礼を尽くすことを余儀なくされた。
私貿易では、明国からの使節に随従してきた明の商人(特に壬申倭乱への援軍の際には夥しい数の商人が随行した)のもたらす食糧等と朝鮮の金銀を交換し、国境地帯に本格的貿易機関として互市場が開設された。すなわち、壬申倭乱中の1593年、鴨緑江辺の義州対岸に中江互市が開設されたのを初めとして、官の厳格な統制下で交易が行われた。国家の禁令が緩和され、対清貿易が自由化すると同互市は中江後市の名で大盛況をなした。
このような後市は年4〜5回開かれ、規模も年5〜60万両の銀が清に流出するようになると、政府は後市に持ち込む私商人たちの物品に対し一種の税金を賦課して国庫収入とすることとして、私貿易を黙認し、1754年には柵門後市を公認し、貿易品の種類を規制して取引の監督をするようになった。
ここで注目されるのは、国庫収入の目的で課した税金であり、これは関税の性格をもつものではなかったかと思われる。
一方、女真族等の野人への懐柔策として2か所の対女真貿易所を設置していたが、1628年には中江後市等の影響を受けて會寧後市及び慶源後市が開設され、この2つを北関後市と呼んだ。このような朝・清両国間の国境後市は以後二、三百年間続いたが、ここで取引された清の商品は米、皮革、鹿角、銅等であり、朝鮮の商品は牛、馬、豚、紙、虎皮、昆布、毛髪等であった。
朝鮮の対日貿易は、交隣政策に基盤を置いている。朝鮮初期の対日関係では対馬島を拠点にした倭寇が重要である。李太祖は日本に倭寇禁圧と通商を求め、世宗は一時対馬島に倭寇征伐という強攻策をとった後に宥和策をとり、太宗以来開放した東莱の富山浦(釜山浦)及び熊川の乃而浦(昌原)の2つの倭館に続き、蔚山の塩浦(現在の方魚津と長生浦の間)を開放し、いわゆる三浦を開いて日本人の往来を許容し、交易場所とした。しかし1494年には私貿易を禁止したため、三浦の居住日本人は困って、1510年にいわゆる三浦の倭乱を起こし(対馬島主宗義盛は兵300名を送り援助)、1512年の壬申約条で通交は再開されたものの、1592年の壬申倭乱以後は断絶状態になった。その後、徳川時代に国交を回復し、1609年対馬との間に乙酉条約を結び、1か月に6回の釜山浦での交易が再開されたが壬申倭乱の怨恨から交易は不振であった。
朝鮮の対日私貿易は、客館である倭館内で管理の厳格な監督下に行われたが、ここで注目すべきは対日私貿易に収税官が派遣されたという事実である。ただ、収税の対象が本国商人に限定されていたか、または両国商人をすべて対象にしていたかは分からず、税率についても確実な資料はないのであるが、今日の関税に類するものがあったことは確かである。
以上、@対中国私貿易での後市の貿易商人への課徴金徴収の事実、A対日私貿易で倭館に収税官が参与したという事実は、韓国での関税賦課の嚆矢になるということを意味する。
韓国の開国は1876年の江華条約以後からである。日本は明治維新後大陸侵略を企てていたが、朝鮮では大院君の鎖国政策が破綻して閔妃政権が開国政策をとると、1875年には雲揚号事件、翌1876年には黒田清隆、井上馨らが正・副使となって軍艦6隻と兵力800余名をもって釜山を経て江華島に至り、武力による示威を行って朝鮮政府の申 、尹滋承と会談して同年(丙子年)2月2日には12か条の修好条規を調印するに至ったが、これを江華条約または丙子修好交条約と呼ぶ。
この条約により、釜山港が開港され、引き続き元山及び仁川の2港が開港されたが、1882年の韓米修好通商条約、さらに清、英、独、露、伊、仏等とも順次修好通商条約を結び、沿岸の主要港口も釜山、元山、仁川、揚花津、京城、慶興、鎮南浦、木浦、平壤、群山、馬山、城津、龍岩浦、清津、新義州等の順に開港した。
開港から日韓併合に至る約30年間において、壬午軍乱(1882年)以後日露戦争の間の一時期清国商人の進出があったものの、対朝鮮貿易は日本がほぼ独占した。貿易は急速に増加し、韓国の輸出品は米穀、大豆、麥類、人参、綿、生牛、牛皮等、輸入品は綿織物、被服類、機械製品等であった。対日輸入超過は激しく、莫大な量の金・銀が流出し、不足すると遂には土地で決済するに至り、国内には日本人所有の土地が増えた。
韓国の近代的関税制度は、開港以来開始された対外通商により成立することになるが、江華条約締結の6か月後に調印された日韓貿易規則といわゆる「趙寅煕・宮本小一間の議定書」により、韓国の輸出入貨物に対して今後数年間は無税とされ、以後、日韓通商章程制定までの7年間は無関税時代が続いた。朝鮮政府は日本人から徴税できないので、朝鮮人から輸入税を徴収するため関税規程及び税率を制定し、まず釜山豆毛鎮に税関を設置して1878年8月10日から所定率の関税を徴収しはじめた。これが韓国の近代的関税制度史上、税関設置の嚆矢となったのである。
しかし、これに対して日本は趙寅煕・宮本小一間の議定書違反だとして抗議し、代理公使花房義質は軍隊を派遣し、豆毛鎮税関一帯を威嚇したので朝鮮政府は徴税中止を命じ、豆毛鎮税関を閉鎖(1878年12月4日)したが、これを豆毛鎮税関事件という。この結果日本政府は開港場内の日本人の自由貿易を認めること、朝鮮国内での日本通貨通用の許容等多くの新たな要求を提示し、韓国政府は殆どこれを聞き入れた。
そして1882年5月22日に韓米修好通商条約を締結し、一般商品に輸入税10%、輸出税5%を賦課することとし、引き続き英、独とも同じ内容の通商条約を締結、関税自主権を対外的に認められた。日本は花房義質らを送って交渉したが、壬午軍乱で直接交渉が困難になると駐韓米国公使L.H.Footeに交渉斡旋を依頼したが拒否され、次いで朝鮮政府の財政顧問P.G.Mellendorffに、日本に有利なように交渉斡旋を依頼し、彼は裏で日本と工作しつつ、1883年7月25日には全文42条の日韓通商章程及び海関税則(関税率)が調印されるに至った。
その骨子は、@阿片の輸入禁止を明示、A食糧不足のおそれがあるとき防穀令を実施できるようにしたこと、B関税及び罰金を朝鮮貨幣と日本銀貨で納付できるようにしたこと、C日本商人に最恵国待遇を与えること等であり、海関税則では輸入品に対する各品目別税率(5〜30%)、輸出品に対する税率(一切の輸出は5%、ただし、紅參は15%)及び免税対象品目を表示した。
その後もMellendorffと日本公使竹添進一郎とが秘密交渉し、同章程締結後わずか76日後には仁川、元山、釜山3港の海関税徴収業務を日本の第一銀行釜山支店主任に委託契約形式で譲渡し、その後6年間は前述の無関税時代と同様な結果となった。しかし、1889年10月2日イギリスのJ.C.Johnsonが仁川税務司に就任し税関業務を正常化した。
さて、当時の税関行政機構であるが、まず、中央税関行政機構の推移をみると1883年から各開港場に海関(税関)が設置され、これを外務衙門(外務省)の管轄下に置いて総税務司に統括させ、1895年各衙門を部に改称すると同時に各税関を度支部(財務部)の管轄に移管させたが、英国人J.M.Brownが総税務司のとき度支部から独立し、中央機関として総税務司庁を設置し、地方税関を統括させた。1908年1月各部の官制改定により度支部所管の独立官庁として関税局が新設された。関税局傘下には税関及び灯台局(のち航空標識管理所)を置いた。
・・文書課
・・官房・・・経理課
関税局・・・監督部
・・鑑定部 ・・貨物係
・・南大門出張所・・・庶務係
ちなみに、7代まであった総税務司はすべて外国人である。
1代:P.G.Mellendorff(独)1883年12月赴任
2代:A.B.Stripling(英)1885年9月赴任
3代:H.F.Merrill(米)1885年10月赴任
4代:J.F.Schoenicke(独)1889年11月赴任
5代:F.A.Morgan(英)1892年11月赴任
6代:J.M.Brown(英)1893年1月赴任
7代:目賀田種太郎(日)1905年11月赴任
次に、地方税関行政機構の推移をみると、前述のとおり1878年釜山豆毛鎮海関が最初に設置され3か月で閉鎖されたが、1883年の日韓通商章程により釜山、仁川、元山等の開港場に海関が設置され、1890年代に鎮南浦、木浦、群山、馬山、城津等が開港されるとそれぞれ海関または海関支署が設置され、海関業務に経験のある欧米人を招いてその業務を担当させた。1904年に第一次日韓協約が締結され顧問政治が始まると、度支部財政顧問目賀田種太郎がJ.M.Brownに代わって総税務司を兼任し、1908年1月から「税関官制」を施行し、同年4月に「税関支署の名称、位置及び管轄区域」を制定・公布し、1908年1月に「税関分課規程」を制定・公布した。
○1908年1月の税関の分課
・・官房
・・税務課
税関長・・・監視課
・・検査課
・・港務課
○当時の貿易量と関税収入 (単位:1,000円)
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・ 区分・貿易総額・関税収入・B ・財政収入・B ・租税収入・B ・
・年度 ・(A) ・(B) ・A%・(C) ・C%・(D) ・D%・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・1906・ 39,194 ・ 2,112 ・5.41・ 7,485 ・28.2・ 6,421 ・34.7・
・1907・ 58,361 ・ 3,050 ・5.22・16,459 ・18.0・ 8,960 ・23.5・
・1908・ 55,139 ・ 3,177 ・5.76・23,273 ・13.7・ 10,088 ・30.0・
・1909・ 52,898 ・ 2,955 ・5.69・29,228 ・10.3・ 10,947 ・29.0・
・1910・ ・ ・ ・23,766 ・ 8.9・ 9,062 ・22.3・
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資料:韓国関税協会編「韓国関税史」
1910年8月22日、日韓(当時の正確な国号は大韓帝国)併合が成就すると、日本は欧米列強への懐柔策として今後10年間韓国における外国貿易及び対日貿易に関して従前と同一の関税を賦課することを内外に宣言した。したがって日韓併合後10年間は従来の旧韓国関税制度がそのまま踏襲されたので、この10年間を旧関税据置期間という。
しかし、日本は、旧韓国関税制度が不文律的な慣例に依存する場合が多く、その運用上不便が多くて課税の公平を欠く等の理由で、同宣言に抵触しない範囲で関税関係法規を制定・公布した。1912年3月に朝鮮関税令、朝鮮関税定率令、朝鮮保税倉庫令、朝鮮トン税令等を、1913年3月には朝鮮陸接国境関税令を制定・
公布した。これらは日本の関税法規を模倣し、それに韓国の特殊事情を加味したもので、1920年8月の旧関税据置期間満了のときまで存続した。
朝鮮関税定率令の別表である輸出入税表(関税率表)は数回改正されたが、それは日本の対韓国植民地政策に副うもの、つまり対日輸入税の免税範囲を拡大することにより、韓国を日本の工業製品特に消費財の商品市場または原料供給地として確保しようとするものであった。実際、合併後10年間の韓国の輸入品はそれらの商品が全体輸入額の90%以上を占めた。
当時の税率表は、輸入税はすべての商品を16類に分け、品目別に5%から20%まで多様な従価税率を賦課し、輸出税は小麦、大豆、小豆、荏胡麻子、生牛、牛皮、石炭、鉄鉱に対して一律5%の従価税を賦課しその他は無税であるという点に特色がある。
1920年8月28日、旧関税据置期間が満了すると日韓統一関税制度が実施された。当時総督府に設置した関税調査会が定めた基本方針は次のとおり。
第1に、旧韓国関税法を8月29日から全廃し、日本の現行関税法を施行すること。
第2に、ただし、韓国の経済事情などを考慮して法律で若干の特例を設定し、適当な時期にこれを撤廃すること。
第3に、日韓間の経済交流を促進し産業の共同発展を期するために、両国間の関税はこれを完全に撤廃する方針とする。ただし、日本側は日韓統一関税制度施行と同時に対韓国輸出入税を全廃するが、韓国側は新たな文化施設などの拡充により多額の経費が必要とされるので、総督府の歳入中重要な地位を占めている対日輸入税を当分の間これを存置し漸次適当な時期にこれを撤廃する(その後1941年に全廃された)。
第4に、日本と韓国とは消費税制度が異なるので、その貨物の両国間の移動に関して適当な調整をする必要があり、別途港税制を制定して消費税の調節を図る。
以上の基本方針により8月26日勅令で「関税法、関税定率法、保税倉庫法、仮置場法等を朝鮮に施行する件」を公布して日韓間には統一された関税制度を施行し、両国間には関税障壁がなくなった。
日本統治時代の税関行政機構は次のとおり。
1910年9月の「朝鮮総督府税関官制」によれば中央行政機構として朝鮮総督府司税局に関税課を置き、地方行政機構として4税関、6税関支署、2税関出張所、19税関監視署を置いて旧韓末の税関行政機構をそのまま踏襲していた。
その後機構改編により1923年には司税局関税課が財務局関税課になり、地方機構も何回かの改編を経て1942年の朝鮮総督府税関官制によれば、4税関(仁川、釜山、新義州、羅津)、20税関支署(ソウル、群山、海州、元山、城津、清津、雄基、會寧、三峰、南陽、訓戒、恵山鎮、大邱、木浦、鎮南浦、平壤、龍岩浦、多獅島、満浦鎮、中江鎮)、73税関出張所、4税関監視署があった。当時の税関内部機構は次のとおり。
・・庶務課
・・税務課
税関長・・・・・監視課
・・調査課
・・検査課
第二次世界大戦が勃発すると、1943年12月18日から韓国内の全税関が姿を消した。それは総督府交通局傘下の1機関として埠頭局という機関が新たにでき、従来の税関機構とその業務がそれに吸収統合され、中央機構である総督府財務局税務課関税係も同時に閉鎖されて、交通局運転課に新設された埠頭係が縮小された関税行政事務を部分的に担当するようになったからである。
韓国の対外貿易は1941年をピークとし、日本の戦時体制突入及び他の主要国家による経済封鎖等の結果として対外貿易は激減し、殆ど途絶状態になったため関税業務自体がなくなったのである。一方、日本の軍部の圧力により、戦時海運行政を軍部支配下に一元化するために各種海運行政機構を統合し、税関を閉鎖し、輸送力増強のための非常手段として1943年4月には「関税法戦時特例」が韓国にも施行され、船舶及び保税区域に関する関税法上の取締が大幅に緩和されて入港時の税関提出書類を減らし、外国貿易船も不開港に自由に出入りできるようにし、陸路運送に関する通路制限も廃止した。このように戦時体制の確立と軍部の圧力により、60年間の伝統をもつ韓国の税関は日本の植民地支配が終わるまで一時姿を消したのである。
日本統治時代の貿易現況及び朝鮮総督府財政に占める関税の比重についてみてみると、対日輸出入額は全体輸出入額の大部分を占め、平均値でみて輸出総額中約80%程度が対日輸出であり、輸入総額中約75%が対日輸入であったが、貿易逆調も深刻で1940年の輸入額が1,536,367千円であるのに対して、輸出額は947,809千円であった。輸出入品目構造は、原料及び半製品を輸出し、完成品である消費財を輸入する後進的垂直貿易の特徴をもっていた。
このような貿易状況下の関税負担状況をみると総輸入額に対する関税負担率は1911年〜1917年までは7%内外だったが、その後漸次低下して1918年〜1922年の間には5%、1923年〜1936年では2.5%、1937年〜1940年には1.5%、1941年以後は0.5%程度であった。一方関税収入は財政収入の増加率に比して非常に緩慢で、日本統治初期の総督府財政収入中での関税収入の比率は7%以上であったが、中期には4%、末期には2%程度に低下し、したがって総租税収入中の関税収入の比重も初期の30%から中期20%、末期10%程度まで低下した。
終戦以後1948年8月に政府が樹立されるまでの混乱期には、国内経済が暗澹とし、社会が不安な中で密輸が横行して大きな社会問題の1つになった。当時の密輸の中心地は南海岸一帯であり、密輸対象国は日本、密輸出品は主に米穀であり、密輸入品は主に化粧品、衣類品、医薬品、学用品、洋服地等であった。
このような中で米軍政当局は、1946年1月軍政法令として対外貿易規則を公布するとともに、密貿易を取り締まる目的で税関職員100余名を韓国各地に配置し、日本統治末期に閉鎖された税関を本格的に再開しようとの動きを見せ始めた。1946年2月5日には、従来は中央で税関行政を担当していた交通局埠頭係を廃止し、税関行政の中央機構として従来の埠頭局を港務庁と改称して税関行政を引き続き担当することとなったが、1946年4月27日に海関課の職務を財務部に移管し、税関課と改称して港務庁を税関と呼称するようになった。
当時の税関行政はまず密貿易の取締りから始まり、監視船の増配、密輸取締機動隊の編成に続き、密輸取締りに全国民の協力を得るために、軍政当局は1946年10月8日には軍政法令として密輸通報者及び検挙した官吏への賞与金制度を創設した。
しかし、関税制度自体は日本統治時代のものと大きな変動はなく、軍政法令第21号により他のすべての法令同様、日本統治時代の旧関税法、関税定率法、保税倉庫法、保税工場法等の関係法規をそのまま引き続き施行することとされた。しかし、終戦とともに激変した韓国の社会・経済的事情は旧関税法規の改正を不可避とし、第1次改正(1946年10月)は輸入関税率の全面的引下げを内容としたものであり、第2次改正(1948年4月)は過渡政府の保護関税政策による従価1割均一関税率の採用と食糧に対する輸入税免税措置、第3次改正(1948年7月)は保税倉庫法及び関税法の改正により、保税倉庫の蔵置期間を6月内に制限し、その期間が経過した場合には売却することができるようにしたこと等である。
当時の税関行政機構は、1946年1月3日の対外貿易規則の公布により交通局海事部に海関課を置いたことは前述したが、その後同年4月には海関課の職務が財務部に移管されるのと同時に海関課を税関課に改称して同部国庫局に所属させたが、その内部組織は次のとおり。
・・総務係
財務部・・国庫局・・税関課・・・鑑定係
・・監視係
・・特別調査及び統計係
地方税関機構は終戦直後には日本統治末期の埠頭局を港湾庁と改称し、仁川及び釜山にそれぞれ港務庁を置き、他の主要港口には港務庁支署をおいて税関業務と港湾行政事務を同時に担当させたが、1946年4月には港務庁及び港務庁支署を廃止し、開港場に指定された仁川、釜山、ソウル、木浦、墨湖に税関を設置し、その他主要港口に税関監視署を置いた。その後1947年8月に新たに開港場に指定された金浦、群山、済州等に税関出張所をおいたが、不開港である主要港である麗水、馬山、鎭海、浦項、統営、三千浦、方魚津等には税関監視署を置いた。軍政時代の税関内部機構は次のとおり。
・・総務課
税関長・・・税務課
・・鑑定課
・・監視課
その後1948年6月には軍政法令により国庫局税関課を税関局に昇格させると同時に、従来米軍政庁運輸部所管であった港湾行政事務を財務部税関局に移管し、各地方税関に港務課を新設した。
軍政初期の対外民間貿易は1946年の軍政法令「対外貿易規則」により厳しく制限されていて、民間物資配給計画により軍政から直接輸入する貿易以外には正常な対外貿易は殆どみることができず、密貿易だけが猖獗を極めた。その後過渡政府商務部令第1号「外国貿易規則」が公布され、輸出入取引は商務部貿易局の免許を受けることとし、漸次民間貿易が官営貿易の中から芽生え始め、1947年から急激に増加したが、やはり貿易逆調は深刻であった。1948年には輸入総額が8,857,457千円であったのに対して、総輸出額は7,195,746千円であった。
次に関税収入の推移をみると、1947年に過渡政府が国内産業保護対策として1割均一輸入税制度を実施したが、この10%均一税は当時各国の関税率と比較すると非常に低い率であり、事実上保護関税の役割を果たすことはできず、財政収入もあげることができなかった。1948年の関税収入は1,558,473千円であり、これは総歳入の6%程度しか占めることができなかった。
1948年8月15日の韓国政府の樹立により、関税政策も漸く韓国が独自に遂行できるようになった。財務部の職制が整備され、税関局が正常に関税行政を統括できるようになると、初代税関局長姜聲 以下の初創期メンバーたちは新たに一元化された関税法の制定を急ぎ、欧米各国及び日本、旧満州国の関税制度を参考にして新関税法及び同法付属税率表の草案を作り、政府案として1949年8月の制憲国会に回付、通過させ同年11月23日法律第6号として公布・施行した。
新関税法は、主に日本の関税法体系と旧満州国の関税制度を参考にしたが、その基本方向は次のとおり。
@日本統治時代の各種関税法規を統合一元化したこと。
A韓国の海陸両国境を考慮して欧米各国及び旧満州国の関税制度を参考にしたこと。
B新しい交通手段として登場した航空機、自動車等を法規制の対象としたこと。
C全面的に従価税制を採用したこと。
D外国人の通関業、保税倉庫及び保税工場営業等を制限して外来資本の侵入を防いだこと。
E財政収入と同時に国際貿易の発展に寄与しうるよう、税率を次のように定めた
こと。
イ.基本税率(3割)・・・国民の生活必需品として国内で生産することができる完成品。
ロ.最下税率(1割)・・・国内生産ができない緊急必需品と国内で生産できる生活必需品の原材料。
ハ.最高税率(10割)・・・煙草、酒類等特殊嗜好品に対しては禁止的高関税とすること。
ニ.無税品・・・建築資材の原材料である鉱・金属及び金属製品、緊要物資の原材料である鉱・動・植物、文化・教育・公益上の必要物品及び米、食糧、肥料等の欠乏重要物資。
F関税法違反事件に対して他機関は調査・処分できないこととし、税関長の告発がない限り検事が公訴提起することができないようにしたこと。
新関税法による関税政策が軌道に乗った1950年、6・25動乱(朝鮮戦争)が勃発した。生産施設は破壊され、戦費支出によるインフレは昂進し、税制も戦時体制に転換しなければならなかった。そして、関税政策も財政関税政策に重点が置かれ、同年12月には全文4か条で構成された関税臨時増徴法が制定・公布された。この法律の内容は、輸入税率表中の無税品のうち食糧及び書籍等を除いた140余品目に対する従価1割の臨時関税を賦課し、この措置は戦争終了の翌年12月末に廃止するというものであった。
また、戦争前から論議されてきたECA援助物資に対する関税賦課問題も、戦争勃発後緊急財政収拾策の一環としてこれを実施することとして、当時第2次遷都により釜山に移っていた税関局が直接一線に出て釜山港に入って来る援助物資を検査し民需物資に対する関税を賦課したところ、外資課税額が全国税収入の25%に達した。
さらに、当時の経済の実情と遊離した公定換率の適用が関税収入に及ぼす影響を考慮して、1951年4月を期して課税価格の算出に市価逆算制を採用した。
6.25動乱後の経済の混乱状態の克服には多くの努力と年月を必要とした。1962年からは経済開発5か年計画が実施されたが、当時の韓国経済の困難の1つ国際収支の慢性的逆調であった。これに対する対策として1961年7月29日には臨時特別関税法(第1次)を制定、閣令で定める4つの類別輸入品に対してそれぞれ10%、30%、50%、100%の臨時特別関税を賦課して国際収支の改善を図った(1963年12月31日廃止)。
その後1964年5月3日、基準為替レートを130:1から250:1にすると同時に外国為替証書制度を採用して外国為替管理制度の一大改革を断行し、輸出及び軍納等による外貨輸入の促進、国際収支の改善、低為替レートによる外貨浪費を防止し、外国為替証書の自由な売買を通じて実勢水準の変動に従って為替レートが自動的に調整されるようにした。第2次臨時特別関税法はこのような外国為替制度を関税政策面から補完・強化するために1964年6月12日から実施したもので、特定輸入外国物品に対して一般関税以外に臨時特別関税を追加して賦課することにより、輸入需要の抑制を通じた国際収支の均衡を期そうという目的があった。
1973年3月の廃止まで10年近く実施されている間、多くの論難があったこの臨時特別関税制度の内容は以下のとおりである。
輸入物品の国内卸売価格から関税・物品税・正常費用等を控除した価格を通常到着外貨価格で除した数値を外換対数といい、輸入申告当時の外国為替対個客売渡率に100分の30を加算した率を一定率として、特定輸入外国物品の輸入申告時の外換対数から一定率を控除した数値を課税標準とし、税率は第1種物品は90%、第2種物品は70%としている。簡単にいうと、輸入物品の国内卸売価格が輸入原価に比してあまりにも高く一定水準を超える場合に、その超過利潤部分を臨時特別関税により吸収することでいわゆる輸入人気品目の輸入需要を抑制して国際収支の改善を図ろうとするものであった。
6.25動乱後多くの米軍が駐屯したが、1966年7月9日になってやっと「駐屯軍地位協定(Status of Forces Agreement=SOFA)」を締結するに至った。翌1967年2月9日から発効したこの協定には、第9条に関税関係条項を設置して本協定で規定した各種の特権及び免除の場合を除いては、韓国税関当局が執行している法令に従うこととし、米国軍人、その構成員、軍属及びその家族たちが搬入する大部分の物品には検査省略及び免税の特典を付与している。韓米行政協定の発効に伴い、政府でも同協定施行に関する行政手続等を規定した臨時特例法(協定の実施に伴う関税法等の臨時特例に関する法律)を制定し、1967年3月3日から施行した。
しかし、このSOFAによる免税及び検査省略等の特典を利用してPXや郵便小包(APO)を通じて密輸品の流入が多くなり、韓国の大きな密輸ルートの1つになったため、それを取り締まるために韓国税関職員と米軍捜査機関からなる韓米合同取締班を設置するに至った。
政府樹立後に実施されたその他の重要な関税制度を年次順に列挙すれば以下のとおりである。
○噸税法制定 51.8.24.(75.1.1.より噸税徴収事務を港湾庁に移管)
○特定外来品販売禁止法制定 61.5.10.
○関税臨時措置法制定 61.7.29.(63.12.31.同法廃止)
○没収品・国庫帰属物品措置法制定 61.12.19.(76.12.22.同法廃止)
○BTN制採用 61.12.30.
○蔵置期間経過物品処理法制定 62.7.14.(67.11.29.同法廃止)
○密輸合同捜査班編成 65.6.18.(70.8.廃止)
○特定犯罪加重法制定 66.2.23.
○GATT加入 67.4.15.
○Negative Systemのための期別公告施行 67.7.25.
○弾力関税制度導入 67.11.29.
○CCC加入 68.10.2.
○関税庁発足 70.8.27.
○関税庁にComputer設置、関税行政の機械化 73.
○臨時輸入附加税法制定 73.7.1.
○1・14緊急措置 74.1.14.
○弾力関税制度、最初の発動 74.1.14.
○関税還付特例法施行 75.7.1.
1948年11月4日の財務部職制上の税関行政に関する中央行政機構は次のとおり。
・・関税課
財務部長官・・次官・・税関局・・・鑑定課
・・監視課
・・調査課
その後数次の改編があり、1950年代の戦時中には税関局に関税課と指導課の2つだけが置かれていたこともあったが、経済発展に伴い漸次再び機構が拡大されて、1967年2月7日の財務部職制によれば税関局に指導課、関税課、鑑定課及び国際課があった。
1960年代後半からは経済開発計画の進展に伴い貿易量が急増し、税関業務量も急増するに従って関税政策及び関税行政の分離・刷新が要望されるに至り、政府は1970年8月4日法律第2211号で「税関官署設置法」を改正し、関税行政の専担機構として関税庁を設置、同月27日から発足させ、財務部税関局は関税局に改編されて企画業務だけを担当するようになった。
一方、地方税関行政機構の変遷をみると次のとおり。
政府樹立の翌年である1949年2月9日に「税関官署設置法」が制定・公布され、同法により「税関官署の名称、位置及び管轄区域に関する件」を同年7月9日大統領令として制定・公布し、9税関(仁川、釜山、ソウル、麗水、群山、木浦、馬山、済州、墨湖)、1出張所(金浦)、17監視署(徳積島、龍湖島、大川、法聖浦、莞島、羅老島、三千浦、統営、鎮海、方魚津、浦項、欝陵島、注文津、翰林、西帰浦、城山浦、麻浦)を設置した。
その後1952年8月13日には「税関官署の名称、位置及び管轄区域に関する件」を新たに制定し、改編した税関機構は次のとおり。
仁川税関・・・・・・・・・・・龍湖島、徳積、大川監視署
・・馬山分関・・・・三千浦、統営、鎮海監視署
釜山税関・・・・墨湖出張所・・注文津監視署
・・・浦項出張所・・方魚津、欝陵島監視署
・・木浦分関・・・・法聖浦、莞島監視署
・・・群山分関
麗水税関・・・済州分関・・・・翰林、西帰浦、城山浦監視署
・・・・・・・・・・・羅老島監視署
・・金浦出張所
ソウル税関・・
・・・・・・・・・麻浦監視署
その後また何回かの改編を経ているが、詳細は省略する。
1949年11月23日(法律第6号)制定・実施された関税法は、1951年12月6日(法律第229号)の第1次改正以来、1967年11月29日(法律第1976号)の第15次改正による大改正を経て、現在に至るまで改正を重ねているが、詳細は省略する。