Counter 遠い昔韓国から来た私達のルーツ

 

太平記の里シリーズ

二千年韓国から来た私達のルーツ

三宅一族18万人系譜

児島高徳公直系同族会設立三十五周年記念』

★児島高徳六世裔【三宅太郎左衛門尉藤原芳高】が、

児島高徳公墳墓守護と供養の為、此処に在住四百五十年記念★

遠い昔(虎が煙草を吸っていた時代)韓国から来た私の祖先。
(ブログはOKですが、一部しかハングル/韓国語が貼り付きません)

左の写真は、我が遠祖児島高徳公の墳墓に、
建立の福田赳夫総理書墓碑です。
(3・11で傾く。群馬県邑楽郡大泉町古海551)

何故?私が日韓親善と日韓相互理解に生涯を掛けているのか?
其れは、私の元祖新羅四代王昔脱解/석달해>だったからなのです。
其れで、私の歴史は元祖昔脱解誕生から今年で、2035年です。


このpageは、yahoo!ブログに、06/7/30投稿した、
「天日槍・田道間守・児島高徳・三宅太郎左衛門藤原芳高・私」
を加筆・修正した物です。(他の画像と記事も御確認下さい)


   そして、このpageは、私の遠祖児島高徳公が晩年を過ごした、太平記の里・児島高徳公終焉の地案内記
  高徳公が此処に眠る縁で、六世裔の三宅太郎左衛門藤原芳高家老として迎えてくれた、
  冨岡家と菩提寺龍泉院、そして三宅氏の私及び、姓氏(苗字)で判る私達のルーツ
  更に、児島高徳と増位山の三保ヶ関部屋三保ヶ関部屋訪問記並びに、
  新田義貞と脇屋義助と楠木正成、そして児島高徳と共に、御覧下さい。

【元祖・昔脱解(석탈해・新羅四代王で昔氏/석씨の始祖)】

 * 竜城国或いは、多婆那国(昔の倭国の一国)の国王は女国の王女を娶って妻としたが、
  婚姻から七年後、大きな卵を産んだので、王は「人にして卵を生むのは不吉で有る」と言うので、
  王妃は忍び難く、絹布に卵を包み、宝物と一緒に櫃に入れられて海に棄てられた。(紀元前十九年)
   新羅/신라の阿津浦(現在の慶州市陽南面下西里/ハングル貼り付け不能)で、鵲(カササギ/까치)が煩く鳴いていたので、
  一人の老婆が櫃を拾い、大事にして育てたら、後に脱解王に成ったと言う誕生物語が伝わる。
       <鵲>の画像です。

   そして、脱解吐含山/토함산(仏国寺が有る山)に登って、七日間徐羅伐/서라벌を観察しただけなのに、
  半月模様の峰を見つけて、其処が明堂(下記[陰陽五行説]参照)と判断し下ったが、既に、虎空という人が住んでいた。
   脱解は、虎空の家の傍に炭と砥石が有るのを問うて、
  此処は、元々自分の先祖の家だと主張しながら、其処を占領してしまった。
   この過程を見聞きした新羅二代王朴南解/박남해(朴氏/박씨)が賢いと言って、脱解を壻にしたのだった。
   鵲の字を略して「昔」を姓とする。
   韓国では、鵲は非常に縁起の良い鳥と言われる。

  (AD65年、当時の新羅王で有る脱解尼師今が、鶏林で、金の箱を見付け、其の中の子に、
  金姓を与えたのが、慶州金氏の始祖金閼智で有るので、月城昔氏と親戚です)

   都の意味の<ソウル/서울>を思い浮かべ、空を見上げる為、<ソラ/서라>に成った様に、
  脱解の倅仇鄒/구추が天日槍(アメノヒボコ/男性の太陽神を意味する)の弟知古/지고と思われる。
  (徐羅伐/서라벌は、新羅の首都名で、抱え切れない大きな都を意味する)

   <昔脱解/석탈해>の陵は、慶州駅北東に有り、本貫は月城/월성のみ、
   新羅で昔氏姓を持った八人の王の中で墓が残って居るのは脱解王陵だけ。
   <三宅氏>の元祖が脱解の後裔だと言う書籍が韓国に有り。
   三宅氏は、大和朝廷の直轄地屯倉・皇族を意味する宮家(高徳公生誕五流尊瀧院の姓)に縁が有るが、、
  新羅王朝を司った朴・昔・金の三つの一族を指す姓氏なのです。

   ● 脱解王の詳細は、19世紀編纂の「新羅本記」に記載されていると言う。
        (下の画像は、脱解王陵 慶北慶州市東川洞山17 史蹟 174号 新羅時代
        (아래의 화상은/탈해왕능 경북 경주시 동천동 산 17 사적 174호 신라시대)

* 尚、脱解王は、61歳のAD57から80迄即位したので、天日槍が息子/자식と判断出来ます。
脱解王陵の有る<屋根の無い博物館慶州/경주>に付いては、愛車3000キロ韓国周遊の旅を御覧下さい。

【始祖・天日槍(あめのひぼこ)或いは、天之日矛】

 * AD後(紀元後)の垂仁天皇の頃、天日槍は、新羅の国の脱解王の王子として生まれる。(脱解王即位前)
 * 新羅の阿久(アグ)沼<大韓民国慶州市>の辺で、
  昼寝をして居た女性が太陽の光を浴びて、目映い赤玉を産み落としたと言う噂を聞いて、
  譲り受け、持ち帰った処、赤玉は美しい乙女に変身し、天日槍は妻に娶り、楽しい歳月を送るが、
  夫婦喧嘩の末に「祖国へ帰る」と云い残し、日本に逃げ帰った妻阿加留比売(あかるひめ)を追い、
  家督を弟知古/지고に譲り来日。
   其の間阿加留比売は難波<大阪市>の比売詐曾(ひめこそ/日の巫女を意味する)神社の祭神と成ってしまう。
   天日槍は八種の神宝を持参し、八千名の供を連れ、難波を目指し、
  一旦播磨の国宍粟(しそう・兵庫県宍粟郡)に上陸。
   (垂仁天皇・治世三年三月・AD31)噂を聞いた垂仁天皇は使いを出し、何故新羅の王子が日本に来たか問うと、
  「立派な王が居ると聞き、神宝を持参した」と答えると、其の宍粟周辺の領地を与える約束を受けたが、
  愛妻を探し求める為、宇治川を上り、近江の国<滋賀県>・
  若狭の国<福井県>から但馬の国<兵庫県>をさ迷ったが思い果たせず、
  (難波を播磨・但馬と聞き間違えたのか?)出石の住人俣尾(またお)或いは、麻多烏の娘前見津(まえみつ)を娶り、
  天日槍は、製鉄を始めとする大陸の優れた技術と文化を伝えた。
   出石神社の祭神で、製鉄の神様と言われている。

  * 天日槍比売詐曾夫婦は、太陽神太陽神を祀る巫女で、
   天日槍の父新羅四代王昔脱解が生まれた竜城国或いは、多婆那国は、今の滋賀・福井・兵庫周辺だったのです。

八百萬の神が存在するが、其の中で太陽を意味する神は、
天照大神>と<天日槍>しか居ない。


   元祖昔脱解が日本で生まれ・始祖天日槍が大韓民国から来たと言う事も、東亜友誼慈業研究会 設立の要因です。

【三宅連(むらじ)の祖先・田道間守(たじまもり)或いは、多遅摩毛理】
田道間守墓 - 奈良の垂仁天皇陵の近く。

      (連(むらじ)とは、制定的姓[かばね]の一つ。
      「群(村)主」の[むれあるじ]の転化とされるが、古代朝鮮職制の「村主[すぐり]」と、
     集団首長を意味する「里/동네」と、主長を意味する「連/연」の合成語。
      国神系として安曇氏族、帰化系として三宅氏族が特例で連姓を得た。)

* 古事記と日本書紀に拠ると、天日槍の子但馬諸助(もろすけ)或いは多遅摩母呂須玖(もろすく)
 →多遅摩斐泥(ひね)→但馬日楢杵(ひならき)或いは多遅摩比那良岐→田道間守
 (但馬清彦或いは清日子は田道間守と兄弟です。)は、
 垂仁天皇(垂仁天皇九十年二月)の命を受け不老長寿の橘の実(非時香菓)と、黒砂糖を求めて、
 常世国(とこよのくに)<大韓民国済州島/ 대한민국 제주도>への旅に出た。
  遥かに遠い荒波を渡り、十年の歳月を命がけで橘の実と黒砂糖を捜し求め、
 持ち帰ったものの、天皇は崩御。天皇陵に橘を捧げつつ、精魂尽き息絶えた。
  現在でも、奈良の垂仁天皇陵には右近の橘が植えられていて、
 田道間守は、和菓子の神様と言われている。(田道間守の名は、橘の実が語源と云われる)

【備前源氏中興の祖・佐々木盛綱公(ささきもりつな) 法名 西念
佐々木盛綱と妻の早瀬の墓(安中市松岸寺)。

* 宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国佐々木荘に下向し、其の地に土着した孫の経方が佐々木氏を名乗り、
 其の経方を曽祖父とするのが、佐々木盛綱(加地盛綱)で有る。
  盛綱の父佐々木秀義(源三秀義)が、平治の合戦に源氏方が大敗した際、佐々木荘を捨て、
 一族郎党等を引き連れ、伯母の嫁ぎ先である奥州平泉の藤原秀衡(ひでひら)を頼り都落ちした。
  其の後、盛綱は三河守源範頼(頼朝の異母弟)に従い、「藤戸合戦」に参戦し、
 遠縁の備前国邑久郡豊原庄の豪族飾磨三宅氏三宅武範の知恵(平家物語の巻十[藤戸の事])に依り、
 勝利を得、其の功績で頼朝から、備前児島を与えられ、備前源氏と称す。
  其の後、上野国・越後国・讃岐国・伊予国を統治し、盛綱自身は上野国磯部(古くは伊勢部)荘を隠棲地とし、
  東磯部4丁目の松岸寺に佐々木盛綱公夫婦の墓が有り、範長公は佐々木盛綱の六世裔で有る事から、
 我が遠祖高徳公・先祖三宅藤原芳高等一族は、磯部城に在する盛綱一族と行き来していた。

  尚、盛綱の弟佐々木四郎高綱の後裔が、乃木希典大将で有る事は有名です。

  合戦に入る前、大将が自分の素性を名乗るのが慣わしだが、
 盛綱は藤戸合戦の際「今日、海を渡り、先陣駆けた大将を誰と見る、人皇五十九代宇多天皇の皇子、
 一品式部卿敦実親王より九代の後裔佐々木源三秀義が三男、佐々木三郎盛綱なるぞ、
 平家の我と思わん者、侍として、大将として、落ちおうて、組めや組めや」と大きい声で告げた。
  この様に、私達の先祖達は血筋を入れて、名乗った訳ですが、今は総理も大臣も血筋が悪く、
 遺伝学上最悪な従姉弟同士の結婚をした者が、国のリーダーに成れる世の中は異常だ。


【三宅一族中興の祖・和田範長公(わだのりなが) 法名 一結諦等居士

* 和田備後守藤原三宅範長は、備前源氏佐々木盛綱→信実→加地次郎実秀→実綱
 →加地源太左衛門時綱→綱秀の子として、建治二年(1275)備前の国邑久郡和田村に生誕。
  児島太夫三宅範勝に後継無く、養子として迎えられる。
五輪塔左から、和田備後守範長公・今木太郎
範季公・今木次郎範仲公・中西四郎範顕公・
松崎彦四郎範代公の墓(赤穂市坂越)。


  溺愛の孫児島高徳を七歳の時、養子に向え、文武・陰陽道・儒学等を訓え、
 高徳元服後、共に全国を転戦、延元元年(1336)三月二十日傷深い高徳をこの地の妙見寺の良覚上人に預け、
 脇屋義助の居る三石に向かう途、早朝、赤松一族の宇野重氏らの軍勢と遭遇。
  降伏を乞うたが此れを断り、僅か八十三騎で三百騎以上と交戦したが、手に負えず、阿弥陀宿迄後退。
  大日寺に到着した時は、六騎と成り、範長は責任を感じ、最早此れ迄と自害した。59歳。(仝二十二日)
  追っ手の大将宇野重氏が来て、<笠符に裾黒>の紋を見て、
 思わず「嗚呼!我が親戚の児島・和田・今木の人達では無いか判っていたなら、
 命に代えても助けたものを」と嘆いた。
  一人残った和田四郎範家は、其れを聞き、「和田四郎範家此処に有り」と叫ぶと、重氏驚いて、
 妹の婿が生きて居たのを喜び、大日寺に範家を匿い、五人の遺体を仮埋葬した。

  《この時点で我が一族は、高徳と範家の二人だけに成ってしまったので有る。》
  《この合戦時、盟友新田義貞の軍勢は、阿弥陀宿の東一里程の所に居たと言う。》
  《南北朝時代は、この様に血族・婚族も合い交える戦いだったのです。》
  
  《この時、範長の後を追って自刃したのは、今木太郎範季・今木次郎範仲・中西四郎範顕・松崎彦四郎範代。》画像→。

  * 範長が養子として、三宅一族に加わなかったら、
   忠臣としての高徳の出現は、無かったろうから、範長公は、三宅一族中興の祖と言える。
 【画像解説】
 左上から、① 墳墓の南側は坂東太郎の土手に成ります。
        ② 高徳公六百年祭開催に尽力された方々の御芳名が刻まれた碑。(下記参照)
        ③ 左が墳墓塔と右に記念碑。(石碑と墳墓塔の後が歴代住職の石塔。)
        ④ 遠く赤城山方面。(左から、墳墓を見た順です)
文部省唱歌児 島 高 徳
①船坂山(ふなさかやま)や杉坂(すぎさか)と
  御(み)あと慕ひて院の庄(いんのしょう)
  微衷(びちゅう)をいかで聞えんと
  桜の幹に十字の詩
  『天勾践(こうせん)を空しうする莫(なか)れ。
  時范蠡(はんれい)無きにしも非(あら)ず。』
②御心(みこころ)ならぬいでましの
  御袖(みそで)露けき朝戸出(あさとで)に
  誦(ずん)じて笑(え)ますかしこさよ
  桜の幹の十字の詩
  『天勾践を空しうする莫れ。
  時范蠡無きにしも非ず。』
   大正3年6月の『尋常小学唱歌(六学年)』から、
  昭和7年の『新訂尋常小学唱歌』迄掲載され、
  忠臣児島高徳の故事として、
  戦前迄教科書にも載りました。

 左中から、① 医王山延命院高徳寺の入口左の看板です。
        ② 上の画像芳名碑の拡大画像です。

 * この碑には、高徳公六百年祭開催に尽力された方々の御芳名が刻んで有ります。
    内閣総理大臣 福田赳夫      群馬県知事 清水一郎  前建設大臣 長谷川四郎
    通産政務次官 中島源太郎 等  第一新聞   宮家史朗  等等、
    
   高徳公末裔 東京都  三保ヶ関国秋  仝   増位山太志郎  仝   北の湖敏満
           尾島町   宮下八郎   太田市 稲村陸合一    仝   稲村伝 
           月夜野町 入内島金一   仝   入内島一崇  大泉町 三宅英四 (私の父)
   高徳公史跡保存会長  細谷清吉   高徳公顕賛会長 稲村陸合一
   高徳公忠桜会長     庭田尚三   新田吟道会長   岡野鉄次郎 

        ③ 福田赳夫総理書墓碑の拡大画像です。
        ④ 上毛新聞社の群馬の百景に選ばれた記念看板です。錆びてしまいました。

 左下から、① 六百年祭奉納北の湖の横綱土俵入りの際、北の湖等が休憩した古海公民館です。
          (改装されましたが)
        ② 新築された高徳寺本堂です。
          高徳寺は、残念ながら住職は<赤岩山光恩寺>から通いです。
          (私が子供の頃、古い庫裡には、老婆が住んで居ました)
        ③ 昔の侭の山門と鐘楼です。
        ④ 寺入口右の岡野鉄次郎書高徳公と高徳寺の由来を記載の看板です。

 【人物解説】   
  ● 福田赳夫・中島源太郎に付いては、自己紹介三宅藤原氏族会 を御覧下さい。
    (21歳から、中島源太郎後援会のメンバーで有った関係で、
    父と二人福田赳夫総理に、この問題を陳情した時、
   実弟の宏一秘書が、赤坂プリンスホテルの清和会事務所と議員会館に詰めて居て、話を聞いて戴きました。
    其の後参議院議員に当選し、私は恩義から、度々前橋の事務所を支援に訪れました。
    康夫元総理が、赳夫総理秘書の時代です。当時地元では、総理の事を大先生、弟を宏一先生と呼称していました。)
霧ケ峰慕情宮家ゆか 唄
①淡雪に踏まれてもなお夏を待つ
  花一輪の霧深く君の影消えて忘れじの丘
  今日も来る想い出の日は遠く
  あヽあヽ霧ケ峰 霧ケ峰
②緑の海分けてかけ行く見渡せば
  白樺湖浮ぶ霧に泣くあの姿想う
  忘れじの丘捨てた石現在もなお残されて
  あヽあヽ霧ケ峰 霧ケ峰
③強清水宿の灯消えて高原の風もさヽやく
  霧流れ星空しのぶ
  忘れじの丘独り来て明日の旅想う時
  あヽあヽ霧ケ峰 霧ケ峰

  ● 宮家史朗は、「児島高徳実在論」の著者。(遠祖の墳墓を守っている私の家が有る事で、
   此処に移り住み、タブロイド版の「第一新聞」を発刊。
    最も父と仲の良かった親戚で、私は、「叔父さん、叔父さん」と呼んでいました。
    太田市に越された後も、ス-パーカブで良く来てくれました。
    娘の宮家ゆかさんが、<霧ケ峰慕情>で、デビューされたのですが、
   縁有り気か?私の父の姉が、同じ名のゆかで、気に入り、何枚もレコードを買いました。
    印刷業に転業した太田市の自宅を訪問した時、坂本竜馬の手紙を見せてくれたのが昨日の様です。
   高徳公生誕の五流尊瀧院の宮家姓を継ぐ縁の人。
  ● 三保ヶ関国秋は、増位山太志郎(三保ヶ関昇秋)と北の湖敏満(相撲協会理事長・養子)の師匠で父親。
    (北の湖入門時の話、北天佑の名付の意味等を聞いた事が思い出されます。
    そして、澤田昇[増位山太志郎]の72年12月の雍子夫人との結婚披露宴・80年4月の大関披露宴に、
   招かれ、宮家史朗と共に、会場のホテルニューオータニに行き、祝って来ました。)
  ● 稲村陸合一は、八木節の名手。
  ● 宮下八郎は、高徳公の娘徳子が十九歳で嫁いだ宮下正治の末裔。
  ● 入内島金一は、田中角栄の手下で、「室町産業」を経営していた悪徳人物。
  ● 入内島一崇は、金一の倅、現在「財)群馬県観光国際協会」理事。
  ● 三宅英四は、私の父。
    <公の後裔を名乗るこの内、三宅姓で、家紋「三宅輪宝」を使うのは我が家のみです。>

  ● 細谷清吉は、新田一族の細谷右馬助の末裔。
  ● 庭田尚三は、戦艦大和の設計者の一人で、海軍中将だった人で、
   この方が居なければ、行政の協力は得られませんでした。岡山から何度もおみ足を運んで戴きました。
   * 既に、黄泉の国に逝かれた方には、敬意を表し合掌します。

【遠祖・児島高徳公(こじまたかのり)】 法名 志純義晴大徳覚位

   (「南朝五忠臣」とは、楠木正成・北畠顕家・名和長年・新田義貞、そして我が遠祖児島備後三郎藤原三宅高徳です。
   中でも、鳩派の楠木正成に対し、信念を曲げない鷹派の児島高徳と言われていたのです。)
   (高徳公曽祖父夫人は、藤原信実の第六子、公の妹は、藤原氏に嫁ぐ)

 * 三河三宅氏系図に拠ると、天日桙命→多遅摩諸助→但馬日楢杵→清彦→田道間守→(中略)
 →郷守→重範→範守→範勝→和田範長児島高徳
  児島高徳は、開運除災とご祈祷の本山倉敷市五流尊瀧院で、
 後鳥羽上皇の第四子頼仁親王の第四世の頼宴大僧正を父に、
 佐々木盛綱を祖とする和田備後守藤原三宅範長の娘を母に、正和元年(1312年)生誕。
  父の教えに従って、和学を学んでいたが、
 後鳥羽上皇や花園天皇・後醍醐天皇が北条氏の為に酷い目に遭っている事を聞き、
 武士に成って、北条氏を討とうと決心し、外祖父の 和田備後守藤原三宅範長 に預けられた。
  高徳は元服後児島姓を名乗り、一門の頭領として北条氏・北朝方討伐に孤軍奮戦した。
  元弘二年(1332)三月七日後醍醐天皇が隠岐に流される時、天皇奪回出来ず、
 院庄行在所の桜の幹に天莫空勾践 時非無笵蠡の十字詩を刻み天皇に忠誠を誓った。
  <私は、運送業を営んで居た時、其の跡地に有る作楽神社を父母と参拝した際、
  新田義貞の弟脇屋義助の四国征伐に従軍したが失敗し、義助は病死。義助の遺髪を預かり、其の兄義貞を今度は助け、
 其の縁でここ上野の国<群馬県>に、天授六年(1380年)三月真言宗古義派医王山延命院高徳寺を開山しながら、
 南朝の勢力回復に努め、永徳ニ年(1382)十一月二十四日72歳で其の生涯を閉じた。
  [正和元年(1312)生誕で、永徳ニ年没したと成ると70歳だが、
 数え年と陰陽五行説等の元日から節分迄の生まれは、+1歳の数え方に成る為。]
 管理事務官の田口熊雄に御会いし、寄付をして来た事を思い出します。>  
  (下の画像は、院庄作楽神社にて、買い求めた絵馬)

  自身が「太平記」の作者小島法師(共作者名)の一人で有ると言う。
  (尚、高徳の妻は、伊予の国の瀬戸内水軍河野和道[河野氏一族]の三女の貞子。其の縁から私の母も貞子)

  全国に墳墓が九箇所有る事で、児島高徳の存在を疑う学者が居ましたが、
 児島高徳の研究者で、忠桜会会長庭田尚三元海軍中将<戦艦大和の設計者>等何度も訪問され、
 私の家に伝わる資料等で、私の家から二キロ程の処に有る墳墓が本物と全国に報道され、
 高徳公没後六百年忌の名誉会長に福田赳夫総理<当時>をお願いし、北の湖・増位山・闘竜を招き、
 墳墓前で横綱の土俵入りの奉納等、大泉町を挙げて執り行いました。

  尚、高徳は、四国伊予で亡くなった脇屋義助の遺髪を義助の故郷の萬明山聖徳院聖宝寺に送り届け、
 臨終の有様と、伊予の国分寺の住職智承の諡った法号「正法寺傑山宗栄大居士」を語り、
 この後、聖宝寺は[古義真言宗脇屋山正法寺]と改称した。
  私は、1973.08.14 父と正法寺を訪ね、遺髪塚を参拝し、住職の好意で、
 本尊の純金聖観音(しょうかんのん)も拝観し、<新田の旗風>を求め、御守りを戴いて来ました。

  2011.06.04 37年ぶりに亡き父の代わりに愛妻を連れて、正法寺を訪問しました。
 【画像解説】
 左から、① 整備される前の墳墓にて、亡き父英四。(父の横の大卒塔婆は、宮下八郎邸の欅の提供を受け、
      稲村陸合一・岡野鉄次郎の尽力と三保ヶ関国秋の揮毫に依る当初の供養塔です1974.11.24建立)
      ② 寄付金集めに奔走の亡き三保ヶ関国秋
      ③ 院庄作楽神社にて、79年の私。(逆光なので、顔判別出来ず)
      ④ 院庄作楽神社にて、買い求めた御土産の土鈴。(今も、私の机の片隅に有ります。)
      ⑤ 院庄作楽神社の十字詩桜跡と社殿。(父母を連れて行き、父撮影)
      ⑥ 代々和田範長公の墳墓守を努める澤田範隆から戴いた姫路市別所の和田範長墓所の絵葉書。

【先祖・三宅太郎左衛門尉藤原芳高(みやけたろうざえもんのじょうふじはらのよしたか)】 法名 賢阿院東臨大禅定門

 * 児島誌・三河系譜・沢田家由来書・私の所蔵する正伝記に拠ると、児島高徳→次男三宅藤原高久は、
 父高徳が延元元年(1336)四月十九日の熊山の合戦で胸部骨折の重傷を負い、妙見寺で養生の間、
  母の貞子と兄高秀は尊龍院に預けられ、自分は松原山八正寺の堅覚法印権大僧正の弟子に成り、
 (この熊山の合戦の前、正室貞子と高秀・高久を除く、側室の小里(大橋貞省[尾張国海部郡津島四家の内奴野城主で、
 尹良親王の娘・桜姫が妻]の娘)と他の家族を遠縁の上野国磯部城主佐々木秀綱[盛綱の曾孫]に預けた)
 元大関で元歌手の増位山・三保ヶ関昇秋の先祖姫路の豪農元屋荘次左衛門を後見人にし、
 父高徳が、妙義で儲けた末妹徳子を連れ、古海高徳寺を訪ね、父高徳の世話をする。
 (妙義神社の麓に有る行田の彼岸桜は、徳子誕生の記念樹である) →(中略)→
 三宅芳高[永正九年(1512)生誕]は児島高徳の六世裔で、谷川岳を水源に日本最大の流域面積で、
 悠々と流れる利根川の畔に眠る高徳公の墳墓を守る為、芳高主従一行三十数名は、
 播磨から三河三宅(田原藩主の祖)で剣術修業の後、児島高徳や新田一族が京都や吉野方面に行く逆経路、天龍川を上り、
 或いは、浜名湖から南朝の道(秋葉街道)を登り、南朝陣営要塞地伊那谷の大河原等で、
 三年間在し後、諏訪湖に出て、笛吹峠(今の碓氷峠)を越え、
 三河三宅の親戚に当る、ここ冨岡秀信小泉城主)を頼り、永禄元年(1558)四月47歳の時、在を求めた。
  (芳高は、高徳と同じ三郎を名乗って居たが、此処に来て太郎を名乗る)
  冨岡三代秀信の家老を務めながら、祖先高徳公の冥福を祈り、護持を続けて居たが、
 永禄十二年(1569)十二月二十六日秀信病死後其の子富岡清四郎大炊介秀親と共に、
 北条氏系武州忍城主成田下総守と現在の太田市古戸で戦い、秀親負傷し、高徳寺で手当後、城内に運ばれたものの死亡、
 私の先祖芳高も深手の傷を負い、翌元亀元年(1570)一月二十三日奇しくも範長と同じ、59歳(数え歳)で死去する。
  五代冨岡対馬守秀高の妻妙智尼は、私の家から嫁いだ三宅太郎左衛門尉藤原芳高の娘で、
 後に、
赤城山要津院正眼寺を開基。
  対馬守の法号「要津院殿天性長源大居士」妙智尼の法号「正眼院殿愚安妙智大姉」の位牌を守護しています)
真言宗豊山派の成就院中興の僧
龍賀大法院が、我が祖「三宅太郎
左衛門尉藤原芳高」を葬った、筑肥
地山が有った県営太田ゴルフ場。
現在は富士重工モータープール
(1968.冬)。

 ★ 皆さんは、《陰陽五行説の陰宅・陽宅》を御存知だろうか。?
  陰宅は、先祖の眠る墓所を云い、陽宅は、其の現世に生きる後裔の在所を意味します。 
  其の間の距離は、近いのが望ましく、我が先祖三宅太郎左衛門尉藤原芳高は、
 三宅一族の本家本流として、此処に在したので有ります。

  陰陽五行説に付いて、我が家の正伝記に、範長・高徳共に、後醍醐天皇に命じられ、
 陰陽寮に奉じたと記述が有る。(韓国では、墓所を산소[san-so 山所]と云い、
 陰宅は음택[eum-taeg] ·陽宅は양택[yang-taeg]、そして寺は절[jeol]と云います)
  韓国から来た文化の中でも、
儒学と陰陽学は、素晴しい知識に成ります。

  明堂は、風水上の最良の土地で、陰宅・陽宅に絶好の為、所有争いが多かった。

 * ですから、私の先祖三宅太郎左衛門尉藤原芳高がここに居を構えて、
  代々今年で458年在住です。
 * 天日槍命が落ち着いた、出石町を是非一度訪れて見たいです。
 <そう云った歴史から、兵庫県出石郡出石町は、1991.11.07.慶州市と姉妹都市縁組を締結しています。>
 * 私は、児島高徳公直系同族会理事長として、日本氏族会の常任理事に選ばれましたが、
 当時多忙で、若かった為、加わる事は有りませんでした。
 * 二千年前韓国から来て、私の代で何度も韓国に行く事に成り、そして近い将来韓国で暮すつもりです。
  一衣帯水の日本と韓国なのに、歴史を見失ってしまった事が悔やまれます。
  yahoo!ブログに、姓氏(苗字)で判る私達のルーツ。 と書きましたが、
 三宅浮田児島松崎和田天日槍命児島高徳公の末裔凡そ百五十万人と、
 三宅氏を名乗る十八万人の内の幾人かの人に此れを読んで戴き、
 日の目を見た高徳公の墳墓に参拝戴ければ、代々守って来た甲斐が有り、幸甚です。
 * 我が家に伝わる「正伝記」の写しは、群馬県立文書館に、父の名前で所蔵されています。
    尚、「正伝記」に付いては、Wikipedia児島 高徳の「生没年」の項目に、記載が有ります。

 ▲ 即ち、高徳公の子→
   長男太郎高秀(宇喜多高秀)は、戦国大名岡山城主57万石宇喜多秀家の祖。
   次男次郎高久(三宅高久)は、松原山八正寺・姫路の沢田(古くは、左和田)家と、私の祖
   三男三郎高範(三宅高範)は、挙母藩主から、2万石田原藩主と成った三河の三宅氏の祖。
   四男良覚(母は小里)は、岡崎大林寺住職に成り。
   長女徳子(母は、上州・妙義の人)は、尾島宮下氏の祖で、
  父の墳墓を守って、応仁元年(1467)五月十六日99歳没。法号「国照院寿仏房」。

☆★ 全国に九箇所有ると言われていた<児島高徳公>の墳墓。☆★

新田義貞公が越前国藤島で討死後、一年足ら
ずで発病、左手に法華経五巻を持ち、右手に
剣を抱え、崩御された後醍醐天皇廟にて撮影。
(我が遠祖と後醍醐天皇は、従兄伯父甥の直
系尊属。07.04.13桜満開時、愛妻と墓参)
  ① 備前の国児島郡林村
   三宅屋敷跡と言われている処、児島高徳が生誕した五流尊瀧院に此処で、
  没したとの記述や伝承無し。

  ② 備前の国児島郡木見村
   院庄作楽神社創説者で、児島高徳の研究者道家大門に依ると、
  備後太右エ門と言う人の先祖の供養五輪塔で有ると言う。

  ③ 播磨の国揖西郡坂越村妙見山
   脇屋義助の軍勢と合流する約束に成っていた処で、熊山旗挙の時、
  重傷を負った高徳は、父範長に依って、
  この地の妙見寺の良覚上人に預けられ回復後、
  範長と謀り、高徳を死んだ事にして、墳墓に成ったのです。

  ④ 河内の国観心寺
   吉野で病死と言う説で有るが、吉野には一度行っただけで、再び帰る事は無く、病没は在りえない。
   後村上天皇の御陵桧尾陵の地。

  ⑤ 出雲の国能義郡雲樹寺
   この寺が、後醍醐天皇の勅願所だった為だろうか。?

  ⑥ 土佐の国高岡郡半山郷春日神社
   高徳の後裔の一人が先祖を祭礼する為の墳墓だろうか。?

  ⑦ 三河の国加茂郡東広瀬村高済寺(現在豊田市東広瀬)
   この寺に、三河三宅康貞が高徳の木像を安置した為だろうか。?三河三宅発祥の地で、高徳公が住んでいた処。

  ⑧ 陸中の国和賀郡妙見寺
   東北巡幸の際、逗留したが目的果たせず、「有待」(うたい・頼みにする処が有る。)の二字を残し、
  墓碑を立て、上州に帰還したので、
  此処で僧に成り、正平二十年(1365)乙巳五月十三日没との事は間違いで有る。
  (奥州平泉の藤原秀衡に祖佐々木盛綱の父の伯母が嫁いでいる縁で行く事が出来た)

★⑨ 上野の国邑楽郡大川村古海高徳寺
  高徳自身が開基の寺で、天授六年(1380)庚申三月建立、
 法号は、「志純義晴大徳覚位」と称す。宗派は、高野山真言宗。
  本尊は、大日如来。明和四年(1767)火災消失し、翌年十三世宥寛が再建。入り口に、枝垂桜の老木が有る。

  *  何故こうも多く、墳墓が有るのか?
  遠祖児島高徳公は、北朝勢に対する戦略として、自身で、墓碑を立て、行方を晦ます手段としたのです。
  永徳二年(1382)壬戌十一月二十四日没と記述の、
  私の家に伝わる「青銅霊碑」「正伝記」等で、此処の墳墓が本物と立証される。

  ■ 「公」とは、『南朝正統論』に依り、明治初期「南朝三十五忠臣」に天皇が贈位。
    そして、仝中期に追贈位。(数字は其の年。)

 児島高徳   16年正四位・36年従三位。 和田範長   16年従四位・36年正四位。
 新田義貞    9年正三位・15年正一位。 脇屋義助   16年従三位。          新田義顕   42年従三位。
 新田義興   42年従三位。          新田義宗   42年従三位。
 楠木正成   13年正一位。          楠木正行    9年従三位・30年従ニ位。 
 名和長年   16年従三位。          菊池武時   16年従三位・35年従一位。 菊池武重   35年従三位。 
 菊池武光   35年従三位。          菊池武政   44年従三位。          菊池武朝   44年従三位。  
 結城宗広   16年正四位・38年正三位。 結城親光   38年正四位。           日野資朝   17年従ニ位。
 日野俊基   17年従三位。          桜井茲俊   16年正五位・36年正四位。
 得能通綱   17年正四位。          土井通増   17年正四位。          足助重範   24年正四位。
 南部師行   29年正五位。          南部政長   41年正五位。          土岐頼兼   38年正四位。       
 多治見国長 38年正四位。          北畠親房   41年正一位。          村上義光   41年従三位。        
 六条頼元   44年正四位。           阿蘇惟直   44年正四位。           阿蘇惟澄   44年正四位。
 五条頼治   44年従四位。          宇都宮隆房 44年従四位。          松浦定     45年従三位。

 ■ 三十五の忠臣が居る中で、元弘元年故郷児島で出兵以後、
   永徳二年没する迄、五十一年間ブレル事無く、終始、
   後醍醐天皇・後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇の四代の天皇に忠節した忠臣中の忠臣は、
   我が遠祖児島高徳公以外には、居ないので有る。

 【画像解説】
 左から、児島神社参道。児島神社鳥居。児島神社社殿。児島神社南の坂東太郎(利根川)下流を望む。
 右端が、私の家に伝わる二つの「青銅霊碑」です。
  左側の霊碑の真ん中に、「伊勢国司三宅連名状 」と有り、
  右に、和田備後守藤原三宅範長の法号「一結諦等居士」。
  左に、児島備後三郎藤原三宅高徳の法号「志純義晴大徳覚位」と有ります。
  もう一枚に、三宅太郎左衛門尉藤原芳高の法号「賢阿院東臨大禅定門」の文字が彫られています。
  二枚共、純金の縁取りと台座だったのですが、戦争で削り供出してしまったと伝え聞きました。

☆★ 児島神社。★☆

  児島神社は、明治十二年(1879)十二月、児島高徳公後裔で、
 子爵の三宅康保(田原藩最後の十二代藩主)と私の高祖父三宅佐太七
 「児島高徳朝臣墳墓考」の著者で、世良田八坂神社神官の、阿久津盛為、更に、県会議員白石好等が神社創設を謀り、
 明治十五年十二月官許を得て、仝二十一年十一月社殿と社務所を竣工し、其の境内千三百九拾五坪。
  三月と十一月の二十四日を例祭とし、祭神は勿論児島高徳朝臣です。
  宝物として、下記を所蔵したが、
         ①高徳朝臣真筆(「清風」と書かれた)額 一枚。          貴船神社 柴崎宣弘宮司 寄進
             (平成二十六年四月十一日に、献上品持参で、大間々貴船神社を参拝し、御礼の意を告げたが、
            「本社の宮司は、代々奥澤姓なので、他の貴船神社だろう?」と云われ、気遣いの無さに驚いた)
         ②太刀(高徳が使用し、私の家に伝わった「銘 兼光」) 一振。 私の高祖父 三宅佐太七 寄進
         ③短刀(「銘 貞宗」) 一振。                       中野村(邑楽町) 小島喜四郎 寄進
         ④神鏡(八稜銅鏡) 一面。                        東京神田淡路町 増田英治 寄進
         ⑤泥硯(高徳が使用した硯) 一面。                  妙義神社 白井幸次郎祠宮 寄進
         ⑥太刀(白鞘) 一振。                           高崎町(高崎市) 矢島八郎 寄進
         ⑦甲冑 一式。                              上都賀郡下南摩村(鹿沼市) 阿久津稲次郎 寄進
         ⑧鞍鐙 一式。                              上都賀郡金崎村(鹿沼市) 川島慶次郎 寄進       
         ⑨高徳軍中守護神摩恒利尊神の像(高さ九寸の高徳自作像) 一基。
  何れも、上記宝物は、戦後のどさくさで、
 神社南に位置する白石うめ宅に保存されていると聞き、
 「児島高徳公 実在論」の宮家史朗著者が当時の沖山一郎大泉町長と共に、
 白石宅を訪問し、経緯と所在確認を乞うたが、叶えられ無かったとの事でした。
  (沖山一郎大泉町長の夫人は、私の中学の担任だった関係で、
 「実在論」の中で著していない部分も、双方から聞いた事が有りました)
  宝物が無い為に、参拝する者も無く、非常に寂しい状況です。
  (<上毛警友編集部編「上毛各地めぐり」>に、白石うめ宅に保存されていると明記されている)

  児島神社創設以前に、関係者は真の墳墓と認識していた訳です。
  1395坪の山林内の社殿は、南向きで、間口二間二尺×奥行九尺の四方廊下を回らした建物です。
  家内安全の神様で、残念ながら井上加納宮司は通い。

   ★ 『児島神社が、高徳公墳墓の西側に位置する訳。』
    私の高祖父三宅佐太七等が神社創設に当り、神社は墳墓の祭壇から、発展したものと知っていた為、
   墳墓は東向きだが、故郷児島の方角の西側に神社を祭ったとされる。
    ですから、この上州古海の児島高徳公史蹟を巡る時は、神社・墳墓・寺の順が正しいです。

   ● 皇居桜田門から、半蔵門に至る坂を三宅坂と言う。
     三河田原藩三宅備後守 の上屋敷が有った処からの由来で、画家の渡辺崋山は此処で誕生する。
   * 三宅島は、江戸時代の地図では「見付島」と有り、我が一族とは関連は無い。
 【画像解説】
  左から、三宅輪宝(輪宝紋) [輪宝は、想像上の武器で、この輪を転がす者を転輪聖王と言い、
 この輪を回しつつ、真理・法を宣布すると言う。
  仏教と共に伝来し、輪宝紋は、此れを図案化した物で、
 我が三宅輪宝は、常に戦勝を願った高徳公に相応の代表的な輪宝紋です。]
 三保ヶ関部屋玄関上にも、天海日光山慈眼大師堂にも、我が三宅輪宝が、掲げて有ります。
  そして、児文字(文字紋)   [児島五流(尊瀧院・大法院・建徳院・報徳院・伝報院)が新熊野三山として、
  天平二十年(748年)聖武天皇に依り、寄進された後、領地・信仰の意義から考案され、児島五流一族が使用。]
   (高徳寺代々の住職も、この二つの紋を使っていたと永瀬弘雄住職が云っていました)
  ◎ 三宅輪宝と児文字、そして五流尊瀧院の詳細は、此方から御覧下さい。
  更に、庭田尚三会長に、父英四と私が戴いた二個の忠桜会会員章です。
  右は、児島神社創設の際、境内地を提供の氏名と坪数を表した碑の拡大図。

高徳公の墳墓と遺物の保存及び、顕彰の「児島高徳公史跡保存会」名簿。 (括弧内は私との関連)

   役員 名誉顧問  前総理大臣    福田 赳夫   (上記参照) 
      仝       群馬県知事    清水 一郎    (子息澄氏は(株)ロイヤルホテルプランニング社長)
      仝       元建設大臣    長谷川四郎
      仝       通産政務次官   中島源太郎  (恩師、福田総理への陳情・上記参照)
      仝       顕彰忠桜会長   庭田 尚三   (上記参照)
      仝       相撲協会監事   三保ヶ関国秋 (上記参照)
   役員 顧  問    大泉町長      真下 正一   (小泉十六氏)
      仝       大泉町議会議長 荻原 重休   (大泉町中島源太郎後援会幹事長)
      仝       群馬県議会議員 久保田富一郎 (小泉十六氏)
      仝       邑楽町長      小島 常男
      仝       千代田町長    大谷 典三
      仝       太田市長      戸沢 久夫   (中島源太郎軍団・細谷清吉会長が高校の恩師)
      仝       元大川村長    久保田千吉
      仝       元小泉町長    引間 栄一   (菩提寺檀家総代)
      仝       元大泉町長    金井 正一
      仝       前大泉町長    沖山 一郎   (夫人が中学の恩師)

   役員 会  長   細谷 清吉
   役員 副会長   稲村陸合一 (上記参照)           役員 副会長   川島利一郎
      仝       田野保喜代松
   役員 総  務   池浦 留治 (同級生の父)          役員 総  務   大塚 次郎
      仝       岡野鉄次郎 (上記参照)                仝      尾城 喜一
      仝       金子 虎吉                         仝      川島 勇二
      仝       野口 大作 (墳墓を工事した野口石材社長)
      仝       久保田猶三                         仝     久保田了二
      仝       栗原 音吉                         仝     柴崎重太郎  
      仝       斉藤 静三 (大泉町名誉町民・現町長の父)
      仝       関塚 守一 (遠縁)
      仝       永瀬 弘雄 (上記参照)                仝     田沼 茂
      仝       根岸吉太郎                        仝     福田 郁二
      仝       宮家 史朗 (上記参照)                仝     茂木 武治
      仝       森  栄章                         仝     山口 ふゆ
      仝       若旅 吉弥 (大泉町中島源太郎後援会長・大泉町商工会長)
   役員 庶務会計  飯田 円朗 (同級生の父・龍泉院住職)      仝     岩瀬 清平    
      仝       植木 好冶 (館林高校大泉町同窓会長)
      仝       植松 二一                        仝     内田 潤
      仝       内田 芳三                        仝     梅沢 勝
      仝       柿沼 伊一 (大泉町議)                仝     小川 豊彦
      仝       栗原 正夫                        仝     高野 信二
      仝       近藤 善衛                        仝     斉藤 好冶
      仝       真下 光司 (小泉十六氏)               仝     宮永 好二
   役員 監  査   久保田与一郎                       仝     根岸 豊司
      仝       広田 正一 (同級生の父・助役・隣家)
     会  員
  【大泉町古海】   青木 光吉   青木 茂夫   青木 重雄   青木 静雄   青木 精一   青木 寿男
    青木 延明   青木 晴夫   青木福三郎  青木 正治   青木 利一   青木 安一 
    新井 熊蔵   新井 四郎   今村 武    入谷栄一郎   入谷勝三郎   入谷 勝郎   入谷 和夫
    入谷甲子次  入谷 元    入谷 宗二   入谷 尚     入谷 拓司   入谷 行夫   岩瀬 博保
    岩瀬 正夫   岩瀬 正行   上松次郎吉  内田 勇    内田 光     内田 武男   内田 昇
    江黒 浩     襟川 幸一   襟川 勇    大野 弘    柿沼 博     上村 仁一   川島 仙蔵
    川島 冶通   児島 清    児島 春雄  栗田 昭一   栗田 誠三   栗田 寅蔵   高野 三郎
    高野 平    高野 多門   高野 房吉  高野 ヤス   小林才之進   小林 仙吉    小林 忠由
    小林太郎作 (大泉町議)   小林 鶴治   小林 始    小林 半造   小林二三冶   柴崎 勝一
    柴崎 己一   柴崎重太郎  清水 公雄   白石 うめ   白石 丑一   白石 徳一   白石 雅雄
    田野保喜代松 中島 孝一  根本 政良   原島 軍    早川 武一   服部 六三   町田 作治
    松沢卯三郎  松沢 和春   松沢善冶郎   茂木 栄司  茂木 景一   茂木 光吉   茂木 武治
    茂木 晁治   茂木 福二   茂木 三男   茂木揚太郎  山口 富
 【大泉町仙石】    稲村 倉二   稲村 武治   岩瀬 一郎   岩瀬 求馬   岩瀬 慶一   岩瀬 清平
    岩瀬 田人   岩瀬 長一   岩瀬 利二   岩瀬 紀男   岩瀬 久雄   岩瀬 勝     岩瀬 祐三
    碓井 朝一   内田 芳三   小野 金一    金子 三夫 (ロータリークラブ)           小林 和忠
    佐藤 暁    島山 彪    島山 保治   須永 周雄   多田 卓     田部井健重   対比地彩邱
    塚原 央次   土屋 穂積   町田 秀雄   松森 源作   吉田 仲光
 【大泉町吉田】    内山 和三   大隅 勇    沖山 一郎   小此木誠一   小渕忠三郎   柿沼孝一郎
    柿沼 良平   川島 勇二   川島 幸作   川島 次郎 (中学の恩師)   川島 秀夫   川島 浩重
    川島 正夫   川島主馬三郎 木村 正三  倉上 赫二   坂本 精     渋沢 文雄   清水 啓
    下條子次郎  関矢 俊光   田沼 茂    永沼 陽一 (ロータリークラブ・警察官友の会)
    福島 昌右   松沢 辨冶   持田 喜作   森田芳次郎  山口 武雄 (ロータリークラブ・大泉国際交流協会長)
    山口 ふゆ   山口 政八   渡部 作
 【大泉町寄木戸】  尾崎 銀平   加藤 季孝   坂本 一義  坂本五郎冶    坂本重次郎   坂本 丈吉
    坂本長太郎  田辺 信雄 (大泉町議・宝寿院住職)     中村 照夫    中本 旭
    中本 茂    根岸 九一   根岸 国夫  根岸 豊司   萩本 好弘    服部 菊次 (大泉町議)
    平田宝作 (大泉町議)     峯崎 真三  峯崎 純吉   三吉 佐吉
 【大泉町坂田】    荒田美喜夫  岩瀬 たま   植松 新七   川島 良孝    川島利一郎   小林 永市
    坂本 良平   坂本 正俊   高山 文男  平田 清久 (群馬県議)     平田 久義   宮永 林八
    宮永 菊雄   宮永 好二   森 栄章    森 朗雄     
 【大泉町古氷】    久保田千吉  対比地秋次郎 対比地三寿  真下 治二 
 【大泉町上小泉】  青谷 輝夫   新井 俊邦  新井 雅男   飯田 円朗   飯塚 竹吉   石島 正三
    石田 正    市川徳太郎  井上 加納 (宮司)       岩瀬 光一    植木 好治    卯月 友二   大神 菊男
    大塚 次郎   大浜 義彦   柿沼 伊一  金井 正一   金子 実     河内 梧作 (小泉十六氏・大泉町議)
    久保田三郎  久保田富一郎 久保田宗男  久保田ムメ  久保田了二   高野 和男   小宮 三平
    小宮 文寿   子安藤四郎  佐藤房太郎  斉藤 一二  斉藤 静三    斉藤 吉三   沢田 実
    正田 昌丈   霜田 辰雄   鈴木源三郎  鈴木 邑吉  関口 文三    関矢 美江   須永 弥平
    高橋徳次郎  高橋 詔徳   武安 正嘉  対比地四郎  田村 皓     槻岡 行支   野村 梅吉
    野村 浩之   引間 栄一   深谷 幸夫  蜂谷 徹夫 (大泉町中島源太郎後援会長)
    藤波 信二 (高徳公六代の芳高の墓が有った成就院住職)    福田幸次郎 (遠縁・大泉町議)
    堀江 政夫    本田 健一    前田喜代治   前田 拓三   真下 光司
    真下忠一郎  真下 直吉   真下 泰司  増田雅一郎  松島 広之    三浦 庸男   見竹 正輝
    宮崎 棟次   宮沢 吾一   宮下 豊男  宮脇 清作   茂木長太郎   谷釜 実     山崎 敏雄
    山中 喜一   山中 良一   吉川 安男  横堀 章
 【大泉町下小泉】  阿部 宏作   青木 輝夫  新井悦太郎  新井 菊次    井上 庫三   飯塚喜久男
    飯塚 周吉   飯野 忠一   池浦 留吉  井野 喜夫 (大泉町中島源太郎後援会幹事長)          市原 弘
    石井 きの   今泉 三郎   岩瀬 政男  岩瀬 長治   植松 二一    内田 勝    梅沢 勝
    江泉 本正   尾城 喜一   尾城 順一  小川 豊彦  小貫 正道    大久保静子   大沢 満雄
    大塚 圭介   荻野 幸次   荻原 重休  荻原 卯一  恩田 栄三    加藤 弘治   金井 道夫
    金子 虎吉   金田 栄治   河内 隆    久保田一次  久保田賀三   久保田賢次郎           久保田 昿
    久保田稔夫  久保田楢三  久保田康暉  久保田浜吉 (小泉十六氏・大泉町議)       久保田与一郎
    窪田 幸蔵   栗原 音吉   栗原 定吉  栗原 忠夫   栗原 正夫    高野 信二   高野 仁作
    高野 林枝   小島 森次   小堀 一男  小堀 正男   小林 喬     小林 裕茂   近藤 綾子
    近藤 善衛   近藤 太吉   斉藤四郎治  斉藤 品吉   斉藤 好治    斉藤 富男   斉藤 嘉賢
    坂岩 平八   佐々木光司  佐々木順八  里見 力造   柴崎 郁雄 (ロータリークラブ)
    柴崎 伊男   島山 矢市   清水忠三郎  篠原太良治  須賀田利三郎  鈴木 雷蔵   関口 章市
    関塚 弘毅   関塚 守一   関根 紀雄  千本木和平  高尾 芳雄    高橋 清     高山 直治
    田代 邦夫   多田 耕治   館野 義司  田村 憲司   田村健次郎   秩父 啓市   中尾 康次
    中里 光雄   長井金之輔  長井吉之輔  永瀬 弘雄 (高徳寺住職)   永島 保二   根岸吉太郎
    野中 孝夫   波部 義人   林 敦夫    原 尚伸    春田恒三郎   広田 正一   福島 平
    古沢昭一郎  細谷 清吉   細谷 長流  真下 正一   真下 静枝    三宅 英四 (私の父)
    宮本 昭行   村田 謙弥   村田 林次  茂木政一郎  谷中 修二    山口 善吉   山野 武男
    山野 弘之   湯本 正一   若旅貫三郎  若旅 吉弥   渡部 一男   渡部 義勝    渡辺 隆司   渡辺 保平   
 【邑楽郡邑楽町】  小島 常男   広井 叉一  細谷 邦雄   細谷雄太郎   増尾 利雄    又野 繁     渡辺 全朗    
 【邑楽郡千代田町】 大家 敏夫  西森 気晴  山口 賢    大谷 典三
 【館林市】       阿久津昭二  後藤 昭    田中 謙吉   福田 郁司    森田恵美子
 【太田市】       秋庭 薫    荒木国太郎  荒木 宗司   荒木 孝昌    荒木交五郎   荒木 豊
    石井 幸雄   糸井 正雄   稲村 一三  稲村陸合一  稲村 伝     岩崎 隆一    内田 潤
    遠藤 兼吉   遠藤 七郎   遠藤 寿仁  尾内 一雄   大久保克美   大沢 新平    大野 健一
    大塚 八郎 (冠稲荷神社)  岡田  章   岡部 満明   岡野鉄次郎   落合 正男    金谷 英
    金谷しげる   金谷寅之助  金谷 浩孝  北村常太郎  久保田二三夫 栗原 紀之    小暮 誠
    桜井光次郎  須永 章    須永実三郎  鈴木万次郎  田村 宗吉    塚本 輝男    戸沢 久夫
    戸川 愛三 (戸川建築)   中島 実    長浜 法利   成塚 治夫    馬場 有臣    橋本 豊治  
    橋本 林作   蓮沼 要三  平賀 勇    平賀 喜一   平賀 春一    平山 茂     深田 福司
    藤生邦太郎  藤生 勉    曲 寿之    宮家 史朗   室田 直忠   茂木 武治    籾山 芳郎
    森尻沢四郎  安田竹次郎  山口嵯伝二  山口 仲二  山口 晴男        
 【伊勢崎市】      阿久津 弘  今井 旦    桜井 三郎   田辺 稔     高草木敏蔵    橋本 弘司
             平田雅之助  福島 次男  福永 敬    本多 満     松井 敏男    松波 英司   宮田 弘臣  
 【前橋市】       阿久沢 浩  入内島一崇  渡辺 忠夫
 【栃木県足利市】  浅沼 邦夫  稲村 喜治  樺山 守    小林 正枝    成田 次郎
 【埼玉県熊谷市】  坂田源太郎  鯨井 登    野口 大作
 【埼玉県深谷市】  荒井 邦佳  山口 律雄    【埼玉県さいたま市】         伊藤 欣吾 
 【茨城県】       高坂 義一 (宗良親王・高徳公等南朝勢を支援した伊那の牧場主香坂高宗の後裔。)
 【東京都】       北の湖敏満  沢田 国秋  冨岡八十雄 (先祖三宅太郎左衛門尉藤原芳高を招いた冨岡秀信の後裔。)
              中島源太郎  中村 美夫  長谷川四郎  福田 赳夫   増位山太志郎     
 【千葉県】      稲村 次夫    【神奈川県】     新井 鎮久    【京都府】     加納 五郎    【岡山県】     庭田 尚三
      
   ◎ 大泉町の住所は、真下行政(1990)の負の遺産で表示変更され、上小泉・下小泉の古い村名が消滅し、
    新表示が入組んで居る為、分けられず其の儘記載しました。
     其の他に付いては、平成の合併後の住所表示で記載しました。      
      
   ▲ 1981.11.24.上記保存会の皆様の御尽力と御厚情に依り、『児島高徳公六百年祭」は、盛大に催されました。
     其の後、34年を経過した今日、高徳公の二十四世裔として、
    保存会の皆様に感謝の意で、此処に公開する物です。
     (中島飛行機が縁で、我が家に婿入りした父英四が、遠祖高徳公のこの事で、東奔西走した後。
    六百年祭に出席する事無く、死去した事は残念です。) 

   ★ 町制45周年の記念行事の1つとして作成された<大泉かるた>で、我が遠祖児島備後三郎藤原三宅高徳が描かれています。

  ☆★ 【参考資料】 <古事記> <玉野の伝説> <宮家史朗著「児島高徳実在論」> <三宅福次郎著「三宅家系統譜」>
      <大泉町誌歴史編(私が一部編纂協力)> <大泉町誌文化・自然編> <上毛警友編集部編「上毛各地めぐり」>
      <歴史百科「日本地名事典」> <庭田尚三著「長慶天皇と児島高徳太平記」> <本田総一郎監修「新集 家紋大全」>
      <「児島高徳公史跡保存会名簿」> <関裕二著「海峡を往還する神々」> <中西尉一著「南朝の忠臣児島高徳」>
      <大韓民国行政自治部自治制度課監修「大韓民国地名便覧」> <平凡社「朝鮮を知る事典」>
      <民衆書林「韓日辞典」> <民衆書林「日韓辞典」> <鈴木武樹(明治大学教授)著「地名・苗字の起源」>等等。

今年は、私の遠祖児島高徳公古海高徳寺を開山して635年
そして、私の先祖三宅太郎左衛門尉藤原芳高が此処に在を求めて457年に成ります

(下の画像は、旧国立長崎銀行弐円札<我が遠祖児島高徳公と新田義貞公が描かれている>裏面は宮城)

          私の二十六代上の祖佐々木盛綱公の伯母の嫁ぎ先平泉の藤原三代秀衡の従妹で有る、
         岩城則道夫人・徳姫(藤原清衡の娘)に依って、建立されたいわき市の「白水阿弥陀堂」、
         そして、「白水」という地名は、平泉の「泉」という文字を2つに分けた物で、
         いわき市の「平」という地名の由来は、平泉の「平」を取った物だと云われ、
         <スパリゾートハワイアンズ>の住所は、いわき市常磐藤原町と云う因縁・奇縁から、
         そして、分家三河挙母藩初代藩主三宅康貞(町長と同姓の渡辺崋山は、三河三宅の家老でした)の娘は、
         陸奥磐城平藩初代藩主内藤政長(三河で生まれ、豊臣・徳川に仕える)の正室だった事が、判明し、合縁奇縁を感じ、
        いわき市を中心とする被災地復興支援に着手する。
         2012年7月8日(日)大泉町文化むら大ホールに於いて、 被災地支援映画「フラガール」上映会上映会に続き、
        第二弾から、第八弾迄、「除染作業」等の支援をしたが、酷い目に遭い、悪徳業者と戦い
        「被災地の悪徳業者1」  <被災地の悪徳業者②>ブラックリストの個人・企業が多い為、
        国家も、被災地には、税金を使わない方針に、変更の為、被災地支援から、撤退し、

        現在は、双葉郡の一箇町村を「世界貢献テーマパーク」として、地域繁栄し、住みたい街・行きたい街づくりをします。
大熊町役場会津若松出張所を訪問、交通整理の赤井光清氏との出会いと被災地復興計画
双葉郡復興は、社会貢献する事業計画しないと再び、災害を受けます。★
復興の核は、山本信人博士のGcMAFHIV等感染症難事病患者を短期 完治させます
双葉郡の一行政に GcMAF工場病院設置、病に悩む皆さんを救済。★
水脈探査した母なる大地に、栄養分が有る我々の遺体を還す<土葬霊園>を山腹に造成。
自然災害が多いのは、山に埋葬しない事で、遺体を燃さず、大地還す。★
大熊町役場を再訪と木幡ますみ町議と面談後、竜田駅視察。力強い助っ人中村守保博士。
★協力戴けない方が、多い中で、水耕栽培高齢者施設等の御協力を得る。★

万能薬 &食べる化粧品「厚岸草함초」を尋ねて、 仁川江華島訪問2015.6.1.
万能薬&食べる化粧品厚岸草鹹草/함초貴女に、御提供します!!。★

日韓親善NGO活動34年国際協力団体 東亜友誼慈業研究会 (동아 우의자업 연구회)
総務大臣届出政治団体  三宅藤原氏族会 (旧 児島高徳公直系同族会)
会長 三宅英雄 (号 昔城) [児島高徳公陰陽直系二十四世裔]

〒370-0516 群馬県邑楽郡大泉町中央2-10-19
    電話&Fax 0276-61-0560
公開2008年04月11日 戊亥  更新2016年11月18日 丙申  <敬称略>

愛車3000キロ韓国周遊の旅    太平記の里・児島高徳公終焉の地 

児島高徳と増位山の三保ヶ関部屋    三保ヶ関部屋訪問記

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