Counter 新田義貞と脇屋義助と楠木正成、そして児島高徳(南朝の忠臣)

 

太平記の里シリーズ

新田義貞脇屋義助、そして楠木正成

★ 後世に語り尽くそう太平記の歴史!!<新田義貞と勾当内侍の花見塚神社&脇屋義助の正法寺、そして楠木正成の楠木神社。>ようこそ!!このpageは、私の遠祖児島高徳を含む、南朝の忠臣を紹介します。 ★

児島高徳公生誕七百年記念』

純愛は、環境の異なる遠方に在り気!

          * 画像左は、花見塚神社の新田義貞公首塚と勾当内侍の墓。
             画像右は、私の遠祖児島高徳公が義助公の遺髪と法名を届けた正法寺の脇屋義助公の像。


新田義貞勾当内侍純愛

 東男に京女と言う言葉は、似合いの男女とか、
相愛の夫婦の事を言う様に思われがちだが、
本当の意味は、男意気を情一筋に生きる東男と従順で貞淑な京女が結ばれると、
大変円満な家庭を作る事が出来ると言う事を意味する。
 そして、風土上・血統上・遺伝学上から見て、理想的だと言う意味で有る。

 この言葉を其の儘に、華やかに人生を歩み出しながら、
惜しくも、哀れな末路を遂げた「東男」と「京女」を御紹介しょう。
 「東男」は建武中興の功臣<新田義貞>と「京女」は其の側室<勾当内侍>で有る。
 この二人の物語は、聞くも涙・語るも涙、薄幸の半生で有った。

 義貞公は、源氏の流れを汲む源頼家の次男義国から分家した新田義重の六世裔朝氏の長男で有る。
 元弘三年(1333)五月八日後醍醐天皇の鎌倉幕府倒滅の命が下ると、
上野の国生品明神に勤皇の義兵を挙げ、一族諸共二百騎程が鎌倉に向う、
途中、武蔵の国見賀尻(現在の熊谷市三ヶ尻)で、
後方から二千騎余りの砂煙を上げて、向って来る軍勢が有り、
「敵方か?」と眼を見張ったが、良く視ると大井田経氏を大将とする援軍であった。
義貞は、経氏に「どうして、義兵を挙げる事を知り、然も、速やかに着倒したか?」の問いに、
経氏は、「昨朝、羽黒山の山伏俊賢(天狗山伏)が越後の国中に、
一日の間に義兵の事を触れ廻った為だ」と答えた。
 此れは、山伏修験道の大本山尊瀧院で生まれ育った、我が遠祖児島高徳の仕業である。
 大いに戦力を得て、一挙鎌倉に攻め入り、
敵将北条高時以下一族を自尽させ、鎌倉幕府を滅ぼし、
京都に入り、内裏に召され、警護の任に当たった。

 気清く、月が冴え渡り、風冷ややかな、或る晩の事、数多く有る局は閉じられて居たのに、
勾当内侍は、自分の局の暖簾を半分程巻き上げて、月に向かい琴を弾いていた。
 義貞は、好奇心に誘われて、琴の主は誰であるかと局に近づき、様子を窺ったら、琴の音は止み、
中に、後醍醐天皇の寵愛只ならぬ、絶世の美女<勾当内侍清子>が居た。
 内侍は、一条頭太夫藤原行房の娘清子で、僅か十六歳の時、内裏に召されて、
天皇の御傍に仕えた才色兼備の女性で有った。
 義貞は見た瞬間、其の艶やかな姿で、
「此れが京女を代表する女性か?」と妻子有る身で有る事を忘れ、内侍を思慕する様に成り、
寝ては夢、覚めてはうつつ幻の如く、魂を失った人の様に成り、挙句、不甲斐ない事にも、
「清子から一度で良い、何か優しい言葉の一つでも掛けて貰いたい」と思い、
囲われ者・籠の鳥と知りつつも、
人を介して、内侍に切々な思いを込めた恋文を送ったのだが、何の返事も無かったので、
 続ける事半年余り、梨の礫の如くなので、遂に悶々の情抑え切れず、思いを一首の歌に託した。

       《我が袖の涙に宿る影とだに 知らで雲居の月や澄むらん》

 其の事が、天皇のお耳に入り、義貞の遣る瀬無い気持ちを推察したのか、
天皇は或る晩、月見の宴を催され、義貞を特別に招き、
内侍に「公卿の笛に合わせ、琴を奏でよ」と命じた。
才器優れた琴の名手の奏でる琴の音は、人間業とは思えぬ程美しく、
天皇は、義貞の日頃の忠節を愛で、
「義貞!盃を取らす!内侍!義貞に酒を注いで遣れ!」と命ぜられた。
 義貞は高らかに「はい!」と答え、顔を赤らめ、耳を染め、振える手で恭しく、盃を拝受した。
 内侍の手元も微かに振るえていたが、義貞は、朱塗りの大盃を一息に飲み干した。
 「天晴れなる飲みようぞ、そちの日頃の忠勤を愛でて、天下の琴の名手を其の盃に付けて取らせる」と、
天皇は仰せられ、思わぬ賜り物と義貞は「はい!」と力強く答え、頭を深く下げた。
 漸く頭を上げた顔一面に、涙が溢れ、天皇の慈悲に感銘し、
この君の為に命を捧げようと改めて、心に誓ったのも無理の無い事で有る。

          * 画像左は、後醍醐天皇(第九拾六代)の肖像画(私の所蔵)。
             画像右は、上毛新聞「東毛版」に掲載された、
                   義貞公と高徳公が描かれた明治13年国立長崎銀行発行の<二円>札の記事。
                    (この紙幣は、明治31年迄全国通用された)

悲運南朝方

 内侍を第二夫人に迎えた義貞の家庭は、直ぐに琴瑟相和すと言う日々で有った。
口喧しい公家の間にも、其の幸福を願っていたのだが、其の喜びも束の間、
天皇の建武中興の大業は、鎌倉幕府倒滅の際に於ける論功行賞が公家に厚く、
武家に薄かったと言う事に不満を持った武家の代表たる足利尊氏等に因り、
完成せず、光明天皇を立て、京都に幕府を開いた。
 新政に敗れた後醍醐天皇は、吉野に入り、楠木正成・義貞等と共に、
尊氏打倒を謀られたが、南朝振わず、正成・義貞・北畠顕家等の武将は、悉く討ち死にし、
五十七年間、南北二朝に分かれていた皇統の争いは、
足利義満が将軍職に就いた明徳元年(1392)遂に、南北二朝合体に至る。
 時の流れとは言え、余りにも呆気無い終幕で有った。

 この間の消息に付いて、太平記では大要次の様に述べている。
 〔足利尊氏は中興政府の論功行賞で、離れ出した民心を巧みに利用し、武家政府を再建せんとし、
建武二年(1335)、東国に北条氏残党の反乱鎮圧に向ったのを機に、
後醍醐天皇から離反し、中興政府打倒の軍を起こした。
 義貞は延元元年(1336)十月、詔旨に依り、恒良親王・尊良親王の二人の皇太子を奉じ、
尊氏打倒の為、越前の国に下向の折、内侍を連れて行かれたが、
行程の難儀と女性を伴うのは軍規上好ましくないと、近江の国堅田の浦に留め置かれた。
 其の後、内侍は京都に於いて、義貞の首が晒されて有るのを見て、無常を感じ、尼に成った〕
 と記されている。
 ところが、今も尚、堅田に残っている《内侍由緒記》には、
「夫は雪の越路、妻は海人の苫屋の憂き住まい、互いに身を案じ、
暮すうち早くも二年余りと成りぬ」と内侍自身の様子が記録されている。

 一方、義貞は内侍を迎えんと心馳せながら、延元三年(1338)七月二日、藤島の露と消える。
 其の後、三月余り経て、義貞の家臣瓜生判官は堅田の内侍を訪ね、
「七月二日黄昏時、藤島の戦いで、敵の勢い強く、我が軍ややもすれば、追い立てられると聞きし、
左中将殿早速、鎧兜に着替え、馬に乗り、灯明寺前より五十騎従え、敵陣に攻め寄せ給う。
君の乗馬は水練栗毛、御代の俊足成りけるが、如何にしたるか、小溝ひとつ越えかねて、
屏風を倒す如く、崖の下に転び落ち、我が君弓手の足をしかれ給い、
起き上がらんとし給う処へ、飛び来りし、自羽の鏑矢直向外れ、眉間の真ん中に突き立つ、
急場の痛手に我が君は、自ら抜いた太刀を左手に取って、首を刎ねさせ給う。・・・」
と義貞の最後を申し述べ、判官は涙を流す。
 勾当内侍は、悲しみの余り、苫屋の床に伏し沈み、侍女と共に、一夜泣きじゃくった後、
東の空が白み掛るのを視て、琵琶湖湖畔に出て、義貞遺愛の笛を取り出し、一曲吹き終わり、
葦の茂み掻き分けて、姿を消し給う。・・・
 土地の人々、此れを聞き、哀れと思い、篤く葬り、神として野神の杜に祀りぬと記録されている。
 (義貞の最期に北朝方と戦った愛馬は、三宅雪子の祖、香坂高宗が育てた名馬であった)

 又、異なる古文書には、「内侍は、堅田の浦に於ける二年余りの別居生活に愛慕の情絶えられず、
越前に向け、旅立ったが、其の道すがら、義貞の死を知り、已む無く輿で、堅田に還り、
十月八日の夜半に白装束姿で、琵琶湖に身を投げた。
 其の翌朝、漁師竹聞某なる土民が発見し、其の死を悼み、屍を湖の一小島に葬った」と記録されている。

 堅田の浦の野神神社では、今尚、勾当内侍の死を悼み、
毎年同日夜半、内侍が義貞の死を悲しみ、遺愛の笛を吹きながら、
入水したと言う琴ヶ浦の土を神社の氏子が取り、境内に有る勾当内侍の墓に塗付けると言う神事を行い、
更に、内侍が発狂したであろうと考え、仮装した人々達は、狂態を演じながら、
神前に供えた、供物を路上や見物人に投げ付けたりし、「きちがい祭」の追善供養を催している。
 この神事は、マスコミにも紹介され、私も見た記憶が有ります。

 話題と成り、語り草と成った二人の結婚生活は、僅か五年、
其れも兵馬倥惣の慌しい間に間に終わるとは・・・
 同情が多いのは、義貞の忠誠心と人徳で有り、
悲劇のヒロイン内侍の清純な心を哀れむ人々が幾星霜を経ても、
絶えず、今尚、堅田の里人に依り、供養されて居るのです。

 この二人に関しての詳細は、京都府・滋賀県に多いが、義貞の出身地で有り、
私の在住する群馬県にも存在する。

 私は、新田義貞公と同じ南朝方の児島高徳公の弐拾四世裔で、
代々今年で、458年高徳公の墳墓を守って来たのですが、
伏見天皇を従兄に持つ、下野入道南順の娘は国良親王の妃に成り、宮下又三郎正治を生んだ。
 其の正治に高徳公は、親戚の磯部城主佐々木秀綱を媒酌人にして、
弘和元年(1381)四月二十七日娘徳子を嫁がせる。
 義貞公が戦死してから、43年後で有る。
   宮下又三郎正治72歳没、法号=宝藤院能阿
   高徳公末娘徳子99歳没、法号=国照院寿仏房

 勾当内侍は、義貞の娘山吹姫を産み、姫は後に、宗良親王の室と成り、国良親王の母と成る。
 つまり、現在の武蔵島の宮下氏は、義貞公の血筋で有り、私と同じ高徳公の血筋でも有る訳です。

 弟脇屋義助と私の遠祖児島高徳は、其の時、石盛城に陣取っていたのだが、
義貞が軽装で、僅かな兵しか連れて行かず、敵の矢で討死の報を知り、
怒り苦しみ、即刻黒丸城に押し寄せんとしたが、大将の死に意気消沈し、気力は失せ、
城内に一夜で三度も放火する兵も出て、腹心達迄逃亡する始末で、
翌朝には三万余騎が僅か二千騎程に成ってしまった。・・・

 義貞が三十八歳で、戦死した年に勾当内侍は、義貞公の館近くの武蔵島に庵を建て、
 内侍と其の娘山吹は、共に出家し、母は義源尼と名乗り、
後醍醐天皇の即位から、長慶天皇の即位迄を<義源密記>と題し執筆。
 娘も興国元年(1340)、国良親王が遊行上人の弟子に成った時から、
永享十三年(1441)の将軍足利義教が赤松満祐に暗殺される迄を<南北朝新田覚心密記>と題し執筆しながら、
 (北朝方を警戒し、「<覚心密記>の表紙には、正平九年より五百年間禁書」と有り、永く秘密裏にされていた。
 我が遠祖に関する記事も、正治に娘徳子を嫁がせた事等数箇所有り)

 義貞の首を弔い、内侍の好きな躑躅を沢山植えて、義貞を忍んだ。
 母娘の警護には、当時”朝廷の黒幕”と言われた甲斐の国総地頭で、
富士浅間神社宮司の三浦越中守義勝の縁者三浦庄太夫維高が任に当たって居た。
 其処に湊川で討ち死にした、四十三歳の楠木判官正成の首を携え、義勝の元を経由し、正成の家臣五人が来て、
暫く滞在し、陸奥の国に籠もる北畠親房の縁者を頼って、諸国巡りの六部姿で、
岡田四郎友治・三石藤内行隆・富田七郎正武・伊藤兵義和・江田四郎高次の五人が出発するのだが、
館林の羽附で休憩した処、楠木正成の首は微動だとしなく成る。・・・
 (甲斐の国を出る時、七人だったが和田五郎正隆は途中討ち死し、橋本八郎正員は武蔵島に残り、五人)

 内侍の植えた躑躅の古木は其の後、館林城主榊原忠次に依って、寛永四年に楠木神社近くの城沼の畔に移され、
世界一のつつじの公園として、有名に成ったのは奇縁と因縁です。

 其の後の武蔵島は、宮下又三郎正治(宗良親王の孫)が、勾当内侍の墓を建立し、
神武天皇と後醍醐天皇を祀る花見塚神社を創建したが、宝暦二年(1751)火災で焼失し、
義貞の首石・内侍の墓石・昭和五年中島知久平等建立の<勾当内侍藤原遺墳碑>等しか残って居なかったが、
宮下正治の後裔宮下八郎が、昭和四十五年再建し、今日に至っている。
 (当時、宮下八郎の分家で、尾島町議員で、明るい町造りの会長の宮下五郎が東奔西走し、再建に至った)
             * 画像左は、花見塚神社境内の参道(右に東屋有り)。
                画像中は、花見塚神社。
                画像右は、<勾当内侍藤原遺墳碑>。(詳細は、中島知久平と新田義貞)[何れも2011.9.23撮影]

 昭和五十三年、花見塚神社の大欅を宮下八郎に提供戴き、先代三保ヶ関親方の揮毫で、
我が遠祖高徳公の大卒塔婆を墳墓に建てました。(現在は廃棄されて無い)

 義貞公と勾当内侍の物語は、沢山WEB上で紹介されていますが、関連の宮下家と私の三宅家も知って欲しい。

 花見塚神社周辺は、殆ど宮下姓で八十を越えた宮下八郎が当主です。
 先日、電話したら「体調が良くない」との事でした。

 暫く振りに訪れた花見塚神社は、台風15号の影響で、欅の太い枝が折れ、参道を塞いでいました。
 神社入り口の<尾島かるた>の看板の内侍の顔が印象と大いに違うのが残念で有り、
群馬県大沢正明知事の父明治は尾島町長の時、この史跡に非常に熱心だったが、
知事は公舎に女を連れ込む程、色情に熱心だが、
花見塚神社近くに自宅が有るにも拘らず、郷土史に興味は無い様子で有る。


楠木正成首塚楠木神社


 館林羽附で、足止めを余儀なくされた正成公の家臣達は仕方無く、
大きな松の木の下に野宿したが、五人揃って、「此処で落ち着こう」と言う正成公の夢を見た。
 この為、塩漬けに成っている正成の首を堰の水で洗い、
松の根元に埋め隠したと大正四年鳥居を寄進した者の一人で、
当時三十一歳の縁者森田一三郎宅(代々羽附村名主)の古文書に記録有り。
 後に、社を建てたが、足利勢の目を避ける為、頭の《クス》は口の中で唱え、
《ノキ》だけを明らかにした策で、「野木大明神」とする。

 明治の初めに成っても、天皇が北朝系で有る事から、
此処に南朝の忠臣楠正成公の本物の首塚が有ると申し出れば、何の不祥事を招くか判らないので、
嘉永七年(1854)奉納の手水鉢に浮き彫りされている菊水紋を泥で隠し、
屋根の紋瓦も取り外して、池に沈めて「祭神は野に因む草野姫」ですと寺社取調べの際、申し出たと言う。

 其の後、村内に強盗・放火・殺人事件が相次いで起り、
新築の小学校が棟上式の最中に倒壊したりで、村人は”たたりだ”と恐れおののいた。
 其の結果、群馬県知事に申請して、《社名・楠木神社、祭神・楠木正成公》と相成ったと言う。
 羽附で、楠木神社が有る場所は、現在楠町と地名が替えられている。
 そして、正成公の首を携行した岡田・三石・富田・伊藤・江田の五人の家臣は、
其々、田部井・石井・半田・小林・江守と姓を替え、帰農した。
 特に、江守主水正行と名を替えた江田四郎高次は、首を洗った堰の傍らに毎夜灯明を灯して、
主君の霊を供養し、其の場所は<主水橋>と呼ばれる様に成ったが、
現在其の子孫は行方不明で、他の四氏子孫が神社近隣に暮す。

 神戸市中央区の湊川神社に祀って有るのは、大楠公の胴の部分で、
尊氏が六条河原に晒した後、河内の妻子の元へ届けさせた大阪の 高野山真言宗檜尾山観心寺の大楠公の首塚の首は、
実は、宇佐美河内守正安の首だったのです。
 そして、大楠公の幼名は多聞丸と称し、後に多聞兵衛なので、
一寸八分の金銅の多聞天(毘沙門)像を守護神として、常に肌身離さず携行したと言う。

 乃木希典(のぎまれすけ)陸軍大将は、楠木正成公に対する尊敬心が非常に高く、深く崇敬しました。
 乃木大将の[尽忠報国]は正成公を見習った物で、正成公に関する書物を集め考究した。
 正成公が子の正行公と別れた大阪府三島郡島本町の史蹟、
桜井駅跡の石碑の「楠公父子訣別之所」と云う文字は乃木大将に依って、書かれた物です。
 そして、乃木大将は楠木正成公について次のような歌を詠んで居ます。
  <いたづらに立ち茂りなば楠の木も いかでかほりを世にとどむべき>
  <根も幹ものこらず朽果てし楠の薫りの高くもあるかな>

 佐々木源氏の祖佐々木秀義の三男盛綱の六代後裔が和田範長公、其の子児島高徳公の弐拾四世裔が私で、
秀義の四男高綱の次男光綱は、仝五男隠岐守義清の養子と成り、出雲の能義に移り住んだ。
 乃木希典大将は、其の能義(野木)二郎と名乗った光綱の後裔なので私と遠縁で有る。
 (西那須野「乃木神社」訪問記は、新規PAGE準備中)


        河内音頭の歌詞の中で、そびえて高き金鋼山 よ 建武の昔大楠公
                      その名も 楠正成公 今に伝えた民謡
                      河内音頭と申します 聞いておくれよ
                      荷物にゃならぬ 聞いて心も
                      うきうきしゃんせ
   ・・・・と唄わられています。

 WEB上で、知り合った河内地方に住む秋元氏に依ると、 
四條畷神社近郊の四條畷商店街は、楠の公商店街とも呼ばれ、
正行公の御利益で観光的にも、非常に活気が有る」とメール取材に応じて、貰いました。
          先人を敬い・尊ぶ事は、地域の発展を促す事と思います。

          * 画像左は、新田之庄古図(私の蔵書<新田の旗風―南北朝史(1973)>より抜粋)。
             画像右は、東武伊勢崎線「太田駅北口」に立つ、義貞公と義助公の銅像。
             (太田駅が整備される前の1992.3.27撮影)

新田義貞楠木正成の後裔大館橋本氏

 そして現在、花見塚神社の武蔵島から、1キロ程西方には鎌倉攻めの際、一方の大将として、
義貞に従った大館宗氏(直系本家は所沢在)の館が有った太田市大館に、
宗氏公の分家で、正成公の伯父正玄の弟の橋本八郎正員を祖とする橋本姓が十数軒有り、
工学博士・群馬県議・尾島町議五人・尾島町農協組合長を出している。
 私と顔見知りの数軒が名産の大和芋を栽培している。(小泉十六氏の橋本姓の同族と思われる)

    【新田大館橋本氏略系図】
 大館宗氏(新田義貞の祖義重の六世裔)→義明→義隆(小手指の戦いが元で卒)→
 義信(父と共に義貞三代に従軍後、大館に蟄居)→義継→義包→為氏→員氏→
 貞信→国俊→晴氏→倶家→国家→家治→盛重→義久→義信→家高→正知→
 高貞→定信→宗信→信明→義政→正隆→義興⇒女
 *橋本八郎正員→民部大介河内介正時→正邦⇒橋本徳三郎義本(祖)→義光→
 義政→義忠→義武→義信→義成→義明→義高→義勝→義親→孫右衛門尉義■→
 親房→親義→義道→義総→金右衛門尉正■→義邦→儀平→邦義→■太郎→
 邦時(新田・楠木両家末孫)→健蔵→茂三郎→洸(二十四世・昭和三年生)→

脇屋義助の遺髪塚脇屋山正法寺

            * 画像左端は、我が遠祖児島高徳公墳墓の玉垣の正法寺と長勝寺名入れ部分。
               (西南の位置。右側に盛木屋も有り)
               画像左から二番目は、正法寺庫裏の客間に鎮座する弘法大師像。
               画像左から三番目は、仝観音像。   
               画像右端は、仝本堂に安置する聖観音像のレプリカ。(本物は御開帳の時だけ参拝出来ます)

  我が遠祖児島高徳は、四国伊予で亡くなった脇屋義助の遺髪を義助の故郷の新田の庄萬明山聖徳院聖宝寺に送り届け、
 臨終の有様と、伊予の国分寺の住職智承の諡った法号「正法寺傑山宗栄大居士」を語り、
 この後、聖宝寺は[古義真言宗脇屋山正法寺]と改称した。
  私は、父と正法寺を訪ね、遺髪塚を参拝し、住職の好意で、本尊の純金聖観音(しょうかんのん)も拝観し、御守りを戴いて来ました。

  2011.06.04 37年ぶりに亡き父の代わりに愛妻を連れて、正法寺を訪問し、
 先代住職の未亡人の人情味溢れる話を聞き、庫裏・本堂と境内を案内されました。
  自慢の仁王像は、浅草の浅草寺が買いに来たが、勿論断ったそうです。
  すっかり付近は、開けて、裏に道路が出来ていたのは驚きでした。
  脇屋義助公の後裔と名乗る方が、四国からはるばる出掛けて来る。太田市内で、一番古い名刹です。
             *  画像は、父と訪れた時の50年程前、先代空井良信和尚から、戴いた「弘法大師御尊影」。
                毎日、財布の中に入れて居た為ボロボロ。
             *  画像左は、本堂の<正法寺檀信徒霊位>。
                画像中は、正法寺で戴いた<平成二十三年暦>。
                画像右は、太田市指定重要重要文化財の<正法寺仁王門並びに仁王尊>。
               (正法寺境内の画像は、WEB上に沢山有るので、寺院内部の画像を中心に掲載しました)


 「天勾践空 莫 時范蠡無非
  昭和47年(1972)2月2日、グアム島で発見された、
 元日本兵の横井庄一は「恥ずかしながら帰って参りました」の帰国声明が流行語に成ったが、
 其のジャングルでの隠匿生活で、心の支えと成った言葉は、
 我が遠祖・児島高徳公の「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡無きにしもあらず」で有った。
  横井は、、尋常小学校時代の文部省六年生唱歌「児島高徳」と第二次世界大戦終結迄、
 仝小学校の教科書で学んだ等で覚えて居た為です。


 楠木正成公の子小楠正行公と其の家来に付いて、小泉十六氏
 小泉十六氏と正行公の正室加富貴御前に付いては、富岡家と菩提寺龍泉院、そして三宅氏の私を御覧下さい。


 上記、天皇が北朝系で有る事は、私の遠祖児島高徳公の墳墓にも言える事で、
今上天皇がブラジルの事で、大泉町を訪れても、高徳公の墳墓を参る事は有りませんでした。

 新羅四代王<昔脱解>を元祖に持つ私は、
「東男」「京女」よりも遙かに遠い、韓国女性を妻帯する。

 【参考文献】
  岡部福蔵著「新田の史跡」・富士浅間神社蔵「富士文庫」「富士秘密日記伝」
  ・山梨県明見村の宮下家所蔵「宮下文書」・鹿島昇著「日本侵略興亡史」
  ・秋山英一/片山才一郎共著「南北朝史 新田の旗風」・徳永眞一郎書「近江源氏の系譜」等。


今年は、私の遠祖児島高徳公古海高徳寺を開山して635年で、生誕703年です。
そして、私の先祖三宅太郎左衛門尉藤原芳高が此処に在を求めて457年に成ります


      本会は、2012年7月8日(日)大泉町文化むら大ホールに於いて、
     被災地支援映画「フラガール」上映会上映会に続き、
     第二弾から、第八弾迄、「除染作業」等の支援をしたが、
   被災地利用の悪徳業者との戦い→  「被災地の悪徳業者1」  <被災地の悪徳業者②>

      酷い目に遭い、ブラックリストの個人・企業が多い為、
    国家も、被災地には、税金を使わない方針に、変更の為、被災地支援から、撤退し、
     現在は、双葉郡の一箇町村を「世界貢献テーマパーク」として、地域繁栄し、住みたい街・行きたい街づくりをします。
大熊町役場会津若松出張所を訪問、交通整理の赤井光清氏との出会いと被災地復興計画
双葉郡復興は、社会貢献する事業計画しないと再び、災害を受けます。★
復興の核は、山本信人博士のGcMAFHIV等感染症難事病患者を短期 完治させます
双葉郡の一行政に GcMAF工場病院設置、病に悩む皆さんを救済。★
水脈探査した母なる大地に、栄養分が有る我々の遺体を還す<土葬霊園>を山腹に造成。
自然災害が多いのは、山に埋葬しない事で、遺体を燃さず、大地還す。★
大熊町役場を再訪と木幡ますみ町議と面談後、竜田駅視察。力強い助っ人中村守保博士。
★協力戴けない方が、多い中で、水耕栽培高齢者施設等の御協力を得る。★

万能薬 &食べる化粧品「厚岸草함초」を尋ねて、 仁川江華島訪問2015.6.1.
万能薬&食べる化粧品厚岸草鹹草/함초貴女に、御提供します!!。★

総務大臣届出政治団体 三宅藤原氏族会 (旧 児島高徳公直系同族会)
日韓親善NGO活動34年国際協力団体 東亜友誼慈業研究会
会長 三宅英雄(高徳公陰陽直系二十四世裔) 

http://三宅氏.jp   高徳公と三宅英雄のルーツ

〒370-0516 群馬県邑楽郡大泉町中央2-10-19
電話&Fax 0276-61-0560
公開2012年01月01日   更新2016年10月13日

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