日置流弓術印西派(大洲系)について

幕末勤皇愛国の志士:得能淡雲 (靖国英霊)

倒幕派の異端児



サイト自体は、まだ未完成なので、殆ど荒削り状態ですが、暖かい目で見守ってください(笑)。時間が割けなくて大変ですが、頑張っていきます。弓術の歴史を調べていたらこんな事も分かりました。

番外編:神童・勤皇愛国の志士として知られる大洲藩士、得能淡雲とは・・・



得能淡雲とは

得能淡雲(とくのうたんうん)、(1835〜1862)  得能淡雲とは、人見極馬の変姓名であって、実は人見極馬慊甫のことを言う。彼は大洲藩を脱藩し水戸学を学び憂国の志士として活躍する。

得能淡雲の生い立ち

彼は、天保六年(1835)三月二十九日、大洲にて大洲藩士である父:人見十郎左衛門直一と母:河田采治正高の長女、名はの長男として生まれた。幼名は亀吉と称し、後に石黒閑斎とも称した。幼少の頃に父を失い、それからというものの母の手一つで養育されたと言われている。(母方の弟{叔父}:河田源吾が明倫堂に勤めていた為に幼き頃より学問を教わっていたのではないか)

藩校に入学

淡雲は弘化元年(1844) 十歳の時に藩学明倫堂に入学し、秀才の誉れが高かった。十二歳のときすでに四書五経の素読を被り、藩より特に金品を賞与せられたという。所謂神童であって。如何に俊敏なかったが想像される。

近藤南海に学ぶ

嘉永三年(1850)
十六歳のとき、藩命により、当時伊予聖人の名を以って有名な小松藩の儒学者近藤篤山の長子南海に就き朱子学を学んだ。翌嘉永四年七月 家に帰り、明倫堂の助教を命じられた。

藤森天山に学ぶ

同六年三月 のとき(淡雲十九歳)藩命にて江戸に赴き大儒籐森天山(大雅)に就いて皇朝学並に漢学を修めその強い思想を純粋に受け継いだといわれる。そして学ぶ事二ヶ年、学業大いに進んだが、安政二年(1855)五月 大洲に帰り再び、明倫堂の教授を命ぜられた。藩の子弟を教導すること四ヵ年、安政六年(1859)三月 藩命により再び江戸に遊学し、弘庵塾に寄宿、天山(弘庵)に就いて専心修養に勉めた。天山は極馬の人物の優良にして材幹の優れたるを愛して、懇切に教導し、ついに淡雲を副塾長にすえた。天山は極馬の慷慨の気象を愛して、多く歴史を学ばせ、国家の治安を論じ,政治上の事を教導した。この背景には、当時諸外国の軍艦、巨船頻繁に来航して通商貿易を要望し、開国攘夷の両説盛んに起こり、また尊王と佐幕の両派相対立して諸藩の志士は相往来、その多くは京都に上がって何事かを画策したことが根底にあったと思われる。

藩士から志士へ

極馬は思いえらく、近来外夷頻りに来りて我が虚を窺う、予め防備の策を講ぜねばならぬと、天山の著作した「海防備論」その他に就き読みふけり、一死報国の決意を固めた。東予の志士尾崎山人と交遊したのもちょうどこの頃である。

山人と極馬は小松藩近藤南海の同門生である。山人と極馬とは、勤皇思想も行動も良く似ている。南海門下生には優れたものが多く、又多くの勤王家を輩出した、尾崎山人・得能淡雲(贈正五位)・黒川通軌(陸軍中将・男爵、東京武官長)・香渡晋等である。 藤森天山門下も前者と同様、思うに淡雲の思想に大いなる影響を与えた人は南海・天山の二人という事ができる。

恩師が弾圧される

安政の大獄(1858) が起こるや、その師天山も捕らえられて獄に投ぜられた。そこで多くの塾生は離散したが、極馬は同士のもの数人と固く師家の留守を守り通した。しかし間もなく天山の釈放を迎えるとき、大洲への帰路に淡雲はついたのである。

大洲藩脱藩

大洲藩へ戻ると国事のため尽力せんとしたが、累を藩に及ぼす頃を考慮し、厳禁を犯してついに脱藩、常陸の国へ到り、剃髪して僧衣をまとい、得能淡雲・石黒閑斎と称した。このときの手紙が残っているので引用するとしよう。これは極馬は決意を親友の井口新八に語ったものである。そして数珠を遺品として故郷に残る母(河田采治の娘)に渡すように話したという.。以下がそのときの手紙の内容である。

時に文久元年(1861)十月 のことであるが、淡雲はこの時二十七歳の若さであった。

それより下総・下野・常陸の三国を往来して志士を求め、尊王・討幕・攘夷の説をおおいに唱えて昼伏夜行した。

江戸幕府による勤皇派弾圧

このように志士として活躍した淡雲であるが、後に江戸に帰り勤王の大儒大橋順造(訥庵)の家に潜み、共に義挙を計画しつつあったところで文久二年(1862)二月四日(正月十二日の説あり) 仲間であった山本繁三郎の密告により幕吏の知るところとなり、順造も同時に捕らえられて、入牢。過酷の糾問を受ける事数回にわたったが少しも屈せず大いに勤王の大儀を唱え、幕府の専横を憤ったが、拷問の末に終に順造と共に獄中に死んだ。時に同年八月七日 。享年二十八歳の若さであった。獄中では大橋順造菊池教中を極力かばって「いじらしいほどであった」という。死にのぞんだ淡雲は 「あなうれし、我大君の御心も、やがてやすまむ、年とおもえば」という辞世の句を残し息を引き取った。

東京都千住小塚原の回向院(日向院)には淡雲の墓所があり石碑には「伊予人、得能淡雲墓。文久二年壬戌八月七日」と刻んである。明治二年

旧大洲藩主による合祀

、大洲藩は極馬の墓を移送することを願って許され、谷中天王寺、訥庵の墓のほとりに改葬した。国の為とはいえ、淡雲は大洲藩脱藩という罪を犯したにも関わらず大洲藩主加藤泰秋は、同年に袖木竹ノ下に招魂所を設けて合祀した。淡雲の志士としての心は大洲藩にも伝わっていたのだ。知ってか知らずか大洲藩は倒幕への道を歩む事になる。

明治期に靖国神社の一柱(祭神)となる

明治三十一年、明治政府によって江戸幕府が倒れた時に国の為に尽力した者を表彰した。その中にかの得能淡雲の名前があった。彼は明治天皇の名を以って位階「正五位」を追贈され、同時に日本国に貢献して命を落としたとして靖国神社に合祀された。

「概観維新史」は、『幕府は文久二年正月十五日に起りし坂下門の変(老中安藤信正を襲撃した)の後、厳に其の余党の検索を行い、宇都宮の菊池澹如・岡田真吾・児島強介・下野の小山春山・横田籐四郎・肥前の中野方蔵・伊予の得能淡雲等を捕えた。其の後、勅使大原三位の東下があって、天下の形勢が一変したので、幕府は訥庵(順造)以下の訊問を中止し、既に獄死した強介・籐四郎・方蔵・淡雲を除いて、他は悉く釈放した』と述べている。

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贈正五位得能淡雲の碑

松山市道後公園内、松山城の中に、贈正五位得能淡雲の碑がある。従一位大勲位侯爵伊藤博文の篆額があって、碑文はかなりの長文であると言われる。「東予の勤皇志士」から引用すると 『…君容貌魁梧、面に微麻アリ。性温厚妄ニ言咲カセズ、然レドモ不可有ルヲ意ヘバ、雄弁快辞、往々其ノ等輩ヲ屈ス。著ス所ノ策論十数篇及雑文詩数巻、多クハ散佚ス。死シテ七年王室中興制度一新シ、当時ノ節ニ殉ズル者皆褒贈ヲ賜フ。三十一年君モ亦正五位ヲ贈リ、靖国神社ニ祔祭セラル。越テ明年、伊予人某々等、碑ヲ建テ恩ヲ記シ、以テ意烈ヲ後毘ニ貽サント欲シ、余ガ旧友タルヲ以テ、来リ銘ヲ求ム、嗚呼天山先生ハ逝ケリ。又門の士存スルモノ幾クモナシ、今日誰カ君ノ為ニ銘ヲスル者ゾ。乃チ辞セズシテ之を為ス、銘ニ曰ク。


参考資料:大洲市誌、大洲藩資料、訥庵獄中書簡、伊予の勤王士、感慨維新史

伊藤博文と水戸学

では、なぜ初代内閣総理大臣にまでなった伊藤博文が碑の篆額を勤めたのか。
伊藤博文をはじめ、多くの志士は水戸学の影響を受けている。現に伊藤博文は常に「我が藩尊攘の機運を作ったのは、実に貴藩(水戸藩)の行動に促がされた為である」と言明していた。それは明治42年8月に次のような演説にも表れた。
「・・・水戸の学問は、ある論者の説のごとく今日から見ると、鎖国攘夷のごとく見えるけれども、日本臣民の耳目を開き、上下一致に出る政策の根本たる勤王の発端は、水戸の学問、水戸の人物の嚮導する所であって、この為に日本国家の盛衰を慮かり・・・関西九州の雄藩志士を興起せしめたのも、水戸が率先して勤王の議論を唱えたのが原因であると私は考える。・・・発端と終局とを比較して来らば、大に異る點があろう。・・・」水戸の学問は、全国の勤王心を誘発し、而して日本国の士気を振興したというが、当時水戸には攘夷論が唱えられていた」
この様に演説した上で「今日はじめて私は水戸へ参ったわけではない殆ど44〜5年前に一度水戸へ参った事がある。そのときは21〜2歳であったかと考える。・・・それで今回は3回目に当たる。水戸の日本の歴史において、以上述ぶる如き関係あるは、げんに諸君に述ぶる必要は無いと思ふが、自分は維新前の当時より水戸の関係上において、これを述ぶる必要があると認めて述べた訳である。」と。これは伊藤公演説全集におさめられている一節であるが、伊藤博文にとってこの水戸学が如何に重要な存在であったかが示されている。

伊藤博文と得能淡雲

これは簡単な話、幕末の志士であった伊藤博文と交流があったからである。実は大橋順蔵の元で副塾長を勤めていた得能淡雲の下、この塾に宇都宮・水戸・長州の人士すこぶる多く来集した。その中には若き高杉晋作や伊藤博文、多賀谷勇や平山兵助のほか、越惣太郎などがあげられる。その中で得能淡雲と伊藤博文の交流があった事は明白であり、得能淡雲が死したときに碑の篆額を勤めたのものこのゆえんであろう。

参考資料


:未公開古文書多数、北籐録、大洲秘録、積塵邦語、大洲随筆、大洲市誌、愛媛県史、大洲旧記、三百藩家臣人名辞典、戦国合戦大辞典、日本地名大辞典、岐阜県の地名、地方別日本の名族、徳島藩の史的構造、大洲藩資料要録、近世村落の動向と山中騒動の研究、城下町歴史散歩、温故集、近世日本の夜明け(伊予勤皇史)、西海巡見志、蜂須賀小六正勝、徳島藩職制取調抜(上・下)、美濃国古跡考、美濃国古代人物誌、美濃国諸、武芸流派大事典、以下多数

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