
日置流弓術印西派(大洲系)について
〜旧大洲藩士:河田家資料・口伝の調査研究より〜
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研究初公開:
神山才蔵について管理人の推論
大洲市誌には、才蔵の事はこう記載されている「弓勢をみる行事の一つとして慶長のころから
京都三十三間堂の通し矢が行われ、諸国から弓の名手が上京して矢数を競い、揚札(記録更新者の表彰札掲揚)の栄を誇った。泰恒の臣神山才蔵貞幸(曽根勘右衛門の門人)は1703年(元禄16)4月24日、三十三間堂の通し矢総千射を試み、652本を通して賞賛を博し、掲額した記録がある『加藤家年譜』」
これは京都三十三間堂の堂射を記録した江戸時代の書物「矢数帳」にもあるように事実であるようだ。私の調査によるとあまり素性の知れていない「神山才蔵貞幸」は河田助右衛門貞高の次男である可能性が極めて高い。それは何故か、それは下記の4つ理由に起因している。
まず最初の理由として、大洲藩士の分限帳を記録した「大洲秘録」では、神山才蔵は河田助右衛門の次男となっている事。ここで「河田助右衛門」だけでは分からないと異議を唱える人がいるかもしれない。しかし、それは兄として河田助右衛門貞峯の名が上げられている点や、父、助右衛門の名の脇に「号山入」と明記されている点からも間違いないだろう。「山入」の名を号したのは河田家では貞高だけなのである。その上、大洲秘録・河田家の欄以外では神山才蔵の名は見られない。
次に、別の資料、家譜略にも河田貞高の次男の所が
「男 神山才蔵ト号ス 早世」と記してあるのだ。他の人物の相関関係もやはり前者と同じだ。先ほどの大洲秘録が家臣の分限帳の役割を果たしているのに対して、こちらは河田家伝来の家系図という位置づけにある。これらの点から考えて、神山才蔵と名乗る人物を輩出したのは間違いなさそうだ。
そして第三の理由は「貞幸」の字である。「貞」は河田家の通り字であり、神山才蔵貞幸に使われている。これだけでは信憑性が低いのでちょっと例を挙げてみよう。利便上、河田貞紀を中心にして考察してみるが、祖父:河田貞高・父:河田貞峯・叔父で神山家養子:神山貞幸・不破家に養子に行った実弟:不破為貞といった風になるのだ。大抵の武士は養父・実父から1文字づつ貰うケースが多い。この点でも可能性はさらに高くなる。
最後に時代的にはどうだろうか。これが合っていなければ話にならない。名を世襲していることもありえるからだ。総千矢をしたのが、元禄16年。そのことを踏まえると、年代的にも合致する。家臣数の限られた小藩で、同時期に同姓同名の藩士が存在する事は不自然だ。意図的に仕向ける以外はありえない。総合的に考えると、恐らく同一人物に間違いないと推測される。
自分の実父が日置流弓術の名手で、自分の実兄も日置流弓術指南を受け継ぐ技量の持ち主にもかかわらず、なぜ曽根勘右衛門の門人なのか。それは恐らく、堂射を得意とする先生につき直して武芸に励んだのであろう。この曽根勘右衛門とは何流(何派)の人なのか、そしてどこに道場を持っていたのか。(大洲・京都・江戸など)これが気になる点である。
調査終了
大洲での調査の結果、大洲藩主所用の藩臣家譜に
「一 神山才蔵貞幸 養子 実河田助右衛門貞高次男 英久院様御代顕徳院様御部屋抱之御時ヨリ児小姓ニ被召出弥五八名跡相続仕候○被仰付其後中小姓御宛行被下置候処於江戸病死仕候」管理人訳「一 神山才蔵貞幸 実は河田助右衛門貞高の次男 大洲藩主加藤遠江守泰恒様の代に加藤出羽守泰統様の御部屋抱えの時より児小姓に召し出され、神山弥五八の名跡を相続つかまつり候 ○仰せ付けられ、その後に中小姓宛がい置き下され候ところ、江戸に於いて病死つかまつり候」とある事が分かった。よって考察が実証されたのだが、実はこの才蔵の養父:神山弥五八は河田貞高の義父にあたり、簡単に言えば才蔵にとって母方の実家にあたる。弥五八病死につき神山才蔵が家督を相続したと言う事が実状であるようだ。しかし、この神山才蔵貞幸病死により神山の名跡断絶が避けられない状況となり、この事を河田助右衛門貞高が大変残念に思っていたが、当時、中小姓死後の養子は許されていなかった。その為、河田助右衛門貞高は神山家再興を考え、幼年より子分として養っていた三村右近親澄の次男に神山氏を名乗らせていたところ、英久院様の御代で藩主の目に止まり、ついにある時児小姓に召し出された。また、元服後に神山九郎右衛門貞行として正式に神山家の名跡を継がせる事に成功した。この貞行は実は備後国福山にて、藩主、水野美作守様の家臣の家に生まれた者である。後に浪人し、河田家が召抱える。藩主加藤家に召しだされた以降は加藤家に仕える。貞行、元服の後は中小姓に御宛行置き下され、大心院様の御代に新知百石を置き下される。その後、御目付役に仰せ付けられる。後に、大阪御留守居役に仰せ付けられるが、延享二年乙丑年御参勤の節に大阪にて五十石の御加恩があったという。
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