
戦場における武士
馬上で戦場に赴く場合
君主から侍に命令が下ると、侍は家柄に合わせて決められた所定の人数を用意し、戦場へ行かねばならない。その為に常時人数分の甲冑や武器をそろ得ておく必要があった。しかし、幕末にもなると武家は貧困化し、質入・売却するケースもよく見られるようになる。また、財政の困窮が原因で陪臣を常時雇うことが出来ない侍は、下級武士になればなるほど目立つようになる。その場合、有事の際に日雇いで頭数を揃える事が行われた。これは江戸時代を通しよく行われたのである。戦国時代は武士の知行地在郷の農民を徴兵させていたという。
寛永十年幕府が定めた軍役を、今回の調査の元となった三百石知行の河田家に当てはめて考える場合、槍持、草履持、馬口取、騎馬武者、甲冑持、小荷駄、挟箱持という陪臣を連れて行く事になる。
さらに、河田家の場合は、藩主から物頭(部隊の長)に仰せ付けられている事から藩主からお預けになった「御長柄組」という長槍部隊や「御持筒組」と呼ばれる鉄砲部隊を率いて戦場に赴く事となる。これ等御長柄組や御持筒組は直接の陪臣扱いは受けない。あくまで藩主から預かっているという形式である事に意義があるのだ。
尚、武家にとって、妊婦が甲冑に触れる事や、甲冑を北向きに据えるのは縁起が悪いとして忌み嫌われたのである。
騎馬武者の戦い方
馬上で敵に対する場合は鉄砲を使うことは殆どなかった。弓術、槍術、剣術は武将としての教養として世間から求められていたが、砲術は武将ともあろう者が扱うべきものとはされなかったのである。砲術は主に鉄砲組などの足軽レベルが用いるもので、武士道による誉れとしては日本国土においては実用力に比べ評価は低かった。これは勇猛さ、が感じられないのと美しさがないからだと思われる。騎馬武者が刀にて戦う時は必ず敵を右側に置き、片手で切りつけた。刀は左に差し(太刀は佩くという)右手で抜く事や、人は右利きの方が多い事などからそうなっていった。払うように刀を振るのがもっとも用いられたとされる。これにより「右に出るものはいない」という故事が生まれたとも言われる。なお対照的に弓や槍の場合は敵を左側において戦った。槍の場合は地上同様、刃を左側にして持つ為、槍の柄を右手でしっかり握り、右手で突き、払い、打ちの動作を行う。左手は添える程度の役割で、突く時は手の内を滑らすよう行う。一見、右手がしか動かないようにも見えるが突きは強力である。この様な特性から左側にしか突く事ができないのである。右利きの侍が右側に突いた場合、は大抵片手となってしまい、槍を抜く事が出来ない事が多い。さらに自ずと貫通力は低くなる。弓の場合も弓を持つ手は左手であり、矢をつがえるのは右手である。この特性上左にしか射る事が出来ないのである。馬上の戦法のひとつに鐙で徒歩武者を蹴りつけることもよくあったと言われる。
(日置流は騎馬で弓を射ることはない。徒歩で射る事に力をいれている。今回の日置流とは異なるが、他の流派では可能な限り右側を射る技術の残っている流派もあるそうだ。)
なお、討ち取った首はホロに包んで持ち帰る事が多い。戦国時代では農民の首で手柄をごまかすものが足軽を中心に存在した。