Counter 児島高徳と増位山の三保ヶ関部屋

 

児島高徳と増位山の三保ヶ関部屋

このPAGEは、二千年前韓国から来た私達のルーツ三保ヶ関部屋訪問記と共に、御覧下さい。

和田・三宅一族の系譜 (わだ・みやけいちぞくのけいふ)

『児島高徳公生誕七百年記念』

★ 南朝の忠臣<児島高徳公>を共に、祖とする八代目・九代目三保ヶ関親方と私の血縁。!!  ★
 ◎ 左上は、八代三保ヶ関親方等が始めて、墳墓を参拝した際、私の父が青銅霊碑を見せた後の画像です。
    (左から、青柳流舞踊家元青柳吉之介、八代三保ヶ関親方、私の父、忠櫻会庭田尚三会長、「児島高徳実在論」の著者宮家史朗・
    昭和四十七年(1972)五月三十日、大泉の料亭盛木家に於いて、関係者初顔合わせ)
  
    右上は、無事墳墓が整備され、六百年記念祭の一環として、北の湖の横綱の土俵入りを披露している画像です。
    (昭和五十六年(1981)十一月二十四日、太刀持ち増位山、露払い播竜山を従えて。
    八代親方が、横綱目前の時、発注した松竹梅の化粧回しを北の湖横綱昇進の際、使用したのですが、この時は如何だったか判らない)
   <日本相撲協会理事長の北の湖敏満が2015/11/20午後6時55分、直腸癌に因る多臓器不全の為、福岡市内の病院で死去。62歳。
   福岡国際センターで、大相撲九州場所開催中で同市内に滞在中>のニュースを見聞きし、非常に残念と思った。合掌。

 ■ 児島高徳六世裔【三宅太郎左衛門尉藤原芳高】が公の墳墓守護の為、此処に来て、今年で四百五十九年経ちました。
   四百五十九年の記録の内、三保ヶ関親方との関係を御披露致します

天莫空勾践 時非無范蠡

  後醍醐天皇は、鎌倉の北条幕府を倒さんとしたが、失政し、隠岐島に流される事に成り、
 佐々木道誉が五百余りの兵を護衛に率いて行く途中、元弘二年(1332)旧暦三月十八日夜、赤松則村の院庄の館に滞在中、
 「必ずや、隠岐島から御身奪還しますから御待ち下さい」と申し上げたく、高徳は密に忍んで来たが、
 警戒厳しく、東大門の陰に隠れて思案している処、傍らに満開の桜の大木が有ったので、脇差を抜き、幹を削り、
 矢立ての筆で、この十字を二行に書き残して、立ち去った。
  この十字は、宋の時代流行した「詞」の一種で、中国に呉と越の二つの国が隣同士に有り、勢力を争っていたが、
 或る時、呉王夫差と越王勾践は会稽山で戦い、勾践は敗れ、牢に入れられ、幽閉の身に成るが、忠臣の范蠡
 勾践の傍に忍び込もうとするが警戒厳しく、入れ無いので、魚屋に身を変えて、魚籠を担ぎ、土牢迄辿り着いたが、
 どの牢に居られるか判らず、仕方無く、魚の腹を捌き、其の中に一文を包み込み、牢に投げ込み帰った。
  其の<魚腹の故事>を引用し、考えた詞ですが、

  「天は古代中国の越王勾践に対する様に、決して帝を御見捨てには成りません。
 必ず、范蠡の如き忠臣が現れ、帝を御助けする事でしょう」
という意味です。

   我等が祖児島高徳に関する書籍は、世に沢山存在するが、
  私の高祖父左太七の元へ通い著した「児島高徳朝臣墳墓考」の阿久津盛為
   私の父英四の元へ通い著した「児島高徳実在論」の宮家史朗と「長慶天皇と児島高徳太平記」の庭田尚三の三人のみが、 
  我が家に残る記録の中で、取材し、真実に近い歴史を世に伝えたと云えます。
   其れを踏まえ、関係各位に真実に近い歴史を残します。

増位山三保ヶ関親方の大事な血縁

    延元元年(1336)三月十八日、三石城の北朝勢を拡散すべく、児島備後三郎藤原三宅高徳は備前国熊山(古備前陶土出土地)に挙兵。
    同夜、敵二百騎に高徳勢十五騎が攻められ、高徳は内兜を衝かれ、馬から落ち、
   胸部を踏まれて、気を失った際、首を切られそうに成ったが、甥の松崎彦四郎範家と和田四郎範氏が助けた。
    仝二十二日、父和田備後守藤原三宅範長今木太郎範季今木次郎範仲中西四郎範顕松崎彦四郎範家の五騎は追い詰められ、
   阿弥陀堂(姫路市別所北宿)で、無念の自刃する。
    傷の療養の為、児島備後三郎藤原三宅高徳は、範長旧知の播磨国坂越の妙見寺に匿われていた後。
    延元二年(1337)十月頃、疵も癒え、義貞軍に馳せ参じ様と生家で有る尊流院に妻貞子と長男高秀を帰し、
   幼い四歳の次男高久を連れ、姫路白浜の八正寺を訪ね、高久の養育を托し、
   乞食坊主の姿で、敵陣を潜り抜け、東坂本に居る義貞の本陣に辿り着く。

    一方、八正寺に預けられた高久は、高徳の意思通り、百姓にすべく、豪農元屋荘次左衛門に預けられる。

   【八代三保ヶ関親方庭田尚三の出会い】
    昭和四十六年(1971)十月二十四日(高徳公命日)、児島高徳公顕彰会庭田尚三会長(元海軍技術中将)は、
   「岡山歴史を尋ねる集い」の会員を作楽神社に案内して、講演中に偶々、高徳公縁の故を以って、
   参拝に来た八代三保ヶ関親方と遭遇し、面会を求め、社務所で会談。
    席上、八代三保ヶ関親方は高徳公の後裔である事を話し、証と成る古文書の写し等の調査を依頼した。
    早速、仝年十一月十日、庭田尚三は、姫路市別所町北宿の<備後守児島君の墓>(和田範長公の墓)に詣で、
   代々墓守の沢田範隆氏を訪ね、其の由来を聞き、資料を得、其の足で、
   阿弥陀の大日寺に有る和田範長公の五輪塔墓碑を確認し、三保ヶ関親方の祖元屋荘次右衛門の屋敷跡や八正寺等を調査した。

    其の結果、自刃した範長公主従の内の唯一の生き残り和田四郎範家(高徳公の甥)の子孫で有ると判明する。
    其の子孫は繁栄したものの、当時赤松領内なので、和田一族を名乗れず、街道の右の在して居た者を右和田、
   左に在して居た三保ヶ関親方の祖を左和田と称していたが、天正十八年(1591)沢上に移住した後、沢田と改称したと言う。

    作楽神社<十字詩の塔>建立記念誌刊行の際、全国から漢詩を募集した処、赤城の角田偸天の【南風不競葬毛訓】を見て、
   機と感じ、問い合わせたら、阿久津盛為の著した「児島高徳朝臣墳墓考」に、古海に墳墓が実在すると云う事を聞いたので、
    早速、私の父に連絡が有り、八代三保ヶ関親方等連れだって、昭和四十七年五月三十日の墳墓参拝に至る訳です。

    当時は豪農と言えども、苗字が無い訳で、何故沢田を名乗ったか?と言うと。
    高久の従兄に成る和田四郎範家の身内が元屋荘次右衛門の身内と婚姻関係を持った事と思われる。
    高徳公が此処古海に隠棲後も、傍に居る娘徳子から便りは来るので、高久も遠く足を延ばした事は、幾度も有っただろうが、
   残念ながら、次男高久が此処に来た記録は有りません。

    和田四郎の身内と婚姻関係が出来、沢田と名乗った元屋荘次右衛門の子孫は、
   其の後、私の先祖高徳公六世裔三宅太郎左衛門尉藤原芳高以前にも婚姻関係が出来たのでは無いかと考えます。
    何故なら、四歳で、大事に元屋荘次右衛門に育てられたとは言え、高徳公も経緯は知っているし、
   元服後も元屋荘次右衛門は変わり無く、大事にしてくれたので、其れが当然と思います。


    号 暁山 庭田尚三は、佐々木盛綱の血縁が有り、非常に尽力戴きました。
    其れに引き換え、江戸時代に流行した偽の系図と思われる様な物を根拠に子孫を名乗り、顕彰に参加した者もいましたが、
    お二人の増位山三保ヶ関親方が、血縁と言う事で、人々が集まり、
   墳墓が立派に成った事は、非常に良かったと思います。御二人に敬意を表します。

      【其の一例】
    <仙石岩作からわたしの高祖父佐太七に送られた系図>
    児島高徳は、観応元年庚寅(1350)讃岐国白鳥(現在の香川県東香川郡松原の白鳥神社付近)へ栄次郎を連れ、落入り。
   仝八月土佐国幡多郡田野川村に落入りし、
   仝十月高徳は、仙石高太夫と改め、田野川村古屋二の百姓源右衛門の娘花を妻とし、
   文和二年(1353)五月男子出生、仙石高右衛門と名付け、文和四年(1355)高徳卒し、墓が有ると言う。
   同行の栄次郎は、浦田栄次郎と改名したと有る。

    <父宛 暁山庭田尚三からの葉書>
   前略 昨二日東京の宮下祐一氏より久しぶりで手紙あり、健康も恢復したので、
  高徳公の新田の顕彰会の業に加わりたいとの事で、
  其の中に児島高徳公顕賛会の「児島高徳公の群馬に有った」と言うパンフレットを同封してあったのを問うて、
  太田市下田島の稲村陸合一氏が会長で、其の連絡先は、住所と電話番号が宮家史朗氏宅である事が判明した。
   このような会が創立した事は、私の気持ちとして誠に喜ばしいのですが、
  貴殿からは先般貴町有志の人々が会を作るらしいとの情報が有ったのに、
  このような会が結成されたるに対し、何らの通知も無いのは如何した事です。
   察するに、宮家氏は老人達とは全く相手にせず、自分達がリードして、会を作ろうとしていたのであろうと思う。
   其れで私が、稲村会長宛今迄の詳しい経緯を書いて、宮家史朗の人物は怪しい男である事を知らせ公文として、
   来七月十五日午前十一時十六分着特急で、
  再び太田市長と大泉町長に群馬県史跡指定の運動を起こすよう依頼に行く事を通知して貰いたいから、
  貴殿は其の時駅へ迎えに来て下さい。陶守、脇屋両氏と共に行きます。以上。
                   (1974.7.4 8-12 岡山中央の消印 官製葉書)


 ◎ 左画像は、昭和四十七年五月三十日高徳寺本堂内を視察した関係者皆様。
    左から、宮家史朗青柳吉之介庭田尚三月刊「吟」佐々木虎方社長先代三保ヶ関親方です。
    右画像は、 大泉町長表敬訪問の左から、八代三保ヶ関親方八代三保ヶ関親方ミヨ夫人庭田尚三です。

   【先代三保ヶ関親方の略歴】
◎ 昭和の力士一番の酒豪で、一斗飲んだと増位山太志郎云う。
大正8年11月3日 1919年  現在の兵庫県姫路市白浜町で生誕。
 高等小学校時代  兄の直蔵が相撲が強かった為、影響を受ける。
 (其の約40年後、兄の直蔵は和歌山県日置川町の町議)
昭和9年9月2日 1934年  叔父源蔵の縁で、大阪相撲三保ヶ関部屋に入門。
昭和10年初場所 1935年  濵錦の四股名で初土俵。
昭和12年夏場所 1937年  六勝一敗で三段目準優勝。
 五ツ島関付人時代  関取が歌が好きなので、良く唄わされた。
昭和14年夏場所 1939年  七勝一敗で幕下優勝。
昭和19年初場所 1944年  小結の時、横綱双葉山と対戦し勝利する。
昭和22年5月30日 1947年  赤坂の山王日枝神社に於いて、
大阪相撲玉の森大吉の孫娘ミヨ(大正7年4月20日生)と婚姻。
昭和23年秋場所 1948年  西関脇で、10勝1敗の初優勝と殊勲賞。
昭和24年秋場所 1949年  西大関で、13勝2敗の二度目の優勝。
昭和25年初場所 1950年  現役引退後、三保ヶ関部屋継承。
昭和42年初場所 1967年  後の横綱北の湖敏満と大関増位山太志郎が初土俵。
昭和60年10月21日 1985年  日本相撲協会定年後、66歳で死去。
    * 其の他の詳細は、上記二つのリンクで御確認下さい。

   【庭田尚三の略歴】
明治21年6月29日 1888年  現在の和歌山県橋本市高野口町名古曽で生誕。
明治34年 1901年  仝伊都郡九度山町の高等小学校を卒業。
 其の後  奈良県五条中学校から、京都第三高等学校卒業。
 其の後  東大造船学科在学中、海軍依託学生に採用される。
大正4年 1915年  東大卒業後、海軍造船官として、27年勤務。
昭和17年 1942年  「戦艦大和」「戦艦武蔵」を建造し、海軍技術中将で軍籍を離れる。
昭和18年 1943年  岡山県児島の<三井造船>常務取締役玉野造船所技術副長。
 其の後  商船増産・特殊潜航艇「蛟竜」量産。
昭和20年~ 1945年~  敗戦後、海軍と三井財閥解体以来、
小早川秀詮(ひであき)の後見人で有った、
先祖伊岐遠江守真利(いきとおとみのかみさねとし)の常山城跡の見える、
岡山市妹尾東畦に住み、以来、高徳の祖佐々木盛綱の縁者の為、
昭和43年~ 1968年~ 児島高徳公が戦後の歴史から抹殺され、
津山市院庄の後醍醐天皇と児島高徳公を祀る<作楽神社>が余りに、
荒廃に任せた侭なのに憤慨し、詩吟の有志三万人から基金を集め、
作楽神社創建百年祭に、境内に、「噫忠義桜十字詞之塔」を建立以後、
児島高徳公顕彰忠桜会』を組織。私本[長慶天皇と児島高徳太平記]等刊行。
昭和55年 1980年  92歳で死去。顕彰碑が岡山県和気町の藤公園に有り。

 ◎ 左画像は、宮家史朗が著した「児島高徳実在論」です。
    右画像は、この情報が掲載された月刊「」の昭和四十七年七月号です。

 ◎  画像は、「児島高徳実在論」を全国に販売する為、私の父は月刊「歴史と旅」の<読者ひろば>欄に幾度も投稿の一例です。
     〔このたび「児島高徳実在論」の発刊を期して、
    「児島高徳公同族会」を結成し、全国の同族及び、研究者の入会を募っています。
   児島高徳公抹殺論が提唱されたため、今日なお一般には高徳公が架空の人物だと信じられていますが、
   私の住む町には、高徳公開基の高徳寺があり、その境内には公の墳墓と公の実在を証明する古文書等が残っています。
   ご希望の方はご連絡下さい。なお、本の定価は送料込一六四五円です。
   〒三七○ー○五 群馬県邑楽郡大泉町下横町一四五八赤岩通り 三宅英四 〕
 (昭和五十一年一月新年特別号掲載分)
   
  ◎  画像は、三保ヶ関親方結婚披露宴の案内状とウェィディングケーキにナイフを入れる時の画像です。
      (昭和四十八年(1973)二月ホテルニューオータニに於いて、
     同じテーブルに同席した庭田尚三・宮家史朗等は全て亡くなり、私だけに成りました)
      そして、増位山大関披露宴パーティの記念パンフレットです。

  ◎  画像は、其の内容の構成が素晴しく、特に<増位山演歌のあゆみ>が良かった。
     八代三保ヶ関親方が描いた二科展入選(昭和47年)の「親子二代」をプリントした風呂敷と、
     <東美堂>製の高級白ナメシ革文庫《姫路城、増位山》です。(昭和五十五年(1980)四月ホテルニューオータニに於いて)

    ●● 気性が激しく、迅速行動な我が遠祖児島高徳は、
      甥の中西四郎範顕・今木次郎範仲・松崎彦四郎範家・和田四郎範氏等と好く相撲を取り、強かったと言うから、
      其のDNAを受け継いで居るのでしょう。 (高徳は範長に養子に行っているので、実際は同年代の従兄弟)


 ◎  画像は、私宛の三保ヶ関国秋北の湖理事長連名の大関・横綱披露宴パーティの礼状と案内状です。
     (北の湖敏満は、自身の父親と同じ日に行われる事に成った師匠の葬儀に出席し、「師匠は親以上の恩人」として、
    親戚中に手紙を出し、父の葬儀を欠席し、師匠の葬儀へ出席したと云う恩義の元主で有る。
    又、敏満が、小学6年生の時、既に、国秋は会って居るのだが、「もう少し身長が伸びれば連れに来る、良く寝れば、身長は伸びるよ」とアドバイス。
     此の言葉を実行した為、そして、女将のミヨが手編みの靴下を送ってくれた事も、敏満の心を打ち、予定を早めて、入門したと云う。)
     この二つのイベントも、ホテルニューオータニに於いて、出席しましたが、
    此処の回転展望レストラン<ブルースカイラウンジ(現在はTHE Sky)>は、
    《人間の証明のストローハット》として、登場する事でも有名ですが、夜景が特に素晴しく、
    「三塚博日韓親善協会中央会会長就任祝賀会」・「食用菌類医学薬学研究会」の設立パーティー等等、行く度、17階に登りました。

 ★  三保ヶ関昇秋は、日本相撲協会副理事で、審判部副部長として、相撲中継放送中、審判長席に登場した後、
  役員待遇委員・監察副委員長を務め、定年退職。
    北の湖敏満は、理事長を務めた後、役員待遇委員の大阪場所副部長から、再び現在、理事長職を務め、現役で、死去。

      【遠祖高徳公の怒り】
   WEB上では、我等が遠祖高徳公は南朝に功績が無かったと表現されているPAGEが有りますが、
  其れは理解していない人の表現で、高徳公は「山伏の修験道の大本山尊瀧院」で生まれ、
  山伏精神と京の陰陽寮で学んだ陰陽道等を使い、山岳戦法を新田義貞等に教える作戦参謀の様な存在でした。
   山伏は天狗と称され、新田義貞公が生品神社で旗揚げをして、二百騎余りで鎌倉に向っている時、
  後方から、越後国の一族大井田経氏を大将として、二千騎余りの援軍が、現在の熊谷市三ヶ尻で、追い付き、
  訊ねると「昨朝、羽黒山の天狗山伏俊賢から、越後国中に一日の間に義兵の連絡が届いた為」と答えた。
   此れも、我等が遠祖高徳公しか出来ない技で、
  瀬戸内海を牛耳る村上水軍にも援軍を頼んだ(岳父河野和道の仲介)。
   南北朝の争乱期の始めから終局迄、生き抜いた地味な生涯で、謂わば渉外係の様な裏方でした。(見ヶ尻は、古海と共に、江戸時代は天領)

   だから、尊氏に追われ、何度も死んだ事にして、墓を立てた訳です。

   遠祖高徳公の霊を祀る為、此処に来た私の先祖の児島高徳六世裔三宅太郎左衛門尉藤原芳高は、
  たった12年で、武蔵国忍城主の成田下総守と戦い戦死。
   児島神社を子爵の三宅康保と八坂神社の阿久津盛為等と創設した私の高祖三宅佐太七は、創設後急死。
   其の子で、私の曽祖父滋太郎は日露戦争で戦死。
   其の後、二代男子が生まれず、私が出生したのですが、
  其の経緯を知っている母は、
  「高徳公を静かに眠らせて遣らなければならない」と高徳公の墳墓顕彰に私が関るのを非常に反対して、
  父英四が東奔西走した訳ですが、佐太七が公開しなかった正伝記を宮家史朗に依って、公開した崇りも受け、
  墳墓顕彰の六百年祭を前に病死してしまいました。 

   母は、高徳公の血筋の影響か?神道を学んでいたので、「何時に成ったら、高徳公の霊を祀れば良いのか」と聞いたら、
  還暦を過ぎてから、と言う回答でした。
   そして、今還暦を越え、我等が遠祖児島高徳公の真実を世に知って貰う為、残りの人生を賭ける心算です。


   時は流れ、『児島高徳公生誕七百年記念』は、開催したものの、
  私が毎月二度参拝に行く位で、訪れる人は無く、ぞや、遠祖様は寂しい思いをして居るのでは無いかと思います。
   隣の太田市では、新田義貞を前面に出し、観光PRに力を入れているのに対し、此の町のPAGEには現在、我等が遠祖の事は一行も有りません。
   そして、今だ高徳公の墳墓が他所に有るとWEB上に有り、今後、群馬県指定文化財にする事が課題ですが、
  大沢正明知事の父親明治は尾島町町長の時、我が一族関連の<花見塚神社>の顕彰に力を添えてくれたが、
  本人は歴史や文化に関心がなさそうで、知事公舎に女を連れ込む程の女好きで有る事に呆れました。

   左上は、三保ヶ関部屋を訪問し、屋上の高徳神社を参拝し、<有待>の碑を前にした画像です。
   右上は、仝<有待>の碑を背にした八代三保ヶ関親方九代三保ヶ関親方の画像です。

玄関頭上には、我が一族家紋の三宅輪宝が掲げて有りました。

    *  左上は、<三保ヶ関国秋自伝>の表紙画像です。
      (神仏を大事にする先代親方でしたが、「三保ヶ関国秋自伝」の中には、遠祖様の記述が無かったのが残念でした)
       右上は、<庭田暁山「児島高徳と[天、勾践]のはなし」>の表紙画像です。

   【歴代の三保ヶ関部屋親方
初代 梶右衛門 出雲国美保ノ関 三保ヶ関梶右衛門 明和二年部屋を興す 安永四年没。三保院到岸耀珠禅定門
二代目 喜八 播磨国西宮 桜島喜八 天明四年襲名 文化元年没。三雄院英閑浄機禅定門
三代目 喜八郎 播磨国西宮 小野川吉五郎 文化三年襲名 天保九年没。徳善院清窓浄月禅定門
四代目 重五郎 出身地不明 朝ノ戸石松 天保十三年襲名 安政二年没。不明
五代目 喜八郎 尾張国 諭鶴羽国五郎 安政三年襲名 没年及び、法名不明
六代目 周蔵 尾張国 八尾ヶ関周蔵 明治十七年襲名 明治四十二年没。証誉三保円周居士
七代目 善八郎 兵庫県白浜 滝ノ海調太郎 明治四十四年襲名 昭和二十二年没。誓信院釈常照
八代目 国秋 兵庫県白浜 増位山大志郎 昭和二十六年襲名 昭和六十年没。法名不明
 
 * WEB上では、三代目喜八郎の後に、三保ヶ関十五郎が存在するが、
    三保ヶ関国秋著「三保ヶ関国秋自伝」には無いので、自伝に元付き掲載した。

   因縁だろうか。?私が、愛車3000キロ韓国周遊の旅を始める一年前に亡くなってしまいました。
   八代三保ヶ関親方には、私の父が生前二度家に足を運んで貰ったのですが、其の後は、訪問して戴けませんでした。
  神仏を大事にする八代三保ヶ関親方なのに、風水上の陰宅陽宅に関する情報は判らなかった様で残念で成りません。
   歌手増位山で、ちゃんこ料理屋の店主には、八代の分も含めて、永生きしていて戴き、先祖の供養をして戴きたいと思います。
   其れが、実子の居ない私の唯一の望みです。

      <陰陽道陰陽寮
    6世紀の天武天皇の頃、百済を経由して渡来したもので、大宝律令依って制度化された。
    陰陽師・陰陽博士・暦博士・天文博士で構成された役所。
    中国古代の哲学である陰陽五行説に則って、
   天体観測・時刻の告示・暦の算定・気象観測等に依る吉凶・禍福の予知等の仕事をした。
    迷信が横行した中世公家社会に於いて、悪霊駆除の祈祷・病気平癒の祈願等需要が高まり、
   庁舎が分散され、其の中「京都七条橋の陰陽院」に和田範長と児島高徳の父子が補任された。
    陰陽寮の長官は、奈良時代は加茂家が世襲し、平安時代に成って、暦道を加茂家が司り、
   天文道を安倍晴明の安倍家が司った。
    範長と高徳の父子は、禍福の予知を占う陰陽師の任務に就きながら、
   全国の山伏と連絡を付ける大役を任されていた。
    播磨国上吉川荘の藤原藤房(万里小路藤房[までのこうじふじふさ])の影響力に依り、この任に付いたと言われる。

  浅田晃彦は、自著「児島高徳と新田一族」の中で、
 下関市の赤間神宮に奉納されている高徳公が守護していた「八咫鏡」を、
  我が遠祖児島高徳公の祀られている児島神社に御神体として奉遷したいと結んでいる。
  (浅田晃彦は、宮家史朗著「児島高徳公実在論」を参考にして、この著書を著しているので、
 児島神社の宝物は、白石うめ宅に保存の為、御宝物が無いからです。 
 そして、彼は、我が一族では無いが、群馬県人として、高徳公の縁の地の行田(おくなだ)・板鼻・磯部等を取材された)

 【三宅氏姓の始まり
  古代大和朝廷の直轄領に設けた米穀の収蔵所「屯倉」から出ている。
  『古事記』に依ると、欽明天皇十七年(556)「蘇我大臣稲目宿禰(そがのおおおみいなめのすくね)等を、
 備前の児島に遣わして、屯倉を置かしむ」と有り、 『延喜式』に依ると、平安時代の児島郡は、
 三家(みやけ)・加茂・児島・都羅(つら)の四郷から成っていて、「屯倉」は、三家郷に置かれ、郡(こおり)が郡家(郡役所)だった。
  高徳公は、宮家氏を名乗る後鳥羽天皇第四子頼仁親王の五流尊瀧院の五世として生まれたが、
 児島備後三郎藤原三宅高徳を名乗る。
  其の五流尊瀧院を代々継承する宮家氏も「屯倉」と「三家郷」に由来すると言うが、虎が煙草を吸っていた大昔、
 近畿・山陰地方に有った多婆那国の王子が、新羅四代の昔脱解王が私達の始祖で、
 新羅の国を昔氏・金氏・朴氏の三氏が代わる代わる治めた事が、三宅氏の始まりで有る。
  因縁と言う物は有る物で、三保ヶ関部屋のルーツは、出雲国美保ノ関が変わって、三保ヶ関に成ったと云う。
 始祖昔脱解は、出雲国美保ノ関から流されたのかも知れない。・・・
 昔は、석・sokの発音が日本に来て変化し、関・sekiに成ったと考えます。

 * 私の父・祖父・曽祖父も、婿養子で、女系三代が、跡継ぎの息子誕生を願ったが、
  残念ながら、母は、同和地区の男と恋仲に成り、息子を身籠り、祖母達は、大反対。
   其の内、太平洋戦争が勃発し、其の男は、戦死して、其の息子を仕方無く、引き取ったのが、私の兄重夫で有る。
   母達は、男の居ない世帯に耐え兼ね、中島飛行機の事務所で、席を同じくする、私の父英四を祖母が認め、
  私が、二十四世裔として、二十代から、婿入りした父よりも、表に出た訳です。
(近所の老婆証言) 
 ◎  画像は、政治評論家三宅久之に私が送った手紙に関する回答葉書です。

  三宅久之 様 貴下

  拝啓。益々御清栄の事と御喜び申し上げます。
  何時も、テレビタックル等で拝見しております。

  さて、私は代々遠祖児島高徳公の墳墓を守護して、今年453年に成る当代の三宅英雄と申します。

  御存知の様に、日本では、簡単に姓を替える事が出来ますので
 一概に、三宅姓を名乗る18万人の方が児島高徳公の後裔とは思いませんが、
 三宅久之様が児島高徳公の後裔で有るとのコメントを聞き、有り難い、10万名の味方を得た様な気持ちです。

  来年は、我等が遠祖児島高徳公の生誕七百年と言う記念すべき年に成ります。
 其処で、前回六百年忌の様な大きな行事は出来ないと思いますが、
 大相撲三保ケ関部屋親方(元歌手/大関)や当時の縁者・子弟等に御協力を御願いして折ります。
 
  私は、児島高徳公の始祖が新羅四代王脱解の子供である事から、
 日韓親善の為のNGO団体を組織して、此れも来年三十年に成りますが、
 先日、<日韓協力委員会(中曽根康弘会長)>に入会届を提出したのですが、
 震災後、活動自粛の意から、希望に添えないと届けと資料を送り返されました。
 生誕七百年記念の布石として、三宅久之様に御願いしたいのは、
 中曽根康弘会長等の関係者に私の入会届を受理するよう手配して頂ければ幸甚と存じます。
 
  来年十月公開予定の映画「愛の黙示録」の続編の制作・上映にも関る予定ですので、
 此方も、御力添えを御願い致します。
 
  尚、落選中の島村宜伸氏は私の兄の料理が好きで、仲が良いのですが、
 兄は現在台湾で活動していますので、島村宜伸氏に御願いするよりもと考えます。
 
  詳細は、同封の資料を良く御覧下さい。

  突然の御願い誠に恐縮ですが、児島高徳公が南朝の為、身内から協力を求めたのと同じと思います。
 
  今後も、三宅久之先生の御活躍をテレビで拝見致しますので、どうぞ、御元気で御活躍下さい。
                        敬具。    2011・6・18 辛卯

          日韓親善NGO活動31年国際協力団体 東亜友誼慈業研究会
          総務省届出全国政治団体          三宅藤原氏族会          会長 三宅英雄
          〒370-0516 群馬県邑楽郡大泉町中央2-10-19    T&F 0276-61-0560 

 【倉敷三宅氏
  秀吉の五大老だった高徳公長男高秀を祖に持つ宇喜多秀家は、
 高徳公三男高貞を祖に持つ三河国挙母藩初代藩主三宅康貞五流院尊龍院等の懇願に依り、
 死罪は免れ、慶長十一年(1606)八丈島へ配流と成る。
  八丈島では苗字を浮田と改めたのと同じ頃、宇喜多秀家の一族は、岡山に居られず、倉敷に移り、
 宇喜多を名乗れない為、三宅を名乗ったと八丈島出身の浮田道照に聞いた事が有りましたので、
 倉敷出身の三宅久之は同族で有ると思います。


   ☆★ 【参考資料】 <三保ヶ関国秋著「三保ヶ関国秋自伝」><玉野の伝説><宮家史朗著「児島高徳実在論」>
      <庭田尚三著「長慶天皇と児島高徳太平記」><庭田尚三著「児島高徳と[天、勾践]のはなし」>
      <関裕二著「海峡を往還する神々」><浅田晃彦 著「児島高徳と新田一族」><中西尉一著「南朝の忠臣児島高徳> 等等。

日韓親善NGO活動35年国際協力団体 東亜友誼慈業研究会 (동아 우의자업 연구회)
総務大臣届出政治団体  三宅藤原氏族会 (旧 児島高徳公直系同族会)
会長 三宅英雄 (号 昔城) [児島高徳公陰陽直系二十四世裔]

〒370-0516 群馬県邑楽郡大泉町中央2-10-19
    電話&Fax 0276-61-0560
公開2011年08月10日  更新2017年06月27日 【敬称略】

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