Counter 冨岡家と菩提寺龍泉院、そして三宅氏の私。

 

太平記の里シリーズ

冨岡家と菩提寺龍泉院、そして三宅氏の私

群馬県大泉町周辺の貴重な歴史と曹洞宗の名刹
冨岡主税介直光小泉城 築城五百弐拾周年記念』


  上の画像は、小泉城冨岡家六代位牌(所蔵・祥平山冨岡寺龍泉院)。

  下の画像は、<三代秀信の供養塔(三河三宅家臣冨岡秀倶建立)>。
  手前二基の塔は、現在の住職が、還暦の祝に建立した其の由来を伝える塔と「般若心経」の転輪塔。
  (立っているのが同級生で、弐拾六世住職の文昭知義大和尚[飯田知義]。楠木正行家臣十六氏の内の飯田氏後裔です)

小泉城城主初代冨岡主税介直光から六代冨岡六郎四郎秀朝と其の菩提寺名刹龍泉院
そして私の先祖三宅太郎左衛門藤原芳高の案内を御提供致します。

 このpageは、私の先祖の児島高徳六世裔三宅太郎左衛門藤原芳高】が、
遠祖の墳墓を守る為、此処に来た経緯等を知って戴く、
「二千年前韓国から来た私達のルーツ」
「太平記の里・児島高徳公終焉の地案内記」
「新田義貞と脇屋義助、そして楠木正成」と共に、御覧下さい。
 そして、このpageは、yahoo!blogsに、2010/4/27投稿した、
小泉城冨岡氏系図、そして小泉十六氏を加筆・修正した物です。(文中の敬称は省略します)



     【画像説明】(左から右に)
    ①、平成23年3月11日の地震で、笠の落ちた供養塔。
    ②、右は、一度回転すると一回<般若心経>を唱えた事に成る一回一唱。(何れも、上二番目の画像拡大等です)
 
 先ず、冨岡二代秀光と其の子秀信と共に、
 天文三年八月館林堀工の茂林寺四世の梵海正音を招き建立した名刹<祥平山冨岡寺龍泉院>を御案内致します。
  どうぞ、縁故・興味の有る方は、この案内を参考に一度訪れて下さい。


* <龍>は、登りつめた人の意で、(韓国では朴正煕大統領が龍と呼ばれた)
 <泉>は、筑比地次郎佐貫良基(藤原秀郷の後裔)が、
 元慶七年九月僧龍賀に開山させた「成就院」の傍らに掘った御手洗池から湧き出す泉を龍の如くと見て、<龍泉院>と命名した。
  (「●●山●●寺」とは、韓国では、寺は山に有る物の考えから来ています。)

  其の小さな泉を地名として、小泉郷と呼称し、後に小泉村。
  元和元年(1615)に小泉村北部が旗本の小栗叉市の所領と成って上小泉村、
 仝南部が館林城主榊原康正の所領と成って下小泉村と二分した。
  明治二十二年町村制が施行され、上・下小泉村が合併して、小泉村と成る。

  其の後のこの地の改革は、此方を御覧下さい。

  
    <祥平山冨岡寺龍泉院>(しょうへいざんとみおかじりゅうせんいん)

       370-0518 群馬県邑楽郡大泉町城之内3-11-2 TEL 0276-62-2568

    祥平山冨岡寺龍泉院は、冨岡主税助直光の開基で、
   茂林寺四世梵海潮音(正音は入寂名)の開山。
    (龍泉院は、慶安元年(1648)十月と文化二年(1805)の二度火災に遭い、
   寺宝・文書等焼失しているので、永禄元年(1558)四月から、
   此処に在住する私所蔵の文書を優先して、直光の開基とする
)
    尚、龍泉院は江戸時代から、<祥平山白山寺龍泉院>と呼称している。

    龍泉院の御本尊様
     龍泉院本堂に鎮座する左から、「普賢菩薩像」「釈迦如来像」「文殊菩薩像」です。



    左の画像は、
   我が遠祖<児島高徳公(児島備後三郎藤原三宅高徳)>の六百年祭の際、
   龍泉院弐拾五世太陽円朗御方丈に御寄付戴いた御芳名。
   (墳墓内玉垣の位置は、北方内側中央部です。感謝)









<龍泉院歴代大和尚住職>

開    山  梵海潮音 弘治元年没    二    世  芳庵正東 天正四年没    三   世  窈山正精 文禄二年没   
四    世  鑑隻正果 慶長十三年没   五    世  霊山正鷲 寛永三年没    六    世  通岩正達 寛永十五年没  
七    世  伝国正的 万治四年没祐   八    世  報慈正恩 寛文十二年没   九    世  碧天正印 没年不詳    
十    世  卍岑正克 延宝八年没    十 一 世  覚海正円 享保八年没    十 二 世   霊峰正鷲 没年不詳    
十 三 世   霊恭正端 没年不詳     十 四 世   大洞正嶺 没年不詳     十 五 世  台臨正鏡 没年不詳    
十 六 世   祥山正端 文化八年没    十 七 世  天栄正陸 没年不詳     十 八 世   周見正天 没年不詳    
十 九 世   桂堂正船 天保九年没    二 十 世   九牛正毛 没年不詳     二十一世  晨獄春山 明治四十三年没  
二十二世  岩曹欽一 明治三十五年没   二十三世  応応讜艘 昭和十五年没  二十四世  百能寛丈 昭和四十九年没   
二十五世  太陽円朗 平成十五年没     二十六世  文昭知義  現 住        副 住 職  智芳文昭 (飯田文昭)      
* 十六世祥山は、本山を寺子屋として、檀信徒の子供達に「読み書き算盤」を教え、この地の学力向上に寄与した。


        * 龍泉院は、曹洞宗群馬県宗務所第九教区1ヶ寺と第十教区10ヶ寺を纏める教区長住職の法格寺院です。
         (曹洞宗群馬県宗務所は、全十七教区・全360寺院で、龍泉院は、十教区の寺籍223、級階[寺院の規模]50です) 

         龍泉院と高正寺は、冨岡氏六代の過去帳を所蔵する。
         龍泉院と宝寿院は、親戚関係との話です。

    冨岡氏六代の系譜

 ①祥平院殿豪林道逸大居士
  大永三年 八月十八日 (1523/)
 初代 冨岡主税介直光 (ちからのすけなおみつ・藤原朝臣主税介直光)
 (裏面)武蔵北豊島郡西箇原 後孫 小泉甲治 造之

 【解説】直光は、結城朝光の十一代目久朝の子。(1441/生誕)
  幼児だった直光は、結城城落城に依り、乳母に抱かれて領国だった上州の西之山入琴辻(現在の富岡市)に逃れて隠れ、
 其の後、古河公方成氏に従い、軍功から、延徳元年(1489)十月小泉に築城して、冨岡主税介直光と称し、小泉を本拠とした。
  そして、此処佐貫庄弐拾壱ヶ村を領し、成氏の子政氏からも功績で、吾妻七拾壱ヶ村・深谷弐拾弐ヶ村を賜り、
 石高十万五千石の城主と成り後、家督を秀光に譲り、私の家の裏手に成る、御前宿に隠居。八十二歳で死去。

                初代冨岡主税介直光の領地
 佐貫庄弐拾壱ヶ村→小泉・仙石・新島・矢島・新福寺・福島・筑肥地(対比地)・古氷・
              寄木戸・別所・内ヶ島・吉田・古戸・巨海(古海)・舞木・藤川・飯塚・篠塚・中野・石打郷(石打)・坂田。
 吾妻郡七拾壱ヶ村→西窪・中井・赤羽・大笹・荒井・門貝・大前・鎌原・芦田(芦生田)・立石・袋倉・古森・狩宿・三木屋・
              横壁・今井・長原(長野原)・坪井・羽尾(羽根尾)・矢倉・椛木・日影・赤岩・新巻・松尾・江原・生須・
              後戸・河畑・横谷・岩下・三島・原田・中條(中之条)・植栗・小泉・泉沢・横尾・奥田・岩井・市城・
              青木・猿ヶ京・伊勢・折田・林村(林)・四万・五反田・蟻川・下沢後(下沢渡)・布施・深川・八須川・湯宿・
              吹落・前口・大場・平村・金村・赤塚・河嶋・伂田・田代・草津・小留・中山・原町・山田。
                (私の所蔵する「下総結城冨岡氏系譜 」より抜粋。括弧は現在の地名)
 深谷領弐拾弐ヶ村→深谷他詳細不明。

* 主税介直光が藤原姓だったので、同姓を名乗った我が祖の範長・高徳・芳高と遠縁だったのです。
「この地に於いて、藤原姓有らざらば人間に有らず」と言う時代でした。
我等が遠祖児島高徳公が長慶天皇と共に正平25年(1371)東北巡幸の際、
蝦夷地に入る事が出来たのも、藤原姓だったから容易でした。
(白河の関から北は蝦夷地で、藤原[ふじわら]・菅原[すがわら]姓を名乗る者は、容易だった)


 ②龍泉院殿仙叟浄玉大庵主
  天文十九年 十二月四日 (1550/)
 二代 玄蕃允秀光 (げんばんのまことひでみつ)
 (裏面)龍泉院開基 
   武蔵北豊島郡西箇原 後孫 小泉甲治 造之

 【解説】秀光は、神仏の信仰心に厚く、赤城明神・三島明神・羽黒権現を祭り、守護神にした。
  大谷新左衛門休泊に用水路を造らせ、領民の生活・生産向上に寄与した。
  (今でも用水路は休泊掘として残り、太田には休泊と言う地名が有る)
  一般的には、天文三年八月館林堀工の茂林寺四世の梵海正音を招き、
 <祥平山冨岡寺龍泉院>を建立し、冨岡家代々の菩提所としたと有る。
  天文十年には、<湧泉山阿弥陀院願成寺>を建立。七十三歳で死去。
  (<願成寺>は、私の遠祖児島高徳公 が開山の医王山延命院高徳寺と同じ、高野山真言宗です)

 ③翠松院殿前倉部郎中俊叟正英大居士
  永禄十一年戌辰年 四月十七日 (1568/)
 三代 主税頭秀信 (ちからのかしらひでのぶ)
 (裏面)詠辞 誰毛世仁残留渡畿加波朝風尓吹散之多晋玉乃瞿麥
   武蔵北豊島郡西箇原 後孫 小泉甲治 造之

 【解説】秀信は、古河公方支持から上杉輝虎に属し、更に、北条氏康に従う。
  其の後、突然の病に倒れると、重臣を枕元に集め、「自身が死んだら、軍神と化して、
 冨岡家の軍営を守るから、甲冑を着せ、弓矢を持たせて、顔は敵方に向け、
 城内西北の塁上に葬って呉れ」と遺言後、
 [誰も世に、残るべきかは朝風に、吹き散らしたる玉のなでしこ]と、
 裏切った金山城主由良成繁・其の子国繁を怨み、
 位牌裏面の辞世の歌を詠み黄泉の国へ旅立ったのです。六十七歳で死去。


     【画像説明】(左から右に)
    ①、我が家を出て、国道354を渡り、常光寺を左に見て歩くと、
     左に北小学校と右に正眼寺の間、櫻が散りゆく道の様子です。
    ②、中は、秀信公の墓で、八幡宮として祀って有りますが、憎い金山城方面の西北ではなく、南を向いて居ます。
      (昭和七年四月十七日建立。以前は毎年この日、この地域の守護神として、
      神官の下に神酒・赤飯を供え祀って居たが、本年は幣束が地面に左右刺さっていただけだった)
    ③、右は、秀信公が詠った昭和三十三年七月大泉文化協会建立の歌碑。(台座の白い粒は落ちた櫻)

       私が、小・中学校の九年間通った学び舎は、
     この小泉城址に有り、卒業・入学・進級時に桜の花が、其の未来を祝福してくれるかの様に毎年開花する。
      この桜は、私の先祖三宅芳高を招いて呉れた主税頭秀信公が、
     芳高の六代の祖児島高徳公の院庄の桜の故事に敬意を示して、
     小泉城の内外に植えた物ですが、太平洋戦争に敗北した後、中島飛行機跡地に米軍が駐留し、
     兵隊の風紀上の理由から、高徳公ゆかりの古海河畔の桜と同じ様に伐採される運命だったが、
     伊東安治町長が此れを回避したものの、古海河畔の桜は伐採されてしまった。

     (伊東安治は、昭和二十二年四月以降の公選制後、二人目の町長で、同年十二月から三十年十二月迄二期奉職)

      先祖芳高が此処に来た1558年の翌年から植え始めた城之内公園の桜は、貴重な観光資源です。

      2012年の中学の同期会で、恩師長宗先生が「桜に囲まれて学んだ君達は幸せ」と御挨拶したので、
     桜の城之内公園の経緯を話したら、「今日来た甲斐が有った」と喜んで貰いました。


 ④淵深院殿龍叟正伯大居士
  永禄十二年 十一月二十六日 (1569/)
 四代 清四郎大炊介秀親 (せいしろうおおくのすけひでちか)
 (裏面)於 古戸與成田下総守合戦討死
   武蔵北豊島郡西箇原 後孫 小泉甲治 造之

 【解説】秀親は、武州忍城の成田下総守氏長との合戦で、敵の矢が命中し、一時、高徳寺に匿われ、
 城中に帰り手当てしたが出血多量の為、二十五歳で死去。
  私の先祖三宅太郎左衛門尉藤原芳高 もこの戦で深手の傷を負い、
 翌元亀元年(1569)一月二十三日五十九歳で死亡。

 ⑤要津院殿天性長源大居士
  天正十三乙酉年 八月十二日 (1585/9/5)
 五代 対馬守入道秀長 (つしまのかみにゅうどうひでなが)
 (裏面)武蔵北豊島郡西箇原 後孫 小泉甲治 造之

 【解説】四代清四郎秀親には後継ぎが無かった為、重臣が相談し、遠縁に当たる小山彦太郎重朝を養子で迎えた。
  翌永禄十三年、北条氏政は秀長の家督相続を祝し、祝儀として「太刀一腰一文字」を送っている。
  重朝は後に、冨岡対馬守入道秀長と名乗り、佐野・足利勢との度重なる合戦の後、
 天正元年二月此れを撃退せしめた武勇に優れた人物で有った。
  三代秀信からの宿願で有った由良国繁を北条勢として、降伏させた後、四十二歳で死去。
  私の先祖三宅太郎左衛門尉藤原芳高も、遠祖児島高徳の時代は味方だった由良氏と敵対するのは心痛だった事でしょう。
  (私の所蔵する「下総結城冨岡氏系譜 」には、秀長龍泉院境内に眠ると有り)
  然し、慶安元年(1648)十月と文化二年(1805)十一月の火災後の山門移転・本堂再建等で、秀長公の墓は所在不明に成ってしまった。


     上の画像は、私の所蔵する下総結城冨岡氏家譜で、五代対馬守入道秀長の部分。(詳細は下記参照)

 ⑥峯院殿雲外宗賢大居士
  元和元乙卯年 五月六日 (1615/)
 六代 六郎四郎秀朝 (ろくろうしろうひであさ)
 (裏面)於 大阪與真田幸村合戦討死
   武蔵北豊島郡西箇原 後孫 小泉甲治 造之

 【解説】秀朝十八歳で城主に成り、天正十八年秀吉の小田原北条征伐の際、
 弟冨岡新三郎氏高と共に、精兵五百騎を率い、小田原城の防戦に加わる。
  其の間、秀吉軍の浅野弾正・前田孫四郎勢十万騎が、北上し、北条軍の城を攻め、
 やがて、此処小泉城にも攻めて来て、僅かの留守兵では防ぎ切れず、
 小林河内守・近藤石見守・杉山源五郎・浜野弾正・飯田頼母が降参・落城したのです。
  一方、秀朝等の出陣勢は降伏、帰城するすべが無く、
 同行の私の先祖三宅太郎左衛門尉藤原芳高(三代目・我が家は代々襲名)の意で、
 私の親戚三河国田原三河三宅広瀬城主三宅右衛門尉貞安に落ち着き、
 其の後、元和元年大阪夏の陣の際、徳川方板倉豊後守重政に従い、
 豊臣方真田幸村勢と藤井寺土手に於いて、壮絶な四十八歳で戦死。


  八幡太郎義家→為義→義朝→頼朝卿
 →①結城朝光(ゆうき ともみつ)→②結城朝広(ともひろ)→③結城広綱(ひろつな)→④結城時広(ときひろ)→⑤結城貞広(さだひろ)
 →⑥結城朝祐(ともすけ)→⑦結城直朝(なおとも)→⑧結城直光(なおみつ)→⑨結城基光(もとみつ)→⑩結城満広(みつひろ)
 →⑪結城氏朝(うじとも)弟結城八郎右馬頭久朝(ひさとも)→冨岡直光・秀光・秀信・秀親・秀長・秀朝 と六代続き
 →七代 冨岡新六郎光長
   加藤主計頭清正に従い、秀吉の朝鮮国征伐に出陣軍功。
    (私の遠祖児島高徳公の長男高秀の七代後裔宇喜多秀家も、秀吉の五大老として、大将で朝鮮国征伐に出陣)
 →八代 冨岡亀蔵光秋
   越前宰相忠昌に仕える。
 →九代 冨岡新三郎光成
   武蔵豊嶋郡西箇原在。 上記六代の位牌を寄贈の六代六郎四郎秀朝公十八世裔<小泉甲治>の先祖。

         【其の後の冨岡氏後裔】
      冨岡氏六代は、古河公方・上杉輝虎・北条氏康・徳川家康・豊臣秀吉等と主君を何度も替る度、
    意見の違う身内が冨岡六郎左衛門秀倶の様に三河三宅の家臣に成った者、
    六郎四郎秀朝の四代後裔冨岡藤九郎光重は
    初代主税介直光が幼少期在した上州富岡に帰り、富岡氏を名乗った者、
    そして、他の地で小泉甲治の様に小泉姓を名乗った者等が居る。 
    (六郎四郎秀朝の四代後裔冨岡藤九郎光重は高崎城主)


       冨岡家家紋と旗印
   上州清和源氏家家紋「右巴円の内二つ引両」「五七の桐岩花」・旗印「三階金笠扇」。



     【画像説明】(左から右に)
    ①、「三代秀信の供養塔の由来と黒松」
     上記、小田原城の防戦に降伏し、三河三宅に逃げ延びた後、田原城主三宅能登守康邦 の家臣で、
    秀朝の孫冨岡六郎左衛門秀倶は、三代秀信を尊敬し、此処に来て、山所(산소・墓所)を尋ねたが、発見出来ず、
    供養の為、冨岡代々の菩提寺で有る龍泉院の山門を入って、左手に<俊叟正英菴主>の四面供養塔を建て、
    冨岡氏之記録と言う奥書を延宝元年(1673)記し、三河に帰ったのです。

     三代秀信公は、私の遠祖児島高徳(児島備後三郎藤原三宅高徳)の墳墓が領地内に有る事を承知して、
    其の六世裔三宅太郎左衛門藤原芳高を招いたのでした。
     其の招きに応じる為、私の先祖初代三宅芳高は、播州姫路を一族主従三十余名と共に、三河三宅伊那谷大河原香坂
    そして佐々木盛綱公を祖とする磯部佐々木で、更に戦力を整え、其の行程は三年以上だったと<正伝記>に記されています。
     其れ以後、陰陽宅四百五十七年の歳月が流れ、私が居ます。
     (児島高徳の父和田備後守藤原三宅範長公は、盛綱公の六世裔なので、私は盛綱公参拾壱世裔に成ります。
    富岡貫前神社の宮司磯部氏も盛綱公の後裔。富岡市の冨岡氏も縁が有ると思います)



     そして、背後の黒松は、初代直光が吾妻の領地の山岳から楓や楠木等と共に移植し、
    小泉城外に築いた庭園の松を更に、移植した樹齢五百五拾年以上の黒松です。
    ②、「現在の住職が、平成弐拾年八月建立した其の由来を伝える塔」
    ③、「我が家所蔵の五代秀長夫婦の位牌」
      <対馬守入道秀長の法号「要津院殿天性長源大居士」と<奥方妙智尼の法号「正眼院殿愚安妙智大姉」の位牌表面。
      仝裏面。(位牌は、金の装飾が施されていたが、戦後の混乱期に外され、売られてしまったと言う) 



     【画像説明】
    * 左右二枚共、群馬県立文書館(平成6年3月31日発行)「群馬県史収集複製資料目録」の大泉町のpageで、
     龍泉院所蔵の冨岡家関連文書類と我が家所蔵の正伝記の記述が有ります。
〔取材2010.10.29他〕


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由緒有る[曹洞宗 龍泉院の末寺]

 
    <赤城山要津院正眼寺>(あかぎさんようしんいんしょうがんじ)

       370-0518 邑楽郡大泉町城之内1-17-25

     * 正眼寺は、十教区の寺籍228、級階[寺院の規模]35の寺院です。

       我が家から、五代秀長に嫁いだ妙智尼開基正眼寺です。

       現在の住職は、龍泉院弐拾六世住職の文昭知義が兼務。


        私は対馬守の法号要津院殿天性長源大居士」、妙智尼の法号「正眼院殿愚安妙智大姉」の位牌を守護しています。
       又、私の所蔵する文書には、
      「赤城山要津院正眼寺開基者、当城主冨岡対馬守法諱要津院殿天性長源大居士天正十三年乙酉年八月十二日卒御内室」
      と有ります。

       要津(ようしん)とは、<水上輸送に関る港が重要>の意味で、当時、正眼寺裏手に有った小泉城二の丸濠の船着場の事。
       五代秀長と私の家から嫁いだ妙智尼の逢瀬の場所だったのかもしれない。


     【画像説明】(左から右に)
    ①、正眼寺の掲示板に<東上州三十三観音霊場 第十番札所聖観音>と有りました。
    ②、正眼寺の観音堂に安置の十王仏。(詳細は下記)

    龍泉院二世芳庵の開祖、当山二世茲恩の建立。
    妙智尼 が常に信仰した御本尊様の聖観音は行方不明で、
   其の代りに、観音堂には、下記の十王が祀られ、盆の十六日に供養する。
       泰広王(不動明王)・初江王(釈迦文王)・宗帝王(文殊聖尊)
       五官王(普賢菩薩)・閻魔王(地蔵菩薩)・五道転輪王(阿弥陀仏)
       大山王(薬師如来)・平等王(観音大師)・都市王(勢凋観音)・変成王(弥勒菩薩)
    昭和初期に山口好文なる人物が聖観音を寄進し、本堂に安置されている。   

<正眼寺歴代大和尚住職>

開    山  芳庵正東 天正四年没    二    世  報茲恩  寛文十二年没   三    世  奪水能   正徳三年没   
四    世  大心僊   寛延元年没    五    世  一洞芳円 宝暦十三年没   六    世  天海尊秀 享保十八年没  
七    世  頓光山   寛延元年没    八    世  円山隻   没年不詳     九    世  不 詳   没年不詳    
十    世  即峯宜明 安永八年没    十 一 世   円 鏡   安永元年没    十 二 世   祖雲苗   天明元年没    
十 三 世   玉洲大泉 文化十一年没    十 四 世   覚雲祖庭 文政元年没     十 五 世  不 詳   没年不詳     
十 六 世   大嶺閩水 文政四年没     十 七 世  不 詳   没年不詳      十 八 世   祖岳庭 明治二年没    
十 九 世   慧開活眼 明治十三年没    二 十 世   智宗孝全 明治二十六年没   二十一世  関綱慈禅  明治三十二年没   
二十二世  祖覚秀道  明治三十七年没    二十三世  瑞法道全 没年不詳       二十四世  百能寛丈  昭和四十九年没   
二十五世  如山真常 大正五年没      二十六世  真覚清明 昭和二年没      二十七世  大寰鴻允  没年不詳    
* 十六世大嶺は、本山を寺子屋として、檀信徒の子供達に「読み書き算盤」を教え、この地の学力向上に寄与した。

 


   <瑠璃光山薬師院常光寺>(るりこうざんやくしいんじょうこうじ)

       370-0516 邑楽郡大泉町中央3-15-26 TEL/FAX 0276-62-3185

     * 常光寺は、十教区の寺籍229、級階[寺院の規模]44の寺院です。

   私の先祖三宅芳高と関口尾張・中帯刀・真下越前・久保田重則が建立。

     龍泉院二世芳庵正東の開山で、瑠璃光庵と呼称。
     龍泉院九世碧天觜印が現在地に移転し、瑠璃光山薬師院常光寺と呼称。
     (私の所蔵する「文書」には、開山時には西方の志部地区に有ったと言う)



 

     御本尊様は、運慶作「薬師如来像」です。
     現在の本堂は、昭和四十三年弐拾六世雪巌義雄の時新築。
     現在の住職は、弐拾八世大道高義[小川高義]。










<常光寺歴代大和尚住職>

開    山  芳庵正東 天正四年没    二    世  碧天觜印 没年不詳     三    世  等海愚覚 没年不詳    
四    世  月山積秀 没年不詳    五    世  月溧慧白 没年不詳    六    世  蘭峯天秀 没年不詳   
七    世  活宗鑑龍 没年不詳    八    世  弥山円洲 没年不詳    九    世  大洞仙嶺 没年不詳   
十    世  津洲龍梁 没年不詳    十 一 世  噲山開嶺 没年不詳     十 二 世   的峯関中 没年不詳    
十 三 世   升愚王陸 没年不詳      十 四 世   明極恵暁 没年不詳     十 五 世   昌善恵祥 没年不詳    
十 六 世   鉄山大牛 没年不詳     十 七 世   法円心城 没年不詳     十 八 世   黙  之 没年不詳     
十 九 世   祥順正  没年不詳      二 十 世   大敬正  没年不詳      二十一世  泰山正  没年不詳     
二十二世  蛍巌亮康 文政十二年没     二十三世  大心広道 没年不詳     二十四世  衝岳寿天 没年不詳      
二十五世  大安現道 明治三十三年没     二十六世  雪巌義雄 昭和四年没     二十七世  大応晏弘 平成二年没    
* 二十三世大心は、本山を寺子屋として、檀信徒の子供達に「読み書き算盤」を教え、この地の学力向上に寄与した。

明治五年に太政官令で学制が公布されると近隣六ヶ村の有志が浄財を集め、
浄土宗普照山無量院勢光寺(富岡三代秀信の次男の観誉了海上人が開山)に、
求道館」なる学舎を創建し、其の後、本町最初の学校「小泉学校」として、本山境内に移転した。


   * 現世住職の大道高義の祖父雪巌義雄は、長野県篠ノ井町出身で、
     吾妻郡吾妻町岩下の応永寺(曹洞宗・現世住職古川治直)に大金を持参し、
     修行に入り、冨岡家の関連から、此処常光寺に奉職したと言う。


     上の画像は、常光寺所蔵の抱き地蔵です。
     其の由来
は、江戸時代の末期、此処小泉のとある宿屋に旅の僧が泊まったが、
   翌朝、この地蔵を僧は置忘れ、取りに来ないので、宿屋の主人は困り果て、
   菩提寺に納め様としたが、何としても動かず、「其れなら、常光寺に持って行こう」と言ったら、
   忽ち、持ち上がったので、其れ以来、常光寺に安置して有るとの事です。
    この抱き地蔵は、国済地蔵とも呼称しますが、 
    常光寺本堂に安置以来、老若男女の願い事を聞いてくれる時は軽く抱き上げる事が出来、
   願い事を聞いてくれ無い時は重くて、持ち上げる事も出来ず、抱いて、其れを確認したので、抱き地蔵と呼称したと言います。
    縁談から病の回復等迄、専属の女性が付いて、順番待ちの状態だったと記録に有ります。
    現在も、石造60cm程の身の丈に頭巾を被り、袈裟をかけて、常光寺薬師堂に安置されて居ます。
    (迎え盆の13日の忙しい処、「御地蔵様抱かれたいですか?」と云いながら、薬師堂を開けて貰い撮った画像です。感謝)


     左の画像は、私の所蔵する佐貫寺社名譜で、龍泉院正眼寺常光寺の由来記載の部分。
     右の画像も、私の所蔵する常光寺開山の芳庵正東大和尚の霊位です。

〔取材2011.08.13他〕

町制45周年記念として作成された<大泉かるた>
常光寺(じょうこうじ)は、曾て、志部(しべ)に所在、
龍泉院二世・芳庵正東(ほうあんせいとう)が、
開山したと云われています。
元禄年間(1688年~1703年)に、
関口尾張(せきぐちおわり)・真下越前(ましもえちぜん)・
久保田重則(くぼたしげのり)・中帯刀(なかたてわき)・
三宅芳高(みやけよしたか)が、現在の休泊掘、
泉橋際に移して、瑠璃山薬師院常光寺としました。
本尊薬師如来は運慶の作と伝えられている。

 

    <月音山明言寺>(げつおんざんみょうごんじ)


         370-0604 邑楽郡邑楽町大字石打237-1
         TEL 0276-88-1728 FAX 0276-88-3536

     * 明言寺は、十教区の寺籍233、級階[寺院の規模]35の寺院です。

   元久元年(1204)源義清が出家して心外と名乗り開基、当時天台宗。
   天文二年(1533)廃寺と成るが、
  天正二年(1574)三月龍泉院二世芳庵正東が再興し、曹洞宗に改宗。




 

   寺の古文書に依ると川越藩士大竹屋康範は、顔面に醜い瘤が有り、
  常に苦悩して居た処、或る日高僧に巡り会い、
  「上州の明言寺の観音を祈らば、必ず利益有り」と告げられ、
  其れを信じ奇異の思いで、参篭祈願したら、見事に憎き大瘤は落ちて、跡形も無く成り、
  此れを聞いた老若男女皆明言寺に参じ、こぶ観音と呼称する様に成ったと云う。
   [この古文書に付いては、邑楽町教育委員会町誌編纂室の依頼で、
  資料として、預けたのだが、先代・当代何れも、返還要求しているが、
  今だ明言寺に戻っていないのが実情です。
   邑楽町誌編纂に関った諸兄の中で、事実を御存知の方は御一報下さい。
   我が遠祖児島高徳公を祀った児島神社の宝物を持ち去った白石と同じで有る]

(画像は、線香の煙絶えない本堂前)



    
    《ちよっと一言》
    明言寺とは縁が有って、私が損保の代理店を遣りながら、
   寺院グッズを販売していた時代、先代御方丈と何度か取引が有りました。
    境内の御休処「栗田商店」の主人の妹と私の妹とは、
   高校の同級生で非常に仲が良かった為、良く行き来していました。  
    栗田商店の妹は嫁に行って、居ない訳ですが、
   其の母親が店の帳場に居た頃は良く話をしました。
    今の主人がサラリーマンをしていた時代で、嫁さんを世話してくれと頼まれましたが、
   縁は有りませんでした。
    其の母親が亡くなった後、彼が帳場を引き継いだ訳ですが、サラリーマンだった為、
   店はお寺の御蔭で流行って居ますが、客への対応が今ひとつと言った処でしょうか。
(画像は、明言寺歴代の御方丈位牌)



 


    尚、栗田商店は<こぶ観音>の境内に有りますが、
   <こぶ観音>は栗田商店の経営に関っていません。
    然し、<こぶ観音>と栗田商店は共存共栄の関係です。

    電話して都合を確認後、愛妻と暫くぶりに歩いて、
   こぶ観音様に参拝した訳ですが、ゴミ焼き場の悪臭が酷く、
   帰りは迂回し、導師が輪番制の大泉町霊園を見学後、帰宅する。
   万歩計は一万五千歩を超えていた。


 * 尚、上記の他の由来に付いては参拝の際、
  本堂前に準備のパンフレツトを御持帰りに成り、御読み下さい。

 パンフレツトには、子供を授かる意味での<子生(こぶ)観音>の由来も有り、
 愛児を連れ抱いた「水子観音」の立像も参拝者皆様を見守っています。
(画像は、本堂前左側の水子観音)






 




   本尊様は「千手観世音菩薩像」 (午年に御開帳)>で、其の御利益から、
  宝暦四年(1754)両野三十三観音の第六番札所と定められ、
  更に、平成十一年(1999)上州観音霊場第六番札所に定められて、
  人々の信仰は厚く、近隣のみ成らず、関東一円から、
  老若男女の参拝者は常に絶える事無く、詣でています。  

     
   住職は弐拾六世大真浩道(石本浩道)、
  前住職は弐拾五世白堂実禅(石本実禅・熱海に旅行中客死、葬式後香典を持参)。


この地で<観音様>と言うと此処石打こぶ観音を意味します。

<明言寺歴代大和尚住職>

開    山  芳庵正東 天正四年没    二    世  覚海忠円 享保十八年没   三   世  員明学天 寛保二年没   
四    世  月潭慧白 享保二十年没    五    世  林棟了禅 元文二年没   六    世  玉洲不石 寛延六年没  
七    世  瑞芳文苗 安永二年没    八    世  宦古松石 没年不詳     九    世  白眠泰仙 寛延六年没    
十    世  祥山泰瑞 文政八年没    十 一 世  大棟淳明 文化十四年没    十 二 世   孝嶽正獅 没年不詳    
十 三 世   大円教道 没年不詳    十 四 世   祥雲本瑞 文政十二年没     十 五 世  海雲益乗 没年不詳     
十 六 世   享山正貞 天保八年没     十 七 世  祖海印現 明治十四年没      十 八 世   大吾徹宗 嘉永二年没    
十 九 世   丹山正鳳 没年不詳    二 十 世   祖亨泰禅 没年不詳   二十一世  石牛道淳 明治四十四年没   
二十二世  心巌瑞光 昭和二十五年没    二十三世  仏参開示 平成七年没       二十四世  大秀旭頴 栃木教区大光寺住職
二十五世  白堂実禅 昭和六十二年没      二十六世  大真浩道 現 住             空          白  


〔取材2011.06.05.他〕
           

    <仏種山無量寿院慶徳寺>(ぶつしゅざんむりょじゅいんけいとくじ)

         370-0604 邑楽郡邑楽町石打1056 TEL 0276-88-3767

     * 慶徳寺は、十教区の寺籍224、級階[寺院の規模]29の寺院です。

   前身は天台宗正伝寺と称したが、天正元年(1573)佐野宗綱に依り、焼き落ち、
  同年末、龍泉院二世芳庵正東に依り、再興改宗開山し、慶徳寺とする。

   五世得水舟、六世一隻峰。本尊様は「阿弥陀如来」です。
   住職は弐拾世志弘(軽部志弘)、前住職は拾九世海獄文雄(軽部文雄)。檀家120戸余。

〔取材申し込み中〕


 
    <羽黒山梅稍寺>(はぐろさんばいしょうじ)

     370-0512 邑楽郡大泉町東小泉3-13-14 TEL 0276-63-3413

    * 梅稍寺は、十教区の寺籍236、級階[寺院の規模]22の寺院です。

     本尊様は「子安観音」で、住職は前住職は軽部志弘。

     永禄八年(1565)龍泉院二世芳庵の開祖、梅梢庵と呼称していたが梅梢寺と改号。
     梅稍寺北方に羽黒権現が有り、羽黒と呼ばれていた為、山号を羽黒山と称す。 
    (私の所蔵する「文書」には、「羽黒権現、天文十五年十一月茂木若狭の勧請」と有り)
    [茂木若狭とは、小泉城家臣茂木若狭守の事で、其の社が今は不明]


<梅梢寺歴代大和尚住職>

開    山  芳庵正東 天正四年没    二    世  雄山精  没年不詳     三    世  泰龍快山 享保十九三年没  
四    世  覚相円  寛保三年没     五    世  大転道  延享四年没     六    世  雄岸郭英 天文二年没   
七    世  頓光円山 寛延元年没    八    世  洞洲仙  宝暦三年没年   九    世  放山光  安永八年没   
十    世  祖雲苗  天明元年没    十 一 世  石契秀山 寛政十二年没    十 二 世   不 詳   没年不詳     
十 三 世   海雲天  文化八年没     十 四 世   不 詳  没年不詳      十 五 世  不 詳   没年不詳     
十 六 世   不 詳  没年不詳      十 七 世  玉龍臣鱗 文化十四年没    十 八 世   悟 参   没年不詳     
十 九 世   不 詳  没年不詳      二 十 世   青山梅泉 寛政十二年没    二十一世  不 詳   没年不詳      
二十二世  不 詳   没年不詳       二十三世  不 詳   没年不詳       二十四世  卍剛黙宗 明治十一年没    
二十五世  真祥憲宗 明治二十九年没    二十六世  佛参国恩 明治四十一年没    二十七世  泰獄志弘 現 住       


    <月久山明照院高正寺>(がっくざんみょうしょういんこうしようじ)

        370-0605 邑楽郡邑楽町大字藤川33-1 TEL 0276-88-0553

     * 高正寺は、十教区の寺籍230、級階[寺院の規模]35の寺院です。


   弘治二年(1556)僧得之髄の開基。冨岡六代秀朝家臣小林河内守義知(藤川城主)の子高正の開山だが、衰退。
  其の後、慶安二年(1649)龍泉院七世伝国正的が赴き、現在に至る。

       本尊様は「地蔵菩薩」住職は(佐野桂彰)、前住職は弐拾五世大器悦定(佐野悦定)。檀家200戸余。


 
    <天徳山法華寺宝寿院>(てんとくざんほっけじほうじゅいん)

        370-0535 邑楽郡大泉町大字寄木戸1114 TEL 0276-62-5739

     * 宝寿院は、十教区の寺籍232、級階[寺院の規模]41の寺院です。

   文禄年間(1592~95)龍泉院三世窈山正精和尚の開基。
   明治12年本堂を修復し、再び、昭和43年三拾世逸雄大和尚本堂を修復。
(画像は宝寿院の山門。この日庭師等の職人が入っていて、軽トラは其の業者の車)




        【宝寿院由来】
 
    当院は、南北朝時代の南朝の忠臣楠木正成公の嫡子で、
   「大楠公櫻井の子別れ」の話で、
   知られる楠木正行(まさつら)公の正室加富貴御前の開基と伝えられる。
    御前は、十六名の家臣とともに小泉へ逃れてきて、
   そこに一族の供養のための草庵をむすんだ。名を法志庵と称したと言う。
    後の天正年間に、小泉城主歴代の菩提寺である龍泉院の三世窈山禅師が、
   この法志庵を当地に移し、名を宝寿院と改め開山した。
    その後一時期衰退をみたが、元禄年間に三世の悦山禅師が中興した。
    この時に聖観世音菩薩を本尊として安置し、山号を白華山と定めた。
    山号は後に天徳山と改称され、本尊も釈迦如来となった。
    江戸時代には、寄木戸村領主旗本山本氏の知行菩提寺であった。
    明和五年(1768)十世の巌長和尚の代に、五代目領主で幕府御小姓組番士の山本七兵衛正府から歴代領主の永代供養料として、
   田高弐石五斗余の年貢永久免除の寄進を受けている。尚、当年は奇しくも、御開山禅師没後四百年に当る。
               平成五年 秋彼岸 道巌記す
           (若干画像の文字と文脈を替えて表記しました)


   楠木正行の討死と加富貴御前

   我が遠祖児島高徳が古海にて、入道志純義晴と号し、
  医王山延命院高徳寺を開山した頃、北畠親房が常陸の国から吉野に逃れ帰り、
  南朝方の内部統一再建に奔走した結果、近畿地方に於ける勢力は富に盛んに成った。
   この頃の南朝方の主力は、楠木正成の子楠木正行が率いる河内・泉の軍勢で有る。
   父正成が湊川で討死にしてから、十三回忌の正行二十四歳の時で有る。
四日前の12日、中部公民館にて、私も出席。

   正行が紀伊の国の隅田一族を隅田城に攻め落としたのを京都の足利尊氏等幕府側は警戒し、
  細川顕氏を大将とし、天王寺方面から河内に向け、進撃させたが、正行此れを敗走させる。
   更に、幕府は山名時氏を援軍に向けたが、正行は天王寺・住吉を奇襲攻撃した為、
  細川顕氏は敗走、山名時氏は負傷し、時氏の三人の弟は討死した。
   この頃幕府は内紛で、尊氏の弟直義と尊氏の側近高師直が派閥争いをしていた。
   敗退した細川顕氏・山名時氏は、直義派だった為、細川顕氏に替わり、
  高師直の弟高越後守師泰を大将に立て、正平三年(1349)正月二万余騎を引き連れ、
  淀を出立し、和泉の国堺の浦に陣を置く、
  師直は、翌三日六万余騎を従え、八幡を出発し、四条畷に到着。
   五日、正行・正行の弟正時・和田新兵衛高家・高家の弟新発意賢秀等の三千余騎が四条畷に突入。
   高兄弟方は、多勢でじりじり攻め付け、この戦斗は、午前十時頃から夕方五時前迄続き、
  南朝方の正行の軍勢は、殆ど手傷を負い、
  正行も左右の膝に三本の矢を射られ、頬と左の目尻にも矢が刺さり、
  正行は「今は此れ迄、敵の手に掛るな!!」と云い、弟正時と差し違えて果て、
  家臣三十二騎も自刃して、相果てる。・・・

   正行の室加富貴御前は南朝の再起を計るべく、
  河内の国から、此処上野の国の新田一族と常陸の国の国守楠木正訓を頼る為、
  関口門之丞を先鋒に十六氏を引き連れて、来たものの、時既に遅く、新田氏は滅び、岳父楠木正訓も無く、
  北朝勢の天下で、時機到来を待つ内、休泊掘河畔に尼寺法志庵を開基し、
  応永九年(1402)二月二十八日無念にも、六十六歳で没す。
  (我が遠祖児島高徳公が亡くなってから丁度弐拾年後で有る)
   加富貴御前の恨みは、其の亡霊が白蛇と化身し、現れるとの事で、
  十六氏等が楠父子と御前の霊を合祀して尉兼明神とした。
  (法志庵は北小講堂の地に有って、講堂建設の際、沢山の人骨が発見されたと言う。
  <尉兼明神>の所在は現在不明で有る)

   *  私が代々四百五十八年住む此処の裏手に<御前宿>と言う小字が有ったが、
    加富貴御前を偲んで、命名したと思ったのだが、所蔵する古地図に依ると、御膳宿だった。
      木村と私の三宅姓は、この十六氏では無いが、十六氏よりも、旧家なので、招かれました。
      既に、この時代、真面な武士は、戦死して居ず、南朝方へ、
    武具を供給して居た職人を武士に、仕立てた訳で、其の証拠に、同和系の姓が多いです。
      縁有る方が、訪問すると詳細を説明するが、先祖を思う心は、同じです。


   * 道巌信雄大和尚の名刺には楠木家の家紋菊水紋がプリントされていた。

(上記画像は、山門を潜って左側に鎮座する町指定の重文<石造地蔵菩薩像>と其の由来の看板です)

(上記左画像は、庫裏玄関を入ると正面の「韋駄天像」。
右画像は、本堂に鎮座する左から「聖観世音菩薩」と「釈迦如来像」そして、「地蔵菩薩」です)

本尊様は、「聖観世音菩薩」住職は三拾一世道巌信雄(田辺信雄・大泉町議)

<宝寿院歴代大和尚住職>

開    山  窈山正精 文禄二年没    二    世  碧天正印 正徳三年没    三    世  悦山正欣 没年不詳    
四    世  祖梁伝意 寛保二年没    五    世  石怪禅梁 明和四年没    六    世  笠峯蜜仙 宝暦三年没   
七    世  祥山忍貞 元文五年没    八    世  賢爺恭良 宝暦六年没    九    世  活爺賢龍 宝暦六年没   
十    世  天嶺巌長 天明六年没    十 一 世  地恭良天 没年不詳     十 二 世   祥山林檎 文化八年没   
十 三 世   恭州遊仙 没年不詳     十 四 世   大梁霊林 享和三年没    十 五 世   仙海達印 文化四年没   
十 六 世   直峰一指 天保五年没    十 七 世   量海門広 天保四年没    十 八 世   大円全体 没年不詳    
十 九 世   耕霊石耘 没年不詳     二 十 世   正応俊道 没年不詳     二十一世  祖道本宗 慶応二年没   
二十二世  仙崖霊椿 明治二十年没   二十三世  培本霊苗 明治二十年没   二十四世  庭庵祖園 没年不詳    
二十五世  天海玄龍 明治十一年没   二十六世  賢爺天崖 明治十三年没   二十七世  即幻哲聞 明治十八年没  
二十八世  蓮能智門 明治三十六年没  二十九世  禅巌太堂 昭和二十年没   三 十 世  長巌逸雄 平成十五年没     


   ● 上記画像は参上した時、丁度眼にして<野村家系図>と有るので、「野村先生の関係か」と尋ねると、
    制作の道巌大和尚「正しくそうで有る」との回答なので、仝系図下部非公開の約束で、戴いた物です。
     野村康男先生とは縁が有り、私の中学の恩師で、父の元へも歴史関連で、頻繁に訪ねて来ていた社会科の先生です。
     私が東奔西走して、立ち上げた学年の同窓会開催の折に、感謝の言葉を戴きました。
     (仝系図下部の非公開部分に平成15年没と有りました)
   ● 先代長巌逸雄方丈と私の母はカラオケ仲間でした。   
〔取材2011.07.21.他〕


    <龍谷山正泉寺>(りゅうこくざんしょうせんじ)

        370-0615 邑楽郡邑楽町大字篠塚2855 TEL 0276-88-2063

     * 正泉寺は、十教区の寺籍235、級階[寺院の規模]38の寺院です。

   永禄二年(1559)龍泉院三世窈山正精の開基。八世仏燈禅教が再建、十五世護大典が改築。

       本尊様は「釈迦牟尼如来」。住職は十六世大雲全宏(笠井全宏)。


    <天照山正善院>(てんしょうざんしょうぜんいん)

        370-0515 邑楽郡大泉町大字下小泉2081 TEL 0276-62-2291

     * 正善院は、十教区の寺籍237、級階[寺院の規模]33の寺院です。

       本尊様は「釈迦如来」。住職は、前住職は白石照雄、前々住職(二十二世)は天与周光。


       江戸時代初期、この地に居た優婆塞(うばそく・在家の男性信者)が、
      大詳寺・加納院・福寿院・宝光院・馬場庵・正善庵等建立したものの廃寺と成る。
      
       其の正善庵を龍泉院七世伝国正的が再興し、当山二世霊嶺正鷲が庵号を寺号に改める。
       この地に鎮座する神明社名を山号にする。皇太神宮の別当寺で有る。 


<正善院歴代大和尚住職>

開    山  伝国正的 万治三年没    二    世  霊嶺正鷲 宝暦三年没    三    世  霊敬正瑞 寛政五年没    
四    世  大洞正峯 寛政九年没    五    世  津洲正梁 天明六年没    六    世  円殊紋光 文化二年没   
七    世  祐国智寛 寛政七年没    八    世  光外泰洲 没年不詳     九    世  本能徳隋 没年不詳    
十    世  源契正英 没年不詳     十 一 世  祖雲仙良 天保六 年没    十 二 世   仙舟正慈 没年不詳     
十 三 世   雲瑞正光 没年不詳      十 四 世   良 法  没年不詳      十 五 世  大 然  没年不詳     
十 六 世   洞外宗天 没年不詳      十 七 世  泰応俊嶺 没年不詳      十 八 世   天悲孝隆 没年不詳     
十 九 世   実明霊瑞 明治二十一年没   二 十 世   吟山臥龍 明治四十一年没   二十一世  徳林俊鳳 昭和七年没     



    <泉福寺>(せんぷくじ)

         370-0604 太田市古戸町石打197 TEL 0276-38-0579

     * 泉福寺は、九教区の寺籍231、級階[寺院の規模]の寺院です。


   本尊様は「」
   住職は世()、前住職は世()。檀家120戸余。

   泉福寺の有る太田市古戸町は、昔「祝人・はふと」と呼ばれて居たのが変わり、
  其れ迄、冨岡の領地等として、佐貫庄・邑楽郡に属していたが、明治二十二年県令で新田郡に編入される。

〔取材申し込み中〕



  * 龍泉院二世芳庵正東大和尚が、この地方に禅宗を広めた功労者と言える。
    韓国の禅宗の総本山<梵魚寺>等訪問記は、韓国支部開設と通度寺・梵魚寺を御覧下さい。


  * 小泉城主冨岡氏六代の後裔に付いて。
     他の歴史家の文献では、大泉町周辺に後裔が沢山存在する旨の記述が有るが、
    冨岡姓と富岡姓は、ワ冠ウ冠の違いが有り、冠と言う字は、御覧の様に、ワ冠で有り、
    冨の字の意味は、豊かさの冠を抓んで取られない事なので、富岡姓は小泉城主冨岡氏六代の直系後裔とは私は思わないが、
    冨岡姓を名乗れ無かった時代を経過して、
    2003年の太田館林地区の電話帳を見ると、冨岡姓は太田市で2軒、大泉町2軒、邑楽町1軒、新田町1軒、
    館林市・尾島町・明和町・板倉町は無かった。

    結城久朝の領地だった上州富岡の地名をもじり姓にした其の子直光は、
   富岡市在住の富岡氏や本年初当選で、三宅雪子が支援した富岡賢治高崎市長も冨岡氏六代と縁が有ると思います。


  * 掲載の各寺院御方丈様(住職)名簿に付いて。
    御方丈様名は出来る限り、資料に元瑞て表記しましたが、
   旧漢字字体で表記出来ない文字は略字体で表記しました。
   (曹洞宗の住職を敬称する時は●●方丈様と呼ぶのがルールです)

『参考資料』  私の蔵書「小泉町のあゆみ」小泉町教育委員会、「関東のド真ん中」茂木栄三郎、
         「大泉の史跡を訪ねて」河内梧作、大泉町誌上巻「自然・文化編」、大泉町誌下巻「歴史編」、
         「下総結城冨岡氏系譜」及び「曹洞宗寺院名鑑」(昭和61年版・曹洞宗宗務所発行)、
         「群馬県史収集複製資料目録」(平成6年3月31日群馬県立文書館発行)、
         「20周年記念町勢要覧」(1977年大泉町発行)、「児島高徳実在論」宮家史朗、
         邑楽町誌下巻、邑楽町誌下巻、龍泉院所蔵「曹洞宗群馬県寺院名簿」(平成19年発行)。


■■ このpageを世に出す切っ掛けは、下記画像の「20周年記念町勢要覧」(1977年大泉町発行)の44pageに、
  関心の無い・無関係の役人が事実と異なる記載をした為、其の間違いを改め、
  後世に真実に近い歴史を残そうと愛妻を抱く心算で、PCを抱いた訳です。
   秀信公は三代、墓では無く供養塔が正解。
   大泉町誌下巻「歴史編」239pageには、加富貴御前は正成の妻と有るのも間違いで有る。


◆◆ 資料探しと取材活動に奮闘していますが、中々進みませんので、
  未だ、このpageは未完成です。順次更新していますので、若干間を空けて御覧下さい。


* 資料・情報提供の各寺院御方丈様等関係者皆様に感謝申し上げます。


今年は、私の遠祖児島高徳公古海高徳寺を開山して636年
そして、私の先祖三宅太郎左衛門尉藤原芳高が此処に在を求めて458年に成ります


      本会は、2012年7月8日(日)大泉町文化むら大ホールに於いて、
     被災地支援映画「フラガール」上映会上映会に続き、
     第二弾から、第八弾迄、「除染作業」等の支援をしたが、
   被災地利用の悪徳業者との戦い→  「被災地の悪徳業者1」  <被災地の悪徳業者②>

      酷い目に遭い、ブラックリストの個人・企業が多い為、
    国家も、被災地には、税金を使わない方針に、変更の為、被災地支援から、撤退し、

     現在は、双葉郡の一箇町村を「世界貢献テーマパーク」として、地域繁栄し、住みたい街・行きたい街づくりをします。
大熊町役場会津若松出張所を訪問、交通整理の赤井光清氏との出会いと被災地復興計画
双葉郡復興は、社会貢献する事業計画しないと再び、災害を受けます。★
復興の核は、山本信人博士のGcMAFHIV等感染症難事病患者を短期 完治させます
双葉郡の一行政に GcMAF工場病院設置、病に悩む皆さんを救済。★
水脈探査した母なる大地に、栄養分が有る我々の遺体を還す<土葬霊園>を山腹に造成。
自然災害が多いのは、山に埋葬しない事で、遺体を燃さず、大地還す。★
大熊町役場を再訪と木幡ますみ町議と面談後、竜田駅視察。力強い助っ人中村守保博士。
★協力戴けない方が、多い中で、水耕栽培高齢者施設等の御協力を得る。★

万能薬 &食べる化粧品「厚岸草함초」を尋ねて、 仁川江華島訪問2015.6.1.
万能薬&食べる化粧品厚岸草鹹草/함초貴女に、御提供します!!。★

総務大臣届出政治団体 三宅藤原氏族会 (旧 児島高徳公直系同族会)
日韓親善NGO活動34年国際協力団体 東亜友誼慈業研究会
会長 三宅英雄 (号 昔城・高徳公陰陽直系二十四世裔・元読売新聞記者) 

http://三宅氏.jp   高徳公と三宅英雄のルーツ

〒370-0516 群馬県邑楽郡大泉町中央2-10-19
電話&Fax 0276-61-0560

平成22年(庚寅)10月25日(天一天上・天赦日) 更新2016年07月12日
(天一天上は吉日・天赦日は最上の大吉日を意味します)

東亜友誼慈業研究会韓国支部   愛車単独3000キロ韓国周遊の旅
  
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